⇒トピック往来

☆トクソウの落とし穴

☆トクソウの落とし穴

 大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件を隠したとして、犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の判決が30日午後、大阪地裁であった。裁判長は2人に懲役1年6ヵ月、執行猶予3年を言い渡した。2人は即日控訴した。

 政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に捜査するのが地検特捜部だ。東京地検特捜部が発足したのが1947年。10年後の1957年に大阪地検特捜部ができた。さらに39年後の1996年に名古屋地検にも特捜部が置かれ、「3特捜」の態勢となった。

 名古屋地検特捜部が発足した翌年、さっそく「手柄」を立てた。1997年10月、当時北國銀行(金沢市)の現役の頭取であった本陣靖司氏(2005年11月無罪確定)と石川県信用保証協会役員3人を背任行為で逮捕したのだった。容疑はこうだった。1993年、北國銀行が同県の機械メーカーに8000万円の融資をしていたが、このメーカーが倒産。信用保証協会は、担保不足などを理由に代位弁済(負債の肩代わり)をいったん拒否したが、後になって応じた。この背景には、頭取が協会に対し、「(信用保証協会への)拠出金の負担に応じない」などと圧力をかけた上で代位弁済をさせ、損害を与えたと特捜部は判断。信用保証協会に対する背任の共同正犯としたのだった。

 一審(金沢地裁)では、本陣氏と協会役員らに執行猶予付きの有罪判決。「役員と頭取が共犯関係になって信用保証協会に圧力をかけて不正に肩代わりさせ、8000万円もの損害を出した」と認定した。この判決に対して協会役員3人は有罪判決を受け入れたが、本陣氏のみが控訴した。二審(名古屋高裁)では、協会役員でなく、代位弁済にかかわれる存在でもなかった本陣氏が役員らと共謀する「身分なき共犯」が成り立つかどうかが争われた。判決は一審判決を支持して懲役2年6ヵ月、執行猶予4年の有罪判決。本陣氏側はこの判決を不服として上告した。

 裁判の流れは最高裁で逆転する。2004年9月10日、最高裁第二小法廷は、事実誤認があるとして二審への差し戻した。当時の新聞報道によると、(1)石川県内の自治体や金融機関が応分の負担をするなかで、北国銀行だけが拠出金を出さないという態度を実際に取り得たのかどうか疑問がある、(2)協会役員は利害得失を総合的に判断して態度を決定する立場にあり、代位弁済が背任行為だったとは速断できない、(3)代位弁済を拒否するという事務担当者間の決定を役員交渉で覆したことを不当とはいえない―などと指摘。有罪とした二審判決について「事実を誤認し、法律の解釈適用を誤った疑いがある」と検察側が主張する事件の構図そのものに疑問を投げかけたのだった。

 2005年10月、差し戻し控訴審となる二審(名古屋高裁)では、「当時頭取が協会役員と背任の共謀を遂げたと認定するには合理的な疑いが残る」と判断して無罪判決を下した。一方、既に有罪判決が確定していた協会役員に対しては、背任罪が成り立つとした。同年11月、名古屋高検は「適法な上告理由を見出せなかった」として上告を断念、本陣氏の無罪が確定した。

 逮捕当時、メディアの論調はどうだったのか。「銀行の現職頭取が逮捕されるのは極めて異例のことで、大きな注目を集めたが、この事件は単なる銀行トップの不祥事にとどまらない。事件の背景には、地銀と信用保証協会の間の密接な関係がある…」などと最初から「地域の癒着」を匂わせる論調もあった。ただ、頭取の逮捕直後、名古屋の地検回りの知り合いの記者から「トクソウでは『ちょっと無理があったかも知れない』とささやかれている」との話を聞いた。さらに記者に尋ねると、当時は名古屋地検に特捜部が発足したばかりで、「東証一部の上場企業で、しかも現役の頭取なら大きな手柄になるので、功をあせったのではないか」との解説してくれた。

 単純な話だ。特捜部というセクションがあるから、配属された検事は手柄を挙げたいと職業意識をかきたてる。政治家汚職、高級官僚が介在する事件、大型脱税、経済事件…。メディアもこぞって注目する。そこで、特捜は分かりやすく、きれいな事件のストーリーや構図を描こうとする。ただ、現実をすべてストーリーや構図にあてはめようとすれば必ず無理が生じる。しかし、もう後戻りができない。そこで、そのギャップを埋めようと必死になり、大阪のようなFD改ざんや、名古屋のような「身分なき共犯」のこじつけ、となる。人間くさい話だが、構造的な落とし穴かもしれない。もちろん、この落とし穴は「特捜部廃止」で問題の解決などと言っているのではなく、取り調べの可視化(録画・録音)など多様な視点と改革を経なければ改善できないことは言うまでもない。

⇒30日(金)夜・金沢の天気  あめ

★畠山重篤氏の森への想い

★畠山重篤氏の森への想い

 「森は海の恋人」運動の提唱者で、気仙沼市在住の畠山重篤さんが、2011年の国際森林年を記念した国連森林フォーラム(UNFF)のフォレストヒーロー(世界で6人)に選ばれ、先月9日、ニューヨークの国連本部で表彰された。畠山さんは20年以上も前から広葉樹の植林を通じて森の環境を育て、川をきれいに保ち、カキ養殖の海を健康にしてきたことで知られる。

 震災後、畠山さんとは3回お話をさせていただくチャンスを得た。1回目は震災2ヵ月後の5月12日にJR東京駅でコーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられた。2回目は9月2日、輪島市で開催したシンポジウム「地域再生人材大学サミットin能登」(主催:能登キャンパス構想推進協議会)で。シンポジウムが終わり、居酒屋で地域の人たちと畠山さんを囲んで話し込んだ。3回目はことし2月2日、仙台市でのシンポジウム「市民による東日本大震災からの復興~創造と連携~」(主催:三井物産)の交流会で。9月のシンポジウムのお礼の挨拶をした。すると畠山さんの方から、「内緒なんだけれど、今度ニューヨークに表彰式があるんだ」とうれしそうに話された。UNFFのフォレストヒーローのことが新聞記事になったのはその数日後だった。

 しかし、畠山さんの受賞の喜びは半ばだろう、と想像している。輪島での講演でこう述べていた。「戦後の拡大造林計画により雑木林が広がっていたのですが、エネルギー革命により薪炭林が役に立たなくなり、お金になるスギ、ヒノキを植えることになったのです。問題は木の種類ではなく、きちんと管理されているかどうかです。昨夕(9月1日)、飛行機に乗って上空から見ていたら、能登半島でもいかに真っ黒の山が多いかがよく分かります。つまり、貿易の自由化と為替などの問題があり、外材を買った方が安い時代になったため、せっかく植えたスギが伐期を迎えているのに、山に全然手が入らず、枝と枝が重なって日の光が差し込まない、下草が生えない、雨が降れば赤土が一気に流れる。つまり、海にとって良くないことばかりが川の流域にはあるということです」。受賞はしたものの、日本の山林では問題が山積している、と忸怩(じくじ)たる思いがあるのではと察している。5月12日にお会いしたとき、山林をもう一度何とかしたいと語っておられたことと重なる。

 「森は海の恋人運動」を続けてきた畠山さん。海の復興、山の復権、地域の再生、どれも重いテーマを訴えて全国各地で講演が続く。来たる4月3日、受賞を記念して畠山さんの「海と共に生きる~よみがえる海の生き物・復興へのメッセージ~」と題した講演が日経ホール(東京)である。(※写真は、2月2日、仙台市でのシンポジウムでパネリストとして意見を述べる畠山重篤氏)

⇒20日(祝)夜・金沢の天気  くもり

☆3・11から考える

☆3・11から考える

 東日本大震災(3月11日午後2時46分)が起きたとき、金沢市内の金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」の講師として、「広報の裏ワザ教えます」「マスコミを通していかに広報するか」と題して講演とワークショップを開いていた。社会人30人ほどの参加があり、立ちながらの講演だったせいか、金沢での揺れ(震度3)にはまったく気づかなかった。午後3時ごろの休憩時間に、「東北でかなり大きな地震があって大変なことになっている」と別の教授が耳打ちしてくれた。自宅に帰って、テレビで流されるNHKのヘリコプターからの空撮映像にくぎ付けになった。あの衝撃から1年が経った。

 昨年5月に実際に訪れた気仙沼市で、津波によって湾岸の陸に打ち上げられた漁船=写真=に目を見張った。この世のものとは思えない光景だった。その船は巨大ながれきと化して今もその姿をさらしているようだ。復旧の道すらまだ遠いのか。

 今回の大震災から学んだことが多々ある。その一つが日本は「災害列島」であるということだ。地震だけではない。津波、水害、雪害、火災、落雷などさまざまな災害がある。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)は現代人への災害に備えよとの戒めの言葉だろう。改めてかみしめる言葉だ。

 二つ目は「災害は身の回りで起きる」ということだ。金沢は「加賀百万石」の優雅な伝統と文化の雰囲気が漂う街と思われている。一方で、江戸時代からの防災の街でもある。加賀鳶(とび)に代表される金沢の自主防災組織がある。もともと、加賀藩が江戸本郷の藩邸に出入りの鳶職人で編成した消防夫が始まりで、大名火消し組織の中でも威勢の良さ、火消しの技術で名高かったとされる。また、金沢市内には「広見(ひろみ)」と呼ばれる街中の空間が何ヵ所かある。ここは、江戸時代から火災の延焼を防ぐため火除け地としての役割があったとされる。また、城下町独特の細い路地がある町内会では、「火災のときは家財道具を持ち出すな」というルールが伝えられている。

 なぜそこまで、と考える向きもあるだろう。気象庁の雷日数(雷を観測した日の合計)の平年値(1971~2000年)によると、全国で年間の雷日数がもっとも多いは金沢の37.4日となっている。雷が起きれば、落雷も伴う。1602年(慶長7)に金沢城の天守閣が落雷による火災で焼失した。石川県の消防防災年報によると、県内の落雷による火災発生件数は年5、6件だが、多い年で2002年(平成14)に12件発生した。1月や2月の冬場に集中している。雷が人々の恐怖心を煽るのはその音だけではなく、落雷はどこに落ちるか予想がつかないという点だ。

 そして、三つ目は「災害の多様性」である。たとえば金沢は落雷だけではない、地震もある。直下型地震を起こすとされる、長さ20㌔ほどの「森本・富樫断層帯」が市内の中心地を走っている。中心地を走っているというのは、かつて断層でずれたくぼ地などを道路として街が形成されたようだ。その市街地を襲った地震が、1799年(寛政11)6月29日の金沢地震だ。この地震の推定マグニチュードは6.0、金沢城下を中心に多くの被害が出た。金沢城でもこのとき一部石垣が崩れ、塀が倒壊した。森本・富樫断層帯は、2001 年からの30 年間に地震が発生する可能性は0~5%で、日本の主な活断層の中でも可能性の高いグループとされている(地震調査研究推進本部地震調査委員会)。

 金沢市では、この断層でマグニチュード7.2規模の直下型地震が起きた場合、避難者数19万人、死傷者数1万2千人と想定している。金沢は戦災を免れた分、古い家屋が残る街並みである。決して非現実的な数字ではないだろう。日本人の宿命として、災害とどう向き合うか。

⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

☆上勝 奇跡の葉っぱ-下-

☆上勝 奇跡の葉っぱ-下-

  上勝町に宿泊して一番美味と感じたのは「かみカツ」だった。豚カツではない。地場産品の肉厚のシイタケをカツで揚げたものだ。上勝の地名とひっかけたネーミングなのだが、この「かみカツ丼」=写真=がお吸い物付きで800円。シイタケがかつ丼に化けるのである。こんなアイデアがこの地では次々と生まれている。全国的に上勝町といってもまだ知名度は低いが、「葉っぱビジネス」なら知名度は抜群だ。このビジネスはいろいろ考えさせてくれる。女性や高齢年齢層の住民を組織し、生きがいを与えるということ。「つま物」を農産物と同等扱いで農協を通じて全国に流通するとうこと。ビジネスの仕組みを創り上げたこと。たとえば、注文から出荷までの時間が非常に短い。畑に木を植えて収穫する。山に入って見つけていたのでは時間のロスが多いからだ。ただし、市場原理でいえば、つま物の需要が高くなって価格が跳ね上がることはありえないだろう。

    過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのか

 上勝は葉っぱビジネスだけではない。バイオマスエネルギーにも取り組んでいる。上勝町の面積の89%が森林。この資源を有効利用するため、間伐材などの未利用の木材をチップ化して燃料にしている。町の宿泊施設「月ヶ谷温泉・月の宿」ではこれまでの重油ボイラーに替えて、ドイツ製の木質チップボイラーを導入し、温泉や暖房設備に利用している=写真=。重油ボイラーは補助的に使っている。木質チップは1日約1.2トン使われ、すべて同町産でまかなわれている。チップ製造者の販売価格はチップ1t当たり16,000円。重油を使っていたころに比べ、3分の2程度のコストで済む。町内では薪(まき)燃料の供給システムのほか、都市在住の薪ストーブユーザーへ薪を供給することも試みている。地域内で燃料を供給する仕組みを構築することで、化石燃料の使用削減によるCO2排出抑制を図り、地域経済も好循環するまちづくりを目指している。さらに、森林の管理と整備が進むことになり、イノシシなどの獣害対策にもなる。

 上勝ではさらに再生可能エネルギーの開発を進めている。風力、小水力、バイオマスの三本柱。最大の課題は経済性という。風力は初期投資が大きいので、どのように資金調達をし、どう返済していくか。水力は風と違って変動が小さいが、渇水期もあるので、季節による水量と発電量を推測し、そこから収益可能性を考えていくというシュミレーションは今後の課題としてあるようだ。さらに、土石流でこわれた場合にはどうするかなど。風力発電は地権者との話し合い、土地の境界確定も必要となる。小水力についても、地元との水利権の交渉も必要となる。そして、再生可能エネルギーが開発されたとしても、これだけでは上勝の特徴は出ない。エネルギー事業に観光ビジネスをかみ合わせて、多様な雇用・収入源を得ていく。地域が生き残っていくための仕組みづくりをどう構築するか、だ。これが、葉っぱビジネスから再生可能エネルギーへの上勝の次なるステップなのだろう。

 上勝町を視察して思うことは、過疎地における公共とは何か、何をしなければならないのかということだ。人々の生きがい、経済の活性化、移住で若者人口を増やすなど取り組むべき課題はいくつもある。これを突き詰めていくと、採算が困難な事業分野で、いかに経済と調整して事業を進めるのかということになる。そうしないと持続可能ではないからだ。その解は、単独ではできないので、他と連携していく、外需へのアプローチということになる。これを横石氏は「ハブとスポークの発想」にたとえた。いかに広げ、域内に人を呼び込むか、共感を得るか、だ。これにまい進する上勝の人々の努力を讃えたい、そして見習いたい。

⇒3日(土)朝・金沢の天気 くもり

★上勝 奇跡の葉っぱ-中-

★上勝 奇跡の葉っぱ-中-

 「葉っぱビジネス」のカリスマ、横石知二氏=写真=の話ぶりは明確で、修羅場をくぐってきた人生経験に裏打ちされた言葉は蓮田のように深い。28日の講演は以下続く。

 葉っぱビジネスは軌道に乗っているものの、平均年齢70歳、高齢化比率49%の上勝町はいまでも危機感を募らせている。が、世の中の風の流れが変化し、3年ほど前から「田舎暮らし」のニーズが強くなってきた。昨年、上勝町での就業や起業、定住を目指す学生・社会人のインターンシップを募集したところ、260人(18-65歳)の参加があった。うち実際に移住したのは16人だった。そのほとんどが社会性や地域性を目的とし、社会に貢献したいという気持ちを持つ若者たちだ。つまり、彼らが来る目的は、自分が何をやりたいというよりも、社会に役にたつ、認められたいというのが動機のように思える。

     応援ではなく、共感を得る時代

 ところが、彼らには自分が起業するという意識は薄く、自身が会社を立ち上げる、新しく仕事を創るという発想に乏しい。日本全体がチャレンジ性が薄まっている中、受け身型になっていると常々考えている。事業をすることで地域が活性化し、社会貢献の意識があっても事業性がなければ継続しない。しかし、社会貢献をしようという若者を受け入れることは大いにプラスである。それはなぜか、現代は「役割ビジネス」だと思うからだ。

 では、「役割ビジネス」とは何か。地域にとって必要なソーシャルビジネスやコミュニティビジネスの担い手は少ないが、それは現在の社会自体が人材養成をする環境にないからだ。リスクを避けている。ただ、あなただったらこの仕事ができるというビジネスだったら、UターンやIターンの人材はその能力を発揮する。ITやデザインなど、個々の若者たちが有する能力は優れている。これが役割ビジネスだ。ただ、「横石知二」の替わりをやってくれと言われたら、皆ここから離れていくだろう。そこが難しいところだ。やはり、ステップバイステップで人間力を高めていく、仕事を教えるのではなく、生活のなかで生きる力をつけてもらうことが肝心なのだ。

 役割ビジネスは 一人ひとりの社員に役割を持たせるというもの。横並びではない。また、誰にでもできるというものでは稼げない。横並びは安いコストへの競争となっていくので、横並びから抜け出ていかなければならない。上勝ほど地域を看板に成功しているところは他にない、と確信している。所得も高く、1200万を超える収入の農家もある。要は「個」の力をいかに発揮させるか、持っている力の最大限を追求する、それによって人間は変わってくる。人間の力、10の能力がある人が競争心を失っていくと生産量が落ちるものだ。

 モノをつくるところからの発想ではなく、この人だったら何ができるかというところからの発想が必要だ。人と地域と商品が輝く舞台づくりができたのが、上勝の成功要因だと考えている。昔、棚田は荒れていたが、現在はそこの米が高く売れるようになった。そこにはハブとスポークの発想がある。棚田を耕すという発想がまずあるのではなく、棚田で幸せを実現するという目標(ハブ)を置き、そこから棚田のファン、オーナー、研究、ゾーン、インターン等の複数のスポークを作る。いろいろなスポークをつくり、多くの人とつながることによって交流・循環ができてくる。それにはリーダー型プロデューサーが必要だ。

 いいモノをつくっても売れない時代でもある。むしろ、共感を得ることで応援団ができ、いいモノが売れるような時代になってきている。「あなたが作ったものだったら買いたい」という共感。そういう時代になってきた。価値が品質以外のところに生まれてきている。共感する人をどれだけ自分の地域に引っ張ってくるか、だ。

⇒2日(金)朝・金沢の天気   はれ

☆上勝 奇跡の葉っぱ-上-

☆上勝 奇跡の葉っぱ-上-

 29日朝、徳島県の山間部にある上勝町(かみかつちょう)は雪だった=写真=。28日夜からの寒波のせいで積雪は5㌢ほどだが、まるで水墨画のような光景である。ただ、土地の人達にとって、この寒波は31年前の出来事を思い起こさせたことだろう。1981年2月2月、マイナス13度という異常寒波が谷あいの上勝地区を襲い、ほとんどのミカンの木が枯死した。当時、主な産物であった木材や温州みかんは輸入自由化や産地間競争が激しく、伸び悩んでいた。売上は約半分にまで減少し、上勝の農業は打撃を受けていた。そこへ追い打ちをかけるように強力な寒波が襲ったのだ。主力農産品を失って過疎化に拍車がかかった。若年人口が流出し、1950年に6356人あった上勝町の人口は一気に減り、2011年には1890人にまで低下した。高齢化率は49%となった。人口の半分が65歳以上の超高齢化社会がやってきた。

           葉っぱを農産物に、お年寄りにタブレット端末を

 上勝町を訪れたのは2月27日から3日間。金沢大学と能登半島の自治体(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)でつくる任意団体「能登キャンパス構想推進協議会」(会長は金沢大学社会貢献担当理事・副学長)の共同調査研究事業の一環として、研究者と自治体の若手職員が調査のため視察に訪れた。地場産品をいかにマーケットに乗せて流通させ、シェアをとり、ブランド化するかという「6次化」をテーマとした先進地調査だった。事前に本を読み、話し合い、勉強もた。27日に上勝をバスで訪れて、現地に降りた。ある職員がつぶやいた。「これは厳しいな。能登と比べものにならない」と。谷が深く、平地が少ない。当然日照時間も平地より少ない。農業にとっては明らかに条件不利地である。しかも、労働力人口の半分は65歳以上の高齢者だ。

 しかし、上勝には奇跡が起きた。高齢者が主体となって年間で2億6千万円も売り上げる産品を見つけた。多い人で年収1200万円。94歳のおばさんが木に登って採取し、タブレット端末で受注する。そして今年秋には、その高齢者たちが生き生きと働く様子が『人生、いろどり』というタイトル名の映画にもなるという。主演は、吉行和子や富司純子、中尾ミエら。絶望の町に奇跡を起こした産品とは「葉っぱ」である。

 「彩(いろどり)」とブランド名がついている。もみじや柿、南天、椿の葉っぱや、梅や桜、桃の花などを料理のつま物として商品化したもの。山あいの村では自生しているが、市場出荷が本格的になるにつれ、栽培も盛んに行われるようになった。採取は掘り起こしたり、機械を用いない。しかも、野菜などと比べて軽くて小さいので高齢者には打ってつけの仕事なのである。懐石料理など日本食には欠かせない、このつま物はこれまで店が近くの農家と契約したり、料理人が山に取りに行ったりすることが多かった。これを市場参入させたのが当時、農協の営農指導担当だった横石知二氏(1958年生)=写真=だった。

 つま物を市場参入させるひらめきのきっかけはこうだった。以下、横石氏の講演から抜粋する。1987年ごろ、ミカン栽培に見切るをつけて何を町の特産品にしたらよいか悩んでいた。たまたま大阪の寿司屋で2人の若い女性客が、添え物として皿に飾られていた葉っぱを手にしているのを見た。そしてこんな会話が耳に入ってきた。「きれいね。家に持って帰ろうか」と。横石氏はひらめいた。「つま物で何かできるかもしれない」。山あいの上勝町には、和食に添えられる季節の葉っぱや花はいくらでもある。このひらめきをビジネスに育て上げるまでが大変だった。地元の農家に説明しても、初めの頃は「葉っぱが金に化けるなんて考えられない」といった拒絶反応がほとんどだった。農家を説得して回り、ようやく葉っぱを商品として出荷することにこぎつけたものの売れなかった。横石氏は当時を振り返り、「利用者のニーズを把握できてなかったんです」と。そこで自腹を切って、全国の料亭や料理屋を訪ねて、どんなつまものだったら買ってもらえるのか、ユーザーの声を聞いて回った。

 こうした横石氏の地道な努力が実を結び、上勝町の「葉っぱビジネス」は見事に成功。現在は、200の生産農家(70-80歳代)が、320種類のつまものを「彩いろどりブランド」として全国に出荷する。農協で収集した販売単価や出荷数量などのデータを横石氏が社長を務める株式会社いろどりで分析し、農家へ伝達。農家はこれを分析し、翌日の牛産量や品目の選定の目安にしている。また、出荷・受注業務を効率化するため、FAXやパソコン、最近ではNTTドコモとタイップしてタブレット端末を積極的に導入している。農産物史上で葉っぱを商品化し、IT史上で高齢者がビジネスとして使う地域の事例があっただろうか。奇跡なのである。

⇒1日(木)朝・金沢の天気  はれ

★IRTイフガオ考~4~

★IRTイフガオ考~4~

 世界遺産でもあるイフガオの棚田でブランド米と呼ばれるのが、「WONDER」の米。赤米で、粒が日本のジャポニカ米と似てどちらかといえば丸い。値段は1㌔100ペソ。マニラのマーケットでは米は1㌔35ペソから40ペソなので、ざっと3倍くらいの値段だ。この米をアメリカのNGOなどが買い付けてイフガオの棚田耕作者の支援に動いているという。もう一つ、「棚田米ワイン」も味わった。甘い味でのど越しが粘つく。アルコール度数は表示されてなかったが25~30度くらいはありそうだ。ブタ肉のバーベキューと合いそうだ。イフガオでは棚田米に付加価値をつけて販売する動き出ているのだ。こうした取り組みが一つ、また一つと成功することを願う。

      「イフガオ棚田の誇り、それは人々が平等な関係でつくりあげたことだ」

 イフガオでは何人かの「親日家」と話すことができた。親日という意味合いは、かつて日本の大学で留学経験があり、日本とフィリピンの関係を前向きに考えているとの意味だ。「私は純イフガオでございます」と話しかけてくれたのはフィリピン大学のシルバノ・マヒュー教授だった。国際関係論が専門で、日本には2度にわたって13年の留学経験を持つ。イフガオ州立大学で開催した国際フォーラム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」では、「THE IFUGAO RICE TERRACES: A Socio-Cultural & Globalization Perspective」のタイトルで講演もいただいた。

 「純イフガオ」という通り、本人はイフガオ族の出身で両親はいまでもイフガオで田畑を耕している。彼に、ICレコーダーを向けて、イフガオの問題についてインタビューした。快く答えてくれた。質問のその1は、今回のフォーラムの開催の意義について感想を聞いた。

 「(世界遺産、あるいは世界農業遺産など)文化遺産に関するシンポジウムで本当に意義のあることは、例えば日本とフィリピンが国境や社会を超えて語り合う、あるいは、知恵・知識・技術などの諸問題について情報を交換し、お互いに知り合うことだと思います。これこそがグローバリゼーション、国際化であり、学問の世界、行政の世界、NPOやNGOにはそれぞれの立場がありますが、やはり文化遺産を保全・維持するためには、日本とフィリピン、あるいはアジア地域でもいいのでグローバルに話し合う会議を開催することは大変大事だと私は思います」

 質問その2はイフオガの問題について、「フォーラムの講演でマヒュー教授は、今、イフガオの人たちが抱える一番の問題は、田んぼをつくる人たちの田から心が離れてしまっていることではないかという印象を受けたのですが、そういう解釈でよいか」と質問を投げた。

 「イフガオ族には歴史上、王政というものはなかった。奴隷のような強制労働はなく、人々は平等な関係と意志で営々と棚田をつくり上げた。われわれイフガオの民はそのことに誇りに思っている。しかし、現代文明の中で、世界中どこでもそうだと思いますが、イフガオでもそうした昔のことを忘れてしまっています。昔と今とのギャップがどんどん開いていくと、保存する価値は薄くなってしまいます。ですから、例えばイフガオの人が、自分は別の所に住みたいと言って、祖先から伝えられた土地を忘れて離れていってしまうという問題を解決する方法があればいいと切に願っています」「日本でも同じようなことが農村地域で起きていると昨日のフォーラムで指摘がありましたが、日本とフィリピンで共通するこの問題をどのようにそれを防ぐかです。もちろん国際化した中では、どこにでも行けるようになっていますが、せっかく昔々の祖先につくってもらったものはやはり大事にしなければならないと思います」

 質問その3として、「日本の能登と佐渡、イフガオが今度どのように交流を持てばよいか。日本に期待することは何か」と。

 「まず、日本とイフガオということより、ご承知のように、フィリピン全体に対してイフガオは文化的にも少し特別な部分を持っています。イフガオ族の文化と、日本の昔の文化には共通点があると思います。そういうものを忘れないために、交流が必要です。これから、遺産の保存技術も含めた日本の優れた技術、あるいはお互いの考え方や価値観に関する交流をすれば、もっともっと文化遺産の保存に役立つと思います。日本の知恵とイフガオの知恵をお互いに考えながらやると、もっと効果的かと思います。そういう意味で、これから本当に日本とフィリピンが文化遺産保存のコンソーシアムという形で定期的にやれば、あるいはもうもっと広く言えば、アジアの文化遺産を一緒に考えながらやっていったら、組織化することも含めて進めばいいと思います」

 マヒュー教授の提案は具体的だった。共通する文化があれば、国境を越えて、グローバルに話し合いましょう、知恵を出しましょうと。そして国内問題や政治問題として矮小化しないこと。問題の解はその先に見えてくる。

⇒22日(日)夜・金沢の天気  はれ

☆IRTイフガオ考~3~

☆IRTイフガオ考~3~

 フィリピンは多民族国家だが、9400万人の人口の8割はキリスト教徒という。それは、16世紀から始まるスペインの植民地化や、20世紀に入ってからのアメリカの支配による欧米化でキリスト教化されていったからだ。イフガオ族は歴史的にこうしたキリスト教化、地元でよくいわれる「クリスチャニティ(Christianity)」とは距離を置いてきた。それはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置し、宣教もしにくかったということもあるが、拒んできたからだとも言われている。なぜか。

         棚田保全をどのように進めたらよいのか、現地で考える

 いまでもイフガオ族には一神教には違和感を持つ人が多いといわれる。コメに木に神が宿る「八百万の神」を信じるイフガオ族にとって、一神教は受け入れ難い。一方で、それゆえに少数民族が住む小中学校では、欧米の思想をベースとした文明化の教育、「エデュケーション(Education)」が徹底されてきた。今回の訪問では、14日に現地イフガオ州立大学で世界農業遺産(GIAHS)をテーマにしたフォラーム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」(金沢大学、フィリピン大学、イフガオ州立大学主催)を開催したが、発表者からはこのクリスチャニティとエデュケーションの言葉が多く出てきた。どんな場面で出てくるのかというと、「イフガオの若い人たちが棚田の農業に従事したがらず、耕作放棄が増えるのは特にエデュケーション、そしてクリスチャニティに起因するのではないか」と。

 世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、2001年には「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。そこまでなる耕作放棄の問題は深刻なのだ。もちろん、日本の地方の田畑も同様である。同じイフガオの棚田が展開するキアンガン市の村で農業青年と言葉を交わした。伝統的な農法は一期作だが、品種改良の稲で二期作化も進んでいる。しかし、稲作では食べるので精一杯、「No hope」と言った青年もいた。現実的な話ではある。確かに耕運機が入らず機械化されにくい棚田での労働はきついだろう。ところが、棚田を見学にやってくる観光客を乗せるトライサイクル(3輪車)は1時間30ペソである。この30ペソは現在のルート換算(1ペソ=1.75円)として50円余りだ。小売で精米1㌔の値段では35ペソなので、若者にとってトライサイクルは稲作より魅力的なのだろう。バナウエにしても、青年たちは農業から観光業(土産物販売、リライサイクルによる観光案内、宿泊業、木彫りなど土産物製造など)に従事する人たちが増えている。

 ここで考えなければならないのは、観光業に収入に依存をすればすれほど、今度は担い手がいなくなり耕作放棄で棚田が荒れ、その結果として観光地としての魅力が薄れる。そうすれば観光客そのものが減少するという、まるでデフレスパイラルの現象に陥ることは目に見えている。フォーラムでは、さまざまな提言や研究があった。

 農村のツーリズムを研究しているカゼム・バファダリ氏(FAO特任研究員、立命館アジア太平洋大学講師)は農家が潤う観光に転換をと提言した。「イフガオの農家も農業だけでは生活できない現状がある。しかし、素晴らしい環境で景色もいい、世界的に有名なので、このキャパシィーを農家が潤うツーリズムとして再構築すれば、農家の人も元気になる。日本の能登半島では、農家がホストとなる農家民宿の取り組みがある。イフガオの棚田ではこの農家民宿が見当たらない。地元の主導する観光、CBT(Community Based Tourism)として、これからの可能性は十分ありる。イフガオバージョンの観光プランを提案してみたい。イフガオのライステラスのモデルは可能ではないか」。イフガオでは従来型の観光にとどまっているので、体験や農家で宿泊するノウハウを取り入れてはどうかとの提案だった。

 佐渡市から参加した高野宏一郎市長は棚田保全について提言した。「今回のイフガオ訪問では、erosionと言いますか、大事な遺産が耕作放棄などで傷んでいるのを見て少し心が痛みました。しかし、きょうのフォーラムでは地域の研究者や行政の方々の熱気のあるparticipantというか、守ろうとする意欲に、これは大丈夫だなという自信が持てました。イフガオの棚田再生に必要なのは、どのようにコストを循環型にするか、つまりイフガオの田んぼの価値を認めてもらう世界中の人にお金を出してもらいながら保全していく方法です。たとえばプレミアム米を販売し、その売上の一部を棚田の保全のために使うという方法は佐渡でも行っている。そのノウハウならばわれわれも協力できます」と。

 イフガオと佐渡、能登の共通の問題をそれぞれに理解し合えたフォーラムだった。いくつか具体的な提案もあった。交流のスタートに立てたと思いがした。

※(写真・上)バナウエでは耕作放棄された土地の一部で宅地化が進んでいる、(写真・下)土産物で売られているキリストの12使徒の最期の晩餐の木彫。イフガオでもクリスチャニティは徐々に進んでいる

⇒21日(土)夜・金沢の天気   くもり

★IRTイフガオ考~2~

★IRTイフガオ考~2~

バナウエはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置するイフガオ族の村だ。2000年前に造られたとされる棚田は「天国への階段」とも呼ばれ、イフガオ族が神への捧げものとして造ったとの神話があるという。村々の様子はまるで、私が物心ついた、50年前の奥能登の農村の光景である。男の子は青ばなを垂らして鬼ごっこに興じている。女子はたらいと板で洗濯をしている。赤ん坊をおんぶしながら。車が通ると車道に木の枝を置き、タイヤが踏むバキッという音を楽しんいる子がいる。家はどこも掘っ建て小屋のようで、中にはおらくそ3世代の大家族が暮らしている。ニワトリは放し飼いでエサをついばんでいる。器用にガケに登るニワトリもいる。七面鳥も放し飼い、ヤギも。家族の様子、動物たちの様子は冒頭に述べた「昭和30年代の明るい農村」なのだ。イフガオの今の光景である。

           世界遺産であり、危機遺産でもあり

 つぶさにその様子を観察していると一つだけ気になることがあった。人と犬の関係が離れている。子供の後をついてきたり、子供が犬を抱きかかえたり、「人の友は犬」という光景ではないのだ。今回の訪問に同行してくれた、イフガオの農村を研究しているA氏にそのことを尋ねると、こともなげに「イフガオでは犬も家畜なんですよ。それが理由ですかね…」と答えた。人という友を失ったせいか、その運命を悟っているのか、犬たちに元気がない、そしてどれも痩せている。気のせいか。

 世界遺産の登録(1995年)、世界農業遺産(GIAHS)の認定(2005年)でイフガオの棚田でもっとも観光客が訪れるバナウエ市。13日、ジェリー・ダリボグ市長を表敬に訪れた。訪れたのは、同日オフガオ視察と交流に合流した同じ世界農業遺産の佐渡市の高野宏一郎市長、それに金沢大学の中村浩二教授、石川県の関係者、国連食糧農業(本部・ローマ)のGIAHS担当スタッフだ。バナウエは人口2万余りの農村。平野がほとんどない山地なので、田ぼはすべて棚田だ。バナウエだけでその面積は1155㌶(水稲と陸稲の合計)に及ぶ。市長によると、残念ながらその棚田は徐々に減る傾向にある。耕作放棄は332㌶もある。さらに驚くことに専業の農家270軒だという。マニラなどの大都市に出稼ぎに出ているオーナー(地主)も多い。耕作放棄された棚田を農家が借り受ける場合、最初の2年間は収穫の100%は耕作者側に、以降は耕作者とオーナーがそれぞれ50%を取り分とするルールがある。市長は「棚田の労働はきつい上に、水管理や上流の森林管理など大変なんだ」と話す。農業人口の減少、耕作放棄など、平地が少ない能登とイフガオで同じ現象が起きていると感じた。

 バナウエの棚田を見渡すと奇妙な光景もある。棚田のど真ん中にぽつりと一軒家が立っていたり、振興住宅のように数十軒が軒を並べたり、棚田が一部に宅地化して、世界遺産や世界農業遺産の景観と不釣り合いなのだ。A氏に聞くと、ここ10年余りで棚田に造成されたものだという。実は人口自体は増える傾向にある。観光業者を営む人々が増えているのだ。統計によると、2001年にイフガオを訪れた観光客は5万3000人、2010年では10万3000人と倍増した。国内の観光客は一定して5万人ほどと変わらないが、2004年ごろから外国人客が急増し、2008年からは国内客を上回るようになった。バナウエでは沿道に土産物店が軒を連ねる。バイクの横に1人乗りの籠(かご)をくつけた、「トライサイクル」と呼ばれる3輪車が数多く走り回っている。ジープニーと呼ばれる派手なデザインの小型バスも。イフガオではトライサイクルの料金は1時間30ペソ(マニラは60ペソ)だ。精米されたコメが1㌔おおよそ35ペソで市販される。コメをつくりより、トライサイクルを走らせた方が稼げると考える若者が増えている。

 こうした兆候は1995年に世界遺産に登録されたころからすでに出始めており、2001年には世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。

⇒13日(金)夜・バナウエの天気  くもり

☆IRTイフガオ考~1~

☆IRTイフガオ考~1~

 昨夜(11日)フィリピンのマニラに入った。金沢から直線距離にしてざっと300㌔だ。成田からマニラへは1時間30分遅れ、入国管理のチェックに長蛇の列、荷物の渡し場ではベルトコンベアーが故障、、チャーターしていたタクシーが見当たらずさらに遅れた。結局マニラ市内のホテルに到着したのは真夜中の3時10分ごろ(現地時間2時10分ごろ)。同行してくれたフィリピン出身の研究生が「これがマニラよ。マニラ」と。夜中のマニラは少々ものものしかった。コンビニの「セブン・イレブン」はガードマンがどの店にも常駐していた。信号待ちで車が停まると、少女が手作りのネックスレのよなものを売りに来た。初めてのフィリピン、初日からカルチャーショックを受けた。それにしても、フィリピンは新旧、貧富がはっきりと浮かび上がる都市だ=写真=。

           マニラからイフガオへの道

 12日午前、日本の大手総合商社のマニラ支店長にフィリピンの現地情報について話をうかがう機会に恵まれた。マニラ首都圏(メトロマニラ)の人口は1800万人、第二はメトロ・セブで230万、ダバオ130万人である。一極集中の度合でいえば、東京よりマニラの圧倒的だ。ただ産業では、総合プランドといえるものはなく、OFW(Oversea Filipino Worker)と呼ばれる海外出稼ぎによる送金収入がGNPの10%にもなる。したがって全体に貧しい国であり、たとえば新車購入台数は人口9500万人のフィリピンは15万台、2700万人のマレーシア60万台に比べれば一目瞭然となる。マニラ市内を走る乗用車のほとんどは日本メーカーのものだが、多くは中古車ということになる。中古車だけではない。かつて、上野-金沢間を走っていた寝台特急「北陸」がフィリピンでは「リコール・エクスプレス」と称され、マニラ駅とナガ駅間378㌔を1日1往復走っているという。日本を走っていた時と同じ青い塗装のままで。支店長の話は機知に富んで刺激的でもあった。

 さて、フィリピンに来た目的はマニラではない。さらにマニラから車で8時間かけて移動する。その理由は。能登の里山里海(農山漁村)が国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS)に認定された(昨年6月)。半島の立地を生かした農林漁業の技術や文化、景観が総合的に評価されたものだ。これを受けて、昨年より石川県の地域連携促進事業の一つとして、「世界農業遺産GIAHS『能登の里山里海』実施支援」プログラム(代表・中村浩二教授・学長補佐)を実施している。つまり、大学としてもいろいろとできることはやりましょう(社会貢献)との意味合いだ。今回のマニラ訪問は事業の柱の一つである世界農業遺産の他地域(サイト)との交流をはかろうとの狙い。マニラはその一歩。ルソン島北部のイフガオの棚田に行く。1995年にユネスコの世界遺産にも登録されているイフガオの棚田は世界農業遺産の代表的なサイトだ。そこの関係者とネットワークをつくりたいとの計画している。ちなみにIRTはIfugao Rice Terracesの現地略称だ。

 あす13日から14日で、イフガオの棚田で視察とフォーラムを開催する。現地の自然保護協会の関係者やフィリピン大学、イフガオ州立大学などの研究者との交流を通じて、能登サイトとのネットワークづくりの道筋をつける。今回の現地交流(イフガオ棚田視察とフォーラム)では、同じ世界農業遺産の佐渡サイトから高野宏一郎市長、そしてローマに本部がある国連食糧農業機関(FAO)のスタッフも参加することになっている。イフガオ、佐渡、能登の3サイトが集まり相互理解を深め、今後の協力体制を話し合う。ささやかながら能登の明日に向けた新たな取り組みになればと、マニラに来て、能登を想う。

⇒12日(木)午後・マニラの天気  はれ