⇒トピック往来

☆続々・サンマの煙

☆続々・サンマの煙

 きのう(28日)も金沢市内の寿司屋でサンマの塩焼きを食べた。ここに顔見知りの学生がアルバイト=写真=をしているというので、ちょいとのれんをくぐった。サンマの塩焼きは大ぶりで500円。これがうまかった。つい熱燗が進み、2合とっくりで3本も飲んだ。学生に酔った醜態をさらしたくないと自制心が働いて、そこそこの時間で店を出て帰宅した。

  大学の研究員から「自在コラム」の「続・サンマの煙」に対してコメントが入っていた。その内容を紹介すると、サンマが豊漁というのは少々理由があって、「北海道の漁場が陸から近く、例年の半分ほどの時間で漁場に到着できるそうです。そのため、漁をする時間が長くとれ、たくさんとれるということらしいです」というのだ。生物学的に豊漁というのではなく、ことしはたまたま漁場が北海道の近くにあり、どんどん獲っているだけということらしい。そして、研究員は「決して魚が増えているわけではないので、漁獲量の制限を設けた方がよいのではと思いました」と。なるほど、ある意味で由々しき問題なのだ。

  話題を変える。漫画雑誌「ビックコミック」で「築地魚河岸3代目」という連載がある。8月から9月にかけて2週連続で能登の魚をテーマにしていた。能登の魚を定期的に仕入れするよう、市場の役員から依頼された3代目はグルメ雑誌の編集長を伴って、能登を訪れる。しかし、訪ねた輪島市門前町の「星田」という頑固者の豆腐屋が「それは出来ない」と漁業関係者への取り次ぎを断る。なぜか。本来、食材は東京に集めて食するのではなく、獲れた土地で食べるもの。そのことを3代目は理解し、納得する。それを星田は「本来の地産地消」と説く。

  3代目は命題であった仕入れを半ばあきらめるのだが、ビジネスはビジネスであり、最終的には星田の計らいで仕入れ先を確保する。つまり、仲買業者には本来の地産地消の意味を知ってほしいという意味を込めたストーリー展開なのだ。

 星田は名前が異なるが実在の人物。姓を一字だけ違わせている。先の地震では、地域の区長として随分とお骨折をされた。確かに頑固者という印象だが、心根はやさしい。その証拠に、幼い子供との遊びがとても上手である。

⇒28日(金)朝・金沢の天気  はれ

★デープな能登=5=

★デープな能登=5=

 能登半島の風光明媚は、リアス式海岸と呼ばれる、谷が沈降してできた入り江が見所となっている。ところによっては、別名で溺れ谷(おぼれだに、 drowned valley)ともいうそうだ。

  リアス式海岸の伝説

  海と谷が複雑に入り組んだリアス式海岸は歴史的な伝説も生んだ。たとえば「義経の舟隠し」という名所が能登半島には3ヵ所もある。鎌倉幕府からの追手を逃れて奥州(東北)に落ちのびる際、天候が荒れ、能登の入り江の奥深くに48隻の舟を隠したとされる。写真・上は、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」(1961年映画化)の舞台となった「ヤセの断崖」の近くにある「義経の舟隠し」である。

  そうしたリアス式海岸を悪用したのが、北朝鮮による拉致事件だった。1977年9月19日、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さん(当時52歳)は、能登の宇出津海岸から北朝鮮に拉致されてた。久米さんを能登に連れていった在日朝鮮人が、入り江にいた北朝鮮の工作員に引き渡したとされる。複雑に入り組んだリアス式海岸は工作員の絶好の隠れ場所となっていたのだ。

  写真・下は、珠洲市内のバスに貼ってあった「拉致・日本は見すてない」のポスター。

⇒23日(日)夜・金沢の天気    はれ

☆「北海道異聞」その後

☆「北海道異聞」その後

 8月28日夜に「いしかわシティカレッジ」という市民向けの公開講座があり、「メディアの時代を読み解く」のテーマで90分の講義を担当した。メディアに関心を持つ市民30人ほどが受講に訪れた。その話のつかみは北海道旅行中(8月中旬)に読んだ北海道新聞の記事などから拾った。以下は講義で紹介た北海道の「いま」の要約。

       テレビ塔から見えた「いま」

  「白い恋人」で知られた石屋製菓(札幌市)は社長が責任をとるかたちで辞任し、メインバンクの北洋銀行から新社長がくることになった。一連の事件は、チョコレートの賞味期限の延長問題や、製品の中からの大腸菌の検出など広がりを見せた。6月にミートホープ社(苫小牧市)による、牛肉偽装事件と続いており、北海道の食品における安全性と企業倫理の問題が問われた。そして、新千歳空港の土産品売り場では、石屋製菓の商品が撤去され、ガランとしていた。それほど大きなスペースを占めていた。

  しかし、観光バスのガイド嬢は「ミートホープ(苫小牧市)の牛肉ミンチの品質表示偽装事件のときは北海道の人もバカしていると怒ったものです。でも、石屋さんの場合は北海道の銘菓のシンボルのような存在ですので、社長さんも交代したことだし、頑張って立て直してほしいと願っているのです」と。続けて「みなさんもこれに懲りずに召し上がってください」と頭を下げた。社員でもない彼女をして、頭を下げさせる理由はおそらく、石屋製菓という存在の大きさである。地元のプロサッカーチーム「コンサドーレ札幌」の有力なスポンサーであり、退任した社長は札幌財界の若手のホープだった。「北海道の星」を落とすわけにはいかない。そんな道民の愛郷心をガイド嬢は代弁したのだろう。

  北海道のリーディングカンパニーと言えば、かつては北海道拓殖銀行だった。通称は拓銀(たくぎん)。拓銀が経営破綻したのは1997年11月だった。あれから10年、拓銀香港支店の社員が中心となり、香港で投資会社を興した。かつての仲間を呼び寄せるなど、いまではグループ社員合わせて200人の規模になった。そして、8月17日にシンガーポール証券取引所に株式を上場を果たした。上場式典でたたく銅鑼(どら)を囲んで並ぶ同社の幹部たちの写真は勇姿であり、「赤穂浪士」のイメージとダブって見えた。そして北海道出身の45歳の副社長は「いずれは拓銀破たんで後に疲弊した道内経済にも貢献できれば」とコメントしている。苦節10年ではある。

  「さっぽろテレビ塔」=写真=は札幌市の大通公園内にあり、まさにランドマークタワーである。完成が昭和32年(1957年)だから、50歳になった。高さは147㍍で、90㍍あたりに展望台がある。展望台に上って眺望すると、札幌の「いま」が見える。テレビ塔の間近に、住友不動産が開発している40階建てのマンション「シティタワー札幌大通」がある。ほぼ完成していて、総戸数182戸のうちすでに150戸ほどが「ご成約済」となっている(ホームページ・9月4日現在)。この数字は読み方によっては、札幌経済の一つの目安にならないか。

 そして、高さ90㍍から360度で見渡して、クレーンが上がっている建設中のビルをざっと数えると8カ所だった。道央経済圏340万人の中心で8カ所である。月例経済報告書なども参照にして、ひと言でいえば現状は「厳しい」のである。

 ⇒7日(金)夜・金沢の天気  くもり

★欧米人はマツタケを食さない

★欧米人はマツタケを食さない

 きょうから9月、秋はキノコ採りのシーズンだ。新聞記事で拾った話題だが、中国産のマツタケは食に対する不信感から大幅に需要が落ち込み、北朝鮮産は経済制裁の影響で輸入禁止が続いている。そこで、北欧産マツタケが人気だとか。

  フィンランドやスウェーデンでは、もともと森林からマツタケが採れる国だが、食する習慣がなく放置されていた。日本のマツタケとほぼ同じDNAを持ち、価格も安く、人気が出ているそうだ。ここで不思議に思う。ヨーロッパでは、すしなど日本食ブームでそれに合う日本酒の売れ行きも好調と聞く。にもかかわずらず、マツタケを欧米人は食さない。それはなぜか。

  これは知り合いの料理人から聞いた話である。いわく、「欧米の人がマツタケを食さない理由は、マツタケの香りが靴の中のこもった臭気を連想させるからだそうですよ」と。確かに、そう言われればそのようなにおいかも知れない。欧米では靴の歴史が長いので、「マツタケの特徴は香りで楽しむもの」と日本人が説明しても嫌がられるだけだろう。ところが、日本は靴が入ってきた文明開化の明治以前からマツタケを珍重していたので、「キノコの王者」としてすり込まれている。でも、ひょっとして若い世代は「あんな靴の中の臭いがする高いマツタケなんて食べたくない」と言い出す日がくるかもしれない。

  もう一つ、料理人から聞いた話だ。北欧でもニシンの卵であるカズノコは獲れる。ところが食さない。乾燥させて、硬くなったものもヤスリの代わりに使うのだとか。そのカズノコヤスリで何をかけるのを聞くのを忘れたが・・・。

  ところが変われば、食習慣も異なるものだ。日本でもトリフは採れるが、それを熱心に探す人の姿を見たことがない。

⇒1日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆デープな能登=4=

☆デープな能登=4=

 同じ石川県でも能登と金沢では随分と考え方、言葉、習慣が異なる。能登で生まれた私は15歳から金沢で下宿をして高校に通った。下宿先は金沢市寺町の民家だった。賄いつきだったので、その家族と接することになり、それが金沢の人との生活上の出会いとなった。

     子猫がじゃれるような…

  下宿先のおばさんは「・・・ながや」「・・・しまっし」と話す。語尾にアクセントをつけ、念を押すような典型的な金沢言葉を話す人だった。当初慣れない間は、しかられているような錯覚に陥ったものだ。というのも、逆に能登の言葉は語尾を消すように、フェイドアウトさせるので、優しい言葉に聞こえる。

  後に学んだことだが、この違いは歴史に由来する。金沢の場合は、前田利家が家臣団を引き連れて築いた、百万石という強大な「財政」をハンドリングする武家社会だ。この社会では上意下達、命令をしっかり伝えるために語尾をはっきりさせる。こためにアクセントをつける、あるいは言葉にアンカーを打つような言い回しになる。ところが、能登はフラットな農漁村である。争いを避けるため、言葉の角を取るように話す。むしろ能登の言葉は、福井や富山の隣県で話されている言葉に近い。たとえば、「疲れた」という言葉は能登ではチキナイ、富山でもチキナイ、福井ではテキナイと話す。金沢はシンドイである。歴史的に言えば、北陸は新潟を含めた同じ「越の国」なのだが、金沢だけが異文化社会だった。

  宗教観でも異なる。北陸は「百姓の持ちたる国」の浄土真宗だ。ところが武家社会だった金沢は曹洞宗、つまり禅宗の家が多い。この2つの宗教観の違いは葬儀に参列すれば理解できる。能登だと、「亡くなられたこの家の主は若いときに両親を亡くされ、とても苦労されたが、その分、極楽浄土に行かれて・・・」などと弔辞を読む。ところが、金沢の曹洞宗のお坊さんは「この世も修行、あの世も修行」と言って、死者にエイッと大声で喝を入れる。曹洞宗が武家社会に受け入れられた理由はこの「修行」がキーワードなのだろうと解釈している。

  この異なる宗教観がどのように日常に表れるかというと、たとえば、「能登の人は我慢強い」とよく言われるように、逆境に耐え黙々と働くような強さがある。金沢の人にはストイックな強さがある。このストイックさは、たとえば、礼儀作法が厳しい茶道など習い事の師弟関係の世界で生きているとの印象を持っている。

  ところで、能登の言葉は優しいと述べた。実は、この言葉ではディスカッションで論理的に追及する、あるいは理論を構築していくという作業ができない。論理だけではなく、たとえば大きな組織の運営、あるいは緻密さを要求される共同作業といったリレーションは難しい。なぜなら語尾にフェイドアウトの「逃げ」があり、コミュニケーションで誤解が生じ易い言葉だからである。逆に、「もてなし」や「癒し」という雰囲気を醸し出すには耳触りのよい言葉である。

 能登、とくに奥能登は「ニャニャ言葉」とも称される。語尾をノキャーと軽く薄く引っ張りながら消す。土地の人の会話を聞いていると、まるで子猫がじゃれあっているようにも聞こえる。

 ※写真は、伝統的な能登の「かやぶき民家」

⇒31日(金)夜・金沢の天気   くもり

★割込企画「北海道異聞」特

★割込企画「北海道異聞」特

 北海道旅行で撮った写真から、何点かを紹介する。題して、北海道の写真グラフ3題。

         ◇

 クマどころじゃないよ… 北海道三笠市の桂沢公園。ダムの完成によりできた大人造湖があり、湖の周囲は62キロもある。原生林に囲まれ、道立自然公園に指定されている。桂沢湖周辺は化石の宝庫として知られ、アンモナイトや生物の化石が多数発見されている。この太古の化石発見を記念して、高さ5、6㍍の恐竜の像が置物として公園の中ほどにドンと鎮座している。

 キャンプ施設もあるのだが、最近、ヒグマが出没して、ここで泊まろうという勇気のある人は少ないらしい。もともとキャンパーが残した食べ物をあさりにヒグマが出没してる。クマ注意を呼びかける看板には「生ゴミの容器などは放置しないで」と書かれている。でも、この看板と恐竜の像が妙に面白くて上記のタイトルをつけた。
                   
 えっ、またクマの看板が… もう一つクマの話題。昔、北海道の森に住んでいたと伝えられる、森の知恵者「ニングル」をテーマにしたミニテーマパークがある。「新富良野プリンスホテル」横の深い森に広がる「ニングルテラス」がそれ。作家の倉本聰氏のプロデュースのもとつくられたという。

 ここにも「熊出没注意」の看板が。ところが、この看板をよく見ると、本来明記されているはずの看板の発信元がない。つまり、土産物なのだ。北海道ではクマ出没が、野生的な北海道らしさをイメージさせる売りとなっている。それにしても紛らわしい。

 こんなに公衆電話はいらない、それより… 最後に千歳空港の搭乗口の待合ロビーでのこと。壁側に公衆電話がズラリと並んでいる。そこで30分間観察していたが、利用した人はゼロ。ということは、ここにこれだけの数の公衆電話を置く経済的理由はないと判断してよいだろう。

 というのも、パソコンデスクを探したのだが、これが一つもない。この公衆電話のせめて半分でもパソコンデスクになっていればどれだけ便利か、と考えたのがこの写真を撮影したモチーフだった。

⇒25日(土)夜・金沢の天気  はれ  

☆割込企画「北海道異聞」下

☆割込企画「北海道異聞」下

 国土交通省が認定する「観光カリスマ」という制度がある。地域の資源を観光に上手に生かして、ビジネスを行っている人の中から全国で100人が選ばれている。北海道の富良野で「フラワーランド」を経営している伊藤孝司さんという人もその一人。そのフラワーランドを立ち寄った折、伊藤さんの書かれた「自然と共生する人類と農業」という小論文がスタンドに置いてあったので一部いただき読んだ。この論文のスケール感は、富良野の大地を超えて大きい。

    ラベンダーの花言葉

  その文を紹介する。「…地球の温暖化は異常気象を引き起こすことになり、世界的に農産物の減収を招き、食糧は不足し、産地は北へ北へと移動する」とし、「…北海道の、温暖化進行で産地が北へと移行する中でその使命は益々重大になると考えています」と。北海道は食糧自給率180%を超え、農業生産額が1兆円を超える農業生産基地である。地球の温暖化によって、さらに農業の適地化が進むことになり、北海道の役割は大きくなる、と。「21世紀半ばには世界の人口が100億人で安定すると言われていますが、そのとき安定的に供給を実現するためには、現在の3倍もの食糧が必要とされているのです」

  富良野の高い台に立って、遠く十勝岳地連峰を見渡しながら地球温暖化と北海道、そして地球の21世紀を展望するとそんな発想が浮かんでくるのかもしれない。

  富良野といえば「北の農」の憧れの地、そして日本でもっとも農産物のブランド化が進んでいる、と我々は思っている。しかし、この地も過疎化が忍びってよっている。人口25000人余り、1990年代をピークにして減り続けている。観光バスから眺めた範囲だが、休耕地もまばらにある。

  大地に大きく展開するランベンダーなどの花畑などは見事だ。旅情をそそるし、テレビドラマ「北の国から」のイメージもある。しかし、何かが足りないのだ。それは「環境の視点」なのだと思う。具体的に言えば、もし、富良野の農業が環境配慮型の農業へと大きく転換すれば、日本の農業が変わる。これまでのブランド価値にさらに付加価値をつけることができるのではないかと思う。

  そう思った光景がある。花畑に雑草がはえていないのである。観光化されたファームに雑草は似合わないのであろう。これはある意味で気持ちの悪い光景である。ラベンダーの花言葉、「疑惑」※を感じた。環境配慮型農業とはなるべく農薬を使わない、なるべく化学肥料や除草剤を使わない、そんな農業である。

  確かに、「北の国から」の作家、倉本聡氏らが、富良野プリンスホテルのゴルフ場の一部35haを森に還すため、NPO法人「富良野自然塾」を設立し、植林運動を進めている。また、富良野市も徹底したゴミの分別をしているようだ。しかし、富良野、そして北海道の環境の本丸は環境に配慮した農業ではないのだろうか。伊藤氏の論文でも、その点が触れられていないのだ。

  JR札幌駅近くの日航ホテルに泊まった。朝食のバイキングで人気だったのは有機野菜コーナーだった。消費者が求め始めているのはこの環境トレンドではないのだろうか。

※ラベンダーの花言葉「疑惑」・・・ラベンダー畑にはヘビやハチが多く、根元を気をつけよ、ということから由来する。これはバスガイド嬢の説明。

 

⇒22日(水)午前・能登の天気  あめ 

★割込企画「北海道異聞」中

★割込企画「北海道異聞」中

 小樽に足を延ばした(19日)。ぶらりと市立小樽美術館に入った。場所は日銀金融資料館の対面(といめん)にあたる。小樽在住の美術作家による展覧会が開かれていた。目を引いたのが観光化される前の小樽の街並みを描いた油彩画だった。作家は富沢謙氏(73歳)。展覧会場に、たまたまパンフの写真とそっくりの人、つまり本人がいたので、厚かましいと思ったがこちらから声をかけた。

    2分化する小樽観光

  「富沢さんご本人ですね。北陸・金沢から来たのですが教えてください。富沢さんが描かれている小樽の街並みは、いま私が見てきた街並みとは随分違います。富沢さんの街並みは運河を中心としてスケールが大きいような印象がありますが・・・」と思ったままを尋ねた。初対面ながら富沢氏の眼がキラリと輝くを感じた。「ご指摘の通りです。いまの小樽のにぎわは観光のにぎわいですが、かつては街全体が活気があったのです。その当時、運河はいまの倍はあったのです。私が描く街のスケール感は当時の様子を描いたものです」と丁寧に返事をしてくれた。

  大正12年(1923年)に完成した小樽運河は戦後、物流の機能を失っていた。保存論議の末に昭和58年(1983年)から埋め立て工事がスタートし、運河は半分になり道路ができた。「当時の運河を見てもらえば、小樽の別がイメージを感じてもらえたはず。先見の明がなかったといえばそれまでなのですが…」と残念そうに話した。確かに、絵で見るような運河が現存すれば、小樽はかつて「北のウォール」と呼ばれ、その富をもたらしたものはこの運河だ、とストーリーが描ける。しかし、いまの小樽の観光戦略は旧銀行や倉庫、商家の建物だけを見せている。つまり歴史観光の入り口と出口のうち、出口しか見せてないのである。富沢さんにお礼をして美術館を出た。

  実は6年前にも家族で小樽を訪れている。そのときのイメージは街全体が「レトロな観光土産市場」という感じだった。ガラス、カニ、チョコレート…、オール北海道という感じだった。ところが、街の様子が変化しているのに気がついた。一部はブランド化して新しい提案型のショップへと変貌しているのである。チョコレート専門店「Le TAO」は外観=写真・上=も従来の小樽のイメージを脱して、モダンを追及しているし、店内のショーケースは宝石店さながらの高級感を醸し出している。ここで味わったシャンパン風味のチョコレートは12粒で1050円もする。それが飛ぶように売れているのである。また、お昼に入った寿司屋は、入り口に日本酒をズラリと飾ったレストランバーの感覚の店だった=写真・下=。

  街をそぞろ歩きしていると、中国語か台湾語らしい会話をしながらワイワイと歩くグループとよく出くわした。観光をする客層も6年前と随分と違ってきている。おそらく従来の「レトロな観光土産市場」は中国や台湾の人には珍しいかもしれないが、日本人客は飽きがきて寄り付かなくなるだろう。小樽に所在しながら「小樽」を脱する、ある意味での2分化が始まっている。いや、分化しないと生き残れないのだろう。観光は流行り廃りがはやい。観光コースの最後に立ち寄った「石原裕次郎記念館」はガランとしていた。

 ⇒20日(月)午後・札幌の天気  はれ 

☆割込企画「北海道異聞」上

☆割込企画「北海道異聞」上

 「デープな能登」をシリーズで連載中だが、現在、北海道を旅行中なので、割り込み企画として「北海道異聞」を始める。これまでの北海道のイメージとはちょっと違う観点でこの北の大地を見つめることにする。

      「大らかさ」の死角

  18日に札幌に着いて、さっそくナイトクルージングのバスツアーに参加した。サッポロビール園=写真=でジンギスカン料理を賞味する。2杯目のビールを注文し、ある「事件」を思い出した。当日タンクに残ったビールを、翌日客に出すタンクに継ぎ足して使っていたという問題だった。飲み放題の客にこの継ぎ足しビールを出したが、単品の客には出さなかったという。タンクからタンクの継ぎ足しだったので衛生上は問題はなかったろうと推測するが、北海道観光のキャッチフレーズである「試される大地」に水を差す問題として注目されたのを思い出した。もう5年ほど前のことである。ともあれ、肉も野菜もお代わりをさせてもらい、満足度も高かった。

  ちなみにこの「試される大地」のキャッチフレーズは「自然一流、食事二流、サービス三流」といわれる北海道観光を立て直すという意味合いがあるそうだ。

  藻岩山のロープウエイへ向かう途中、バスガイド嬢が面白いことを話していた。「白い恋人」で知られる知られる菓子メーカー「石屋製菓」が賞味期限を延ばして記載した問題や、商品から大腸菌群や黄色ブドウ球菌が検出された問題についてである。「ミートホープ(苫小牧市)の牛肉ミンチの品質表示偽装事件のときは北海道の人もバカしていると怒ったものです。でも、石屋さんの場合は北海道の銘菓のシンボルのような存在ですので、社長さんも交代したことだし、頑張って立て直してほしいと願っているのです」と。続けて「みなさんもこれに懲りずに召し上がってください」と頭を下げたのである。

  遠方に住む我々にとっては、全国的に知られた銘菓とはいえ、罰を受けて出直せばよいのに淡々と考えている。しかし、北海道の人たちにとっては、よほどショックだったのだろうと推察する。2000年に発生した雪印乳業の乳製品による集団食中毒から牛肉偽造事件など一連の事件で、北海道にあった雪印の主力工場が次々と閉鎖され、少なからぬ打撃を受けたはずだ。「白い恋人」ショックはある意味でその再来かもしれない。石屋製菓の社員でもないガイド嬢が頭を下げた心境は理解できるような気もした。素朴な郷土愛からくる仕草とも受け取れた。  藻岩山(531㍍)の山頂から眺める札幌の夜景は絶景だった。ススキノのネオン街がひと際明るく、パノラマのように広がる。ただ、展望台では肌寒く感じた。

  帰りに観光バスは大通り公園を通った。ガイド嬢はいう。「この公園の芝にはロープをはるなどの規制がありません。自由気ままに芝を楽しめます。北海道の大らかさではあります…」。ちょっと違和感があった。芝はその緑を保つために養生が大切である。北海道の大らかさとは関係ない。その時ふと思った。コンプライアンス(法令遵守)を「大らかさ」が超えたらどうなるだろうか。「大らかさ」を企業の経営者がを勘違いしたらミートホープや石屋製菓のようになるのではないだろうか、と。そんなことを思った。

 ⇒19日(日)朝・札幌の天気  はれ

★デープな能登=3=

★デープな能登=3=

 能登の人たちには得意技がある。それは、人を「もてなす」ことに非常に長けているということだ。そのプロ化した人たちが板前や仲居となって能登半島・和倉温泉を支えている。

   「もてなし」のプロを育てる祭り

  その話を和倉温泉のある旅館の経営者から聞いたのは十数年前のことだが、いまもその「構造」は変わってはいないだろう。経営者の話は実に説得力があった。能登には七夕ごろから、それぞれの集落単位で地区の祭りが始まる。「キリコ祭り」と呼ばれ、高さ十数㍍の奉灯キリコを担ぐ。神輿を先導にして地区を巡り、最後に神社に集結して、神事を終える。鉦(かね)や太鼓、笛などの鳴り物と若い衆の掛け声で結構にぎやかな、そして伝統ある祭りが繰り広げられる。

  経営者が強調したのは、神社での祭りではなく、家での祭りである。その祭りを見学に来てくださいと、遠方の親戚や世話になっている人、友人を自宅に招く。それを家族総出で接待する。能登の子なら、3、4歳でもお客に座布団を出す所作を覚え、中学生なら日本酒の熱燗の加減がわかる、という。女の子は祭り料理の準備から盛り付けまで母親を手伝い、そして覚える。また、招いた分、今度は招かれる。こうした「ハレの場」に幼少のころから相互に行き来を繰り返すことで、招く言葉と招かれる言葉、そして身のこなしが洗練されていく。「もてなすという所作は考えてできるものではない。経験に裏打ちされた勘で行動するものなのです」と。

 能登の人たちの祭りでの「もてなし」を会話で聞くのも実に軽妙で洒脱である。「ささっとお入りなさい」「遠慮せんと、まま、上座へ」とすすめる主(あるじ)。すでに隣に座っている人に気遣いながら、「はあ、気が張るね」と身を小さくして座る客人。隣に女性がいれば、「はあ、べっぴんさんの隣やと緊張して、酒を飲まんでも(顔が)赤かくなるね」と雰囲気を盛り上げる会話がポンポンと飛び出す。先客もその会話に入って笑いが絶えない。こうしてエンドレスに座持ちがするのである。

  和倉温泉とは別に、金沢のネオン街のスナックやクラブの経営者にも能登の女性が多い。その中には最近、上海に支店を出したやり手のママもいる。金沢の夜の社交界を支えているのも間違いなく能登の人たちだ。

⇒17日(金)朝・金沢の天気  はれ