⇒トピック往来

★メモる2007年-2-

★メモる2007年-2-

 能登半島地震(今年3月25日発生)では死者1人、300人以上の重軽傷者を出した。この震災で一番被害を受けたのは、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域だった。被災者はどのようにして情報を入手し、その情報は的確に伝わったのだろうか。そんな思いから金沢大学震災学術調査班に加わり、「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートやメディアへのヒアリング調査などを実施した。

           震災では誰もが「情報弱者」に

  アンケートの調査は、震度6強に見舞われ、住民のうち65歳以上が47%を占める石川県輪島市門前町で行った。当初は地震発生の翌日に被災地に入り、地域連携コーディネーターとして、学生のボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいか調査するのが当初の目的で被災地に入った。そこで見た光景が「震災とメディア」の調査研究をしてみようと思い立った動機となる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者たちの姿があった。この惨事は全国中継されるが、地域の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問だった。

  被災者へのアンケート内容は、①地震発生時の状況や初期行動、②最も欲しいと思った情報や情報の入手手段、③発生1ヵ月後よく利用する情報源や求める情報内容などで、学生に手伝ってもらい聞き取り調査を行った。

  震災は日曜日の午前9時42分に起きた。能登地方は曇り空だった。震災発生時の居場所は、居間など自宅にいたのは60人で、うち24人がテレビを見ていた。回答者110人の自宅は「全壊」18人、「半壊」19人、「一部損壊」60人で、「被害なし」は10人にすぎなかった。地震直後の初期行動として、屋内にいた36人が「屋外へ避難」した。「テレビをつけた」は4人、「ラジオをつけた」は6人である。つまり、震度6強の激しい揺れの直後、真っ先にメディアに接触を試みた人は1割に満たなかったわけである。

  事実、震災の翌日26日に被災地入りし、何軒かの家の中を見せてもらったところ、一見被害がないように見える家屋でも、中では仏壇やテレビが吹っ飛んでいた。震災直後、さらに続いた余震(26日正午までに190回)の恐怖、そして一瞬の破壊で茫然自失としていた被災者が最初に接した情報源は何だったのか。ヒアリングでも多くの人が指摘したのは「有線放送」だった。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく(注=2006年度整備予定)、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内蔵された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。利用料は月額1000円の定額で任意加入だ。普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。この日も、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで茫然自失としていた住民が我に返り、近所誘い合って高台の避難場所へと駆け出したのだ。この有線放送電話では、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者に必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年(1972)に敷設が始まった「ローテク」とも言える有線放送電話が今回の震災ではしっかりと「放送インフラ」として役立ったのである。

  震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。北陸総合通信局情報通信部の山口浩部長(当時)によると、「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。この有線放送電話には、一般加入電話や携帯電話のような震災発生時の受発信の規制はなく、安否情報の交換などにフルに利用された。  その後、同町では家屋の損壊あるいは余震から1500人が避難所生活を余儀なくされ、多くの住民は避難所で新聞やテレビやラジオに接触することになる。ここで、注目すべきメディアの活動をいくつか紹介しておきたい。震災の翌日から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。  そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった同社金沢総局次長の大脇和男記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

  高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。聞き取り調査の中で、同町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「テレビメディアは被災地から情報を吸い上げて全国に向けて発信しているが、被災地に向けたフィードバックが少ない。せめて地元の民放などが協力して被災者向けの臨時のFM局ぐらい立ち上げたらどうだろう」「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ⇒17日(月)夜・金沢の天気  あめ

☆メモる2007年-1-

☆メモる2007年-1-

 2007年も余すところ20日となった。振り返れば、さまざまな出来事に遭遇した。その折、自分なりに取材し、調査をしてきたことを記す。題して「メモる2007」。

      「FMピッカラ」のメディア魂

  ことし3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」の調査をした。その中で、「誰しもが一瞬にして情報弱者になるのが震災であり、電波メディアは被災者に向けてメッセージを送ったのだろうか」「被災地から情報を吸い上げて全国へ発信しているが、被災地に向けたフィードバックがない」と問題提起をした。その後、7月16日に新潟県中越沖地震が起きた。そこには、「情報こそライフライン」と被災者向け情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けた放送メディアがあった。

  中越沖地震でもっとも被害が大きかった新潟県柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくい。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にある。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急編成に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備していたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

  通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。  コミュニティー局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と話す。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある内容として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかない」と話す。

  7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」と気遣うメールが届いたほどだ。

  ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

  ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、その時、その場所、その状況が違えば難しい。災害放送はケースバイケースである。ただ、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価されるのである。

 ⇒11日(火)午後・金沢の天気   くもり

★デープな能登=9=

★デープな能登=9=

 能登の輪島で一度だけ食べたことがある。サバの刺し身を。サバは「生き腐れ」といわれるように傷み速い。しかし、輪島では釣り上げてから3時間以内なら大丈夫という経験則のようなものがあって、食することを勧められた。軟らかく、あまい赤身。ダイコンおろしにしょう油、一味唐辛子を混ぜた「弁慶しょう油」をちょっと付ける。その味が忘れられず、以来、鯖(さば)好きになった。20年も前の話である。

         輪島で教わったサバの食し方3題

  さらに同じ輪島でサバのダイナミックな食べ方を教わった。塩サバである。8月下旬、輪島の大祭が恒例だ。祭りが終わり、神輿や奉灯キリコをしまう。その後、直会(なおらい)があり、神饌(しんせん)やお神酒(みき)のお下がり物を参加者が分かち飲食する。このときに、塩漬けされたサバが大皿に乗って出てくる。お神酒を飲みながら、塩で身が硬くなったサバを手でむしって食べる。これがなんとも言えず美味なのだ。残暑の中、塩サバに日本酒を食するので当然、喉が渇く。そこで水の代わりにお下がりのスイカを食べる。冷やしてはないが清涼感があり甘い。するとまた塩サバが食べたくなる。手はサバの脂でベタベタになるが気にせず、むしり取る。そして飲む。またスイカを食べるという繰り返し。

  日差しがまだ高い、日中での昼酒である。外に出ると一瞬、白昼夢でも見ているような錯覚に陥ったことを覚えている。

  その後、珍しいサバ料理を食べさせてもらった。サバのスキヤキである。輪島塗作家の角偉三郎さんのお宅に招かれたときに出された料理だった。肉ではなく、サバの赤身を入れる。豆腐にも、糸コンニャクにも、ネギにも合う。肉の代用ではなく、れっきとしたサバ料理なのである。

  そのサバスキをつつきながら、角氏は夢を語って聞かせてくれた。その後、角氏は話通りに、日展を脱会して、「日常の生活に生かされる器(うつわ)」をめざし、合鹿(ごうろく)椀などの能登に古来からある漆器を発掘して、独自の道を歩む。無骨ながら使いこなされてこそ器である、と。気取らず、朴訥とした風貌だったが、眼光は鋭かった。05年10月に他界。享年65歳だった。

※写真は、セリが始まる前の輪島市漁協の様子

⇒28日(水)夜・金沢の天気   はれ 

☆デープな能登=8=

☆デープな能登=8=

 能登半島から見える絶景と言えば、海に浮かぶ立山連峰(標高3015㍍)であろう。その眺望も毎日見えるのではなく、「たまに」というところに価値がある。とくに初夏のころ、雪の山々はコバルト色の海の上で青空に映えて浮かび、神々しさを感じる。

        立山の観天望気

 ふもとの富山県の人たちにとって立山連峰は古来より信仰の山であり、心の風景であるのかもしれない。立山が望める奥能登の穴水町でかつて別荘地が造成された。真っ先にその別荘地を買ったのは富山の人たちだったと聞いたことがある。「立山を見て余生を暮らせたら」。そんな思いが募ったのかもしれない。

  ところで、能登の人たちは立山に対しては別の見方もしている。「立山がくっきり見えたら、あすは雨」と。長年の経験から得た「観天望気(かんてんぼうき)」である。観天望気はもともと雲や風や空の色などを目で観察して、経験的に天気を予想することなのだが、この観天望気は実に分かりやすい。見える見えないで判断でき、しかも端的に当たるのである。だから子供でも「きょう立山が見えた、あすは傘がいる」などと言っている。

  写真は、金沢大学が「里山マイスター能登学舎」として使用している旧・小学校(珠洲市三崎町小泊)の玄関に飾ってある絵画だ。ご覧のように海の向こうに立山が描いてある。手前には、子供たちの遊びやお手伝いなど戸外活動の四季が描かれている。草相撲、モチつき、稲刈り…ほほ笑ましい光景ではある。あすは雨、いまのうちに遊びもお手伝いもやるべきことはやってしまおうというメッセージの絵画なのかもしれない。

  立山はいつも見えるわけではないと冒頭で書いた。しかも雨の日の前日に必ず見えるというわけでもない。ただ、くっきりと見えたら確実に「あすは雨」になる。微妙な見え方、たとえば薄く見えるときがある。この場合は「あすは曇り」となる。このあたりの「立山の見立て」となると地元の漁師がもっと詳しいだろう。

  ところで、観天望気は金沢にもある。金沢大学角間キャンパスがある田上(たがみ)、角間(かくま)地区では「医王山(いおうぜん、標高939㍍)の初雪から3度目の雪で角間も初雪」。古老から聞いた話である。もっとも街中にもある。「12月に入って、片町・香林坊が雨なら、小立野はみぞれ、そして湯涌は雪」と言った程度のものなのだが、これが結構、的を得ている。酔いどれ達の長年の観天望気術である。

 ⇒26日(月)夜・金沢の天気   くもり

★雪モードの朝

★雪モードの朝

 けさ(19日)の屋外の光景を見て、金沢の人、あるいは北陸人の季節感は一気に「冬モード」にスイッチが切り替わったのではないだろうか。薄っすらと雪化粧、初雪である。11月半ば、こんなに早く冬の訪れを感じたのは何年ぶりだろう。

 雪国の人に冬モードのスイッチが入るとどんな思考をするか。まず、車のタイヤをスノータイヤ(スタッドレス)に交換しようと考える。しかし、今回の初雪は早すぎる。おそらく一度雪が降ると、次に来るのは12月下旬だろう。すると早計にタイヤを交換すると、スノータイヤの磨耗がそれだけ大きい。でも、週間の天気予報をチェックすると、23日(金)にも雪マークが付いている。「さて、どうしよう」などと考えながら、今度は除雪用のスコップを収納小屋から出し、雪道用のブーツを用意した。で、山手にある金沢大学では雪も多いに違いないと、きょうはブーツを履いて出勤した。

 雪の予感は昨夜からあった。東京からの客人を迎えに夜の街に出た。みぞれまじり、氷雨だった。犀川大橋に立つと、身を刺すような冷たい風が一瞬に頬に当たった。

 きょうは午前9時すぎごろから、日差しが出て、屋根や街路の雪はまたたく間に消えていく。ブーツは早まった判断だったかと思いながら、大学の長い坂道を急いだ。

※写真は、金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」の周辺。屋根に雪が載り、ダイコンの葉も雪で重そうだ。

⇒19日(月)朝・金沢の天気   はれ

★中越沖地震から3ヵ月

★中越沖地震から3ヵ月

 ことし日本海側で起きた地震が能登半島地震(3月25日)と新潟県中越沖地震(7月16日)だ。ともに震度6強。断層の数だけ地震はいつか起きるとはいえ、なぜ日本海側でこうも続くのかと思ってしまう。2004年10月23日の新潟県中越地震を入れるとこの3年で3回もだ。

 今月21日と22日、中越沖地震で震度6強の震災に見舞われた新潟県柏崎市を訪ねた。被災直後、同市では避難所が71カ所で開設され、ピークで9859人の被災者が避難所生活を余儀なくされた。JR柏崎駅のすぐ近くに仮設住宅が建てられていた。9万4千人の都市のど真ん中が被災地だった。

 震災から3カ月を経ているものの、思ったより復旧が遅れているとの印象を受けた。何しろ、アーケード商店街の歩道のあちこちにおうとつがあって歩きにくい。2回もつまずいた。路地裏の住宅街に入ってみると、全壊した家屋がそのままの姿で残っていた=写真=。

 復旧は遅れているのか。その理由について、取材のため訪れた同市のコミュニティ放送「FMピッカラ」の放送部長、舟崎幸子さんがこう解説してくれた。最近の中越沖地震の関連ニュースは柏崎刈羽原発の「地盤問題」に集中していて、街の復興にはスポットが余り当たっていない。すると、傍から見る視聴者は、街中はすでに復興しているものと視聴者は錯覚するのではないか、と。

 解説を加える。能登半島地震の場合、能登有料道路が随所に崩壊し、それが「生活の大動脈が断たれた」と繰り返しマスメディアで取り上げられた。すると、行政も復旧ポイントに優先順位をつけて全力投球で工事をする。能登有料道路は2ヵ月後の5月の観光シーズンには仮復旧していた。それを「県土木の意地」と地元の人たちも賞賛したものだ。

 ところが、中越沖地震の場合、マスメディアを通した耳目が柏崎刈羽原発に集中してしまうと街の復旧や復興の様子が県民・視聴者には見えにくくなってしまう。もちろん行政は全力投球しているだろう。被災地も能登に比べ広く、復旧工事が行き渡っていないのかもしれない。中越沖地震の復興は、原発というシリアスな問題がある分、盲点ともなりかねないのではないか。柏崎の街を歩きながら、そんな気がした。

⇒23日(火)朝・金沢の天気   くもり

 

☆続「里山マイスター」のこと

☆続「里山マイスター」のこと

 前回で紹介した「能登里山マイスター養成プログラム」は2つの講座で構成されている。一つは金曜日(午後6時20分‐7時50分・能登空港ターミナルビル)の公開講座と、土曜日(午前9時‐正午・珠洲市の「里山マイスター能登学舎」)の本講座である。教員スタッフは週末が忙しい。

  きのう19日(金)は3週目の講義だったが、ハプニングが起きた。講義タイトルは横浜国立大学・松田裕之教授の「身近に起きる生態系のリスク」。教授は羽田空港から能登空港に飛び、午後3時5分に到着予定だった。ところが、能登空港の上空まで飛行機は来たが、霧のため着陸できず、30分も上空を旋回した後に羽田に引き返した。「しかたない。今回は休講にしよう」と話し合っていた。すると、フラントインフォメーションで「再び能登空港にフライトする」というのである。その時間は、午後5時50分に羽田発で到着は午後6時30分。教授からも連絡があった。「この時間だと開始は遅れるものの授業は内容的にできる」と。「休講はしない。準備を始めよう」と教員スタッフの動きは再び慌しくなった。

  20分遅れで松田教授の授業は始まった。冒頭での話。「リスクはつきもの、もう一便早い飛行機に乗るべきだった」「このような場合、乗客の中には感情が高ぶって乗務員にくってかかる者がいるが、皆さん落ち着きを払っていた」と。授業で印象が残った言葉。最近はリスク・マネジメントだけではなく、リスク・ガバナンスという言葉も使うそうだ。教授流の解釈は「丸く治める」。日本流のリスク管理方法である。

 ※写真:再フライトで能登空港に到着したANA749便=10月19日午後6時35分ごろ

 ⇒20日(土)朝・珠洲市の天気   はれ

★「里山マイスター」のこと

★「里山マイスター」のこと

  「金大(きんだい=金沢大学)は大きな勝負に出たね。でも、金大しかできない勝負だよ」。先日、マスコミ業界にいる友人からそのような言葉で励まされた。大きな勝負とは、平成19年度の科学技術振興調整費で採択された金沢大学の「『能登里山マイスター』養成プログラム」のこと。科振費の中でも、このプログラムは地域再生のための人材養成の拠点を形成するというミッション(政策的な使命)を帯びた国の委託費だ。地域再生という4文字に敢えて挑むプログラムに携わっている私に友人はエールを贈ってくれたのだ。

   では、「能登里山マイスター」養成プログラムで具体的に何をするのかというと、若者を能登に呼び込み、環境配慮型の農業を実践するとともに農産品の開発やグリーンツーリズムを展開するリーダーを養成する。5年間で60人以上の人材養成を目標としている。能登半島の先端に位置し、過疎化と高齢化が進んだ珠洲市に養成拠点を構え、常駐の教員スタッフを配置する。

  校舎は、廃校となった旧小学校の施設を無償で借り受け「能登学舎」と称している。農業人材を養成すると言いながら、実は、金沢大学には農学部がない。そこで、農学系の教員人材が豊富な石川県立大学にも講師派遣をお願いし、さらに地域で有機農業を実践する篤農家の協力を得ることにした。これら60人の若手が中心となって環境と農業が共存する能登の自然を再生し、トキやコウノトリの野生化計画の候補地にしていくという将来ビジョンを描いている。

  10月6日に開講式を行い授業はすでに始まっている。地域再生のためにと科振費を申請したのが今年2月18日だった。その後3月25日に能登半島地震で震度6強、7月16日の新潟県中越沖地震でも震度5弱の震災に見舞われた。震災復興という重い課題も背負った思いだ。冒頭で紹介した友人の「大きな勝負」という言葉の意味がお分かりいただけると思う。逆に言えば、地域再生と震災復興に知恵を絞ることこそが最大にして最高の社会貢献ではないか。それは地域の総合大学である「金大」しかできない勝負と自覚している。

 ※写真は、10月6日の開講セレモニーで「里山マイスター能登学舎」の看板除幕式

⇒15日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆デープな能登=7=

☆デープな能登=7=

  能登の悩み、それは後継者がいないという現実である。昨年5月、当時の小泉純一郎首相が能登の輪島・千枚田を訪れ、「絶景だ」とほめちぎった。現実を言うと、小泉首相が眺めた棚田は4haにすぎない。その背後にある10haもの棚田は休耕あるいは耕作放棄田なのである。

        現代版「天保の飢饉」

  能登半島はキリコ祭りで有名だ。秋田の竿灯(かんとう)、青森の「ねぶた」と並び称される。キリコは担ぐものだが、写真のようにキリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて、集落には若者が大勢いた。しかし、人口減少と担い手不足で地域コミュニティーで運営されるキリコ祭りが成立しなくっている現実がある。車を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい方だ。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くなっている。

  かつて人口が急激に減少した時代があった。日本史でも有名な「天保の飢饉」である。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。そのとき、「この集落はもはやこれまで」と一村一墓(いっそんいちぼ)、つまり集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参すればよいとしたのである。集落の終(しま)いを意識した選択だった。その一村一墓の集落がいまでも石川県珠洲市三崎町にある。結果的に、その集落は絶滅しなかったが、その一村一墓の風習だけが今でも残っている。が、21世紀に入って、現実として一村一暮の制が必要になるかもしれない。天保の飢饉を生き延びた村人の子孫たちがいま都会に出て、帰って来ないのである。

  これは能登だけの現象ではない。全国がそうなのだ。先祖が心血を注いで開墾した田畑が数年で野生化する。墓地すら判別不能に荒れている集落がある。その子孫は都会に出て、何をしているのだろうか。子供に「私達の祖先はどこで何をしていたの」と聞かれて、その荒れた祖先の地を案内できるのだろうか。そんなことを想像すると哀しくなってくる。

  地方にこそ人材が必要だと思う。にもかかわらず、人材を東京に一極集中させ、それで日本が成り立っているという構図だ。その構図が能登の祭りからよく見えるのである。石川県の推定によると、現在の奥能登の4市町の人口は8万1千人、それが7年後の2015年には6万5千人と20%減となる。人の胃袋、口、目が2割も減る。

 ⇒7日(日)夜・金沢の天気   はれ 

★デープな能登=6=

★デープな能登=6=

 最近、能登の人とおしゃべりをするとクマの話題で盛り上がる。実は、能登には高い山がなく、輪島の高州山(567㍍)が最高だ。生息には適さないので、クマはいない。だから、能登の人にクマの話をすると、珍しがる。

        「山のダイヤ」コノミタケ

  たとえばこんな話。金沢の野田山は加賀藩の歴代藩主、前田家の墓がある由緒ある墓苑だ。7月の新盆ともなるとにぎやか。市街地とも近い。そんなところにクマが出る。お供え物の果物を狙って出没するのだ。だから、「お供え物は持ち帰ってください」という看板が随所にかかっている、と。もう一つ。クマは柿が大好物だ。一度食べたら、また翌年も同じところに柿を食べにくる。ある日、痩せたクマが市街地の民家の柿木に登って、無心に柿の実を食べていた。通報を受けたハンターが駆けつけたが、その無心に食べる姿を見て、「よほどお腹がすいていたのだろう」としばらく見守っていた。満足したのか、クマが木から下りてきたところをズドンと撃った。クマはたらふく食べることができてうれしかったのか、クマの目に涙が潤んでいた…。

  こんな話を能登ですると、リアクションがとてもよい。ところで、クマ出没の余波が能登地方にも及んでる。キノコ採りのシーズンだが、クマとの遭遇を嫌って加賀地方の山々は敬遠されている。そこで、クマがいない能登地方の山々へとキノコ採りの人々の流れが変わってきている。本来、能登地方の人々にとっては迷惑な話なのだが、能登の人たちが目指しているキノコはマツタケや、コノミタケと地元で呼ぶ大きな房(ふさ)のホウキダケの仲間だ。ところが、加賀からやってくる人たちは、能登ではゾウゴケ(雑ゴケ)と呼ぶシバタケだ。目指すものが異なるので、山でトラブルになったという話は余り聞かない。

  コノミタケは土地の人たちが「山のダイヤ」と呼ぶくらい、うっそうとした山間でほのかに光を放って存在する。同僚のキノコの博士によると、能登の固有種ではないかという。これに出合うと、それこそ目が潤むくらいにうれしいそうだ。去年の能登町であったキノコ市場ではサッカーボール大のもので、7000円から1万円の値がついていた。そして、マツタケより市場価値が高いのだ。能登和牛との相性がよく、スキヤキの具材になる。そして、箸はコノミタケに真っ先に向かう。

  本来はクマの話をするつもりでこのコラムを書いたが、話はいつの間にかキノコに話題が移ってしまった。

※【写真】皿の上の方に盛られているのがコノミタケ

 ⇒3日(水)午後・金沢の天気  はれ