⇒ドキュメント回廊

★木戸を開ければ、そこは南極

★木戸を開ければ、そこは南極

    きょう(9日)は雪降ろしのために屋根に上がった。天気予報ではあすは気温が10度まで上がり、午後からまとまった雨が降るという。雪国で生活する者の直感として不安感がよぎる。屋根に積もった大量の雪にさらに雨が降れば、どれだけの重さが家屋にのしかかってくることか、と。屋根の瓦には雪止めがしてあって、自然には落ちてこない。最近、隣人と交わす言葉も「(大雪に)家は耐えるかなと心配で」と。スコップで除雪し雪の重さの感覚を共有する者同士の会話ではある。

    1時間ほどだったが、屋根雪降ろしをして、今度は1階の土間に行く。土間の木戸がなかなか開かない。落とした雪が軒下に積み上がり、木戸を圧迫していているのだ。何とか木戸を開けると、背丈をはるか超える雪壁が迫っていた=写真・上=。2006年6月に、南極の昭和基地と金沢大学をテレビ電話で結んで、小中学生向けの「南極教室」を開催したことがある。そのときに、観測隊員が基地内の戸を開けると、雪が戸口に迫っていて、「一晩でこんなに雪が積もりました」と説明してくれたことが脳裏にあった。木戸を開けて、「南極や」と思わず声が出た。

    このままにしておくと、落雪の圧迫で木戸が壊れるかもしれない。そこで木戸と雪壁の間隔を30㌢ほど空ける除雪作業を行う。スコップで眼前の雪壁をブロック状に掘り出すのだ。木戸6枚分の幅を除雪するのにこれも1時間ほどかかった=写真・中=。除雪は楽しみや義務ではない。迫りくるダメージという、危機感との闘いなのだと改めて意識した。

    屋根に上がり、土間に降りての2時間の作業でひと休みした。昨年11月にベトナムで買い求めた「コピ・ルアク」のブレンドコーヒーを楽しんだ。コピ・ルアクはジャコウネコにコーヒーの実を食べさせ、フンからとった種子(豆)を乾燥させたものといわれる。湯気と同時にすえた動物の匂いが沸き上がる。これまで食後で楽しんでいたが、これが労働の後の休息で共感できる絶妙な風味であることに初めて気がついた。癒されるのだ。

    コーヒーを味わいながら、午後のNHKニュースを見た。政府関係省庁を集めた、記録的な大雪に関する警戒会議の模様が報じられていた。11日以降は冬型の気圧配置が強まって日本海側で再び大雪となる恐れがあり、小此木八郎防災担当大臣が「不要不急の外出を控え、やむをえず車で外出する場合にはタイヤチェーンを早めに装着するなど、改めて大雪への備えをお願いしたい」と呼びかけていた。タイヤチェーン以前に各家庭の車が雪に埋まって動かせない現実=写真・下=を直視してほしいものだと思った。この後、自宅ガレージ前の道路の除雪に1時間ほど費やした。

⇒9日(金)夜・金沢の天気   はれのちくもり

☆ホワイトアウトの屋根雪降ろし

☆ホワイトアウトの屋根雪降ろし

    この強烈な寒波で交通インフラなどガタガタになった。これに連鎖してきょう7日は石川県内の公立の小中高校は232校が休校となった。3校に2校が休校となった計算だ。金沢大学も昨日は途中休講、きょうは全面休講だ。いつもなら児童・生徒の声でにぎわう自宅近くの通学路も日曜日のように静かだった。ただ、8時ごろから通勤の大人たちが通りに目立った。マイカーやバスではなく徒歩で急ぐ様子だった。

    山間地よりむしろ平地に大雪が降る降雪パターンのことを「里雪型」というらしい。初めて聞く言葉だが、テレビなどで気象予報士が使っていた。こう雪が多いと、除雪にあたるブルドーザーなど重機のオペレーターには頭が下がる。深夜、早朝関係なく出動して交通インフラの復旧に奔走しているのだ。雪国の持続可能性とは閉ざされた生活空間でいかにじっと耐えて暮らすかではなく、自然の猛威にいかに柔軟に対応して生活インフラを速やかに復旧させるかだろう。

    我が家の屋根に積もった雪は70㌢ほどになっている。雪の重みでミシリ、ミシリとかすかな音が聞こえる。けさ7時半ごろ、晴れ間がのぞいたのでスコップを持って屋根に上がって雪下ろしをした。大屋根ではなく、2階の屋根だ。2006年1月にも屋根雪降ろしをしているので実に12年ぶりだ。屋根で怖いのは予期せぬ突風。平地ではそれほどではない風も、屋根に上がるとまともに受ける。2度ほどぐらついた。

    そして、屋根から下を眺めると、視界全体が真っ白になって空間と地面との見分けがつかない=写真=。まるでホワイトアウトの世界なのだ。屋根雪降ろしは1時間ほどで切り上げた。深入りすると屋根雪ごと下に滑り落ちることもあるからだ。

    それにしても、この大雪で強さを発揮しているのが、北陸新幹線だ。きょう始発から平常運転しているのだ。JR北陸線は終日での運転見合わせ。小松空港を発着する国内線のすべての便で欠航。国道8号線の車の立往生は福井県側では420台、石川県で1.5㌔の区間で100台が動けなくなっているとテレビニュースで報じられている。北陸新幹線は別格だ。

     もう一つ強さを発揮しているのが新聞配達だ。朝刊2紙を購読しているが6時までには配達されている。雨の日、雪の日、風の日、すべての自然の猛威に柔軟に対応しながら届けてくれる。重機のオペレーター同様、社会が持続可能であることを下支えしているのはこうしたプロフェッショナルな人たちなのだと改めて感じ入る。

⇒7日(水)午後・金沢の天気   ゆき

★強烈寒波JPCZ

★強烈寒波JPCZ

   きのうからの寒波は強烈だ。金沢でもきょう6日午後6時で70㌢を超える積雪となっている。金沢大学ではこの大雪のため、きょう2限目以降とあすの全ての講義がすべて休講となった。通学路となってる県道の除雪などが間に合わずバスなどが時間通りに動いていないからだ。公的な施設でも閉鎖されるところが多く、個人的にあす予定していた打ち合わせを後日に延期した。また、幹線道路でも凍結でアイスバーン状態になり、車同士の接触事故などが多発している。コンビニに入ると、「大雪のため商品の入荷が遅れ申し訳ありません」と貼り紙があり、パンや弁当、惣菜の商品棚がガランとしている。庭木がすっぽり雪に覆われ、雪吊りが施されていない樹木は枝折れになるだろう=写真=。

    気象庁のHPなどによると、西日本から北陸にかけての上空1500㍍付近に、氷点下12度以下という数年に1度の非常に強い寒気が流れ込んでいる影響で、発達した雪雲が流れ込んでいるようだ。シベリア東部に蓄積していた寒気が北西の強い季節風の影響で北陸など西日本の日本海側にかかり、居座り続けている。さらに朝鮮半島の北側で分かれた風が日本海でぶつかり、雪雲を流れ込ませる風が集まっていると。初めて目にした言葉だが、これを「JPCZ(Japan sea Polar air mass Convergence Zone)」=「日本海寒帯気団収束帯」と呼ぶそうだ。

    金沢市内の積雪70㌢は平成に入ってからでは平成13年の88㌢に次いで2番目に多い。今晩もしんしんと雪は降り続いていて、あすは平成13年の雪を超えそうだ。福井市では午後6時現在で129㌢となり、37年前の「五六豪雪」(昭和56年)以来の記録的な大雪になっていると、テレビの全国ニュースになっていた。大雪による車の立往生などで、福井県内の国道8号線は坂井市とあわら市の間およそ10㌔の区間で、乗用車やトラック1500台余りが動けない状態になっている。

    冒頭で述べたコンビニでの話。店員に「入荷のメドは立っているの」と尋ねると、「まったく立っていません」と。続けて「金沢市内のコンビニはどこもウチと同じですよ。それより何より、お客さんがとにかく大量買いされて行かれます」。確かに周囲の買い物客の中にはかご一杯に商品を入れている。大雪という危機感を察知すると食料をストックすることに人間の本能として走るのだろう。ガソリンスタンドでも車が列をついているのをみかけた。このJPCZが長引くとガソリンもストップするかもしれないと考えるのだろう。強烈寒波は人間の生存本能を揺さぶっている。

⇒6日(火)夜・金沢の天気    ゆき

☆能登の発酵食文化、現場を訪ねる

☆能登の発酵食文化、現場を訪ねる

    冬の能登は食材が豊富だ。寒ブリやズワイガニ、タラ、カキといった海の幸のほかに、かぶら寿司(ブリと青カブラのこうじ漬け)や大根寿司、日本酒も今が一番忙しい時節だ。能登の発酵食文化を訪ねるスタディツアー(発醸文化メガロポリス推進活動プロジェクト2017年度研究旅行)が20、21日に両日開催され、案内をかねて参加した。

    このプロジェクトは、日本の食を支えている発酵・醸造の技術や文化を世界に発信し広めようと、醤油メーカー大手「キッコーマン」(千葉県野田市)のOBらが発起人となって立ち上げた。ツアーには日本糀文化協会のメンバーも参加し、総勢15人。羽田空港から能登空港に降りた一行はバスで能登町、珠洲市、輪島市、七尾市、中能登町を1泊2日で巡った。

    最初の発酵食は「なれずし」。魚を塩と米飯で乳酸発酵させたなれずしは琵琶湖産のニゴロブナを使った「ふなずし」が有名だが、能登でも伝統食だ。昼食で能登町にある「かじ旅館」を訪ねると、アジ、ブリ、アユのなれずしを出してくれた。この旅館では、注文を受けた客にしか出さない。というもの、なれずし独特の匂いがあり、なじめない客も多い。ただ、食通にはたまらない味と匂いなのだという。今回出されたアユは5年もの。料理長が「ヒネものです」と説明してくれた。ヒネものとは2年以上漬け込んだもの。昼から地酒とのマッチングも楽しんだ。

    「アンチョビ蔵」。イワシを米糠で漬け込んだ「こんかいわし」も能登では盛んにつくられている。ブルーベリーワインを製造している同町の「柳田食産」は昨年から、廃線となった能登鉄道のトンネルを活用して漬け込んでいる=写真・上=。湿度と温度が一定しているので製造には好条件だ。樽の中で発酵し熟成されたこんかいわしを焼いてほぐしたものや、オリーブ油や香草と合わせたオイルソースはまさにアンチョビだ。これをクラッカーに少し塗り、ワインを飲む。この相性のよさはマリアージュ。そして、廃線のトンネルをアンチョビ蔵として蘇らせたアイデアに脱帽した。

     「広辞苑は間違っています」。こんな話が出たのは同町小木で魚醤油を製造している「ヤマサ商事}を訪ねた時だった。日本の3大魚醤と言えば、秋田の「しょっつる」、香川の「いかなご醤油」、そして能登の「いしる」=写真・下=だ。能登では材料がイワシのものを「いしる」、イカの内臓を「いしり」と呼ぶ。製造担当者は「ところが、広辞苑ではいしりはいしるの別称となっている。別称ではなく、材料が違うんです」と続けた。小木(おぎ)は北海道の函館、青森の八戸と並んで日本海のイカ漁の拠点の一つ。「いしり」の産地でもある。ただ、全国的に商品化すると少々ややこしいので、商品表記を「いしる(いか)」「いしる(いわし)」としているメーカーもある。

     能登杜氏は今が一番忙しい。そんな中、能登を代表する酒蔵の一つである珠洲市の造り酒屋「宗玄」を訪ねた。「試食してみてください」と杜氏が板状になった酒粕を勧めてくれた。まさにチーズの味がした。普段日本酒を飲まない男性参加者が一枚食べ切り、「酒粕ですっかり酔いました」とうれしそうに話した。先月20日に解禁となった純米生原酒をテイスティングした。ジュワッと広がる飲み口がまさに初しぼり。バスに乗り込むと周囲は暗くなっていた。

     2日目は輪島市の醤油蔵「谷川醸造」を見学。代々「サクラ醤油」のブランド名で。輪島は魚介類の水揚げが多い。ちょっと甘めの味が刺身にぴったり。この地で育まれ、花開いた「糀の文化」の印象だ。最近では、能登の地豆である「大浜大豆」と塩田でつくられた塩を原材料にした、こだわりの「能登の丸大豆醤油」をつくっている。

     昼食は七尾湾を望むカキ料理の専門店でフルコースを味わった。焼いて、生で、フライで、釜飯で合わせて10個は食べた。それにしても能登の冬の食材はぜいたく過ぎる。ひょっとして海の食材の豊かさが発酵の食文化も育んているのかもしれないと思った。外に出て駐車場を見渡すと7割は県外ナンバーだった。

     ツアーの締めくくりは「どぶろく」だった。中能登町の天日陰比咩(あまひかげひめ)神社を訪ねる。蒸した酒米に麹、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁る。「濁り酒」とも呼ばれる。毎年12月5日の新嘗祭で参拝客に振る舞われる。今年はこれまで最高の333㍑を造った。同神社は2千年余りの歴史をもつ延喜式内社でもある。禰宜の方から話を聞き、どぶろくを頂いて、一行が外に出たとたんに大粒の雨がザッと降ってきた。禰宜は「当神社は雨乞い所でして、神様が皆さんの来訪を喜んでおられるのですよ」と目を細めた。

⇒22日(月)朝・金沢の天気     あめ

     
     

    

☆加賀の酔い-下

☆加賀の酔い-下

   その新しく最先端の酒蔵、「農口尚彦研究所」は小松市の里山、観音下(かながそ)にあった。この辺りはかつて石切り場として有名で、点在する跡地はまるでギリシャの神殿のような神々しい造形美を感じさせる。パワースポットを訪れたような少し緊張した面持ちで新築の酒蔵に入った。「農口杜氏さんはいらっしゃいませんか。約束はしてあるのですが」。6日午前10時30分ごろだった。

 「酒蔵の科学者」農口杜氏が小松の里山で現場復帰「世界に通用する酒を」

    酒蔵と別棟の杜氏と蔵人(くらんど)の詰め所に案内された。朝の作業が終わり休憩中だった。「よう来てくださった」。張りのある声だった。昭和7年(1932)12月生まれ、85歳だ。杜氏室に案内され、開口一番に「世界に通じる酒を造りたいと、この歳になって頑張っておるんです」と。いきなりカウンターパンチを食らった気がした。グローバルに通じる日本酒をつくる、と。そこで「世界に通じる日本酒とはどんな酒ですか」と突っ込んだ。「のど越し。のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」。整然とした言葉運びに圧倒された。

     農口氏と最後に会ったのは2015年7月。地元紙で能登杜氏の「四天王」が引退すると大きく扱われていて、能登町のご自宅にお邪魔した。当時82歳で「そろそろ潮時」と普通の高齢者の落ち着いた話しぶりだった。その当時に比べ、きょうは身のこなしの軽やかさ、声のテンションも高い。そこで「なぜ現役復帰の決意を」と尋ねた。「家にいても頭にぽっかりと穴が開いたような状態だった。この歳になると片足を棺桶に突っ込んでいるようなものだから、どうせなら酒蔵に戻ろうと。弥助寿司の森田さんも、陶芸の吉田さん(美統、人間国宝)も同じ歳、皆現役で頑張っておられるからね」。酒造り2季のブランクを経て、建物の設計などにかかわり、満を持して昨年暮れに酒造りの現場に復帰した。

     農口氏と初めて会ったのは2009年。金沢大学の共通教育科目「いしかわ新情報書府学」という地域学の講義の非常勤講師として、ひとコマ(90分)能登杜氏の酒造りをテーマに、3年連続で講義をいただいた。必ず自身の日本酒を持参され、講義の終わりには学生にテイスティングしてもらって、学生たちの感想に耳を傾けていた。農口氏自身はまったくの下戸(げこ)で飲めない。その分、飲む人の話をよく聴く。日本酒通だけでなく、女性や学生からの客観的な評価にも率直に耳を傾けるプロとの印象を持っている。

     もう一つ、農口氏の酒造りの特徴、それは客観的なデータづくりだ。1970年代中ごろからいい酒をコンスタントにつくるには数字になるものはすべて記録しなければならないと考え、酒米の種類、精米歩合、麹の品温、酒米を浸水させた時間、水温などのデータを毎日、几帳面にノートに記している。実験と検証を繰り返す「酒蔵の科学者」の雰囲気がある。「農口尚彦研究所」という会社名もそこが由来だ。分析室に酵母の培養装置があり、麹は色別センターで温度管理しているというから本格的な研究所だ。

     もちろん独りで立ち上げたのではなく、小松の財界人や行政が手厚く支援し、ディレクターとして陶芸家の大樋長左衛門氏らが関わり、知恵とチカラが結集されている。また、地域の人たちの理解を得るため、地元の農家の人たちに酒米「五百万石」を栽培してもらい昨秋は300俵購入した。若手を育てるため全国から蔵人を公募すると20人が応募、8人を採用した。営業基盤を固めてグローバル展開するため、大手酒造メーカーのOBを役員に迎えた。

     初年度は1升瓶(1.8㍑)で8万本の出荷を予定し、昨年12月26日に本醸造無濾過生原酒を初めて発売した。アルコール度数19度。帰りがけに、生原酒を手渡された。「(生原酒は)生きていますから、瓶を振らんとおいてください。なるべく寒いところに置いてくださいよ」と。農口氏の人生の決意の1本、ありがたくいただいた。その後、今夜の宿泊先の片山津温泉に車を走らせた。暖房を切って、瓶を揺らさないようにゆっくり運転で。(写真・上は酒蔵のイメージを脱した農口尚彦研究所の外観=小松市観音下町、写真・下は酵母の培養を確かめる農口杜氏)

⇒6日(土)夜・加賀市の天気    くもり

★加賀の酔い-上

★加賀の酔い-上

   正月三が日は自宅で過ごし、今週末は石川県の加賀温泉めぐりを楽しんでいる。きょう(5日)は小松市の粟津温泉に来ている。泊まった旅館は「法師」。開湯はちょうど1300年前の養老2年(718年)という。一度は泊まってみたかった温泉旅館だった。

       開湯1300年、一度は泊まってみたかった旅館

    旅館の従業員に法師(ほうし)という名前の由来を尋ねると、「それはですね」とちょっと身を乗り出すようにして説明してくれた。加賀地方で霊峰と呼ばれる白山(はくさん)は泰澄大師が荒行を積んだことでも知られる。その泰澄にインスピレーションが働いて粟津の地で村人といっしょに温泉を掘り当てた。そこで、弟子の一人の雅亮法師(がりょうほうし)に命じて湯守りをさせた。それが旅館の始まり、とか。一時期、もっとも古い温泉旅館としてギネスブックにも登録されたこともあるそうだ。

   期待通りだった。部屋の中の内湯は源泉かけ流しで、くつろげる。ちょっと口に含んでみた。ナトリウム硫酸塩泉塩化物泉で無色透明で無臭、味は少ししょっぱいがクセがない。浴感がすこぶるよい。1300年、客が絶えなかった湯治場の歴史を感じさせる。

   庭を歩くとまるで古刹の庭のようだ。苔むしたグランドカバーは見事。シイの巨木、雪吊りがほどこされたアカマツなど庭の老樹は何かを語りかけてくるようだ。築山があり、「心」をかたどった池がある。鶴亀の巨大な石もある。春の桜、夏の清流、秋の紅葉、そして冬景色と庭の四季が凝縮されているようだ。先の従業員氏に再度質問をする。「作庭はどなた」と。「三代将軍・家光公の茶道師範をつとめられました小堀遠州が粟津へお越しの際に法師に滞在され、その折にご指南を受けたと語り継がれております」。大名茶人、小堀遠州がかかわったと伝えられる庭か。2度うなった。

   いっしょに泊まりにきた友人たち3人がそろい、酒宴が始まった。近況を語り合い、議論も交わした。ゆでカニの料理が運ばれてきた。大振りのズワイガニだ。しかし、カニの足の部分しかない。カニには目がないので、部屋にあいさつに来られた若女将に「甲羅の部分はないのですか」とつい言ってしまった。すると、「それはカニの特別料理になりまして、予約のときご注文くだされば対応できましたのに」とさりげなくかわされた。確かにカニは特別料理だ。「なんて食い意地の張った無粋な質問をしてしまったのだろう」と自虐の念に陥ってしまった。

   それにしても、新年から楽しい酒だった。われわれを酔わせた酒は、全国新酒鑑評会で27回の金賞の受賞歴を有する「現代の名工」、85歳にして杜氏に復帰した農口尚彦氏の酒だった。あす6日、農口氏を訪ねることにしている。法師から車で18分ほどだ。湯治と杜氏は近い、ダジャレを言いながら眠りに入った。

⇒5日(金)夜・小松の天気    くもり

★2017 ミサ・ソレニムス~6

★2017 ミサ・ソレニムス~6

   ことし1年の裁判の判決で憂いているのがNHK受信料をめぐる判決だ。NHKは「最高裁のお墨付き」をもらって優々と未契約世帯に対し「この紋所が見えぬか」と迫っていくだろう。今月6日、NHK受信料制度が契約の自由を保障する憲法に違反するのかどうかが争われた裁判で、最高裁大法廷は合憲と判断した。

     学生・若者のテレビ離れを加速させる判決ではないのか

   前もって述べておくが、私自身の自宅にはテレビがあり、選挙速報や異常気象、災害、地震の情報など民放では速報できないニュースを、NHKがカバーしていると納得している。その公共性の高さを考えれば、放送法64条にあるテレビが自宅に設置されていれば、受信料契約ならびに支払いは社会的にも認められると考えている。

    判決の内容をよく読むと、NHKが契約を求める裁判を起こし、勝訴すれば、契約が成立し、テレビを設置した時点からの受信料を支払わなければならない。つまり、最高裁が出した答えは「義務」と同じだ。納得いかないのは、その義務を親から仕送りをもらって学んでいる学生たちにも課しているという点なのだ。

   学生たちからこんな話をよく聞く。NHKの契約社員という中年男性がアパ-トに来て、「部屋にテレビがありますか」と聞いてきたのでドアを開けた。「テレビはありません」と返答すると、さらに「それでは、パソコンやスマホのワンセグでテレビが見ることができますか」と聞いてきたので、「それは見ることができます」と返答すると、「それだったらNHKと受信契約を結んでくださいと迫ってきた」と。学生は「スマホでNHKは見ていませんよ」と言うと、契約社員は「ワンセグを見ることができればスマホもテレビと同じで、NHKを見ても見なくても受信契約が必要です」と迫ってきた。学生が「親と相談しますから、帰ってください」と言うと、契約社員は「契約しないと法律違反になりますよ」とニコッと笑ってドアを閉めた。親と相談すると法律違反を犯すくらいなら払いなさいと言われ、仕送りにその分を乗せてもうらことになった。

   学生たちは学ぶために親元を離れているのであって、仕送りをしてもらっている。実質的に「同居」だ。会社で働き自活するために親元を離れる「別居」とまったく状況が異なる。NHKが学生たちをさらに追い込む判決が今月27日にあった。ワンセグ機能付きの携帯電話を持つだけでNHKが受信契約を義務づけるのは不当だとして、東京の区議がNHKに契約の無効確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁はワンセグの携帯電話を持っていれば、契約を結ばなければならないと述べ、区議の請求を棄却した。

   使っても使わなくてもスマホにはワンセグのアプリがついている機種が多い。テレビを視聴しようとスマホを求めた訳でもない。ワンセグをめぐる判決は別れている。2016年8月26日のさいたま地裁判決は「受信契約の義務はない」との判断を、ことし5月25日の水戸地裁では「所有者に支払いの義務がある」と判断している。今回でNHKは2勝1敗とり、「NHK受信料払いは義務です。最高裁が判決を出しました。スマホにワンセグがあれば、それも義務です」と学生たちを追い詰めていくNHK契約社員たちの姿が目に浮かぶ。

   この先どのような現象が起きるのか。学生や若者たちのテレビ離れが加速するということだ。自宅にテレビを置かない、スマホの契約時にアプリからワンセグを外す。壮大なテレビ離れ現象がこの先にある。それを憂いている。

⇒30日(土)夜・金沢の天気    くもり

☆2017 ミサ・ソレニムス~5

☆2017 ミサ・ソレニムス~5

    前回のブログに引き続き、今年の2つ目のプライベートなチャレンジについて。金沢大学では共通教育科目として「マスメディアと現代を読み解く」「ジャーナリズム論」「能登の世界農業遺産を学ぶスタディ・ツアー」を担当している。最近学生と接していて感じていることなのだが、思慮深い若者が増えている。話していても、アンケートで答えてもらっても、「なるほど。そこまで考えているのか」と思うことがよくある。ただし、それをリポートでまとめる、あるいはディスカッションとなると、この若者の特性が出てこないのだ。「恥ずかしいから」「目立ちたくないから」なのかよく理解できない若者現象がある。

    学生たちに読んでほしい、考えを実装するブログ論

    今月12月に新書『実装的ブログ論―日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)を出版した。実は、この本を出版した動機の一つとして、若者たちにブログを書いてほしいという思いがあったからだ。

    著書のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えること。ブログを使って文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。

    ブログを書く作業は、フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSと違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもあると実感している。では、ブログ自体の価値はどこにあるのだろうか。ブログ、つまりウェブログ(ウェブ上の記録)は書き溜めである。日々使うことができるブログに一体何を書き溜めるのか。

    私の場合は時事、つまりニュースと関わっていきたいとの思いから「自在コラム」というタイトルで、自らの多様な目線で時評を試みている。新聞やテレビのニュースは読者や視聴者の「最大公約数」を見越して報道される。このメディアの発想はつまるところ東京目線であったり、視聴率至上主義であったりして、私たちの日常的価値観とは相当ブレている。そこをブログで突っ込みたいのだ。

    メディア論の講義では、「ニュースは記事を読むだけではない。ニュースの流れを読めばさらに面白い」と学生たちに説いている。学生たちがこれから社会と関わっていく中で、日々のニュースと接し、自らの価値観や考えをブログに熱く書き込んで、自らのオピニオンとして世に問うてほしいと願っている。ブログは人間成長のツールでもある。(※写真上はジャーナリズム論の講義風景)

⇒29日(金)夜・金沢の天気   あめのちみぞれ

★2017 ミサ・ソレニムス~4

★2017 ミサ・ソレニムス~4

   この1年、プライベートで2つのことにチャレンジした。「挑戦」と日本語表現すると仰々しい感じだが、「課題に取り組んだ」と言った方がよいかもしれない。

    父の遺影を持参しベトナム「戦地」巡礼の4日間

         一つ目の課題は、15年前にさかのぼる。平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。病状は思わしくなかったので、まもなく他界したが、兄弟3人にはその言葉が脳裏に焼き付いていた。11月、父のベトナムへの想いをかなえようと遺影を持参して3泊4日のベトナムの旅に出かけた。

    23日夜、ハノイに到着。24日にハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」がある。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人の墓地があると管理人の女性が案内してくれた。

   では、なぜベトナムの革命烈士の墓になぜ元日本兵の墓があるのか。父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランス軍との戦闘で、カンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦。ところが、8月15日、敗戦の報をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

   このころから部隊を逃亡する兵士が続出。その数は600人とも言われている。多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する元日本兵たちもいた。

   父の想いは仏印という戦地で散った戦友たちへの供養だったろう。そこで、いろいろ調べたが、現地ベトナムでは日本兵の戦死者たちを祀る慰霊碑は見当たらない。そこで、ベトナムのために戦った元日本兵の墓がモックバックにあるとの情報を得て墓参することにした。ベトナムは社会主義の国だが仏教信仰が盛んだ。革命烈士の墓の近くの商店で線香を買い求め、近くに野ギクが自生していたので切って、元日本人の墓に線香と花を手向けた。

   25日、ホーチミン市で父たちが捕虜生活を送った場所を訪ねた。ベトナム戦争を経て、サイゴンからホーチミンへと市の改名がなされたのは1975年5月のこと。ところが、40数年たった今も現地ではサイゴンの方が普通に使われている。現地のガイド氏によると、ホーチミンはベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホーチミン」(ホーチミン市)と言う。それに比べ「サイゴン」は言いやすい。また、生活や文化でサイゴンの独自性があり、市名が替わったからと言って簡単に「サイゴン」という地名が消えるわでもない。

    サイゴンのラジオ局に向かった。父の部隊の捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりはイギリスやフランスの監視兵もおらず、食事も部隊で自炊、外出もできる平常の兵営生活だった。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

   ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟でこの川の遊覧船に乗った。川面を走る風が頬をなでるようにして流れ、捕虜生活の様子を偲ぶことができた。

   1946年5月、母国への帰還が迫ったころ、部隊に事件が起きる。中隊の少尉ら3人が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した同僚の兵士たちに部隊に戻り帰国を促す帰順の呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と騒然となった。フランスとゲリラの戦闘に巻き込まれたのか定かではない。

   旅の最後に、父たちの部隊が帰還の船に乗り込んだサイゴン港に行った。父からかつて聞いた話だが、乗船の際は一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では幸い「戦犯者」はいなかった。別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。

   父たちがサイゴンの港を出たのは1946年5月2日だった。港を出て行く船を見ていると、父たちの帰還船を見送っているような不思議な感覚になった。まるでタイムマシーンに乗って、港に来たような。「無事日本に帰ってくれてありがとう」と心の中で叫んだ。父は同月13日に鹿児島港に上陸して復員。能登半島に戻り結婚し、1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

   ベトナム「戦地」巡礼の旅を終え、兄弟は26日に帰国の途に就いた。機体が離陸してベトナムと遠ざかるとき、遺影をそっと窓にかざした。(※写真はハノイの露店の花屋さん。ベトナム人は花好きだ=ガイドのゴックさん提供)

⇒28日(木)午前・金沢の天気    あめ 

☆2017 ミサ・ソレニムス~3

☆2017 ミサ・ソレニムス~3

       能登半島の沖合300㌔にある大和堆はスルメイカの好漁場で、日本のEEZ(排他的経済水域)内にある。漁は6月から始まり、例年ならば1月末までが漁期なのだが、石川県漁協に所属する中型イカ釣り漁船14隻は年内で操業を終えることを決めた、と地元紙などが報じている。日本海を漁場とする漁業関係者にとって、今年は北朝鮮に翻弄された1年だったと言っても過言ではない。

       北からのミサイル、違法操業、そして「漂う危険物」

   北からの最初の一撃は3月6日だった。北朝鮮が「スカッドER」と推定される中距離弾道ミサイル弾道ミサイル4発を発射、そのうちの1発が能登半島から北に200㌔の海上に、3発は秋田県男鹿半島の西方の300-350㌔の海上に、いずれも1000㌔㍍上空を飛行して落下した(政府発表)。漁業関係者が大和堆でのイカ漁の準備を始めていたころである。

   北からの二撃は違法操業だ。大量に押しかけてEEZでイカの違法操業する北朝鮮の漁船が問題になった。特に、日本漁船が夜間の集魚灯をつけると、集魚灯の設備もない北朝鮮の木造漁船が近寄ってきて網漁を行う。獲物を横取りするだけでなく、網が日本船のスクリューに絡むと事故になる危険性にさらされた。7月26日、国会内の会議室で「大和堆漁場・違法操業に関する緊急集会」が開かれた。衆院選挙区石川三区(能登)選出の北村茂男代議士の呼びかけで開かれ、関係する国会議員や漁業関係者が参加した。

    質問が集中したのは海上保安庁に対してだった。海上保安庁も巡視船で退去警告や放水で違法操業に対応していたのが、イタチごっこの状態だった。漁業関係者からは「退去警告や放水では逆に相手からなめられる(疎んじられる)」と声が上がった。違法操業の漁船に対して、漁船の立ち入り調査をする臨検、あるいは船長ら乗組員の拿捕といった強い排除行動を実施しないと取り締まりの効果が上がらない、と関係者は苛立ちを募らせ、石川県漁協の組合長が強い排除行動を求める要望書を手渡したのだった。

    言うまでもないが、領海の基線から200㌋(370㌔)までのEEZでは、水産資源は沿岸国に管理権があると国連海洋法条約で定められている。ところが、北朝鮮は条約に加盟していないし、日本と漁業協定も結んでいない。そのような北朝鮮の漁船に排除行動を仕掛けると、北朝鮮が非批准国であることを逆手にとって自らの立場を正当化してくる可能性がある。取り締まる側としてはそこが悩ましいところなのだ。

   そして、三撃は北の木造漁船の漂着や漂流だ。ことし11月以降、能登半島や東北地方の沿岸などで相次ぎ、転覆した木造漁船などはレーダーでも目視でも確認しにくいため、衝突の可能性が出てくる。まさに「漂う危険物」にさらされた。さらに、水難救助法では漂着の木造船を処分するのは自治体と定められている。漂着船の解体には少なくとも数十万円もの経費がかかる。海でも陸でも厄介な代物なのだ。

   北朝鮮の慢性的な食糧不足から国策として漁業を奨励し、「冬季漁獲戦闘」と鼓舞し波の高い冬場も無理して船を出しているようだ。北朝鮮は沿岸付近の漁業権を中国企業に売却しており、漁師たちは遠洋に出ざるを得ない状況に置かれているとも一部で報じられている。冬型の気圧配置、北風で波が高くなるこの時期、いくら食糧確保のためとはいえ、古い木造漁船で出漁を煽るとは、難破の悲劇をわざわざつくり出しているようなものだ。来年もこれが繰り返されるのか。(※写真は11月に能登半島・珠洲市の海岸に漂着した木造漁船)

⇒27日(水)夜・金沢の天気    ゆき