⇒トピック往来

☆再訪・琉球考-下-

☆再訪・琉球考-下-

那覇市の国際通りで、昼食を取るためレストランに入った。首里城正殿をイジージした構えの店で1階が土産品、2階がレストランになっている。メニューでお勧めとして大きく写真入りで出ていたタコライスを注文した。タコライスは、もともとメシキコ料理だが、アメリカ版タコスの具(挽肉、チーズ、レタス、トマト)を米飯の上に載せた沖縄料理と説明書きがあった。辛みをつけたサルサ(ソース)を乗せて食べる。このタコライスのメニューは名護市のドライブインにもあった。アメリカの影響を受け、沖縄流にアレンジした料理として定着しているようだ。

         琉球=沖縄の気分

  戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。

  2007年11月に完成した沖縄県立博物館・美術館を訪れた。美術館を見れば、その土地の文化が理解できる。琉球=沖縄は日本の最南ではあるものの、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。その一端が美術館コレクションギャラリー「ベトナム現代絵画展~漆絵の可能性~」から伝わってきた。パンフレットに開催趣旨が記されている。「中国の影響を受けながら自らの文化を築いてきたベトナムは、同様の背景を持つ沖縄と共通するものが多く見られ、私たちにとって最も身近な国のひとつです。しかしながら、多くの米軍基地を抱える沖縄は、ベトナム戦争では米軍の後方支援基地となる時期もありました。その不幸な歴史を乗り越え・・・」。ベトナム戦争における「米軍の後方支援基地」は沖縄の人々の責任ではない。それでも、あえて文言に入れて、ベトナムと沖縄の友好関係を求める。パンフとはいえ、これをそのまま政府間文書にしてもよいくらいに外交感覚にあふれる。そしてベトナムの暮らしぶりを描いた数々の漆絵の中に、さりげなくホー・チミンが読書をする姿を描いた作品(1982年制作)を1点入れているところは、すこぶる政治的でもある。

  沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。

 那覇市内をドライブすると、道路沿いに、青地に「琉球独立」と書かれた何本もの旗が目についた。ホテルに帰ってインターネットで調べると、旗の主は2006年の県知事選、2008年の県議選にそれぞれぞ立候補して惨敗している男性だった。供託金も没収されるほどの負け方で、「琉球独立」は沖縄の民意とほど遠い。ただ、道州制論議が注目される日本にあって、「独立」を政治スローガンに掲げる候補者がいるのも、また沖縄=琉球の気分ではある。

※写真・上は、沖縄県立博物館・美術館の中庭。日差しの陰影もアートに組み込んでいる。
※写真・下は、国際通りのレストランで見かけた絵画。糸満の漁師を描いていて、眼光が鋭い。

 ⇒10日(日)午後・金沢の転機  はれ

★再訪・琉球考-中-

★再訪・琉球考-中-

 宿泊した那覇市のホテルのレストランに入った。店の入り口には朱塗りの酒器がディスプレイとなっていて、屋号も「泉亭」とあったので、てっきり和食の店かと思っていた。ところが、メニューは「日本・琉球・中国料理」だった。和食をと思っていたのだが、せっかく沖縄にやってきたので琉球料理も食べたい、どうしようかと迷って、「琉球会席」というコースがあるのが目にとまり注文した。飲み物は30度の泡盛のロックにした。

          チャンプル・イノベーション

  ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。

  「日本・琉球・中国料理」の文字をメニューで見れば、専門性がない、何でもありの食堂をイメージしてしまうかもしれない。ここからは推論だ。北陸や東京の感覚では、沖縄は日本の最南である。ところが、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。沖縄にはチャンプル料理がある。野菜や豆腐に限らず、様々な材料を一緒にして炒める料理で、ゴーヤーチャンプル、ソーミンチャンプルなどは北陸でもスーパーの惣菜売り場に並ぶようになった。チャンプルは沖縄の方言で「混ぜこぜ」の意味。このチャンプ料理をもじって、沖縄の文化のことを、東南アジアや日本、中国、アメリカの風物や歴史文化が入り交じった「チャンプル文化」とも。

  6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。

  那覇市の目抜き通り「国際通り」=写真・上=でこのイノベーションの息吹を感じた。かつては雑貨的な土産品が軒を連ねていたが、今回は沖縄オリジルの主張が目立った。沖縄の特産野菜「紅イモ」を使った「紅いもタルト」が人気の土産商品。伝統の沖縄菓子「ちんすこ」を使った「ちんすこショコラ」の店=写真・下=も。キューピー人形が沖縄の衣装をまとって「沖縄限定コスチューム・キューピー」に。なんとこれが1700種類もある。ゴールデンウイークの人混み、そして南国の日差しは強く、すっかり沖縄の熱気に当てられた。

 ⇒9日(土)朝・金沢の天気  はれ  

☆再訪・琉球考-上-

☆再訪・琉球考-上-

 北陸に住んでいて、沖縄・那覇市の弁柄(べんがら)の首里城はとても異国情緒にあふれる、と6年前に初めて訪れたときに感じた。再度、このゴールデン・ウイークに沖縄を訪れ、別の感想を抱いた。「これは巨大な漆器なのだ」と。

        「巨大な漆器」首里城

  パンフレットなどによると、戦前の首里城は正殿などが国宝だった。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて、司令部を置いたこともあり、1945年(昭和20年)、アメリカの軍艦から砲撃された。さらに戦後に大学施設の建設が進み、当時をしのぶ城壁や建物の基礎がわずかに残った。大学の移転とともに1980年代から復元工事が進み、1989年には正殿が復元された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

  首里城の正殿=写真・上=に向かうと、入り口の二本の柱「金龍五色之雲」が目に飛び込んでくる。四本足の竜が金箔で描かれ、これが東アジアの王朝のロマンをかきたてる。全体の弁柄はこの二本の柱の文様を強調するために塗られたのではないかと想像してしまう。さらに内部の塗装や色彩も中国建築の影響を随分と受けているのであろう、鮮やかな朱塗りである。国王の御座所の上の額木(がくぎ)には泳ぐ竜=写真・下=が彫刻され金色に耀いている。

  2階の柱には唐草文様が描かれ、どこまでも続く。パンフレットでこれが沈金(ちんきん)だと知って驚いた。石川県能登半島には輪島塗がある。輪島塗の2つの特徴は、椀の縁に布を被せて漆を塗ることで強度が増す「布着せ」と沈金による加飾。沈金は、塗った器に文様を線掘りして、金粉や金箔を埋めていく。この2つは輪島塗のオリジナルだと思っていたが、琉球漆器でも16世紀ごろから用いられた技法だったことは発見だった。

  那覇市内で漆器店のよく看板を見かける。「漆器・仏具」とセットになっていて、器物と並んで、仏壇や位牌、仏具などが陳列されている。祖先崇拝が伝統的に強い風土に根ざした地場産業だ。ということは、漆塗りの職人が今でもおそらく何百人という単位でいるのだろう。これらの漆工職人を動員して自前で首里城の塗りと加飾を施し、一つの巨大な作品に仕上げた。漆器王国、沖縄の実力ともいえる。

 その首里城を遠望すると、朱塗りの椀に金箔の加飾が施されたようにも見える。ゴールデンウイークだったせいもあり、首里城には多くの観光客が押し寄せ、まるで、人々を受け入れる巨大な器のようだった。冒頭の感想の説明が長くなってしまった。

⇒8日(金)夜・金沢の天気 くもり

☆名残り雪

☆名残り雪

 徐々に暖かくはなるものの、寒の戻りがある。それを繰り返しながら本格的な春になる。北陸に住んでいると、「三寒四温」と「名残り雪」は春を迎える儀式のようでもある。きょう26日朝、名残り雪が降った=写真=。

  自家用車のスノータイヤをノーマルタイヤに履き替えたので、滑らないかとヤキモキした。が、強い降りではなく、30分ほどしたら青空が見えてきたので一気に雪は消えた。ふと庭を見ると、梅の花が咲いていたので、名残り雪とピンクの梅の花の組み合わせは妙に風情があるものだと感じ入った。

  金沢大学で同僚の研究員は別の春の感じ方をしている。春特有の香りが漂っているという。この香りをかぐと、そわそわした落ち着かない気分になるそうだ。それはヒサカキの小さな花の香り。里山を知る人にとって、春の訪れを感じさせる香りという。日当たりのよい場所の株には、その枝に下向きの白い小さな花がびっしりと咲いている様子を見ることが出来きる。ヒサカキは花のつけ方がおもしろく、雄花だけをつけるオス株、雌花をつけるメス株、雄花と両性の花をつける両性株の3つがあることが報告されている。ネットで調べると、伐採や山火事などのストレスで性転換することが知られているとのこと。

  ヒサカキは地域によって「ビシャ」とか「ビシャギ」「ビシャコ」「ヘンダラ」など別名で呼ばれる。「樹木大図説」(上原敬二著)には、60近くの異名が記載されている。神聖な木として取り扱われ、神様や仏様に供えられることもあるヒサカキだが、この異名の多さは身近な里山の木として、いかに人に親しまれてきたかを物語っているのではないか、という。

  名残り雪からヒサカキまでなかなか話は尽きない。すると、別の研究員が入ってきて、話を交ぜ返した。日本の花屋で売られているサカキの8割は中国産だそうだ。神聖な木を外国に委ねるなんて、と憤る。外国を責めているわけではない。里山にふんだんに自生しているのに、それを採取し、市場に出荷しないのは日本人の怠慢ではないのかというのだ。つまり、人々は里山に入らなくなった。経済価値としての里山に魅力を感じる人が少なくなった、ということか。それならば、逆転の発想でビジネスチャンスがあるのはと思ったりもする。

 ⇒26日(木)朝・金沢の天気 ゆき

★トキは佐渡海峡を超え

★トキは佐渡海峡を超え

 去年9月25日、人口繁殖のトキ10羽が佐渡で放鳥された。その後、1羽は死んだが3羽が40㌔もある佐渡海峡を越えて本州に飛来したというニュースがあった。専門家の推測では、トキが飛ぶのはワイフライトでせいぜい30㌔だと推測されていたので、佐渡が大きなトキの鳥かごになり、佐渡からは出られないだろうと言われていた。それがやすやすと佐渡海峡を越えた。

 それまで大切に「箱入り娘」のように大切に育てられたあのトキが野生に目覚めて、本州に飛んだのである。最初の1羽は、飛来が新潟県胎内市で確認されたので、もし佐渡の放鳥場所からダイレクトに飛んだとすれば、胎内市まで60キロとなる。このニュースに胸を躍らせているのは能登に人たち。佐渡の南端から能登半島まで70キロなので、ひょっとして能登半島に飛んでくるかもしれないと期待している。それは見当外れでもない。放鳥されたトキは、背中にソーラーバッテリー付き衛星利用測位システム(GPS)機能の発信機を担いでいて、3日に一度位置情報を知らせてくる。データによると、トキは群れていない。放鳥された場所から西へ行っているトキ、東へ行っているトキ、北へ行っているトキとバラバラだ。中でも、2歳のオスは佐渡の南端方面でたむろしている。これが北から南に向かう風にうまく乗っかると、ひょっとして能登に飛来してくるかもしれないというのだ。

 能登半島は本州最後のトキの生息地である。1970年に捕獲され、繁殖のため佐渡のトキ保護センターに移送されたが、翌年死んでしまう。昭和32年(1957)、輪島市三井町の小学校の校長だった岩田秀男さん(故人)は当時、カラーのカメラをわざわざドイツから取り寄せて、能登のトキの撮影に成功した=写真=。白黒写真が普通だった時代に、「トキの写真はカラーで残さなければ意味がない」とこだわった。今では能登のトキを撮影した貴重なカラー写真となった。

 昭和の初めに佐渡で死んだ野生トキの胃の内容物の写真がある。見てみると、トキはどんなものもを食べていたのか分かる。食物連鎖の頂点にトキはサンショウウオ、ドジョウ、サワガニ、ゲンゴロウ、カエルなど多様な水生生物を食べている。ここから逆に類推して、トキが能登で生息するためには、田んぼなどの農村環境にこれだけの生物が住めるような環境にしなければならないということだ。金沢大学里山プロジェクトが進めている生物多様性のテーマがここにある。これまで、金沢大学、新潟大学、総合地球環境学研究所の研究者が一昨年前(07年)の10月に踏査を行ったほか、トキの生息の可能性はどこにあるのか、里山プロジェクトでは調査を続けている。

 トキ1羽が能登で羽ばたけば、いろいろな波及効果があると考えられる。環境に優しい農業、あるいは生物多様性、食の安全性、農産物への付加価値をつけることができる。トキが能登で舞うことにより、新たなツーリズムも生まれる。そうした能登半島にビジネスチャンスや夢を抱いて、あるいは環境配慮の農業をやりたいと志を抱いて若者がやってくる、そんな能登半島のビジョンが描けたらと思う。

⇒23日(月)朝・金沢の天気  はれ

☆先端はフロンティア

☆先端はフロンティア

 春の嵐のように北陸地方は荒れ模様だ。きょうは思いつくままに書く。金沢大学里山プロジェクトの代表研究者、中村浩二教授は常日頃、「大学らしからぬことをやろう」と周囲に話している。中村教授が先頭に立って、2006年10月に三井物産環境基金を得て、能登半島の最先端に「能登半島 里山里海自然学校」を開設した。これまでの、あるいは今でも、大学の在り方は、学問や勉強をしたい人は大学の門をたたけば入れてあげるというスタンスだ。中村教授の「大学らしからぬこと」は、能登へ出掛けようと言い切って実行したこと。この点がこれまでの大学の流儀と全然違うところだ。

 石川県珠洲市で廃校になっていた「小泊小学校」という学校施設を借りして、研究と交流の拠点をつくった。このとき、地域の人からこんなことを言われた。輪島の人は「奥能登の中心と言ったら輪島やぞ。なんで輪島につくらんがいね」と。そして、珠洲の人は「珠洲の中心は飯田やがいね。なんで辺ぴな小泊みたいなところにつくるのや。なんで飯田につくらんがいね」と。中村教授を始めとして我われは天邪鬼(アマノジェク)でもあり、なるべく過疎地へ行って拠点を構える。そうすることによって、新たな何か発見があると考えたのだ。買い物や人集めに便利だとか考えて中心に拠点を構えて何かをやろうとするのはビジネスの世界だ。研究の世界ではそうはいかない。まず、人気(ひとけ)のいない過疎地で研究拠点を構え、そこでじわじわと地域活性化の糸口をつかんでいく、あるいは大学の研究のネタを探していく。足のつま先を揉み解すと血行がよくなり体の全体がポカポカしてくるのと同じだ。

 いま、能登半島の先端の珠洲市は風力発電やマグロの蓄養など環境を生かした産業づくりに頑張っている。すると、周辺の自治体も負けてはいられないと、木質バイオマスや里海を生かした施策に乗り出してきている。先端が中心を刺激するというスパイラルが我々が理想としていたことだ。

 さらに、先端は研究のフロンティアでもある。珠洲の人が「辺ぴなところ」と呼んだ片田舎の小学校だが、もしこれがテナントビルだったら「満室御礼」だ。1階に「能登半島 里山里海自然学校」。ここでは生物多様性の研究をしている。2階は科学技術振興調整費による「能登里山マイスター」養成プログラム。これは環境人材の養成、いわば社会人教育の拠点。ここで35人の人材を育成している。来月から3期生20人余りが新たに受講にやってくる。5年間で60人を養成する予定。さらに3階には「大気観測・能登スーパーサイト」(三井物産環境基金の支援)が入り、黄砂の研究をしている。

 先端に拠点を構えたから、研究のフロンティアとしての価値が見出され、続々と研究者が集まってくるようになった。「大学らしかぬこと」とは研究のチャンスを冒険的に見出すことと考えると分かり易い。

※廃校だった小学校を研究交流拠点としてリユースし、校庭では黄砂採取の気球が上がる。

☆抜けた指輪の話

☆抜けた指輪の話

 来年2010年は国際生物多様性年である。この年の10月には、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋市を主会場に開催されるが、そのほかの地域でも環境と生態系を世界にアピールする好機ととらえ、COP10の関連会議を誘致する動きが起きている。石川県でも国際生物多様性年を盛り上げようと去年9月、金沢大学に事務局を設け、石川県、奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット、NPOなどが協働して、「能登エコ・スタジアム2008」を実施した。里山里海国際交流フォーラム(9月13日・金沢市)を手始めに3つのシンポジウム、5つのイベント、2つのツアーを実施し、4日間で延べ540人が参加した。異彩を放ったのは、この期間中に生物多様性条約事務局(カナダ・モントリオール)のアハメド・ジョグラフ事務局長が能登視察に訪れたことだった。
                         
 ジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、9月13日・14日)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏(同市西部小学校長)から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 ジョグラフ氏がまぶたに焼き付けた能登のSATOYAMAとSATOUMI。このツアーはCOP10の関連会議を石川に誘致する第一歩だった。では、どのようなプロセスを経て、ジョグラフ氏は能登を訪れたのだろうか。実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(オペレーティング・ユニット)である。その年の5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。あん所長は谷本知事の通訳という立場だったが、身を乗り出して「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。このとき、身振り手振りで話すあん所長の右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちたのだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。この後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。能登視察はその4ヵ月後に実現した。

 能登視察はジョグラフ氏にとって印象深かったのだろう。その後、生物多様性に関する国際会議で、「日本では、自然と共生する里山を守ることが、科学への崇拝で失われてしまった伝統を尊重する心、文化的、精神的な価値を守ることにつながっている。そのお手本が能登半島にある」と述べたそうだ。能登のファンになってくれたのかもしれない。

  ※この文は橋本確文堂が発行する季刊誌「自然人」(第20号/春)に寄稿したものを採録したものです。

☆ガレリオの墓

☆ガレリオの墓

 ことしは「天文学の父」ガレリオ・ガリレエ(1564~1642)の当たり年なのだろう。先月(12月)の新聞でローマ法王ベネディクト16世がガレリオの地動説を公式に認めたとの記事が掲載されていた。今度はガレリオが失明した原因を解明するため、埋葬地を掘り起こして遺体をDNA鑑定することになったと報じられた(23日付・朝日新聞シンターネット版)。ことしはガリレオが望遠鏡で天体観測を始めて400年にあたることから、調査が決まったという。以下、記事の要約。

 イタリアの有力紙「コリエレ・デラ・セラ」を引用した記事は、フィレンツェの光学研究所を中心に英ケンブリッジ大学の眼科の権威やDNAの研究者らが調査に参加する。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に埋葬されている遺体の組織の一部からDNAを採取するという。ガリレオは若い頃から遺伝性とみられる眼病に悩まされ、晩年に失明。地動説を唱えたことでローマ法王庁の宗教裁判で有罪となり、軟禁生活を送った。死後95年たってサンタ・クローチェ教会に埋葬されてた。

 一方で困惑の声も上がっているという。ガリレオ研究の第一人者でフィレンツェ天文台のフランコ・パッチーニ教授は朝日新聞の取材に「なぜ博物館にある指を鑑定せず遺体を掘り起こしてまで調べるのか。彼も不愉快だろう。そっとしておくべきだ」と語った。

 ガレリオの墓は06年1月に訪れた。サンタ・クローチェ教会にはガレリオのほか彫刻家のミケランジェロ、政治理論家のマキアヴェッリなど世界史に燦(さん)然と名を残す偉人たちの墓がある。このサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の正面壁画「聖十字架物語」の修復作業が金沢大学と国立フィレンツェ修復研究所、そして同教会の日伊共同プロジェクトとして進行している。金沢大学が国際貢献の一つとして位置づけるこのプロジェクトの進み具合を視察・報告するため、同教会を訪れた。

 修復現場はどうなっているのかというと、鉄パイプで組まれた足場は高さ26㍍、ざっと9階建てのビル並みの高さである。平面状に組んだ足場ではなく、立方体に組んであり、打ち合わせ用のオフィス空間や照明設備や電気配線、上下水道もある。下水施設は洗浄のため薬品を含んだ水を貯水場に保存するためだ。それに人と機材を運搬するエレベーターもある。つまり「何百年に一度の工事中」なのである。ガレリオの墓は教会大礼拝堂にある。墓を解体して、遺体を掘り起こすというのはおそらく相当の作業だろうが、教会とすると、修復作業の工事中であり、ガレリオの墓の掘り起こしもタイミング的には観光的なダメージはないと読んだのだろうか。記事を読みながら、そんなことをふと思った。

※写真は、サンタ・クローチェ教会大礼拝堂にあるガレリオ・ガリレエの墓

⇒23日(金)夜・金沢の天気  はれ

☆過疎地がホープ・ランドに

☆過疎地がホープ・ランドに

 「過疎の村を応援するミュージカルがある。地球温暖化や生物多様性もその内容」と聞いて、ミュージカルとしては骨っぽいと興味がわいて、先日(1月10日)、金沢市文化ホールに観劇に行ってきた。ざっと500人の入り。環境という地味なテーマの割には多いと思ったら、環境保全に取り組んでいる大手住宅メーカーがしっかりとスポンサーについていた。

 なかなかの深みのあるストーリーだった。公演は、劇団ふるさときゃらばん(東京都小金井市)による「ホープ・ランド(希望の大地)」=チラシ・写真=。地球温暖化で、海に沈んでしまった赤道直下の島・モルバルの人々が手づくりの船に乗ってニッポンにやってくる。酋長がニッポンの友人、実業家オカモトから、過疎というニッポン特有の病気で、見捨てられ、荒れはてた山里があると聞いたからだ。過疎という病はニッポン人しから罹らず、モルバル人には感染しないから大丈夫と、夢と希望を持ってやってくる。南国の底抜けに明るい人たちだ。

 ニッポンの山里ムジナモリに無事着いたモルバル人たち12人は荒れ果てた限界集落の様子にカルチャーショックを受けながらも、島での経験から緑を育む大地と水と太陽の光があれば人間は生きていけると信じている。一方、過疎の病に罹ったニッポン人たちは、山里では仕事(工場やオフィス)がないのでお金が稼げず生きていけないないと思い込んでいる。ムジナモリの村の長(おさ)トンザブロウ夫妻の指導でモルバル人たちは荒れた棚田や畑を耕してコメや大豆をつくり、山の下刈りをして山菜やキノコが出る豊かな里山をつくり上げていく。順風満帆のシーンだけではない。イノシシに棚田が荒らされ、深刻な状態に陥って、「イノシシとの戦争」を始める。さらに毒キノコにあたって踏んだり蹴ったりの場面も。この毒キノコのシーンでは、山仕事が大好きだが、モルバル人に先祖伝来の田畑を耕させることを良しとしない、頑固者のガンちゃんの悪巧みが明かされる。

 そんな緊張した物語がありながらも、実業家オカモトがイノシシの肉を販売するショップを提案したり、水車を利用した発電でテレビが見れるようになったり。そしてトンザブロウの息子シュンスケがモルバルの娘と恋仲になって、過疎の村ムジナモリは少しずつホープ・ランドになっていく。

 ミュージカルとはいえ、生物多様性に対する考えがしっかり入っている。オカモトの秘書マリコは都会育ちで、木の下刈りの場面では「緑は切らずにそのままにしておいた方がよいのでは」と釈然としない。それに役場の職員(合併して市職員)のコウジまでもが同調したので、トンザブロウはコウジの頭をコツンを叩いて、「おめえまで何いっている」としかるシーンがある。山は「弱肉強食の世界」で、放っておけば荒れて光が入らなくなり植物の多様性が失われる。イノシシやカモシカ、クマが里に降りてくるのもヤブと化した里山を動物の領域と勘違いして出没するのだ。うっそうとした山は若返りがきかないので二酸化炭素の吸収力も弱い。「豊かな山は人がつくっている」とトンザブロウは諭す。

 さらに、なぜイノシシが棚田を荒らすのか、という疑問に答えている。イノシシの好物はミミズ。そして、イノシシが泥地で転げ回って体に泥を塗る場所を「ぬた場」という。泥まみれになった後は近くの木で体を擦り、毛並みを磨く。つまり水田はイノシシにとってお風呂になのだ。ミュージカルとして盛り上がってくるのは「イノシシとの戦争」のシーンからだ。

 個人的には満足度は高かった。「地球温暖化を大人と子供と一緒に考える」とチラシにあり、親子連れの姿も多くあった。しかし、私の横に座った小学生たちには恐らく言葉もシーンも断片的にしか理解ができなかったのか、所在なげで落ち着かなかった。また、モルバル風にアレンジした日本語のしゃべりがお年寄りには聞き辛かったかも知れない。熱心に鑑賞していたのはお母さんたちだった。

⇒12日(祝)午前・金沢の天気   ゆき

★金蔵というところ

★金蔵というところ

 能登半島にある輪島市の金蔵(かなくら)という在所は不思議なところだ。緩やかな傾斜の棚田と5つの寺がある。人口は160人ほど。時がゆったり流れているようなそんな空間なのだ。ただ、日本人のDNAを呼び覚ますかのような強烈な原風景が目に飛び込んでくる。「そこにたたずむと涙で目が潤む」と金蔵を初めて訪れた知人が言った。その金蔵が「にほんの里100選」(朝日新聞社、森林文化協会主催)にこのほど選ばれた。推薦した身としては、「選ばれた」ということが素直にうれしかった。

 朝日新聞のホームページで自薦・他薦の募集があったのは07年12月のこと。大学でかかわっている「角間の里山自然学校」の名前で申請した。推薦文は以下のような短文だった。

「能登半島の山間地。棚田が広がり、160人余りが住む。集落に寺が5つあり、寺と棚田の風景は日本の里山の原風景のよう。8月に万灯会が催され、2万本のロウソクがともされる。人々は律儀に田を耕し、溜め池を守っている。その溜め池にはオシドリがやってくる。夜の星座が近くに見える。そして、人々は道で出会えば、見知らぬ人にも軽く会釈をする。「能登はやさしや土までも」と言われるが、金蔵の人々にはそんなやさしさが感じられる。古きよき日本の風景と人が残る里である。」(推薦文・07年12月29日)

 選定の記事が掲載された6日付の紙面を読むと、全体で4474件の応募があったようだ。候補地としてはおおよそ2000地点。書類審査、現地調査を経て100に絞り込まれた。その選定の基準となったのが「景観」「生物多様性」「人の営み」の3点。冒頭のようなノスタルジックな原風景だけではなく、生物多様性という環境的な視点や、人の営みという持続可能な社会性が必要とされた。金蔵の場合、地元のNPOが中心となって、はざ干しによるブランド米の取り組みやお寺でのカフェの営業、ワンカップ酒の小ビンを2万個も集めた万灯会の催しなど棚田と寺を活用した地域づくりに熱心だ。金蔵の人たちと話していると、人間関係が砂のように希薄となった1万人の町よりも、金蔵の160人の方が生き生きして勢いがあるのではないかと思ったりもする。万灯会ともなると百人近い学生たちがボランティアにやってくる。

 この土地には歴史の語り部、世話好きがいて、そしてよそ者や若者が集まる。金蔵はそんなところである。

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