⇒キャンパス見聞

★四高の青春グラフティ-下-

★四高の青春グラフティ-下-

 四高のOBには小説家の井上靖や、哲学者の西田幾多郎らそうそうたる顔ぶれがいる。しかし、かつてマスメディアの業界にいた私には、正力松太郎は図抜けて存在感がある。正力は警察官僚から新聞王となり、政治家となり、またメディア王、テレビ王にもなった。彼を押し上げた原動力には四高の人脈があった。

   正力は明治40年に四高を卒業した。学生時代は柔道に没頭した。東京帝大を卒業し明治末年に内閣統計局へ、大正になって警視庁に入った。そこで四高・東大の先輩であった警察部長の野口淳吉に可愛がられた。その野口が急死し、正力はこのあと共産党検挙に辣腕を発揮することになる。しかし、摂政宮皇太子(後の昭和天皇)が24歳の男にステッキ銃で狙撃された虎ノ門事件で、警察部長として皇室警護の責任者の立場にあった正力も懲戒免官された。この後、後藤新平や日本工業倶楽部の支援のもと、読売新聞の経営を引き受けることになる。ここから戦後、読売新聞の部数を破竹勢いで伸ばし、日本テレビなど設立して新聞王、テレビ王として、その存在を揺るぎないものしていく。

   そして、昭和34年(1959)6月25日、天皇が初めてプロ野球を観戦した後楽園球場の巨人-阪神戦9回裏に、長島が劇的なサヨナラホームランを放った天覧試合。正力が用意したそのロイヤルボックスに、天皇・皇后を据わらせたのは四高人脈である宮内庁の小畑忠や瓜生順良、そして文部省の初代体育局長の清水康平らだったといわれる。この天覧試合でプロ野球ブームが幕開けするのである。

  先日訪れた四高展示室には正力が寄贈した四高の学舎の模型が展示されていた。精巧なつくりで樹木の配置まできちんとかたどってある。おそらく業者に製作させたのだろうが、このときはメディア王はどんな思いでこの模型を眺めたのだろうか。自らの青春を懐かしんだに違いない。

 ⇒24日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆四高の青春グラフティ-上-

☆四高の青春グラフティ-上-

 先日、「四高開学120周年記念展示~学都金沢と第四高等学校の軌跡」という少々長いタイトルの展示会を見てきた。終戦直後まで続いたナンバースクールの学生のたちの青春ほとばしるグラフティである。

  近隣県との激しい誘致競争の末、金沢に第四高等中学校の設立が認可されたのが明治27年(1894)で、高等学校令の公布により第四高等学校と改称される。その後、昭和25年(1950)3月にその歴史を閉じるまでの60年余りの間、金沢のシンボルでもあった。

 展示で面白いのが学生たちの生活である。写真(上)は、寮祭のポスター(昭和15年ごろ)である。褌(ふんどし)姿で踊る姿が当時の寮生のバンカラぶりを彷彿させる。ちなみに最近の金沢大学の寮祭の立て看板と比較すると、最近のは少々品がよくなっている。が、寮では酒を飲み、大いに語り、青春が満喫できる。これは今も昔もそう変わらないのではないか。

  別の展示を見ると、当時、四高の新入寮生には怪談話を聞かせる催しがった。学生の自主企画なのだが、電気を消した講堂で、金沢にまつわる怪しげな夜話が語られたのであろう。私も「カルシウムが足りなかった四高の学生がよなよな墓地に現れて、密かに骨をしゃぶった」などという怪談話をかつて四高OBから聞いたことがある。が、この話が当時の怪談会のネタの一つであったかどうか定かではない。

  何しろ金沢は泉鏡花が育った街である。そんな怪談話が妙に合う。初めて金沢に来た学生たちはそんな怪談話の「洗礼」を受けてこの街に興味を持ち、金沢の人々と接するきっかけを持ったとしても不思議ではない。

⇒23日(月)夜・金沢の天気  くもり 

★能登に生かす民間ファンド

★能登に生かす民間ファンド

  7月初め、申し込んでいた民間企業の環境基金の採択が内定したとの第一報が電話で入ったとき、オフィスにいた5、6人ほどのスタッフから「やりましたね」と歓声が上がった。先方から何度か問い合わせがあり、その度に問い合わせの内容が細かくなり、手ごたえを感じていた。そして、内定の電話でその期待と緊張が一気に喜びに変わったのである。

  今回受けることになった三井物産環境基金はことしで2年目の新しいファンドだ。内容は、念願だった「能登半島 里山里海自然学校」の開設と運営に要する向こう3年間の運営資金の大部分をファンドが支援するという内容だ。先述のようにかなり細かな内容まで吟味が行われた。というのも、この環境基金の一部は社会貢献をしたいという社員たちのポケットマネーが原資になっているので、選ぶほうも真剣なのだ。

  このファンドの応募にはドラマがあった。 ことし3月、能登半島で金沢大学社会貢献室が開いたタウンミーティングにこの企業の北陸支店の社員も参加していた。討議の中で、地元の人たちから「能登の自然は素晴らしいが、過疎で悩んでいる。大学は知恵を出してほしい」 「大学が地域貢献を叫ぶのであれば即実行に移してほしい」と熱い要望が相次いだ。が、「できるだけ希望に沿うようにしたい」と大学側は答えるしかなかった。

  後日、参加した社員がエントリー用紙を持って大学を訪ねてきてくれた。「ぜひわが社の環境基金に申し込んでください。私もお手伝いします」と。金沢大学はキャンパス内の自然環境を生かし、里山自然学校を運営している。子どもたちを対象にした自然観察会や環境教育、市民ボランティアによる森林の保全、棚田の復元など活動は活発だ。ところが、これを能登で展開するとなると距離的に遠く、また、能登半島の独自の研究課題も山積している。当然、やるとなると腰の据えた取り組みとなる。

  今回の三井物産環境基金の採択で、ようやくその取り組みのスタートに立てた。その拠点に、石川県珠洲市の廃校となった小学校を活用する計画が進んでいる。民間の志(こころざし)を受けて、大学が地域に何ができるのか、いよいよ金沢大学の社会貢献の真価が問われるときがやってきた。

  手始めに10月9日(祝)午前10時から、「能登半島 里山里海自然学校」の設立記念シンポジウムを開催する。(※写真は「里山里海自然学校」の拠点となる旧・珠洲市小泊小学校)

 ⇒24日(日)夜・金沢の天気  はれ

★梅雨間近、モリアオガエルは鳴く

★梅雨間近、モリアオガエルは鳴く

  北陸地方は間もなく入梅なのだろう。私のオフィスがある金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」横のビオトープではモリアオガエルの鳴き声が高々と聞こえてくる。

 携帯電話の動画撮影で録音してみた。それになりに雰囲気はつかんでいただけるかもしれない。風で木々は揺れている。曇天の空、うっとうしいという表現もあるだろうが、私にとっては、心地よい自然のリズムでもある。

 耳を澄ませば、天然のビオトープを流れるせせらぎの音も聞こえる。遠くではリズム感で調子づいてきたウグイスの鳴き声も聞こえ、モリアオガエルのバックコーラスのよう。それが森のオーケストラのようであり、体内で響く心の鼓動のようでもある。生きているという実感はこのことかもと、年齢に似合わない青臭い詩人のような気分に少々浸った。

⇒9日(金)午後・金沢の天気  あめ

☆不逮捕特権を持つハクビシン

☆不逮捕特権を持つハクビシン

  「またイチゴをやられた」。市民ボランティアの残念無念という声が今朝も聞こえた。金沢大学の中の農園でのこと。ボランティアはメロンやイチゴのほか野菜を栽培している。そのイチゴがハクビシンに先取りされたのだ。ボランティア氏によると、ことし人間が食べたのはイチゴ10個ほどで、ハクビシンには200個くらいは食べられている。「ちょっとでも赤くなっているのを上手に見つけて食べている。青いのには手と付けていない。敵ながらあっぱれですわ」と賛辞も。

  金沢大学の森には確認されているだけで2匹のハクビシンがいる。ハクビシンはジャコウネコ科の動物。この雑食性がたたって、里に出てきては果樹園などを食い荒らす。「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」では狩猟獣にも指定されている。「白鼻芯」の当て字がある通り、額から鼻にかけて白い線がある。大きく目立つ動物でありながら、国内に生息しているという最初の確実な報告は1945年の静岡県におけるものが最初で、それ以前の古文書での記載や化石の記録もない。北海道の奥尻島には昔から生息しているとの報告もあり、日本の固有種なのか外来種なのかはっきりしてない。

  話は戻る。イチゴ畑が荒らされ、畑の畝(うね)にネットがはられた。しかし、「上手に破られた」。では捕獲して、ほかの場所に移すことはできないのか。実はできない。ここのハクビシンは「不逮捕特権」を持っているのだ。国会議員の不逮捕特権(憲法50条)でもあるまいし、「なぜ」と思われるだろう。種明かしをしよう。

 大学の森は「学術の森」でもある。そこでハクビシンに発信機をつけてその行動を調査している修士課程の院生がいる。朝、昼、夜、そして雨の日も寒空の中でもラジオテレメトリーの装置を持ちながら追跡調査をしている院生の姿はさながら犯人を尾行している刑事のようだ。つまりハクビシンはマスターの論文がかかった研究対象なのだ。

 ボランティア諸氏もそこは十分に理解しているので、「ほかの場所に移す」などという野暮なことは言わない。ただ、農園をエサ場にしておくわけにはいかない。収穫の喜びを得るためには防御はしなけらばならない。そこで知恵の出し合いがある。後ほど妙案が出たら紹介する。

 ⇒2日(金)午後・金沢の天気   はれ

★角間の古道を歩く

★角間の古道を歩く

 先月28日の周辺踏査に引き続き、今月18日も金沢大学周囲の古道を歩いた。その目的は歴史的に由来のある地名を記録し、近い将来「歴史散歩」のようなハイキングコースが組めないかと、「角間の里山自然学校」の仲間数人と検討しているのだ。この日は、キャンパス東側に当たる高地へと向かった。

  それは戸室(とむろ)の方面に当たる。この地区は昔から「戸室石」を産出してきた。赤戸室あるいは青戸室などといまでも重宝されているのは磨けば光る安山岩で加工がしやすいからである。それより何より10数万個ともいわれる金沢城の石垣に利用されたことから有名になった。戸室から金沢城へと石を運んだ道沿いには「石引(いしびき)町」などの地名が今も残る。

  今回の踏査でもかつての石切場の跡らしい場所がいくつかあり、いまでも石がむき出しになっている=写真・上=。案内役で地元の歴史に詳しい市民ボランティアのM氏が立ち止まり、「ここがダゴザカという場所です」と説明を始めた。

  地元の言葉ではダゴザカ、漢字では「団子坂」と書く。M氏によると、城の石垣を運ぶ際の最初の難所がこの坂=写真・中=だった。傾斜は20度ほどだろうか、それが200㍍ほど続く。この坂を上り切るとあとは下りになる。加賀藩三代藩主の前田利常(1594- 1658年)は石切現場を見回った後、この坂で運搬の労役者たちにダンゴを振舞って労をねきらったとのいわれからダゴザカと名が付いた。利常は江戸の殿中で鼻毛をのばし、滑稽(こっけい)を装って「謀反の意なし」を幕府にアピールし、加賀百万石の基礎を築いた人である。現場感覚のある苦労人だったのかもしれない。

  ダゴザカから北にコースを回り込んで、今度は「蓮如の力水」という池=写真・下=を案内してもらった。浄土真宗をひらいた親鸞(しんらん)は「弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、ただ念仏の輪の中で布教したといわれる。後世の蓮如(1415-99年)は生涯に5人の妻を迎え、13男14女をもうけた精力家だ。教団としての体裁を整えたオーガナイザーでもある。その蓮如が北陸布教で使った道というのが、越中から加賀へと通じるブッキョウドウ(仏教道)である。尾根伝いの道は幅1㍍。夕方でも明るく、雪解けが早い。蓮如の力水はブッキョウドウのそばにある周囲50㍍ほどの泉である。山頂付近にありながらいまでもこんこんと水が湧き出ていて周囲の下の田を潤している。

  力水というから、「目的地まであと一息」と一服した場所なのかとも想像する。この一帯は金沢大学の移転計画が持ち上がった20年ほど前、道路のルートになりかけたものの紆余曲折の末に開発は免れた。そして蓮如の力水は残った。アベマキ、コナラの林に囲まれた泉である。蓮如とその弟子たちが喉を潤す姿を想像できただけでも楽しく、この散歩コースに参加した甲斐があった。

 ⇒21日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆サロンパスを貼った馬 !?

☆サロンパスを貼った馬 !?

 春は入学シーズン。金沢大学でもあす7日に入学式があり、1800人が新たに仲間入りする。この時期、彼らを手ぐすね引いて待っているのが部活の部員だろう。食堂にいると、「新勧(しんかん)」(新入生勧誘)という言葉があちこちから聞こえてきた。「あすは全員で入学式会場前で新勧のビラ配り」「新勧活動費に一人○○円かかる。大変よ」

 耳を澄まして聞いていると、ある文化系サークルは新勧のために一人5000円の臨時徴収があった。現在部員が60人なので新勧対策費はざっと30万円ということになる。面白いのは勧誘の仕方。直接部活動について語るのではなく、まず「履修の仕方を教えてあげるよ」とランチや喫茶に誘う。そして「花見をするから来ないか」と自宅や携帯電話の番号などの連絡先を聞きだす。押しの強い体育会系などはその日の夕方にはもう自宅を訪問するそうだ。

  そして生協食堂へと通じる廊下や階段には所狭しと立て看板が並ぶ。その中からビジュアル的に面白いものをいくつか紹介する。目立ったのが、ズバリ馬をかたどった看板。馬術部だ。この部は現在16人(2年-4年)の部員、そして馬が14頭。貼り付けてあるチラシには「家に一人でいるとさみしくても、厩舎(馬がいるところ)に来ると馬があたたかく迎えてくれ、とても癒されます」と。写真ではサロンパスを貼った馬のようにも見え、ちょっとユーモラスだ。

 こんな部あったのか、というのが「スポーツチャンバラ部」。護身術を学ぶクラブで、「武道にありがちな厳しい制約もなく、ルールもシンプル」という。日本には競技人口15万人、世界には5万人もいると看板でアピールしている。

  こちらは「間違えたで賞」かもしれない。ほんらい「ライフル」と書くところを「アイフル」と書いてしまった。仕上げて気がついて朱で×をつけてラと書き直した。元のままでは消費者金融の看板になってしまう。この看板は確かに目立つ。だからわざと気を引くように書いたのかと思ったりもした。

 大学キャンパスで、新勧の熱い春が始まるー。

⇒6日(木)夜・金沢の天気   はれ

☆鯉のぼり掲揚記念エピソード

☆鯉のぼり掲揚記念エピソード

 金沢大学の創立五十周年記念館「角間の里」でこの26日に「鯉のぼり」が揚がった。晴天が続き、気持ちも春へと高まったのだろう。市民ボランティアの人たちがひと足もふた足も早く季節を先取りした。その「角間の里」がオープンしてから間もなく1年、実にいろいろな人がここを訪れた。その時の言葉などをまとめてみた。

  イギリスの大英博物館名誉日本部長、ヴィクター・ハリス氏が訪れたのは去年7月9日だった。ハリス氏は日本の刀剣に造詣が深く、宮本武蔵の「五輪書」を初めて英訳した人だ。日本語は達者である。年季の入った梁や柱を眺めて、「この家は何年たつの?えっ280年、そりゃ偉いね。大英博物館は250年だからその30年も先輩じゃないか…」とハリス氏は黒光りする柱に向かって軽く会釈した。古きもの、価値あるもを大切にするイギリス人の所作を見た思いがした。

 文部科学副大臣の馳浩氏がこの「角間の里」で林勇二郎学長と広報誌向けの対談をしたのはことし2月4日のこと。文部行政から人づくり、さらに話は政治や外交にまで及び時事放談のように熱くなった。炬燵(こたつ)に入っての対談。最後に「こんなにボクをしゃべらせたこの家が悪い」と茶目っ気たっぷりにミカンをパクリと。それにしても、こんなにエキサイトした馳氏を見たのは久しぶりだった。

  金沢大学が外国プレスの東京特派員を招いたのは同じく2月の16日。女性記者のイリス・ジェラートさんはここで「劇的」な出会いをした。近寄ってきた金沢大の留学生ミハルさんと抱き合って喜んでいた。二人はイスラエル出身。初対面だったが、とても懐かしそうにヘブライ語で語り合っていた。その光景が何となく理解できるような気がした。極東の日本、しかも東京から離れた北陸。外は雪。こんな場所で同国人と出会ったら懐かしさが込み上げてくるのも無理はない。

  「人を懐かしくさせる場の演出」「価値ある古建築」「会話を醸し出す雰囲気」などこの建物にはいくつもの魅力がある。この家で交わった数々の人のエピソードの中からほんの触りを紹介した。

 ⇒31日(金)朝・金沢の天気   くもり   

★凍えるツクシ

★凍えるツクシ

 これを名残り雪という。戻り寒波の影響で、今朝(30日)の最低気温は金沢で2.6度、輪島の山間部で氷点下1.3度だったとテレビの昼のニュースで伝えていた。金沢大学角間キャンパスでも数㌢の積雪があった。

  積もったに雪に顔を出していたのが春の使者、ツクシだ。携帯電話のカメラで撮った凍えるツクシ。「せっかく陽気に誘われて顔を出したのに、無粋な雪や」と文句を言い合っていそうな立ち居姿ではある。

  あす31日まで寒波は残るという。クリーニング屋に持っていくために家人がたたんくれた厚手のセーターをまた広げた。そんな朝があとしばらくは続きそうだ。

⇒ 30日(木)午後・金沢の天気   ゆき

☆ミステリーゾーンを踏査する

☆ミステリーゾーンを踏査する

 さながら探検のようだった。きょう28日、金沢大学「角間の里山自然学校」の市民ボランティア「里山メイト」のM氏(75)のガイドで「ミステリーゾーン」を踏査した。地元では、御瀑野(おたきの)と呼ばれる地名で、昔から土地の人が近づきたがらない場所である。風が吹いていないのに木の葉が舞い、大木がそよぐ。誰も木を切っていないのに、大木が倒れる。ベテランが道に迷う。地元の多くの人が「不思議な体験」をしている場所だ。

 場所は金沢大学角間キャンパスの北側隣接地に当たる。尾根伝いに道があり、「仏教道」と土地の人は呼んでいる。15世紀の終わりごろ、浄土真宗の蓮如上人が北陸布教の折に利用した道と言われ、「蓮如の力水(ちらかみず)」という湧き水や「御講谷(おこうだん)」と呼ばれる地名も残っている。尾根の道は幅1㍍ほど。偉いお坊さんと村の人々がこの道ですれ違う度に、お坊さんは「極楽へいくために念仏を唱えるのじゃ」などと声をかけ、蓮如ファンを獲得したのだろうなどと想像しながら歩いた。

 ミステリーゾーンはその仏教道から横道にそれる。M氏が30年ほど前の記憶をたどりながら歩いて行く。途中で道はなくなった。笹薮だ。それをかき分けて進むとまた道らしきもものがあり、ようやく御瀑野にたどり着く。M氏はここで何度も何度も道に迷う不思議な感覚に襲われ、命からがら自宅に戻った。すると、父親から「よう戻った。あそこには魔物がいる。近づくな」と昔からの言い伝えを聞かされた。だからM氏がこの地に立つのは30数年ぶり。

 この地は海で言えば岬の突端にようになっていて、三方が谷にかこまれている。見晴らしがよい。向こうにはゴルフ場が見える。M氏は「ゴルフ場が見えるようじゃ、魔物の力も落ちたのかな」とつぶやいた。すると私を含め同行した4人のうちの1人が「あっ」と叫んだ。そして「あのゴルフ場はバブルの末期に造成したんですが、確か工事中に2人が死んでいますよ」と。この後しばらく沈黙が続いた。

 確かに薄気味が悪い、と私も感じた。とくに、谷から風がゴーッと鳴り響いているのである。どこかで聞いたことがある音だと。思い出した。1983年5月26日、能登半島の突端にある輪島市で日本海中部地震の津波に遭遇した。海の向こうから押し寄せてくる波。その時の轟(ごう)音と似ているのだ。三方からの谷風が絶え間なく吹き上げてくる。

 M氏によると、御瀑野という地名は、見下ろす谷に瀑布(ばくふ=滝)があって、その近くの洞穴に昔、修験者がいたとう言い伝えがある。ここには土地の人が近づかないので、いいジネンジョが採れるらしい。それでもM氏ら土地の人は近づかない。

 ここに30分ほどいて、道を戻って大学キャンパスに着いた。道すがら、オウレンやキンキマメザクラが可憐な花をつけていた。

(写真・上は「仏教道」と呼ばれる尾根の道、中は30数年前の不思議な体験を話すM氏、下は苔むしたアベマキの老木)

⇒28日(火)夜・金沢の天気   雨