⇒キャンパス見聞

★小学生のマスメディア論

★小学生のマスメディア論

 夏休みの子ども向けの講演を大学で依頼され、「それでは小学生のためのマスメディア論でも話しましょうか」と気軽に引き受けたのが悩みのタネになった。これまで中学3年生の総合学習の時間にはマスメディア論について講義したことが何度かある。今回は対象年齢がさらに下がり小学生高学年(5,6年)なので、11歳から12歳、ということは自分の年と45年以上も年齢差がある。この子たちに、まず言葉が通じるだろうか、スライドの漢字はどこまで読めるだろうか、テレビや新聞のことを話してレスポンス(反応)はあるのだろうか、何をどう話し、話のつかみをどうしようかなどと考えると、眠れない日も。小学生に語ることの難しさをかみしめながらその日を迎えた。きょう28日午後2時、「小学生のためのマスメディア論」を金沢大学サテライト・プラザで。その顛末を記す。

 上記の悩ましさを同僚に話すと、「普通にやればいいのでは」と言われた。でも、その小学生の普通が理解できないから悩むのだ。もともとサービス精神が私にはあるのだろう。大学生の講義でも、もっと分かりやすく、面白い授業になどと考え、時間をかけてスライドをつい凝ったものにしてしまう性分である。普通の授業でもそうだが、「つかみ」が大切である。相手の気持ちを引きつけるための話題こと。このつかみがうまくいくと授業全体がふわっと離陸して、上昇気流に乗ることができる。つかみのキーワードは簡単な話、「けさテレビで○○を見たか」である。つまり、話の鮮度だ。幸い、きょうはロンドンオリンピックの開会式の模様が早朝からテレビで放送していた。これを使わない手はない。「いよいよ始まったね、オリンピック、朝の開会式、テレビでやってたね。テレビ見た人、手を揚げて」から講演を始めた。つかみの話の落ちは、オリンピックをテレビで放送するためにテレビ局はお金(放映権料)を国ごとに払っている、日本人は1人当たり2.9ドル(226円)、「だらか一生懸命に応援しよう」である。前列の男の子の目が輝いたので、こちらも話に弾みがついた。

 マスメディア(Mass Media)とは何か。「ニュースや情報として多くの人に届く電波や印刷物のこと」と言いたいのだが、どう表現すればよいか。テレビとラジオは「電波メディア」、新聞や雑誌は「活字メディア」と言われている。最近ではインターネットもマスメディアの仲間入りをしていて、ツイッターやフェイスブックなどは「ソーシャルメディア」などと呼ばれている。電波メディアの「電波」の意味を小学生は理解し難い。そこで東京スカイツリーの写真をスライドで見せて、「目には見えないけど、ここからテレビの電波が出ている。それを家庭のアンテナで受けてテレビを見ることができる。スカイツリーって、テレビの電波を発射するタワーなんだ」(現在スカイツリーから試験電波、2013年1月本放送)と。では、なぜ東京タワー(333㍍)からスカイツリー(634㍍)なのか。「東京は100㍍以上の高さのビルが500近く建っている。これによって、電波障害が起きやすい。だから、東京タワーより高いタワーからの電波だと家庭に届きやすい」

 「ニュースは知識のワクチン」という言葉がある。悪性のインフルエンザなどが流行する恐れがある場合、予防接種でワクチンを打っておけば、免疫がついて病気にかからない。それと同じように、まちがった情報やうわさにまどわされないために、普段から新聞やテレビのニュースを読んだり見たりすることで、まちがえのない判断ができるようになる。「知識のワクチン」ニュースをつくるために新聞やテレビや記者は事件や事故の現場に行き、状況を確かめる。さらに、目撃者や警察の人から話を聞く。これは正確なニュースを伝えるための基本だ。逆に、記者としてしてはいけないことは、現場に行かずに人のうわさでニュースをつくる、目撃者や警察に確かめずにニュースをつくることだ。マスメディアの業界用語では「裏取りのないニュース」と言う。

 ここで記者はどのようにニュース原稿を書くのか。原稿には「5W1H」の基本がある。when(いつ)、where(どこで)、who(だれが)、what(何を)、which(どれを)、how(どのように)というニュースの基本的な構成、つまり部品を集めることだ。原稿を書くときのコツは、形容詞を使わないこと。普段よく、「高いビル」「美しい花」「長い道」「深い海」などと言ったり書いたりしている。しかし、形容詞は読む人、見る人によって感じ方が異なる。 そのため、記事は多くの人にわかるように、なるべく客観的に数値などをもちいて表現する。たとえば、「7階建て高さ20㍍のビル」や「赤と白の花を咲かせたチューリップ」「300㌔も続く道」「水深100㍍の海」と表現した方が分かりやすい。

 原稿を書くために決まりがある。『記者ハンドブック』(共同通信社)は一般の書店でも売られている。動物、植物、野菜などは新聞やテレビではカタナカ表記だ。でも一部、「松」「竹」「梅」「菜」「芋」「白菜」「大根」は漢字表記でもよい。ニンジンは「人参」の漢字表記を用いない。同じ紙面で、A記者とB記者がそれぞれ「ニンジン」、「人参」と書いたら、読者は「いったいどっちだ」と迷う。だから、表記を統一している。「高嶺の花」とは書かない、新聞では「高根の花」と書くことにしている。

 放送も同じく言葉を統一している。たとえば「きのう、きょう、あす」と表現し、「きのう」を「昨日」と表現しない。小学生だと、女の子は「ちゃん」付け、男の子は「君」付け、中学生だと女子は「さん」付け、男子は変わらず「君」付け。最近、テレビ業界でもアナウンサーの言葉の乱れがよく指摘されていて、たとえば、感動したことを「○○選手の活躍には鳥肌が立ちましたね」などと表現している。本来は「恐い」「寒い」という意味で用いる。また、「なにげに」という言葉を使うアナウンサーがいる。これは若者言葉であって、意味がよく分からない。こういうあいまいな言葉は視聴者を混乱させ、テレビメディアを通じて言葉の乱れを助長することにもなる。

 「世界一有名になった壁新聞」の話。東日本大震災では、地震と津波で停電や家屋が壊れるなど被害が出て、人命も損なわれた。石巻日日(ひび)新聞は印刷機械が傷み、停電と重なって手書きで壁新聞をつくり、避難所に貼った。これは被災者のためにニュースを出し続けるという精神が評価されて、その壁新聞はアメリカ・ワシントンDCにある「ニュースの博物館」に展示されることになった。また、仙台市にある東日本放送は震度6強の揺れにもめげずに72時間も震災関連のニュースを出し続けた。マスメディアはより多くの人に、絶え間なくニュースを送り続けることで信頼を得ている。

 最後に考える話を。ケビン・カーターというカメラマンが、餓死寸前のスーダンの少女に、ハゲワシが襲いかかろうとする写真を撮影した。1993年、NYタイムズに掲載され、ピューリッツァー賞を受賞した。しかし、「写真撮影の前にこの少女を助けるべき」と非難が殺到した。一方でこの写真が撮影できたから、スーダンの飢餓が報じられ、世界から援助の手も差し伸べられるようになった。「ニュース(報道)か人命か」というメディアの姿勢を問う論争は常に起こる。小学生たちはこの「ハゲワシと少女」の写真を見て、どのような感想を抱いたのだろうか。

 「私はにげると思います。理由は撮ったら撮ったで、その子をなぜ助けなかったのかなどと言われて、撮らなかったら、その国の事情がみんなにわかってもらえないから、どちらとも言えないです」(小6・女子)、「カメラマンは写真をとることが仕事だし、じじつを知らせるために少女をたすけなくてもいいと思う」(小4・男子)、「写真を取る前に、その少女をたすけろ!という言葉で、その言葉を言った人は、人の命を大切にする人だと思いました」(小6・女子)、「ぼくはしゃしんをとればいいと思った。わけは、しゃしんをとることによって、ニュースが分かるから、みんなできょう力できるんじゃないかと思ったから」(小2・男子)、「私はカメラマンは写真をとって正しかったと思います。初め、その写真を見た時は少女がかわいどうでこわかったのですが、その写真によりスーダンの食料不足などが少しでもかいぜんされたので良かったと思います」(中2・女子)

⇒28日(土)夜・金沢の天気  はれ

★世界を変えた書物

★世界を変えた書物

 その部屋に入ると、何か歴史の匂いがした。古い建物ではないが、そこに所蔵されている書物から沸き立つオーラのようなものが充満している。その陳列ケースを眺めていくうちに、これが世界を変えた書物だと実感する。先日(25日)、金沢工業大学でのある研究会に参加した折、同大学ライブラリーセンター=写真=にある「工学の曙(あけぼの)文庫」に案内された。ここではグーテンベルグによる活版印刷技術の実用化(1450年ごろ)以降に出版された科学技術に関する重要な発見や発明を記した初版本が収集されている。

 この文庫のコンセプトそのものが意義深い。ヨーロッパでは、中世まですべての知識は口伝か写本として伝達されるのみだった。つまり、知識は限られた人々の占有物だった。ところが、グーテンベルクの活版印刷術の発明によって、知識の流通量が爆発的に広がった。科学と技術の発展の速さは知識の伝達の速さに関係するとも言われる。つまり、「グーテンベルク以降」が科学・工学の夜明けという訳である。

 43人の科学者や技術者の初版本が所蔵されている。いくつか紹介すると、白熱球など発明したエジソンの『ダイナモ発電機・特許説明書・特許番号No.297.584、1884年』、電話機のベルの『電話の研究、1877年』、ラジウムのマリー・キュリーの『ピッチブレントの中に含まれている新種の放射性物質について、1898年』、電磁波のヘルツの『非常に速い電気的振動について、1887年』、X線のレントゲンの『新種の輻射線について、1896-1897年』、 オームの法則のオームの『数学的に取扱ったガルヴァーニ電池、1827年』、電池を発見したボルタの『異種の導体の単なる接触により起る電気、1800年』、万有引力のニュートンの『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)、1687年』、重力加速度や望遠鏡のガレリオの『世界二大体系についての対話、1632年』など、歴史に輝く科学の星たちの名前が目に飛び込んでくる。

 面白いのは書物に添えられた解説である。引用しながら一つ紹介する。『電話の研究』のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)。ベルの父親は聾唖(ろうあ)者に発声法を教える専門家だった。ベルもロンドン大学などで発声法を学び、父を継いで聴覚に障害を持った人々に発声を教えていた。1871年にスコットランドからアメリカへ移住し、73年にボストン大学で発声生理学の教授となる。このころ、ベルはヘルムホルツの音響理論を知り、機械的に音声を再現することに興味を持った。ベルの着想は、音の変化が電流の変化に変換でき、またその逆を行うことができれば、電流を用いてリアルタイムで会話を電線を通じて伝達できるのではないかとのアイデアだった。76年にベルは初めて音声を「波状電流」に変えることに成功する。最初の電話でのメッセージは、助手を呼ぶ「ワトスン君ちょっと来てくれ」だった。電話機はその後、エジソンらによって炭素粒を用いた、より再生能力の高い送受信機に改良され、世界に広がっていく。

 電話の発明者としてベルは知られるが、生涯にわたって聴覚障害児の教育をライフワークとした。かのヘレン・ケラーに「サリバン先生」ことアン・サリバンを紹介したものベルだった。科学と人との出会い、そして科学への熱情。書物の背景にある偉人たちの生き様までもが伝わってくるライブラリーなのだ。

⇒28日(金)朝・金沢の天気  はれ

★備忘録・トキと猿回し

★備忘録・トキと猿回し

 奥能登・珠洲市の旧家で、江戸時代から伝わるという「猿回しの翁(おきな)」の置き物=写真=を見せていただいたことがある。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座り、その左肩に子ザルがのっている。陶器でできていて、なかなか味わい深い。古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。能登もため池による水田稲作が盛んで、猿使いたちの巡り先だった。猿使いたちは神社の境内などで演じ、老若男女の笑いや好奇心を誘ったことだろう。代々床の間に飾られるこの猿回しの翁の置き物は、その時代の農村の風景を彷彿(ほうふつ)させる。

 以下は、ことし金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムで講義(5月29日)いただいた村崎修二さんから聞いた話である。村崎さんは途絶えていた周防の猿回し芸を1982年に復活させた人である。かつて猿回し師たちが根拠としていた周防高森(現・山口県岩国市周東町)に居を構え、息子で跡継ぎの耕平さんと全国を旅する。村崎さんの芸は「本仕込み」と呼ばれるもの。サルと仲間的関係になって芸を行わせる手法で、仕込んだサルは「花猿(はなざる)」と呼ばれる。毛並みにつやがある。同じ猿回し芸でも、芸能のプロに徹してサルを調教する手法とは一線を画し、「里めぐり」という伝統的な猿回し芸にこだわっている。

 村崎さんは、民俗学者の宮本常一(故人)に師事し、また京都大学霊長類研究所を設立した今西錦司(同)と知遇を得て、1978年から10年の間、霊長類研究所の研究員として猿回しに関する調査活動も行っている。講義の中で、意外な話が飛び出した。「江戸時代から連綿と続いた周防の猿回しが途絶えたのは昭和42年(1967)でした。佐々木組という一座がいて、最後に演じた場所が能登半島の輪島市大西山町です。ここで解散し、途絶えたのです」と。ではなぜ能登が終焉の地となったのか。「かつて、猿回しの旅の一座を無料で泊めてくれる家を善根宿(ぜんこんやど)と呼んでいました。泊める方の家も、泊めるとご利益があると思っていたようです。しかし、戦後の高度成長期、そのような善根宿は全国的に少なくなった。時代は変わったのです。でも能登は猿回しの旅芸人を快く迎えてくれ、最後まで残ったのだと思います」と。

 ことし8月、その輪島市西山町大西山=写真=を訪ねた。山間地の斜面に古民家が点在する、『日本昔話』のような里山だ。能登で有名な猿鬼伝説の発祥の地でもある。曲がりくねった路上で老婆と会うと、向こうから会釈する。能登も随分と様変わりしつつあるが、この地は原風景のままという感じがした。

 直接関連はないが、能登に生息した本州最後の一羽のトキ(愛称「能里=のり、オス」)が捕獲されたのは昭和45年(1970)だ。佐渡のトキ保護センターに繁殖のため送られ、翌年死んで、本州のトキは絶滅した。解剖された能里からは有機水銀が検出され、繁殖障害を起こしていたとされる。昭和40年代というのは、芸にとっても、種にとっても一つの転換期だったのだろうか。それにしても、猿回しの解散と本州最後のトキが能登というのも偶然だろうか。

⇒30日(木)朝・金沢の天気  くもり

☆備忘録・japan=漆器

☆備忘録・japan=漆器

  地域の自然や文化、歴史を学ぶ「いしかわ新情報書府学」という科目を金沢大学で担当している。石川県が「石川新情報書府」という事業でDVDを制作した。輪島塗や山中漆器、九谷焼、加賀友禅に代表される伝統工芸、能楽や邦楽、舞踊といった伝統芸能など世界に誇れる文化資産をデジタル情報化したものだ。石川新情報書府のネーミングは、江戸時代の儒学者である新井白石が「加賀は天下の書府なり」と蔵書の多さや、多彩な芸能文化を評価したことにちなむ。そのDVDを学生たちに視聴してもらい、続いて関係者に講義をしてもらうという授業内容だ。

 先日(12月8日、15日)、輪島塗についての講義を大向稔氏(大向高洲堂社長)からいただいた。「和食という文化の特徴は、食器を持つことなんです」。漆器と言うのは持つことを前提にその手触り、器としてのカタチの丸みが計算されている。さらに、手から落ちることを前提に器のエッジ(縁)が欠けないような、堅さの工夫がされている。たとえば、輪島塗は椀の縁を「布着せ」といって、布を被せて漆を塗ることで、落下の衝撃で欠けないようにしてある。話の一つ一つに人の知恵と言うものが感じられる。伝統知、あるいは文化とはこうした知恵と工夫の結晶なのだろうと今さらながら感じ入る。「日本人はちょっとでも欠けた器を極端に嫌うでしょう。そんな器は危ない、唇や手が切れる、と本能的に判断しているのです」

 授業では、学生たちに、一つ70万円の器(煮物椀)を実際に手にしてもらった=写真=。学生たちは恐る恐る。金蒔(まき)絵で伝統の図柄(花鳥風月)をあしらったいかにも高価という器である。そこで大向氏は学生に「器に爪を立ててごらん」と。学生からはエエッと驚きの声が。試した学生の爪は器では滑るだけだ。それもそのはず。鉛筆の硬さで表した「鉛筆硬度」でいえば、爪は2Hぐらい。漆器は堅いもので30Hにも。学生が手にした器は15Hぐらいという。漆は年代を重ねればそれだけ堅くなる性質がある。丸木舟が出土したことで知られる福井県若狭町の鳥浜貝塚遺跡からは、縄文前期(6000-5000年前)ごろの朱色の漆(うるし)が塗られた祭祀用の櫛(くし)が出土している。大向氏はその実物の写真を学生に見せた。朱の色は何千年を経ても鮮明である。堅さも。漆が持つ特性は計り知れない。それを器に活用した人の知恵の見事さではある。それを縄文人が証明してくれている。

 「では、いつごろから輪島塗なのか」と授業の締めに入った。2007年にブランド総合研究所(東京)が発表した地域ブランド産品によると、非食品分野でブランドものと想起されるものに「輪島塗」が1位、有田焼が2位という順位がついた。1805年に輪島で「大黒講」という組織がつくられた。このときに、製造方法の基準、価格の統一、販売エリアの割り振りなどが決められた。販売エリアは北海道の松前から琉球まで101に分割された。それを105軒の塗師屋(製造と販売)が担当した。いわゆる品質保証、競争による価格下落の防止などの製造と販売のル-ルが確立された。200年以上も前に今でいうマーケティング戦略が練られ、輪島塗のブランド化を確立した。同時に、曹洞宗の修行僧が総持寺(輪島市門前町)に集まり、全国の末寺に散ったことも、葬儀の膳に輪島塗を使うことの普及になつがった、という。

 いま輪島塗の技術は器のほか、家具や美術といった異業種への転用が盛んだ。コンサートホールでの音響効果や、カメラのボディにも使われている。時空を超えて語られるjapan=漆器の世界に興味は尽きなかった。

⇒29日(水)朝・金沢の天気  ゆき

★「魂の酒」が語ったこと

★「魂の酒」が語ったこと

 金沢大学の共通教育授業として「いしかわ新情報書府学」という科目を担当している。「映像と語りで学ぶ地域学」をテーマに、石川県が情報書府事業で作成したビデオ(自然、文化、工芸、産業、歴史など)を学生に視聴してもらい、その後、関係者から話を聞くことで理解を深めるという授業だ。履修する学生は290人。ただでさえ、暑さを感じる講義室に、きのう17日は熱気が漂った。著書『魂の酒』で知られる、能登杜氏の農口尚彦氏を迎えた日だった。授業が始まる直前に、農口氏が持参した日本酒2本を学生たちの前に並べた。すると、学生たちがザワザワとし始めた。

 授業の冒頭に説明した。日本酒は欧米でちょっとしたブームだ。ワインやブランデー、ウイスキーなどの醸造方法より格段に人手をかけて醸す日本酒を世界が評価しているのだ、と。その後、農口氏を紹介するビデオを流し、「神技」とも評される酒造りの工程を学生に見せた。

 日本酒の原料は米だ。農口氏は、米のうまみを極限まで引き出す技を持っている。それは、米を洗う時間を秒単位で細かく調整することから始まる。米に含まれる水分の違いが、酒造りを左右するからだ。米の品種や産地、状態を調べ、さらには、洗米を行うその日の気温、水温などを総合的に判断し、洗う時間を決める。勘や経験で判断しない。これまで、綿密につけてきたデータをもとにした作業だ。

 酒蔵に住み込む農口氏は、夜中でも米と向き合い、米を噛み締める。持てる五感を集中させて、手触り、香り、味など米の変化を感じ取る。そのため、40代にして歯を失った。次に行うべき適切な仕事とは何かを判断するためだ。農口氏は言う。「自分の都合を米や麹(こうじ)に押し付けてはならない。己を無にして、米と麹が醸しやすいベストな状態をつくらなければ、決して良い酒は出来ない」

 農口氏は謙虚だ。というもの、自身は下戸(酒が飲めない)なので、酒の出来栄えや批評は、飲める人の声に耳を傾ける。それでも、「一生かかっても恐らく、酒造りは分からない。それをつかもうと夢中になってやっているだけです」と能登方言を交えて語った。「魂の酒」のゆえんはここにある。そして、学生の心を打ったのだろう、学生たちの眼差しは農口氏に集中した。

 授業の最後に、農口氏の酒を何人かの学生にテイスティングしてもらった。「芳醇な香り」「ほんのり感が漂う」「よく分からないけど、のどを通るときにふくよかな甘さを感じる」・・・。最近の学生は意外と言葉が豊富だと思った。授業に酒を持ち込むなんて、と言わないでほしい。これも、「生きた授業」なのである。

⇒18日(木)夜・金沢の天気 はれ

☆アリ地獄のような街

☆アリ地獄のような街

 気温がまるでジェットコースターのようだ。昨日(1日)は金沢市などで最高気温が25度を超え夏日を記録したかと思えば、きょうは一転して冬型となり、日中の最高気温は金沢で14度。そして夜に入って、23時半ごろに霰(あられ)が落ちてきた。シベリアから強い寒気が流れ込んでいる。あすの朝までに山沿いや山間部で10㌢ほどの積雪との予報だ。荒天の中、金沢大学では恒例の学園祭が開かれた。そして、身震いするような自主上映の映画を観た。「アリ地獄のような街」。バングラデシュのストリートチルドレンをテーマにした映画だ。

 82分の映画のあらすじを紹介する。農村から夢を抱いて首都ダッカにやってきた少年ラジュ。お金を落としてしまい、途方にくれているところをストリートチルドレンと知り合う。そのストリートチルドレンたちを使って薬物売買などを行っているイアシンはいわば「貧民屈の元締め」だ。ラジュは薬物の運び屋として使われる。イアシンは、配下の女を「足抜け」をさせようとする男を手下を使って殺害する。バラバラにされ袋詰めされた死体が入っているとも知らずに、その運び屋をさせられたラジュ。血が滴り落ちる袋を不審に思った群集がラジュから袋を取り上げ、ラジュを取り押さえる。その大騒ぎを察知したイアシンの手下が騒ぎのどさくさにまぎれてラジュの首を絞めて殺害する。一度取り込まれたら抜けることができない、まるで「アリ地獄」のような暗黒のネットワーク。少年や少女たちが抑圧され、搾取される最貧国バングラデシュの現実が生々しく描かれている。

 この映画の制作は、現地でストリートチルドレンに対する教育支援やシェルターホーム(保護施設)を運営する民間活動団体「エクマットラ」。エクマットラとはベンガル語で「みんなが共有できる一本の線」という意味だそうだ。このエクマットラの創設(2004年)にかかわった日本人が渡辺大樹氏。横浜市生まれで、金沢大学のOBでもある。学生時代はヨット部に所属して、タイ・プーケットで行われたヨットの国際大会に参加した。その時、スラムの少年少女たちの姿を目の当たりにして衝撃を受ける。2002年に卒業後、バイトで貯めたお金を持ってバングラデシュに渡り、NGO活動を始める。現在は、ストリートチルドレンの自立支援センター「エクマットラアカデミー」の設立に向けて奔走している。映画の収益はこの設立費として活用される。

 今回の上映会で、渡辺氏の姿はなかったが、サイクロンなど自然に見舞われ、アジアの最貧国といわれるバングラデシュで、志を高く持って活動する青年に心から声援を送りたい。

⇒2日(月)夜・金沢の天気  あられ

★能登のお寺とアジア

★能登のお寺とアジア

 アジア太平洋諸国の教育、文化等の分野の学者、専門家を招へいする財団法人ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)のプロジェクトが9月30日から10月2日にかけて金沢と能登で実施され3日間同行した。ASEANを中心とするアジアの5カ国(インドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、パキスタン)から9人を招いて、日本の専門家を交え環境教育に関する研究交流を行った。移動をともなうツアーでもあるので、受け入れ側の大学では通訳、司会、ロジスティック(設営・支援)などそれぞれが分担して対した。今回ロジを担当して見えてきた「文化の違い」が勉強になった。

 招いた9人のうち女性7人、宗教ではイスラムが多い。それぞれの国の大学や研究機関、シンクタンクの研究者の人たちである。30日午後、金沢大学を訪れた一行はまず学長を訪問した。あいさつは手土産渡しから始まった。彫り物といった民芸品が多いのだが、パキスタンから訪れた女性は綿のマフラーを。しかも、学長の首にまいて差し上げるというのが「決め技」である。手土産としては軽くて旅行バックに収納がしやすく、実に計算されていると感じ入った。この女性は場所を変えるごとに衣装換え、衣装のデザインは自らしたものだという。訪問先への手土産渡しは、アジアの光景である。欧米のプレゼント交換とは違い、なぜか共鳴するシーンではある。ちなみに学長のお返しは輪島塗の写真立て。

 宗教上のこともあり、レセプションの献立には気を使った。イスラム教では牛肉と豚、アルコールはご法度だ。それらを除外した鶏肉、魚介類が中心のメニューだが、手を付けてもらえなかったのがハムサンドだった。仕出し業者にはハムの除外をあらかじめ伝えてあったが、おそらく二次発注の段階で伝わらなかったのだろう。慌てて、その場で取り除くのも不自然だったのでそのままにしておいた。で、案の定、手付かずということになった。ハムのほか、ハンバーグや餃子といった混ぜ物には手を付けない。自分の目で見て、食材が理解できないものは「怪しい」となるのである。この厳格さにはある意味で共感した。宗教上であれ、菜食主義であれ、自分で納得した食材でなければ手を付けない。これは正しい。日本人には食に対する警戒心というものがなさすぎる。得体の知れない冷凍食品や、偽造牛肉が横行していたことが発覚したが、これは一面で食に対する無節操の逆説だ。食の安全性に関しては、「イスラム並み」の厳格さがあってもいい。

 2日目。能登の「古民家レストラン」で昼食を取った。食器は朱塗りの輪島塗なので、興味を示してもらえると思い、あえてこのレストランにしたのだが、読みが浅かった。天婦羅や焼き魚は食してもらえたが、この店自慢の手づくり豆腐が手付かずのまま残っていることに気づいた。そもそも箸は日常的に使わない。さらに器を口に付けて食べるという作法はない。従って、崩れやすい豆腐は食べにくいのである。そこで急きょ、スプーンを用意してもらった。さらに思った。それならここで、「食べにくいのでスプーンを出して」と日本人ならクレームを入れる。ところが、ゲストはそういうたぐいの文句は言わない。ホストに対して礼を失するというわけだ。「声なき客の声」を読むのはホストの役目。これはとてもプレッシャーではある

 3日目。「写真を撮って」と一番人気のスポットは能登のある山のお寺だった。建造物の外観ではない。本堂のきらびやかな仏壇や仏具をバックにしてである。イスラム教徒が多いので、異文化理解に役立てばと思い案内した。古色蒼然とした外観だが、本堂には金箔の耀きがある。このコントラストに一行の目も耀いた=写真=。インドで生まれた仏教が敦煌、朝鮮半島と伝播して、日本の半島の先端でもこうして信仰を集めていると説明をした。写真のフラッシュが飛び交う中、仏教徒のタイの人は静かに手を合わせていた。

⇒3日(土)夜、金沢の天気  はれ

★能登と金大のいま‐下

★能登と金大のいま‐下

 去年の9月25日に佐渡でトキが10羽放鳥された。そのトキが40キロある佐渡海峡を飛び越え本州に飛んでいったというニュースがあった。見つかったのは新潟県胎内市なので、放鳥されたところからダイレクトに飛んでいたら60キロ。これまで、飛べて30キロ程度だろうといわれていたので、関係者に驚きを隠さなかった。

  トキが復帰できる環境づくり

  佐渡から胎内市まで60キロなら、佐渡から能登半島までは70キロ。それなら能登半島にも飛んでくるにちがいない。北風に乗ればそんなに難しい話ではないはず、と、能登の人たちはトキの飛来を期待している。能登半島は本州で最後の野生のトキがいたところ。1970年に最後の一羽が捕獲されて、本州のトキがいなくなった。繁殖のために能登から佐渡の保護センターに移されたが、翌年に死んでしまう。解剖した結果、内臓から有機水銀が高い濃度で検出され、農薬の影響を受けていたことが分かった。

  トキはいろいろなものを食べている。サンショウウオ、ドジョウ、カエル、サワガニ、ゲンゴロウなど。トキが一羽生息するには多様な水生生物がいるということが前提になる。ということは、自然の力でこういった生物が田んぼや小川に蘇ってくるような農業をやらないといけないということにる。お手本になるのは兵庫県豊岡市。豊岡の人はコウノトリを大切にしていて、高いところにねぐらを作ったり、コウノトリと共生している。コウノトリも魚を食べるから食物連鎖の頂点に立っているが、昭和30年ごろから大量に農薬をまくようになって、数が減り、捕獲して人工繁殖を始める。「きっと大空に帰すから」と地元の人たちもコウノトリが再び舞う田んぼづくりに協力した。いま豊岡ではコウノトリが野生復帰した。人間はなるべく農薬を使わず、手で雑草を取っているという光景がみられるようになった。もちろん農家の人たちはボランティアでやっているわけではない。コウノトリが舞い降りる田んぼの米「コウノトリ米」は、1俵(60㎏)が4万円する。通常スーパーなどで買える米は1俵1万2千~3千円なので、それだけ付加価値がつく。

  金沢大学は、新潟大学や総合地球環境学研究所の研究者にも参加してもらって、能登でどういう農村づくりをやっていけばトキがくるようになるか調査研究を始めている。環境にやさしい農業をすることによって、田んぼ周辺の生物多様性が高まり、将来トキがいつ飛んできてもいいような環境をつくる。トキがいる田んぼは、安心で安全なお米がとれる。そしてそのお米には付加価値がつく。さらにトキがくることによって新たな観光地としてエコツーリズム、グリーンツーリズムが生まれる。豊岡では年間49万人の観光客がやってくるそうだ。環境に配慮する地域づくりをすることによって、能登半島のイメージをアップしたい。それができれば、若者が生きがいや夢を感じて、あるいはビジネスチャンスを見越して来てくれるのではないか。少なくても人口流出に歯止めをかけたい。

  いま「里山」はわれわれの想像を超えて、世界から注目されている。去年5月、ドイツのボンで開かれた生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)で日本の環境省と国連大学高等研究所が主催した「日本の里山里海における生物多様性について」の発表会は随分と反響があった。事務局長のアハメド・ジョグラフ氏は環境省の「SATOYAMAイニシアティブ」計画を高く評価して、「これまで産業一途に走ってきた日本が、こんどは自らの生き方を環境という視点で見直す壮大な試みではないか。ぜひ世界に向けて情報発信してほしい」とエールを送った。  2010年、名古屋を中心にして生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が行われる。金沢市ではCOP10のクロージング会議が予定され、同時に能登エクスカーションも計画されている。

  能登半島に新たな風を吹き込むことで、アジアの里山里海の再生モデルを能登から発信していきたい、金沢大学ではそのような構想を具体化する動きが始まっている。 ※写真は、08年1月に能登空港ターミナルビルで開催された金沢大学「里山プロジェクト」主催の「トキを呼び戻す生物多様性シンポジウム」。

☆能登と金大のいま‐中

☆能登と金大のいま‐中

 金沢大学はかつて城下町の中心街にあったが、20年ほど前に金沢近郊の里山に移転した。山の中なので、タヌキ、キツネ、ときにはクマも出る。「せっかくだから、この周囲の森を利用しよう」と自然生態学の研究者たちは意気揚々となった。それが金大の里山活動の第一歩になった。1999年からキャンパスの里山を研究し、その森を市民参加で活用することがスタートした。10年ほど前に「エコ」という言葉が一種のブームになり、エコがいっぱいの森の大学で、野鳥観察会などが始まった。いまでは市民ボランティア650人が登録していて、毎月第2と第4土曜日に活動している。小学校の子供たちにも総合学習の場として提供し、竹林の整備やキャンパス内の棚田で農薬を使わない50年前の米作りを市民ボランティアの人たちと一緒にやっている。無農薬の田んぼにはゲンジボタルやヘイケボタルがやってきてちょっとした名所にもなっている。

  「里山マイスター」目指す35人

  そして、能登半島では社会人の人材養成に「里山マイスター養成プログラム」が動いている。社会人を対象にして、特に能登半島で農業や漁業をやりたいという都会からの再チャレンジ組み、I/Uターンの人たち。われわれが目指しているのは環境配慮型。なるべく農薬や除草剤を使わない、そんな農業を能登半島でどうやったら実現できるか。現在1、2期生を合わせて35人が学んでいる。目指す人材育成の3つの要素は「環境配慮と生産技術に工夫を凝らす篤農(とくのう)人材」、「農産物に付加価値をつけるビジネス人材」、「地域と連携し新事業を創造するリーダー人材」。このどれか一つではなく、これら三つを兼ね備えた人材を作っていこうというのがこのプログラムの欲張りなところだ。

  授業は毎週土曜日と隔週金曜日にあって、ワークショップや実習が中心の授業である。農業人を育てると公言しているが、実は金沢大学には農学部がないので、実地の部分は地元の農業・林業・水産業のプロの人たちに指導を願っている。農業、水産業、林業をひととおり体験してもらうことで、自分は農業だけしかやったことがなかったけれど、林業もできるかもしれないとか、水産加工物と農作物をミックスしてお漬け物のかぶら寿司(ブリと青カブラのこうじ漬け)を作ったりと、発想が柔軟になる。

  また、リモートセンシングの衛星データを解析して作柄の管理をするなど、新技術の習得もやる。この人材養成プログラムは、国の委託を受けてやっているので授業料は無料。2年間のプログラムを学んで卒論を書くと「里山マイスター」の称号が学長から授与される。5年間で60人の里山マイスターを育成することが目標だ。

  さて、これまで環境配慮、里山と言ってきたが、果たしてこのプログラムが地域再生につながるのか、たかだか農業人材や一次産業の人材を60人養成したからといって、過疎がとまるのか、と我々もそんなに簡単ではないと考えている。むしろ、必要なのは能登の将来ビジョン、あるいは戦略や仕掛けといったものだ。(次回に続く) ※写真は、里山マイスター養成プログラムの田植え実習。

★能登と金大のいま‐上

★能登と金大のいま‐上

 能登半島というとどんなイメージをお持ちだろうか。おそらく東京からみると、裏日本とか、どこか最果てのような感じをお持ちではないか。昭和36年、能登半島の先端の岬に立った俳人・山口誓子は「ひぐらしが 鳴く奥能登の ゆきどまり」と、非常に寂しいところに来てしまったという句を読んだ。かと思えば、この先端に立ったとき「アジアが近いね」と中国大陸の方を眺める人も多い。能登半島を日本の行き止まりと感じる人と、ここからアジアが見えてくると表現される人。おそらくそこは、その人の世界観ではないか。

    「大学らしからぬこと」

  石川県に3年ほど赴任したことがある国連環境計画(UNEP)のアルフォンス・カンブ氏は、日本海をじっと眺めて、「1976年に地中海の汚染防止条約ができました。日本海にも条約をつくって、日本海の環境を守りたいですね」と持論を述べたことがある。彼はUNEPで条約づくりに携わっている。また、金沢大学で黄砂の研究をしている岩坂泰信特任教授は「能登は東アジアの環境センサーじゃないのかな」と感想を述べた。大陸から舞い上がった黄砂が日本海をずっと渡ってくる。そのときにウイルスが付いたり化学物質が付いたりしていろいろ変化している。岩坂教授は昨年、「大気観測・能登スーパーサイト」構想を打ち上げ、観測拠点を着々と整備している。日本海を眺めながら、いろいろなことを考えている人がいる。

  能登半島の先端に金沢大学の人材育成拠点「能登里山マイスター養成プログラム」の拠点がある。ここでは、廃校になった小学校を珠洲(すず)市から借りて、研究交流施設として利用している。金沢大学からは約150キロ離れていて、常駐の研究者が6人いる。この能登プロジェクトを立ち上げた中村浩二教授の口癖は「大学らしからぬことをやろう」である。そして、能登半島にとうとう大学のキャンパスらしきものをつくった。

 中村教授は能登に非常に危機感を持っている。輪島の千枚田などは、海に浮き出た棚田で観光名所にもなっているが、その半分以上が後継者不足、過疎化などで耕されない田んぼであるという現実がある。さらに07年3月25日に能登半島地震があって家屋が多く倒壊した。こんな能登半島になんとか若い人を残し、活気ある社会を築いていくために、どうすればよいか。中村教授の結論は「能登に大学が出かけていくこと」であった。07年7月に金沢大学と能登にある輪島市や珠洲市など2市2町の自治体が協力をして「地域づくり連携協定」を結んだ。(次回に続く) ※写真は、能登半島の先端、珠洲市にある金沢大「能登学舎」。