⇒ドキュメント回廊

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

    きょう23日午後2時から石川県立音楽堂で、県音楽文化協会の年末公演が開催された。モーツアルトの「レイクエム」、年末を飾るのにふさわしいコンサートだった。昭和38年(1963)から続く恒例の年末コンサートはこれまで長らく、ベートーベンの「第九交響曲」と「荘厳ミサ曲」の2公演がセットだった。今回初めて「荘厳ミサ曲」から「レクイエム」に変更された。平成最後の年末公演を「レイクエム」で締める。練習も相当厳しいものがあったろうことは想像に難くない。公演では、イタリアの合唱団メンバーも加わり、35歳で亡くなったモーツアルトが最後に残した曲が感動的に演奏された。「レイクエム」を聴きながら、平成最後の1年を振り返る。

      日本海の「厄介な危険物」、来年はさらに混沌と

    日本海側で暮らす一人として、はやり北朝鮮と日本海、そして最近の韓国の動向が気にかかった1年だった。年初の1月10日朝、金沢市下安原海岸に北朝鮮の漁船が漂着し中から7人の遺体が見つかった。現場に足を運んだ。船の中には、ハングル文字で書かれた菓子袋などが散乱し、迷彩服もあった。ひょっとして軍人が乗っていたのではないかと勘ぐった。昨年から問題となっている北朝鮮の漂着船を現場で見るのは初めてだが、それにしても古い木造船だ。全長16㍍、幅3㍍ほど。このような船で日本海のイカの好漁場である大和堆(日本のEEZ内)に繰り出し、漁をする。しかし、冬の日本海は荒れやすい。命がけで、なぜそこまでしてイカ漁に固執する必要があったのだろうか。上からの命令だったのか。

      海上保安庁によると、ことし1年ですでに北朝鮮からとみられる木造船が漂着は201件、昨年の2倍。問題はこうした漂着船の解体処分や遺体の火葬をするのは自治体だ。石川県に漂着した木造船などの処分費用21件880万円(11月現在)。最終的に国が全額負担している。

   もっと厄介なのは北朝鮮の違法操業だ。スルメイカ漁は6月に解禁になり、多くの日本漁船が大和堆でのイカ釣り漁を開始する。日本漁船は釣り漁であるのに対し、北のイカ漁船は網漁だ。夜間に日本漁船が集魚灯をつけると、集魚灯の設備を持たない北の漁船が多数近寄ってきて網漁を行う。獲物を横取りするだけでなく、網が日本漁船のスクリューに絡むと事故になる危険性にさらされる。また、夜間では北の木造漁船はレーダーでも目視でも確認しにくいため、衝突の可能性が出てくる。衝突した場合、水難救助法によって北の乗組員を救助しなければならない。そうなればイカ漁どころではなくなる。だから、「厄介な危険物」にはあえて近寄らない。多くの日本漁船が好漁場である大和堆を避けるという現象が起きたのはこのためだ。

    さらに厄介なのは最近の韓国の動きだ。11月20日、大和堆付近で操業中の日本のイカ釣り漁船に対し、韓国の海洋警察庁の警備艦が「操業を止め、海域を移動するよう」と指示を出し、漁船に接近していた「事件」があった。日本の海上保安庁の巡視船が韓国の警備艇と漁船の間に割って入ることで、韓国の警備艇は現場海域を離れた。

    スルメイカは貴重な漁業資源だ。それを北朝鮮に荒らされ、さらに「日本漁船は海域を出ろ」という韓国。来年の日本海はさらに混沌としてくるのではないか。

⇒23日(日)夜・金沢の天気    あめ

★島崎藤村と「どぶろく」

★島崎藤村と「どぶろく」

   出張の帰りに北陸新幹線軽井沢駅で途中下車し、「しなの鉄道」に乗り換え、小諸市を巡った。晴れてはいたが寒風がふいていた。小諸駅の裏手にある「小諸城址 懐古園」を散策した。ダイナミックな野面石積みの石垣、樹齢500年のケヤキの大木など城址めぐりを楽しんだ。ただ、城の大手門と本丸の間に鉄道が敷設されているので、城址公園の遺産がまるで分断されたようになっていて、「もったいない」と感じたのは私だけだろうか。

   懐古園にある「藤村記念館」に入った。平屋の小さな民家のような建物なのだが、設計者は東宮御所や帝国劇場を手掛けた建築家、谷口吉郎(1904-1979)だった。パンフレットによると、島崎藤村が小諸にやってきたのは明治32年(1899)のこと。牧師として藤村に洗礼を施した木村熊二に招かれて私塾の教員として小諸にやってきた。ここで過ごした6年余の間に創作活動を広げ、『雲』『千曲川のスケッチ』、そして『破戒』を起稿した。記念館には藤村の小諸時代を中心とした作品や資料、遺品が展示されている。

   館内は写真撮影は不可なのだが、一枚の写真のみ「撮影可」となっているものがあった。浅間山、小諸の街並み、そして千曲川が流れる大判サイズの写真で、『千曲川旅情の歌』と藤村の写真を配置している=写真=。確か中学時代に覚えた『千曲川旅情の歌』の始まりは今でも記憶にある。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」。出だしは覚えているのだが、実は最後まで目を通したことは記憶に薄い。歌詞が長い。改めて最後まで目を通すと、歌詞は「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて草枕しばし慰む」で締めている。このとき、「藤村はどぶろく大好きだったのか」と想像をたくましくした。どぶろくは蒸した酒米に麹と水を混ぜ、熟成させた酒。ろ過はしないため白く濁り、昔から「濁り酒」とも呼ばれていた。どぶろくは簡単に造ることはできるが、明治の酒税法によって、自家での醸造酒の製造を禁止され、現在でも一般家庭では法律上造れない。

   歌詞にあえて「濁り酒」を入れるとは好物だったのではないかと想像するが、と言うことは、藤村自身も家庭で醸造していたのか。酒税法によって自家での醸造酒の製造を禁止されたのは明治32年(1899)。藤村が小諸にやって来た年である。この歌が作品として発表されたのは同34年(1901)の『落梅集』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションでこの著作物を開いてみると、巻頭言の次の2ページと3ページに「小諸なる古城のほとり」のタイトルで掲載されている。藤村にとって相当の自信作だったに違いない。

           当時法律の周知には数年かかったろうと想像すると、この歌をつくったころはまだ、どぶろくを自由に造れ、存分に飲めたのだろう。しかし、日露戦争が明治37年(1904)に起き、戦費調達のために税の締め付けがきつくなり、「濁り酒」は本格的に御法度となっていったのではないだろうか。

⇒16日(日)午前・金沢の天気   くもり

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

   寺社の庭園で清掃ボランティアをして、その後、茶会に臨む。4日に金沢市山の上町にある浄土宗心蓮社でそのような催しが開かれ、参加した。ボランティアとしてではなく、茶会のバックヤードでのスタッフとしての参加だった。

   このイベントは金沢市などが主催する「東アジア文化都市2018金沢」の中の「金沢みらい茶会」の一つ。みらい茶会では「トラディショナル(伝統)」と「コンテンポラリー(現在)」の2つをテーマに茶の湯の文化を味わうという、ある意味で野心的な試みでもある。

   「ボランティア茶会」を企画したのは国連大学IAS研究員のフアン・パストール・イヴァールス氏。日本の建築と庭園が専門で、研究のかたわら茶道をたしむ。フアン氏は金沢の寺社などで研究を進める中であることに気づいた。市内には庭園が数多くあるものの、所有者の高齢化などによって、あるいは経費的に維持管理ができない状態に陥っているケースが目立つことだった。心蓮社も住職が兼務で、庭園になかなか手が回らない状態だった。2年前にフアン氏が同社の庭園を訪れ、ボランティアによる清掃を住職に提案。その後、学生や知り合いの外国人仲間を誘って清掃のボランティア活動を続けている。

      同社の庭園は「築山池泉式」と呼ばれる江戸時代に造られた書院庭園。湧水の池は「心」をかたどり、池のきわにはタブの巨木がそびえる。市指定名勝でもある。今回午前と午後に分けて30人余りのボランティアが参加。サンショウウオが住む池の周囲で落ち葉を拾い集めたり、草刈りなどを行った。参加したボランティアのほどんどが女性。東京や大阪などから観光で訪れ偶然イベントを知って参加した人たちや、フアン氏の活動を支援する外国人も。また、趣味で寺巡りをしている女性、テラジョ(寺女)と呼ばれる人たちもいてなかなかにぎやか。2時間ほどの作業で、庭園が清められた=写真・上=。

  その後、書院での茶会に。床の間には「壺中日月長」の掛け軸。秋明菊など種の季節の花が彩りを添える=写真・下=。参加者は薄茶を味わいながら、書院から清められた庭園を眺める。寺社の庭で清掃ボランティア、そして茶会という2つのステージは参加者にとって2度心が洗われ満足度も高かったのではないだろうか。

   私の仕事は「点(たて)出し」。 茶の湯で薄茶を客の前でたてるのは正客と次客の2人。3人目の客からはあからじめ、「点出しでさせていただきます」とことわってから、水屋でたてたお茶を運ぶ。お湯に入れて茶碗を温め、薄茶の粉を茶碗に入れて、茶筅(ちゃせん)をスクリューにように回してたてる。それを半東(はんとう)役が客に運ぶ。

   庭園の清掃ボランティアと茶の湯という小さな空間だが、それはそれで歴史的な背景もあり、人の作法や人生観、人と自然のかかわりが時空として深く広がる。掛け軸の壺中日月長(こちゅうじつげつながし)という禅語はこの一日のことを筆一行に凝縮しているように思えた。

⇒6日(火)夜・金沢の天気     くもり

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

   能登が生んだ相撲界のトップは2人いる。第6代横綱、阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)と第54代横綱の輪島大士(わじま・ひろし)だ。2人の生きた時代はまったく違うが、幼いころからエピソードはよく聞いた。ことし5月に2人の顕彰碑を訪ねる機会があった。

   阿武松の顕彰碑は生まれ故郷の能登町七見にある。富山湾を臨む海辺に、高さ4.5メ㍍、幅2.4㍍の石碑だ。町の案内板によると、碑は昭和12年(1937)に建立され、相撲力士碑としては日本一の大きさと説明がある。文政11年(1828)に横綱に昇進、天保6年(1835)の引退までの在位15場所の通算成績は230勝48敗だった。ちょっと癖もあったようだ。立合いでよく「待った」をかけた。良く言えば慎重派だったのだろう。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし…」と阿武松の取り組みを引用したほどだった。

   阿武松が引退して、145年後再び能登生まれが横綱に駆け上った。輪島だ。七尾市石崎町の出身。阿武松の故郷とは直線距離にして30㌔ほどだろうか。同じく海辺の町だ。ちなみに現役の遠藤聖大(えんどう・しょうた)は2人の中間地点の穴水町中居の生まれ。

   輪島は金沢高校1年のときに国体で優勝して地元石川で名をはせた。日本大学へ進み、2年連続の学生横綱、そして花籠部屋へ入門した。当時、学生横綱がプロの世界に入るのは異例だった。1973年に横綱に昇進したが、本名で通した。これも異例だった。ただ当時、能登半島の観光ブームの起爆剤になった。輪島は「輪島の朝市」や「輪島の千枚田」を連想させ、生誕地に接する和倉温泉のにぎわいに貢献した。77年に歌手・石川さゆりの『能登半島』がヒットし、能登ブームはピークに達した。

   左下手を取ると力を発揮する特異な取り口は「黄金の左」と呼ばれ、ライバルの横綱・北の湖とともに「輪湖時代」の全盛期を築いた。81年春場所で引退、通算成績は673勝234敗だった。その後、花籠部屋を継承したが、金銭トラブルなどで日本相撲協会を退職。プロレスラーに転向し、ジャイアント馬場の門下に。その後も輪島の話題は地元でよく聞いた。出身地の石崎奉燈祭(8月)では、帰省してキリコを担いでいる写真が地元紙で掲載されたこともあった。一方、仕事に困って和倉温泉の旅館で下足番をしているのを見たなどと噂話も。これも「有名税」なのだろう。

   その輪島がきのう8日逝去したと報じられた。70歳だった。阿武松の顕彰碑に匹敵する石碑が生まれ故郷の石崎町、市立能登香島中学の後方に建っている。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    あめ

☆たかが茶会、されど茶会

☆たかが茶会、されど茶会

    きょう(8日)台風一過の晴天。そして文化の秋、真っ只中でもある。知人に誘われ、茶会に出かけた。自身も大人のたしなみを心得たいと思い、茶道の稽古を月2回のペースで積んでいるが、何しろ「六十の手習い」で習っては忘れるの繰り返しではある。

    茶会の名称は「金沢城・兼六園大茶会」、石川県茶道協会や地元の新聞社などの主催。8流派13社中が点前を披露する、まさに大茶会だ。この茶会の特徴は、陶芸や漆芸、木工などの人間国宝から若手作家までの新作道具を使用することが条件となっている。点前もさることながら工芸作家の新作も楽しみな茶会だ。

    午前中、国の登録有形文化財の武家屋敷「松風閣」=写真・上=で遠州流の点前を披露する茶席についた。多数の客がいる「大寄せの茶会」でそれぞれの流派の点前を拝見すると流派の特徴がよく分かる。遠州流は大名茶人で知られた小堀遠州を祖としていて、武家茶道の代表でもある。遠州流では、袱紗(ふくさ)は右腰につけ、私が習っている表千家流では左腰につける。同じ社中の人から、武家茶道では左腰は刀を指す場所なので、反対側の右側に袱紗をつけるのだと聞いたことがある。「なるほど」と思ったのだが、遠州流を習っている別の知人に聞くとそうではないらしい。千家流(表千家、裏千家、武者小路千家)を広めたとされる千宗旦(利休の孫)は左利きだったので、左腰に袱紗をつけるのが千家の流儀になったのだと。念を入れて、遠州流のホームページをチェックすると確かに同様のことが記載させれていた。はやり、人物の利き手の違いなのだろうか。

    茶席の床を拝見する。床の掛軸は『一山行尽一山青』。亭主が解説してくれた。禅語で、「一山行き尽くせば一山青し」。何とか山を登りきったと思えば、 また登らねばならぬ青々とした山が見えてくる、人生は是れ修行なり、と。武家茶道らしい、人生を山にたとえたダイナミックさ、そして実にストイックな一行である。

   掛軸の下の季の花に心が打たれた。花入は遠州が好んだといわれる瓢型の『砂張瓢花入』(魚住為楽作)。砂張(さはり)は、銅と錫(すず)を主成分に亜鉛銀、鉛を少量含ませた銅合金の一種。黒く重そうな質感が床の空間をぐっと締めている。季の花は、浜菊(はまぎく)の華やかな姿、上臈杜鵑(じょうろうほととぎす)」は黄色い花、赤い光沢の実をつけた梅擬(うめもどき)で彩られていた。上臈杜鵑の葉先に目をやると、虫食いになっている。秋の自然の情景を際立たせている。華やかさの後に控える「枯れ」の現実。諸行無常のたとえが心によぎる。許しを得て、写真を一枚撮らせてもらった=写真・下=。

   茶席は「わび・さび」「もてなし」の心に自然の美しさと豊かさを加えて、客観的な美を空間に創り上げる総合芸術だと思う。最近は生物文化多様性という表現で日本の茶道を紹介することもある。たかが茶会、されど茶会。その空間には実に深みがある。

⇒8日(祝)夜・金沢の天気    はれ

★華厳の滝で尋ねたこと

★華厳の滝で尋ねたこと

    日光では華厳の滝も見学した。鬼怒川支流の大谷(だいや)川を渡って、「第二いろは坂」(国道120号)の上り坂を走行する。ヘアピンカーブの連続はスリルと同時に妙なふらつき感も伴う。

    そうこうしながら華厳の滝に。「華厳滝エレベーター」で100㍍下の展望台まで行くことにした。エレベーターの料金は1人550円。受付入口でこの値段を聞いて引き返すインバウンド観光のカップルもいた。パンフによると、エレベーターは岩盤をくりぬき1930年に造られたとある。2基のエレベーターには改札口があり、車掌の姿をした係員もいる。民間会社が経営しているが、おそらく上下を移動する交通機関という位置づけなのだろう。30人乗りで60秒の移動だ。

    エレベーターを降り、スロープと階段を下り展望台に行く。少々霧がかかっていたが、高さ97㍍を一気に落下する壮大な景観は、まさに自然の造形美だ。爆音とともに水しぶきが弾ける豪快な姿。滝のことを「瀑布(ばくふ)」と称することもある。高所から白い布を垂らしたような。まさにその景観=写真=には圧倒された。展望台は小学生の修学旅行と思われる児童たちが滝をバックに記念撮影をしていた。腕章に「富」と書かれてあったので、「どこの小学校なの」と男子児童に尋ねると、「神奈川県の・・市立富士見小学校です」と即答があった。さらに「富士山を毎日のように見ることができて、そしてきょうは華厳の滝、いい修学旅行だね」とさらに言葉をかけると、「富士山はきれいで眺めるだけですが、ここは音に迫力があって、とても心に残ると思います」と。理解しやすく無駄のない言葉使いだった。

   30分ほど滝の迫力を楽しんで、エレベーターに戻った。車掌に尋ねた。「展望台まではスロープと階段がありますが、車椅子の障害者が展望台に行きたいと希望した場合、介助や支援はされているのですか」と。すると「そこまでやっていません」と。「介助なしですか」と確認すると、「そうなんです。民間ですから」と。エレベーターの案内入口では車椅子の見学者には地下ではなく地上の展望台を案内しているようだ。私見だが、上から眺める滝より、下から見上げる滝の方が、先の小学生の言葉通り、音響が得られる分、臨場感がまるで違う。

   会社が人手不足などで車椅子の障害者を介助する常駐スタッフまでは確保できないとすれば、「550円のエレベーター料金は無料にしますので、お客さんの中で車椅子の介助を手伝っていただける方を募集します」と場内アナウンスで呼びかけてもよいのではないか。先に引き返したインバウンドのカップルは手を挙げるかもしれない。そんなことを思いながら華厳の滝を後にした。戦場ヶ原(標高1400㍍)はうっすらと草紅葉(くさもみじ)が色づいていた。

⇒28日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆日光東照宮で見たこと

☆日光東照宮で見たこと

     東京へ行くついでに足を延ばして、日光を訪れた。北陸新幹線の大宮駅で下りて、東武線に乗り換えて日光駅へ。駅前でレンターカーを借りて日光東照宮と華厳の滝などをめぐった。実は日光は初めて。「三猿」や「眠り猫」はよく知られているが、ぜひこの目で見てみたいと思い立った。

   駅から参道の坂道を走行すると、「ゆば料理」の店が看板があちらこちらに見えてくる。日光東照宮の表門に到着し、外に出ると小雨ということもあって少々肌寒い。小さな案内板があった。「ここは標高634㍍ 東京スカイツリーと同じ高さです」と。平地に比べ寒いわけだ。30㍍はあるだろう杉の大木に圧倒されながら、表門に行く。

   表門の入口に拝観受付所(料金所)があった。霊験あらたかな気持ちで受付所に行くと、待っていたのは「Suica(スイカ)」の自動拝観券売機だった。交通系電子マネー決済システムでありがたく拝観券をいただく。そう言えば、レンタカーの窓口の従業員が言っていた。昨年、日光東照宮の国宝「陽明門」の4年の大修理が完了したので、参拝客やインバウンド観光の客で随分増えた、と。確かに、Suica販売機は現金を入れない分、人のさばきが速い。また、英語や中国語、韓国語にも対応している。「さすが、ユスネスコの世界遺産」と感心しながら表門をくぐった。

    「神厩舎(しんきゅう)」と呼ばれる神馬の厩(うまや)が左側に見えてきた。「見ざる・言わざる・聞かざる」三猿の木彫がある建物だ。正面と側面合わせて8面の彫刻があり、男性ガイド氏の「悪いことは見ない、言わない、聞かないという、親から子どもへの躾(しつけ)教育を表しているといわれています」との説明に聴き入る。

    厳かできらびやかな「陽明門」をくぐる。極彩色で精緻な彫刻の数々。門の内側の天井には狩野探幽が描いた「昇り龍」と「降龍」が。徳川三代将軍・家光が家康を神格化するために大改造を行ったとされる。高さ11m、幅約mの門にどれだけの江戸の建築の技、工芸、そして美術の粋が凝縮されていることか、圧倒的な存在感がある。

    唐門から本社を仰ぎ、右に回って「眠り猫」=写真・上=がいる坂下門へ。家康公の眠る墓所に通じる門に刻まれている、あの有名な体を丸めて寝ている猫。門をぐぐって振り向くと、眠り猫の裏側に当たる木彫は二羽の雀(すずめ)が躍っている姿だ。作者は左甚五郎。この二つの作品から読み取れる意図は「共存共栄の世界」かと想像した。戦乱の世をかいくぐって天下を治めた初代の威厳を借りて、三代目は泰平の世の願いを東照宮の大改造に込めた。もし、三代目の発想が眠り猫の作成に反映されているとすれば、武家諸法度や参勤交代などもろもろの制度による泰平の世を構築することが、まさに眠り猫と雀の共存共栄ではなかったか。

    墓所がある奥宮までの階段207段を上った。石坂と石段、石垣=写真・下=が続く。日光の山奥までこれら石をどのように運んだのか。普請した大名たちの嘆き節が聞こえてきそうだ。

⇒27日(木)夜・金沢の天気     くもり

☆歩きスマホと二宮金次郎

☆歩きスマホと二宮金次郎

   「みなさんはご存知ですか。二宮金次郎の像は高さが1㍍ということを」。先日、学生たちと能登半島の珠洲市をインターンシップで訪れた。元小学校の跡地に建てられた保育所は数年で閉鎖され、昨年開催された奥能登国際芸術祭の作品(塩田千春作『時を運ぶ船』)の展示会場として活用されている。会場の入口付近に小学校の名残をとどめる二宮金次郎像がある。冒頭の言葉は、地域を案内いただいた地元の方の説明だった。この方は中学校の元校長で教育に詳しい。

    学生たちは「知らなかった、そんな1㍍という決まりはなぜあるのですか」と質問した。すると元校長氏は「私も詳しくは分かりません。ただ、一説に昔の尺貫法からメートル法に変わる時に、子どもたちが1㍍はどのくらいか判断できるようにと工夫されて造られたようです」と。あの薪(まき)を背負って歩きながら本を読んでいる金次郎像は、貧しい環境にありながらも自己実現に向かって勉学に励むモデルではなかったのか。それが、メートル法の周知のために造られたのか、意外だった。確かに2、3㍍の大きな金次郎像は見たことがない。統一されたサイズかもしれない。

   長さに尺(しゃく)、質量に貫(かん)を用いた日本固有の単位系が
メートル法へとシフトしたのは、明治8年(1875)に明治政府が度量衡制度を設け、メートル条約を締結したのが始まりとされる。独自の経済圏で栄えた鎖国だったが、1853年にアメリカのペリー提督が「黒船」で交易を求めて横浜・浦賀沖に来航した。外国の圧倒的な技術力や軍事力を見せつけられ、開国へ進む。西欧の技術力を導入するためにメートル法による度量衡制度が必要だった。そのメートル法が一般に普及し、尺貫法が法律上で廃止されたは昭和34年(1959)だった。金次郎像はその間に普及したのだろうか。

   学生からさらに質問が出た。「いまはメートル法が当たり前なので、二宮金次郎像は過去の遺物と解釈していいですね」と。この質問に対して他の学生から意見が出た。「薪を背負う子どもが読書しながら歩く姿は戦時中の教育といった感じで、いまの子どもたちは薪すら何なのか理解できない。でも、小学校に寄付してくださった方の気持ちを『過去の遺物』と簡単に決めつけてよいのでしょうか」と。別の学生は「歩いてマンガ本を読むのは転ぶから危険だよと小さいころに親から言われた。校庭にいたので、親が二宮金次郎の像を指さしていた。歩きスマホは危険と反面教師として金次郎像を活用すればどうでしょうか」と。このコメントは笑いを誘った。

   すると元校長氏は「珠洲市と姉妹提携を結んでいるブラジルのペロタス市から教育関係者が学校を訪れた折に、二宮金次郎の像を見て、知的な少年像ですね、教育熱心な日本のシンボルですね、と言われました。このようなモチーフの像は世界はないそうです」と。二宮金次郎像をめぐる会話はここで終わり。

   時間にして5分もなかったが、世代を超えた共通価値としての二宮金次郎像はそれなりに話題を提供してくれる。スマホと本を両手で掲げて未来を向く、そんな現代版金次郎像があってもよいのかもしれない。

⇒21日(火)夜・金沢の天気    はれ(猛暑日)

★塩田村と塩田さん

★塩田村と塩田さん

    盆休みを利用してゆっくりと能登めぐりを楽しんだ。海の幸と山の幸の物々交換がルーツとされ、千年の歴史を有する輪島朝市。1個1万2千円の「蒸しアワビ」(120㌘)を思い切って買った。別の店では1個700円のカラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)を「2個ください」と言うと、おばあさんが「3個でおまけ」と差し出したので手に取ると、すかさず「100円おまけで2000円」と請求された。2個買ったので1個はおまけだと受け取ったのに、「100円まけるから3個買って」という意味だった。朝市という場を少々甘く勘違いしたのかもしれない。かなり高齢に見えたが、言葉の手練手管には舌を巻いて買ってしまった。

    次に向かった輪島の白米千枚田は駐車場が満杯だったので、車中から横目で見ながら珠洲市の塩田村(えんでんむら)に車を走らせた。「揚げ浜式塩田」と呼ばれ、400年の伝統を受け継いでいる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になれば水門を閉める(入り浜式塩田)。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる(揚げ浜式塩田)。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。

    今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ=塩づくりに携わる人)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩は量産に限度がある。条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だ。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続ける。機械化のモノづくりに慣れた現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働の姿でもある。

    この塩田での作業を見て芸術作品を創ったのが、ドイツ・ベルリン在住の現代美術家、塩田千春(しおた・ちはる)氏だった。昨年(2017)珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品を創作するために珠洲を訪れた塩田さんは、400年続く揚げ浜式塩田が日本で唯一残る当地に、自分のルーツにつながるインスピレーション(ひらめき)を感じて迷わず創作活動に入ったという。作品名は『時を運ぶ船』。戦時中、ある塩士が軍から塩づくりを命じられ、出征を免れた。戦争で多くの友が命を落とし、塩士は「命ある限り塩田を守る」と決意する。戦後、塩士はたった一人となったが伝統の製塩技法を守り抜き、その後の塩田復興に大きく貢献した。作品名はこの歴史秘話から名付けられた。

    塩田作品が今も展示されている旧・清水保育所に行く。舟から噴き出すように赤いアクリルの毛糸が網状に張り巡らされた室内空間。赤い毛糸は毛細血管のようにも見え、まるで母体の子宮の中の胎盤のようでもある。しばらく「胎盤」の中に身を置いてみる。一つ一つに心血を注いでモノづくりをする。一日一日を丁寧に暮らす。それが人として生きるということなのだ、と作品を眺めているうちに目頭が熱くなってきた。

    現代文明は脆(もろ)い。市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、塩田村で目にした塩士たちの姿は生命力にあふれている。

⇒15日(水)朝・金沢の天気    はれ

☆「点数主義エリート」の限界か

☆「点数主義エリート」の限界か

    昨日(9日)自家用車の運転中に参院決算委員会の模様をNHKラジオの中継で聞いていた。森友学園への国有地売却問題をめぐり、地中から出たごみの撤去について財務省側が昨年2月に森友学園側へ口裏合わせを求めていたことを理財局長が認め陳謝すると、質問した自民党の議員が「バカか、本当に」と大声を上げた。国会で「バカ」という言葉を実際に聞いたのはこれが初めてではないだろうか。昭和28年(1953年)の衆議院予算委員会で、当時の吉田総理が社会党の議員との質疑応答中に「バカヤロー」と発言したことがきっかけで解散にいたった、いわゆる「バカヤロー解散」は日本の政治史に残る。以来「バカ」は国会でタブーになっていたと思っていたのだが、どっこい生きていた。

   議員の「バカ」発言に別の感情を抱いた。「財務官僚にとってはショックな言葉だろう」と。財務省のようなエリート官僚たちは、点数主義の入試を突破して東京大学などに入学、さらに国家公務員試験の合格を目指し黙々と励んできた。断わっておくが点数主義の入試は透明性と公平性がある選抜システムともいえる。それを勝ち抜いてきただけにプライドは人一倍高いだろう。財務省の隠ぺい体質に浴びせられた「バカ」発言で財務官僚たちのプライドはひどく傷ついたのではないか。

    以下は考察だ。点数主義を勝ち抜いてきた人たちの同質性というのは、官僚機構や大企業にある「日本型組織の特性」ではないだろうか。こうした組織中では「空気を読む」「空気を察知する」「忖度する」、そして価値観を統一して突き進む。プロセスでは、異質性や多様性といった価値観が排除される傾向にある。森友学園問題の忖度などは詰まるところは、この日本型組織の特性によるものではないだろうか。

    点数主義によるエリートの選抜は限界に来ているのではないだろうか。アメリカのプリンストン大学の学生らが石川県に滞在して日本語と日本の文化について学ぶ「PII(Princeton in Ishikawa)」プログラムの講義を行ったことがある(2013年6月)。学生はプリンストンやハーバードなど16大学の50人、それに日本人学生65人も加わり、彼らを前に世界農業遺産(GIAHS)の講義(90分)を行った。テーマは「Noto’s Satoyama Satoumi ~Omnibus consideration ~」。

     プリンストンの女子学生から以下の質問があった。輪島の海女漁を持続可能な漁業を説明したことに対して、彼女は「なぜ女性が海に潜り漁をするのか、女性虐待ではないか」と。「いや、海女たちは権利として漁を行っている」と追加説明すると納得した。ハーバードの男子学生は「日本も交渉に参加するTPP(Trans-Pacific Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)では、能登の農林漁業にどのような影響が考えられるのか」と。この質問には以下のように返答した。GIAHSサイトの農業のほとんどは小規模農業、家族経営であり、その意味では生産効率の高いアメリカやオーストラリアの大規模農業とは農業形態がまったく異なる。しかし、GIAHSでは価格競争力ではなく、付加価値の高いブランド農産品を目指していて、たとえば能登の稲作では「能登米」「能登棚田米」としてブランド化を図っている。TPPのような農産品のグローバル取引の到来がむしろGIAHSの評価を押し上げていくのではないだろうか、と。

     日本人学生から質問がなかったことは残念だったが、プリンストンやハーバードの学生たちの数々の質問にはこちらも楽しませてもらった。「面白い質問をする学生たちをそろえている」、そんな印象を持った。実は、プリンストンやハーバードは点数もさることながら、面接を重視する選抜制度を採用している。入試ではエッセイ(作文)、推薦状2通、SAT®(アメリカの全国共通テスト)、そして面接が選抜の要件。とても手の込んだ入試制度だ。少なくとも、点数主義のエリートを育てる土壌ではない。その理念は多様な社会のリーダーを育てるということだ。「新たな知識の扉を開き、その知見を学生と共有し、学生の知性・人間性いずれにおいても最大限の可能性を引き出し、やがて学生をして社会に貢献する」(The Mission of Harvard Collegeより訳)。社会へ貢献は多様だ。だから、多様な人材をそろえる、大学の使命として理にかなっている。

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