⇒トピック往来

★南紀白浜、見て歩き

★南紀白浜、見て歩き

  2日と3日の両日、ゴールデン・ウイークの連休を利用して南紀白浜を旅行した。特急「くろしお」の車窓からは、コバルトブルーの海とリアス式海岸の絶景が広がる。万葉の時代から、人々を感動させてきた絶景だ。

  「み熊野の浦の浜木綿 百重(ももへ)なす 心は思へど ただに逢はぬかも」は万葉集の歌人、柿本人麻呂が詠んだ歌。海辺を彩る涼しげなハマユウの花が人麻呂の想像をかき立てたのだろう。藤原京に出仕していた時代、気になるのはどのようにして「熊野の浦」にたどり着いたのだろうか。海岸の道を歩き、山を越えるルートは、熊野へ詣でる都人にとってまさしく苦行の旅だったろう。そのときに浜辺のハマユウの白い花がなんともいとおしく思えた、そんな歌だったのだろうか。

  JR白浜駅で下車して、バスで白良浜に向かった。白良浜(しららはま)の石英砂は目にまぶしい。ちょうど夕日が落ちるころだった。北陸の海岸でも、こんなに白い浜は見たことがない。明治から大正にかけてはガラス原料として採取されていたほど豊富だったが、現在は浜が痩せ、オーストラリア産の珪砂が入れられているとか。

  白良浜から徒歩3分、海を望む高台に建つホテルがきょうの宿だ。最上階の露天風呂や貸切風呂からの眺めも格別だ。夕食に赤ワインを飲むと一気に眠気が襲ってきた。ズボンを穿いたままそのまま寝込んでしまった。夜中の11時ごろだったろうか、ふと気が付くとドアをコンコンコンと小刻みにノックをする音がする。スコープのないドアなので、「誰ですか」と問うと、女性の声で「ドアを開けてください」との声がする。私はピンときた。その筋の人だな、と。古い温泉街の夜のビジネスが今でも生きているのだ、と。なので、放っておいた。その後はノックもなく。また、寝込んでしまった。後で思えば、その女性は同じフロアの客で部屋を間違えてノックしたのかもしれない、とも思った。これは自分自身も経験があるからだ。

  翌日(3日)朝、白良浜へ散歩に行くと、人が群れていた。水着になっている子供たちもいる。「海開き」と看板が出ていた。おそらく本州で最も早い海開きではないか。北陸だと7月だ。フラダンスの女性たちもいてなんともにぎやかしそう。その開放感に、さすが、南紀白浜だと実感した。

  バスで「アドベンチャーワールド」に出かけた。動物園と水族館、遊園地がまじりあった混合施設のよう。ここの名物のパンダは行列が長すぎて遠目で見ただけだった。メインイベントが動物たちのパレードだ。ペンギンやラクダが大音響のBGMのもとでエントランスの広場を行進するのだ。子供たちは目を爛々と輝かせながら見つめている。ただ、私には「動物虐待」という四文字が脳裏によぎった。

  夕方、アドベンチャーワールドから路線バスで白浜駅に向かった。車中はほぼ満員だ。出発するとき、運転手がこう説明した。「道路がとても混みあっているので、迂回して、まず白浜駅に行きます」と。このバスは路線バスなのになぜ迂回するのかと不思議に思った。道路運送法の違反だろう、と。ただ、多くの客は白浜駅に降りるので、客とすればその方がありがたいのだ、が。このとき、作家の司馬遼太郎の著書の記述を思い出した。「紀州方言には敬語がない」と。明治初めに紀州や土佐で自由民権運動が起こったのも、ある意味で合理的な考えの持ち主が多かったからだろう、と。

⇒3日(日)朝・大阪の天気  くもり   

☆頭上のリスク

☆頭上のリスク

  規制法はいつも後手後手に回り、犠牲者が出て始めて立法へと動き出す。信号機の設置ですらそうだ。犠牲になった人はまさに人身御供だ。これが法治国家、日本の現状といえる。

  前回、前々回のブログで小型無人機「ドローン」のことを書いた。現行法では、航空法で250㍍以下の飛行物体に関して規制はない。ただ、人の頭上にドローンを飛ばすな、と。当たり前のことを書いているだけだ。今月1日付の読売新聞で関連したことが記事になっていた。以下、引用する。

  富山県高岡市の伝統祭礼「御車山祭(みくるまやままつり)」の山車が集まる同市の交差点付近で1日正午前に、ドローンが上空を飛行しているのを大勢の見物客が目撃した。見物客が最も多く集まる祭りのハイライトとなる場所で、人混みの上空を上下したり、空中にとどまったりして、十数分間にわたって飛行したという。誰が飛ばしたのか分かっていない。高岡署の幹部は「人通りの多い場所での飛行は好ましくない」としたうえで、現状では法規制がないため、「危ないからやめるようにと注意はできても、強制的な措置は取れない」と話す。以上が記事の要約だ。

  祭りの実施者や見物客が頭上が気になって、祭りに集中できなかったであろうことは想像に難くない。いくら法律的な規制がないとしても、飛ばす方の無神経さがむしろ気になる。操作の誤り、電柱や電線、樹木などとの接触事故、電池切れ、そんなリスクを考えたら普通だったら人様の頭上を飛ばすことはためらう。早急に、操縦者の登録制、それに伴う適正検査、飛行エリアの基準、事前の届け出など、法的な規制でするべきことはいくらでもあるだろう。

  これは飛ばすことの権利や自由などとは次元が異なり、人身の安全の保障・担保という話だ。田んぼや野山なら、誰も文句は言わない。頭上にリクスを感じるから、やめてほしいと言っているだけなのだ。

⇒2日(土)午後・和歌山県白浜町の天気   はれ  

★ドローンの後始末

★ドローンの後始末

  やはり「テロ」だった。総理官邸の屋上で小型無人飛行機が見つかった事件で、24日夜、福井県警小浜署、40代の男が出頭して関与を認めたと、新聞・テレビのマスメディア報じている。

  警視庁は威力業務妨害などの疑いで調べているが、出頭した男は「反原発を訴えるために、自分が官邸にドローンを飛ばした」と話しているという。テロリズム(terrorism)とは、何らかの政治的な目的のために、暴力による脅威 に訴える傾向や、その行為のことだが、小型無人飛行機という空飛ぶ「武器」で、たとえそれがそれが微量であったとしても放射線を放つ汚染物質を直撃させたのである。これはある種の「テロ」とみなされる。

  解せないのは、男が「反原発」をその理由としていることだ。これには、法廷闘争などの手段でたたかっている原発反対の住民はおそらく憤っているだろう。「目的と手段を混同するな」と。むしろ、目的と手段を混同しているからこそ、「テロ」なのである。これは、クラジやイルカを守るためなら、日本の捕鯨調査船を襲撃してもかまわないというグループとスタンスは同じではないか。

  先のブログでも述べたように、政府・与党はさっそく小型無人機の飛行を規制するための法整備に動き始めている。報道によると、政府は航空法を改正し、小型無人機の購入時に氏名や住所の登録を義務付けることを検討している、という。また、自民党は、首相官邸や国会周辺に飛行禁止空域を設ける議員立法の成立を目指している。これに向けて、政府は、重要施設の警備態勢の強化や、運用ルールや関係法令の見直しなど分科会の設置して具体的な検討に入ることを決めた。今回のドロ-ン問題をめぐり、政権もどう規制すればよいか、後始末に追われているようだ。

  先のブログと繰り返しになるが、個人的にも頭上で小型無人機など飛んでほしくない。田んぼやら野山ならそれは構わないが、住宅地などに飛ばしてほしくないと思っている。

⇒25日(土)朝・金沢の天気    くもり

☆上空は誰のもの

☆上空は誰のもの

  小型の無人ヘリコプターが能登半島の田んぼで肥料などを空中散布している光景をたまに見る。田んぼに落ちないように、なるべく低空で飛び、肥料が他人の田んぼに拡散しないようにと農家の若い人が意外と気を使って操縦している。コンバインや耕運機とは違い、農業と空飛ぶ工学機械のコラボレーションという感じがする。

  昨日から報道されている、首相官邸の屋上で見つかった小型無人飛行機「ドローン」は不気味な気がする。事件なのか、事故なのか。報道によると、官邸の屋上で見つかった「ドローン」は直径50㌢ほどの大きさで、4つのプロペラで飛ぶタイプという。小型カメラと液体の入ったペットボトルの容器が付いていたようだ。問題は、この容器には「放射能マーク」があり、直径3㌢、高さ10㌢ほどで、ふたがしてあり、放射性セシウムが検出されたという。

  家電量販店で価格1万から15万円で買えるドローン。操縦しながら、VTRで撮影した映像をリアルタイムに手元のスマートフォンに見ることができるという機能があり、趣味の世界でも広がっている。ただ、むやみに上空を飛ばれては、地上の住民としては不安が募る。ドローンなど小型無人飛行機は航空法上、250㍍までの高さだったら自由に飛ばすことができ、オモチャの模型飛行機と同じ扱いとなっている。個人的なホビーユースから、建築施工など業務用まで多様な用途があるがゆえに、今後台数も増えればそれだけ、地上への落下というリスクや、犯罪に使用される、つまり武器としての懸念も出てくる。

  もし、ドローンを官邸に墜落させた人物から「誤って落とした」との名乗りがなかったなら、わざとセシウムを散布するために飛ばした武器、つまりテロとして判断されるのではないだろうか。今後、勝手に上空を飛ばさないためにも規制が必要だろう。庭木や電柱、鉄塔、高層ビル、人為ミスなど小型無人飛行機を阻むものは多々ある。田んぼの上空ならいざ知らず、ホビー感覚や業務用途で住宅の上空など勝手に飛ばしてほしくない。今回のニュースを見てそう感じたのは私だけだろうか。

⇒23日(木)朝・金沢の天気    はれ

  
  

★「加賀の茶」物語

★「加賀の茶」物語

  きょう(5日)金沢市内の茶道具店が主宰する茶話会に参加した。テーマは「加賀紅茶の話」。石川県茶商工業協同組合理事長の織田勉氏の講話だった。加賀藩と茶葉の関わりが面白かった。最近売り出し中の加賀紅茶「輝(かがやき)」、能登紅茶「煌(きらめき)」の仕掛け人でもある。まずは加賀における茶葉の歴史を、織田氏の話のメモから。

  加賀藩の3代藩主・利常が小松に隠居したことから始まる。茶問屋「長保屋(ちょうぼや)」の長谷部理右衛門が利常に願い出で、藩内で茶葉をつくることを進言した。それまでは、宇治や近江の国からの購入だった。それを藩内で生産してはどうかと長保屋が提案した。利常は進言に応え、茶種を山城や近江から購入し、小松付近で栽培が始まる。そして、小松の安宅湊からは北前船で「茶、絹、畳表」などが移出さるようになった。元禄4年(1691)の記録によると、加賀藩五代の綱紀が、徳川五代綱吉に献上したとの記録もある。

  当時、お茶は高級品だった。「お茶壺道中」という言葉があった。幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中と言った。この道中は、京の五摂家などに準じる権威の高いもので、茶壺を積んだ行列が通行する際は、大名といえども駕籠(かご)を降りなければならない、というルールがあった。街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどだったという。「ズイズイ ズッコロバシ ごまみそズイ 茶壺におわれて トッピンシャン ぬけたら ドンドコショ」という童謡がある。このわらべうたは、田植えなどの忙しい時期に余分な作業を強いられるお百姓たちの風刺だった。

  小松を中心として、能美・江沼西郡に増産体制が敷かれ、明和5年(1768)には地場生産1万6800斤、移入は近江茶2万3100斤、安永6年(1777)には地場生産2万7700斤、近江茶1万6100と逆転する。文化年間(1810頃)には25万700斤と地場生産は10倍に膨らんだ。25万斤は約375トンに相当する。ただし、当時でも上質なものは宇治から購入だった。

  安政6年(1859)に横浜港が開港して、その輸出品の先陣を飾ったのは日本の緑茶だった。加賀では茶の増産に拍車がかかった。小松の長保屋は能美郡内から生茶を集めて宇治風の茶を製造して、安宅港から敦賀に陸揚げして、兵庫に輸送、そこから海外へ輸出した。明治の初めごろには金沢の寺町台にも茶園が広がり50万斤と全盛時代を迎えた。ところが魔がさした。当時、好調な輸出に調子に乗った国内の茶商人は輸出先のアメリカに古茶を混入したり、ヤナギの葉を混入した業者もあった。加賀の生産者の中にもこうした悪質な製法に習った者もいた。こうした乾燥不良品やニセ茶に対してアメリカは明治16年(1883)年、「贋製茶輸入禁止条例」を国会で可決した。日本茶は一気に信頼を失った。

  こうした風潮を戒めようと、明治16年(1883)4月、金沢市の尾山神社では近藤一歩らが献茶式を開いた。加賀茶の庇護者であった藩主、前田家に対する感謝と粗悪茶の改善を誓うものだった。太平洋戦争が始まると、食糧増産が叫ばれ、趣向品のお茶からコメ作りにまい進することになり、茶の生産量は激減し、石川県内でも茶畠は徐々に消えていった。戦後は、加賀市打越地区などではその加賀茶の伝統は守られた。

  織田氏は、平成19年から打越製茶農業協同組合と県茶業商工業協同組合に仕掛けて、加賀茶の伝統を守ってきた打越地区で「加賀の紅茶」の生産を始めた。平成24年からはこのノウハウを「能登の紅茶」として商品化すべく、七尾市能登島町で紅茶の栽培を始めた。7アール1000本の植栽から始め、昨年は50アール4000本を植えた。品種はヤブキタ、オクヒカリだ。

  緑茶と紅茶の違い。緑茶は製造の第一工程で加熱により茶葉中の酸化酵素の活性を止めるのが特徴で、発酵が行われないため、茶葉の緑色が保存され緑茶と呼ばれる。紅茶は、発酵茶とも呼ばれ、茶葉を揉む前に葉をしおれさせ後に湿度の高い部屋で充分に発酵させるため茶葉タンニンの酸化で黒褐色となり、紅茶となる。北陸新幹線の名称にあやかった加賀紅茶「輝(かがやき)」、そして能登紅茶「煌(きらめき)」。加賀の茶の復活なるか。

⇒5日(日)午後・金沢の天気   あめ

☆トキは何を思う

☆トキは何を思う

   もう45年も前の1970年1月、本州最後の1羽のトキが石川県能登半島の穴水町で捕獲された。トキは渡り鳥ではなく、地の鳥である。捕獲されたトキはオスで、「能里」(のり)という愛称で地元で呼ばれていた。能里の捕獲は繁殖のため新潟県佐渡市のトキ保護センターに移すためだった。能里の捕獲と佐渡行きについては当時、地元能登でも論争があった。「繁殖力には疑問。最後の1羽はせめてこの地で…」と人々の思いは揺れ動いた。結局、トキ保護センターに送られたが、翌1971年に死亡する。論争がありながらも最後の1羽を送り出した能登の人たちの想いまだ記憶されている。穴水町に行く、今でも「昔、能里ちゃんはここら辺りを飛んでいたよ」と話すお年寄りがいる。「ちゃん」付けにトキへの想いがこもる。

  国の特別天然記念物であるトキの一般公開は全国で唯一、佐渡市だけで行われている。環境省は佐渡市以外でトキの飼育と繁殖に取り組む4施設(石川県・いしかわ動物園、東京都・多摩動物園、新潟県・長岡市トキ分散飼育センター、島根県・出雲市トキ分散飼育センター)でも公開を可能とする方針だが、地元石川の新聞メディアなどでは、佐渡市の地元では他地域でのトキの公開に難色を示す声が上がっていると伝えている。

  佐渡市の困惑は相当強いようだ。昨年10月2日付で佐渡市議会は以下の意見書を可決した。「1.あくまでも鳥インフルエンザ等の防止と絶滅の危機回避であり、非公開とすること、2.分散飼育する地域と施設については、科学的根拠と技術的条件に基づき決定し、これまでトキ保護に取組んできた佐渡市民の感情対策を講じること」と。佐渡の地元でこのような声が上がった理由についても意見書で記されている。「去る9月11日に開催された「第7回トキ野生復帰検討会」終了後、マスコミにより、石川県で分散飼育されているトキの一般公開が決定されたと報道された。現に石川県では一般公開施設の基本設計さえ行われており、環境省と石川県はトキ公開展示に向けた協議を進めているものと推測される。このことは、平成15年に野生絶滅したトキが佐渡市民の努力により361 羽まで増羽した事実を軽視し、さらに、平成18年3月27日、佐渡市が環境省の分散飼育にあたり行った下記要望に反するものである。よって、現段階における公開に強く反対するとともに、改めて、下記の取決めを遵守するよう強く求める。」

  この意見書では、一方的に石川県が環境省と組んでトキの一般公開を進めているとの印象なのだが、経緯があるようだ。環境省は昨年8月にトキの保護や増殖への国民の理解を深めるために、佐渡市以外でも公開する条件や手続きについて基本方針を策定した(「分散飼育地におけるトキの一般公開について」平成26 年8 月28 日付の環境省自然環境局長通知)。これを受けて、石川県は9月に計画書案を環境省に提示している。12月には出雲市も公開に向けて準備を進めると表明した(平成26年12月18日・出雲市議会全員協議会への説明)。

  これまでトキの保護のために佐渡が果たしてきた役割は大きいのはうまでもない。一般公開に関しても、佐渡ではようやく2013年3月に始まったばかり。また、トキを佐渡市以外で分散飼育と繁殖を行うようになったのは、鳥インフルエンザによる絶滅が危惧されたからである。いしかわ動物園では2010年1月に佐渡から4羽のトキが初めて移送された。これまで同動物園で繁殖した28羽が佐渡に移送され放鳥もされている。また、来月6日にはさらに10羽(オス5、メス5)が移送されることになっている。こうした経緯を見るとはリスクを分散したトキの繁殖計画は順調に進んでいるように思える。さらに、これまで放鳥は177羽、さらにペアリングが成功して31羽が巣立ちしている。

  こうなると、環境省としては次なる段階に入りたいと考えるだろう。それは、国費をかけての事業なので国民への理解だ。それが、分散飼育地での一般公開を進めるという段階なのだろうと想像する。というもの、いしかわ動物園へ行くと、「トキはどこのいるのですか」と子どもたちが係員に尋ねる姿を見かけることがある。今はライブ映像をテレビ画面でしか見ることができない。そのとき、親たち「トキは人が怖いので、とても臆病になっているのよ。(直接見れないのは)しかたないね」と諭している。こうした親子の光景を見ると、人とトキが離れた存在、つまり動物保護という教育的な観点からも離れた印象を受ける。

  一般公開された佐渡市の「トキふれあいプラザ」では年間20万人が訪れる観光施設になっているという。長年保護活動に尽くしてきた佐渡市民とすれば、他施設での一般公開はもう少し待ってほしいという心情も分かる。ここでもう一度、トキにとっては今何をすることが必要なのだろう。

※写真は、佐渡で放鳥されたトキ(メス)が最近能登半島に飛来している

⇒30日(月)朝・金沢の天気   はれ

★梅の花と北陸新幹線

★梅の花と北陸新幹線

  我が家の庭の梅が満開となった。「老梅」で樹皮だけのような薄い幹が痛々しいほどに横に曲がり、支え棒がないと折れてしまいそうな形状なのだが、この時節にはちゃんとピンクの花を咲かせて楽しませてくれる。ただ、梅の実は数個しかつけていない。例年、この老梅が最初に一輪の花を咲かせるころに、造園業者に来てもらい雪吊り外しをしてもらう。ことしは今月19日だった。この梅の時節にやってきたのが北陸新幹線だ。

  今月14日に金沢開業にこぎつけ、2週間たっても連日のようにメディアをにぎわせている。きょう29日の地元紙の社会面の見出しはこうだ。「切符購入 あぁ窓口混雑」「東京出張 あぁ飛行機で」。この見出しだけでは何のことが理解できないので、少し読み解(ほど)く。「あぁ窓口混雑」は金沢駅のみどりの窓口に行列が出来て、15分以上も待つときがあり、乗客から券売機を増やしたり、窓口の対応を臨時に増やす対応をしてほしいと苦情が出ているという内容。

  「あぁ飛行機で」は新幹線延伸で富山県庁や富山市役所では職員の東京出張は飛行機でと呼びかけている、というもの。4月から6月の利用状況によっては今後、減便や機体の小型化が予想されるからだ。東京駅から富山駅は最速で2時間8分なので、それぞれの利用者にとっては都心、あるいは市の中心街へのアクセスを考えれば新幹線に利便性がある。しかし、空のネットワーク(富山‐羽田‐成田)で国内外へのフライトを考えれば当然、空の便も確保しておきたいと行政が必至になるのは当然だろう。

  これまで2度、北陸新幹線に乗車できた。20日と27日。その乗車の感想を。普通車はシートに格子柄をあしらい、明るい空間。すべての座席に電源コンセントが設置されていて、パソコンやスマ-トフォンの電源が確保できる。収納式の大型テーブルはパソコン作業にはありがたい。ただ、シートの幅が狭い、と感じる。隣に体格の良い人が座ると肩身が狭い。そこで、2度目の東京行きの帰りは、思い切って「グランクラス」に乗った。

  東京と金沢間は指定・片道で14,120円なのだが、グランクラスは26,970円と倍近い。東北新幹線の「はやぶさ」にも設けられている。車両は12号車、つまり最前列。上質な空間で本革張りのシートは電動リクラインニングだ。一列が左右それぞれ1席と2席で計3席なので、普通車と違い幅も広い。キャビンアテンダント(CA)のサービスで、和食か洋食の軽食が選べ、アルコールも自由だ。最初は梅酒のスパークリングを頼んだ。続いて、赤ワインを。さらに、欲張って日本酒をオーダーすると、「宗玄」が出された。飲酒を想定して金沢駅からの帰宅をバスにしていたので、能登の銘酒をゆっくり堪能できた。

  数日前にグランクラスを予約するとき、旅行会社に「かがやき」のグランクラスをお願いした。すると、「せっかくグランクラスの乗るのだから2時間28分の『かがやき』ではなく、3時間3分の『はくたか』の方がリラックスした時間が余分に楽しめますよ」と担当の社員がアドバイスしてくれた。なるほど。新幹線なのだから最速で目的地に着くことばかりを考えていたが、グランクラスなのだから優雅な空間とゆったり流れる時間の双方を4次元的に楽しまなければ「26,970円の価値」も薄れるというものだ。ということで、東京から金沢の乗車を「はくたか」にしたのだった。

  グランクラスは18席しかない。東京駅で乗ったとき13席に乗客がいた。私の前の列に座った3人はアジア系の親子らしく、CAも英語でサービスをしていた。この親子は軽井沢駅で下車した。で、この親子は香港か台湾系の華僑かと想像をめぐらしたりもした。そして、桜の時期には北陸新幹線にどのような話題が繰り広げられることになるのか。新幹線の滑りが酔うほどに心地よく感じられ、いつしか眠りに落ちた。

⇒29日(日)午後・金沢の天気   くもり

  

☆3月14日ショック

☆3月14日ショック

  北陸新幹線の金沢開業のその日(3月14日)、メディアも新幹線一色だった。朝からテレビはどのチャンネルも中継番組、JR金沢駅周辺の道路では交差点に交通警察官が張り付き、空にはヘリコプターが飛び交うという、一種異様な感じさえした。ただ、空は晴天で新幹線金沢開業を祝福しているような雰囲気だった。

  最速型の「かがやき」は東京‐金沢(450㌔)を最短2時間28分で結ぶ。運行は東京‐上越妙高(新潟県)をJR東日本が、上越妙高―金沢間をJR西日本が担当するというダブル・システム。両社が共同開発した新型車両のE7系、W7系は最高時速260㌔だ。将来、北陸新幹線は東京から北陸をへて大阪までの700㌔を結ぶことになる。その波及効果も目を見張る。JR金沢駅周辺は、去年9月の基準地価で、商業地は全国一の上昇率となり、今もマンションやビル建設に加え、ホテルの開業が相次いでいる。金沢が得意とする全国規模の学術学会や国際会議が目白押し。日本政策投資銀行は、首都圏からの観光・ビジネス客は石川県で年間32万人増えると予想している。

  朝からのテレビ番組では「こうなると逆に北陸から首都圏へのストロー現象も心配」「地方創生が叫ばれる中、予想される太平洋側の大震災にそなえて大企業の北陸への分社化の動きも加速するだろう」と論義も熱かった。

  同じ14日の正午ごろ、今度はショッキングなニュースが飛び込んできた。殺人事件だ。福井大学大学院の前園泰徳・特命准教授が今月12日朝、福井県勝山市内に止めた車の中で、教え子の大学院生(女性)を殺害したとして逮捕された。報道によると、司法解剖の結果では、院生の首にはひもなどで絞められた痕がなかったが、手を使って犯行に及んだ可能性が高いとみて調べている、という。前園准教授は、勝山市で赤トンボの生態について進めていて、金沢大学が中心となって進めている北陸ESD教育の福井地区の主力メンバーだった。ESD(Education for Sustainable Development)とは聞き慣れない言葉かもしれないが、自然と生命(いのち)のつながりを感じたり、地域に根ざした伝統文化や人びとと触れながら多様な生き方を学ぶといった先駆的な教育手法だ。

  前園准教授と初めて名刺を交わしたのは昨年2014年2月22日のこと。金沢市内で私も関わっている「角間里山ゼミ」の設立記念ワークショップでお目にかかった。研究熱心で、子供たちへの環境教育のリーダー的な存在との印象だった。顔も鮮明に覚えていただけに、何かの間違えではなかと一瞬わが目と耳を疑ったほどだ。どのような背景があったにせよ、ショックという以外、言葉がない。

⇒15日(日)午前・金沢の天気   はれ  

★戻り寒波と北陸新幹線

★戻り寒波と北陸新幹線

  けさ6時20分ごろから、「雪すかし」をした。雪すかしは金沢では除雪のこと、「雪かき」と言ったりもする。ことしの正月三が日が雪すかしのピークで、2月に入ってからはほどんどスコップを持ったことがなかった。ご近所さんとも「雪が降らないので助かりますね」と言葉を交わしていた。それがここ数日の雪模様と荒れ模様、けさは我が家の周囲でも10㌢ほどに積もった=写真=。例年3月中旬ごろにチラチラと雪が舞い降りることがある。それを「名残り雪(なごりゆき)」と、冬の季節の終わりを告げる旅情的な表現にたとえる。しかし今回の雪は、昨日からの強風といい、積雪といい、まさに「戻り寒波」だ。

  けさ雪すかしをして感じたのは、雪がとても重いということ。水分がたっぷりと浸み込んでいるのだ。庭の枝木は大丈夫かと、つい見上げたほどだ。暖冬と言われていたので、ことしは樹木を積雪から守る「雪つり」を外す作業を早めに、またスノータイヤとノーマルタイヤの交換も早めにしとうと考えていたが、予期せぬ戻り寒波が来て、「早まらなくてよかった」と。と、同時に金沢の街路樹は大丈夫なのかと、ふと考えがよぎった。

  というのも、市内メインストリートの街路樹の雪つりを外す作業はすでに今月3日から始まっている。今月14日に迫った北陸新幹線金沢開業を見据えて例年より1週間早く外す作業を始めているのだ。観光客向けに残すJR金沢駅東口のクロマツのほかは、市道や公園にある6万5千本余りの雪つりを外している。すでに雪つりが外された樹木の中には、今回の戻り寒波の重たい雪でボキリと枝が折れたものがあるのではないか。これは想像だ。

 県が管理する国の特別名勝・兼六園の雪つり外しは例年通り16日からの予定だというのでは、今回、樹木への被害はそれほどないだろう。北陸新幹線金沢開業に合わせて、早く「春の装い」を整えようとした金沢市の行政側の心意気は理解できるが、タイミングが外れたようだ。この戻り寒波は数日続くという。

⇒12日(木)朝・金沢の天気   ゆき

☆あれから4年,街は

☆あれから4年,街は

  前回のコラムの続き。畠山重篤さんの事務所を辞して、気仙沼市の海の玄関口「内湾地区」を訪れた。震災後の2011年5月11日に被災地を訪問しており、3年9ヵ月ぶりだった。地元の方々からこの表現はお叱りを受けるかもしれないが、街の様子を眺めて「がっかりした」が第一印象だった。何しろ、震災から2ヵ月後の街並みの記憶とそう違わない。今でも街のあちこちでガレキの処理が行われているのである=写真・上=。もう街並みは復興しているものだとばかり思っていたので、その視覚のギャップが大きかった。

  2011年5月の気仙沼訪問で目に焼き付いていた、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330トン)=写真・下、2011年5月撮影=を見ようと現場に行った。が、すでに解体されていた。その後のニュースでは、気仙沼市は「震災遺構」として共徳丸の保存を目指していた。ところが、所有する水産会社が市側に解体の意向を市に伝えていたようだ。最終的に2013年7月に市側が市内の全世帯6万5千人(16歳以上)を対象に、漁船を震災遺構として残すことへの賛否を尋ねるアンケートを実施したところ、回答数1万4千のうちおよそ68%が「保存の必要はない」で、「保存が望ましい」16%を上回った(以上、気仙沼市ホームページより平成25年8月5日の記者会見資料より)。被災住民とすれば、日常の光景の中でいつまでも被災の面影を見たくはなかったのだろう。こうした住民の意向を受けて、市側は漁業会社の解体に同意し、共徳丸は同年10月に解体撤去された。

  それにしても、なぜ復興工事が進んでいないのだろうか。同じ市役所のホームページに、「気仙沼市震災復興推進会議について(開催概要)」とするPDFが上がっている。住民と行政側が復興の現状について意見を交わした議事録だ。この中で気になったいくつのケースを拾ってみる。たとえば、市役所の職員確保の状況について説明を求めた質問では、「全国の自治体に即戦力となる自治体職員の派遣を依頼する一方で、本市で雇用する職員募集をかけている。任期付職員については、専門性を必要とする土木・建築職員に関して地元の応募が得られず、今年から首都圏でも募集をかける予定である。」(2014年7月の第10回会議)との回答だ。全国から行政職員の応援をお願いしているが、それでも土木・建築系の職員が地元では集まらないという現実があるようだ。行政のマンパワーだけでなく、被災地は建設工事ラッシュなので、漁港施設、海岸、道路、河川、土地区画整理、宅地造成、下水道等の工事が同時進行している。しかも、国や県、各自治体が一斉に工事を発注するので、建設会社の落札に至らないというケースがあるようだ。したがって、工事ができず、さらに工期が伸びるとうい悪循環が起きていることが察せられる。

  しかも、全国総合開発をほうふつさせるアベノミクスの「国土強靭化計画」で全国で工事ラッシュだ。そうなると、優先されるべき被災地でも現場の作業員が不足するだろう。資材(採石、生コン、コンパネなど)や建設機械(ダンプトラックなど)の不足もあるだろう。工事に着手したとしても、工事が進まない、そんな気仙沼市の市街地を眺めながら、進まぬ復興の現実を考えさせられた。

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