⇒ドキュメント回廊

★「里山海道」への道~下

★「里山海道」への道~下

   石川県の谷本知事のトップセールが奏功し、国連国際生物多様性年だった2010年のクロージングのイベント(生物多様性条約事務局、日本政府主催)が12月18、19日の両日、石川県で開催された。この国際生物多様性年のキックオフイベントは1月11日にベルリンで、10月18-29日の生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)は名古屋市で開催された。石川でのクロージングイベントは締め括りであり、2011年の国際森林年への橋渡しのイベントでもあった=写真・上=。COP10では「SATOYAMAイニシアティブ」が採択され、里山が国際用語として認知された。そして、能登半島がSATOYAMAのエクスカーション(視察旅行)の公認コースになった。

   クロージングイベントの表舞台では、国際イベントが打ち上げられる一方、能登の里山をめぐる別の動きが舞台裏で進行していた。12月17日の締め切りを目指して、農林水産省北陸農政局、石川県庁、能登の8市町の行政マンたちが、国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)に提出する申請書類の準備に追われていた。世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)の申請書類である。申請名は「Noto’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」。

   GIAHS(ジアス)という言葉を私自身が初めて耳にしたのは2010年6月だった。国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのあん・まくどなるど所長が案内役となって、FAOのパルビス・クーハフカンGIAHS事務局長が能登を視察に訪れた。金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムの取り組みを案内してほしいと依頼があり、里山と里海の景観が広がる金沢大学能登学舎(珠洲市)や輪島市金蔵(かなくら)地区を回り、古いたたずまいの農家レストランで昼食をご相伴させていただいた。パルビス氏は里山マイスターの授業で取り組んでいる水田での生物多様性実習について説明を受け、能登の田んぼで採集され昆虫の標本を食い入るように見ていたのが印象的だった=写真・中=。この翌日(6月5日)、国連大学の武内和彦副学長(東京大学教授)やパルビス氏、あん所長、中村浩二金沢大学教授、農林水産省北陸農政局の角田豊局長が出席して「里山とGIAHS」をテーマに金沢市文化ホールでワークショップが開催された。この視察とワークショップがGIAHSへのキックオフであり、1年後にGIAHS認定にこぎつけた。

   2011年6月11日、中国・北京。国連食糧農業機関(FAO)主催のGIAHS国際フォーラム3日目、この日は午前9時からGIAHSの認証式=写真・下=があり、新たに日本から申請していた能登4市4町の「能登の里山里海」と佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」のほか、インド・カシミールと中国・貴州省従江の農村の代表にそれぞれ認定書が授与された。同日の夜の懇親会はまるで「世界民謡大会」の様相を呈していた。ホスト国の中国ハニ族の人たちがステージに上がり土地の民謡を歌うと、続いて能登半島・七尾市から武元文平市長に随行してきた市職員が祝い歌「七尾まだら」を披露した。武元氏もステージに上がり手拍子を打った。朗々としたその歌はどこか懐かしい響きがした。そして、ケニア・マサイ族、ナイジェリアの参加者が続々とステージに上がり土地の歌を披露したのだ。最後に佐渡市の高野宏一郎市長が「佐渡おけさ」を歌い、市職員2人が踊り、ステージを締めくくった。会場は盛り上がった。その後、ハニ族の参加者代表が武元氏の元に駆け寄ってきて、「気持ちが通じ合いますね」と握手を求めた。

   能登の里山里海がGIAHS認定された意義は大きい。上述したように、COP10で「SATOYAMAイニシアティブ」が採択され、里山はもはや国際語である。SATOYAMAが海外で広く紹介されたのは1999年のこと。イギリスBBC放送が、NHKのドキュメンタリー番組『映像詩 里山』を動物学者で番組プロデューサーのD・アッテンボロー氏のナレーションで吹き替えて、番組『SATOYAMA』として放送したところ、これが欧米で反響を呼んだ。日本の里山の国際評価として「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」がある。つまり、日本の里山の代名詞として能登と佐渡がある。

   ところで、GIAHSを直訳すれば「世界重要農業資産システム」である。今は通称「世界農業遺産」と呼ばれている。では、最初にそう呼んだのは誰か。国連大学の武内氏である。「石川県の谷本知事とGIAHSの呼び名について話していて、世界重要農業資産システムだと日本国内ではピンとこない。そこで、世界農業遺産だったら知名度が上がるかもしれないと・・・」(2012年7月17日、佐渡市での第2回生物の多様性を育む農業国際会議の基調講演)。

   里山里海をキーワードに「のと里山海道」の名称の由来を出来事を中心にたどってみた。そして来月5月29日にGIAHS国際フォーラムが能登半島・七尾市の和倉温泉で開催される。新たなGIAHSの認定地などが採択される。同フォーラムは、2007年のローマ、2009年のブエノスアイレス、2011年の北京に続き4回目の開催となる。11ヵ国の認定地の人々が「のと里山海道」を伝って能登のフォーラム会場にやってくる。

⇒18日(木)朝・金沢の天気    はれ

☆「里山海道」への道~中

☆「里山海道」への道~中

  能登半島は過疎・高齢化が進み、耕作放棄地も目立っている。追い打ちをかけるように2007年3月25日、能登半島地震(震度6強)が起き、2千もの家屋が全半壊した。能登の地域再生は待ったなしとなった。このタイミングで、文部科学省科学技術振興調整費のプログラム「地域再生人材創出拠点の形成」に申請していた「能登里山マイスター」養成プログラムが採択された。このプログラムのミッションを地域と連携して遂行するため、金沢大学と石川県立大学、そして能登にある輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の2市2町の自治体の6者が「地域づくり連携協定」(2007年7月13日)を結び=写真・上=、同年10月に「能登里山マイスター」養成プログラムの開講にこぎ着けた。過疎地で大学できること、それは人材養成、あるいは人材開発しかないという中村浩二教授を中心としたチームのアイデアだった。というより、大学の教員・スタッフができることは地域のニーズに応じたカリキュラムをつくり、教育を施す、これしかないのである。

自治体には受講生の募集業務や、移住してくる受講生の居住の窓口として協力を願った。この地域づくり連携協定の締結によって、「里山」ないし「里山マイスター」の言葉と意味合いがさらに広く認知されるようになる。予想外に、都市圏からの移住者の参加(計14人)もあり62人が修了した。「能登里山マイスター」養成プログラムは5年間で終了したが、連携する自治体からの要望もあり、継続事業として2012年10月、能登「里山里海マイスター」育成プログラムとして再スタートしている。

  2008年、今度は石川県が「里山里海」に身を乗り出してくる。同年4月4日、石川県環境部長、水野裕志氏が中村浩二教授の研究室を訪れた。その内容は、5月28日にドイツのボンで開催される生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)のサイドイベントで谷本正憲知事がスピーチを行うチャンスに恵まれた。県としては「里山景観条例」など里山に公益性をもたせるという画期的な内容の条例つくるというアピールを世界に向けて発信したい、と。それに向けて、里山をテーマとしたブレーンストーミングを知事を囲んで行いたいので出席してほしいとの依頼だった。ブレーンストーミングは4月28日午前10時から知事室で行われた。谷本知事は茨城県環境局長など環境畑を経験しており、マツタケの生育環境などについて実に詳しく、中村教授の生物多様性と里山の保全活用に関するレクチャーも熱心にメモをとっていた。

  同じ4月18日、国連大学等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが金沢市に開設された。石川県と金沢市が誘致した国連大学高等研究所の拠点施設(世界で6番目、国内初)だ。初代所長に、あん・まくどなるど氏が就任した。そのミッションは、環境と持続可能な開発(特に里山・里海の保全活用、伝統文化の継承など)や人材育成活動である。また当時、国連大学高等研究所を中心に日本の生態学者、行政関係者らによる「日本の里山里海評価(JSSA)」(2007-2010年)の作業行われ、この50-60年間で起きた里山里海の変化について調査、検証をしていた。国連は2005年に地球規模の生態系の現状と今後の変化傾向を科学的に診断した「ミレニアム生態系評価」(MA)を公表しており、その後、世界各域でサブグローバル評価が実施され、JSSAは日本初のサブグローバル評価として注目されていた。石川県はその調査拠点の一つでもあった。

  谷本知事のボン行きは、スピーチだけではなく、トップセールスを兼ねていた。5月24日、開催中だったCOP9の現地事務局に条約事務局長のアフメド・ジョグラフ氏を訪ねた。中村教授がアドバイザ-として、あん所長が通訳としてそれぞれ同行した。知事は、当時名古屋開催がすでに内定していたCOP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した=写真・中=。あん所長は知事の通訳という立場だったが、身を乗り出して「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。このとき、身振り手振りで話すあん所長の右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちたのだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の能登視察はその4ヵ月後に実現した。

  ジョグラフ氏が能登を訪れたのは2008年9月16日と17日の1泊2日の旅程だった。名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、9月13日・14日)に出席した後、15日に石川県入りした。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏(当時・小学校長)から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job」を連発して、持参したカメラでビオトープを撮影した=写真・下=。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校で植樹する「グリーンウェーブ」を提唱していた。

   能登が印象に残ったのか、ジョグラフ氏がその後、生物多様性の国際会議で能登の取り組みをスピーチの中で紹介しているようだと何度か側聞した。

⇒17日(水)夜・金沢の天気    はれ

★「里山海道」への道~上

★「里山海道」への道~上

   先にこのブログで紹介した、能登有料道路が「のと里山海道」=写真・上=に生まれ変わり2週間がたった。さっそく車で走行した知人たちと話していると、無料化のことより、案外と「のと里山海道(さとやまかいどう)」のネーミングが話題となっている。「季節が冬から春になったせいもあるが、走りの感覚と、里山海道の語感がぴったりとくる」と。全長83㌔は信号機もなく、料金所という停止のバリアもなくなり、時速80㌔での走りは確かに爽快である。

  滑り出しは上々かもしれない。パーキングエリア(PA)がどこもにぎわっている。先日、志雄PAで地域の名物として売り出し中のオムライス弁当を買おうとしたら売り切れていた。西山PAでは、駐車場(収容20台)が満杯で停めることができなかった。逆に、のと里山海道に利用客を奪われた国道249号や159号沿いのレストランやコンビニエンスストアは悲鳴を上げているに違いない。

   ところで、この「のと里山海道」のネーミングの由来にについて考察したい。名称は公募で選定されたものだが、おそらくこのネーミングのモチーフ(主題)にあるのは「能登の里山里海の道」ということだろう。「里」の字の重なりを避け、「海道」を充てることで上手に短縮した。「のと」としたのは「能登里山海道」では漢字ばかり6字も並んで読み難い上、硬いイメージを避けたいとの配慮からか。「能登の里山里海」は間違いなく、2011年6月に国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)によって世界農業遺産(GIAHS、Globally Important Agricultural Heritage Systems)の認定名「Noto’s Satoyama and Satoumi」=写真・中=から由来している。

   では、GIAHSの認定名となった「能登の里山里海」についてさらに考えをめぐらす。能登には「農山漁村」はあったが、「里山里海」という概念はなかった。能登に初めて「里山里海」の言葉と概念を持ち込んだのは金沢大学の中村浩二教授だった。今から7年前の2006年10月、能登半島の北端の珠洲市三崎町で「能登半島 里山里海自然学校」という環境保全プロジェクトを中村教授が中心となって立ち上げた=写真・下=。三井物産環境基金の支援資金を得てである。

    生態学者である、中村教授は生物多様性を育む里山や里海という概念に注目していた。里山里海自然学校では、博士研究員が現地に常駐し、地域住民の協力を得ながら生物多様性調査を行うことをメインに、地域の子供たちへの環境教育も実施した。主な取り組みを整理すると3つになる。1)里山里海の生物多様性や人々の生業についての現状調査、2)地域や大学,都市住民のボランティアによる里山里海の保全活動、3)地域の小中学校,高校や大学,地域住民を対象とした環境教育。能登では、単発的に研究者が訪れ調査をしていく、いわゆる「訪問型研究者」による調査研究がされてきた。しかし、里山里海自然学校の設置により、地域社会の中に定住して研究を行う「レジデント型研究者」を置くことになる。これが地域にインパクトを与えた。博士研究員(生態学)が「里山里海自然学校」の名刺を持ち地域と交流を重ねることで、生物多様性を包含した里山里海の言葉の意味が徐々に地域に浸透していくことになる。

   そのインパクトは、学術面でも現れる。博士研究員の専門はキノコ類である。地域の人たちと山歩きをする中で、コノミタケと呼ばれるホウキタケの仲間があり、すき焼きの具材として能登で珍重されていることを知る。鳥取大学の研究者とDNA解析をすること新種であることが分かり、「ラマリア・ノトエンシス(能登のホウキタケ)」(和名:コノミタケ)と学名を付けることになった。現場に足を運んで得られた臨地的研究の一つの成果であり、地域にとっても能登の名が冠せられた学名は誇りともなった。

   活動拠点となったのは旧小学校(小泊小学校)の廃校舎である。かつて地域住民が親しんだ、思い出の詰まる場所だけに、大学の活動拠点という「敷居の高さ」は低くなり、気軽に地域の人たちとの交流の場ともなった。それが地域に活動が浸透していくことに役立った面もある。

⇒14日(日)朝・金沢の天気    はれ

☆2012ミサ・ソレニムス~8

☆2012ミサ・ソレニムス~8

 きょう31日、金沢市内の商店街に買い物に出かけた。BGMは「第九」だった。おそらく日本人ほど第九が好きな民族はいない。その曲をつくった偉大な作曲家ベートーベンを産んだドイツでも、第九は国家的なイベントなどで披露される程度の頻度なのだ。それが、日本では年に160回ほど演奏されているとのデータ(クラシック音楽情報サイト「ぶらあぼ」調べ)がある。これは世界の奇観かもしれない。さらに、その奇観を鮮明にさせた人物がいる。指揮者の岩城宏之(故人)だ。世界で初めて、大晦日にベートーベンのシンフォニーを一番から九番まで一晩で指揮棒を振った人である。しかも2年連続(2004、2005年)。1932年9月生まれ、あのコーヒーのCM「違いの分かる」でも有名になった岩城宏之のことしは生誕80周年だった。

     マエストロ岩城の生誕80周年、「ベートーベンで倒れて本望」の偉業

 岩城さんとの初めての面識は17年も前だった。私のテレビ局(北陸朝日放送)時代、テレビ朝日系列ドキュメンタリー番組「文化の発信って何だ」を制作(1995年4月放送)する際に、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督で指揮者だった岩城さんにあいさつをした。初めてお会いしたので、「岩城先生、よろしくお願いします」と言うと、ムッとした表情で「ボクはセンセイではありません。指揮者です」と岩城さんから一喝された。そう言えば周囲のオーケストラスタッフは「先生」と呼ばないで、「岩城さん」か「マエストロ」と言っていた。初対面で一発くらわせれたのがきっかけで、私も「岩城さん」あるいは「マエストロ」と呼ばせてもらっていた。

 そのドキュメンタリー番組がきっかけで、足掛け10年ほど北陸朝日放送の「OEKアワー」プロデューサーをつとめた。中でも、モーツアルト全集シリーズ(東京・朝日新聞浜離宮ホール)はシンフォニー41曲をすべて演奏する6年に及ぶシーズとなった。あの一喝で「岩城社中」に仲間入りをさせてもらい、心地よい環境で仕事を続けた。

 「岩城さんの金字塔」と呼ばれるベートーベンの交響曲1番から9番の連続演奏に2年連続でかかわった。2004年12月31日はCS放送の中継配信とドキュメンタリーの制作プロデュースのため。そして翌年1月に北陸朝日放送を退職し、金沢大学に就職してからの2005年12月31日には、この9時間40分に及ぶ世界最大のクラシックコンテンツのインターネット配信(経済産業省「平成17年度地域映像コンテンツのネット配信実証事業」)のコーディネーターとしてかかわった。

 それにしても、ベートーベンの交響曲を1番から9番まで聴くだけでも随分と勇気と体力がいる。そのオーケストラを指揮するとなると、どれほどの体力と精神を消耗することか。2004年10月にお会いしたとき、「なぜ1番から9番までを振るのか」と伺ったところ、岩城さんは「ステージで倒れるかもしれないが、ベートーベンでなら本望」とさらりと。当時、岩城さんは72歳、しかも胃や喉など25回も手術をした人だった。体力的にも限界が近づいている岩城さんになぜそれが可能だったのか。それは「ベートーベンならステージで倒れても本望」という捨て身の気力、OEKの16年で177回もベートーベンの交響曲をこなした経験から体得した呼吸の調整方法と「手の抜き方」(岩城さん)のなせる技だった。

 2005年大晦日の演奏の終了を告げても、大ホールは観客による拍手の嵐だった。観客は一体何に対して拍手をしているのだろうか。これだけのスタンディングオベーションというのはお目にかかったことはなかった。番組ディレクターに聞いた。「何カットあったの」と。「2000カットほどです」と疲れた様子。カットとはカメラの割り振りのこと。演奏に応じて指揮者や演奏者の画面をタイミングよく撮影し切り替える。そのカットが2000もある。ちなみに9番は403カット。演奏時間は70分だから4200秒、割るとほぼ10秒に1回はカメラを切り替えることになる。

 「ベートーベンで倒れて本望」と望んだ岩城さんの願いは叶い、2006年6月に永眠した。インターネット配信では岩城さんに最初で最後の、そして最大にして最高のクラシックコンテンツをプレゼントしてもらったと私はいまでも感謝している。

⇒31日(月)夜・金沢の天気  くもり

★2012ミサ・ソレニムス~3

★2012ミサ・ソレニムス~3

  今月22日付のブログ「メディアの当確の精度」を書いた。その中で、「選挙事務所の独自の票読み」について述べた。これを若干補足したい。当確ラインをテレビ局に頼らず、独自で集票や票の出方を分析する古参の選挙参謀という人たちがいる。私は記者時代(新聞・テレビ)にこれらの人たちに取材し、逆に選挙運動のノウハウや票読みを教わったものだ。どこそこの地域の支持が少ない、なぜか、どうすれば支持を高めることができるかといった分析をして手を打つ人たちである。ところが、若くして立候補した人たちはそういった選挙参謀を必要としないと考えているようだ。有権者に直接訴え支持を得るのが選挙だと考えているからだ。こうした候補者は当落の予想を論拠立てて分析する手法を得てして有しない。つまり、蓋を開けてみないと分からない。だから、NHKや民放の開票速報をじっと待つということになる。

       衆院総選挙で有権者が選択したのは何だったのか

 さて、その総選挙を振り返る。自民が圧勝したのは、民主が経済対策を重視してこなかったからだ、との論調が目立っている。選挙後に株価が1万円台を回復し、円レートも84円台になったとか、日銀が国債など資産買い入れ基金の10兆円増額を決め、前年比上昇率2%のインフレ目標も次回の決定会合で検討するなど、自民の安倍総裁が求めに「満額回答」で答えたなどのメディアの報道が目立つようになった。

 12党1500人余りの候補者による総選挙は戦国時代か、関ヶ原の戦いのように、いくつもの合戦が同時に繰り広げられた観がある。では、本当の争点は何だったのだろうか、経済対策か原発か、外交か。朝日新聞が選挙前の12月14日付で掲載した世論調査で、投票先を決めるとき最も重視するのは何かを3択で尋ねている。それの回答では、「景気対策」61%が、「原発の問題」16%、「外交・安全保障」15%を大きく引き離していた。総選挙の公示日の12月4日、民主、自民、未来の3党首がそれぞえ福島県で選挙の第一声を上げた。民主と未来は「脱原発」を最初に訴え、自民は「被災地の復興を」とまず訴えた。

 ただし、自民の経済政策は、再び土建国家を復活させかのような印象で、借金(赤字国債)が無造作に増えても成長戦略で乗り切ろうという考えのように思えた。同じ印象を持ったのか、経団連の米倉会長は安倍氏の掲げる「大胆な金融緩和策」を、公示前(11月26日)に「無鉄砲」と批判していた。それでも、国民は脱原発の旗色を鮮明にすることで選挙を乗り切ろうとした民主に投票せず、「無鉄砲」と経済界からも批判された自民を選んだことになる。

  選挙後、民主が大敗したのは、有権者が「何やってんだ」とフラストレーションをぶつけた結果で、自民を「民主よりましな政党」と評価したにすぎない、とのメディアの論調があった。自省を込めての話だが、私もそのようにブログで書いた。が、果たして上記の自民の経済政策、有権者た求めた「景気対策」が合致した、さらに民主にお灸をすえたのが今回の選挙の特徴だったのか。

 それは比例の得票数を見れば分かる。自民は1662万票で、前回2009年の1881万票にも及ばなかった。得票率も27%で09年の26%とほぼ変わらなかった。投票率が09年より10ポイント低かったことも影響しているが、全国的に自民支持が広がったとは言い難いのである。ここから言えることは、有権者はこれまで以上に「党より人」を見究めようとしたのではないか、とうことである。選挙の風が吹くたびに「チルドレン」が量産されてきたことに、有権者は嫌気がさしていた。むしろ、争点はもちろんだが、その候補の実績や人柄を中心に厳しくチェックを入れ、人物を判断することになったのではないだろうか。

 上記の意味で、冒頭に述べた選挙参謀がいて、選挙事務所がしっかりしていて、政策だけを言いっ放しにするのではなく地域を細かく回り支持を訴えるというベーシックな選挙を展開した候補者が共感が得られた、とも推測できる。それが、小選挙区で自民が大勝した背景ではなかったのか。選ばれたのは党より、より信頼できる人柄だったのではないか。今夜、第二次安倍内閣が誕生する。

⇒26日(水)朝・金沢の天気   くもり

☆2012ミサ・ソレニムス~2

☆2012ミサ・ソレニムス~2

 「地球は温暖化しているはずなのに、この寒さは何だ」と叫びたくなる。朝起きてみると、自宅に周囲は20㌢ほどの積雪だ。2005年12月の異常寒波を思い出す。当時、厳しい寒波の原因として気象庁や専門家が注目したのは「北極振動」と呼ばれる現象だった。北極振動(AO、Arctic Oscillation)。北極は寒気の蓄積と放出を繰り返している。蓄積中は極地を中心に寒気の偏西風は円状に吹くが、ひとたび放出に切り替わると、北半球では大陸の地形から寒気が三方向に南下し、日本列島を含むユーラシア大陸などを蛇行する。今回はサンタならぬ、クスマス寒波だ。さて、「2012ミサ・ソレニムス~2」は事件簿を振り返る。

     善良な市民であり、凶悪な警察官であり…

 ことし記すべき事件簿ならば、本来、兵庫県尼崎市の連続変死事件だろう。ところが、殺人と逮捕監禁容疑で逮捕されていた主犯とみられる角田美代子容疑者(64歳)は留置場内での自殺(12月12日)。周辺で6人の遺体が見つかり、なお3人が行方不明の事件の捜査はこれから本格化するところだった。事件すら、衆院総選挙ですっかりかすんでしまった。

 年末に驚く事件が報じられた。現職の警察官が殺人と放火という前代未聞の罪を犯した。富山県警が22日、警部補で休職中の加野猛容疑者=54歳、富山市=を殺人と現住建造物等放火、死体損壊の疑いで逮捕したと発表した。ただ、続報でも、その殺しの動機が一切伝わってこない。なぜだ。

 報じられていることをまとめると、加野容疑者は高岡署留置管理課に勤務していた2010年4月20日正午ごろ、富山市大泉のビル2階の住居で、会社役員(当時79歳)と妻(同75歳)の首を、ひもで絞めて殺したうえ、持ち込んだ灯油をまいて放火し、死体を損壊した疑い。容疑者はこの日休みだった。殺された夫妻は2004年まで容疑者の住む同市森地区に住んでいて、夫妻とは30数年来のつきあいがあった、という。容疑者は消費者金融などから200万円前後の借金があったとも伝えられている。

 殺害があった5ヵ月後の2010年9月、自宅で睡眠導入剤を大量に飲み、自殺を図ったこと。当時勤めていた高岡署の上司や家族に宛てた複数の遺書が見つかっていたが、自殺を図った動機を「健康問題や家族の悩み」と説明していたという。夫婦殺害には触れていなかった。容疑者は当時、殺害された夫妻とつきあいがありマークされてた。ことし10月と11月に2度、地方公務法(守秘義務)で2度逮捕されている。9月、勤務していた高岡署内で、留置人の差し入れに訪れた男性に、男性の知人の暴力団員が近く逮捕されることを、別の知人男性には覚醒剤事件の捜査情報を漏らした疑い。

 一方で、容疑者はことし4月から町内会長を務めていた。世話好きだったらしい。また、採集した昆虫の標本を地区の文化祭に出展したり、育てたカブトムシを子どもたちに配ったりして、「昆虫博士」として地域で知られていた、と。

 奇妙なキャラクターではある。自殺を図る心理状況と、町会長を引き受けるテンションの高さ。昆虫標本の作成と生物分類の集中力と、捜査情報をつい知人に漏らすルーズさ。善良な市民であり、凶悪な警察官、この2面性は何だろう。

⇒25日(火)朝・金沢の天気  ゆき 

★2012ミサ・ソレニムス~1

★2012ミサ・ソレニムス~1

 昨夜(23日)金沢市の石川県立音楽堂コンサートホールで開催された、荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)の演奏を聴きにいった。石川県音楽文化協会などの主催で、もう50回目となり、県内では季節の恒例のイベントとして定着している。80分の演奏時間は、高揚感と緻密で清明感にあふれる。決して「長い」とは感じなかった。年末に荘厳ミサ曲や「第九」が響く都市というのはどれだけあるのだろうか。これが都市の文化力のバロメーターなのかも知れない。「キリエ (Kyrie)憐れみの讃歌」、「グロリア (Gloria)栄光の讃歌」、「クレド (Credo)信仰宣言」、「サンクトゥス (Sanctus)感謝の讃歌」、「アニュス・デイ (Agnus Dei)平和の讃歌」と進むちうちに心が高まり、金沢の地でこうして鑑賞できることに感謝した。

 作曲したベートーベン(1770~1827)が生きた時代、ヨーロッパでは貴族が没落し、都市から新しい価値観や思想が噴き出す過渡期だった。2008年5月、ドイツのボンに出張した折、ベートーベンの生家に立ち寄った。正確に言うと、夕方ですでに閉館だった。周囲に当時から変わらない広場があり、居酒屋が立ち並んでいた。そのうちの一軒に入ると、ビールのジョッキを手に語らう人々であふれていた。ベートーベンの時代に一瞬タイム・シフトしたような思いにかられたものだ。さて、今回のコンサートを聴きながら2012年を振り返るよいチャンスにもなった。「2012ミサ・ソレニムス」と題して、この1年を回顧したい。

       イフガオの棚田で考えた、「田の神」ブルルの今と未来    

 去年の今頃、気持ちはフィリピンにあった。年賀状で書いた文面はこうだった。「能登の里山里海が国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS)に認定されました(昨年6月)。半島の立地を生かした農林漁業の技術や文化、景観が総合的に評価されたものです。世界に12ヵ所あるGIAHS地域とネットワークを築くため、手始めに今月11日から6日間、フィリピンの『イフガオの棚田』に行きます。ささやかながら能登の明日に向けた新たな取り組みになればと思っています。2012年元旦」

 イフガオの棚田=写真=を実際に訪れたのはことしの1月13日だった。マニラから車で8時間余り。道路事情も決してよいものではない。にもかかわらずバスも運行している。1995年にユネスコの世界遺産として登録された世界最大規模の棚田(rice terrace)だからだ。標高1000から1500㍍、1万平方㌔㍍の山岳地帯に散在する棚田がある。もっとも美しく規模が大きいとされるのがバナウエの棚田といわれる。耕運機どころか、水牛のような家畜すら入れない斜面地だった。

 バナウエ市のジェリー・ダリボグ市長を表敬に訪れた。訪れたのは、金沢大学チームと、同日に合流した同じ世界農業遺産の佐渡市の高野宏一郎市長、国連食糧農業(本部・ローマ)のGIAHS担当スタッフ、石川県の関係者だった。バナウエは人口2万余りの農村。平野がほとんどない山地なので、田ぼはすべて棚田だ。バナウエだけでその面積は1155㌶(水稲と陸稲の合計)に及ぶ。市長の話では、その棚田は徐々に減る傾向にある。耕作放棄は332㌶もある。さらに、マニラなどの大都市に出稼ぎに出ているオーナー(地主)も多い。市長は「棚田の労働はきつい上に、水管理や上流の森林管理など大変なんだ」と将来を案じた。農業人口の減少、耕作放棄など、平地が少ない能登とイフガオで同じ現象が起きていると感じた。むしろ、共通の課題を探ることができた。

 興味が湧いたのは、現地では「田の神」ブルル=写真=の信仰があることだった。イフガオに米づくりをもたらした神様として崇められている。ここで日本では想像できない問題もある。フィリピンは多民族国家だが、9400万人の人口の8割はキリスト教徒だ。16世紀から始まるスペインの植民地化や、20世紀に入ってからのアメリカの支配による欧米化でキリスト教化されていったからだ。しかし、この地に根付くイフガオ族は歴史的にこうしたキリスト教化、地元でよくいわれる「クリスチャニティ(Christianity)」とは距離を置いてきた。コメに木に田んぼに神が宿る「八百万の神」を信じるイフガオ族にとって、キリスト教のような一神教は受け入れ難い。

 一方で、少数民族が住む小中学校では、欧米の思想をベースとした文明化の教育、「エデュケーション(Education)」が浸透している。現地、イフガオ州立大学で世界農業遺産(GIAHS)をテーマにしたフォラーム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」(金沢大学、フィリピン大学、イフガオ州立大学主催)が開催された。発表者からはこのクリスチャニティとエデュケーションの言葉が多く出てきた。どんな場面で出てくるのかというと、「イフガオの若い人たちが棚田の農業に従事したがらず、耕作放棄が増えるのは特にエデュケーション、そしてクリスチャニティに起因するのではないか」との声だった。これに対し、行政関係者からは一方的な見解との反論もあった。

 このフォーラムで自ら「純イフガオです」と語る気さくな研究者がいた。フィリピン大学のシルバノ・マヒュー教授(国際関係論)、日本には2度にわたって13年の留学経験を持つ。この問題で、マヒュー教授はこう話した。「イフガオ族には歴史上、王政というものはなかった。奴隷のような強制労働はなく、人々は平等な関係と意志で営々と棚田をつくり上げた。われわれイフガオの民はそのことに誇りに思っている。しかし、現代文明の中で、世界中どこでもそうだと思いますが、イフガオでもそうした昔のことを忘れてしまっています。昔と今とのギャップがどんどん開いていくと、保存する価値は薄くなってしまいます。ですから、例えばイフガオの人が、自分は別の所に住みたいと言って、祖先から伝えられた土地を忘れて離れていってしまうという問題を解決する方法があればいいと切に願っています」

 来年1月14日、シルバノ・マヒュー教授らを招いて、「国際GIAHSセミナー」(金沢市文化ホール)を開催する。我々はこの文明の中で、里山や農業、米づくりをどのように価値づけしていけばよいのか、そのような話をしていきたいと願っている。

⇒24日(振休)朝・金沢の天気  ゆき

☆フードバレー十勝の農力

☆フードバレー十勝の農力

 気温マイナス20度を初めて体験した。冷気を吸って気管支が縮むのか、ちょっと息苦しい感じがした。25日に訪れた北海道・帯広市でのこと。夜中に小腹がすいて、コンビニに買い物に外出したときだった。金沢ではマイナス1度か2度で寒いと感じるが、帯広では身を切る寒さを実感した。翌朝のNHKのロ-カルニュースでマイナス20度と知って、2度身震いした。

 シンポジウム参加のため、冬の帯広にやって来た。帯広畜産大学と帯広市が主催する「第5回十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成シンポジウム~十勝の『食』を支える人づくり~フードバレーとかちのさらなる前進を目指して~」(1月26日、ホテル日航ノースランド帯広)。シンポジウムの講評をお願いしたいと依頼があり、引き受けた。帯広畜産大学は帯広市と連携して、平成19年度から5年計画で「地域再生のための人材養成」のプログラム「十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成事業」を実施している。社会人を対象に、十勝地方で産する農畜産物に付加価値の高い製品を産み出す人材を養成しようと取り組んでいる。今回のシンポジウムはいわばこの5年間のまとめのシンポジウムでもある。帯広市(人口16万)を中心とする十勝地方(19市町村)の農業産出額は北海道全体の4分の1を占め、一戸あたりの農家の平均耕作面積は40㌶に及び、全体でも26万㌶、全国の耕地の5%に相当する。食料自給率は1100%、小麦やスイートコーン、長芋などは全国トップクラスの生産量を誇る。年間2000時間を超える日照時間も強みだ。帯広畜産大学の取り組みはこうした恵まれた環境に甘んじることなく、「さらに十勝の農力を伸ばせ」と人づくりにチカラを注いでいる。

 十勝の自治体も合併ではなく、近接する市町村が様々な分野で相互に連携・協力する「定住自立圏形成協定」を結び、さらに農業経済を活性化かせるために「フードバレーとかち推進協議会」(19市町村、大学、農業研究機関、金融機関など41団体)を結成。フードバレーとはフード(food=食べ物)とバレー(valley=谷、渓谷)の造語だが、オランダが発祥地。バレーといっても谷がある訳ではなく、食に関する専門知識の集積地を目指しているのだ。さらに、昨年12月には食の生産性と付加価値を高めることで国際競争力の強化を先駆的に推進する国の国際戦略総合特区に指定されている。食へのこだわりを生産地からとことん追求する、そんな印象だ。シンポジウムも、気温マイナスにもかかわず、会場は熱気があった。

 気になった点が一つあった。27日付の読売新聞北海道版で、「カナダの団体とTPP反対で一致 JA道中央会長」の見出しのベタ記事だ。JA道中央会長がの記者会見で「カナダの農業団体と協力してTPP(環太平洋経済連携協定)に反対する」と述べたとの記事内容。一戸あたりの農家の平均耕作面積が40㌶に及ぶ十勝地方、さらに北海道の農業が国の国際戦略総合特区に指定されたのも、TPPを迎え撃つ準備かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。関税の撤廃で、酪農や小麦の生産が打撃を受けるとの懸念があるようだ。

 過疎化が進む、本州や四国、九州の農業と違って、すでに大規模農業で有利な北海道から農業革命を起こし日本の農業をリードしてほしい、と願う。シンポジウムの熱気からそんなことを感じた。

※写真は、街角の氷の彫刻。気温が日中でもマイナス10度ほどあり融けない=帯広市内

⇒27日(金)朝・帯広の天気  はれ

★2011ミサ・ソレニムス-7

★2011ミサ・ソレニムス-7

 きょう30日の東京株式市場は、日経平均株価の終値が前日より56円46銭(0.67%)高い8455円35銭だった。1年最後の取引日の終値としては、1982年の8016円67銭以来、29年ぶりの安値を記録した。1982年の出来事を調べると、三越・岡田茂社長が取締役会で解任され、「なぜだ!」という言葉が話題となった。その後、背任で愛人とともに逮捕(三越事件)された。東京・赤坂のホテルニュージャパンで火災が発生し33人が死亡。あみんの歌「待つわ」がヒットし、タモリの「笑っていいとも!」がスタートした年だった。福沢諭吉の肖像画の1万円札が発行された年でもある。この年、日本の経済は、世界の同時不況とアメリカの高金利で、これまでの輸出主導型の経済が制約され、国内需要がなんとか経済の成長を支えていた。景気の谷だった。その4年後から、日本の株と土地の異常な値上がりで1991年までバブル景気に日本人は踊ることになる。

           悲報に慣れるな、ニュースに流されるな、希望をつなごう

 その年から29年たった2011年は、東日本大震災による被災や外国為替市場での歴史的な円高水準の定着、世界的な景気後退など、日本の経済を圧迫する不安材料がいくつも重なった。当然、投資家の心理も冷え込み、株価を押し下げた。欧州の財政危機の長期化懸念も広がっている。

 先月(11月)15日、担当するジャーナリズム論で、北陸銀行の高木繁雄頭取に講義をいただいた。題して「私の新聞の読み方」。その中で印象に残るシーンがあった。経済学者アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年、グラスゴー大学の講義録)を引き合いに出して、一文(日本語訳文)を頭取が読み上げたのだった。

 「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」

 この一文に耳を傾け、「中国の大帝国」を「日本」に置き換えれば現代でも通用する、実に分かりやすいたとえとなる。人類というのは災害など悲報に接し、哀悼し自らのこととして麗しく道徳的な感情になる。ただ、それはいったん語り終えられると、その道徳的な感情は長続きはしない。私の身の回りでも、2007年3月に能登半島地震があり多くの家屋が倒壊し海外ニュースにもなった。ただ、今はそのことすら思い出せない人々が多い。高木頭取が言いたかったのは、ニュースに流されるなということなのだ。「報道されなくなったからと言って、危機が去ったわけではない。より大きなニュースや事件があれば、結果として報道は偏ってしまう」と。道徳的な感情は流されやすい。だから、自らで手でニュースを探究せよと学生たちに呼びかけたのだ。

 我々日本人は悲報に慣れきっているのではないか。これが当たり前だ、と。経済が29年前と同じ水準に戻っても、仕方ないとあきらめるのか。悲報に接してもあすを、来年を良い日、良い年にしようというモチベ-ションを持たねばはあすが続かない。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス」をこれで終える。

⇒30日(木)夜・金沢の天気  くもり

☆2011ミサ・ソレニムス-6

☆2011ミサ・ソレニムス-6

 29日、イタリアの10年物国債の流通利回りが危険水準とされる年7%を超えたことなどを背景にユーロ売りが加速して、円相場が100円近くに上昇したとのニュースがテレビ、新聞などで掲載された。この1年の経済で最も危機感をあおったのはこのユーロ危機だろう。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス(荘厳ミサ曲)-6」ではヨーロッパのこの1年を想ってみたい。

           「働かないギリシャやイタリヤに意義がある」

 相当な影響だろう。イタリア経済はギリシャとは比べものにならない、ドイツ、フランスに次ぐユーロ圏3位の経済力を持つ国なのだ。さらにギリシャはすでにデフォルト(破綻)していると見方がある。実際、ギリシャ10年債利回りは30%を超えている。欧州首脳会談では、ギリシャの国債の50%の元本減免されたが、残り50%も支払われるかどうかはもわからない。これが危機感の連鎖をもたらしている。

 先月(11月)10日の誤送信問題を思い出した。アメリカの格付け会社「S&P」が、フランス国債の格付け引き下げを知らせるメールを「誤送信」したことで市場が一時混乱した。ギリシャ、イタリアに続き、フランスまでもと市場も国際政治も騒然としたことだろう。S&Pはその後の公式発表で、「誤送信」とした。でもこれは常識で考えれば「予定原稿」だろう。利用しない原稿を準備するはずがない。これが混乱が混乱を招くユーロ圏の実態だと思えばよい。

 ヨーロッパの実質経済もよくない。ニュースを総合すると、欧州主要国の経済予測を見ると、来年は今年よりも厳しい見込みが出ている。実質経済成長率では、ドイツでさえ2.9%から0.8%へ下落の見通し。ドイツ政府が11月に発表した9月の鉱工業生産指数は前月比2.7%低下し、第3四半期終盤に生産の勢いが急激に失速していることを示していると伝えられた。スペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリアなど経済の調子が悪くなるに連れ、EU圏内での取引が多いドイツ経済に徐々に悪影響が出てきているのだろう。

 ここまでも話を進めると、かつてギリシャは歴史的に「民主主義」を生み出した国だったが、いまや「衆愚政治」に陥った国、そしてイタリアもフランスも同じ轍を踏んでいると思ってしまう。そして、今やその衆愚政治は治療できない、本当の欧州危機ではないかと多くの人が考え込んでいる。

 ことし夏に読んだ本の中に、『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著、メディアファクトリー新書)がある。進化生物学者である著者の言いたいことを私なりに解釈すると次のようになる。昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが「反応閾値(いきち)」である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。

 人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

 これを少々乱暴な論の進め方であるが人間社会で想像してみる。人々の働きによって金がぐるぐる回る資本主義社会ではギリシャやイタリアの反応閾値はよくなかった。しかし、世界が混乱に陥り、人類が新たな文明の理念を求め始めたとき、「腰の重い」ギリシャやイタリアから新たな思想や英雄が現るのかもしれない。本のタイトルになぞらえれば「働かないギリシャやイタリアに意義がある」と。そう願いたい。

⇒29日(木)夜・金沢の天気   ゆき