⇒トピック往来

★喜べないレギュラー99円

★喜べないレギュラー99円

 大晦日、恒例の我が家の大掃除で私の役目は三つあった。一つは換気扇の掃除。ファンにこびりついた油分との闘いなのだが、パーツをばらして組み立てるのに時間がかかる。ガスレンジを覆うようにして天井から吊り下げるタイプの換気扇でボルトやビスのたぐいがやたらと多い。掃除をする人の身になって製造されていないと毎年、憤慨している。二つめが台所のシンクと排水パイプをつなぐL字状のつなぎ目の掃除。最後に愛車のガソリンを満タンにして終わりだった。今回のブログのテーマは大掃除ではない。ガソリンだ。

 31日の夕方、いつも利用する金沢市内のガソリンスタンドに向かった。電飾看板の「レギュラー99円」の文字が目に飛び込んできた。先の夏ごろまでは1リットル180円もした。幾分安くなったとはいえ、これまで5000円札を入れて、30数リットルしか入らなかった。それが徐々に下げて、先日は1リットル105円で入れた。それがあっさり100円を割ったのである。「現金会員」という条件つきでの「レギュラー99円」ではあるものの、円高を実感した。家計が助かる。

 しかし、ガソリンが安くなって、これで安心だろうか。そうではない。「レギュラー180円」を経験した消費者心理というものはそう簡単に警戒心を解かないものだ。では、消費者心理はどこに向かっているのかというと、燃費のよいハイブリッド車への買い替えにシフトしている。安くなったからといって、いまさら燃費性能のよくない大型車を乗り回す気にはなれない。ただ、燃費のよい大型車には関心は向くだろう。これは何も車だけではない。洗濯機や冷蔵庫など家電製品でもデザインやブランドではなく、たとえば洗濯機ならば水が節約できて、消費電力が少ないものを選ぶようになってきた。

 ガソリンの高騰は家計を直撃しただけではなかった。石油という地球資源がどれほど貴重なものか身にしみて分かったのである。さらに、二酸化炭素と地球温暖化という問題にだれしもが関心を持つようになった。去年7月に金沢を直撃したゲリラ雨(3時間で254㍉、5万人に避難指示)などは、地球温暖化による気候変動を連想させた。ゲリラ雨は金沢だけでなく全国的に猛威を振るっている。「自然からの警告」と受け止められるようになったのではないだろうか。

 ここで話はアメリカに飛ぶ。ピックアップトラックなど燃費性能が劣る大型車を中心に生産してきたビッグスリーは破綻が懸念され、公的支援を受けることになった。が、果たして蘇生できるのだろうか。低所得者に住宅ローンを組ませ、その債権を束にして証券化するといったサブプライムローンの行き詰まりがビッグスリーの経営にも影響を与えたかのようにいわれるが、それ以前から破綻の懸念は指摘されていた。ここ数年のアカデミー賞では、リムジンではなくハイブリッドの日本車でやって来てくるハリウッドスターが増えている。レオナルド・デカプリオはその代表選手だ。すでに、かっこよさの基準がアメリカでは崩れつつあったのだ。

 では、その日本車のシンボル、トヨタはどうか。確かに年の瀬に6000億円の黒字から1500億円の赤字決算の大幅修正があり、世界を驚かせた。トヨタの赤字の理由は「無理なグローバル化」にあったといわれている。世界各地に50近くもの工場を稼動させている。アメリカではピックアップトラックの生産販売もしている。ただ、トヨタの場合は2兆円ものキャッシュによる内部留保があり、ビッグスリーにように「赤字決算=経営危機」という図式にはならない。「売れる車」「つくるべき車」とそうでない車の選別作業と製造ラインの再構築が始まるのだろう。

 「レギュラー99円」。円独歩高の恩恵である。家計は助かるが、素直に喜べない背景を大晦日に考えてみた。さて新年。総選挙、経済不況とすべての案件が年越した。未来をあきらめてはいけない。これから社会の変革が始まる。ピンチはチャンスである。

⇒1日(祝)未明・金沢の天気  くもり

☆寝まり牛起きて猛進す

☆寝まり牛起きて猛進す

 これから世界を変えていくのは、おそらく「100年に一度」の経済不況だ。この状況は従来の価値観を崩し、イノベーションを起こす転機になるだろう。この変革は発想の転換をわれわれに迫る。都市集中から地域分散へ、化石燃料からバイオマスや太陽光などの新エネルギーへ、外需頼みから内需喚起へ、そしてグローバルな市場主義から地域経済主義へと発想の切り替えだ。面白いことに、さまざまな企業が農業参入を試み、そして農と商と工の連携を模索している。地域や里山や里海というフィールドに人々が再び復帰する。近い将来そんな日がくるかもしれない。

 「金沢大学の地域連携」の一年を振り返る。大きく三つある。一つは、能登半島に大きく展開したということ。二つには、生物多様性条約第9回締約国会議(CBD-COP9、ボン)に参加し、石川県と国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットなどと連携して、COP10関連会議の誘致に向けて足がかりをつくったこと。三つ目として、里海とトキの研究事業に新たに着手できたということだ。

 一つ目の能登半島に展開するプログラムでは、「能登半島 里山里海自然学校」と「能登里山マイスター」養成プログラムに加え、大気観測・能登スーパーサイト(黄砂研究)のチームが能登学舎に仲間入りし、能登における環境研究は3本柱となった。このほかにも能登で展開する研究チームと協力体制をつくり、「能登オペレーティング・ユニット」といった学内機構化を目指すバックグラウンドができた。こうした研究プログラムを地域に紹介し理解と協力を得るため、11月から12月にかけて輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の4ヵ所で地区懇談会も開催した。あわせて190人の参加があり、援軍を得た喜びがあった。

 石川県と国連大学高等研究所オペレーティング・ユニットとの関係構築も大きな一歩だ。2010年のCOP10では関連会議を誘致するが、それに先立って生物多様性条約事務局(カナダ・モントリオール)のアハメド・ジョグラク事務局長を能登視察(9月16日、17日)に招待できた。1泊2日で能登を回ったジョグラフ氏は輪島市金蔵(かなくら)地区で棚田で稲刈りをする人々の姿を見て、「日本の里山の精神をここに見た」と高く評価したのだった。金蔵はいわゆる限界集落の村。それでもよき日本の里山の景観を維持し、自然と調和しバランスを保っている。

 これまで里山の生物多様性や保全活動などを通して地域とかかわってきたが、里海にも目を向けた。手始めは「七尾湾創生プロジェクト」(環境省の事業助成)。これも大学単体ではなく石川県、国連大学高等研究所オペレーティング・ユニットなどと協働して進める。来年2月22日には環境省などとシンポジウムを開催する段取り。また、トキの分散飼育地に石川県、島根県出雲市、新潟県長岡市の3ヵ所が選ばれた(12月19日)。石川県能美市の「いしかわ動物園」に来年度、2つがい4羽のトキがやってくる。中村浩二教授が研究代表となり、トキが能登で生息するための生態学的な調査、地域合意形成のための調査を県からの委託で始めている。能登は本州最後の1羽のトキがいた場所だ。「まだ、生態学的な環境は十分残されている」と中村教授は強調する。環境に配慮した農林業が広まることでトキが生息する環境は再生できる。「トキが再び能登の空を舞う」をキーコンセプトに地域との連携を図っていく。

 来年は「能登半島における里山里海復権と持続可能型の地域再生」をさらに追求していきたい。この復権という意味合いはそこで人の生業(なりわい)が成立する、端的にいえばビジネスができるということである。われわれはよく「自然との共生」を口にする。が、目指すべきはむしろ「自然との調和と活用」だろう。活用しなくなったから里山や里海が荒れた。つまり自然が持つ価値が失われた。もう一度、そこに価値を見出すことが必要になってきた。それが復権への行程の一歩だ。

 「寝まり牛」は起きて猛進する…。新年をそんなダイナミックな変革の年にしたい。文章は少々粗いが、備忘録として書いた。

※写真は、伝統工芸のテーマパーク「ゆのくにの森」(小松市)で展示されている牛をモチーフにした竹細工

⇒31日(水)朝・金沢の天気   あめ

☆旅館的ホスピタリティ

☆旅館的ホスピタリティ

   年の瀬のちょっとした休日を利用して加賀市の山代温泉へ家族旅行に出かけた。冬の料理は彩りが鮮やかだ。「香箱蟹 琥珀ゼリー」(ズワイガニのメスの剥き身と二杯酢のぜリー固め)=写真=から始まって、「寒鰤山椒焼 焼大根」「鯛の白山蒸し」「ずわい蟹宝楽焼」など海幸が豊かだ。ズワイガニの甲羅に熱燗を入れて「甲羅酒」としゃれ込んだ。

  食を豊かにするのは味付けや食材の多さだけではない。「もてなし」という情感のこもった気づかいや応対が伴ってこそ、膳に並ぶ食も輝きを増す。もてなしは英語でホスピタリティといい、最近では学問として研究されてもいる。ところで、このもてなしの原点ともいえる農耕儀礼が能登半島に伝承されており、先ごろ、文化庁はユネスコ(国連教育科学文化機関)が無形文化遺産保護条約に基づき作成するリスト(09年9月)の登録候補の一つとして申請した。「あえのこと」である。「あえ」は饗応(ご馳走をしてもてなすこと)を意味する。

  あえのことで、もてなす相手は「田の神」である。神社で執り行うのではなく、それぞれの農家が毎年12月5日と2月9日に行う。この日、羽織袴の主(あるじ)は襟をただして田の神をお迎えし、そしてお見送りする。ここで読者のみなさんは「田舎の農耕儀礼をなんでわざわざユネスコの無形文化遺産に」と思うかもしれない。でも、ここからが見所なのである。実は田の神は稲穂で目を傷め不自由であるとの設定になっている。まず、田に出迎えに行き、その家に田の神を招き入れる。敷居が少々高ければ、「お気をつけください、敷居が高くなっておりますので・・・」と、田の神が転ばぬように配慮しながら案内して進む。

  家の中ではまず座敷に上がって一服していただく。お風呂に入ってもらい、ご馳走を召し上がっていただくという手順になる。食前に甘酒、煮しめ、ブリの刺身、酢の物など能登の山海の幸が並ぶ。料理は二の膳、三の膳の献立をすべて口頭で判りやすく、そしてどの料理がどの位置にあるかきちんと説明する。主は自ら目が不自由だと仮定して、イマジネーションを働かせながら田の神をもてなすのである。ここが形式化した儀礼とは決定的に違うところなのだ。相手の身になって、自らの感性でもてなす。傍から見ればジェスチャーだ。言葉や所作に手を抜けば単なる田舎芝居に見える。が、磨きがかかったもてなしを演じ切れば名優のごとく、どこに出しても恥ずかしくない。見ていてすがすがしい。

  稲作や農業に感謝の気持ちが薄れつつある昨今、あえのことの後継者も減り、伝承農家は十指に足りぬほどになった。しかし、千年も続いているといわれるあえのことの精神・文化は風土としてこの地に染み渡っている。「能登はやさしや土までも」。能登を訪れ人々と語らうと、食も心も和むのだ。

⇒27日(土)午前・加賀市の天気  あめ 

★竹で復元、内灘砂丘

★竹で復元、内灘砂丘

 整備された竹林にはすがすがしさを感じる。日本人のメンタリティに合う。しかし、薮(やぶ)と化した竹林は手の施しようがない。はやり切るしかない。今回は竹を利用した取り組みを紹介する。

  金沢大学地域連携推進センターが主催する「金沢大学タウン・ミーティング in 内灘」が12月20日、内灘町役場で開催された。金沢大学はタウン・ミーティングを平成14年度からこれまで石川県内7地区(輪島市、加賀市、鶴来町、珠洲市、能登町、羽咋市、穴水町)で開催しており、今回で8回目.。地域からの話題提供の中で、内灘町のボランティア団体「クリーンビーチ内灘作戦」代表の野村輝久さんが「内灘砂丘を蘇らせる」と題して、角間の里山から切り出したモウソウチクを利用した砂丘の復元運動を紹介した。

  内灘海岸は砂が盛り上がった砂丘で有名だが、最近は平らな砂浜になりつつある。そこで砂丘を復元しようと野村さんたちが取り組んでいるのが里山でやっかい者となった竹の利用だ。ことし2月、内灘のボランティアの人たちが100本ほど竹を切り出した。150センチほどに切りそろえ、さらに竹を割って、砂丘地に垣根をつくった。砂丘地につくる竹垣のことを地元では静砂垣(せいさがき)と呼ぶ。

  当初の予定では、砂はゆっくりと3年ほどかけてたまっていくだろうと予想していたが、今年設置した静砂垣はかなり埋まり、一部ではすでに砂丘ができ、美しい風紋が描かれていた=写真=。3年間で1キロメートルの静砂垣を作るこの計画。角間の里山自然学校だけでなく石川工業高等専門学校やいしかわフォレストサポーター会、河北森林(もり)づくりの会などとも協力体制がスタートしており、活動の輪がどんどん拡がっている。さらにクリーンビーチ内灘作戦の皆さんは伐採しても竹垣に使えない部分をチップ化し、河北潟の水質浄化や肥料としての利用も考えているようだ。

  写真家でもある野村さんは「風紋のある砂丘の景観こそ内灘のシンポル。復元活動を続けて生きたい」と話をしめくくった。

 ⇒25日(木)朝・金沢の天気   あめ  

☆「それでも地球は動く」

☆「それでも地球は動く」

 イタリアのフィレンツェはユネスコの世界遺産に登録されている歴史の都である。「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が庇護した街でもある。このフィレンツェの精神的な拠りどころがサンタ・クローチェ教会。何しろ、この教会の聖堂には「近代科学者の父」と呼ばれるガレリオ・ガリレイや彫刻家のミケランジェロ、政治理論家のマキアヴェッリなど世界史に燦(さん)然と名を残す偉人たちの墓がある。写真は2006年1月にサンタ・クローチェ教会を訪れたときに撮影したガレリオ・ガリレイの墓である。この偉人の棺の上には望遠鏡を持ち、空を仰ぐ大理石の胸像が配置されている。カトリック教会から異端者として審問にかけられ、自説を取り消さなかったため、軟禁され8年後にこの世を去った(1642年)。裁判の後、ガリレオはつぶやいたという。「それでも地球は動く」

 けさ(23日)の新聞でローマ法王ベネディクト16世がガレリオの地動説を公式に認めたとの記事が掲載されていた。記事を一瞥しただけでは、これまでローマ法王庁は地動説を認めてこなかったのかと勘違いするが、そうではない。1992年に前の法王ヨハネ・パウロ2世が、1633年に有罪とした宗教裁判の非を認め謝罪している。では、なぜベネディクト16世が地動説を認めたことがニュースになったのか。ことし1月17日、ベネディクト16世はイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学で記念講演を予定していたが、90年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言していたことを問題視する学生が大学を占拠するという騒ぎがあり、講演は中止になった。それ以降、べネディクト16世がいつ地動説を認めるのかということにメディアが注目していたというわけだ。

 記事によると、ベネディクト16世は21日、ローマ法王庁で信者らを前に、ガレリオについて「彼の研究は(キリスト教の)信仰に反していなかった」「ガレリオは神の業と自然の法則をわれわれに教えてくれた」と述べた。ベネディクト16世が地動説を公式に認めたのはこれが初めてという。

 話はガレリオ裁判に戻る。1633年の裁判は2度目だった。容疑は1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って「天文対話」を発刊したというものだった。判決は終身刑、その後、軟禁に減刑されたが、死後も名誉は回復されずにカトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者であったトスカーナ大公が、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、トスカーナ大公の願いがかなったのはガレリオの死後95年たった1737年のこと。埋葬は冒頭で紹介したサンタ・クローチェ教会の聖堂で行われた。

 以前の自在コラムで「科学には『常識』がない」との尾関章氏(朝日新聞論説副主幹)の言葉を引用させてもらった。時代の支配者が常識をつくる。科学はその常識を打ち破る。「それでも地球は動く」と自説を曲げない不屈の精神が時代を変えていく。一つの記事からそんなことを考えた。

⇒23日(祝)午前・金沢の天気  くもり

★ナメクジと危機管理

★ナメクジと危機管理

 どれほどインフラ整備を施してもフイを突かれ、パニックを起こすことがある。我が家で起きた話だが、どの家で起こりうることなのでブログに記す。昨夜(16日)、午後8時半ごろ帰宅すると我が家だけが真っ暗な状態だった。この時点でいろいろなことを想像してしまう。家人が一人もいないということは、事前の連絡がない限りあり得ない。「何か変だ」と緊張が走る。玄関ドアの鍵を開けて、そっと入る。

 想像したのは強盗が入るなどの最悪の事態。すると奥の方で懐中電灯の明かりが揺れている。「やっぱり」と思い。大声で「誰かいるのか」と凄んだ。すると奥から家内の声、「停電なの」。力が抜ける。

 数分前から停電になったという。配線用遮断器を調べると、漏電ブレーカーが落ちていた(「OFF」状態)。ブレーカーをオンにしても、カチッとならずにすぐ下に戻ってしまう。そこで、我が家の電気工事を担当した会社に電話した。勤務外時間だったが運よく電話がつながった。事情を話すと、「それでは配線用遮断器にある各室用の子ブレーカーをすべてオフにしてください。それしてから漏電ブレーカーを再度オンにして、子ブレーカーを一つ一つオンにしてみてください」という。その通りに子ブレ-カーをすべてオフにして、漏電ブレーカーを上げて、子ブレーカーをオンにしていく。すると、浴室用の子ブレーカーをオンすると漏電ブレーカーが落ちることが分かった。再度、会社に電話し状況を説明すると、「それは浴室周りの漏電ですね」といい、即来てくれた。

 浴室周りの外壁の外灯、ガス給湯機といろいろと調べ、会社の人が「あやしい」とにらんだのが、外付けのガス給湯機と直結している屋外防水コンセントだった。コンセントから電線を抜いて、配線用遮断器を絶縁抵抗器で検査をすると正常値が出て、やはりここだと分かった。同じ型の屋外防水コンセントを会社の持参してくれていたので付け替えてもらった。

 で、その原因は何か。コンセントを開いてよく見ると、長さ3ミリくらいの黒いナメクジがコンセントの中に入っていた。「ナメクジがコンセントに入ってきて電極に挟まってショートを起こすことはたまにありますよ。ナメクジは水と同じですから」と会社の人は苦笑した。外壁を伝ってコンセントの差し込み口のわずかな隙間から侵入したらしい。ナメクジは感電して死んでいた。ナメクジを指先で触ると確かに水っぽい。

 住宅を新築する際、それなりに危機管理を意識して住宅メーカーには「震度8に耐える耐震設計」「積雪3メートルの雪の重み耐える屋根設計」「耐火外壁」をお願いした。ところが、ナメクジ一匹で停電パニックが起きるとは・・・。
 ※写真は屋外防水コンセントの漏電の原因となったナメクジ(真ん中の黒)

⇒17日(水)朝・金沢の天気    はれ
 

☆「パラダイス鎖国」

☆「パラダイス鎖国」

 「パラダイス鎖国」という言葉を初めて聞いた。10月10日夜、能登空港4F講義室で開かれた金沢大学「地域づくり支援講座」で、ゲストスピーカーの金子洋三氏(元JICA青年海外協力隊事務局長、社団法人「青年海外協力協会」会長)が使った言葉だ。「青年海外協力隊のボランティアに応募する若者が減っている。パラダイス鎖国という言葉がありますが、日本に安住して、外に向かって何か挑戦しようという意識が薄れているのかもしれない」と述べた。

  もともとは、ことし3月に出版された「パラダイス鎖国  忘れられた大国・日本」 (海部美知、アスキー新書)のタイトルから引用された言葉だ。ことし1月のダボス会議で、「Japan: A Forgotten Power?(日本は忘れられた大国なのか)」というセッションが開かれ、国際的に日本の内向き志向が論議になったという。高度経済成長から貿易摩擦の時代を経て、日本はいつの間にか、世界から見て存在感のない国になってしまっている。その背景には、安全や便利さ、そしてモノの豊かさ日本は欧米以上になり、外国へのあこがれも昔ほど持たなくなったことがある。明治以来の欧米に追いつけ追い越せのコンプレックスは抜け切ったともいえる。ハングリー精神とかチャレンジ精神という言葉は死語になりつつあり、リスクを取らないことが美徳であるかのような社会の風潮だ。これでは人は育たず、社会も会社も停滞する。

  古代ローマ帝国が滅亡もしたのもこうした社会の活気が減退したのが原因といわれていいる。ローマ市民や、ローマに奉仕した属州民の特権であったローマ市民権を属州のすべての人々に無条件に与えたことで、ローマ市民権の価値が下落して、地中海最強とうたわれたローマの重装歩兵のアイデンティティ(自負心に根ざしたローマ防衛の意志)も拡散してしまった。また、ローマ市民としての歴史性と自尊心を持つ兵士の数が減少したことにより、ローマ軍の質的な低下を招いた。さらに、ローマ市民内部に固定的な経済階層が生まれたことで、経済の活力や市民の上昇志向は衰退したといわれる。

  パラダイス鎖国が産業面で蔓延したらどうなるのか。ブロードバンドのインフラで世界に先行しているにもかかわらず、ITの新興勢力となる企業はどこにいるのか見えない。高品質、高性能、先進的というジャパン・ブランドは確かに健在であるものの、売れているのは日本だけで、海外では押されているのではないか。ソーラー発電のパネルなどかついてはお家芸といわわれた分野がいまではワン・オブ・ゼムではないのか。このままでは日本はいずれパラダイスですらなくなる。※写真は古代ローマ帝国のコロセウム

 ⇒12日(日)夜・金沢の天気    くもり

★能登の旋風(かぜ)-7-

★能登の旋風(かぜ)-7-

 2005年4月にスタートした「自在コラム」はきょうで500回を数える。簡単な統計を算出してみる。月換算(42ヵ月)で平均11.9回を掲載。ざっと3日に1回という計算。スタート当初は毎日書いていたが、ここ1年はサボリが多くなっている。アクセス数は昨日(29日)は98、ページビューは385だった。42ヵ月の平均値はデータがないので出せないが、毎日平均アクセスはざっと80ほどか。意外な人から突然に「先日のコラムで書かれていた○○さんの話の中で…」と質問され面食らうこともある。いろいろな方に読んでいただいている、というのが実感だ。

         次なるステップへ

  さて、シリーズ「能登の旋風(かぜ)」は里山里海国際交流フォーラム「能登エコ・スタジアム2008」のイベントで拾った話題を紹介している。9月13日から17日にかけての「能登エコ・スタジアム2008」は3つのフォーラム、6つのプログラム、1つのツアーから構成されていたが、17日にシニアコース(シニア短期留学)の修了式をもって、すべてのメニューを完了した。また、同日は生物多様性条約のムハマド・ジョグラフ事務局長の能登視察も終了した。一連のイベントメニューの中でのVIP視察だった。

  今回のイベントは、キックオフシンポ(13日)であいさつに立った中村信一金沢大学学長も谷本正憲石川県知事も強調したように、2010年の国際生物多様性年に向けての予行演習の意味合いもあった。ひとまずはホップ、ステップ、ジャンプのホップを踏んだわけだが、もう次なるステップへ向けて動き出している。2009年の能登エコ・スタジアムの持ち方、それを2010年の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の関連イベント「金沢セッション」「能登エクスカーション」に結びつけるかについての方向性だ。無から有を生じさせる、前例なき模索でもある。

  今回のイベントで印象に残った2枚の写真。持続可能なこと、それは地下に封じ込められた化石燃料を掘り出して、燃焼させ、二酸化炭素を排出することではない。二酸化炭素を吸収し、光合成によって成長した植物をエネルギー化すること。里の生えるススキ、カヤ類を燃料化する試みが始まっている。それらをペレット化して燃料、あるいは家畜の飼料にする。奥能登では戦後、1800haもの畑地造成が行われたが、そのうち1000haが耕作放棄されススキ、カヤが生い茂っている。それをなんとかしたいとの発想でバイオマス研究から実用化の段階に向けて試行が続いている。能登エコ・スタジアムのコース「バイオエコツーリズム」ではその試みに興味を持った若者たちが大勢集まってきた。そして実際にススキを刈り取り、ペレット化を体験したのである。上の写真はその刈り入れの様子だ。地域エネルギーの可能性を感じさせる光景に見えた。

  もう一枚は生物多様性条約事務局長のアハメド・ジョグラフ氏。COP10の能登エクスカーションの視察で輪島市金蔵地区を訪れた=写真・下=。里山に広がる棚田、そして律儀に働く人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と痛く感動したのだった。精神論ではなく、この里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿にジョグラフ氏は感動したのだ。このジョグラフ氏の感動をそのまま2010年の国際生物多様性年への取り組みとして具体化させることになる。

 ⇒30日(火)夜・金沢の天気    くもり

☆能登の旋風(かぜ)-6-

☆能登の旋風(かぜ)-6-

 能登エコ・スタジアム2008のシニアコース(シニア短期留学)の期間中、父親が奥能登・門前(現・輪島市門前町)の出身という東京の女性Mさんと、横浜市鶴見区にある総持寺と縁があるという横浜の女性Nさんをお誘いして門前地区を訪れたという話を前回述べた。実は自分自身にもある目的があった。能登半島地震(07年3月25日)で被災した、ある家はいまどうなっているのか確認したかった。

        「震災とメディア」を考えた現場に再び

  能登半島地震の発生翌日、被害がもっとも大きいとされた門前地区に入った。住民のうち65歳以上が47%を占める。金沢大学の地域連携コーディネーターとして、学生によるボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいかを調査するのが当初の目的だった。そこで見たある光景をきっかけに、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真・上=。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問があったからだ。  当時、カメラマンたちが狙っていた半壊の家はいまどうなっているのか確認したかった。その家はカメラマンたちが期待したようにはならなかった。つまり、余震での倒壊は免れた。しかし、住めるような状態ではなかったので、そのままになっているのか、取り壊して更地なっているのか、再建されているのか…。何かの折に再び訪ねてみたいと思っていた。

  MさんとNさんをお誘いして門前入りした9月16日午前、車を降りて、問題のシーンと遭遇した場所に再び立ってみた。その民家は再建途中だった=写真・下=。まもなく完成するだろう。おそらくこの家の家族はまだ避難所生活と想像するが、まもなく新居での生活が始まるだろう。そう考えると、正直にうれしかった。震災から1年6ヵ月余り。それにしても、被災者とメディア側の溝は深い。メディア側で被災者の目線というものを体験しなければこの溝は埋まらない。そこで、「震災とメディア」の調査報告書には下記の一文をつけた。

  -そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で、現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。-「金沢大学能登半島地震学術調査部会平成19年度報告書」より

 ⇒28日(日)夜・金沢の天気   はれ

★能登の旋風(かぜ)-5-

★能登の旋風(かぜ)-5-

 能登エコ・スタジアム2008のシニアコース(シニア短期留学)の受講生11人の中に父親が奥能登・門前(現・輪島市門前町)の出身という東京の女性Mさんと、横浜市鶴見区にある総持寺と縁があるという横浜の女性Nさんがいた。総持寺はもともと門前にあったが、明治の大火で本山を鶴見に移した。焼けた寺はその後再建され、祖院となった。9月16日午前のプログラム自由時間を利用して、MさんとNさんを誘って門前地区を訪ねた。

      ルーツ探しの旅

  門前地区は昨年3月25日の能登半島地震で震度6強の強い揺れに見舞われ、全壊家屋もここに集中した。総持寺の手前にある興禅寺を訪れた。震災で寺は山門と地蔵を残し崩落した。再建は始まったばかりで、基礎のコンクリート部分が出来上がった状態だった。山門の下には「再生」と書かれた賽銭(さいせん)箱が置かれてあった。再建協力を呼びかける札を読むと、「仏弟子の初心に還りたいと思います。どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと思います」と書かれてあった。65歳以上の高齢者が47%も占める過疎と高齢の街。ここで寺を再建するというのは相当な覚悟だろう。「どこまでやれるかわかりませんが、やってみようと…」の文言に住職の苦悩の決意がにじむ。

  次に訪れた総持寺もまた被災し再興途中だった。僧堂の再建工事は屋根の部分まで進んでいた。MさんとNさんはここで「瓦寄進」をした。瓦に祈願の文字を書き、お布施をする。亡き父親が当地出身というMさんは「先祖供養」と書いていた。鶴見の総持寺と縁があるNさんは「一家繁栄」を祈願した。Nさんはさらに総持寺と縁を感じることになる。僧堂の建築現場に近づいてみると、長男が勤める建築事務所(東京都)がこの僧堂の設計・管理に携わっていたのだ。「大変名誉な仕事をさせてもらっている。親として素直にうれしい」と目を輝かせた。

  さらにここからルーツを訪ねる旅が始まる。Mさんの父親の生家を訪ねることにした。Mさん本人も幼い頃に何度か訪れたことがある。ただ、Mさんの記憶は「剣地南(つるぎじみなみ)」という地名と「川のそばの家」という2点。先祖はここで造り酒屋を営んでいた。屋号を「黒兵衛(くろべえ)」といい、「真善美」という銘柄の酒をつくっていた。ところが父親が事業に失敗して東京に行く。Mさんは東京で生まれた。現在は輪島市門前町剣地となっている住所にMさんの父親の生家跡を探したが、かつての「黒兵衛」という屋号の酒屋を記憶する人はいない。あきらめて帰る車の中で、Mさんは「弁護士だった息子が能登の父の実家をいっしょに訪ねてみようと話していたんですが、その息子は45歳のとき腫瘍を患って他界しました。それから12年経ちます…」と語り始めた。約束を果たさぬまま先立った息子への思いも募ったのか、Mさんの顔は曇りがちだった。

  そのときだった。「剣地」で探すのではなく、「南」で探してどうかとひらめくものがあった。車を降りて、土地の人に「近くに南という在所はありますか」と尋ねた。すると、「それなら阿岸川の山手にあるよ」と教えてくれた。ここで「川」と「剣地南」がつながった。川沿いに車を走らせると、北陸鉄道バスの「南」バス停があった。ここでMさんと車を降り、道で出会ったお年寄りに「ここにかつて造り酒屋がありませんでしたか」と尋ねた。すると古老は「『くろべえ』だろう。向うの一角がそうだったよ。いまは当時の蔵しか残っていないが…」と杖を上げて指し示してくれたのだ。Mさんはすかさず「私は黒兵衛の娘です」とお礼を言うと、古老は驚いた様子だった。

  Mさんの父親の実家は戦前に人手に渡り、いま当時のよすがをしのばせるものは酒蔵の一部を改造した民家だけだ。それでもMさんは周囲を眺め、しばらくたたずんでいた。Mさんはいま84歳、およそ80年ぶりに訪ねた父親の生家、祖先の地だった。

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