⇒ドキュメント回廊

☆大晦日 定なき世の定かな

☆大晦日 定なき世の定かな

  「大晦日 定(さだめ)なき世の定かな」と俳句を詠んだのは井原西鶴(1642-93)だった。以下は私独自の解釈だが、混沌としたこの世にもはや守るべき定(さだめ)というものはなくなったが、不思議と大晦日だけはみなが律儀に新年を迎えようと定めにしたがっている、と。

  西鶴が生きた1600年代の後半は寛永から元禄時代にまたがる。四代将軍・徳川家綱から五代・綱吉の世である。戦国の世を直接体験していない世代が大半を占め、社会の価値観や意識というものが大きく変化する時代だったと言える。綱吉が発した「生類憐れみの令」(1687年)はその時代の在り様を表現するシンボリックな事例だろう。人を含む生き物すべてを慈しみ、その生命を大切にしようとする、まさに「平和な時代」を象徴している。西鶴は大坂で名を成したが、大坂と江戸で同時発売した『好色一代男』(1682)はベストセラーになり、続いて『好色一代女』(1686)も大流行。「浮世草紙」(小説)という文芸作品のジャンルを築いた。

  話を元に戻す。「大晦日の定(さだめ)」とは何か。そのヒントが『世間胸算用(せけんむねさんよう)』(1692)にある。この浮世草紙の副題は「大晦日は一日千金」である。ネットで現代語訳を見つけ、読むうちにこの作品は当時のリアルなドキュメンタリ-ではないかと思えてきた。まず、出だしがこうである。「世の定めで、大晦日の闇は神代このかた知れたことなのに、人はみな渡世を油断して、毎年一度の胸算用が食い違い、節季を仕舞いかねて困る。というのも、めいめい覚悟がわるいからだ。この一日は千金に替えがたい。銭銀のうては越されぬ冬と春との峠が大晦日、借金の山が高うては登りにくい。」

  つまり、大坂の商人にとって1年の総決算である大晦日に時間を絞って、金の貸し手と借り手との駆け引きを中心に、年の暮れの庶民の姿を描いているのだ。取り立てる側、取り立てから逃げる側の攻防を描いた。

  借金の取り立てを逃れるため、遊女の宿で身を隠していた男性がつい大騒ぎして、声が外に漏れてしまう。すると、取り立ての若い衆2人が宿に乗り込んできた。「旦郡、ここに居やはりましたか。今朝から四五度も御宅へ伺いましたが、お留守では仕方がおまへなんだ。よいところでお眼にかかりました」と、何やら談判した挙句、あり金全部と、羽織、脇差、着物類までまき上げてしまって、「残りは正月五日までに」、と言い捨てて帰った。

  『好色一代男』が描かれたことは経済的に活況だったが、『世間胸算用』が世に出た頃は逆にある意味でバブル崩壊で、商売に失敗した人々の貧乏長屋があちこちに立っていたと言われる。江戸時代は、盆と正月が商売上の支払期限(いまでも業種によってこの日が期限)となっていて、借金している者はいよいよ返済に迫られ、切羽つまるのが大晦日だ。西鶴の筆は、金が一番動く大晦日に絞って、無名の庶民の悲喜こもごもを実録風に描いた。作家としての鋭い構成に感服する。

31日(土)午後・金沢の天気    あめ

★2016 ミサ・ソレニムス‐続々

★2016 ミサ・ソレニムス‐続々

        先ほど2016年最後の取引となる日の東京株式市場で日経平均株価が大引けとなった。終値は前日に比べ30円77銭安の1万9114円37銭。12月に入り、「トランプ効果」を期待して、2万円突破かなどと言われていたが、やはり相場は相場だ。

   最近のニュースで、いろいろ数字が気になった。というよりショックだったのが、厚生労働省が発表した統計だ。2016年に国内で生まれた日本人の子どもの数は98万1000人で過去最低で、統計を取り始めた1899年以降初めて100万人を割り込む見通し、と。これにともなって、死亡数が出生数を上回る自然減は10年連続となり、人口減に歯止めがかからない。

         いつの間にか恐ろしい数字が飛び交っている

   さらに数字を拾っていくと、日本は年間に30万人ずつ人口が減っている。この減り方は、出生数の減と高齢化の増で今後は50万人、60万人と減少幅は大きくなっていくことになる。現在の鳥取県(57万人)、島根県(69万人)、高知県(73万人)くらいの人口分が年に一つずつ消滅していくことになるだろう。そうなると、次世代の地域を誰が支えるのか、国民一人ひとりの負担額は大きくなってくる。では、移民政策を推し進めるのか。移民が流入するヨーロップの混乱ぶりを見ていると、簡単に移民政策をと主張することもできない。では、座して死を待つのか、新年をまえに何とも暗く重苦しい気分になってくる。

   とんでもない数字が飛び交った。経済産業省が、東京電力福島第一原子力発電所の賠償や廃炉費用の合計が20兆円を超えると試算しているという。11兆円としてきたこれまでの想定の2倍に膨らんでいるのだ。福島第一原発の事故の賠償や廃炉などにかかる費用が20兆円を超える規模に膨らむ見込みであることが分かった。当初の見込みでは賠償は5兆4000億円、除染は2兆5000億円、廃炉は2兆円で約11兆円。それが、新たな試算では賠償は対象が増えて8兆円、除染は長期化により4兆円から5兆円に膨らみ20兆円を超えたのだ。増加分を誰が負担するか。原則的には、東京電力だが、一部は電気料金に上乗せされる見通しだという。

   福島原発事故を受けて、多くの国民は原発に否定的な眼差しを向けるようになった。鹿児島県知事選(7月10日)や新潟県知事選(10月16日)の結果でもそれが如実に表れている。しかし、政府は、原発に依存するエネルギー政策を維持しており、2030年度には全発電に占める原発の割合を20-22%にするという目標も打ち出している。今後新たに原発を建設しないとこの目標は達成できないとも言われている。

   原発の運転で生じるプルトニウムもたまり続けている。すでに国内外に50トンのプルトニウムがある。プルトニウムは原爆の材料にもなる危険な物質だが、原発で使う核燃料の材料にもなるという理由から政府はプルトニウムを増やす施設の建設を続けていく方針だ。北欧ではプルトニウムを地下数百㍍に埋める仕組みを実現させようとしている。仮に処分できたとしても、無害化まで10万年かかるようだ。人間がとうてい責任を負えないようなとんでもない数字が飛び交っている。

⇒30日(金)夕・金沢の天気   くもり

☆2016 ミサ・ソレニムス-続

☆2016 ミサ・ソレニムス-続

  真珠湾攻撃から75年、安倍総理がアメリカのオバマ大統領とともにハワイの地・パールハーバーを訪れ、かつて攻撃した側と攻撃された側の国の首脳がそろって慰霊した。日本のマスメディアは「謝罪はせず」という見出しをあえて立てて、この慰霊の様子を報じた=写真=。5月にオバマ氏が広島を訪問したときと同じように、安倍総理も謝罪に関することは口にしなかった。では、日本の総理の真珠湾訪問は、アメリカ、日本の両国民にどのように映ったのだろうか。

  パールハーバーで「不戦の決意」を語った総理の演説は格調高かったのではないか。とくに最後の2フレーズだ。「私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。真珠の輝きに満ちたこの美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。そのための努力を私たちはこれからも惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに固く誓います。ありがとうございました。」

       「場の演出」の総合プロデューサーは誰か

      とくに練られていると感じた言葉は「パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを(will continue to remember Pearl Harbor as the symbol of reconciliation.)」の下りだ。アメリカ人にとって、「remember Pearl Harbor」は憎しみを喚起する言葉だ。そのフレーズをあえて使って、「remember Pearl Harbor as the symbol of reconciliation」としたことだ。

  これに対し、オバマ氏はこう応えた。「As nations, and as people, we cannot choose the history that we inherit. But we can choose what lessons to draw from it, and use those lessons to chart our own futures.Prime Minister Abe, I welcome you here in the spirit of friendship, as the people of Japan have always welcomed me. I hope that together, we send a message to the world that there is more to be won in peace than in war; that reconciliation carries more rewards than retribution.(国も、人間も、自分たちが受け継ぐ歴史を選ぶことはできません。でも、歴史から何を学ぶかは、選ぶことができます。安倍総理、私は友情に基づいて、あなたを歓迎します。日本国民が常に私を歓迎してくれてきたように。戦争ではなく、平和で勝ち得るものが多く、和解は報復よりも報われるというメッセージを、私たちが一緒に世界へ送りたいと願っています。)」

  双方の演説を読めば、今回の安倍総理の訪問は日本とアメリカの同盟関係をより強化するというコンセプトだったことが理解できる。オバマ氏の広島訪問のときもそうだった。両国のトップが互いに「シンボリックな場」を訪れ、献花し、慰霊した。「場の演出」とすれば、官邸やホワイトハウス、国会や上院などに比べれば、パールハーバーやヒロシマはより臨場感があり、同盟関係の強化を双方が強烈にアピールできた。そう理解すれば、「謝罪の言葉」はこの場にはそぐわない。

では一体誰がこのような「場の演出」を見事にプロデュースしたのか。これまでの経緯をたどると、総合プロデューサーはオバマ氏だ。演説は格調高かったが、安倍総理はオバマ氏の演出に乗った役者だった。では、トランプ次期大統領にはこのような「場の演出」ができるだろうか。トランプ氏にはそのセンスがどうもなさそうだ。

⇒29日(木)朝・金沢の天気     くもり

★2016 ミサ・ソレニムス~下

★2016 ミサ・ソレニムス~下

  最近、社会活動を行うNPOなど団体で「CSV」という言葉がよく用いられる。CSVCSV(Creating Shared Value)は共通価値の創造、略して「共創」とも言う。これまで、CSR (Corporate Social Responsibility)という言葉をよく耳にした。企業による社会貢献、あるいは企業の社会的責任だ。CSVは組織の枠を超えて、企業や地域、人々と新たな文化的なつながりや、道徳的な規範、政治的な価値共有などもこれに入るかもしれない。

   次なる世界史の序章が始まる

  このCSVを歴史的に、グローバルに展開してきたのはアメリカだったと言っても、それほど異論はないだろう。1862年9月、大統領のエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)を発して以来、自由と平等の共通価値の創造の先頭に立った。戦後、共産圏との対立軸を構築できたのは資本主義という価値ではなく、自由と平等の共通価値の創造だった。冷戦終結後も、その後も自由と平等の価値創造は、性、人種、信仰、移動とへと進んでいく。アメリカ社会では、こうした共通価値の創造を政治・社会における規範(ポリティカル・コレクトネス=Political Correctness)と呼んで、自由と平等に基づく文化的多様性を標榜してきた。

  ところが、ここに来てポリティカル・コレクトネスを標榜し、先頭に立ってきたアメリカの白人層は疲れてきた。そして「これは偽善ではないのか」と思うようになってきた。誰もが自由と平等で、それは誰かの犠牲に上に成り立っている偽善だ、と。アメリカ社会は薬物を社会にまき散らし治安を乱している不法移民に甘い顔をして彼らを事実上受け入ている。ポリティカル・コレクトネスに我々は圧迫されている、これは偽善だ、と。そのような声なき世論の盛り上がりのタイミングにトランプ氏が大統領選挙に向けて動き出し、そしてその座を勝ち取った。

  イギリスのEU離脱をはじめ、今回のトランプ勝利をひとくくりに「ポピュリズム(Populism)の嵐」と称する向きもある。ポピュリズムは、国民の情緒的支持を基盤として、政治指導者が国益優先の政策を進める、といった解釈がマスメディアなどではされる。果たしてこんな単純な意味づけでよいのだろうか。当初、マスメディアでは「トランプを支持したのは白人労働者だ」と。もっと広く、トランプ勝利を押し上げた「声なき声」があるのではないか。それは自由と平等の共創に疲れた白人インテリ層ではなかったのか。

  2017年、トランプ大統領が始動するとおそらく世界の秩序は次なるステージに入る。自由と平等の共創ではなく、価値の分断だ。アメリカ独自の価値判断がその基準だろう。次なる世界史の序章が始まる。

⇒27日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆2016 ミサ・ソレニムス~中

☆2016 ミサ・ソレニムス~中

  還暦を過ぎて、自分の至らなさにハッとすることが多々ある。過日寺が点在する金沢の東山界隈を歩いていると、山門の掲示板にあった「その人を憶(おも)いて、われは生き、その人を忘れてわれは迷う」という言葉が目に入った。仏教的な解釈は別として、人は若いころは諸先輩の言葉に耳を傾けていても、加齢とともに聞く耳を持たなくなり、我がままに迷走するものだと。これって自分のことではないか、と気がついて掲示板を振り返った・・・。

        熊本、そして伊勢志摩の旅で目にしたこと

今年訪れたプラベイトな旅先をいくつか振り返る。10月8、9日日、熊本を訪れた。地震から半年たった現状を見たいと。そして、現地では大変なことが起きていた。8日午前1時46分ごろ、阿蘇山の中岳で大噴火があった。このことを知ったのはJR「サンダーバード」車内の電光ニュース速報だった。熊本に着いて、タクシー運転手に「阿蘇山まで行って」と頼んだ。すると運転手は「ここから50㌔ほどですが、おそらく行っても、帰る時間は保障できない」と言う。聞けば、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号が4月の地震で寸断されていて、迂回路(片側1車線、13㌔)は慢性的な交通渋滞になっている。さらに、今回の噴火で渋滞に拍車がかかっている、という。プロの運転手にそこまで言われると、無理強いもできない。「それでは益城(ましき)町へ行ってほしい」と方針を変えたのだった。

  ともとも益城町へ行く予定だった。4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。今はほとんど報道されなくなったが、現状を見て愕然とした。新興住宅が建ち並ぶ中心部と、昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。実際に行ってみると街のあちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があちこちにあった。印象として復旧半ばなのだ。

  とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が。タクシー運転は「先日の新聞でも、公費による損壊家屋の解体はまだ2割程度しか進んでいないようですよ」と。そして農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てて「仮設住宅」で暮らしている農家もある。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がついた。

 噴火と震災のクマモト。言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進める、日本型の復興モデルになってほしいと心から願った。

  ゴールデンウイークの5月3日、伊勢志摩を訪れた。その月の26、27日に伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開催されるとあって、賢島(かしこじま)駅の周囲ではものものしい警備体制の様子だった。道路には随所に警察の警備車両が配置され、機動隊員が立っている。集落の細い道では自転車に乗って巡回している警察官も見えた。

  英虞湾を望む風景はまさに、人の営みと自然が織りなす里山里海の絶景だった。真珠やカキの養殖イカダが湾の入り組みに浮かぶ。昭和26年(1951)11月にこの地を訪れた当時の昭和天皇は「色づきし さるとりいばら そよごの実 目にうつくしき この賢島」と歌にされた。晩秋に赤く熟した実をつけたサルトリイバラ(ユリ科)とソヨゴ(モチノキ科)が英虞湾の空と海に映えて心を和ませたのだろう。昭和天皇はその後も4回この地を訪れている。歌碑は志摩観光ホテルの敷地にある。その少し離れた横に俳人・山口誓子の句碑もある。「高き屋に 志摩の横崎 雲の峯」。ホテルの屋上から湾を眺めた誓子は志摩半島かかる雲のパノラマの壮大な景色をそう詠んだ。志摩観光ホテルはサミット会場となった。各国首脳はこの景色を臨んで何を思ったのだろうか。

  鳥羽市にある相差(おおさつ)海女文化資料館を訪れた。海女たちがとったアワビを熨斗あわびに調製して、伊勢神宮に献上する御料鰒調製所がある。二千年の歴史があるといわれる。資料館では、石イカリがあった。平均50秒という海女さんの潜水時間を有効に使うため、速く深く潜るための道具である。石を抱いて海に潜った海女がアワビをとり、命綱をクイクイと引っ張ると、舟上の夫が綱をたぐり寄せて海女を引き上げる。セイマン(星形)とドウマン(網型)は海女が磯着に縫った魔除けのまじない。それほどに命がけの仕事でもあった。

  これだけの歴史と文化、潜水技術を有する伊勢志摩の海女のエリアだが、ユネスコは先月30日、韓国が申請した「済州の海女文化」を無形文化遺産に登録した。海女文化は日本と済州島にしかないとされ、日韓共同での登録を目指す動きもあったが、残念ながら日本側の申請作業が進まず、韓国の単独登録となってしまった。

⇒26日(月)夜・金沢の天気     くもり

★2016 ミサ・ソレニムス~上

★2016 ミサ・ソレニムス~上

  先の休日(天皇誕生日、23日)はちょっと優雅な一日だった。「宇野さん、いっしょに茶杓(ちゃしゃく)をつくりませんか」と誘ってくれた友人がいて、この日の午前中、茶杓づくりに初めて挑戦した。茶杓は茶道で使い、棗(なつめ)など茶器に入った抹茶を茶杓ですくって茶碗に入れる。還暦を過ぎてお茶を習い始めたと知った友人が竹細工のプロを紹介してくれたのだ。30年間乾燥させた竹をひたすら小刀で削って、サンドペーパーで磨く、最後に半ば乾燥した椋(ムクノキ)の葉で全体を磨く。3時間ほどかけて仕上げた。竹細工をしたのは、子どものころ竹とんぼをつくって以来だろうか。

  午後は石川県立音楽堂での「荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)」のコンサートに聴き入った。県内では、すっかり年末の恒例のイベントとして定着し、ことしで54回目。ことしはイタリアからソリスト(メゾソプラノ)を招き、例年になく雰囲気が盛り上がった感じだった。「キリエ (Kyrie)憐れみの讃歌」、「グロリア (Gloria)栄光の讃歌」、「クレド (Credo)信仰宣言」、「サンクトゥス (Sanctus)感謝の讃歌」、「アニュス・デイ (Agnus Dei)平和の讃歌」と演奏は進み、聴いているうちに高揚感が湧いてくる。茶杓づくりで味わった一点集中の充実感との相乗効果か、爽快感に満ちた一日だった。余勢を駆って、このブログでも年末恒例となった「ミサ・ソレニムス」と題して、この1年を回顧したい。

戦後71年「負の遺産」の清算、その現実はどうか

あす26日、安倍総理はハワイのパールハーバー(真珠湾)をオバマ大統領と訪れ慰霊する。このニュースに接した多くの日本人は、5月に被爆地・広島を訪れたオバマ氏への返礼の訪問と感じたのではないだろうか。オバマ氏とともに犠牲者を慰霊し、これが最後となる首脳会談も行うという。総理は「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという未来に向けた決意を示したい」と首相官邸で記者団に語っていた。謝罪ではなく、あくまでも未来志向なのだ。

  今月16日、総理とロシアのプーチン大統領との総理公邸での共同記者の様子をじっとテレビを通して見つめていた。北方四島での「共同経済活動」に耳目を傾けた。2人の首脳はそれぞれ、関係省庁に漁業、海面養殖、観光、医療、環境などの分野で協議を始めるよう指示し、実現に向け合意したと述べた。この「共同経済活動」が「平和条約締結」に向けた重要な一歩になると、安倍氏、プーチン氏それぞれが強調した。ロシアが実効支配している北方四島に共同経済活動を足がかりに日本が手をかけた、つまりフックをかけたということだろう。これまで手出しすらできなかった四島に影響を拡大できる可能性を手にしたようだ。

  ここで総理のことしの外交の特徴が一つ浮かんでくる。戦後71年目の「負の清算」だ。真珠湾攻撃、原爆投下、北方四島…。この重い負の歴史遺産をオバマ、プーチンの両氏を巻き込んで、未来志向へと転化したいとの思いがにじむ。ただ、現実はどうか。

  今月23日の国連総会の本会議で、核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」について、来年3月から交渉を始めるとの決議が賛成多数で採択された。核保有国のアメリカやロシアは反対。それに被爆国である日本も反対したのだ。核兵器の非人道性を訴える非保有国のリーダーとなるべきは日本ではないのだろうか。それが、なぜ反対なのか。アメリカの「核の傘」に入っている気がねがあるのならば、せめて棄権ではないのか。その説明が聴きたいものだ。

⇒25日(日)夜・金沢の天気     くもり

★庭での出来事

★庭での出来事

  庭に無数の穴を開け、ハチがブンブンと音をたてている=写真=。調べてみると、地面に穴を掘るハチのうち、黒くて細長い体つきをしているのがジガバチやアナバチの仲間。地下に巣を作るスズメバチは、少しズングリとした体型とある。やっかいなスズメバチかと思い、観察してみると体系はスリムなので、ジガバチやアナバチではないだろうか。

   この仲間は比較的大人しい種類が多いとされ、直接手でつかんだりしない限り刺される心配はない。現に飛び回る現場に分け入っても刺されなかった。たとえ刺されたとしても、ジガバチやアナバチの毒は攻撃用ではなく、幼虫のエサとなる虫を動けなくする麻酔薬程度なので、毒性は比較的弱いらしい。とはいえ、何かの拍子に刺されれば痛そうなので、ハチ駆除用のスプレーを購入して、プシュー、プシューと吹き付けた。

   数日してその場に行くと、ハチが数十匹固まりになって死んでいた。まるで団子にようなカタチをしていて、異様だった。ここからは推測だが、スプレーの駆除剤で死んだハチを仲間が食べに来た。すると、その死骸を食べたハチが死に、さらにそれを食べたハチが、というように何度か繰り返されたのではないか。駆除剤の効き目には驚いたが、その「死の連鎖」からポピュリズム(populism)という言葉を連想した。

   ポピュリズムを大衆迎合主義と解釈する向きもあるが、むしろ、民衆主義が当てはまるのではないだろうか。プロの政治家(政治エリート)や権力者が政策を立案して、国民を率いていくエリート主義と違って、民衆(有権者)の情緒的な支持を煽って、カリスマが民族主義的な政策を推し進める政治運動とも言える。

   ポピュリズムのシンボル的な事例として旧・ナチス政権がよく引用される。民衆に直接政策を問い、国民投票を何度も繰り返す。その結果として、とんでもない国家主義が醸成される。今回のイギリスのEU離脱もなんとなく、そんな匂いがする。テレビのインタビューで離脱支持者たちの「大英帝国の誇りが取り戻せる」「すべてを支配したがるEUにはうんざりだ」などの声が紹介されていて、ハッとした。こんな民衆の声はヨーロッパでは決して少数派ではないことが、今回イギリスが証明してくれたのではないか。次はひょっとしてアメリカなのか、などと。

   ところで団子のようになったハチの死骸からポピュリズムを連想した理由。ナチス政権がそうであったようにポピュリズムの末路は、民衆同士の憎しみによる死の連鎖だった。駆除剤をまいた本人が言うのも何か矛盾に満ちているが…。

⇒30日(木)午前・金沢の天気    くもり

☆ヤエドクダミの可憐な花

☆ヤエドクダミの可憐な花

   昨日(6月10日)金沢地方気象台がアジサイの開花宣言を出したとテレビニュースで報じられていた。我が家でいま咲き誇っているのはドクダミの花、それもヤエドクダミだ=写真=。

   ドクダミの花は普通、一重で十字の白い花のイメージだが、ヤエドクダミは八重の花が咲く。3年前にわざわざ植えたものだ。日陰が繁殖によいされ、塀に接する影の部分をその場所に選んだ。葉のカタチも独特な臭いも、一重のどくだみと同じ。ただ、ドクダミの一重の花は、真ん中の黄色い部分(これが本当の花)が目立つが、八重は全体が真っ白に見えてなんとも可憐な印象だ。

   じつは、八重咲きの白い花びらのように見えるのは「総苞片(そうほうべん)」と言って、花びらではない。総苞片というのは、花を抱く葉なのだ。苞葉とも言われている。我が家の庭には一重のドクダミも咲いているが、このところ毎日、このヤエドクダミを眺めては悦に入っている。

   ドクダミ、ネット検索で調べると「毒痛み」と漢字で書いてるものもある。その生命力と繁殖力には驚かされる。地下茎を伸ばし、地上に芽を出して群生する。裏庭にスギゴケを繁殖させよと草むしりをしているが、一重のドクダミが顔を出して、抜いても抜いても根気よく生えてくる。この生命力を見ていると、人はドクダミには勝てないなと思ってしまう。葉はハートのカタチをしていて、かわいくもあるが、独特の臭気がある。

   においのもとになっているのがデカノイル‐アセトアルデヒドという精油成分。これがペニシリンをしのぐといわれるほど強力な殺菌作用があるらしい。黄色ブドウ球菌や肺炎球菌、白癬菌などの細菌や、ある種のウイルスの活動を抑える力があり、傷口の止血や再生にも効果があるとされる。小さいころ、「擦り傷にはドクダミの葉をこすればよい」と言われた覚えがある。古くから民間治療薬として用いられてきた。最近では、抗カビや抗菌作用に、さらに独特の臭いは白アリなどにも予防剤としても使われているようだ。

   そういえば、金沢市内の居酒屋でドクダミの天ぷらを食べたことがある。マスターに「においが全然しないね」と問うと、一度高温でゆがくとにおいが抜けると話していたこと思い出した。

   花言葉を調べると、「白い追憶」「野生」とある。その生命力から「野生」、そして、ツンとくるにおいが忘れられないから「白い追憶」なのだろうか。

⇒11日(土)朝・金沢の天気   はれ

☆伊勢志摩の肝(きも)-続

☆伊勢志摩の肝(きも)-続

 伊勢志摩に来て、海女たちの存在感がとてつもなく大きいと初めて知った。海女は全国でおよそ2000人、そのうち志摩760人、鳥羽250人と半数を占める。それだけの数のプロが存在するということは生業(なりわい)として成立しているからだ。ちなみに能登半島・輪島の海女は200人だ。

   ジェンダーを超えるプロ意識、海女文化をユネスコ無形文化遺産に

  かつて鳥羽では真珠養殖にとって、海女はなくてはならない存在だった。海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れした貝を再び海底に戻す作業が仕事だった。赤潮の襲来や台風の時には、貝を安全な場所に移す作業に従事した。海女の潜水技術がなければ御木本幸吉の養殖真珠の成功はありえなかった。現在は養殖技術が発達し、海女の作業の必要性はなくなったが、ミキモト真珠島では伝統的な海女の潜水作業が1時間ごとに実演されている=写真=。単なるショーではなく、「真珠養殖の功労者」を記念するイベントとして紹介している。

 海女とアワビの関係も重要だ。海女がとったアワビは、伊勢神宮の御料鮑調整所(鳥羽市国崎)で熨斗あわびにとして調整され、神宮の祭礼に献上される。連綿と二千年の歴史を刻む。アワビが食材の最高級ブランドとして日本人の間で定着しているのも、食感もさることながら、この神饌としての歴史的価値が背景にあるのは言うまでもない。志摩観光ホテルの英虞湾を望むレストランで、フランス料理のメインデッシュとして「志摩産黒飽ステーキ」が堂々とテーブルに置かれる。

  数千年にわたってアワビを守り育て、生業(なりわい)の糧としてきた、海女たちのたゆまぬ営みが、国際的にも注目されている。海女文化を、ユネスコの無形文化遺産として登録を目指す動きだ。評価すべき点はこれまで述べたように「素潜り潜水という技術を身に着けた自立した女性の職業として後継者がいること」「女性の職業として数千年の歴史を刻み、日本の食文化と風習、神事に影響を与え、いまも寄与していること」「同じ海域で漁でありながら数千年も魚介を絶やさない資源管理の知恵」「自然と共生する海女たちが漁村というコミュニティの中心になっている」ことだろう。

  訪れた相差海女文化資料館、その近くの願掛け社「石神さん」で見かけた海女たちは声が大きく、笑い声が絶えず、体の動きが活き活きしていた。当地の海女言葉、「夫(とうと)ひとりを養えんで一人前の海女とは言えん」にジェンダーを超えて、人間としてのプロ意識や生きる力強さを感じる。海女の生業が数千年の歴史を刻む人類の職業モデルとして、ユネスコ無形文化遺産に登録され、国際的に顕彰されることを切に願う。

⇒6日(金)夜・金沢の天気    くもり

★伊勢志摩の肝(きも)-下

★伊勢志摩の肝(きも)-下

      今月26、27日に開催される伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)まであと21日。歓迎ムードは盛り上がっている。近鉄鳥羽駅前の広場では、「歓迎G7」の看板とともに、ベゴニアやマリーゴールドなど使って、赤や青、黄色など花の色分けでサミット参加国の国旗をあしらった花壇が設置されている。随分と工夫を重ねたディスプレイだと感心する。花でサミットの成功を祈念する地域の人たちの意気込みが伝わってくる。

 「歓迎G7」の心意気、この地はすでに国際的な観光地

  読売新聞社会面(5日付)によると、三重県の行政や企業やつくる「伊勢志摩サミット県民会議」が300人のボランティアを伊勢市で設置された国際メディアセンター(IMC)などに配置すると伝えている。各国から取材に訪れる新聞やテレビ、通信社の記者やカメラマンを道案内すると同時に、地域の観光や食文化など魅力も紹介する役目も担っている。300人のボランティアは1000人の応募から選ばれ、最高齢は82歳の元大学教授。この記事からは、伊勢志摩の魅力も併せて世界に情報発信したいと、地域ぐるみの意欲的な取り組みが感じられるのだ。

  首脳会合と各国首脳の宿泊場所は賢島にある志摩観光ホテル(クラシック、ベイスイート)が予定されているが、そのほかにもサミット議長の記者会見場、各国首脳の記者会見場、サミット事務局、各国事務局、各国随行員の宿泊場所、サブ・メディア・センター(記者の待機所など)などは志摩観光ホテル近くの別のホテルで分散して設けられる。

   主舞台の志摩観光ホテルからはおよそ20㌔離れた、伊勢市の県営サンアリーナに国際メディアセンターがある。野次馬根性で会場を見学してみたいと現地を訪れたが、入口で丁重に断わられた。確かにまだ工事中なので関係者以外の立ち入りは難しい。本館メインアリーナでは、テレビなど映像メディア向けのブースが120も準備される。サブアリーナでは記者の共用作業スペースとして800席の設ける準備が進んでいる。サンアリーナ南側では仮設の別館が設けられ、新聞や雑誌など国内メディアの記者たちの作業場となる。別館ではビュッフェ形式のダイニングスペースが設けられる。ざっと5000人のメディア関係者の参加が予想されている。伊勢志摩からどのようなニュースが世界に発信されるのか楽しみが増えた。

   2泊3日の伊勢志摩ツアーの最終日、近鉄鳥羽駅近くの「ミキモト真珠島」を訪ねた。橋で渡るこの島は、1893年に御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した島との説明があり、真珠博物館海や女の潜水作業の実演、ショッピンも楽しめる真珠のテーマパークになっている。パールショップでは、外国人観光客がショッピングを楽しんでいる光景があちこちに。施設や広場の看板を見渡すと、すべてが日本語と英語の表記、ガイドでもショッピングでも店員スタッフが英語で対応している。様子を見る限り、スタッフの対応は下から目線でも上から目線でもない。客と正面から向きあって、丁寧に商品説明をしている。

  ここで、はたと気づいた。冒頭のガイドボランティア300人の行動のお手本がここなのではないか、と。伊勢志摩の歴史と伝統、そして技術に育まれた名所や食文化を面と向かって丁寧に説明することが日本を理解してもらう「正道」で、海外の観光客に喜ばれるポイントだと地域の人たちは気付いている。その意味で、伊勢志摩、そして鳥羽を含めたこの一帯はすでに国際的な観光地なのだ。

   御木本幸吉記念館でこんなエピソードが紹介されている。1905年、それまで半円真珠の養殖だったが、真円真珠の養殖に成功。1919年、ロンドンの支店で真円真珠の販売を始めた。天然真珠より25%安い価格設定だったので、天然真珠の価値が下がることを恐れたヨーロッパの宝石商たちは養殖真珠は偽物だと訴訟を起こした。しかし、イギリスとフランスの研究者たちが天然と養殖ものに本質的な違いはないと証明する。これをきっかけに「ミキモトパール」が逆に信頼を得ることになり、その後ニューヨーク、パリと事業展開、養殖真珠が輝く日本の文化として世界に認知されるきっかけとなった。

 ⇒5日(木)午後・鳥羽の天気   はれ