⇒トピック往来

☆世界農業遺産の潮流=3=

☆世界農業遺産の潮流=3=

 世界農業遺産(GIAHS)の名称は「世界遺産」と混同されやすい。世界遺産は1972年にUNESCO総会で、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択され、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」をもつ遺跡、景観、自然などをテーマに、文化遺産(日本では法隆寺、姫路城、古都京都、白川郷、原爆ドームなど)と自然遺産(屋久島、白神山地、知床など)がある。世界農業遺産は、国連食糧農業機関(FAO)が2002年に制定したもので、「Globally Important Agricultural Heritage Systems」。頭文字を取って「GIAHS(ジアス)」と呼ぶ。これを日本語に訳すると、「世界重要農業遺産システム」となるが、これでは理解しづらく国民に浸透しないと、2011年6月に能登と佐渡が認定を受けた折、認定に向けて働きかけをしてきた武内和彦国連大学副学長(東京大学サステイナビリティ学連携研究機構長・教授)らが一計を案じて、一般の略称である「世界農業遺産」をひねり出した。従って、世界農業遺産と呼ぶのは日本だけで、中国では「世界農業文化遺産」などと呼んだりしている。

              レジリエンスを特徴にする日本のGIAHS

 今回のワークショップの日本側の発表で一つのキーワードとなったのが「レジリエンス(resilience)」だった。レジリエンスは、環境の変動に対して、一時的に機能を失うものの、柔軟に回復できる能力を指す言葉。生物の生態学でよく使われる。持続可能な社会を創り上げるためには大切な概念だ。2011年3月11日の東日本大震災を機に見直されるようになった。「壊れないシステム」を創り上げることは大切なのだが、「想定外」のインパクトによって、「壊れたときにどう回復させるか」についての議論をしなけらばならない。よく考えてみれば、日本は「地震、雷、火事…」の言葉があるように、歴史的に見ても、まさに災害列島である。しかし、日本人は大地震のたびにその地域から逃げたか。東京や京都には記録に残る大震災があったが、しなやかに、したたかに地域社会を回復させてきた。ある意味で日本そのものがレジリエンス社会のモデルなのだ。

 レジリエンスと日本の世界農業遺産のかかわりついて述べたのは、国連大学サステイナビリティと平和研究所シニア・プログラム・コーディネーターの永田明氏だった。FAOによるGIAHSの認定基準は農業生産、生物多様性、伝統的知識、技術の継承、文化、景観が対象となる。さらに、日本の特徴として加味するのは3つある。1つ目は「レジリエンス」(自然災害、気象・気候、病虫害、市場価格、消費者ニーズへの対応)、2つ目は「地域の主体性」(農林漁業の従事者、企業、行政、NPO、ボランティア、都市住民の連携可能性、コミュニティ、高齢者の参画など)、3つ目はトータルな6次産業化(観光との有機的な連携の可能性、農山漁村の歴史・文化の活用、農林水産物のストーリー性の創出など)。加味する意味合いは、日本は先進国で初めて認定されたがゆえに、その特徴を出そうという意味合いでGIAHSの付加価値を高めることに意義がある。

 世界に誇ってよい日本の農山漁村文化があまたある。生物多様性や社会の復元力(レジリエンス)、そのような価値を世界に広める場がGIAHSだと実感した。

⇒31日(金)朝・浙江省青田県の朝 はれ

 

★世界農業遺産の潮流=2=

★世界農業遺産の潮流=2=

 世界農業遺産(GIAHS)の国際ワークショップが開催されている紹興市は中国・浙工省の江南水郷を代表する都市とされる。市内には川や運河が流れ、 その水路には大小の船が行き交っている。歴史を感じさせる建造物や石橋などと共に見える風景は「東洋のベニス」だろうか。人口60万人の水の都だ。

     「国策」としてGIAHSを推進する中国の思惑

 紹興と言えば「紹興酒」、中国を代表する酒だ。ワークショップが開催され、われわれの宿泊場所ともなっている「咸亨酒店(Xianheng Hotel)」は、「酒店」の名の通り、紹興酒の造り酒屋がルーツ。『阿Q正伝』を表した文豪、魯迅の叔父が1894年に開業した酒屋として中国では知られる。その咸亨酒店が出しているのが紹興酒「太雕酒(たいちょうしゅ)」。8年間貯蔵し熟成された上質の紹興酒は琥珀色、さらに熟成18年ものとなると赤黒くふくよかな味わいなのだ。これが浙江料理と呼ばれるラインナップに合う。とくに豆腐料理。浙江の豆腐は独特のにおいがする。「豆腐」の意味がなとなく理解できる。このにおいはすぐ慣れる。

 前回のブログで中国にいることを知った友人からメールが届いた。「こんなややこしい時期に中国に行って大丈夫か」との助言である。28日と29日の両日の街の様子など見た限りでは、テレビのニュースにあるような政治的なスローガンを掲げた喧騒は見当たらない。また、現地の浙江日報(28日付)を広げても、日本関係の記事は国際面に「日否決東京都登島申請」などと通常の記事扱いである。宿泊しているホテルの1階に「日本料理」の店もあるが、客は入っている。

 話を世界農業遺産のワークショップに戻す。国連の食料農業機関(FAO)はGIAHSサイトを100から150ヵ所で認定したいと述べている。このGIAHS認定で一番熱心なのは中国だろう。すでに世界で12件が認定されているが、このうち中国は4件。「Rice-Fish Agriculture(水田養魚農業)」(浙江省青田県)、「Hani Rice Terraces System(ハニ族の棚田群のシステム)」(雲南省ハニ族イ族自治州など)、「Wannian traditional rice culture system(万年の伝統的な稲作文化の仕組み)」(江西省万年県)、「Dong’s Rice Fish Duck System(トン族の稲作・養魚・養鴨システム)」(貴州省従エ県)である。これに、昨日の中国側の発表によると、来月(9月)に雲南省の「プーアル茶」の産地と内モンゴルの「乾燥地農業」が認定され、2件加わる。さらに、浙江省のカヤの林「会稽山の古香榧林」を準備中だ。広大で農業の歴史がある中国は有利だ。ここれほどまでになぜ中国はGIAHSに積極的なのだろうか。

 中国側の参加者のスピーチだ。「山に住んでいると、その山の景観や価値というものは分からない。下りて振り返って眺める、他の山から自分の山を眺めて初めて自分の山の価値が分かるものだ」と。GIAHS認定では、日本の場合(佐渡と能登)は地域の自治体が名乗りを上げて、申請書きを行う。中国は政府が主導している。農業振興という面もあるが、ハニ族やイ族、トン族といった少数民族への配慮もあるだろう。少数民族が守ってきた伝統の農業に国際評価をつける、その「山の価値」を見直してもらい、プライドを持たせるという明確な意図があるように思える。日本の地域活性化というレベルを超えた「国策」という勢いを感じたのは自分だけだろうか。 ※写真は、水郷の都・紹興をイメージした咸亨酒店の中庭

⇒30日(木)朝・中国の紹興市の天気  はれ 

☆世界農業遺産の潮流=1=

☆世界農業遺産の潮流=1=

 中国・雲南省のプーアル茶は世界に愛飲家がいる。加熱によって酸化発酵を止めた緑茶をコウジカビで発酵させる熟茶と、経年により熟成させた生茶があり、高いミネラル濃度によって飲むと血圧が下がり、血液循環が良くなると日本でもファンが多い。そのプーアル茶の産地が新たに世界農業遺産(GIAHS)に認定され、来月(9月)にFAOから認定を受けることになったようだ。

                       GIAHSを活用する日本と中国の期待

 きょう29日から中国・浙江省紹興市で開催されている「世界農業遺産の保全と管理に関する国際ワークショップ」(主催:中国政府農業部、国連食糧農業機関、中国科学院)の席上で中国側から披露された。昨年6月、国連食糧農業遺産(FAO、本部ローマ)が制定する世界農業遺産に「能登の里山里海」と佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。この国際的な評価をどう維持、発展させたらよいか、ワークショップでは中国と日本のGIAHS関係者120人が集まり、GIAHSに認定されたサイト(地域)の現状や環境保全、将来に向けての運営管理など意見交換するものだ。日本から農林水産省、東京大学、国連大学、石川県、佐渡市の関係者17人が参加した。石川県から泉谷満寿裕・能登地域GIAHS推進協議会会長(珠洲市長)、金沢大学の中村浩二教授、渡辺泰輔・石川県環境部里山創成室長らが出席している。

 ワークショップで泉谷会長は「能登は過疎・高齢化による耕作放棄地や後継者不足などに問題を抱えているが、世界農業遺産の認定によって、環境に配慮した農業やグリーンツーリズムへの関心が高まっている」と現状を説明。また、来年5月ごろに、石川県でFAO主催のGIAHS国際フォーラムが開催されることを報告した。中村教授は「能登の里山里海を未来につなぐため人材養成を行っている」と大学の取り組みを説明した。

 佐渡市の山本雅明生物多様性推進室長はこう佐渡の取り組みを紹介した。かつて、佐渡の水田は経済性や効率性を優先した土地改良が進み、大規模化、低コスト化が進む中、ため池がダムに変わり、土の水路がコンクリートへと変化し、カエルやドジョウなどトキの餌となる生きものたちの多様性が失われつつあった。また、かつてはトキを育んだ小規模な水田は効率性や農家の高齢化等を理由として、耕作放棄となり、トキの野生復帰とその餌場となりうる水田の保全にも危機が訪れていた。水田を餌場として活用する新たな農業への挑戦は、「朱鷺と暮らす郷づくり認証制度」から始まった。これは水田を餌場とするトキを守るため、生きものを育む農法を農業技術として同市が認証するシステム。水田に江(え)という「深み」を設置したり、冬期湛水、魚道の設置などの実施は、水田に棲むドジョウやカエルなどの小さな生きものの命を守り、生態系の再生を促し、トキの生息環境の向上につながると考えた。そして、農薬・化学肥料を大幅に削減することを加え、佐渡から新しい生物多様性保全型農業を創出した。

 中国では、積極的にGIAHSサイト(地域)を増やそうとしている。少数民族や農家に誇りを持たせ、生産の意欲や新たなツーリズムを開発しようというのだ。農村から大都市へ出稼ぎが相次ぎ、農村が空洞化する懸念があるからだ。双方が知恵を出し合い、手のかかる、高品質の農産物をつくり、世界のあすの農業を切り拓く。日本と中国のそんな思惑が交差する会議の印象だった。

⇒29日(水)夕・中国の紹興市の天気  はれ
 

☆いきもの俳句

☆いきもの俳句

 俳句の同好会に入っている。時間が合わず、実際に参加するチャンスも少ないが、投句をしたり、なんとか名前だけは連ねている。私が俳句にするテーマは庭や田んぼの虫や草花、山の木々や鳥たちが多い。生き物たちは季節感を感じさせるので、自分で「いきもの俳句」と呼んでいる。そんな中からいくつかを紹介する。

⇒ 田の五輪 競泳一位は 源五郎 (2012年7月句会)
 ロンドンオリンピックが始まった。実にテレビがにぎやかだ。同じように夏は田んぼもカエルの鳴き声やホタルが舞ってにぎやかだ。田んぼや池の泳ぎの名手といえばゲンゴロウだろう。後脚をうまく動かして、泳ぎがうまく素早い。見ていて飽きない。田んぼのオリンピックでは競泳で金メダルだ。

⇒ 人気なき 児童公園 若葉冷え (2012年5月句会)
 少子化の時代、児童公園にはかつてのように子どもたちのにぎやかな声が響かない。もちろん場所によっては子どもたちが楽しく遊んでいる公園もある。子どもたちの姿が見えない公園は雑草が伸び放題になって、荒れているところが心なしか多いように思う。大人の管理の目が行き届いていないのだ。そんな公園には親は子どもたちも遊ばせないだろう。そんな人気のない公園は、若葉がまぶしい5月になってもどこか「寒く」感じる。

⇒ 蝌蚪(かと)を追う 靴下のオーナー 千枚田 (2012年4月句会)
 棚田のオ-ナー制度で知られる輪島の千枚田。水を張った水田にさっそく都会から来た親子が田んぼに入っていた。よく見ると、一組の母と男の子は初めて田に入ったのか、靴下をはいている。その足元には蝌蚪(かと=おたまじゃくし)がうようよといる。男の子は田んぼを動き回るうちにじゃまになったのか靴下を脱いで、気持ちよさそうに田んぼではしゃいでいた。

⇒ 開花日は 桜一輪 兼六園 (2012年4月句会)
 ことしの春は4月に入っても雪の降る日があり、兼六園の桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。金沢地方気象台が開花宣言したのは4月10日のこと平年より6日、昨年より3日それぞれ遅い開花となった。その日、兼六園を訪ねたが数輪が咲いているだけ。でも、ようやく春の訪れが目に見えてきた。

⇒ 蔵人の 麹揉む手や 庭の梅 (2012年1月句会)
 造り酒屋を訪ねる。ムッとする麹室(こうじむろ)の室温は43度を指していた。酒蔵の職人たち=蔵人(くらんど)が、蒸し米を揉み床でほぐし、種麹が入った缶を持った 手を高く上げて、揉み床に沿って移動しながら缶を振り、麹の胞子(種)をまいていく。さらに蒸し米に胞子が均一に付着するように揉み込む。根気の入る仕事だ。麹室から出て、庭を見ると紅梅が咲き始めていて、麹を揉む蔵人のほてった赤い手と同じ色だと思った。

⇒30日(月)夜・金沢の天気  はれ

☆佐渡ベクトル

☆佐渡ベクトル

 佐渡の金山跡=写真・上=に入った(16日)。当時の坑道の様子が手に取るように分かる。鉱脈に沿って掘り進んでいくと大量の地下水が噴出したので、掘り進むために水上輪(手動のポンプ)が導入されていた。紀元前3世紀にアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプを応用したもの。長さ9尺(2.7m)、上口径1尺(30.3㎝)、下口径1尺2寸(30.9㎝)位の円錐の木筒で、内部がらせん堅軸が装置されていて、上端についたクランクを回転させると、水が順々に汲み上げられて、上部の口から排出されるようになっていた。

 金山を中心に相川地区などは一大工業地となり、島の農業者は米だけに限らず換金作物や消費財の生産で安定した生活ができた。豊かになった農民は武士のたしなみだった能など習い、芸能が盛んになった。島内の能舞台は33ヵ所で国内の3分の1は佐渡にある計算だ。金山の恩恵を受けたのは人間だけではない。小規模の米作農家も祖先伝来の土地を保有し続け、さらに農地拡大のため山の奥深くに棚田を開発した。人気(ひとけ)の少ない田んぼは生きものが安心して生息するサンクチュアリ(自然保護地域)となった。結果的に、臆病といわれるトキにとって佐渡はすみやすかったに違いない。

 そのトキがいまでは佐渡の人々に農業の展望、知恵と夢を与えている。7月16日から18日の日程で開催された「第2回生物の多様性を育む農業国際会議」(佐渡市など主催)=写真・中=に参加した。同会議の佐渡市での開催は初めてで、期間中、日本、中国、韓国の3ヵ国を中心にトキの専門家や農業者ら400人が参加した。2008年9月のトキ放鳥に伴い、トキとの共生を掲げた地域づくりが住民に浸透し始め、2011年6月に国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産(GIAHS)に登録されたことで、佐渡の人々の視野が世界に広がった。今回の国際会議はその意気込みを示すものだ。

 もちろん、それまでの地道な取り組みは評価に値する。日本で絶滅したトキという鳥を島全体で野生に返す取り組みを進めていたことが大きな背景となっている。さらに、「朱鷺と暮らす郷認証米」の取り組みで、米という日本人の主食を作る田んぼでの生態系の再生を進め、食と環境のつながり、環境を守る農業の役割をわかりやすく発信してきた。その米の販売が好調で収入を上げる効果となり、今では1200haを超える環境保全型の稲作に取り組む。農業、食、環境をキーワードとし、消費者を巻き込んだグリーンツーリズムも盛んだ。

 この認証米制度では認証要件が重要なポイントと言える。特に、佐渡市の示す「生きものを育む農法(減農薬)」の実施と、「生きもの調査」を義務づけていることだ。この取り組みは、農業の視点だけで見ると、作業やコストの負担が増加させている。しかし。この農業が順調に拡大している。佐渡の全稲作面積の実に2割(1200ha)にも達している。さらに、生きものの豊かさを検証し、トキの生息環境を把握する科学的データの評価手法も導入されている。「トキのGPSデータとモニタリングデータ」は研究機関の行った生物調査や農業者の「生きもの調査」を役立てるため、佐渡市で整備済みの「農地GIS」を改修して、環境省のトキモニタリングデータや新潟大学などで行われている生物種と密度調査を組み込むシステムだ。これにより、生き物を育む農法が、生物へ与える効果やトキが好む餌場の把握が科学的にできる。

 この前向きな取り組みが支援する企業や組織を増やしている。たとえば、組合員数388万人の「コープネット事業連合」が認証米のコンセプトに賛同し、組合員に販売にしている。ちなみに「朱鷺と暮らす郷」は1㌔550円余り=写真・下=。トキの野生復帰活動を契機に始まった生物多様性の保全を重視した独自の農業システムは、日本の新たな農業の姿となり、また、世界の環境再生モデルとなりえる。農業経済を縦軸に、生物多様性の環境を横軸に突き進む佐渡市の試みを、たとえば、右肩上がりの「佐渡べクトル」と呼ぶことにしよう。

 海では、映画「オーシャンズ」に登場したコブダイが大きなコブを見せて、島の北端では日本一のトビシマカンゾウの大群生地が島を飾る。徳川幕府に伐採を禁じられた島には多くの森が残り、杉の巨大林を形成している。トキという鳥の再生を願って昭和30年代からドジョウを田にまき、無農薬の水稲作りをしてきた地道な取り組みが今では世界で有数の環境に配慮した島づくりにつながっている。佐渡べクトルは先鋭である。

⇒20日(金)夜・金沢の天気  あめ

★中谷宇吉郎の言葉

★中谷宇吉郎の言葉

 人は死すれど、言葉は後世に伝わる。物理学者の寺田寅彦は「天災は忘れたころにやってくる」を遺した。同じく物理学者の中谷宇吉郎も「雪は天から送られた手紙である」と。自らの研究で業績を遺したからこそ価値ある言葉として伝わり、名言として広まる。

 中谷宇吉郎の研究業績と人となりを紹介する「中谷宇吉郎雪の科学館」=写真=を昨日訪ねた。宇吉郎の出身地である加賀市片山津温泉に建物がある。館内を巡ると、北海道大学で世界で初めて人工的に雪の結晶を作り出したこと、雪や氷に関する科学の分野を次々に開拓し、その活躍の場をグリーンランドなど世界各地に広げたことが分かる。館内では、アイスボックスの中でダイヤモンドダストを発生させる実験も行っている。意外だったのは、多彩な趣味だ。絵をよく描き、とくに随筆では日常身辺の話題から科学の解説まで幅広い広い。海外で学術学会があるたびに蓄音機とレコードと踊りの小道具を持参し、パーティ後に日本の踊りを披露していたとのエピソードがあるくらい。陽性な人柄が目に浮かぶ。『霜の花』など科学映画の草分けとしても知られる。

 研究と多趣味、その中から湧き出る泉のように言葉も脳裏をよぎったのだろう。それを書き留めては随筆として残した。科学館では、その中からいくつかを紹介している。転記する。

 「科学の発達は、原子爆弾や水素爆弾を作る。それで何百万人という無辜(むこ)の人間が殺されるようなことがもし将来この地上に起こったと仮定した場合、それは政治の責任で、科学の責任ではないという人もあろう。しかし私は、それは科学の責任だと思う。作らなければ、決して使えないからである」(『日本のこころ』文芸春秋新社・昭和26年)

 「奈良朝から、千年以上も、同じ田に、同じ米をつくって今日までつづいている。千年以上のの連作ということは、世界の農業者の常識を超越したことである」(『民族の自立』新潮社・昭和28年)

 このブログを書いていて思い出した。中谷宇吉郎と言えば、「立春の卵」という随筆で知られる(『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫)。戦後間もない昭和22年、立春に卵が立つという迷信があり、それを新聞社が大々的に取り上げた。そこで、「卵は立春に限らず、いつでも立てることが出来る。新鮮な卵の表面にある3点以上の出っ張りを足として卵を支え、卵の重心をそこに落とすべく、少しだけ根気よく作業すれば、生卵であっても、ゆで卵であっても…」と説いた。そして「人間の盲点があることは誰も知っている。しかし人類にも盲点があることはあまり知らないようである。卵が立たないと思うぐらいの盲点は大したことではない。 しかし、これと同じようなことが、いろんな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである」と記した。科学を一般の人々に分りやすく伝える方法として随筆を書いたのだった。

 館内を一巡して、雪の結晶を蒔絵にした輪島塗の文箱=写真=が展示されていた。昭和16年(1941)に学士院賞を受賞した折、親戚が贈ったものと記載されてあった。「中谷ダイヤグラム」と呼ばれるさまざまな雪の結晶はまさに芸術である。それを精緻に表現している作品だと感じた。

16日(祝)朝・金沢の天気  はれ

☆「痛車」と夢二

☆「痛車」と夢二

 「痛車(いたしゃ)」という言葉をご存知だろうか。車体に漫画やアニメ、ゲームのキャラクターなどのステッカーを貼り付けたり、塗装した乗用車のことだ。あるいはそのような改造を車のことを指すそうだ。「萌車(もえしゃ)」とも呼ばれるようだ(「ウイキペディア」より)。面白いのは、同様の原付やバイクを「痛単車(いたんしゃ)」、自転車の場合は「痛チャリ(いたチャリ)」、アニメの装飾を施したラッピング電車を「痛電車(いたでんしゃ)」とこの世界では呼ぶようだ。。ただ、イタリア車を意味する「イタ車」なら、その意味は分かるが、なぜ「痛車」と呼ぶのか、ネットで調べてもよく分からない。

 きょう(8日)現物を見た。30台は並んでいただろうか。金沢市郊外の湯涌温泉をドライブしたときのことだ。中心街の県道に整然と並んでいた。運転者はどんな人たちかと見渡すと、サングラスをかけた、いかつい感じの兄さんたちかと思いきや、普通の30代くらいの男たちなのである。広場で楽しそうに語り合っている。外見的に目立という人たちではなさそうだ。女性は見当たらなかった。

 車は派出だ。テレビアニメ『侵略!?イカ娘』や、映画『けいおん!(K-ON!)』などボンネットなど車体からはみ出るように存分に描いてある。金沢、石川、富山のナンバーが多い中で、「聖地巡礼」と記された岐阜や姫路もあった。おそらくアニメの舞台となった実在のロケーションを旅する「聖地巡礼ツアー」の車なのだろう。ちなみに、インターネットで「聖地巡礼」を検索すると、「五大聖地」というのがあって、「鷲宮神社、木崎湖、豊郷小学校旧校舎、尾道、城端」がその場所なのだそうだ。

 今度はガラス越に車の中を覗いてみた。散らかし放題の車内と思ったら、大変な予断と偏見だった。全部を点検したわけではないが、どれも整然として、ゴミや空き缶がないのである。フィギュアなどもフロントガラス付近にきちんと並んでいる。

 ところで、この日は特別な日でもないのに、湯涌温泉になぜ痛車が集まっていたのか。2011年4月から9月に放送されたテレビアニメ『花咲くいろは』(全26話)の聖地なのだ。東京育ちの女子高生「松前緒花」が石川県の「湯乃鷺(ゆのさぎ)温泉」の旅館「喜翆荘」を経営する祖母のもとに身を寄せ、旅館の住み込みアルバイトとして働きながら学校に通う。個性的な従業員との確執や、人間模様の中で成長しいく。湯乃鷺温泉の舞台となったのが湯涌温泉だった。菓子屋の店員に尋ねると、毎週末には「なんとなく集まってくる」のだという。

 金沢で長く住んでいると、湯涌温泉でイメージするのは、あの独特の美人画で知られる竹久夢二だ。愛人・彦乃と逗留した温泉場。大正モダン風に描かれる、彦乃のイメージ画=写真・下=が印象に強い。そして、戦後間もなく、湯涌温泉にあった「白雲楼ホテル」(現在撤去)をGHQ(連合軍総司令部)が接収して保養施設にしていた。あのマッカーサーも利用したとされる。さらに、この湯涌温泉には「江戸村」があり、芽葺き農家などの歴史的建造物が移築されている。この湯涌温泉に来るとそうした歴史を感じてきたが、思いもかけず痛車と遭遇して「現代」を感じた。

⇒8日(日)夜・金沢の天気   くもり

★「Iターンの島」~5

★「Iターンの島」~5

 島根県海士町は隠岐諸島で水が豊富に湧き出ることで知られる。日本の名水百選にも選ばれた「天川の水」は鉱物臭さを感じさせない口当たりのよい水だった。また、湧水を利用した田んぼがところどころに広がる=写真・上=。ここで獲れた米は隠岐の他の島に「輸出」をしている。

           歴史は長く、懐深い島

 今回この町を訪れてみようと思い立った理由の一つは、かつて新聞記者時代に取材した「輪島市海士町」との歴史的な関連性についての興味だった。輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。輪島の海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町はどうかと考え、山内道雄町長にちょっとしたインタビューを試みた。

 戦後、金沢大学の言語学者が玄海町鐘ヶ崎と輪島市海士町の言葉を聞き取り、共通するものをピックアップしている。代表的なものは、「ネズム(つねる)」「クルブク(うつむく)、「フトイ(大きい)」「ヨタキ(夜の漁)」「ワドモ(あなたたち)」「エゲ(魚の小骨)」などだ。この7つの単語を筆者が発音して、74歳の山内町長に聴いてもらった。反応したのはフトイとヨタキの2つだけだった。また、町長や視察に応対してくれた町職員、民宿のおばさんたちの言葉を聞いた限りでは、イントネーションなど輪島市海士町に比べ随分と表現が柔らかく類似性は感じられなかった。また、漁労の歴史の中で女性が潜る海女漁も「大昔はあったかもしれないが、親たちからも聞いたことはない」という。

 海士町のホームページによると、隠岐諸島は「隠岐国海部(あま)郡三郷」と呼ばれ、平城京跡から「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として「御食(みけ)つ國」として知られていた。1221年には承久の乱を起こし幕府に完敗した後鳥羽上皇は隠岐・海部郡に流刑となり、亡くなるまで17年間暮らした。江戸時代は松江藩の支配下となり、海士村、豊田村、崎村、宇津賀村、知々井村、福井村、太井村に分かれていたが、1904年に合併して海士郡海士村となった。こうして見ると、「海士」の地名はもともと「海部」から起きていて、歴史性がある。輪島の海士町は江戸時代の漁労集団がそのまま地名になった感がある。歴史の尺度に違いがあり、ルーツを云々するということには無理があると気がついた。

 山内町長の講演の後、午後からは同町産業創出課の大江和彦課長のガイドで島めぐりをした。印象的だったのはカズラ島=写真・下=。同町の大部分を占める中ノ島の200㍍沖にある無人島(10㌃)だが、「散骨の島」として知られる。10年ほど前、東京の葬祭会社の社員旅行がきっかけで、話が進んだ。隠岐諸島にある180の無人島のうち、所有権がはっきりしていて、地主と連絡が取れる島は少ない。カズラ島は所有者がいて、葬儀会社は島を購入できた。風評被害を恐れる町議会などに対して事前説明を行うなどして散骨事業を始めた。散骨を行うのは、一年のうち5月と9月の2回。それ以外は上陸せず、弔いに訪れた遺族は中ノ島の慰霊所から、島を眺めて合掌するのだという。葬送のスタイルは変化している。当時反対論もあったが、山内町長は「これも島に来てくれた人との親戚づきあい」と町議会を説得した(大江課長)。Iターン者も亡き人も弔い人も受け入れる島、それが海士町なのだ。

⇒20日(水)夜・金沢の天気    はれ

☆「Iターンの島」~4

☆「Iターンの島」~4

(「Iターンの島」~3からの続き、山内道雄・海士町長の講演から) ブランド化はユーザーや消費者の評価を通しての言葉だ。日本で一番きびしい評価を通りくぐらなければブランドにならない。それは東京の市場だ。隠岐牛を平成18年3月に初めて3頭を出荷した。このとき全て高品位のA5に格付けされ、肉質は松阪牛並の評価を受けた。ことし3月までに742頭を東京に出荷したが、A5の格付率は52%だ。リーマン・ショック(2008年9月)以降は、高級牛の価格は下がったが、それでもこれまで枝肉最高値1㌔当たり4205円、これは店頭値で3万円もする。枝肉の平均価格でも2169円。これを一頭当りで換算すると91万円となる。

       「ないものはない」、時代のトップランナー

 隠岐牛は、隠岐固有の黒毛和種で古くから島中で放牧されている。傾斜のきつい崖地を移動しながら育つので足腰が強く骨格と胃袋が丈夫。また、海からの潮風が年中吹くため、放牧地の牧草にはミネラル分が多く含まれ、美味しい肉質に仕上がる。ところが、隠岐ではこれまで子牛のみが生産され、すべて本土の肥育業者が購入し、神戸牛や松阪牛となって市場に出ていた。そこで、島の建設業らが一念発起してこの素質の良い隠岐牛を繁殖から肥育まで一貫して生産販売することで、ブランド力を高め、雇用の場を創出しようと新規参入した。こうした地域の取り組みに共感して、隠岐牛の担い手になりたいと都会からIターンの3家族(20~40代)が移住している。

 また、岩ガキ養殖を始めたいと都会からIターン者が7人が移住してきた。岩ガキはこれまで、離島であるがゆえに輸送時間による鮮度落ちが理由で価格は低く、島の自家消費でしかなかった。そこで、あるIターン者が取引単価の高い築地市場への岩ガキを出荷を試み、完壁なトレーサピリティを売りに信用を得た。さらに、直販も手がけ、オイスターバーへの売り込みや消費者への直接販売を積極的に行っている。直接販売ができるようになったのは、CAS(キャス)と呼ぶ特殊冷凍システムを導入したことがきっかけだった。細胞を壊さずに凍結できるため、解凍後に獲れたての鮮度と美味さが失われない。CASとはCells Alive System、細胞が生きているという意味だ。これを5億円かけ施設をつくった。CAS導入の意義は、離島の流通ハンディキャップを克服すること、島から高付加価値商品を生み出し、第1次産業の復活と後継者育成につなげるためだ。全国自治体の中で、いち早く導入したと自負している。これで岩ガキの出荷をこれまでの25万個から50万個に、また岩ガキだけでなく、旬感凍結「活いか」といった加工商品など続々と誕生している。

 移住者が生み出した商品で面白いのは「さざえカレー」だろう。海士町では商品開発研修生を平成10年度より募集している。「よそ者」の発想と視点で、特産品開発やコミュニティづくりにいたるまで、島にある全ての宝の山(地域資源)にスポットをあて、商品化に挑戦する「島の助っ人」的な存在でもある。これまで18人が参加し、7人が島に定住した。そのうちの一人が考案したヒット商品が「さざえカレー」だ。島では普通に肉の替わりにサザエを入れてカレーにして食べていた。商品価値があることすら気づかなかったものが、外の目から見れば驚きとともに新鮮な魅力として映る、そして商品化するよい見本となった。

 教育そのものをブランド化したいと取り組んでいる。海士町にある島根県立隠岐島前高校は、島前3町村で唯一の高校。少子化の影響を受け、約10年間で入学者数が77人(平成9年)から28人(平成20年)に激減した。全学年1クラスになり、統廃合の危機が迫っていた。高校がなくなると、島の子どもは15歳で島外に出ざる得なくなる。その仕送りの金銭的負担は子ども1人につき3年間で450万円程度となる。しかも、それで卒業後に流出すれば、人口は増々減少する。高校の存続はイコール、島の存続に直結する。そこで、「ピンチを変革と飛躍へのチャンス」ととらえ、平成20年から全国からも生徒が集まる魅力的な高校づくりを目指した。

 この高校には町の職員4人を派遣している。実践的なまちづくりや商品開発などを通して地域づくりを担うリーダー育成を目指す「地域創造コース」と、少人数指導で難関大学にも進学できる「特別進学コース」がある。生徒が企画した地域活性に向けた観光プラン「ヒトツナキ」が観光甲子園でグランブリを受賞した。学校連携型の公営塾「隠岐国学習センター」を平成22年に創設し、従来の塾の枠を超えた高校との連携により、学習意欲を高め、学力に加え社会人基礎力も鍛える独自のプログラムも展開している。特徴的なのは、全国から意欲ある生徒の募集に向け、寮費食費の補助などの「島留学」制度を平成22年から新設し、意欲ある高校生が集まることで、小規模校の課題である固定化された人間関係と価値観の同質化を打破したい、これによって刺激と切嵯琢磨を生み出すことを目指した。この財源には、町職員の給与カット(縮減)分を充てている。この取り組みで平成20年度27人だった入学者は、関東や関西などから応募者があり、今年度は59人となった。

 四次海士町総合振興計画「島の幸福論」が2010年度グッドデザイン賞を受賞した。その基本は、人(健康)、自然(環境)、生活(文化)に配慮した持続可能な社会づくり。ひとことで言えば、この島に生まれてよかったと死に際にふと想うことの幸せを実現することである。そのために、自治体は何をしなけらばならないのか。小規模町村こそ自治の担い手であり、それは地方分権でなく「地方が主役」である。地方の元気が国の元気にと考えている。「民から官へ」の意気込みが必要で、経済規模の小さな地域では民の仕事を官がやるぐらいの意気込みが大切だ。

 超少子高齢化が著しく、財政危機など海士町には、いま地方が抱える問題が凝縮されている。しかし、それは近い将来、島国日本が直面する問題を海士町が先取りしているということであり、日本の新しい道を最先端で切り拓いているトップランナーの姿なのです。このように見て感じてもらえば分かりやすい。最後に、島のキャッチフレーズは「ないものはない」としている。2つの意味がある。「ない」から創造する、仕事がないなら創る。もう一つは、「ないものはない」、つまりすべてあるという意味だ。人に本来必要な資源である自然と環境、生活と文化の要件はすべてある。だから、離島で人々はたくましく悠久の歴史を育んでこられたのだ。

⇒14日(木)夜・金沢の天気  はれ

★「Iターンの島」~3

★「Iターンの島」~3

 日本海の島根半島沖合約60kmに浮かぶ隠岐諸島の四つの有人島の一つ、中ノ島を「海士町」といい1島1町の小さな島(面積33k㎡、周囲89km)である。本土からの交通は、高速船かフェリーで2~3時間かかり、冬場は季節風が強く吹き荒れ、欠航して孤島化することも珍しくなく、離島のハンデキャップは大きい。戦後間もなくの昭和25年(1950)ごろの統計では約7000人近くいた人口も平成22年10月の国勢調査では2374人に減少し、世帯数は1052となった。65歳以上の高齢化率38%となっている。さらに、国の離島振興法などの政策によって公共事業が行われ、道路や漁港などの社会資本は整備されたものの、その体力以上に地方債が膨らみ、ピーク時の平成13年(2001)度には101億円に上った。そのような過疎に島に転機が訪れたのは平成14年5月の町長選挙だった。

         過疎の島の「選択」と町長の「決断」

 それまでの「地縁血縁の選挙」だった島の町長選挙に、町議2期をつとめた山内道雄氏が大胆な行政改革を訴えて当選した。山内氏は元NTT社員。電電公社からNTTに変革したときの経験を活かし、「役場は住民のためのサービス総合株式社である」と町職員の意識改革を迫った。意識を変えるために年功序列を廃止して適材適所、組織を現場主義へと再編していく。その延長線上に「Iターンの島」がある。視察3日目(6月10日)、その山内町長が「離島発!地域再生への挑戦~最後尾から最先端へ~」と題して講演した。74歳、話す言葉が理詰めで聞きやすい。以下、講演を要約する。

                  ◇

 平成の「大合併の嵐」が吹く中で、隠岐の島々の合併話が持ち上がったが、そのメリットが活かされないと判断し、単独町制を決断した。「自分たちの島は自ら守り、島の未来は自ら築く」という住民や職員の地域への気概と誇りが、自立への道だと思ったからだ。それは自治の原点でもある。、その直後に小泉内閣の「三位一体の改革」があり、地方交付税の大幅な削減は、島の存続さえも危うくした。当時のシュミレーションでは平成20年に「財政再建団体」への転落が予想された。そこで住民代表と議会、行政が町の生き残りをかけて平成16年3月に「海士町自立促進プラン」を策定した。そのとき、自ら身を削らないと改革は支持されないと思い、自ら給与50%のカットを申し出た。すると、助役、教育長、議会、管理職に始まり、職員組合からも給与の自主減額を申し出て、私は町長室で男泣きした。カット分の一部は具体的に見える施策に活かそうと「すこやか子育て支援条例」をつくり、第3子50万円、4子以上100万円の祝い金やIターン者が出産のため里帰りする旅費など充てている。

 93人(平成10年度)いた町職員を68人(同19年度)に、、時間外手当の縮減、組織のスリム化とフラット化(連携の強化)で現場主義、課長・係長の推薦制と年功序列の廃止、収入役ポストの廃止、町長公用車の廃車、経営会議の設置と定例化(毎週木曜17時15分から)と打てる手は打った。すると、住民の目も変わった。老人クラブからバス料金の値上げや補助金の返上や、ちょっとした清掃や施設の修繕などは住民が「役場も頑張っているから」と自分たちでするケースが増えてきた。町民と危機感の共有化できるようなった。こうした積み重ねで、101億円あった地方債は現在70億円近くまで減り、財政事情は確実に改善に向かっている。

 身を削りながらも、「攻め」の戦略に打って出た。攻めとは地域資源を活かし、島に産業を創り、雇用の場を増やし、外貨を獲得して、島を活性化することである。成長戦略を島の外に求めることにした。そのため、部局の職員を減らし、その分を産業振興と定住対策のセクションに重点シフトすることにし、攻めの実行部隊となる産業3課を設置した。観光と定住対策を担う「交流促進課」、第1次産業の振興を図る「地産地商課」、新たな産業の創出を考える「産業創出課」である。「ヒントは常に現場にある、現場でしか知れないことを見落とすな」と職員に言っているがそれを実行した。この3課を町の玄関口である菱浦港のターミナル「キンニャモニャセンター」に置いた。港は情報発信基地でもあり、アンテナショップだ。

 その産業振興のキーワードを「海」「潮風」「塩」の三本柱にして、地域資源を有効活用しする。平成16年の再生計画で「海士デパートメントストア・プラン」をつくり、島全体をデパートに見立て、島の味覚や魅力を発信する島のブランド化を全面に打ち出した。そのメーンターゲットはハードルが高く厳しい評価が下される東京で認められなければブランドにならないという考えから、最初から東京に置いた。東京で認められなけらばブランドではない、ブランドとしての発信力もないと考えたからだ。(次回に続く)

⇒10日(日)夜・隠岐海士町の天気  はれ