⇒トピック往来

★懐かしい未来

★懐かしい未来

 先月1月27日、東京・経団連ホールで三井物産環境基金特別シンポジウム「~がんばれNPO!熱血地球人~」に参加した。その基調講演で、日本野鳥の会会長の柳生博氏が「森で暮らす 森に学ぶ」をテーマに話した。独特のテンポの語りが人をひきつけた。

  柳生氏が35年前に八ヶ岳に移り住んで森林再生を始めたきっかけや、いまの環境問題に関する人々の意識の高まりについて、生活者目線で語った。印象に残ったのが「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」という言葉だった。人が生き物として正常な環境は「懐かしい風景」だ。田んぼの上を風が吹き抜けていく様子を見た時、あるいは雑木林を歩いた時、そんな時は懐かしい気持ちになる。超高層ビルが立ち並び、電子的な情報が行き交う都会の風景を懐かしい風景とは言わない。「懐かしい風景」こそ、我われの「確かな未来」と見据えて、自然環境を守っていこうという柳生氏のメッセージなのだ。

 つい先日2月12日、金沢で開催された自動車リサイクル企業「会宝産業」の講演会に誘いを受けて出席した。東北大学大学院環境科学研究科の石田秀輝教授が「遊べや遊べ、もっと遊べ!~あたらしいものつくりと暮らし方のかたち~」をテーマに話した。我慢する環境の取り組みではなく、心豊かに暮らしながら環境負荷をどう低減させるものづくりを進めたらよいかというのが話の趣旨。そのためには、大量生産、大量消費の「イギリス産業革命」的な発想と決別して、自然観を持った、ある意味で日本的な産業革命が必要だ、と。その中で、石田氏は「懐かしい未来」とたとえて、こんな話をした。ご近所の熊さんと八っつあん。熊さんが旅に出るので、「うちのソーラー発電の電気、どうぞ自由に使ってくださいな。その代わり、留守中は頼むよ」といった昔懐かしい日本的なセリフが、テクノロジーを伴って言えるような未来の姿をイメージさせる。

 我われが地球から受けた恩恵を次世代にどうやって引き継ぐのか、手渡すのか、その岐路に立っている。柳生氏の「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」と、石田氏の「懐かしい未来」の表現は多少違うものの、我われが共有する自然観や人間観をベースにした「未来への遺産」こそ確かなのであると強調している。今の我われが想像もできなような未来観というのは、映画『バイオハザード』のようでなんだか危なかしい。良き光景は懐かしい。それは未来も変わってはならない。そんなメッセージを二人から頂いた。

⇒14日(月)朝・金沢の天気  くもり

 

★兼六園スター物語

★兼六園スター物語

 2011年元旦、兼六園と同じ敷地にある金沢神社に初詣に出かけた。午前中の氷雨で人出は例年より少なく、列をなすほどではなかった。金沢神社の鳥居の近くにある木造の金沢城・兼六園管理事務所分室を立ち寄った。この建物そのものが文化財級の武家屋敷(旧・津田玄蕃邸)で、武家書院造りは風格がある。初詣もそこそこに立ち寄ったのは、ふとした思い付きだった。300年、400年後の「兼六園のスター」を見たい、と。

 国の特別名勝である兼六園。最近では、ミシュラン仏語ガイド『ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン』(2007)で「三つ星」の最高ランクを得た。広さ約3万坪、170年もの歳月をかけて作庭された兼六園の名木のスターと言えば、唐崎松(からさきのまつ)である。高さ9㍍、20㍍も伸びた枝ぶり。冬場の湿った重い雪から名木を守るために施される雪吊りはまず唐崎松から始まる。このプライオリティ(優先度)の高さがスターたるゆえんでもある。唐崎松は、加賀藩の第13代藩主・前田斉泰(1811~84)が琵琶湖の唐崎神社境内(大津市)の「唐崎の松」から種子を取り寄せて植えたもので、樹齢180年と推定される。近江の唐崎の松は、松尾芭蕉(1644-94)の「辛崎( からさき )の松は花より朧(おぼろ)にて」という句でも有名だ。

 いくらスターであって、保護が行き届いていても、植物はいつかは枯れる。あるいは、枯れなくても、台風で折れたり、倒れば、そのときにスターの寿命は終わる。名園の美観上、傷ついた名木を人目にさらすわけにはいかないのだ。その処理は粛々と行われ、跡地には次なる唐崎松が植えられることになる。そこで、話は冒頭に戻る。金沢城・兼六園管理事務所分室の隣地には唐崎松の「2世」がすでにスタンバイしている=写真=。事務所では「後継木(こうけいぼく)」と呼ぶ。すでに高さ3㍍余りあるだろうか。幹の根の辺りがくねって、すでに名木の片鱗を感じさせている。お世継ぎとあって保護され、雪吊りも施されている。この松は「実子」ではなく、かつて加賀藩主がそうしたように、大津市の唐崎の松の実生である。つまり「本家」からの世継なのだ。

 ただ、名園の世界にあっては「2世」だからと言って、スターの座を確保できるというわけではない。その時代に、園を訪れる人たちが「枝ぶりがいい」「樹勢(オーラ)を感じる」と評価するかどうか、だ。現在の唐崎松も脇役の時代があり、戦後のスターである。それ以前は、桜の2大スターが人気を競っていた。旭桜(あさひざくら)は、白い大きな花を付け、樹齢500年ともいわれた園内随一の老大木だった。明治の中頃から樹勢が衰え、昭和12年(1937)に枯死した。泉鏡花が大正4年(1915)に発表した小説『櫻心中』で、名木から飛び出した桜の精の悲恋物語を描いているが、その中で出てくる男役「富士見桜」が旭桜だ。小説のモチーフにもなっていたのだ。その旭桜と競っていたのが、兼六園では旭桜に次ぐ老木とされた塩釜桜(しおがまざくら)だった。こちらは、昭和32年(1957)に枯死してしまった。唐崎松がスターダムにのし上がったのはそれ以降だ。

 しかし、唐崎松のスターの座も不動ではない。かつてのスター、旭桜のひこばえが成長し、今や2代目の大樹となっている。さらに、塩釜桜も2001年に宮城・塩釜神社から苗を取り寄せ、その若木が見事な花を付けている。100年、200年後に唐崎松の樹勢が衰え、これら桜木が競って兼六園を彩る時代を予感させる。唐崎松の「2世」をじっと眺め、兼六園の300、400年後に、この2世はスターの座を確保できるだろうか。人の世とだぶらせて思いをめぐらせると、それだけでも楽しい。そして、その時代になっても、樹木を愛でる人々の気持ちは変わらないで欲しいと願う。

⇒1日(元旦)夜・金沢の天気 くもり

☆備忘録・猿鬼の伝説

☆備忘録・猿鬼の伝説

 前回のコラムで紹介した輪島市西山町大西山は能登町柳田(旧・柳田村)は互いに山を背にした隣の集落地域である。ここにサルにまつわる有名な伝説がある。能登では知られる「猿鬼伝説」である。集落における、人々の関係性、精神的な相克が見えて興味深い。以下、伝説の概略である。

 昔々、大西山に善重郎というその名の通り善良なサルがいた。善重郎は大西山のサルたちの頭領だったが、配下に一匹の荒くれ者のサルがいた。そのサルは善重郎の目を盗み、近辺の民家に悪さをしていた。ある日それが善重郎の知るところとなり、大西山を追い出された。あわてて逃げたサルが踏みつけた岩が三つに割れた。現在その岩は、「三つ岩」と呼ばれている。

 大西山を逃げ出したサルは、柳田の岩井戸という在所の岩穴をねぐらとするようになり、何時しか化け物になっていく。それから配下のサルたちをひきつれて、能登の農作物や馬や牛を食い荒らし、人をさらうなどして、人々に「猿鬼」と呼ばれ、恐れられるようになった。耐え切れなくなった村人たちは、大幡神社の杉神姫に助けを求めた。杉神姫は願いを聞き入れ、弓矢を準備しつつ、猿鬼たちの隙をうかがっていた。

 ある日、猿鬼が病にかかったという噂を聞いた杉神姫は、岩井戸の岩穴の近くで猿鬼の様子をうかがっていた。岩穴からは猿鬼のうめき声が聞こえてきた。そのうち岩穴から病身の猿鬼が出てきたので、杉神姫は猿鬼に向かって矢を放ったが、なぜか命中しない。さらに杉神姫は剣で猿鬼に切りつけたが、剣は真二つに折れてしまった。仕方なく杉神姫は大幡神社に逃げ帰り、神無月に出雲へ行った際に他の神々に相談しようと思いました。

 神無月となり、出雲で猿鬼退治の話し合いがなされた。その中で能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍、杉神姫を副将軍として、能登の神々で協力し猿鬼を退治することが決まった。作戦会議をする中で、村人が猿鬼に矢が当たらない理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていることを神々に知らせまた。それを聞いた杉神姫は、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙うことを思いつきました。村人たちは毒草を集め、それを煮詰めて毒を抽出し、矢に塗りつけた。そしてその矢を携え、気多大明神をはじめとする神々は猿鬼の住む岩井戸の岩穴に向かった。

 岩穴から猿鬼たちをおびき出すため、杉神姫は、村人が作った白い布を身にまとい、神々が囲むなかで踊りった。この挑発にのって猿鬼が配下のサルたちを従え岩穴から出てきた。神々と猿鬼たちの戦いが始まり、神々が一斉に毒矢を猿鬼たちに向けて放った。しかし、猿鬼は矢をはたき落とし、なかなか目に命中しなかった。少し離れた所から猿鬼を狙っていた杉神姫が、猿鬼の目に狙いを定め、矢を放つと、見事、猿鬼の目を射抜いた。猿鬼は叫び声をあげて逃げ出しました。それを神々が追いかけた。そして杉神姫がもつ名刀・鬼切丸によって猿鬼の首は切られた。ドス黒い血が近くの川を流れ、川は黒々と汚れた。以来この川を黒川(くろがわ)と呼ぶようになった。退治された猿鬼は神々によって葬られ、現在その地は鬼塚と呼ばれている。その塚を荒らすと大雨が降るといういわれがある。猿鬼退治の軍を興した気多大明神は猿鬼が根城とした岩穴の前に祀られ、岩井戸神社と呼ばれている=写真=。

 この猿鬼伝説と、大西山が猿回しの終焉の地であることと直接は関係性はない。が、何か因縁めいて面白い。この話は、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている。

⇒31日(金)夜・金沢の天気  くもり

★ジョグラフ氏のこと

★ジョグラフ氏のこと

 12月18日開幕した国際生物多様性年クロージングイベントは、参加者による20日の能登オプショナルツアーで終了した。ツアーバスには朝7時半から8ヵ国の駐日大使や環境問題の担当者18人が乗り込んで、七尾湾のカキ養殖場や野鳥公園を見学し、輪島市では輪島塗工房、酒蔵などを見学した。野鳥公園では、双眼鏡をのぞいていた参加者が渡り鳥のタゲリを見つけ、「Pee Weeがいる」と喜んでいた。ネコのような鳴き方するので、ヨーロッパでも親しまれている鳥なのだ。

 ところで、今回の国際生物多様性年クロージングイベントがなぜ石川県で開催されたのか、なぜ東京や生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の開催地、名古屋ではなかったのか。これが一番のナゾだと、開催期間中に県内外の参加者から聞かれた。そのナゾを、生物多様性条約事務局長のアフメド・ジョグラ氏と石川県のかかわりを振り返りながら解いてみたい。

 実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲・石川県知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット)である。2008年5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。谷本知事は「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。さらに、あん所長は通訳という立場だったが、知事以上に身振り手振りで話し、右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちるほどだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。トップセールスの手ごたえをつかんだのである。

 その3日後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の石川県・能登半島の訪問はその4ヵ月後に実現した。

 2008年9月13日と14日にジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、輪島市金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 2009年5月23日、ジョグラフ氏が金沢大学を訪れ、小学生や学生たちと「グリーン・ウェイブの日」を記念して植樹をした。5月22日は国連の「生物多様性の日」と定められ、ジョグラフ氏は東京での催しに参加し、翌日金沢大学を訪れた。中村信一学長のほか谷本知事、あん所長、中村教授、環境省生物多様性地球戦略企画室の徳丸久衛室長(当時)、学生と近隣の小学生50人余りがコナラとクヌギの苗木を植えた。その際のジョグラフ氏は記念スピーチで、「植樹活動は運動というより教育活動と考えており、大学が積極的に関わる意義は大きい」「平和を築くことは自然保護を抜きにしては考えられない」と話した。

 2009年6月ごろ、生物多様性条約事務局(モントリオール)は190余りの加盟国に対し、2010年国際生物多様性年に関連するスケジュールを通知している。1月11日・キックオフイベント(ベルリン)、1月21日、22日・キックオフイベント(パリ)、9月・国連総会(ニューヨーク)、10月11日-29日・MOP5とCOP10(名古屋)、12月18日、19日・クロージングイベント(金沢)

 国際生物多様性年の2010年。2月6日、金沢市で開催された「にほんの里から世界の里へ」と題したシンポジウム(総合地球環境学研究所、金沢大学など主催)に、ジョグラフ氏からビデオ・メッセージをいただいた。その中で語ったことは哲学的だった。Born and raised in Kanazawa, the great Japanese thinker Daisetsu Teitaro Suzuki said that life ought to be lived as a bird flies through the air, or as a fish swims in the water. Suzuki was encouraging us to live as naturally as possible, which, at a different level, is one of the themes of the International Year of Biodiversity in 2010. (金沢に生まれ育った偉大な思想家・鈴木大拙は、「(禅においては)鳥が空を飛び、魚が水に游(およ)ぐように生活されねばならない」と言っています。鈴木大拙は人々に、「できるだけ自然に生きなさい」と奨めているのですが、それは、見方を変えれば、2010年の国際生物多様性年のテーマの一つでもあります)

 こうしたジョグラフ氏と石川県とのかかわりの中から、国際生物多様性年クロージングイベントの石川開催が実現した。12月19日の記念シンポジウムで、ジョグラフ氏は谷本知事に対し、生物多様性年に貢献したとしてアワード(功労賞)を贈呈した。そして、「2008年5月に彼(知事)と始めて会った。里山や里海が生物多様性の保全にどれだけ役立つか熱っぽく語ってくれた。本来、政治家だったらクロージングイベントではなく、キックオフイベントの誘致を望んだろう。しかし、彼はCOP10を機に世界の流れが生物多様性に大きく動き出すことを読んで、今回のクロージングイベントこそが生物多様性の新たな時代へのキックオフだと快く引き受けてくれた。感謝する」と言葉を添えた。

⇒21日(火)朝・金沢の天気  くもり

☆生態系サービスのこと

☆生態系サービスのこと

 19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」(石川県立音楽堂)で、新鮮だったのは、スタンフォード大学(アメリカ)のグレッチェン・カーラ・デイリー(Gretchen C. Daily)教授=写真=の言葉だった。「中国政府はこれまでに1000億㌦を投じて生態補償を行っています。生態系サービスの供給を強化するとともに、貧困の軽減を目指しているのです。・・・日本にはすでに人と自然が調和するシステムを里山で実現していますね」。今回の記念シンポジウムでは、パネル討論の参加で、7、8分ほどのスピーチながら、それでも生物多様性の新たな可能性を切り開く示唆に満ちた語りだった。

 デイリー氏の業績は、われわれがよく言葉にする「自然の恵み」を経済に、政策的に組み込むことなのだ。「市場を使って自然を守る」と言ったほうがよいかもしれない。1997年の著書『生態系サービス(Nature’s Services)』で生態系の恩恵を体系的に整理し、過小評価されてきた価値を明らかにした。これにより、生態系や生物多様性の保全の必要性がより鮮明になったのだ。

 生態系と生態系サービスの変化が人間生活に与える影響を評価するため、国連の呼び掛けで実施された「ミレニアム生態系評価」(2001-2005年)では、生態系サービスの概念構築と定量的評価に重要な役割を果たした。この結果、ミレニアム生態系評価では、水の供給や気候の調整など24項目の生態系サービスのうち半数以上で質が低下していると指摘されたのだ。2006年から国連大学高等研究所などが中心となって取り組んだ日本の里山・里海評価(JSSA)はその国内版でもある。

 デイリー氏は短いスピーチの中で、時間を惜しむように話を続けた。生態学と経済学を統合し、自然を保全することが利益をもたらす「自然資本プロジェクト」を立ち上げた。ハワイ・オアフ島でのプロジェクトでは、105平方㎞におよぶ地域を「インベスト(InVEST:Integrated Valuation of Ecosystem Services & Tradeoffs)」と呼ぶソフトウエアを用い、生態系サービスのマッピングと評価を行い、その科学的データをもとに政策を立案した。土壌改良による生産性の高い農地をつくることや、風力・ソーラー発電、環境教育といった事業が同時に進められた。そしてさらに巨費投じているのが、冒頭で紹介した中国プロジェクトである。

 生態系サービス、そして自然資本という概念を実践することで定着させた偉大な科学者といえるかもしれない。生態学と経済学を統合するという壮大なプランは実証の裏付けがされれば、「ノーベル賞級」とも評される。

⇒20日(月)朝・金沢の天気  くもり

★GIAHSのこと

★GIAHSのこと

 きょう19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」で、石川県の取り組みを発表した谷本正憲知事は聞き慣れない言葉を打ち上げた。「ジアス(GIAHS)に能登の里山里海を登録したい」と。参加者はきょとんした表情だった。それもそのはず、登録が実現すれば日本では第1号であり、おそらく日本のほとんどの人は初耳だろう。

 GIAHSって何だろう。正式には、Globally lmportant Agricultural Heritage Systems、世界重要農業資産システムと呼ばれる。これでも理解が進まないので、分かりやすく「世界農業遺産」や「農業の世界遺産」と呼ばれたりする。国連食糧農業機関(FAO)が認定するもので、2002年に創設された。未来に引き継ぐに値する伝統的な農法や景観、文化(農耕儀礼など)に加え、生物多様性の保全と活用が重視される。能登半島の農耕儀礼「あえのこと」が昨年9月、ユネスコの無形文化遺産に指定され文化面で、人と農業にかかわる「資産」を持っている。また、輪島の千枚田=写真=に代表されるように、リアス式海岸が連なる条件不利地のため、ため池をつくり、谷あいに棚田を形成して里山里海が独特の景観を醸し出している。また、ため池農業による生物多様性は、二次的自然の上に成立していることから、農業の継続が生物多様性存続の基盤となっている。

 知事と同じく記念シンポジウムで生物多様性の成果報告をした武内和彦国連大学副学長(東大教授)によると、能登と同時に、新潟県佐渡市も「トキを育む農業」をGIAHSに登録申請した。また、これまでGIAHSに登録されてる地域は、チリのチロエ諸島で200種のイモを栽培する「チロエ農業」や、イタリアのソレント海岸で栽培されている「レモン園」、フィリピンのルソン島イフガオの傾斜地に展開する棚田(1995年・ユネスコ世界遺産)など8ヵ所である。

 申請主体は、羽咋以北の4市4町(七尾市、輪島市、羽咋市、珠洲市、能登町、穴水町、志賀町、中能登町)となる。では、登録されることでどのようなメリットがあるのか。正直、これは申請主体の活動次第だ。農産物の付加価値やグリーン・ツーリズム、国際的なネットワークでの情報発信など多様な活用方法があるだろう。

 正式な登録は来年夏ごろであり、登録が決まった訳ではない。が、動き出した。類(たぐい)希なる農業資産を祖先から受け継ぐ能登半島は「過疎・高齢化のトップランナー」でもある。このまま座して死を待つのか、あるいは世界とリンクしながら、生物多様性を育む農業を現代に生かす努力を重ね新たなステージを切り拓いていくのか、その岐路に立っている。

⇒19日(日)午後・金沢の天気  はれ

☆生物多様性年のこと

☆生物多様性年のこと

 国連が定めた国際生物多様性年の総括と、来年の国際森林年への橋渡しをするイベントがきょう18日、石川県立音楽堂邦楽ホール(金沢市)で開幕した。国連の関係者、2人の大臣を招いての国際会議はどのようなイベントであったのか、発言者の言葉を拾って紹介する。

 アフメド・ジョグラフ生物多様性条約事務局長:生物多様性条約第10回締約国(COP10・名古屋市)では、遺伝子資源の利用と利益をめぐる配分(ABS)の国際ルール「名古屋議定書」と生態系保全の目標「愛知ターゲット」が採択された。これは条約参加国が生物と人が共生する世界を築きたいと心をそろえたから実現できたこと。(パン・ギムン国連事務総長のメッセージを紹介して)今年、名古屋で築いた絆を大切にしていきたい。そしてこの機運を生かして、今後10年の取り組みを成功させたい

 松本龍環境大臣:国際生物多様性年の機運が世界を駆け巡り、緑の波が会場に押し寄せる息吹を感じた。先進国と途上国がABSをめぐる対立を乗り越えたのは、各国がぎりぎりのところで譲歩して、一つ一つ利益を積み重ねたからだ。議長として、私が木槌を振り下ろしたとき、会場が一つになっていた。生物多様性の損失を止めるためには、今後10年の行動が重要になる。人類の英知を集めて、行動を起こしていきましょう

 鹿野道彦農林水産大臣:里山と里海の重要性はCOP10ですでに世界の共通認識となった

 谷本正憲石川県知事:石川の県土の6割が里山であるものの、生活の変化や過疎・高齢化で荒廃が問題となっている。石川はトキが暮らせる自然環境を再生して未来に引き継ぐこと、さらにトキが舞う豊かな里山や里海を再生することが人と自然の共生につながる。そのためには一過性ではなく、永続的な取り組みが必要だ。地球規模の課題テーマである生物多様性の保全にローカルな立場から貢献していきたい

 ジャン・マッカルパイン国連森林フォーラム事務局長:国際生物多様性年のクロージング式典は、森林にとっても、生物多様性にとっても、ビギニングのセレモニーでもある。石川県の知事から里山里海の説明を聞いた。日本人はうまく人と農業、自然の関係を守ってきたと思う。人と森の関係もそうあるべきで、森林年では相互依存の関係を再確認したい

※写真は、国際生物多様性年と国際森林年の国連関係者や日本政府の関係者が集まった式典=石川県立音楽堂

★清張、荒波の情景

★清張、荒波の情景

 景勝地の能登金剛は、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった場所だ。清張生誕100年を記念し、昨年(2009年)11月に広末涼子らが出演して再映画化された。この地には、清張の歌碑がある。「雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅」。歌碑は昭和36年(1961)に建てられた。

 この短歌の意味は、現場に立てばイメージがわいてくる。『ゼロの焦点』のシーンにある冬の日本海の荒波。その波は大きくうねり、そして岩に砕け散る。その砕け方は一瞬の飛び散りだ。この荒海の様子をじっと眺めていると、「人間と同じだ」と思えてくる。人は出世欲、金銭欲、さまざまは欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。清張が能登金剛を取材に訪れたとき、日本海の荒波はそのような情景に映ったのではないか。そして「かなしと思へり」と感じた。清張の小説を読めば、欲望と矛盾がサスペンスを生んでいる。

 2010年は激動の一年だった。いや、波乱の幕開けなのだろう。住友生命保険が今年の世相を四文字で表現する「創作四字熟語」を発表し、10日付の各紙朝刊で掲載された。優秀作品の「三見立体(さんみりったい)」は、3D映像の映画やテレビがブームになったことを「三位一体」にもじって表現したもの。案外面白いのは、ちょっとスパイスが効いた入選作品だ。鳩山前総理のとき、アメリカ軍普天間飛行場移設問題で「最低でも県外」と言ったのに、それが「知れば知るほど」に海兵隊の重要性がわかり、その後に沖縄県内の「辺野古」にプランが戻った。それを揶揄して「棄想県外(きそうけんがい)」の作品ができた。その混迷の結果が、「菅鳩交代(かんきゅうこうたい)」だった。

 人々の絆が薄れた社会は「無縁社会」と呼ばれている。高齢者の所在不明が相次ぎ、「戸籍騒然(こせきそうぜん)」となった。その後に、年金詐欺問題が続々と出てきた。もう一つ。「熱烈歓元(ねつれつかんげん)」は「熱烈歓迎」をもじったものだが、「歓元」にひねりが効いている。消費欲が盛んな中国人観光客が日本を訪れているが、歓迎しているのは中国の人より、お金という意味だろう。

 再び、清張の「かなしと思へり 能登の初旅」の歌。今の欲望社会を満たし続けるのはもう限界ではないのか。いつかクラッシュがくる。清張のテーマは単なる小説の題材ではなく、社会への警鐘だと感じている。

※写真は、能登半島・珠洲市真浦町の海岸

⇒10日(金)夜・能登の天気 はれ
 

★里山イニシアティブ

★里山イニシアティブ

 この「自在コラム」の2010年10月26日付「COP10の風~下~」で「里山SATOYAMAイニシアティブ」について紹介した。里山イニシアティブは生態系を守りながら漁業や農業の営みを続ける「持続可能な自然資源利用」という概念で、今後、生態系保全を考える上で世界共通の基本認識となりつつある。

 その背景には、国際条約への流れがある。2008年5月に神戸で開催されたG8環境大臣会合で里山イニシアティブの国際的な推進が合意され、ドイツ・ボンでの生物多様性条約COP9では日本がその促進を国際社会に表明し、2009年4月にイタリア・シチリアで開催されたG8環境大臣会合でもシラクサ宣言に盛り込まれた。そしてことし10月、名古屋で開催されたCOP10では、世界各地域の自然共生の事例をもとに、二次的な自然資源管理の考え方や具体的な方法を整理し、自然資源管理の国際モデルとして里山イニシアティブを促進する決議案が採択された。

 決議案の採択と並行して、COP10会場で国際組織「里山イニシアティブ国際パートナーシップ(IPSI)」が発足した。国際パートナーシップは、里山イニシアティブを提唱する日本政府が呼び掛けで、アジア・アフリカなど9ヵ国の政府や企業、非政府組織(NGO)や研究機関など51団体が参加した。その中には金沢大学も名を連ねる。その国際パートナーシップの第一弾とも言える「JICA研修プログラム」がさっそく実施され、JICA(国際協力機構)の招きでアジアやアフリカ、中南米13ヵ国の14人が今月17日から3週間の日程で石川県を訪れている。もちろん、金沢大学も協力している。

 JICAの研修員はそれぞれの国の政府の自然保全や環境担当の専門官やマネージャー、生物資源研究所の研究員だ。石川プログラムのテーマは「持続可能な自然資源管理による生物多様性保全と地域振興~『SATOYAMA イニシアティブ』の推進~」。能登半島や白山ろくで、日本の里山や里海の伝統的知識や生物多様性に配慮した農林漁業の取り組みを学んでいる。25日は能登の炭焼きの窯場や塩田を訪ね、26日は実際に漁船に乗って、富山湾の定置網漁の現場に出た。雨降る早朝3時。網を引くとことろから、魚の選別、出荷までを見学し、定置網のどこが環境に優しく持続可能なのか、魚の品質管理とその経済性について、400年続く日本の漁業の知恵を学んだ。

 そして、きのう27日は輪島市にある「石川県健康の森」交流センターでJICA主催のシンポジウムが開かれた。アカマツ林に囲まれたホール。シンポジウムのテーマは「世界は里山里海に何を学ぶのか」。国連大学高等研究所上席局員研究員の名執芳博氏、金沢大学教授・学長補佐の中村浩二氏が講演した。パネルディスカッションは壮観だった。先述の両氏のほか環境省自然環境局、石川県環境部、国際協力機構地球環境部の職員ほか、研修を受けれた製炭工場の経営者、製塩会社のスタッフ、これに研修生14人が加わり、総勢22人のパネリストが「SATOYAMA イニシアティブの実践に向けて~地域のそれぞれの立場から~」をテーマに報告や意見交換をした=写真=。

 自身これまでシンポジウムを含め5つのプログラムに参加し、うち2つのプログラムでは講師やパネル討論のコーディネターとしてかかわった。彼らの質問が経済合理性や科学的論拠など多岐にわたる。「SATOYAMAイニシアティブの到達目標はどこにあるのか、そのイメージを示してほしい」と質問をされたとき、私自身がドキリとした。確かに、その解はまだ誰からも提示されていないのだ。「伝統的に磨かれた里山の知恵や技術を、21世紀型の持続可能な英知としてさらに磨きをかけていきましょう」と答えるのがせいぜいだった。以下は質疑応答のやり取りの一例だ。

イスタント氏 (インドネシア林業省国立公園長):SATOYAMAイニシアティブ(SI)というのはEcosystemの一つだと思う。里山における生物多様性を守るためのガイドラインのようなものはあるのか。
宇野:ガイドラインはないと思う。地域の人々の自然と共生しようという気があるかないかによって、生物多様性を守ることができる。
ジャイシャンカ氏(インド国立生物多様性局技術支援員):日本のSIは現在どの段階か。
宇野:能登は日本の産業化の影に隠れていた。石油の問題や地球温暖化などにより、今は持続可能な利用や人と自然が共生している能登のスタイルが見直されている。日本ではSIはまだイントロダクションの段階だと思う。
ジャイシャンカ氏:イニシアティブを始めるときに共通の課題はあるか。
宇野:現地の人の生活や考えを尊重する必要がある、SIという概念を押し付けてはいけない。
ジャイシャンカ氏:では、SIを市民にどう教えますか、具体的な行動は・・・。

 上記のように里山イニシアティブへの具体論な質問がどんどんと投げかけられる。世界には里山と同じような地域(ランドスケープ)があり、フランスでは「テロワール」、スペインでは「デヘサ」、フィリピンでは「ムヨン」、韓国では「マウル」と呼ばれている。こうした地域には共通して、市場合理性の波や、若者が都市に流出するなどの現象が表れている。

 シンポジウムでふと考えた。里山イニシアティブをこんな言葉で表現してみるとどうだろう。「里山イニシアティブは世界の地域興しだ」と。地域興しなら日本は長年やっている。地域興しの3つの条件がある。「若者」「よそ者」「バカ者」の3つの人的ファクターだ。若者は地域の担い手、よそ者は客観的な価値判断、バカ者は専門性が特徴だ。ならば、よそ者を外国人、バカ者を大学・研究機関の研究者に置き換えて、世界の人々と協力して里山イニシアティブ=世界の地域興しをやっていきましょう、と。

⇒28日(日)金沢の天気  くもり

☆能登から金沢への視線

☆能登から金沢への視線

 金沢に住んで、能登を仕事で行き来しながら最近思うようになった。「金沢のこの停滞感は何だろう」と。能登、とくに奥能登の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の首長たちの迫力が違う。「珠洲市が乗るか反るか、この10年が勝負です」と泉谷満寿裕市長は4年前に名刺交換をしたときに語った。それから、金沢大学のプログラム誘致に動いた。奥能登には高等教育機関がなく、「大学を」との地域のニーズとマッチしたことが背景にある。さらに、大学が研究交流施設として使いやすいようにと、改修工事のため4600万円の予算付けに市長自ら動いた。決して楽ではない財政の中でのやり繰りに、自治体の期待と熱意が伝わってきた。

 昭和29年(1954年)の合併時に3万8千人だった人口が半世紀余りで1万7千人と2万1千人も減った。そして高齢化も急テンポです進む。ことし7月に全国に先駆けて地上デジタル放送への完全移行を成功させたのも、高齢世帯の対策をどうするかということが市長自らを走らせた。6月に再選を果たした泉谷氏は「あと6年」と自ら到達年を設定して、手探りながら環境問題や財政建て直しなど次世代に引き継ぐ政策を打つ。市長だけではない。市職員からも切実感が伝わってくる。大学のプログラムに参加する都会からの移住者への対応も実に丁寧だ。

 そんな珠洲市のいまの姿を見ていると、金沢市のことが気になる。行政や商店街からは「金沢が停滞しているのは、金沢大学が郊外に移転したからだ」「2014年に新幹線が開通すれば景気浮揚のチャンスだ」との声が聞かれる。この言葉を聞いただけで、「金沢はいつから他人依存症になったのだろう」と愕然してしまう。

 歴史や文化的な背景を探ると、金沢は2度没落している。明治維新後と戦後だ。武家社会に成り立った政治経済の構造は根底から崩れた。映画化され話題になっている著書『武士の家計簿』を読めば、その悲惨さがにじみ出ている。武士の惨憺たる姿である。そして戦後、陸軍第九師団司令部があり「軍都」と名乗った時代が去り、一時低迷した。こうして振り返ってみると、金沢の人々がオリジナルに創り上げた地域再生のための独自の工夫というのは一体どこにあるのだろうかと考えてしまう。殿様任せ、国政任せ、奇妙な風土が定着した観があると感じるのは私だけだろうか。

 新幹線が来るのならば、どう魅力的な街づくりをしたらよいのか、市民サイドから湧き上がるアイデアが必要だ。官製ではなく、民が動く仕組みを。あす28日は金沢市長選だ。そんなことを考えて、一票を投じたい。

※写真は加賀藩大名の隠居所・成巽閣(せいそんかく)の石垣

⇒27日(土)・七尾市の天気  くもり