☆道央走春-下-
小樽に着いて2日目、小樽がかつて商業の都として栄えた理由を知りたい思い、その手がかりとして、小樽市内にある2つの国指定重要文化財を巡った。1つが、同市色内3丁目の旧・日本郵船小樽支店、もう一つが、同市手宮1丁目の旧・手宮鉄道施設だ。
小樽の2つの文化財から見えること
小樽は、江戸時代の北方探検家の近藤重蔵が「 エゾ地西海岸第一の良港 」と称した天然の良港だった。北海道の西海岸を北上するニシンを追って、松前、江差方面から人が集まり始めたのは江戸期の後半だった。ここが商都として注目をされたのは、明治13年(1880)に開通した幌内鉄道(手宮-札幌間36㌔)によってだ。石狩・空知地方からの石炭積み出しや、北海道開拓に必要な生活物資と生産資材の道内各地への輸送など海陸交通の接点としての小樽の位置づけがあった。この鉄道は、新橋−横浜間、神戸−大阪間に継ぐ、日本では3番目の本格的な鉄道だった。
こうした北海道の海陸の接点が重視され、金融や輸送の関連企業が続々と小樽に集まってくることになる。もう一つの国指定重要文化財である旧・日本郵船小樽支店=写真=は、日露戦争直後の明治39年(1906)に完成した。石造2階建て、ルネッサンス様式の重厚な建築だ。この建物が注目されたのは、日露戦争の勝利だ。明治38年(1905)9月5日締結のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、翌年明治39年の11月13日、その条約に基づく国境画定会議が日本郵船小樽支店の2階会議室で開かれたのである。このとき、ロシア側の交渉団の委員長が宴席のスピーチで「北海道は日本の新天地なり」と褒めちぎったといわれる。すなわち、北海道内の物流の結節点だけでなく、大陸貿易の窓口としての機能に期待が膨らんだのである。
明治初期に石炭の積み出し港として開け、さらに大正から昭和初期にかけて大陸貿易の窓口として小樽は繁栄することになる。小樽運河も、その時期の繁栄の産物だ。小樽には移住も増え、大正9年(1920)の人口比較で、小樽10万8千人で札幌より5千人余り多かったほど(「統計で見るわが街おたる」など参照)。小樽の土産で有名なのガラス工芸は、たとえば明治時代から作られてきた石油ランプや漁網用の浮き球にルーツがあり、1970年代に入ってランプを装飾品として購入する観光客に注目され、光が当たった。
ここでふと考えた。敗戦、そして戦後の東西冷戦で商都としての小樽は色あせた。4月29日、ロシアを訪問した安倍総理とプーチン大統領は焦点の北方領土問題について「交渉を加速化させる」とし、平和条約交渉を再開させ、また安全保障協議委員会を設置することなども盛り込んだ共同声明を発表した。日本とロシア双方が本気で日本との領土問題を決着させ、日露平和条約を結ぶプロセスが見えてくれば、イルクーツクやハバロフスクなど極東ロシアの経済開発の機運が一気に浮上する。日本海側に面し、札幌とも近い距離にある小樽のポジションを考えれば、歴史の中で再度脚光をあびるときがくるのではないか。「北海道は日本の新天地なり」再びである。
⇒5日(日)夜・札幌の天気 あめ
道央自動車道を走り、登別から小樽に着いた(4日)。予約しておいた小樽運河沿いのホテルにレンタカーを停め、周辺を散策した=写真・上=。2007年8月にも家族で小樽に来ているので、5年9ヵ月ぶりになる。で、小樽はどうのように変わったのか印象を述べてみたい。
きしていると、中国語の会話をしながらワイワイと歩くグループとよく会う。海外からも観光客を呼び込む戦略も成功しているのだろう。
ば、北海道どこでも味わえるのではないか。その土地で磨かれた文化としての食はどこのあるのだろうか。
定的となったのか、熱が出るやら咳き込むやらで体長不良に陥った。季節は春とは言え、今回の寒さは、地元紙の北海道新聞にも「札幌 21年ぶり5月の雪観測」(3日付)と1面の見出しで、2日夜に札幌でみぞれが降り、積雪(1㌢未満)を観測した、季節外れの戻り寒波を記していた。タマネギやジャガイモを作付する道内の農家が「寒い春」の影響で低温と日照不足を案じる声も記事にされていた。
登別温泉に到着して。さっそく地獄谷を見学に行った。硫黄のにおいが立ち込め、いまも水蒸気を噴き上げている。「地熱注意」の看板も目につく。下に降りると、薬師如来の御堂がある。看板が書きに江戸時代に南部藩が火薬の原料となる硫黄を採取した、とある。そしてところどころに、閻魔大王の像やら漫画風のキャラクターが温泉街を彩っている。そして、楽しそうに写真を撮影しているグループの中には中国語が飛び交っている。
昨日から金沢では時折、雷が鳴り、荒れ模様の天気となった。そしてきょう27日は先ほど7時50分ごろに激しく「あられ」が降った。数分間だったが叩きつけるような激しい降りだった。金沢地方気象台の気象予報では、きょう27日は、上空に強い寒気を伴う気圧の谷が本州付近を通過するため、石川県では昼前まで雨や雷雨となる所がある、と。
オーウェルの意図は旧ソ連のスターリン体制への批判だった。人間の歴史にとって進歩的な動きと見える現象が、時を経て大きなマイナスをもたらしている事実が洋の東西を問わずままある。いまでいえば北朝鮮のこの事態だろう。国内の人民を虐げ、貧困に落とし込んで、周辺国まで恫喝する。人類に苦痛を与えている、と言ってよい。
禍はどうやら西の空からやってくるようだ。中国大陸から飛んでくる黄砂、そして最近話題の微小粒子状物質「PM2・5」、そして鳥インフルエンザ。さらに、北朝鮮のミサイルだ。金沢市の老舗料亭「大友楼」の「七種(ななくさ)粥」の行事を思い出した。
3月27日公表された厚生労働省国立社会保障・人口問題研究所の「2040年の将来推計人口」データは確かに衝撃的だった。2010年の国勢調査との比較だが、日本は一気に少子・高齢化が進む。石川県内の人口は2010年の国勢調査で117万人だが、2040年には100万人を割り込み97万人に減る。小松市の2つ分の人口に相当する20万人近く減るというのだ。そして冒頭で述べた珠洲市など奥能登の2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では、人口がほぼ半減する見通しだ。
高校卒業後の松井は破竹の勢いだった。1992年秋、ドラフト1位で巨人に入団。セ・リーグMVP、ホームラン王、打点王をそれぞれ3度、首位者を1度獲得。2002年オフにフリーエージェント宣言、ヤンキースに移籍した。メジャー挑戦1年目の2003年、本拠地開幕戦で、メジャー1号を満塁弾で決めた。2007年、日本人ではイチロー選手(現ヤンキース)に続いて2人目となる日米通算2000安打を達成した。2009年にはワールドシリーズでは3ホーマーを放ち、シリーズ最優秀選手(MVP)に選ばれた。日本とアメリカで通算507本のホームラン。日本で10年、アメリカで10年、松井選手にとって20年間のプロ野球人生だった。
能登有料道路の全線開通は1982年なので満30年となる。これまで片道で普通車1180円、大型車4210円(全線利用)がかかっていた。この道路は、石川県における能登地区と加賀地区の格差是正などを目的に県が建設した。1982年の全線開通以降は、1990年から県道路公社が道路を管理。総事業費625億円のうち、県から同公社への貸付金のうち未償還分の135億円を県が債権放棄するかたちで、無料化が実現した。
是正指導を受けたのは、私が通勤している金沢大学角間キャンパスの近くにある「のうか不動産」で、学生たちの評判はよい。学生たちが部屋のカギを紛失すると、合鍵を持参して夜中でも対応してくれるというのだ。問題となった看板は、人目を引く宣伝をしたいと2009年1月から設置を開始し、大学周辺を中心に40基ほどある。その看板は私自身も気にはなっていた。