⇒ドキュメント回廊

★漢方薬は消滅するのか

★漢方薬は消滅するのか

   金沢で開催された日本薬学会第138年会に合わせて市民講演会(3月25日)が開かれた。講演会のタイトルが衝撃的だった。「漢方薬 消滅の危機と国産化の試み」。「消滅の危機って、一体なんだ」、そんな思いで出かけた。

   漢方薬に造詣が深いわけでもなんでもない。ただ、漢方薬と言えば、その原料が植物や鉱物など天然物に由来する生薬から構成される医薬品ということぐらいは知っている。知り合いの研究者からはこんな話を聞いた。漢方薬の理論は古代中国の影響を受けていて、その原料の生薬には中国からの輸入品が多く含まれている。中国産は安価で供給量があるため、日本で生産可能な生薬ですら中国産に依存するようになっている。日本の医療に使用される生薬の実に8割は中国産、国産は1割でしかない。輸入が途絶えると日本の漢方薬の7割以上が消滅するとまで言われている。

   本来ならば国産化は急務なのだが、それがなかなか進まない。何がネックになっているのか、それが知りたかった。また、個人的にも若干の興味はあった。私の金沢住まいは旧町名が「地黄煎町(じおうせんまち)」だった。江戸時代から、ここでは漢方薬の地黄を煎じて飴状にして売られていた。飴といっても現代のいわゆる飴ではなく、地黄を圧搾して汁を絞り出し、湯の上で半減するまで煎じ詰める。滓(かす)を絞り去り、さらに水分を蒸発させ堅飴のようにして仕上げる。堅く固まるのでノミで削って食べたと親たちから聞いたことがある。滋養強壮や夏バテに効果があったようだ。ただ、高度成長とともに宅地化が進み、地黄煎町の町名も50年前に変更になった。近所にある「地黄八幡神社」=写真=という社名から当時の地域の生業(なりわい)をしのぶのみだ。

   話を市民講演会に戻す。金沢大学の佐々木陽平准教授(薬学系)は「漢方処方『四物湯(しもつとう)』の原料生薬を石川県で」と題して講演。江戸時代に金沢で薬草栽培が盛んだった事例として、「地黄煎町」を紹介した。しかし、それは過去のことで、4種類の生薬から構成される漢方薬「四物湯」の中で一番自給率が低いのは地黄でわずか0.6%にすぎない。自給率の低さの理由は経済的な問題、つまり、国内産よりも海外産が安価だからだ。。

その背景は製薬会社が儲けに入ってるからという意味合いではない。保険診療制の中では漢方薬原料生薬の薬価(医療品公定価格)が決まっていて、国内の生産コストが薬価を上回る場合だってある。こうなると製薬会社は安価な輸入品に頼らざるを得なくなるのだ。野菜の場合は生産コストに利益を上乗せできるが、薬草の場合は頭が決まっている分、それ相当のコスト削減策を講じなければ栽培経営は難しいようだ。佐々木氏は「この問題を解決するために、生薬に付加価値をつけることや非薬用部として未利用であった部分を有効活用するなど、生産者の採算面を考慮する必要がある」と訴えた。
 
  「身土不二」という言葉がある。その土地で育った人にとって、その土地で生産されたものが最良で、安全、安心という意味合いもある。生薬で身土不二を実現するのはそう簡単ではない。地黄煎町でなぜ地黄が栽培されなくなったのか、考えさせられた。

⇒8日(日)夜・金沢の天気   くもり       

☆賛美歌をうたう

☆賛美歌をうたう

    きのう(16日)高校時代の恩師が逝去され、葬儀に参列した。日本基督教団若草教会(金沢市)で営まれ、賛美歌「いつくしみ深い」など歌い、故人を偲んだ。心に残る感動深い葬儀だった。

   恩師は関丕(せき・ひろ)さん、享年86歳。7年前から循環器系の病気を患っていた。高校1年のときのクラス担任で英語の女性教師、カウンセリングでもよく相談に乗っていただいた。高校を卒業して20年後、テレビ局で番組づくりに携わっていたとき取材でインタビューする機会に恵まれた。1992年10月公開のアニメ映画『パッチンして!おばあちゃん』の原作者であり、そして主人公としてだった。

   関さんは、脳血栓で自宅療養中の母ヤスエさんと2人暮らしだった。母が発作で倒れ入院。教壇に立ちながら親の看護を続けた関さん自身も過労で倒れた。病院の事務員に関さんの教え子がいて、仲間や友人に呼びかけて、また関さんの友人たちも加わってヤスエさんの付き添いをするグループの輪ができた。

   ヤスエさんは視覚と聴覚を除いて全身が麻痺していた。介護を通じて、まばたきで「イエス」「ノー」のコミュニケーションで「会話」を交わすようになった。このまばたき会話のことをグループでは「パッチン」と称していた。ヤスエさんは熱心なクリスチャンだった。クリスマスの夜、キャンドルを持ったグループの人たちが集まった病室で、ヤスエさんは力をふり絞るようにして声を発した。それは「ありがとう」の「あ」という一語だった。関さんは母親の死後、その実話を単行本『光のなかの生と死』(朝日新聞社)として出版。その著書を読んで感動した、朝日新聞社の向平羑(むかひら・すすむ)氏が脚本を担当して映画化が進められた。

   まばたき以外にコミュニケーションの手立てがない寝たきりの母をめぐる関さん、そして周囲の人々との交流がリアルに描かれたアニメーションとなった。当時、親の介護と言えば子どもたちや親族が面倒をみるものという固定観念があった。それを覆すように、周囲の人々も支える介護のカタチとして描かれ、当時とても新鮮な感動を呼んだ。

   関さんは持病を抱えながらも英会話教室を主宰し、時には欧米に出向き、多様な人々とのコミュニケーションを何よりも大切にしていた。まっすぐに生き、教育に捧げた人生だった。「真理を行う者は光の方に乗る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネによる福音書)

⇒17日(土)夜・金沢の天気    はれ

★この冬の覚え書き

★この冬の覚え書き

     それにしても、3月中ごろになった今でもこの冬の豪雪が話題になる。「庭の雪がまだ融けないね」「雪で庭木の枝が折れたよ」「雪すかしで折れたスコップはどう処分すればいいのか」といった金沢に住む仲間たちとの会話だ。

     1月と2月に強烈な寒波が3回やってきた。交通インフラなどガタガタになった2月7日、石川県内の公立の小中高校では3分の2に当たる232校が休校となった。金沢大学でも全面休講となった。自宅前は通学路なのだが、子どもたちの姿はなく、代わって通勤の大人たちが通りに目立った。マイカーやバスは通勤に使えず、徒歩で急ぐ様子だった。11日は朝から市内で一斉の除雪活動が行われた。自宅前の道路は30㌢ほどの高さの氷のように堅くなった雪道となっていたので、ツルハシで雪道を砕いた。

    なにしろ自宅周辺でも一時積雪量が150㌢になった。この雪で、雪吊りを施してある庭の松の枝が一本折れた。先日(3月11日)造園業の職人さんに来てもらって、雪吊りを外すための打ち合せをした。「雪吊りの松の枝が折れるほど大雪は初めてだった」と話すと、職人さんは「まだいい方ですよ。幹が折れたお宅もありますよ」と。折れた木の伐採と植え替え、剪定など豪雪の後始末で植木職人はこの春とても忙しいようだ。

    雪すかしでスコップを酷使したせいか、この冬で計3本折れた。3本とも強化プラスチック製で耐久性があると思って購入したのだが、柄とスコップ面の結節個所がもろくも。先月8日にスコップを買いに日曜大工の量販店に行った。すると「除雪用品は完売しました」と貼り紙がしてあった=写真=。こちらは必要に追われて買い求めに来たのに「完売しました」とさもうれしそうな文面はいかがなものかと思いながら、店員に尋ねた。「で、入荷はいつなんですか」と。すると店員は「全国的に品切れ状態のようで、いつになるかメドが立っていません」とこれまたニコニコと。こちらは困っているのに、店員の顔の表情にTPO(Time、Place、Occasion)が感じられない。

    「完売しました」もそうだ。「品切れでご迷惑をおかけしております」ならば角は立たないのにと思いながら店を出た。4時間後、別の商品を買いに再びこの店を訪れたところ、スコップが入荷していて、人だかりになっていた。運よく1本購入できたが、「入荷のメドがないと言っていたではないか」と再び割り切れない気持ちで店を出た。

    北陸豪雪は、家屋倒壊やアイスバーンの道路での転覆事故が相次ぎ、乗用車1000台が連なるなど全国ニュースになった。経済にも影響を与えている。きのう12日、北陸財務局が発表した「北陸3県の法人企業景気予測調査」によると、1-3月の景況判断指数(BSI)が非製造業でマイナス11に大きくぶれた。物流の滞りや宿泊予約のキャンセルが相次いだことが要因で、豪雪の影響力をまざまざと見せつけられた。

    スコップ3本、松の枝1本を折って、個人的に冬は終わり。庭の雪解けもあと少し。三寒四温で春本番を待つ。

⇒13日(火)午前・金沢の天気     はれ        

★3・11 あれから7年

★3・11 あれから7年

  「3・11」、私はその時、大学で社会人向けの公開講座で講義をしていた。「東北にでかい地震が起きて、津波も来るらしい」と事務スタッフが講義室に入ってきて、耳打ちしてくれた。講義を中断して、受講生にその旨を伝えると騒然となった。講義を早めに切り上げた。自身も震災のことが気になって仕方がなかったからだ。

  その脳裏にあったのは前年(2010年8月)、「能登里山マイスター」養成プログラムの講義に能登に来ていただいた畠山重篤氏(気仙沼市)のことだった。講義のテーマは、「森は海の恋人運動」だった。畠山氏らカキの養殖業者は気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を1989年から20年余り続け、約5万本の広葉樹(40種類)を植えた。この川ではウナギの数が増え、ウナギが産卵する海になり、「豊饒な海が戻ってきた」と畠山氏はうれしそうに話していた。畠山氏らが心血を注いで再生に取り組んだ気仙沼の湾が「火の海」になった。心が痛む。畠山氏らの無事を願っていた。

  ちょうど2ヵ月後の5月11日から3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に取材した。震災から2ヵ月にあたりということで、各地で亡くなった人たちを弔う慰霊の行事が営まれていた。気仙沼市役所にほど近い公園では、大漁旗を掲げた慰霊祭があった。大漁旗は港町・気仙沼のシンボルといわれる。震災では漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていたものを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭に掲げられた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗旗は大空に映えた。

   その旗をよく見ると、「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった=写真=。おそらく、市民有志がこの大漁旗の持ち主と話し合いの上で「祈 大漁」としたのであろう。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。持ち主のそんな気持ちが伝わってきた。午後2時46分に黙とうが始まった。一瞬の静けさの中で、祈る人々のさまざま思いが交錯したに違いない。被災者ではない自分自身は周囲の様子を眺めそう思いやるしかなかった。

   公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。リアス式海岸の入り江であったため、勢いを増した津波が石油タンクを流し、数百トンものトロール漁船をも陸に押し上げた。以前見た関東大震災の写真とそっくりだ。「天変地異」という言葉が脳裏をよぎった。

   畠山氏とアポイントを取らずに出かけ、自宅を訪れると「さきほど東京に向かった」とのこと。行き違いになった。そこでアポをとっていただき、翌日12日朝、仙台駅から新幹線で東京駅に。八重洲ブックセンターで畠山氏と二男の耕氏と会った。畠山氏は津波で母を亡くされた。コーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられたのが印象的だった。

   あれから7年、この間能登に2度来ていだき講演や講義もしていただいた。先日(3月3日)のNHK-ETV特集「カキと森と長靴と」で畠山氏がモノローグで語るドキュメンタリー番組が放送された。海は自らの力で必ず回復すると信じて養殖再開に挑む姿がそこにあった。津波という災害をもたらした海、生業(なりわい)の再興をかける海。「海との和解」、そんな畠山氏の思いを語りから感じた。

⇒11日(日)午後・金沢の天気   くもり

★AI、ヤポネシア人、新幹線、ミンコフスキ

★AI、ヤポネシア人、新幹線、ミンコフスキ

   きょう(26日)一日の行動をキーワードで表現すれば、少々長ったらしいタイトルにあるように「AI、ヤポネシア人、メンデルスゾーン、新幹線」だった。行動範囲も広く金沢と東京の往復だった。

   午前9時46分、JR金沢駅から北陸新幹線「かがやき」に乗った。目指すは東京・品川にある日本マイクロソフト社。午後2時からの勉強会「AIと放送メディアの活用を考える」(主催・月刊ニューメディア)に参加するためだった。金沢大学での講義「マスメディアと現代を読み解く」「ジャーナリズム論」の科目を受け持っていて、AIとメディアのつながりの可能性について関心があり、参加を申し込んでいた。

   北陸新幹線での金沢駅から東京駅への所用時間は2時間28分。この時間を利用して、読みかけの本がカバンにあったので取り出した。『日本人の源流 核DNA解析でたどる』(斎藤成也著、河出書房新社)。著書は10年足らずの間に急速に蓄積してきた膨大な核ゲノム・データの解析結果を分析して、日本人のルーツを論じている。アフリカを出た人類の祖先はいかにして日本列島にたどりついたのか、縄文人や弥生人とは異なる集団が存在したのではないか、日本列島の民を「ヤポネシア人」と定義して、謎解きに挑んでいるのが面白い。

   午後0時20分、ぴったりに東京駅に着いた。品川の日本マイクロソフト社に向かう。品川駅の港南口を出ると同じようなビルが高層ビルが群立していて、とにかく場所が分かりにくい。近くの書店で店員に尋ね、「確か、向こうのビルです」と指刺された方向を歩く。オフィスはテレビや雑誌に取り上げられることも多く、TBSで放映された「安堂ロイド〜A.Ⅰ. Knows Love?〜」や「下町ロケット」で、企業オフィスシーンの撮影に使用されたことでも有名なのだが。

   午後2時00分、東京湾が一望できる31階で勉強会「AI(人工知能)と放送メディアの活用を考える」が始まった。東京大学大学院情報理工学系研究科 の山崎俊彦准教授が「AI研究と放送メディアへの応用」と題して講演が面白かった。番組(TV局、曜日、時間帯)、役者(俳優、女優)、スタッフ(原作、脚本、監督、主題歌など)、役者人気(検索、Twitter)などのデータをAIで解析すれば、放送前でも視聴率が予測できる時代なのだ。また、「AIジャーナリズム」を掲げて、SNSの画像をAIで解析してメディアに提供、さらに「AIアナウンサー」を提供している株式会社「Spectee」代表取締役の村上建治郎氏の話はとてもリアルだった=写真・上=。たき火と火災の写真の違いの判断、偽造写真をAIが分析する時代だ。そこで質問をした。「昨年正月にドイツのドルトムントでイスラム教徒の暴動で、教会に放火とのフェイクニュースが世界的に問題となった。フェイクニュースを摘発するAIを開発してはどうか」と。すると「実は、すでに着手・・」と話が広がった。

   午後5時24分、東京駅から北陸新幹線「かがやき」に乗った。読みかけの本『日本人の源流 核DNA解析でたどる』の続きを。「あとがき」の最後は「本書を、故埴原先生に捧げる」と締めくくられていた。もう40年余りも前の話だが、東京の学生時代に、人類学者の埴原和郎氏の研究室を訪ねたことを思い出した。いきなり「君は北陸の出身だね」と言われ、ドキリとしたものだ。その理由を尋ねると、「君の胴長短足は、体の重心が下に位置し雪上を歩くのに都合がよい。目が細いのはブリザード(地吹雪)から目を守っているのだ。耳が寝ているのもそのため。ちょっと長めの鼻は冷たい外気を暖め、内臓を守っている。君のルーツは典型的な北方系だね。北陸に多いタイプだよ」。ちょっと衝撃的な指摘だったものの、目からウロコが落ちる思いだったことを覚えている。

   午後7時58分、金沢駅に着いた。「あと7分しかない」と年甲斐もなく駅構内を走った。金沢駅前の県立音楽堂で開催されているマルク・ミンコフスキ氏指揮のクラシックコンサートを聴くためだ。ミンコフスキ氏は現在フランス国立ボルドー歌劇場の音楽監督だが、こし9月からオーケストラ・アサンブル金沢(OEK)の芸術監督に就くことなっている。指揮する姿をぜひ一度見たいとS席を購入していた。ただ、東京で勉強会もあるので、3曲目のメンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」が始まる午後8時15分までに音楽堂に入る予定だった。

   ところが番狂わせが起きた。当初は①序曲「フィンガルの洞窟」(11分)、②交響曲「スコットランド」(38分)、③交響曲「イタリア」(27分)だった。休憩は午後7時55分-8時15分だった。前日の25日になって①序曲「フィンガルの洞窟」(11分)、②交響曲「イタリア」(27分)、③交響曲「スコットランド」(38分)に順番が入れ替わったのだ。したがって休憩は午後7時45分―8時05分と10分前倒しとなった。この知らせをOEKスタッフの知人から聞いて慌てた。金沢駅到着7時58分、演奏8時05分、「あと7分」と走ったはこのためだった。

   結果的に休憩時間も後にずれたので間に合った。ミンコフスキ氏のタクトを十分に楽しませてもらった。ちょっと印象的だったのは、服装だった。これまでのOEK音楽監督の故・岩城宏之氏や井上道義氏を見てきたので、指揮者はタキシ-ドというイメージだったが、ミンコフスキ氏は体にぴったりのこげ茶色のディレクターズウエアだった。年齢は55歳、丸肩で肉付きがよく幅広タイプの体格。指揮する後ろ姿は、言葉はふさわしくないかも知れないが、クマが起ち上って体を左右上下に動かし、タクトを振っているようなイメージでとても「おちゃめ」な感じがしたのは自分だけだろうか。

⇒26日(月)夜・金沢の天気    はれ

★「松林図屏風」の心象風景

★「松林図屏風」の心象風景

   これはまるで長谷川等伯の「松林図屏風」だ。クロマツの林が朝もやに覆われ、松林がかすんで見える。等伯はこの能登の風景の印象を京都で描いたのだろうと想像をたくましくした。ここは能登半島の先端、珠洲市の鉢ヶ崎海岸。けさ(17日)ホテルの3階から見える風景だ。砂浜が広がり、クロマツが防風林の役目を担っている。ただ、この朝もやに包まれたクロマツの林を眺めていて、なんとなくもの寂しさを感じるのだ。あの世をとぼとぼと独りで歩いているような寂寥感だ。

   国宝・松林図屏風を初めて鑑賞したのは2005年5月、石川県立七尾美術館だった。等伯が生まれ育った地が七尾だ。もとともこの作品は東京国立博物館で所蔵されている。七尾美術館が会館10周年の記念イベントとして東京国立博物館側と交渉して実現した。当時、国宝が能登に来るということで長蛇の列だった。東京国立博物館は俗称「トウハク」、等伯と同じ語呂だと話題にもなっていた。

   美術館では、学芸員の解説が面白かったので記憶に残っている。能登国は718年に成立した。その国府が七尾に置かれ、以降、政治的なガバナンスの中心として経済、文化も栄えた。町衆の経済的豊かさや文化的素地が後に桃山美術の画聖と讃えられる若き等伯を育んだのだろうということだった。能登を中心に絵師として活躍した時代、その画才を見込んだ町衆が寺院に寄贈した等伯の作品が今も多く保存されている。

   1571年、等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻子を連れて上洛した。京都に入り、本延寺の本山・本法寺のお抱え絵師になり創作活動に磨きをかける。後に本法寺住職となった日通上人と交友を深め、そのつながりで千利休との知縁が広がる。当時の堺は商業都市で、多くの文化人たちが集った。茶の湯の拠点でもあり、茶室には中国などの優れた軸が掛けられていて、等伯も作品に直に接し学ぶことになったことは想像に難くない。

   しかし、等伯の絶頂期に長男久蔵26歳が没する。妻もすでに亡くなっており、能登から連れてきた2人が亡くなった、その寂寥感はいかばかりだったろうか。松林図屏風が描かれたのは久蔵を亡くした翌年1594年、等伯56歳のときの作品といわれる。強風に耐え細く立ちすくむ能登のクロマツ、当時の等伯が心を重ねたのはこの心象風景だったのだろうか。

⇒17日(土)朝・珠洲市の天気   くもり

★除雪ヨイトマケ

★除雪ヨイトマケ

   きょう11日は朝から町内一斉の除雪活動だった。市道なので除雪車は回ってこない。道路は30㌢ほどの高さの氷のように堅くなった雪道となっている。きのうからの雨で深い轍(わだち)があちこちにでき、そこに軽四の自動車などがはまって、動けなくなるケースが町内でも続出していた。デイケアなどの福祉車両も通るため、町内会では人海戦術で一斉除雪となった=写真・上=。

   問題はその雪の堅さだ。金属スコップで突いてもびくともしない。クワでも凍った箇所は割れない。そこで登場したのがツルハシ=写真・下=だ。先端を尖らせて左右に長く張り出した頭部が特徴。形状がツルの口ばしに似ているからそう名付けられたのだろう。鉄製で4、5㌔の重さはあるだろうか、これを振り上げて下に勢いよく降ろし、堅くなった雪道を砕く。もともと、ツルハシは堅い地盤やアスファルトを砕くために使われる。

   問題提起をする人がいた。「ツルハシを使ってもよいが、そのため道路がガタガタにならないのか」と。道路に直接打ち込めば、確かに道路が破損するかもしれないが、今回は凍った雪道を砕くことが目的なので、道路への打撃は少ないのではないか、ということで話がまとまる。

   ツルハシを誰が担当するのか。これを所有しているご近所さんは70歳を過ぎており、「ワタシにはちょっと重すぎる」と言われたので、私がツルハシを引き受けた。ツルハシは見たことはあるものの、作業は初めて。とにかくやってみた。大きく頭上に振り上げて降ろすときは全身を腰ごと下げる。すると、凍った雪がパカンと割れた。ブロックのサイズだが、きれいに割れた。周囲で見ていたご近所さんも「この人こんなことができるんだ」と言わんばかりにうなずいてくれた。うれしくなって2度目、今度はブロックが3つに割れた。「ひょっとしてオレにはツルハシの仕事は向いているのかしれない」と3度目。ご近所さんたちは割れた雪をスコップで、あるいは手で道路側面に積み上げていく。除雪作業のピッチが上がってきた。

   こちらも、ここまで来たら引けないので、どんどんとツルハシを振るう。「父ちゃんのためならエンヤコラ 母ちゃんのためならエンヤコラ もひとつおまけにエンヤコラ」。なんと『ヨイトマケの唄』を自ら声を出し歌っているではないか。「父ちゃんのためなら」でツルハシを上げ、「エンヤコラ」で一気に降ろす。ヨイトマケの唄はこの3節しか知らないので、それを繰り返している。歌うという意識はまったくなかったのだが、自然と口にしていたのが不思議だ。

    労働はリズム。そう思った。1時間30分ほどで片付いた。「おつかれさま」と一斉除雪は終わった。が、これで腰痛が出ないか、だんだん不安になってきた。

⇒11日(日)午後・金沢の天気  くもりときどきゆき

★木戸を開ければ、そこは南極

★木戸を開ければ、そこは南極

    きょう(9日)は雪降ろしのために屋根に上がった。天気予報ではあすは気温が10度まで上がり、午後からまとまった雨が降るという。雪国で生活する者の直感として不安感がよぎる。屋根に積もった大量の雪にさらに雨が降れば、どれだけの重さが家屋にのしかかってくることか、と。屋根の瓦には雪止めがしてあって、自然には落ちてこない。最近、隣人と交わす言葉も「(大雪に)家は耐えるかなと心配で」と。スコップで除雪し雪の重さの感覚を共有する者同士の会話ではある。

    1時間ほどだったが、屋根雪降ろしをして、今度は1階の土間に行く。土間の木戸がなかなか開かない。落とした雪が軒下に積み上がり、木戸を圧迫していているのだ。何とか木戸を開けると、背丈をはるか超える雪壁が迫っていた=写真・上=。2006年6月に、南極の昭和基地と金沢大学をテレビ電話で結んで、小中学生向けの「南極教室」を開催したことがある。そのときに、観測隊員が基地内の戸を開けると、雪が戸口に迫っていて、「一晩でこんなに雪が積もりました」と説明してくれたことが脳裏にあった。木戸を開けて、「南極や」と思わず声が出た。

    このままにしておくと、落雪の圧迫で木戸が壊れるかもしれない。そこで木戸と雪壁の間隔を30㌢ほど空ける除雪作業を行う。スコップで眼前の雪壁をブロック状に掘り出すのだ。木戸6枚分の幅を除雪するのにこれも1時間ほどかかった=写真・中=。除雪は楽しみや義務ではない。迫りくるダメージという、危機感との闘いなのだと改めて意識した。

    屋根に上がり、土間に降りての2時間の作業でひと休みした。昨年11月にベトナムで買い求めた「コピ・ルアク」のブレンドコーヒーを楽しんだ。コピ・ルアクはジャコウネコにコーヒーの実を食べさせ、フンからとった種子(豆)を乾燥させたものといわれる。湯気と同時にすえた動物の匂いが沸き上がる。これまで食後で楽しんでいたが、これが労働の後の休息で共感できる絶妙な風味であることに初めて気がついた。癒されるのだ。

    コーヒーを味わいながら、午後のNHKニュースを見た。政府関係省庁を集めた、記録的な大雪に関する警戒会議の模様が報じられていた。11日以降は冬型の気圧配置が強まって日本海側で再び大雪となる恐れがあり、小此木八郎防災担当大臣が「不要不急の外出を控え、やむをえず車で外出する場合にはタイヤチェーンを早めに装着するなど、改めて大雪への備えをお願いしたい」と呼びかけていた。タイヤチェーン以前に各家庭の車が雪に埋まって動かせない現実=写真・下=を直視してほしいものだと思った。この後、自宅ガレージ前の道路の除雪に1時間ほど費やした。

⇒9日(金)夜・金沢の天気   はれのちくもり

☆ホワイトアウトの屋根雪降ろし

☆ホワイトアウトの屋根雪降ろし

    この強烈な寒波で交通インフラなどガタガタになった。これに連鎖してきょう7日は石川県内の公立の小中高校は232校が休校となった。3校に2校が休校となった計算だ。金沢大学も昨日は途中休講、きょうは全面休講だ。いつもなら児童・生徒の声でにぎわう自宅近くの通学路も日曜日のように静かだった。ただ、8時ごろから通勤の大人たちが通りに目立った。マイカーやバスではなく徒歩で急ぐ様子だった。

    山間地よりむしろ平地に大雪が降る降雪パターンのことを「里雪型」というらしい。初めて聞く言葉だが、テレビなどで気象予報士が使っていた。こう雪が多いと、除雪にあたるブルドーザーなど重機のオペレーターには頭が下がる。深夜、早朝関係なく出動して交通インフラの復旧に奔走しているのだ。雪国の持続可能性とは閉ざされた生活空間でいかにじっと耐えて暮らすかではなく、自然の猛威にいかに柔軟に対応して生活インフラを速やかに復旧させるかだろう。

    我が家の屋根に積もった雪は70㌢ほどになっている。雪の重みでミシリ、ミシリとかすかな音が聞こえる。けさ7時半ごろ、晴れ間がのぞいたのでスコップを持って屋根に上がって雪下ろしをした。大屋根ではなく、2階の屋根だ。2006年1月にも屋根雪降ろしをしているので実に12年ぶりだ。屋根で怖いのは予期せぬ突風。平地ではそれほどではない風も、屋根に上がるとまともに受ける。2度ほどぐらついた。

    そして、屋根から下を眺めると、視界全体が真っ白になって空間と地面との見分けがつかない=写真=。まるでホワイトアウトの世界なのだ。屋根雪降ろしは1時間ほどで切り上げた。深入りすると屋根雪ごと下に滑り落ちることもあるからだ。

    それにしても、この大雪で強さを発揮しているのが、北陸新幹線だ。きょう始発から平常運転しているのだ。JR北陸線は終日での運転見合わせ。小松空港を発着する国内線のすべての便で欠航。国道8号線の車の立往生は福井県側では420台、石川県で1.5㌔の区間で100台が動けなくなっているとテレビニュースで報じられている。北陸新幹線は別格だ。

     もう一つ強さを発揮しているのが新聞配達だ。朝刊2紙を購読しているが6時までには配達されている。雨の日、雪の日、風の日、すべての自然の猛威に柔軟に対応しながら届けてくれる。重機のオペレーター同様、社会が持続可能であることを下支えしているのはこうしたプロフェッショナルな人たちなのだと改めて感じ入る。

⇒7日(水)午後・金沢の天気   ゆき

★強烈寒波JPCZ

★強烈寒波JPCZ

   きのうからの寒波は強烈だ。金沢でもきょう6日午後6時で70㌢を超える積雪となっている。金沢大学ではこの大雪のため、きょう2限目以降とあすの全ての講義がすべて休講となった。通学路となってる県道の除雪などが間に合わずバスなどが時間通りに動いていないからだ。公的な施設でも閉鎖されるところが多く、個人的にあす予定していた打ち合わせを後日に延期した。また、幹線道路でも凍結でアイスバーン状態になり、車同士の接触事故などが多発している。コンビニに入ると、「大雪のため商品の入荷が遅れ申し訳ありません」と貼り紙があり、パンや弁当、惣菜の商品棚がガランとしている。庭木がすっぽり雪に覆われ、雪吊りが施されていない樹木は枝折れになるだろう=写真=。

    気象庁のHPなどによると、西日本から北陸にかけての上空1500㍍付近に、氷点下12度以下という数年に1度の非常に強い寒気が流れ込んでいる影響で、発達した雪雲が流れ込んでいるようだ。シベリア東部に蓄積していた寒気が北西の強い季節風の影響で北陸など西日本の日本海側にかかり、居座り続けている。さらに朝鮮半島の北側で分かれた風が日本海でぶつかり、雪雲を流れ込ませる風が集まっていると。初めて目にした言葉だが、これを「JPCZ(Japan sea Polar air mass Convergence Zone)」=「日本海寒帯気団収束帯」と呼ぶそうだ。

    金沢市内の積雪70㌢は平成に入ってからでは平成13年の88㌢に次いで2番目に多い。今晩もしんしんと雪は降り続いていて、あすは平成13年の雪を超えそうだ。福井市では午後6時現在で129㌢となり、37年前の「五六豪雪」(昭和56年)以来の記録的な大雪になっていると、テレビの全国ニュースになっていた。大雪による車の立往生などで、福井県内の国道8号線は坂井市とあわら市の間およそ10㌔の区間で、乗用車やトラック1500台余りが動けない状態になっている。

    冒頭で述べたコンビニでの話。店員に「入荷のメドは立っているの」と尋ねると、「まったく立っていません」と。続けて「金沢市内のコンビニはどこもウチと同じですよ。それより何より、お客さんがとにかく大量買いされて行かれます」。確かに周囲の買い物客の中にはかご一杯に商品を入れている。大雪という危機感を察知すると食料をストックすることに人間の本能として走るのだろう。ガソリンスタンドでも車が列をついているのをみかけた。このJPCZが長引くとガソリンもストップするかもしれないと考えるのだろう。強烈寒波は人間の生存本能を揺さぶっている。

⇒6日(火)夜・金沢の天気    ゆき