★「場」立ち考~中
~ 香川・金毘羅さんとアフリカ象 ~
「一生に一度は、こんぴらさんへ」と金毘羅参りが盛んになったのは江戸中期以後のこと。金刀比羅宮は、昔から海の安全、五穀豊穰、大漁祈願、商売繁盛など様々なご利益のある神様として年間300万人もの参拝客(観光客)を集めている。参道沿いには茶店・土産物店が並び、歴史を感じさせる。それにしても、参道口から本宮=写真=までは785段、奥社までは1368段の石段があり、相当な覚悟が必要だ。今回は時間の都合もあり、本宮まで登った。
最初の100段ほどは、石段の高さも低く準備運動と言った感じ。一之坂鳥居を越えると坂の角度がきつくなる。参拝者にとってここが最初の難関のようだ。参道の店のおばさんが「杖を持って行きんさい」と声をかけてくれる。周囲を見ると、結構若そうな人でも杖を持っている。ここは自分を叱咤激励して杖に頼らず登ることに。
一ノ坂から急な石段を250段ほど上がると大門が見えてくる。造られたのは慶安2年(1649)ごろで、讃岐の初代藩主が奉納したと説明書きにある。ここからが金刀比羅宮の境内となる。セミの鳴き声が響く。気合いを入れて石段をのぼると、右手に「こんぴら狛」と書かれた犬の像があった。昔は飼い主の代わりに犬が金毘羅詣りをするということがあったらしい。その犬のことを「こんぴら狛」と呼ぶようになったとか。そういえば、犬を連れた参拝客も何組かいて、売店にはドッグフードを置く店もある。
石段の参道で目立つのは左右にずらりと並ぶ石柱だ。神社への寄進者の名前が彫られている。「金壱百萬圓」などとあるから大口だ。寄進者の住所も九州から北海道までまさに津々浦々から。ほとんど個人名だ。石段をのぼるにつれ、さらに大きな石柱が見えてきた。今度は「金壱封」と書いてあるだけで金額の明示はない。石柱の大きさからして「金壱千萬圓」ではないかと想像力をかきたてる。寄進者名は個人より漁業関連会社が多い。
旭社(重要文化財指定)が見えてきた。ここで500段以上のぼったことになる。さらに本宮を目指すが、前に立ちはだかる絶壁のような急な階段。御前四段坂という難所だ。ここを何とか登り切り、本宮の拝殿までたどり着く。爽快感が体中に広がる。汗をかき、自分の足で参拝することに値打ちがあるのだと、金毘羅さんが教えてくれかのようだ。ここから一望する讃岐平野は絶景だ。
帰りはむしろゆっくりと「下山の心」で石段を降りる。途中、面白いオブジェがあるのに気がついた。立札には「アフリカ象」と書いてあり、東京の男性が昭和30年(1955)5月に奉納となっている。なぜアフリカ像なのか気になっていた。
それはホテルに入って、夕食のとき気がついた。箸袋を開くと、「金毘羅船々」の歌詞が書いてあった。「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば四国讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 一度廻れば」。金毘羅さんがある山は、讃岐平野からはゾウの頭と鼻に似ていることから象頭山(ぞうずさん、538㍍)と呼ばれるのだ。山の真ん中あたり、ちょうどゾウの目の部分が本宮が位置する場所と古来よりいわれているらしい。そうか、象の頭のような山に金毘羅さんがあるから象の像を寄進した。
では、なぜインド象でなくてアフリカ象なのかと詮索もしたくなるが、話はここまで。
⇒5日(こどもの日)朝・香川県琴平町の天気 はれ
昨日は小松空港、羽田空港、高知龍馬空港と空の便を乗り継いで高知に降り立った。空港や高知市内の街角などは観光キャンペーン「リョーマ(RYOMA)の休日」のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」とひっかけている。
次に、山内一豊が築いた高知城を見て回った。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だ。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)もさることながら、地震の備えでもあったのではないかと推測した。
14日から兼六園では無料開放が始まった。そぞろ歩きで、名園を彩るソメイヨシノや遅咲きの梅の花に見入った。兼六園の無料開放は今月22日までだが、私はむしろ晩春の桜が好きだ。
今月5日、久々に兼六園を歩いた。桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。兼六園近くのなじみの料理屋に入ると、女将が言った。「いくらなんでも春が遅い」と。例年ならこの時期、開花宣言が出て週末には兼六園はにぎわいを見せる時節なのに、との女将のぼやきだ。そしてきょう(7日)雪が降り、屋根に積もった。写真は朝8時50分ごろ、自宅(金沢市)の2階から撮影した。
という手の込んだ仕掛けだった。なぜ2度も藩家老は悪のシナリオを描いたのか。「藩の財政窮乏の折、藩を守るため」と称し、新田開発の資金に充てようとしたのだ。藩を守るため、御用金を略奪して、領民を皆殺しにする。藩の武士たちは「藩のため、忠義」と孫兵衛に斬りかかる。浪人である脇坂は「罪なき人を殺(あや)めるな」と剣を抜く。脇坂が斬ったのは、病巣と化した組織防衛論だった。
政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に捜査するのが地検特捜部だ。東京地検特捜部が発足したのが1947年。10年後の1957年に大阪地検特捜部ができた。さらに39年後の1996年に名古屋地検にも特捜部が置かれ、「3特捜」の態勢となった。
震災後、畠山さんとは3回お話をさせていただくチャンスを得た。1回目は震災2ヵ月後の5月12日にJR東京駅でコーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。2回目は9月2日、輪島市で開催したシンポジウム「地域再生人材大学サミットin能登」(主催:能登キャンパス構想推進協議会)で。シンポジウムが終わり、居酒屋で地域の人たちと畠山さんを囲んで話し込んだ。3回目はことし2月2日、仙台市でのシンポジウム「市民による東日本大震災からの復興~創造と連携~」(主催:三井物産)の交流会で。9月のシンポジウムのお礼の挨拶をした。すると畠山さんの方から、「内緒なんだけれど、今度ニューヨークに表彰式があるんだ」とうれしそうに話された。UNFFのフォレストヒーローのことが新聞記事になったのはその数日後だった。
今回の大震災から学んだことが多々ある。その一つが日本は「災害列島」であるということだ。地震だけではない。津波、水害、雪害、火災、落雷などさまざまな災害がある。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)は現代人への災害に備えよとの戒めの言葉だろう。改めてかみしめる言葉だ。
上勝町に宿泊して一番美味と感じたのは「かみカツ」だった。豚カツではない。地場産品の肉厚のシイタケをカツで揚げたものだ。上勝の地名とひっかけたネーミングなのだが、この「かみカツ丼」=写真=がお吸い物付きで800円。シイタケがかつ丼に化けるのである。こんなアイデアがこの地では次々と生まれている。全国的に上勝町といってもまだ知名度は低いが、「葉っぱビジネス」なら知名度は抜群だ。このビジネスはいろいろ考えさせてくれる。女性や高齢年齢層の住民を組織し、生きがいを与えるということ。「つま物」を農産物と同等扱いで農協を通じて全国に流通するとうこと。ビジネスの仕組みを創り上げたこと。たとえば、注文から出荷までの時間が非常に短い。畑に木を植えて収穫する。山に入って見つけていたのでは時間のロスが多いからだ。ただし、市場原理でいえば、つま物の需要が高くなって価格が跳ね上がることはありえないだろう。
イツ製の木質チップボイラーを導入し、温泉や暖房設備に利用している=写真=。重油ボイラーは補助的に使っている。木質チップは1日約1.2トン使われ、すべて同町産でまかなわれている。チップ製造者の販売価格はチップ1t当たり16,000円。重油を使っていたころに比べ、3分の2程度のコストで済む。町内では薪(まき)燃料の供給システムのほか、都市在住の薪ストーブユーザーへ薪を供給することも試みている。地域内で燃料を供給する仕組みを構築することで、化石燃料の使用削減によるCO2排出抑制を図り、地域経済も好循環するまちづくりを目指している。さらに、森林の管理と整備が進むことになり、イノシシなどの獣害対策にもなる。
事を創るという発想に乏しい。日本全体がチャレンジ性が薄まっている中、受け身型になっていると常々考えている。事業をすることで地域が活性化し、社会貢献の意識があっても事業性がなければ継続しない。しかし、社会貢献をしようという若者を受け入れることは大いにプラスである。それはなぜか、現代は「役割ビジネス」だと思うからだ。