⇒トピック往来

☆沖縄の風~下~

☆沖縄の風~下~

 滞在しているホテルは恩納村の山懐にある。沖縄本島の中ほど、地形的には随分とくびれたところにあり、ここから見渡す海は名護湾、そして東シナ海、背にした山のすぐ向こうは辺野古(へのこ)崎、そして太平洋が広がる。いま日本の政治が揺れているのはまさにこのスポットをめぐってである。

         辺野古から吹く「民意の風」

 きょう午後、辺野古を訪れた。現地では普天間飛行場の代替施設の建設に反対する住民の座り込み行動「辺野古テント村」=写真=がきょうで2206日目となった。テントの中には5、6人が海を見つめながら話し合ったりしていた。記者と間違えられたのか、「どこの新聞社なの」と向こうから尋ねられた。ニュースの現場を見に金沢からやってきた旨を告げると、代替施設の建設計画地などを説明してくれた。人魚のモデルとして知られるジュゴンが生息するという辺野古の海は透き通った緑の海だ。砂浜を挟んだ陸地には在日米軍海兵隊の基地「キャンプ・シュワブ」が広がる。

  2004年8月13日、アメリカ軍普天間基地の大型輸送ヘリコプターが訓練中にコントロールを失い、沖縄国際大学(宜野湾市)の建物に接触し、墜落、炎上した。乗員3人は負傷したが、夏休みということもあり、学生や職員など民間人に負傷者は出なかった。原因は、整備不良によるボルトの脱落とされた。沖縄の住宅地にアメリカ軍のヘリコプターが墜落したのは1972年の復帰後初めてのこと。昼夜の低空飛行で「もしかしたら」と沖縄県民が恐れていたことが現実になった。

  アメリカによる冷戦後の軍配置の見直しの機運があったことに加え、この墜落事故をきっかけに、日米両政府による在日米軍再編協議が進み、2006年5月1日に正式に合意された。沖縄に関しては、沖縄に駐留する海兵隊司令部と隊員・家族1万7000人のグアムへの移転、沖縄本島中南部にある5基地の全面返還、1基地の部分返還が盛り込まれた。その前提条件が、V字形に2本の滑走路を備えた普天間飛行場の代替施設をつくることだった。そのロードマップ(工程表)として、2014年までに名護市辺野古沿岸(キャンプ・シュワブ側)に代替施設を建設するという方針が自民党から示された。

  その後、自民党から民主党へと政権交代があり、さらに代替施設受け入れを容認してきた名護市の現職市長が、代替施設受け入れ反対・県外移転を主張する新人候補に破れた(2010年1月24日)。

  鳩山総理はあす4日、総理就任後、初めて沖縄の地を踏む。そして、仲井真弘多県知事と話し合いをする。沖縄の地元メディアは今の政府に疑心暗鬼の論調だ。訓練の一部を鹿児島県徳之島などに分散することで、沖縄の負担を減らすが、最終的に辺野古沿岸への移設する自民党政権時代の「現行案」の受け入れを県民に求めにやってくるのは許さない、と。現地では「県外・国外を軸に修正を図れ」と日増しに論調を強めている。

 普天間と辺野古。この二つの場所は、沖縄本島の人たちが中頭(なかがみ)と言う島の真ん中あたりのことで、実に近い。直線距離にして40㌔足らずではないだろうか。沖縄の人の感覚だと、ちょっと北に移動するだけで、現状は変わらない。鳩山総理もテント村を訪れ、2206日も座り続けている住民の声を耳を傾けたらどうだろうか。

 ⇒3日(祝)午後・沖縄県那覇市の天気  はれ  

★沖縄の風~中~

★沖縄の風~中~

 沖縄の海の文化が紹介されているというので、本部(もとぶ)町の海洋博公園を半日ゆっくり回った。興味を引いたのが「沖縄美ら海水族館」で特別展「海の危険生物展」だった。中でも危険な静物して紹介されているのがハブクラゲ。初めて聞くおどろおどろしい名前の生き物だ。なにしろ、ハブと聞いただけで危険と直感するのに、それにクラゲがついている。写真のようにいかにもグロテスクだ。何が危険かというと、水深50㌢ほどの浅瀬にいて、カサの部分が半透明なため、接近されてもよく見えない。それでいて、触手は150㌢にもスッと伸び、刺胞(毒針が毒液が入ったカプセル)を差し出す。これ触れると毒針が飛び出し、毒を注入される。姿が見えない、それでいて超越した戦闘能力を持つ、まるでSF映画『プレデター』に出てくる異星人なのだ。

            海のプレデターと「山羊薬」

  刺されると激しい痛みがあり、ショックで死亡するケースもある。このハブクラゲだけで年間200件余りの被害が報告されている(沖縄県福祉保健部のリーフレット)。そこで、沖縄県は本島だけで「クラゲネット」という防護ネットを33ヵ所も設けて、ネットで中で海水浴を楽しむように呼びかけている。ちなみに英単語「predator」は動物学用語で「天敵」「捕食者」の意味である。沖縄のハブクラゲは日本海のエチゼンクラゲと並んで、人の天敵と化している。

  「人と海は近かった」と感じた展示物があった。海洋文化館にある「バジャウの家船(えぶね)」だ。フィリピン南方のスルー諸島を航海するのに使われ、「レパ」とも呼ばれ、現地の人にとって移動手段だけでなく、食事や就寝という生活全般に使われていた。展示されている船は1975年まで実際に漁師の一家が住んで漁を営んでいたものだと説明されていた。日本でも、能登半島の輪島市の海女たちが「灘(なだ)回り」といって、魚のヌカ漬けなどを冬場の行商で売り歩くときに乗っていた家船とそっくりであることを思い出した。私は実際に見たことはない。25年ほど前、新聞記者時代に同市海士町を取材した折、昭和20年代の写真を見せてもらったことがある。それを連想したのだ。

  波の音、風の音、そして揺れ、寒さ、すべてを受け入れる生活である。もともと人はサルから起源を発した「森の動物」だった。それが海上で暮らすのだから、相当の肉体的、精神的な負荷を伴ったろうことは想像に難くない。

  話はがらりと変わる。海洋博公園に屋台の店が出ていた。なにげなくのぞくと除くと「ヤギ汁」と手書きの看板が出ていた。きょうのバス・ツアーのガイド嬢の説明によると、沖縄ではヤギ(山羊)料理をヒージャーグスイ(山羊薬)と呼ぶほどの名物だという。新築とか出産のお祝いのときに、ファミリーが集まって食する。料理は「山羊刺し」が一般的で、ショウガとニンニクを乗せて、しょう油で食べるそうだ。ただ、「ヤギ汁」はウチナンチュ(沖縄の人)でも、その匂いで苦手な人も多いとか。ガイド嬢は「沖縄に来たら一度はチャレンジしてくださいね」と言っていた。そのヤギ汁が目の前にある。挑戦すべきか否か…。値段は「ヤギ汁(小)」が500円、「ヤギ汁(大)」は1000円もする。そこで、ささやかに挑戦することに意を決し、小盛を注文した。ヨモギの葉入り、ショウガ味で臭みが思ったほど感じられなかった。が、肉が弾力的で歯ごたえがある。ギュッと噛む。野ウサギの肉も、クマ肉、野鳥の肉も食したことがあるが、これら「けもの臭い」ジビエとは違った食感だ。薬だと思えば、気にするほどではない。

  立って食べていたので、最後の肉片を食べ終えたときに肉に付いていた骨を地面にうっかり落とした。そのときにカチッと金属のような音がした。数㌢の骨だが、手に取ると硬く重い感じ。ヤギの存在感が伝わってきた。

 ⇒2日(日)夜・沖縄県恩納村の天気  くもり

☆沖縄の風~上~

☆沖縄の風~上~

 大型連休を利用して、沖縄に来ている。きょう1日に小松空港から羽田空港、羽田から那覇空港へと乗り継いだ。小松から羽田は若干の空席も感じられたが、羽田から那覇はほぼ満席だった。羽田からの便の中で、大陸からの偏西風が強く、それに向かって飛ぶので、少々揺れが予想され、到着時間も15分から20分ほど遅れるとのアナウンスがあった。揺れはさほど感じられなかったが、アナウンス通り20分遅れで那覇についた。気温25度、夏日だった。

             海のサファリパ-ク

  空港では恩納村のホテルまで送ってくれるタクシーを手配してあったで、空港では迎えが待っていた。せっかくだからと思い、高速道路「沖縄自動車道」を走ってもらい、オプションで名護市の「パイナップルパーク」と「ブセナ海中公園」に立ち寄ってもらった。現地までは60分ほどの時間があったので、タクシーの運転手と話が弾んだ。54歳だという運転手は子どもが4人、孫がすでに7人いる。「沖縄には大きな企業がなくて、息子のうち2人は本土(東京と山口)で会社員をしている」「企業といえば、オリオンビールぐらいかね」と。高速道路から見える家並のほとんどが2階建て、あるいは3階建てのコンクリート造り。守り神として有名なシーサーが乗る赤い瓦の屋根は少ない。「沖縄は台風が強くてね、かつて私の家は茅葺屋根だったんだけれども、吹き飛ばされることもあって、台風のたびに親戚の家に避難したものでしたよ。いまは瓦屋根の家でさえ、立て替えてコンクートの家にするのが当たり前ですよ」

  「屋根がコンクリートになった理由がもう一つある」という。「よく見てください」といわれ目を凝らすと、各家々の屋根には必ずステンレスのドラム缶が乗っている。高さは2㍍ほどもあるだろうか。「貯水タンクなんですよ」。沖縄の泣き所は台風と並んで水不足だという。「沖縄は島だから、本土のように隣県から水道水を簡単に融通してもらうということはできないですよ。そうそう、昭和38年(1962)ごろだったか、鹿児島などから船で水が送られてきたこともありましたよ」。沖縄本土復帰(1972)以降、水の安定供給のためダム建設が集中的に進められ、沖縄本島だけでも9つのダムがある(「内閣府沖縄総合事務局」ホームページより)。

  そんな話を聞きいているうちに、パイナップルパークに到着した。人でごった返していた。大型観光バスのほか乗用車が駐車場にびっしりと並んでいる。くだんの運転手が「ほどんどが本土の観光客ですよ」という。「沖縄わ」ナンバーはレンタカーなので判別できるのだという。よく見ると、「沖縄Y」というものある。「Y」は駐留アメリカ軍の関係者のナンバーという。パイナップル園を電気自動車で周遊した。前の車には米兵とおぼしき体格のよい若者が女性とペアで乗っていた。タトゥー(刺青)がびっしりと描かれた左腕を車体から出して、手振りが忙しそうだった。会話が弾んでいたのだろう。

  ブセナ海中公園の入り口で「海中展望塔」のチケット(1000円)を求めると、窓口の女性が「階段が50段ほどありますが、大丈夫ですか」と聞いきてきた。展望塔というとタワーをイメ-ジするが、海中の場合は逆で、海中に降りていくことになる。らせん状の階段を50段降りると深さ5㍍の海底に達する。円形の窓があり、海中を眺めることができる。透明度が高く、魚群や海藻の見渡しもいい。時折、ヌッと色鮮やかな魚体が目の前に現れる。こちらをキッとにらむ凄みのある魚たちだ。飼いならされた水族館の魚とはどこか違う「野生の魚」だ。海原の様子は、さしずめ「海のサファリパーク」とでも言おうか。(※写真の魚は「オヤビッチャ」。岩礁やサンゴ礁に普通にみられる。日本海では少ない。スズメダイの仲間。沖縄では食用に=「東海大学海洋科学博物館」ホームページを参照)

⇒1日(土)夜・沖縄県恩納村の天気  はれ

★文明論としての里山23

★文明論としての里山23

 能登半島の先端にある珠洲市。人口は現在1万7700人、65歳以上の最高齢者率は40%を超えた過疎・高齢化の自治体だ。ここでいま注目を集めているのが、ことし7月24日に全国に先駆けて地上テレビのアナログ波を止めて、デジタル放送へ完全移行するということだ。

           「里の力」と「地デジ」

  夜、能登の農山漁村。玄関の明かりは消えているが、奥の居間でテレビ画面だけがホタルの光りように揺らいでいる家々がある。高齢者の節約は徹底していて、家の明かりをすべて消してテレビだけをつけている。お年寄りにとってテレビは単に寂しさを紛らわせるためだけの存在ではない。喜怒哀楽を織り交ぜながら情報を与えてくれる友なのだ。総務省が2009年度にアナログ停波のリハーサル事業を予算計上しているとの情報を得て、同市は真っ先に手を挙げた。現在、45歳の市長は「2011年7月24日の地デジ完全移行になってお年寄りが困らないように、早めに準備しておきたいという気持ちだった」と言う。

  もともと能登半島は「スイッチを入れればテレビが映る」という状態にはない。北風によるアンテナの倒壊や塩害、山間地による難視聴などさまざまな問題がある。そこへ、今回の地デジである。同市内36地区の区長たちが中心となって、地デジの説明会を開き、地デジ未対応世帯に3800台の簡易チューナーが貸与された。さらに、地区によっては、従来の辺地共聴施設からケーブルテレビへの移行した。また、地デジをアンテナで受信できる世帯とできない世帯が混在する半島最先端の地区は、廃止予定のミニサテの対象地域であることから、区長たちが個別訪問してケーブルテレビへの加入を働きかけた。地デジの普及は個々の家庭だと思われがちだが、もっとも小さなコミュニティー単位、たとえば町内会や集落である。ここが地デジに向けて動かなければ、独居老人宅の地デジ対応や共聴施設のケーブル加入問題などは解決しない。つまり、「地デジ100%移行」は難しいのだ。地デジの現場はここにある。

  本題に入る。行政の指導で地域が積極的に動いたのだろうか。アナログ停波リハーサルに手を挙げ、音頭を取ったのは確かに行政だが、地デジに対して地域がまとまったのは、実は「里の力」(=コミュニティーの強さ)があったからだと考えている。この里の力は祭りのパワーに象徴される。毎年秋になると能登各地の数十世帯の集落で、収穫に感謝して高さ10㍍ほどの奉灯キリコを出す。鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らしながら、このキリコを老いも若きもみんなで担ぎ上げて集落を練る=写真=。この祭りの日には都会に出た若者も帰ってくる。連綿と続いてきた伝統行事である。祭りが人と人の絆(きずな)を紡いでいる。この集落のまとまりのよさが、今回のアナログ停波リハーサルの対応でも発揮されたと思っている。

  そこから見えてくるのは、アナログ停波でむしろネックになるのは人と人の関係性が希薄な都市部ではないのかということだ。集合住宅や受信障害の対策エリアなど複雑な問題解決にリーダーシップを発揮する人々が問題の数だけいるのか、近所の独居老人とは日ごろ誰がコミュニケーションを取っているのか、海外からの移住者はどうか。新たなテレビ文明への移行過程で試されているのはむしろ都会の「里の力」ではないのだろうか。

 ⇒20日(火)夜・金沢の天気  雨

☆文明論としての里山22

☆文明論としての里山22

 「トキ 穴水にきました!」。知り合いの女性からメールが入ったのは16日15時41分だった。電話をすると、「つがい(ペア)で来ていて、地元のケーブルテレビが撮影に成功したらしい」と興奮気味だった。ビッグニュースは地元でまたたく間に広がり、話題が沸騰していたのだろう。ペアで来たというのは事実に反していたが、地元の人がこれだけ興奮するには訳がある。石川県穴水(あなみず)町は本州最後のトキが捕獲された地なのである。

         トキが教えてくれる「里の道」

  1970年1月、能登半島では「能里(のり)」の愛称で呼ばれていたオスが繁殖のため、この地で捕獲された。その後、人工繁殖のため佐渡トキ保護センターに移送された。能里は翌年死んで、本州のトキは絶滅する。当地の人たちにすれば、トキの姿を目にしたのは実に40年ぶりということになる。

  当然、マスメディアのニュースになった。翌日付の紙面からその日の様子を拾ってみる。町役場に知らせた同町曽福の農業Sさん(69)によると、トキは同日午前10時50分ごろ、Sさんの自宅と近い水田でエサをついばんでいた。役場の職員らと一緒に5、6メートルほど近づいたが、怖がる様子は見せず、水田を動き回っていたという。約30分後、カラスの鳴き声に驚いて飛び立ち、独特のトキ色(朱色)の羽を見せて七尾市方面(穴水より南方向)に去っていった。石川県の自然保護課が、環境省に確認したところ、このトキは足輪の色から「個体番号04」のメスの可能性が強い。2008年9月に佐渡で放され、幅40キロメートルの佐渡海峡を越えて、新潟や福島、宮城、山形など広い範囲を移動したあと、富山県黒部市にしばらく滞在していた。3月27日には石川県加賀市にも飛来し話題となった。

  当時の様子からいくつかのことが確認できる。トキは本来、人影を恐れて谷内田、あるいは山田と呼ばれる奥まった田んぼの生き物(カエルやドジョウなど)をついばみにくる、とされていた。ところが、今回、「5、6メートルほど近づいた」が、物怖じしなかったということは、人工繁殖なので野生に復帰しても人影を気にしないということだろうか。もう一つ。カラスの鳴き声に驚いて飛び立ったとある。放鳥以来、トキがカラスに空で追い掛け回されている姿の写真が紙面で掲載されていた(09年1月20日付・新潟日報)。このことからも、トキは適応能力や学習能力が高い鳥だと分かる。

  話はくどくなるが、人影におののかないトキが出現しているというのは、人と生き物の共生という視点で考えるならば、ある意味で歓迎すべきことである。トキはかつて能登半島などで「ドォ」と呼ばれていた。田植えのころに田んぼにやってきて、早苗を踏み荒らすとされ、害鳥として農家から目の敵(かたき)にされていた。ドォは、「ドォ、ドォ」と追っ払うときの威嚇の声からその名が付いた。米一粒を大切にした時代、トキを田に入れることでさえ許さなかったのであろう。昭和30年代の食料増産の掛け声で、農家の人々は収量を競って、化学肥料や農薬、除草剤を田んぼに入れるようになった。人に追われ、田んぼに生き物がいなくなり、トキは絶滅の道をたどった。

  いまその発想は逆転した。トキが舞い降りるような田んぼこそが生き物が育まれていて、安心そして安全な田んぼとして、そこから収穫されるお米は「朱鷺の米」(佐渡)に代表されるように高級米である。人は生き物を上手に使って、食料の安心安全の信頼やブランドを醸し出す時代である。農家も生きる、トキも生きる、そんなパラダイス(楽園)ができないだろうか。

  農薬害について警鐘を発した、レイチェル・カーソンの名著『沈黙の春~生と死の妙薬~』の中で、このような文がある。「私たちは今、2つの道の分岐点に立っている。・・・私たちが長い間歩んできたのは、偽りの道であって、それは猛スピードで突っ走ることのできるハイウェイのように見えるが、行く手には大惨事が待っている。もう一つの道は、人もあまり通らないが、それを選ぶことによってのみ私たちは、私たちの住んでいる地球の保全をまっとうするという最終の目標に到達できるのである」

  我々が歩むべき道は、化学肥料と農薬にまみれた食料増産という「ハイウェイ」ではない。低価格かもしれないが、そこには「死の妙薬」が仕込まれている。そうではなくて、我々が歩むべきはトキが舞い降りる「里の道」だろう。それは食料問題にとどまらず、自然環境と人との生き方という話にもなってくるからだ。これを言うと、「ハイウェイ」を走る都会の人たちの中には「我々の食料をどうしてくれる」と凄む人もいる。安心安全な食料を得たければ、築地ではなく、どうぞ里に来てください。その目で食料生産の現場を見て、直接仕入れてください。そんなふうに言えばよい。「安全と水と食料はただ同然」という時代はもう終わっている。自己責任で選ぶ時代、生きる道の選択のときがきたのかもしれない。(※写真はトキ、岩田秀男氏撮影=1957年、輪島市三井町洲衛)

 ⇒17日(土)夜・金沢の天気  くもり

★文明論としての里山21

★文明論としての里山21

 生物多様性、あるいは自然環境の再生、里山と文明論などさまざまな観点から考えてきたこのシリーズを突き詰めれば、「持続可能な社会」とは一体何かということに突き当たる。人が人らしく、地球という自然が自然らしくあり、それを次世代に伝えていく、そんな社会システムとはどんな姿なのだと問いかけている。「未来可能性」と言っていい。

            持続可能社会と「地域主権」

  政権交代で、「地域主権」という言葉がクローズアップしてきた。前政権では「地方分権」という言葉だった。分権という言葉は「分け与える」というお上が権限を払下げるというイメージがあり、現政権では「地域のことは地域で」というという意味合いなのだろう。言葉遊びのような感じもするが、それはどうでもよい。中央政府が「分権だ」「地域主権だ」と言いながら、これほど有権者レベルで上がらない議論もない。なぜか。それはすでに国のミクロなレベルではすでに「自分たちでやっている」という意識があるからだ。つまり、この論議というのは、中央政府と県や市町村との間の権限をめぐる駆け引きの話である。一方で、すでに地域では自治会や町内会で自主的に暮らしにかかわるさまざまな議論をしている。その論議は、「行政に頼ろう」や「国に頼ろう」という論議ではない。いかにしてこの地域をよくしていくか、コミュニケ-ションを絶やさず、お互いを気遣って、どうともに生きていくかの論議である。そんな論議や現場の話し合いの姿をいくつも見てきた。

  能登半島の先端に珠洲(すず)市寺家(じけ)という地区がある。地域振興策として原子力発電所の誘致をめぐって25年余り論議をしてきた。失礼な言い方かもしれないが、実にタフな人たちである。昨年の夏、この地区の伝統のお祭りである、キリコ祭りの「キリコ絵」制作をめぐって、製作者と住民との意見交換の場をつぶさに見せてもらった。長年見慣れてきた伝統的な「キリコ絵」をそのまま制作するのか、あるいは新しいイメージを吹き込んだものにするのかをめぐって繰り広げられてきた話し合いである。原図を担当したのは日展で特選を獲得した日本画のプロである。本来なら、そのような権威のある画家に「お任せ」となると私自身は思っていた。ところが、寺家の住民はキリコ絵に対する思い入れを述べ、伝統的な図柄である観音絵の色使いや線の描き方、背景まで意見を述べる。その言葉に真摯に耳を傾ける画家。地元と画家とやり取りを重ね、ようやくこの4月に完成した。地域の文化を地域が担う、あるいは住民の共同体意識の発露。冒頭に述べた「人が人らしく」とはそういうことなのだろうと思う。

  この能登半島の先端の人たちは記録に残るだけでも万葉の時代から、ずっと地域社会で命を繋いでいる。748年、大伴家持は「珠洲の海に朝開きして・・・」と詠んでいる。持続可能な社会というのは、歴史や伝統文化に裏打ちされ、あるいは新たな歴史や文化を創造していこうとうする「心の遺伝子」が人々に伝えられてこそ可能なのだと考える。それは行政や国家の仕組みとは別次元のものである。

 ⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

★黄砂をつかまえる

★黄砂をつかまえる

 今月21日、京都で見た空は異様だった。ホテルの窓から見える京都タワーが黄色くかすんでいた。空がどんよりと曇った感じで、黄砂だとすぐ分かった。市内を歩くと、マスクをしている観光客が目立った。花粉の飛散時季と重なって、いかにも辛そうな御仁もいた。

   黄砂研究の第一人者といえば、金沢大学フロンティアサイエンス機構の岩坂泰信特任教授だ。シンポジウムの開催のお手伝いをさせていただく傍ら、岩坂氏の講演に耳を傾けていると、いろいろな気づきがある。印象に残る言葉は「能登半島は東アジアの環境センサーじゃないのかな」である。黄砂と能登半島を考えてみたい。

   黄砂は、タクラマカン砂漠など中国の乾燥地域で巻き上げられ、偏西風に乗ってやってくる。わずか数マイクロメートル(1マイクロメートルは千分の1ミリ)の大きさの砂が、日本に飛来するまでに、まさざまに変化する。「汚染物質の運び屋」もその一つ。日本の上空3キロで捕らえた黄砂の表面には、硫黄酸化物が多くついていて、中国の工業地帯の上空で亜硫酸ガスが付着すると考えられる。日本海の上空では、海からの水蒸気が黄砂の表面に取り付き、汚染物質の吸着を容易にしているのではないかと推測される。

 黄砂に乗った微生物もやってくる。岩坂氏の調査フィールドである敦煌上空で採取した黄砂のおよそ1割にDNAが付着していて、DNA解析でカビや胞子であることが分かった。黄砂は「厄介者」とのイメージがあるが、生態系の中ではたとえば、魚のエサを増やす役割もある。日本海などでは、黄砂がプランクトンに鉄分などミネラルを供給しているとの研究がそれある。

  その黄砂をキャッチするには、日本海に突き出た能登半島がよい。偏西風に乗って飛んできた黄砂をいち早く捕まえることができるからだ。この地の利を生かして、「大気観測スーパー・サイト」という調査研究のフィールドが岩坂氏の発案で形成され、黄砂による環境や気象、ひとの健康への影響の解明が進んでいる。能登半島は日本海を挟んで、中国と韓国、ロシアと向き合う。これらの国々の黄砂研究者と連携を強めれば、能登半島が環境問題の解決の糸口を見いだす研究拠点、あるいは観測地となる可能性は十分にある。岩坂氏はそのような構想を持っている。この趣旨を聴けば、「能登半島は東アジアの環境センサー」という言葉に説得力が出てくる。

  ※写真・上は、21日(日)午前9時ごろに写した京都の空。写真・下は同日午後5時半ごろに写した黄砂が晴れた空。JR京都駅にあるホテル11階から撮影した。

 ⇒23日(火)朝・金沢の天気   はれ

★冬訪ねる兼六園

★冬訪ねる兼六園

 雪の兼六園は別世界に思える。雪という白色が庭園を彩るからだ。名木・唐崎の松の雪つり=写真=はパラソルをさしたように見え、霞が池の水面に映える。兼六園の心象風景は季節ごとに異なるのだ。

 こうした兼六園の心象風景の原点には6つのファクターがある。寛政の改革で有名な松平定信は老中職を失脚した後、白河楽翁と名乗って築庭に没頭したといわれる。その薀蓄(うんちく)から、定信が中国・宋の詩人、李格非の書いた『洛陽名園記』(中国の名園を解説した書)の中に、名園の資格として宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)の6つの景観、すなわち六勝を兼ね備えていることと記されていたのにヒントを得て「兼六園」と名付けたと伝えられている。

  6つのファクターに加え、代々の加賀藩主は色や形の違いにこだわった。兼六園の原形ともいえる蓮池庭(れんちてい)を造った五代・綱紀(1643-1724年)には、園内に66枚の田を作り、全国で品質がよいとされる米を試験栽培させたというエピソードがある。代々の藩主の収集好きは兼六園の植物にも及び、たとえば桜だけでも20種410本も集めた。一重桜、八重桜、菊桜と花弁の数によって分けられている桜。中でも「国宝級」は曲水の千歳橋近くにある兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)である。学名にもなっている。「国宝級」というのも、国の天然記念物に指定されていた初代の兼六園菊桜(樹齢250年)は1970年に枯れ、現在あるのは接ぎ木によって生まれた二代目である。兼六園菊桜の見事さは、花弁が300枚にもなる生命力、咲き始めから散るまでに3度色を変える華やかさ、そして花が柄ごと散る潔さである。兼六園の桜の季節を200本のヨメイヨシノが一気に盛り上げ、兼六園菊桜が晩春を締めくくる。桜にも役どころというものがある。

  こうした名園のこだわりは現在も引き継がれている。季節の花の眺めがすばらしいことから名前がついた木橋の花見橋(はなみばし)。川底の玉石をなでるように緩やかに流れる曲水は多くの人々を魅了する。ゆったりと優雅に流れるようにと、毎秒800㍑の水が流れるように水量を一定にしている。計算づくなのである。しかも、サギやカモなどの鳥が来て足で水を濁さないように、上流では目立たないように水面の上に糸を張って予防線をつくっている。鏡のような川面を演出するために2つの工夫がある。

  兼六園を訪れたきのう24日、兼六園の樹木には冬芽が出て、春の出番を待っていた。「冬来たりなば春遠からじ」(イギリスの詩人シェリー『西風に寄せる歌』より)

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  はれ

☆北極振動

☆北極振動

 06年1月22日、イタリア出張を終え、ミラノ・マルペンサ空港から飛び立ち、シベリア上空を経由して成田空港で降りる便でのこと。機内からシベリアの雪原をカメラ撮影した。詳しい緯度経度は調べずに撮影したので、シベリアのどこか、地名などは定かではない。ただ、蛇行する河が凍てついていて=写真=、見ただけでシベリアの厳冬に身震いしたことを覚えている。その年の冬は日本海側も寒冬となり、記録的豪雪だった。シベリアの寒波をそのまま日本海側にもたらした現象は「北極振動」と呼ばれた。その北極振動がことしも世界各地に豪雪を。

 アメリカ東部を覆った強い寒気。ワシントンでは吹雪が止まず、バスや鉄道はほぼすべてが運行停止になった(18日)。ワシントンに隣接するバージニア州では、積雪最大56㌢が予想されたことから、非常事態宣言が出された。ヨーロッパ各地では、寒さの影響でヨーロッパ大陸とイギリスを結ぶ高速鉄道「ユーロスター」の4つの便がトンネル内で相次いで故障して立ち往生し、2500人の乗客が一時閉じ込められた。氷点下のフランス側から比較的暖かいトンネルに入った時に生じた温度差が故障の原因らしい。

 ウィキペディア(Wikipedia)などによると、北極振動が起きる原因はこうだ。北極を中心を周回するようにジェット気流が流れている。このジェット気流の北極側に冷たい寒気が控えているが、何らかの理由でこのジェット気流が南側に蛇行することがある。すると寒気もジェット気流に沿って南下する。このブレを「北極振動」と呼ぶ。ジェット気流が北アメリカ大陸の上空で南へ蛇行すれば北アメリカが強い寒気に襲われ、ヨーロッパの上空で起これば、ヨーロッパが寒気に見舞われ大雪になる。その現象がいま日本海側で起きている。

 ところで、ことし4月に読んだ赤祖父俊一著『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社)によると、いまの地球温暖化は人類が関与するところの少ない地球の気候変動の一環であり、現在は1400~1800年の小氷河期からの回復期にあるためだとしている。つまり、江戸時代などは前は今より寒かった。そして、北極振動もブレにブレて頻繁に寒気が南下していたらしい。ロンドンのテムズ川も凍てついて、スケートができたという。歌川広重の出世作「東海道五十三次」で蒲原(静岡市清水区)を描いた「雪之夜」があるように、かつては雪の名所だったのかもしれない。

 北極振動は一説に太陽活動との連動が言われている。そうなると、我々人類にはなす術(すべ)がない。気象はコントロールが効かない。

⇒21日(月)夜・金沢の天気 雪

★身構える冬~下~

★身構える冬~下~

 雪が降ると人々の活動は止まる…。そう思っている人は案外多いかも知れない。「こんな雪の寒いに日に、風邪を引いたら大変」「駐車場が雪に埋もれていて、会場に行けないのでは」など。ただ、雪国では、雪が降ったからそれだけでイベントが中止になったとか、学校が休みになったとか、議会が流れたとか、センター試験が中止になったという話を聞いたことがない。むしろ、鉄道やバスといった公共交通機関が雪でストップしたので中止ということはままある。雪国では雪が降って当たり前、つまり日常なのである。このブログのシリーズの最後は「積雪と人の集まり」をテーマに綴ってみたい。

 きのう(19日)、金沢大学と能美市が主催する「タウンミーティングin能美」が開催された。会場は同市辰口にある石川ハイテイク交流センターで、丘陵地にあり、積雪は30㌢ほどあった=写真=。それでも、参加登録者150人のうち、欠席はおよそ10人だった。これは歩留まりから考えて想定内の数字だ。つまり晴れていてもこの程度は欠席率があるものだ。タウンミーティングは、地域との対話を通じて連携を探るため、金沢大学が平成14年(2002)から石川県内で毎年連続して開催しており、今回で9回目。雪のタウンミーティングも始めての経験だった。

 自然現象と人の集会という点では、印象に残るシンポジウムがある。昨年(08年)1月26日、能登半島をトキが生息できるような環境に再生することをめざしたシンポジウム「里地里山の生物多様性保全~能登半島にトキが舞う日をめざして~」を輪島市の能登空港で開いた。この日は能登も金沢も30㌢ほどの積雪があり、さらに能登半島地震の余震と思われる大きな揺れが午前4時33分にあった。震度5弱。それでも開会の午前10時30分には当初予想の150人を超えて180人の参加があり、スタッフは会場の増設に慌てた。

 トキのシンポジウムのスピーカーは兵庫県立コウノトリの郷公園 の池田啓研究部長が「コウノトリ野生復帰に向けた豊岡での取り組み」と題して、50年にわたる豊岡市の先進事例を紹介した。また、佐渡でトキの野生復帰計画に携わっている新潟大学の本間航介准教授が「トキが生息できる里山とは-佐渡と能登、中国の比較」をテーマに講演した。能登半島が本州最後の一羽のトキが生息した地域であることから、トキに対する関心はもともと高い。

 人々が集まるか、集まらないのかの行動原理は、少々の気象条件には左右されない、むしろ関心が高いのか低いのかが要因だろう。参加者にすれば、「雪の日だったけれど、参加してよかった」と、返って悪天候が脳裏に刻まれ、美しき心象風景として残る。逆境が思い出になるのである。逆境よりよき感動を、雪国の人はこれを繰り返して逆境に順応し、忍耐強く辛抱強くなるに違いない。

⇒20日(日)朝・金沢の天気 ゆき