⇒ドキュメント回廊

★2017 ミサ・ソレニムス~2

★2017 ミサ・ソレニムス~2

    ことし2017年の流行語大賞(主催・自由国民社)に「インスタ映え」「忖度」の2語が選ばれた。現代の世相を反映する一つの指標ではあるが、個人的には「AI」ではないかと思っている。人工知能、決して新しい言葉ではない。これまでも「第5世代コンピューター」などと称され、連想機能や推論機能などを持つコンピューターの開発が手掛けられた。その後、AIは長足の進歩を遂げ、最近ではAIという言葉を聞かない日はないくらいだ。

     ことし気になった言葉、それはAI=人工知能

    ことし3月、元Googleアメリカ本社副社長兼日本法人代表取締役の村上憲郎氏の講演を聴く機会に恵まれた。話の中でショックだったのは、人がこなしてきた仕事が近い将来、AIに取って代わられるかもしれないということだった。そのポイントが言語処理。「推論機構」という、複雑な前提条件からIf、Then、など言葉のルールを駆使して結論を推論するハードウエアの開発だ。村上氏が述べたAIに取って代わられるかもしれない仕事がたとえば、簿記の仕訳や弁護士の業務を補助するパラリーガルだという。

    AIと連動してIoT(Internet of Things)が進めば、物体(モノ)が通信機能を有し、インターネットに接続し相互に通信することで、自動認識や自動制御、遠隔計測なとどいったこれまになかったイノベーションが起きる。まさに産業革命が訪れると言われている。ビジネスアイデアをアプリケーションとして具体化することで新たな市場が次々と生まれている。かつて言語処理がテーマだったAIが、産業を動かす時代になってきた。

    村上氏の講演にはさらにショックを受けた。スマート・アイ(眼球)やスマート・イヤ(耳)に始まり、「BMI(Brain Machine Interface)もさらに進化するかもしれない」と。人の神経系統とデバイス(機材)の結合で、脳から機材に指令を出すことで、たとえば義手を動かすことができるようになる(スマート義手)。逆に脳にアプロ-チできるデバイスができるようになるかもしれない。他の臓器や肢体が機械に置換される身体の義体化=サイボーグ化が進むかもしれない。そして、「最後に残っていた脳ミソがAIに置き換わった時がアンドロイド(人間型の人工生命体)の誕生になる、との話だった。AIは実にリアリティのある、近未来を読み解くキーワードではないだろうか。

⇒26日(火)午後・金沢の天気   あめときどきあられ

    

☆2017 ミサ・ソレニムス~1

☆2017 ミサ・ソレニムス~1

   先日(23日)、年末恒例のベートーベン「荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)」のコンサートに出かけた。石川県音楽文化協会が昭和38年(1963)12月に年末公演を始めて開催して、今回は55回の記念公演。当初はベートーベンの「第九交響曲」のみだったが、第7回から別日で「荘厳ミサ曲」を入れて、年末公演は2回に分けて行っている。

     「金色の翼」は能登に何をメッセージとして発したのか

   記念公演と銘打った今回のコンサートでは、イタリアから指揮者とソリストを招いての力のこもった演奏会で、会場の県立音楽堂は1階と2階はほぼ満席の状態だった。午後2時の開演で、思わず身を乗り出したのは、「荘厳ミサ曲」の前で演奏された、歌劇「ナブッコ」より合唱曲「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」(ヴェルディ作曲)だった。

    つい、いっしょに歌いたくなるようなインスピレーションが働く。古代、バビロニア王ナブッコがユダヤの国に攻め込み、捕らえられ、強制労働を強いられるユダヤ人たちが故郷を想って歌う合唱曲なのだ。力強く、したたかに、希望を持って、そしてゆっくりと。

   この曲を聴いていて、イメージがことし9月から10月に能登半島・珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭で鑑賞したアローラ&カルサディージャ作「船首方位と航路」へとシフトしたのだ。船首に金色の大きなワシのような鳥が付いていて、風によってゆっくり動く彫刻=写真=。その動き方が、不安定な状態でありながらバランスをとりながら、風や重力で上下、左右にまるで「やじろべえ」のよう。その動きのテンポがこの曲とぴったりなのだ。

   そこで仮説を立てた。二人のアーチスト、アローラ&カルサディージャは作品を、この曲「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」をモチーフにして創ったのではないか、と。その堂々とした金色の鳥の姿は、能登半島の先端から何かを問いかけるようにして動く。アローラ&カルサディージャが作品に込めたメッセージと何だったのだろうか。

   歌詞にそのメッセージが込められているのではないかと想像をたくましくする。3節目の歌詞。Arpa d’or dei fatidici vati,(運命を予言する預言者の金色の竪琴よ、)、Perché muta dal salice pendi?( 何故黙っている、柳の木に掛けられたまま?)、Le memorie nel petto raccendi,(胸の中の思い出に再び火を点けてくれ)、Ci favella del tempo che fu!(過ぎ去った時を語ってくれ!)

   以下は勝手解釈だ。「能登半島の未来を担う皆さん、すばらしい自然が疲弊しているではないですか。海岸に行けば大量の漂着物、山を見上げれば立ち枯れとヤブ化した森林。なぜ黙っているのですか。自らの環境を守るために再び心の火をつけてほしい、よき能登半島の歴史、そして今、未来を語ってほしい」

   現在、二人はサンファン(プエルトリコ)を拠点に活動している。再び能登に来られたら、「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」の曲がモチ-フの作品なのか、と伺ってみたい。「あなたの単なる空想ですよ」と言われそうだが。

⇒25日(月)未明・金沢の天気    あめ

☆そこにブログがあるから

☆そこにブログがあるから

            ブログ「自在コラム」を元に構成した出版した『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)の帯封に書かれている「ニュースはいつも自分のなかにある」は出版社が考えたチャッチフレーズだが、まさに私が言いたいことのポイントだ。

    日常には多彩なニュースであふれていると思って、周囲を観察するとさまざなことが見えてくるのだ。それをニュースとしてブログにする。雪の日の朝のご近所さんとの会話から、街の除雪のルールや金沢人の季節感を描くことできる。庭に咲く花から、茶道の文化を語るきっかけになることもある。冬型の気圧配置が続いている日本海の荒波が押し寄せてる能登の海岸を眺めれば、国際ニュースにもなっている北朝鮮の木造漁船はさらに転覆軒数が増えるのではないかと不安がよぎる。それはまさに自分の中にあるニュースだ。

    私が大学のプログラムで通っている能登を眺めれば、少子高齢化や若者の農業・地方離れといった多くの地方が抱える問題がそのまま見えてくる。この問題は能登だけでなく東南アジアや欧米でも起こっているのだ。グローバルな課題が能登で見えるではないか。だったら、「課題先進国」ニッポンとして、世界に向けて問題解決へのアプローチをいち早く提案してもよい。その取り組みが実施にそこで行われているのだから。

    ところが、ニュースは新聞やテレビにお任せになっている。ニュースは視聴するものだ、読むものだという感覚に私たちは慣れ切ってしまっている。しかも、マスメディアは東京目線のニュースの価値付けに偏っている。東京にばかり目を向けず、しっかりと日常や地方にも目を向ける必要がある。もちろん、地方には新聞社もテレビもある。ニュースはマスメディアにお任せではなく、自分のニュースを発信しようという発想でなのだ。そこにブログがある。これを使わない手はない。

    話は少々くどくなるが、本作のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えることである。つまり、ブログのように文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。

    それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。ブログを書く作業は、他のSNS と違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもある。

⇒7日(木)夜・金沢の天気   くもり

 

★ブログを書籍化するきっかけ

★ブログを書籍化するきっかけ

    ブログ「自在コラム」を始めたのが2005年4月なので、丸12年になる。ことし2月に出版社から誘いを受けた。「近年は研究書の枠に収まらず、生活に役立つ実用書やドキュメンタリー風に仕上げた書籍もよく売れていて、そうしたお話しにご興味をお持ちでしたら…」とのことだった。メールでのやり取りだったので、3月に出版社(東京)に出向き編集者と面談して、ブログ論をテーマとすることにした。「自在コラム」は1000回を超えていて、その文章に込めた思いを書籍というカタチで表現してみたかったからだ。その後、コンセプトを巡るやり取り、ブログから原稿のチョイス(選択)、著書のタイトル、原稿の校正と10ヵ月を経て、きょう5日にようやく出版にこぎつけた。

   幻冬舎ルネッサンス新書『実装的ブログ論 日常的価値観を言語化する』。基本的にはここ4年間のブログの中から編集者が読んで面白いと思ってくれたものを原稿にした。自分としては1時間あれば読み切れるものにとの思いがあったので140ページにした。これは学生たちへのメッセージだと思っている。「日ごろ思っていること、感じていること、それを言葉にしてごらん、文章にしてごらん」と薦めたいのである。以下、前書きの抜粋。

                 ◇

   今日ほどインターネット上のソーシャルメディアが注目されている時代はないだろう。情報発信のツールとして認知され、政治家や芸能人、スポーツ選手がブログやSNS(Social Networking Service)のFacebook やTwitter で意見や近況を書きこむ、あるいは動画を掲載すると、それをマスメディア(新聞やテレビ、週刊誌など)が取り上げる。NHKや民放局、新聞社ではネット上からニュースのネタ(主に事件や事故)をリサーチする専門チームも編成されている。そんな時代だ。

   私自身がブログを書き始めたのは2005年4月、金沢大学に再就職したときだった。きっかけは、テレビ局時代から懇意にしていた秋田県の民放テレビ局の番組プロデューサーから、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、こちらも軽い乗りでブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから12年。ブログのアップロード回数も1160を超えた(2017年10月現在)。勧めてくれたプロデューサー氏はブログからミクシィ、Twitter、Facebook と乗り換えている。その意味では、どっぷり12年のブログ歴というのは確かに「はまった」のかもしれない。

   ブログはもともとウェブログ(Web Log)の略で、ウェブサイトにログ(記録)すること、つまり「書き溜め型」のソーシャルメディアであり、不特定多数のネットユーザーに情報発信をするものだ。これに対し、Facebook やTwitter などのSNSは人とのつながりをベースに会話するかのように使われるコミュニケーション型のソーシャルメディアだ。私はパソコンに向かって新聞記事を書くように、投稿した記事を積み上げている。まるで、炭焼き窯に向かう職人のように黙々と。仕上がりは充足感、いや自己満足かもしれない。SNSのような会話風の楽しみとは異なる喜びだ。社交的なプロデューサー氏がブログからSNSの世界に入ったのと対比すると、その分岐点は性格の違いにあったのかもしれない。

   では、12 年も地道にパソコンに向かって何を書き続けてきたのか。過去の心象にこだわって随筆風に書き溜めてきた訳ではない。日々のニュースを綴ってきたと説明した方が分かりやすいかもしれない。日常生活や職場である金沢大学での個人的なニュースから、政治や経済など世の中のニュース、紛争や外交など世界のニュースなど。要は自分がニュースだと感じたことをその都度、ブログで表現してきた。別の言い方をすれば、日頃の自らの感性や思考をニュースだと発想して、それを文字で表現した。さらに詰めて、「日常的価値観の言語化」と言ってよいだろう。

   最近、何年も前にアップロードした自らの記事が検索エンジンでヒットすることがある。書いたことすら忘れてしまっている記事がいきなり検索画面に表れてくると、「記事は生きている」と実感する。インターネットの普及期に読んだ、立花隆著『インターネットはグローバル・ブレイン』(1997)を思い起こす。著書名の通り、地球を生命体と見立てればインターネットは頭脳であり、私のブログサイトはその神経細胞の一つかもしれないというものだ。その細胞を活性化させることは、いかにして質の高い記事をアップロードし続けるかにある。ブログ=日常的価値観の言語化とは、パーソナル・ブレーンを生き生きとさせるツールでもあるのだ。

   私は、その自身のパーソナル・ブレーンを多くの人に共有してもらいたいという気持ちから、今回の出版を決めた。

⇒5日(火)夜・金沢の天気   あめ

★ベトナム「戦地」巡礼-下

★ベトナム「戦地」巡礼-下

           25日はサイゴン市内を巡った。気温30度で蒸し暑く、ハノイと比べるとサイゴンは北海道と九州くらいの気温差があるかもしれない。現地でバンをチャーターし、日本語が堪能な男性ガイドが案内してくれた。気になることがあった。ガイド氏は「サイゴンでは・・」「それはサイゴンの・・・」といった言い方をする。サイゴンはホーチミンと市名が変更されたはず。それがいまだに「サイゴン」なのだ。

         悲喜こもごもサイゴンでの捕虜生活

    あのベトナム戦争では、アメリカとサイゴン政権、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線が戦い、北ベトナムがアメリカを相手に世界史に残る戦争を繰り広げ、統一を果たした。サイゴンからホーチミンへの市の改名は1975年5月だった。40年余りもたって、まだサイゴンとは。ガイド氏の解説ではいくつか理由がある。

    一つは、読みの問題。ホーチミンはもともとベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホー・チ・ミン」(ホーチミン市)と言う。長いのだ。それに比べ「サイ・ゴン」は言いやすく、短い。2つめは、ハノイとサイゴンの文化などを語る際、ハノイの人は「サイゴン人は甘党だ」といった言い方をする。サイゴンの人は「ハノイ人は辛党だ」と返す。こうした文化比較の中では「ホーチミン人は・・・」などの言い方はしない。3つめが少々複雑だ。市場開放政策でサイゴンの経済は活気に満ちている。「もし、アメリカと組んだままだったらサイゴンはもっと発展していたに違いない」などと、ハノイとの経済比較で語られる。こういった語り合いの中では「カイフォ・ホー・チ・ミン」は出てこない。

            午前中、市内のラジオ局に向かった。街路樹の下のことろどころにニトベギクが黄色い花をつけている。父の部隊は敗戦の報をカンボジアとの国境の町、ロクニンで聞き、その後サイゴンで翌年5月まで捕虜生活を送った。捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりは「捕虜生活は意外と寛大で監視兵すらおらず、食事も大隊独自の自炊で、外出できる平常の兵営生活であった」(冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』)。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

    ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟で川の遊覧船に乗った=写真=。ゆったりとした川の流れ、川面を走る風が顔をなでるように心地よい。父の捕虜生活の様子が思い浮かぶ。

    1946年5月に日本への帰還が迫ったころ、事件が起きる。中隊の少尉ら3名が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した兵士たちに帰順を呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と諦めムードの中、5月2日にサイゴン港で帰還の船に乗り込んだ。乗船の際は、一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では「戦犯者」はいなかった。

    かつて父から聞いた話だが、別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。我々兄弟のベトナム巡礼の旅はこの港で締めくくった。当日夕方に飛行機でハイノに戻り、26日帰国の途に就いた。

    父は同月13日に鹿児島に上陸。ここで復員が完結し部隊は検疫を済ませた後に解散した。画才を磨こうと横浜の看板店に一時勤めたが、能登半島に戻り結婚。1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

⇒26日(日)午後・羽田空港の天気    はれ      

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

    先の大戦で父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。この中隊の戦友会が後にまとめた冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』(1979年作成)によると、日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランスと協定したインドシナでの平和進駐から一転、フランス軍の討伐を目指してサイゴンへと鉄道での移動が始まった。

      「革命烈士の墓」に眠る残留日本兵  

    途中、日本軍の南下の動きを察知したアメリカ軍機による空爆があり、ところどころ鉄橋などが破壊された。行軍と鉄路での移動を繰り返しながらサイゴンに到着。3月9日にはフランス軍兵舎に奇襲攻撃をかけた。逃げるフランス軍を追ってカンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦する。ところが、8月15日、終戦の詔勅をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

    このころから部隊を逃亡する兵士が続出した。その多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する同僚もいた、と『中隊誌』には記されている。

    24日午前、兄弟3人でハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」=写真=がある。ベトナム解放の戦死者が眠る。その中に日本人の墓があり、線香を手向けた。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人であると墓地の管理人の女性が案内してくれた。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。父がもしベトナムを訪れていたら、かつての同僚だった残留日本兵にどう思いを馳せただろうか。

    ここでベトナムの風習を体験した。墓地の近くには花や線香を売る商店があり、線香を買い求めると、長さ25㌢ほどもある長い線香が30本ほど束になっていた。ベトナムではお参りした墓の周辺の墓にも線香を手向けるの習慣だとドライバー氏が話してくれた。「ベトナムでは墓は亡くなった人が帰る家です。ご近所さんにご挨拶するのが当然でしょう」と。この論法は私にも理解ができ、なるほどと腑に落ちた。ベトナムは社会主義の国だが仏教が主流だ。そして、ベトナムで仏教を信仰する多くの人々は月2回(1日と15日)に精進料理を食べることも習慣となっているのだ、とか。

    午後にはハノイの南東で600年の歴史を刻む陶器の村、バットチャーンを訪ねた。1800度で焼きしめた個性的な形状と色使いに見入る。ベトナム陶器の本場だ。夕方、ハノイ空港からホーチミン市に移動した。

⇒24日(金)夜・ホーチミン市の天気   はれ

★ベトナム「戦地」巡礼-上

★ベトナム「戦地」巡礼-上

   きょう23日、ベトナム旅行に出かけた。午前11時10分のフライトで小松空港から羽田空港へ。国際線でハイノ行きのベトナム航空機に乗った。午後4時35分発のフライトで、ハイノイ到着までほぼ6時間。初めてのベトナム行きだ。

        巡礼の旅は「蓮の花」から始まる

    機内ではシートのモニターで映画を自由に見ることができた。リストを見て、ことし6月に封切りの映画『花戦さ(はないくさ)』があったので、機内サービスの赤ワインを片手に鑑賞した。物語は、京の花僧、池坊専好が時の覇者、織田信長のために花を生けに岐阜城に行くところから始まる。信長は専好の活けた松を気に入るが、その時、松の枝が重さに耐え切れず継ぎ目が折れるハプニングが。従者たちは信長の怒りを恐れて言葉を失うが、豊臣秀吉が「扇ひとつで松を落とすとは、神業」と機転で信長をたたえてその場を治める。狂言師の野村萬斎が主演で、その仕草や笑いの表情が時代劇にはそぐわない感じもするが、個性がにじんで面白い。

   クライマックスのシーンは、活けた松で秀吉の暴君ぶりを諭すところ。ここでも、松の枝が折れて、笑いでオチがつく。ところで、数多ある邦画の中でなぜベトナム航空で『花戦さ』が採用されたのか、その理由は何かと思いをめぐらしているうちにハイノに到着した。

   きょうの気温は最高でも14度、街にはジャンパー姿も目立った。ところで、空港でハノイの中国語表記は漢字で「河内」だ。日本では人名や地名でこの漢字に馴染みがあり、カワチと読んでしまう。ハノイに「河内」と表記されると、今一つピンと来ない。ハノイ空港から市内へのバスに乗った。市内に入りしばらくすると、夜中のバザールのようなにぎわっているところがあった。40代前半の男性ガイド氏は「あれは花市場ですよ。夜に花の市場が開かれるのです。ベトナム人は花が大好きです。そう、ベトナム航空のロゴマークは蓮(はす)の花をデザインしたものですよ」と得意げに話した。

   路上を見ると、女性や男性がバイクや軽トラックで次々と花の束を持ち込んで、とても活気がある。ピンと来た。映画『花戦さ』では、池坊専好が河原に捨てられている娘・れんを助けるストーリーがある。れんは言葉を発せず、部屋の片隅にうずくまっているが、蓮の開花とともに画才を発揮し、寺の襖(ふすま)に蓮の花を描く迫力のシーンは印象に残る。東映がこの映画を売り込んだのかどうか定かではないが、ベトナム航空が採用した理由はこのシーンにあるのだろう、と。

   蓮は日本では仏花を代表する花だ。ベトナムでも同様のステータスがある花だ。ところで、ベトナムに来た理由。ちょうど15年前、平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前、「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。兄弟3人が集い、そのベトナムへの想いをかなえようと父の遺影を持参して今回ベトナムを訪れた。われわれにとっては巡礼の旅でもある。

⇒23日(祝)夜・ハノイの天気    くもり

☆「うるさい」雪吊り

☆「うるさい」雪吊り

テレビと新聞の週間天気予報を見て少々焦った。金沢の天気が19日(日)は「雪マーク」が付いているのだ。北陸の住む者にとって、その焦りの原因は少なくとも2つある。まずは自家用車のノーマルタイヤからスノータイヤへの交換だ。積雪で路面がアイスバーン(凍結)状態になると交通事故のもとだ。もう一つ。これは少数派かもしれないが、庭木の雪吊りだ。北陸の雪はパウダースノーではなく、湿気を含んで重い。雪の重みで庭木の枝が折れたりする。金沢の兼六園では毎年11月1日に雪吊りを施し積雪に備える。

    我が家の場合、庭木の剪定も雪吊りも造園業者に依頼している。天気予想を見て、さっそく電話。13、14日の両日に職人が来てくれた。雪吊りの話を関東の友人たちと話をしていて、よく誤解されることがある。「長期予報で北陸が暖冬だったら、わざわざ雪吊りはしなくてよいのでは」と。確かにある意味で理にかなっているのだが、冬の現実はそう単純ではない。暖冬と予想されたとしても、一夜で大雪になることがある。記憶に残っているのが2007年2月の大雪。1月は金沢は「雪なし暖冬」で観測史上の新記録だった。ところが、2月1日からシンシンと雪が降り始め、市内で50㌢にもなった。冬将軍は突然やってくるのだ。

   毎年依頼している造園業者は雪吊りにかけてはなかなか「うるさい」(技が優れている)。雪吊りには木の種類や形状、枝ぶりによって実に11種もの技法がある。庭木に雪が積もりと、「雪圧」「雪倒」「雪折れ」「雪曲」と言って、樹木の形状によってさまざま雪害が起きる。樹木の姿を見てプロは「雪吊り」「雪棚」「雪囲い」の手法の判断をするようだ。毎年見慣れている雪吊りの光景だが、縄の結び方なども異なるようだ。

   雪吊りで有名なのは「りんご吊り」。我が家では五葉松などの高木に施されている=写真=。マツの木の横に孟宗竹の芯(しん)柱を立てて、柱の先頭から縄を17本たらして枝を吊る。パラソル状になっていることろが、アートなのだ。「りんご吊り」の名称については、金沢では江戸時代から実のなる木の一つとしてリンゴの木があった。果実がたわわに実ると枝が折れるのを補強するため同様な手法を用いたとかつて聞いたことがあるが、定かではない。

   低木に施される雪吊りが「竹又吊り」。ツツジの木に竹を3本、等間隔に立てて上部で結んだ縄を下げて吊る。庭職人の親方から聞いた話だ。秋ごろには庭木の枝葉を剪定してもらっているが、ベテランの職人は庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うという話だった。このために強く刈り込みを施すこともある。ゆるく刈り込みをすると、それだけ枝が不必要に伸び、雪害の要因にもなる。庭木本来の美しい形状を保つために、常に雪のことが配慮される。「うるさい」理由はどうやらここにあるようだ。

⇒15日(水)朝・金沢の天気  くもり時々はれ

☆秋の夜長、祭りに浸る

☆秋の夜長、祭りに浸る

   日本列島を過疎化という現象が覆っている。地方の「シャッター通り」や限界集落は珍しくないが、都会であってもシャッター通りはあちらこちらにあり、古びたマンションなどは窓ガラスなどが割れてまさに、崩れかけた空き家が点在する限界集落の様相だ。能登半島は過疎化の先進地域だが、祭りの日だけは賑わいが戻る。

    「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」。能登の集落を回っていてよく聞く言葉だ。能登の祭りは集落や、町内会での単位が多い。それだけ祭りに関わる密度が濃い。子どもたちが太鼓をたたき、鉦(かね)を鳴らす。大人やお年寄りが神輿やキリコ=写真=と呼ばれる大きな奉灯を担ぐ。まさに集落挙げて、町内会を挙げての祭りだ。

   2011年8月、輪島市のある集落から、金沢大学地域連携推進センターに所属する私にSOSが入った。「このままだと祭りの存続が危うくなる。学生さんたちのチカラを貸してほしい」と。当時地域連携コ-ディネーターをしていた私は事情を聴きに現地に足を運んだ。黒島地区という集落。ここで営まれる天領祭は江戸時代からの歴史がある。かつて、北前船で栄えた町で、幕府の天領地でもあったことから曳山は輪島塗に金箔銀箔を貼りつけた豪華さ、奴振り道中など、他の能登の祭りとは異なる都(みやこ)風な趣の祭りだ。

   SOSの電話をいただいた祭礼実行委員会の方と会って、話を聞くと行列の先導の旗を持つ「旗持ち」に女子学生10人、曳山の運行で方向転換など担う「舵棒取り」に男子学生10人のサポートが欲しいとの要望だった。他の大学の学生も含め20人余りが、8月17、18日の両日に営まれた天領祭に参加した。今年は40人余りの学生を連れて参加した。もともと、地元の高校生や帰省した若者らがその役回りを担っていたが、少子高齢化で担う人数そのものが減少しているのだ。

   ほぼ毎年参加しているが、頼まれ仕方なくではなく、学生たちには地域の伝統文化を実際に体験する、フィールドの学びとして貴重な教育プログラムにもなっている。こうした地域の祭り体験ができるプログラムは日本人学生だけではなく、海外からの留学生にとっても貴重な「日本体験」になっている。今年の天領祭で、インドネシアから修士課程で来ている女性は、見事な太鼓のバチさばきで地元のベテランから一目置かれる存在になった。

   能登だけではなく、多くの過疎地で祭礼の人手不足現象が起きていることは想像に難くない。それは危機的だ。一方で祭りが大好きな都会人や、日本で文化体験をしたいインバウンドは大勢いるはずだ。人手不足の祭礼と、参加したい人たちとのマッティングをどうビジネス化していくか、まさに課題解決型のビジネスだ。

   そうそう、私は能登半島の先端・珠洲市の方から、「ことしもお願いします」と依頼され学生たち6人を連れて、10月13日にキリコ祭りに行く。秋の夜長、どっぷりと祭りに浸る。

⇒30日(土)夜・金沢の天気    はれ

☆下田、ペリーと龍馬の残影

☆下田、ペリーと龍馬の残影

   10日、南伊豆町での研究フォーラムが終わり、「下賀茂熱帯植物園」というハウスで懇親会が開かれた。この施設では、下賀茂温泉の温泉熱を利用して、南国の果実など熱帯の植物が栽培されている。懇親会で勧められた日本酒が「身上起(しんしょうおこし)」という純米吟醸酒だった。町役場の職員の説明によると、明治の初めごろ南伊豆で栽培されていた「身上起」という品種のコメの種もみが宮城県に移出、品種改良されて「愛国米」という明治から昭和にかけて人気を博したブランド米になった。さらに、愛国米がその後のコシヒカリやササニシキといったブランド米になったのだという。

    南伊豆町では日本のコメ文化の発祥となった身上起を品種改良した愛国米を農家が栽培し、静岡県内の酒造メーカーが純米吟醸酒として製造している。職員は「コメが酒になって古里に凱旋したんです」とコップになみなみと注いでくれた。「身上起」の一升瓶をよく見ると、「龍馬にプレゼントしたかった酒」とのレッテルが貼ってあった。坂本龍馬と伊豆の関係が気になって、宿泊した民宿でネット検索を試みた。

    下田市にある宝福寺のホームページに記載があった。土佐藩の脱藩浪人となった龍馬は幕府軍艦奉行だった勝海舟と出会う。1863年(文久3年)1月、海舟が龍馬を船に乗せて大阪から江戸へ帰る途中、時化で下田港に入る。同じとき、土佐藩主の山内容堂が江戸から大阪に向かう途中で下田に立ち寄り、宝福寺に投宿していた。容堂から同寺に招かれた海舟は、容堂に龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けてほしいと懇願し許された、とある。このとき龍馬27歳、下田の別の場所でじっと「朗報」を待っていたと伝えられる。龍馬は晴れて自由の身になり、それからの活躍は目覚ましい。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後に「海援隊」)の設立、薩長同盟の斡旋など明治維新に影響を与える働きをすることになる。

  レッテルの「龍馬にプレゼントしたかった酒」の意味は、海舟と容堂との下田での偶然の出会いで大きなチャンスをつかんだ龍馬におめでとうと言いたいという意味が込められているのだろう。史実を知る地元ならではの時を超えたメッセージのようだ。

    容堂と海舟らが出入りしたであろう下田湾に行くと、「ペリー艦隊来航記念碑」があった。湾をバックにしたペリー提督の胸像が心象的だ=写真=。ペリーは幕府と1854年(嘉永7年)3月に日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田と函館の2港を開港させる。2か月後に下田に上陸してさらに細かな付加条約(下田条約)を結んだ。この条約を受けて、1856年(安政3年)に来日したアメリカの初代総領事ハリスが下田で総領事館を開設する。その11年後の1867年(慶応3年)に大政奉還があり、日本は明治という新たな時代に入る。

    下田は歴史が新たに鳴動する時代に人物が行き交った要衝の地だったに違いない。ペリーの胸像はそんな時代の残影のようにも思える。

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