★喜べないレギュラー99円
31日の夕方、いつも利用する金沢市内のガソリンスタンドに向かった。電飾看板の「レギュラー99円」の文字が目に飛び込んできた。先の夏ごろまでは1リットル180円もした。幾分安くなったとはいえ、これまで5000円札を入れて、30数リットルしか入らなかった。それが徐々に下げて、先日は1リットル105円で入れた。それがあっさり100円を割ったのである。「現金会員」という条件つきでの「レギュラー99円」ではあるものの、円高を実感した。家計が助かる。
しかし、ガソリンが安くなって、これで安心だろうか。そうではない。「レギュラー180円」を経験した消費者心理というものはそう簡単に警戒心を解かないものだ。では、消費者心理はどこに向かっているのかというと、燃費のよいハイブリッド車への買い替えにシフトしている。安くなったからといって、いまさら燃費性能のよくない大型車を乗り回す気にはなれない。ただ、燃費のよい大型車には関心は向くだろう。これは何も車だけではない。洗濯機や冷蔵庫など家電製品でもデザインやブランドではなく、たとえば洗濯機ならば水が節約できて、消費電力が少ないものを選ぶようになってきた。
ガソリンの高騰は家計を直撃しただけではなかった。石油という地球資源がどれほど貴重なものか身にしみて分かったのである。さらに、二酸化炭素と地球温暖化という問題にだれしもが関心を持つようになった。去年7月に金沢を直撃したゲリラ雨(3時間で254㍉、5万人に避難指示)などは、地球温暖化による気候変動を連想させた。ゲリラ雨は金沢だけでなく全国的に猛威を振るっている。「自然からの警告」と受け止められるようになったのではないだろうか。
ここで話はアメリカに飛ぶ。ピックアップトラックなど燃費性能が劣る大型車を中心に生産してきたビッグスリーは破綻が懸念され、公的支援を受けることになった。が、果たして蘇生できるのだろうか。低所得者に住宅ローンを組ませ、その債権を束にして証券化するといったサブプライムローンの行き詰まりがビッグスリーの経営にも影響を与えたかのようにいわれるが、それ以前から破綻の懸念は指摘されていた。ここ数年のアカデミー賞では、リムジンではなくハイブリッドの日本車でやって来てくるハリウッドスターが増えている。レオナルド・デカプリオはその代表選手だ。すでに、かっこよさの基準がアメリカでは崩れつつあったのだ。
では、その日本車のシンボル、トヨタはどうか。確かに年の瀬に6000億円の黒字から1500億円の赤字決算の大幅修正があり、世界を驚かせた。トヨタの赤字の理由は「無理なグローバル化」にあったといわれている。世界各地に50近くもの工場を稼動させている。アメリカではピックアップトラックの生産販売もしている。ただ、トヨタの場合は2兆円ものキャッシュによる内部留保があり、ビッグスリーにように「赤字決算=経営危機」という図式にはならない。「売れる車」「つくるべき車」とそうでない車の選別作業と製造ラインの再構築が始まるのだろう。
「レギュラー99円」。円独歩高の恩恵である。家計は助かるが、素直に喜べない背景を大晦日に考えてみた。さて新年。総選挙、経済不況とすべての案件が年越した。未来をあきらめてはいけない。これから社会の変革が始まる。ピンチはチャンスである。
⇒1日(祝)未明・金沢の天気 くもり
「金沢大学の地域連携」の一年を振り返る。大きく三つある。一つは、能登半島に大きく展開したということ。二つには、生物多様性条約第9回締約国会議(CBD-COP9、ボン)に参加し、石川県と国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットなどと連携して、COP10関連会議の誘致に向けて足がかりをつくったこと。三つ目として、里海とトキの研究事業に新たに着手できたということだ。
食を豊かにするのは味付けや食材の多さだけではない。「もてなし」という情感のこもった気づかいや応対が伴ってこそ、膳に並ぶ食も輝きを増す。もてなしは英語でホスピタリティといい、最近では学問として研究されてもいる。ところで、このもてなしの原点ともいえる農耕儀礼が能登半島に伝承されており、先ごろ、文化庁はユネスコ(国連教育科学文化機関)が無形文化遺産保護条約に基づき作成するリスト(09年9月)の登録候補の一つとして申請した。「あえのこと」である。「あえ」は饗応(ご馳走をしてもてなすこと)を意味する。
金沢大学地域連携推進センターが主催する「金沢大学タウン・ミーティング in 内灘」が12月20日、内灘町役場で開催された。金沢大学はタウン・ミーティングを平成14年度からこれまで石川県内7地区(輪島市、加賀市、鶴来町、珠洲市、能登町、羽咋市、穴水町)で開催しており、今回で8回目.。地域からの話題提供の中で、内灘町のボランティア団体「クリーンビーチ内灘作戦」代表の野村輝久さんが「内灘砂丘を蘇らせる」と題して、角間の里山から切り出したモウソウチクを利用した砂丘の復元運動を紹介した。
石の胸像が配置されている。カトリック教会から異端者として審問にかけられ、自説を取り消さなかったため、軟禁され8年後にこの世を去った(1642年)。裁判の後、ガリレオはつぶやいたという。「それでも地球は動く」
想像したのは強盗が入るなどの最悪の事態。すると奥の方で懐中電灯の明かりが揺れている。「やっぱり」と思い。大声で「誰かいるのか」と凄んだ。すると奥から家内の声、「停電なの」。力が抜ける。
もともとは、ことし3月に出版された「パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本」 (海部美知、アスキー新書)のタイトルから引用された言葉だ。ことし1月のダボス会議で、「Japan: A Forgotten Power?(日本は忘れられた大国なのか)」というセッションが開かれ、国際的に日本の内向き志向が論議になったという。高度経済成長から貿易摩擦の時代を経て、日本はいつの間にか、世界から見て存在感のない国になってしまっている。その背景には、安全や便利さ、そしてモノの豊かさ日本は欧米以上になり、外国へのあこがれも昔ほど持たなくなったことがある。明治以来の欧米に追いつけ追い越せのコンプレックスは抜け切ったともいえる。ハングリー精神とかチャレンジ精神という言葉は死語になりつつあり、リスクを取らないことが美徳であるかのような社会の風潮だ。これでは人は育たず、社会も会社も停滞する。
さて、シリーズ「能登の旋風(かぜ)」は里山里海国際交流フォーラム「能登エコ・スタジアム2008」のイベントで拾った話題を紹介している。9月13日から17日にかけての「能登エコ・スタジアム2008」は3つのフォーラム、6つのプログラム、1つのツアーから構成されていたが、17日にシニアコース(シニア短期留学)の修了式をもって、すべてのメニューを完了した。また、同日は生物多様性条約のムハマド・ジョグラフ事務局長の能登視察も終了した。一連のイベントメニューの中でのVIP視察だった。
今回のイベントで印象に残った2枚の写真。持続可能なこと、それは地下に封じ込められた化石燃料を掘り出して、燃焼させ、二酸化炭素を排出することではない。二酸化炭素を吸収し、光合成によって成長した植物をエネルギー化すること。里の生えるススキ、カヤ類を燃料化する試みが始まっている。それらをペレット化して燃料、あるいは家畜の飼料にする。奥能登では戦後、1800haもの畑地造成が行われたが、そのうち1000haが耕作放棄されススキ、カヤが生い茂っている。それをなんとかしたいとの発想でバイオマス研究から実用化の段階に向けて試行が続いている。能登エコ・スタジアムのコース「バイオエコツーリズム」ではその試みに興味を持った若者たちが大勢集まってきた。そして実際にススキを刈り取り、ペレット化を体験したのである。上の写真はその刈り入れの様子だ。地域エネルギーの可能性を感じさせる光景に見えた。
能登半島地震の発生翌日、被害がもっとも大きいとされた門前地区に入った。住民のうち65歳以上が47%を占める。金沢大学の地域連携コーディネーターとして、学生によるボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいかを調査するのが当初の目的だった。そこで見たある光景をきっかけに、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真・上=。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問があったからだ。 当時、カメラマンたちが狙っていた半壊の家はいまどうなっているのか確認したかった。その家はカメラマンたちが期待したようにはならなかった。つまり、余震での倒壊は免れた。しかし、住めるような状態ではなかったので、そのままになっているのか、取り壊して更地なっているのか、再建されているのか…。何かの折に再び訪ねてみたいと思っていた。
MさんとNさんをお誘いして門前入りした9月16日午前、車を降りて、問題のシーンと遭遇した場所に再び立ってみた。その民家は再建途中だった=写真・下=。まもなく完成するだろう。おそらくこの家の家族はまだ避難所生活と想像するが、まもなく新居での生活が始まるだろう。そう考えると、正直にうれしかった。震災から1年6ヵ月余り。それにしても、被災者とメディア側の溝は深い。メディア側で被災者の目線というものを体験しなければこの溝は埋まらない。そこで、「震災とメディア」の調査報告書には下記の一文をつけた。
た。9月16日午前のプログラム自由時間を利用して、MさんとNさんを誘って門前地区を訪ねた。
次に訪れた総持寺もまた被災し再興途中だった。僧堂の再建工事は屋根の部分まで進んでいた。MさんとNさんはここで「瓦寄進」をした。瓦に祈願の文字を書き、お布施をする。亡き父親が当地出身というMさんは「先祖供養」と書いていた。鶴見の総持寺と縁があるNさんは「一家繁栄」を祈願した。Nさんはさらに総持寺と縁を感じることになる。僧堂の建築現場に近づいてみると、長男が勤める建築事務所(東京都)がこの僧堂の設計・管理に携わっていたのだ。「大変名誉な仕事をさせてもらっている。親として素直にうれしい」と目を輝かせた。
とき腫瘍を患って他界しました。それから12年経ちます…」と語り始めた。約束を果たさぬまま先立った息子への思いも募ったのか、Mさんの顔は曇りがちだった。