⇒トピック往来

☆「Iターンの島」~2

☆「Iターンの島」~2

 9日朝、ときおり小雨が降る梅雨空。七類(しちるい)港を午前9時30分発のフェリー「くにが」(2375㌧)に乗り込んだ。フェリー乗り場は釣り客などでにぎわっていた。壁には「『竹島』かえれ島と海」と書かれた看板が掲げられていた。「竹島の領土権の確立と漁業の安全操業の確保を」と記された島根県の看板だ。

 竹島は隠岐諸島から北西157㌔の島。1905年(明治38年)1月、竹島は行政区画では「島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地」として正式に日本の領土となった。戦後、韓国は日本が放棄する地域に竹島を入れるようにと連合国に要求したが拒否された。が、日本領として残されることを決定したサンフランシスコ講和条約発効直前の1952年(昭和27年)1月、韓国の李承晩は「李承晩ライン」を一方的に設定して竹島を占領した。1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結まで、韓国はこのラインを越えたことを理由に日本漁船328隻が拿捕、日本人44人が殺傷したとされる。また、海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび16隻が攻撃された。2011年現在韓国が武力によって占有しているため、日本との間で領土問題が起きている。なんとも理不尽な話だ。

         よそ者、ばか者、若者が島を変える

 午後0時40分ごろ、フェリーは海士町の菱浦港に着いた。後ろから降りてきた中年女性が「エーゲ海の島みたいね」とつぶやいたのが聞こえた。自分自身は旅行パンフレットでしか見たことがないのだが、確かにエーゲ海のように入り組んだ島々が点在するイメージだ。ギリシャのイオニア諸島に生まれ、1890年代、島根県の松江師範学校に英語教師として赴任した、後の紀行文作家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)もこの菱浦を訪れ8日間滞在した。生まれた育ったエーゲ海の島々の思い出を重ねたのか、「ここに家を建てたい」と言っていたようだ(「小泉八雲隠岐来島120周年記念企画展」パンフ)。菱浦の道路沿いにある八雲とその日本人妻・セツの座像が海を眺めている。

 視察の目的の本論に入る。なぜ海士町が注目されているのか。2300人の小さな島にこの7年間で310人も移住者(Iターン)が来ているのだ。この島は水が湧き、米が採れ、魚介類も豊富で暮らしやすい。でも、そのような地域は日本でほかにもある。なぜ海士町なのか、それを考えるワークショップが午後2時から海士町中央公民館で開かれた。参加者は今回の視察ツアーを企画した島根大学名誉教授の保母武彦氏、一橋大学教授の寺西俊一氏、国連大学高等研究所、静岡大学、大阪大学、自治体など40人余り。町側は山内道雄町長ほか若き移住者ら5人が集った。事例報告したのはその移住者の一人で、ソニーで人材育成事業に携わった経験がある岩本悠氏。「学校魅力化による地域魅力化への挑戦」と題して、少子化の影響を受け、統廃合の危機が迫る地域の県立島前(どうぜん)高校をテコに、「子育ての島・人づくりの島」へと教育ブランドへと盛り上げてきたプロセスを詳細に語った。「ピンチは変革と飛躍のチャンス」ととらえ、県立高校に町がかかわり、ときに対立しながらも一体となって高校改革を進めていく。そのコンセプトを地域創造に。生徒たちは、地域を元気にする観光プランを競う「観光甲子園」にエントリーしてグランプリを獲得した。この島では、農水産物だけでなく教育まで魅力あるもに発信する。そして全国から高校生が集まり、島の生徒と合わせ60人、2クラスになった。その「島前高校魅力化プロデューサー」が岩本氏だ。

 そのほかにも、元新聞記者で島で広報を担当する岡本真里栄氏、「発地型」の観光を推進する青山敦士氏、乾燥なまこを中国に売り込む宮崎雅也氏、地域塾を主宰する豊田庄吾氏がパネル討論を展開した。この話を聴くと、いかに島に新たなアイデアと若いエネルギーが吹き込まれているか実感できた。その中で、「よそ者、ばか者、若者がこの島を変える」とのたとえが出た。つまり、よそ者=客観性、ばか者=専門性、若者=エネルギーが島を変えるのだ。では、彼らを移住へと導いたのはだれか。町役場の担当職員や、ダメ押しで山内町長らが懸命に口説いて、彼らをケアしてきた裏舞台も見えてきた。Iターン者270人それぞれに移住のドラマがある。「海士町では昼は魚を釣り、夜は人を釣る」。岡本氏がそう述べて参加者の笑いを誘った。また、移住者がその土地で成功する秘訣について、豊田氏は「一つには自分自身を主張し過ぎないこと、地域の文化をリスペクト(尊敬)すること」と。地に足のついた言葉だった。

9日(土)夜・隠岐海士町の天気 はれ

★「Iターンの島」~1

★「Iターンの島」~1

 島根県松江市に来ている。初めて山陰地方に足を運んだ。一度訪ねたいと思っていた地域だった。8日夜は、金沢から京都駅、新幹線で岡山駅と乗り継いで、松江駅に到着したのは夜11時ごろだった。きょうから梅雨入りで、どんよりと曇っている。なぜ、北陸から山陰にやってきたのか。視察である。「場の学び」にやってきたのは松江ではない。松江は通過地点で、さらにこれから船で隠岐島・海士町(あまちょう)=写真・上=を目指す。

        いざ、隠岐の海士町へ    

 金沢大学と石川県立大学、金沢星稜大学、石川県、能登の2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)で構成してる「能登キャンパス構想推進協議会」の事業の一環として、共同調査事業を行っている。大学と地域が知恵を出し合って、どのように地域づくりや活性化を目指せばよいのか、そんなテーマで自治体とともに調査研究を行っているのだ。今回は、島根県隠岐郡の町、海士町(あまちょう)を目指してやってきた。隠岐諸島の島前三島のひとつ・中ノ島に位置する。面積33.5平方キロ、世帯数1100、人口2300人ほどの町だ。人口は1950年代に7000人ほどだったが、今ではその3分の1ほどまで減少した典型的な過疎地域だ。この島の小さな町が全国から地域おこしの町として注目されているのだ。

  「海士ブランド」と呼ばれる、地域でつくった品々である=写真・下=。「さざえカレー」、「隠岐牛」、CAS凍結商品「島風便」、「海士乃塩」、「ふくぎ茶」など島づくりで全国に売り出す。これまでの農産物や海産物を本土に送るだけでなく、加工して流通ルートに乗せる、そんな「6次化」産品に乗り出し、成功を収めている町なのだ。そして、都会からの若者たち移住者(Iターン)も増えている。

 個人的な興味もある。もう25年前にもなるが、新聞記者時代に能登半島の輪島市の海士町(あままち)を2年間かけて取材した。連載した記事は後に『能登 舳倉の海びと』(北國新聞社編集局編)のタイトルで一冊の本にまとめられた(執筆分担)。その経験から、「海士町」という文字には反応する。今回の調査ための視察は即決だった。

 輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。確かに、海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町との関連性はと考えると興味深いのだ。

 今回は11日までの3泊4日の学びの旅。題して、「Iターンの島」と題してルポする。

⇒8日(金)夜・松江市の天気   あめ

☆トップセールスの考察

☆トップセールスの考察

 世界農業遺産は通称で本来は世界重要農業資産システム(GIAHS:Globally Important Agricultural Heritage Systems)と呼ばれている。特筆すべき伝統的農業や文化風習・生物多様性の保全地域の持続可能な発展を目的に国連食糧農業機関(FAO)が2002年に定めた認定制度で、昨年6月に開催された北京での会議=写真・上=では、景観や祭礼文化などが複合的に評価された「能登の里山里海」と「佐渡のトキと共生する里山」が認定を受けた。

 北京の認定会議では、日本の2件のほか、中国・貴州省従江の案件(カモ・養魚・稲作の循環型農業)とインド・カシミールのサフラン農業も登録に追加された。この4件が加わり、GIAHS認定サイト(地域)は世界で12となった。中には、フィリピンのイフガオの棚田のようにユネスコの世界遺産と同時に認定を受けているサイトもある。認定会議は隔年ごとに開催され、次回2013年はアメリカ・カリフォルニアかアフリカで開催される予定と紹介された。

 ところが、一転して次回の認定会議「GIAHS国際フォーラム」は、石川県内で開催される見通しとなったという。新聞各紙によると、ヨーロッパ訪問中の谷本正憲・石川知事が今月23日午前(現地時間)にイタリア・ローマ市のFAO本部で、ホセ・グラツィアーノ・ダ・シルバ事務局長と会談し合意したと報じられている。認定会議はこれまでにローマ、ブエノスアイレス、北京で開かれ、石川開催は4回目となる。具体的な開催時期や場所はこれから決めるようだ。北京での会議では、EU関係者がスペインのイベリコ豚やイタリアのソレント半島のレモン園をぜひ登録させたいとGIAHS候補地を挙げていたので、ひょっとしてこれらの地区が今回エントリ-してくる可能性もある。スペインのイベリコ豚などは国際的に有名な農産ブランド品なので話題性があるかもしれない。

 それにしても、今回のGIAHS国際フォーラムなど石川県は国際会議の誘致に熱心だ。「国連生物多様性の10年」国際キックオフ記念式典(2011年12月17日-19日)、「国際生物多様性年」クロージングイベント(2010年12月18日-20日)など。この「国際生物多様性年」クロージングイベントはGIAHS会議と同様に、2008年5月、谷本知事が生物多様性条約第9回締約国会議が開催されていたドイツのボン市に自ら乗り込み、条約事務局長だったアフメド・ジョグラフ氏と直接交渉し=写真・下=、「第10回締約国会議は2010年に名古屋市で開催させると聞いている。ぜひその一連の国際会議を石川県で開催していほしい」と口説いて誘致した会議だった。実際、ジョグラフ氏はその後、石川県を「下見」に2度訪れ、能登半島や兼六園を巡っている。

 知事のトップセールスについては、「生物多様性の関連の会議ばかり」といぶかる声もあるにはあるが、逆に言えば、環境関連の国際会議、それも生物多様性や里山イニシアティブ(生物多様性条約第10回締約国会議=COP10で採択)に特化して国際会議のノウハウと人脈を築くことも石川オリジナルなのだろう。知事の戦略はそこらあたりが見えてくる。ただ、国際会議を誘致するといっても、国際学術学会などとは異なり、省庁の図式がある。たとえば、世界農業遺産は農林水産省、生物多様性条約は環境省と一本筋ではない。国際会議を誘致するにしても事前に日本政府とのやりとり(根回し)を経なければ、政府の来賓の挨拶もままならなくなる。トップセールスといっても県行政の総合力ではある。

⇒27日(日)朝・金沢の天気   はれ

★「場」立ち考~番外編

★「場」立ち考~番外編

 今月4日付のブログ「『場』立ち考~上」で、「高知市内の街角などは観光キャンペーン『リョーマ(RYOMA)の休日』のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画『ローマの休日』とひっかけている。」と書いた。翌日(5日付)の読売新聞の社会面で「『リョ-マの休日』はリメーク作?」で問題記事が掲載された。

      ~「リョーマの休日」の著作権を考える~

 その記事を要約すると。問題のポスター=写真=の図柄で、坂本龍馬姿の尾崎正直知事がスクーターに乗る写真が、静岡県焼津市の彫刻家、岩崎祐司氏の作品に「イメージがよく似ている」と、高知県に指摘があった、という。岩崎氏の木彫作品は龍馬がバイクに乗り、題も「リョーマの休日」だ。一方、県がポスターを制作した経緯はこうだ。県が観光特使に任命したタレント・大橋巨泉氏から「女性の憧れは昔はローマの休日、今はリョーマの休日」と発案があったという。

 県がことし1月にキャンペーン内容を公表した直後から著作権上の問題指摘が寄せられたため、県では弁理士と協議した上で「商標登録されておらず、著作権上の問題は生じない」と結論づけた。その後、3月にポスターデザインを決定した。ではなぜ、スクーターかというと、映画「ローマの休日」は、アン王女(オードリー・ヘプバーン)がローマ訪問中に公務を抜け出し、新聞記者(グレゴリー・ペック)と過ごした一日のロマンスを描いたもの。新聞記者が運転するスクーターの後部座席にアン王女が乗って街を巡るシーンが映画のタイトルを表すようなシーンなのだ。

 果たしてこれが著作権違反になるかどうか…。映画「ローマの休日」(1953年作品)に関しては、日本で有名な著作権裁判「1953問題」がある。アメリカでは、この映画は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に著作権表記がなかったため、公開当時のアメリカの法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、パブリックドメイン(知的財産権が誰にも帰属しない状態)となった。日本では、平成15年(2003)の著作権法改正で保護期間が50年から70年になったが、1953年の作品は2003年(平成15年)をもって著作権の保護期間が終了したものとされた。

 このことから2004年(平成16年)以降、「ローマの休日」などは格安DVDとして販売された。その後、この映画を配給したパラマウント社は日本では著作権が存続しているとして販売差し止めと損害賠償を求めて争っていたが、2007年(平成19年)12月の最高裁により著作権は消滅しているとの確定判決が下された。これが「1953年問題」と呼ばれた。この判決で、日本では「ローマの休日」はパブリックドメインとして扱われることになる。

 以上の前提で考えると、「ローマの休日」をひっかけた、いわゆる駄洒落のタイトルや、映画の名シーンを模した作品にまで著作権が発生するかとなると、ましてや商標登録などしていないのであれば、作品の「リメーク」、あるいは言葉は悪いが「パクリ」には相当しないのではないか。

⇒12日(土)夜・金沢の天気   はれ

 

☆「場」立ち考~下

☆「場」立ち考~下

 5日午後、愛媛県松山市にある正宗寺に「子規堂」を訪ねた。あの正岡子規が17歳で上京するまで住んだ住宅を移築したものと説明板に書いてある。火災で一度焼けたが、間取り図をもとに再建したものだ。玄関左手の三畳間=写真=が子規の書斎。子規はこの部屋に閉じこもって、本や書類を乱雑にしていた。勉強もさることながら、小学校のころから新聞づくり、松山中学時代には友人たちと回覧形式の雑誌づくりに励んでいたらしい。雑誌は美濃半紙を四つ折りにし、毛筆の細字で丹念に書いたものだった。子規にとって、この三畳間は「編集室」だった。後に俳句、短歌、文章を「写生」という感覚で革新した子規の原点だったのかもしれない。

  ~ 愛媛・少年子規の三畳間 ~

 子規はこのころ政治も興味を抱いた。何しろ、愛媛県は自由民権運動の盛んだった高知県と隣接していることもあり、演説会がたびたび開かれ、子規も出向いていたらしい(土井中照著『子規の生涯』アトラス出版)。それに感化されてか、松山中学の弁論大会では、自ら演説し、国会を「黒塊」と揶揄(やゆ)したことがとがめられ、「弁士中止」となった。以降、子規は演説することが禁じられる。政府による言論・出版・集会の取り締まりが厳しい時代でもあった。物書きが好きで、政治に興味があれば、当時のジャーナリズム「新聞」を目指す流れは自然にできた。

 松山中学を中退し、叔父の招きで明治16年(1883)に上京する。翌年東京大学の予備門に合格する。この同学年に夏目漱石や南方熊楠らがいる。ただ、落第し一時松山に帰り、また上京、そして吐血する。肺結核だった。2度目の帰省で俳人の大原其戎(きじゅう)を訪ねた。このときの「虫の音をふみわけ行や野の小道」が俳誌『真砂の志良辺(しらべ)』に掲載された。これが俳句デビューになった。明治20年(1887)、20歳のときだった。予備門が第一高等中学校と学制が変わり、東京帝国大学哲学科に入学したのは明治23年(1890)こと。明治25年(1892)に日本新聞社に入社、大学を退学する。後に再会する生涯の友、漱石は「つまらなくても何でも卒業するのが上分別」と卒業を忠告していたらしい。この年に松山から母と妹を東京に呼び寄せ、念願の新聞記者のスタ-トを切る。25歳だった。

 記者魂がみなぎっていたのだろう、周囲の反対を押し切って、明治28年(1895)、前年に勃発した日清戦争の従軍記者として中国・旅順などを巡った。が、休戦中で1ヵ月もしないうちに講和条約が批准され、戦地リポートを書くことはなかった(『子規の生涯』)。この中国行きが禍して、帰りの船で吐血が激しくなり神戸港に着き入院する。この後に松山に帰省し、英語教師として松山に赴任していた漱石と再会し、貸家にした漱石宅に52日間居候する。このころ松山の俳句仲間が集い、漱石もサークルに加わる。

 新聞社でも俳句や短歌を募集して掲載するなど、社内でその才能は評価されていた。一つの出会いが当時の俳句を変えることになる。子規は挿し絵の画家を探していた。紹介されたのが中村不折だった。子規と不折は、日本の絵と西洋の絵の違いについて論議をする。そのとき、子規は西洋の絵に、見たままを描く「写生」という手法があることを知る。これを俳句に応用できないかと閃(ひらめ)いた。そのころの俳句は「松尾芭蕉至上主義」で、子規は「月並」、つまり実感が伴わないものと批判し、俳句に新しい息吹を吹き込もうとしていた。そして、「俳句は文学の一部なり」と新たな俳句論を提唱した。「夏草やベースボールの人遠し」(明治31年)、「贈り物の数を尽くしてクリスマス」(同年)。5・7・5の手法に当時の新たな言葉や、身近に感じられるのもを取り入れた革新運動を始める。

 俳句だけではない。当時の古文雅語の難解な文章表現を避け、書く人の気持ちを率直に伝える文章を記することを提案した『叙事文』という論文を発表する。子規は「文章には山(もりあがることろ)がないといけないと」と提唱し、自らの俳句と文章の勉強会を「山会(やまかい)」と称した。山会は子規が享年34歳で没した明治35年(1902)後も続けられた。漱石の小説デビュー作である『吾輩は猫である』を最初に発表したのも、この山会だった。山会で好評だったものが雑誌『ホトトギス』に掲載された。

 子規が提唱した、この山会の文章は写生文と呼ばれ、「文章日本語」の改革の大きなうねりとなって、その後の文学や新聞記事、われわれの文章表現に大きな影響を与えることになる。子規の少年時代の三畳間の書斎がそんなことを語りかけてくれた。

※写真は松山市立子規記念博物館。垂れ幕には「鯛酢(たいずし)や一門三十五六人(子規)」の句が描かれている。

⇒6日(日)夜・金沢の天気   はれ

★「場」立ち考~中

★「場」立ち考~中

 4日午後はJR高知駅から土讃線で香川県琴平町に移動した。JR特急南風18、この列車は「アンパンマン列車」だった。高知県出身の漫画家やなせたかし氏が原作のアンパンマンを車体に描いた特急列車で、1号車には「アンパンマンシート」(普通車指定席)があり、子どもたちと家族で埋まっていた。琴平町と言えば、「金毘羅(こんぴら)さん」だ。

      ~ 香川・金毘羅さんとアフリカ象 ~

 「一生に一度は、こんぴらさんへ」と金毘羅参りが盛んになったのは江戸中期以後のこと。金刀比羅宮は、昔から海の安全、五穀豊穰、大漁祈願、商売繁盛など様々なご利益のある神様として年間300万人もの参拝客(観光客)を集めている。参道沿いには茶店・土産物店が並び、歴史を感じさせる。それにしても、参道口から本宮=写真=までは785段、奥社までは1368段の石段があり、相当な覚悟が必要だ。今回は時間の都合もあり、本宮まで登った。

 最初の100段ほどは、石段の高さも低く準備運動と言った感じ。一之坂鳥居を越えると坂の角度がきつくなる。参拝者にとってここが最初の難関のようだ。参道の店のおばさんが「杖を持って行きんさい」と声をかけてくれる。周囲を見ると、結構若そうな人でも杖を持っている。ここは自分を叱咤激励して杖に頼らず登ることに。

 一ノ坂から急な石段を250段ほど上がると大門が見えてくる。造られたのは慶安2年(1649)ごろで、讃岐の初代藩主が奉納したと説明書きにある。ここからが金刀比羅宮の境内となる。セミの鳴き声が響く。気合いを入れて石段をのぼると、右手に「こんぴら狛」と書かれた犬の像があった。昔は飼い主の代わりに犬が金毘羅詣りをするということがあったらしい。その犬のことを「こんぴら狛」と呼ぶようになったとか。そういえば、犬を連れた参拝客も何組かいて、売店にはドッグフードを置く店もある。

 石段の参道で目立つのは左右にずらりと並ぶ石柱だ。神社への寄進者の名前が彫られている。「金壱百萬圓」などとあるから大口だ。寄進者の住所も九州から北海道までまさに津々浦々から。ほとんど個人名だ。石段をのぼるにつれ、さらに大きな石柱が見えてきた。今度は「金壱封」と書いてあるだけで金額の明示はない。石柱の大きさからして「金壱千萬圓」ではないかと想像力をかきたてる。寄進者名は個人より漁業関連会社が多い。

 旭社(重要文化財指定)が見えてきた。ここで500段以上のぼったことになる。さらに本宮を目指すが、前に立ちはだかる絶壁のような急な階段。御前四段坂という難所だ。ここを何とか登り切り、本宮の拝殿までたどり着く。爽快感が体中に広がる。汗をかき、自分の足で参拝することに値打ちがあるのだと、金毘羅さんが教えてくれかのようだ。ここから一望する讃岐平野は絶景だ。

 帰りはむしろゆっくりと「下山の心」で石段を降りる。途中、面白いオブジェがあるのに気がついた。立札には「アフリカ象」と書いてあり、東京の男性が昭和30年(1955)5月に奉納となっている。なぜアフリカ像なのか気になっていた。

 それはホテルに入って、夕食のとき気がついた。箸袋を開くと、「金毘羅船々」の歌詞が書いてあった。「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば四国讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 一度廻れば」。金毘羅さんがある山は、讃岐平野からはゾウの頭と鼻に似ていることから象頭山(ぞうずさん、538㍍)と呼ばれるのだ。山の真ん中あたり、ちょうどゾウの目の部分が本宮が位置する場所と古来よりいわれているらしい。そうか、象の頭のような山に金毘羅さんがあるから象の像を寄進した。

 では、なぜインド象でなくてアフリカ象なのかと詮索もしたくなるが、話はここまで。

⇒5日(こどもの日)朝・香川県琴平町の天気   はれ

☆「場」立ち考~上

☆「場」立ち考~上

 人は視覚的な景観を「場所」と感じている。城のある町、山の中腹にある大社、江戸時代風の街並み、そうした場所は理解しやすい。ただ、景観としての場所はそれほど単純で明快なわけでもない。旅人が単純に誤解していることもある。その場に立って、文化や風土を理解しないと分からないことも多い。この大型連休を利用して、四国を家族で旅してる。名所を巡りながら、「場」を考える。題して、「場」立ち考…。

       ~ 高知・桂浜の龍馬像はどこを向いている ~

 昨日は小松空港、羽田空港、高知龍馬空港と空の便を乗り継いで高知に降り立った。空港や高知市内の街角などは観光キャンペーン「リョーマ(RYOMA)の休日」のポスターであふれていた。リョーマは幕末の志士、坂本龍馬のこと。オードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」とひっかけている。

 きょう4日午前中は桂浜を訪れた。太平洋を臨む砂浜なのだが、潮流が速く遊泳は禁止されている。台風の接近時によくテレビ中継されることでも知られる。一帯は桂浜公園となっていて、松林の高台に坂本龍馬の銅像がある。右腕を懐に、ブーツ姿の龍馬ははるか太平洋の彼方を見つめている。像の高さは5.3㍍、台座を含めると13.5㍍にもなる。キャンペーンの一環で「龍馬に最接近」と銘打ってこの龍馬像の横に展望台を設置し、龍馬と同じ目線で太平洋を眺めることができる。その銅像は、龍馬が海を眺めながら「日本を今一度洗濯いたし申すことにすべきこと神願」(姉の岡上乙女に宛てた手紙)とつぶやく姿をほうふつさせる。実に絵になるのである。

 すると、龍馬像に案内してくれたタクシー運転手がこんなことを話した。「きょうは珍しく室戸岬が見えますね。年に何回もないですよ。龍馬の目線は室戸岬に向いているんです。室戸岬には中岡慎太郎の銅像があるんです」と。確かに、龍馬の目線をたどると室戸岬の方角だ。中岡慎太郎も幕末を駆け抜けた土佐の志士。龍馬と手を組み、薩長同盟を成立させた。大政奉還から1ヵ月後の慶応3年(1867)11月15日、2人は京都の近江屋で刺客により襲撃され命を落とす。龍馬は享年33歳、慎太郎は29歳だった。

 龍馬像の近くに坂本龍馬記念館の資料によると、龍馬の銅像は昭和3年(1928)5月に、慎太郎の銅像は昭和10年(1935)5月にそれぞれ地元の青年たちが中心となって建立した。戦時中の国家総動員法にもとづく金属類回収令による供出でも、2人の銅像は供出を免れた。それなりの理由があったのだろう。慎太郎の銅像は実際に見ていないのでどの方角を向いているのか確認できてはいない。ただ、海を隔てて2人の志士が会話をしているようにも思え、何を話しているのか想像をたくましくさせる。

 次に、山内一豊が築いた高知城を見て回った。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だ。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)もさることながら、地震の備えでもあったのではないかと推測した。

 『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)によると、秀吉の家臣として活躍した一豊は近江長浜城主となり2万石を領した。が、1586年の天正大地震によって城が崩れ、一人娘の与祢(よね)を亡くす。この頃は地震の活動期だった。一豊が高知城で没したのは慶長10年9月20日(1605年11月1日)だが、その9ヵ月前の1605年2月3日には南海トラフのプレート境界に起こったM7・9の慶長大地震と津波で、多くの領民が死んでいる。関ヶ原などの大戦(おおいくさ)と天正と慶長の大地震(おおじしん)、波乱万丈の世の中を生き抜いたサムライの一人が一豊だったのかもしれない。 

⇒4日(みどりの日)夜・香川県琴平町の天気  はれ

☆桜の役どころ

☆桜の役どころ

 金沢では平年より3日遅れて13日が桜(ソメイヨシノ)が満開となった。ただ、うすら寒く、金沢の日中の最高気温も13度と平年より4度ほど低く、3月下旬並み。

 14日から兼六園では無料開放が始まった。そぞろ歩きで、名園を彩るソメイヨシノや遅咲きの梅の花に見入った。兼六園の無料開放は今月22日までだが、私はむしろ晩春の桜が好きだ。

 代々の加賀藩主の収集好きは兼六園の植物にも及び、たとえば桜だけでも20種410本に及ぶ。一重桜、八重桜、菊桜と花弁の数によって分けられている桜。中でも「国宝級」は曲水の千歳橋近くにある兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)である。学名にもなっている。「国宝級」というのも、国の天然記念物に指定されていた初代の兼六園菊桜(樹齢250年)は昭和45年(1970)に枯れ、現在あるのは接ぎ木によって生まれた二代目なのである。

 この兼六園菊桜の見事さは、花弁が300枚にもなる生命力、咲き始めから散るまでに3度色を変える華やかさ、そして花が柄ごと散る潔さである。兼六園の桜の季節を200本のヨメイヨシノが一気に盛り上げ、兼六園菊桜が晩春を締めくくる。桜にも役どころというものがある。

 季節には早いが、金沢の人々の兼六園に対するこだわりは、5月中ごろかもしれない。カキツバタが咲く曲水の周囲には早朝から市民が三々五々訪れる。かがんで耳に手をあて、じっと眺めている人もいる。地元の人の話では、「カキツバタは夜明けに咲く。その時に、ポッとかすかな音がする」という。人々はその花の音を聞きにやってくるのである。

 その話を聞き、私自身2度、3度早朝に兼六園を訪れてみたが、花音の確認はできなかった。そのうち、カキツバタの花音は単なる噂(うわさ)話ではないかと思うようになり脳裏から消えていった。かつて、地元の民放テレビ局がその花音を検証しようと、集音マイクを立てて番組にした。その時は、聞こえたような聞こえないような、かすかに空気が揺らぐような、そんな微妙な「音」だった。番組のディレクターがたまたま知り合いだったので確認した。「カキツバタの花音は、開くときに花弁がずれる音だと推測しマイクを立てましたが、現場では聞こえませんでした」とあっさり。ハイテク機器を持ってしても、実際の音にはならなかったのである。

 でも、よく考えてみれば、早朝に集まる人々にとってはカキツバタの花音がしたか、しなかったは別にして、「兼六園にカキツバタの花音を聞きにいく」と家族に告げて早朝の散歩に出かける。それだけでいいのである。兼六園がある金沢らしい風流な暮らしぶりの一端だと思えば、この話の角は立たない。(※写真は、金沢市内の浅野川べりでの花見の様子)

⇒15日(日)夜・金沢の天気   はれ

★春の雪、嵐、夏日

★春の雪、嵐、夏日

 今月5日、久々に兼六園を歩いた。桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。兼六園近くのなじみの料理屋に入ると、女将が言った。「いくらなんでも春が遅い」と。例年ならこの時期、開花宣言が出て週末には兼六園はにぎわいを見せる時節なのに、との女将のぼやきだ。そしてきょう(7日)雪が降り、屋根に積もった。写真は朝8時50分ごろ、自宅(金沢市)の2階から撮影した。

 名残雪(なごりゆき)という言葉がある。3月下旬に三寒四温が「二寒五温」くらいになる。そんな時に雪がチラリと降ることがある。「冬はこれで終わりです。来年もよろしく」という空からのメッセージのようなもので、北陸の住む身としては風情というものを感じる。スノータイヤの交換や雪吊りの庭作業、雪すかし(除雪)などこの冬のできごとを走馬灯のようにいろいろと思い起こさせてくれる。この名残雪がある意味で次の季節、春へのスイッチとなる。ノーマルタイヤへの交換や、雪吊り外しなど名実ともに気持ちが入れ替わる。

 4月に入っても、三寒四温どころか、「四寒三温」だ。昨日(6日)夕方に帰宅し、庭の手入れをしようと草むしりをすると手がかじかんできて30分ほどで作業を止めた。晴れてはいたが、土に温もりがない。確かに「寒の戻り」や「春の淡雪(あわゆき)」といった冬への逆戻りを指す言葉はもともとあるが、きょうの雪はちょっと気が滅入る。金沢地方気象台による兼六園の梅の開花宣言は3月22日だった。平年より24日遅い、この25年間ではもっとも遅い開花だった。

 かと思えば、今月3日の「春の嵐」はどうだ。南から暖かな風が吹きこみ、金沢市ではこの時期では異例の25.4度、夏日(なつび)を記録したのだ。最大瞬間風速は同市内で33.1㍍、まるで台風だった。小松市内の国道8号で風にあおられた4㌧トラックが横転した。金沢大学では午後1時過ぎごろに、「暴風等に伴う帰宅対応について」と教職員に対し帰宅するようメールで呼びかけがあった。帰宅困難者を出さないための、この時期にしては異例の措置だった。

 4月に入ってからのこの1週間で冬と夏を体感したようなものだ。ところで、気になる兼六園の桜(ソメイヨシノ)の開花予想はどうか。ウエザーニューズ社の「さくら開花情報」サイトを閲覧すると、開花予想は4月13日、五部咲きが17日、満開20日から、桜が散る桜吹雪が24日と託宣されている。ちなみに、どのような基準で「開花日」とするかについては、気象庁の場合、標準木(観察を続けている木)5、6輪以上の花が咲いた場合を開花日としている。ウエザ-ニューズ社の場合は、1輪開花を開花日としている。「春よ桜とともに来い」。今回のブログはぼやきになった。

⇒7日(土)午前・金沢の天気   ゆき、くもり

★続・トクソウの落とし穴

★続・トクソウの落とし穴

 たまたま見た30日夜のNHK-BSプレミアムの映画は、五社英雄監督の代表作『御用金』(19:30-21:35)だった。1969年作で、小道具に至るまで時代の感覚や仕草など時代考証がしっかりしていて、リアル感がある。たとえば、お歯黒の女性などは、今の時代劇では時代の感覚に合わないなどの理由で出さないだろう。

 ストーリーが凝っていた。時代は天保2年(1831年)。越前国鯖井藩(鯖江藩をイメージした架空の地)、雪が降る日本海側の漁村で、村人が一夜のうちに姿を消すという「神隠し」が起きた。それは、御用金を積載した佐渡からの幕府の船が嵐で難破し、その御用金を漁民たちに引き揚げさせ、盗みとりした挙句に漁民たちを皆殺しにするという藩家老・六郷帯刀(丹波哲郎)のシナリオだった。藩の悪行を目撃し、脱藩した脇坂孫兵衛(仲代達矢)は3年後、家老の帯刀が再び神隠しを企てていることを知り、藩に赴き悪に立ち向かうという筋立てだ。幕府の船の難破は偶然ではなく、岬の位置を知らせるかがり火の場所を操作することで、船を座礁させるという手の込んだ仕掛けだった。なぜ2度も藩家老は悪のシナリオを描いたのか。「藩の財政窮乏の折、藩を守るため」と称し、新田開発の資金に充てようとしたのだ。藩を守るため、御用金を略奪して、領民を皆殺しにする。藩の武士たちは「藩のため、忠義」と孫兵衛に斬りかかる。浪人である脇坂は「罪なき人を殺(あや)めるな」と剣を抜く。脇坂が斬ったのは、病巣と化した組織防衛論だった。

 けさ新聞を広げて「検察組織の病弊」「組織守るため犯行」「特捜の病巣 断罪」の見出しが目に飛び込んできた=写真=。一瞬、映画のシーンと脳裏でだぶった。昨日(30日)、有罪判決となった大阪地検特捜部のフロッピーディスク(FD)改ざん事件の犯人隠避罪に問われた元特捜部長と元副部長の裁判。けさ各紙が一斉に報じている。前代未聞と称される大阪地検特捜部による改ざん事件が起きた背景について、判決文の中でこう述べられているのだ。

 「特捜部の威信や組織防衛を過度に重要視する風潮が検察庁内にあったことを否定できず、特捜部が逮捕した以上は有罪を得なければならいないとの偏った考え方が当時の特捜部内に根付いていたことも見てとれる。犯行は、組織の病弊ともいうべき当時の特捜部の体質が生み出したともいうことができ、被告両名ばかりを責めるのも酷ということができる」(31日付朝日新聞より)

 2010年1月30日、FDデータを改ざんした前田恒彦検事(当時)から電話で報告を受けた佐賀元明副部長(当時)は2月1日に大坪弘道部長(当時)に庁内で報告した。ところが、2人は前田検事にデータの改変は過誤(うっかりミス)だとする上申書を作成するように指示し、地検検事正にも虚偽の報告をした。判決では、証拠隠滅罪の犯人である前田検事を捜査することなく隠避した、と事実認定した。

 検察の「悪行」はこれだけではない。記憶に新しいところでは、去年12月、小沢一郎民主党元代表の公判で、東京地検特捜部の検事が捜査報告書に架空の記載をしたことが発覚した。こうした一連の検察不祥事で、巨悪に斬りこむ「検察正義」のイメージが変化し、逮捕した以上は何が何でも有罪にしてみせる「むき出しの検察威信」の印象が国民の間でも広がった。ストーリーと事件の構図をきれいに描くから矛盾が噴き出す。そのために改ざんや架空の記載が隠密裏に施される。そして人はなぜ組織とその威信を守るために、人を貶(おとし)めるのか。特捜の落とし穴は広く、深い。

⇒31日(土)昼・金沢の天気  あめ