⇒ドキュメント回廊

☆歩きスマホと二宮金次郎

☆歩きスマホと二宮金次郎

   「みなさんはご存知ですか。二宮金次郎の像は高さが1㍍ということを」。先日、学生たちと能登半島の珠洲市をインターンシップで訪れた。元小学校の跡地に建てられた保育所は数年で閉鎖され、昨年開催された奥能登国際芸術祭の作品(塩田千春作『時を運ぶ船』)の展示会場として活用されている。会場の入口付近に小学校の名残をとどめる二宮金次郎像がある。冒頭の言葉は、地域を案内いただいた地元の方の説明だった。この方は中学校の元校長で教育に詳しい。

    学生たちは「知らなかった、そんな1㍍という決まりはなぜあるのですか」と質問した。すると元校長氏は「私も詳しくは分かりません。ただ、一説に昔の尺貫法からメートル法に変わる時に、子どもたちが1㍍はどのくらいか判断できるようにと工夫されて造られたようです」と。あの薪(まき)を背負って歩きながら本を読んでいる金次郎像は、貧しい環境にありながらも自己実現に向かって勉学に励むモデルではなかったのか。それが、メートル法の周知のために造られたのか、意外だった。確かに2、3㍍の大きな金次郎像は見たことがない。統一されたサイズかもしれない。

   長さに尺(しゃく)、質量に貫(かん)を用いた日本固有の単位系が
メートル法へとシフトしたのは、明治8年(1875)に明治政府が度量衡制度を設け、メートル条約を締結したのが始まりとされる。独自の経済圏で栄えた鎖国だったが、1853年にアメリカのペリー提督が「黒船」で交易を求めて横浜・浦賀沖に来航した。外国の圧倒的な技術力や軍事力を見せつけられ、開国へ進む。西欧の技術力を導入するためにメートル法による度量衡制度が必要だった。そのメートル法が一般に普及し、尺貫法が法律上で廃止されたは昭和34年(1959)だった。金次郎像はその間に普及したのだろうか。

   学生からさらに質問が出た。「いまはメートル法が当たり前なので、二宮金次郎像は過去の遺物と解釈していいですね」と。この質問に対して他の学生から意見が出た。「薪を背負う子どもが読書しながら歩く姿は戦時中の教育といった感じで、いまの子どもたちは薪すら何なのか理解できない。でも、小学校に寄付してくださった方の気持ちを『過去の遺物』と簡単に決めつけてよいのでしょうか」と。別の学生は「歩いてマンガ本を読むのは転ぶから危険だよと小さいころに親から言われた。校庭にいたので、親が二宮金次郎の像を指さしていた。歩きスマホは危険と反面教師として金次郎像を活用すればどうでしょうか」と。このコメントは笑いを誘った。

   すると元校長氏は「珠洲市と姉妹提携を結んでいるブラジルのペロタス市から教育関係者が学校を訪れた折に、二宮金次郎の像を見て、知的な少年像ですね、教育熱心な日本のシンボルですね、と言われました。このようなモチーフの像は世界はないそうです」と。二宮金次郎像をめぐる会話はここで終わり。

   時間にして5分もなかったが、世代を超えた共通価値としての二宮金次郎像はそれなりに話題を提供してくれる。スマホと本を両手で掲げて未来を向く、そんな現代版金次郎像があってもよいのかもしれない。

⇒21日(火)夜・金沢の天気    はれ(猛暑日)

★塩田村と塩田さん

★塩田村と塩田さん

    盆休みを利用してゆっくりと能登めぐりを楽しんだ。海の幸と山の幸の物々交換がルーツとされ、千年の歴史を有する輪島朝市。1個1万2千円の「蒸しアワビ」(120㌘)を思い切って買った。別の店では1個700円のカラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)を「2個ください」と言うと、おばあさんが「3個でおまけ」と差し出したので手に取ると、すかさず「100円おまけで2000円」と請求された。2個買ったので1個はおまけだと受け取ったのに、「100円まけるから3個買って」という意味だった。朝市という場を少々甘く勘違いしたのかもしれない。かなり高齢に見えたが、言葉の手練手管には舌を巻いて買ってしまった。

    次に向かった輪島の白米千枚田は駐車場が満杯だったので、車中から横目で見ながら珠洲市の塩田村(えんでんむら)に車を走らせた。「揚げ浜式塩田」と呼ばれ、400年の伝統を受け継いでいる。塩をつくる場合、瀬戸内海では潮の干満が大きいので、満潮時に広い塩田に海水を取り込み、引き潮になれば水門を閉める(入り浜式塩田)。ところが、日本海は潮の干満が差がさほどないため、満潮とともに海水が自然に塩田に入ってくることはない。そこで、浜から塩田まですべて人力で海水を汲んで揚げる(揚げ浜式塩田)。揚げ浜というのは、人力が伴う。しかも野外での仕事なので、天気との見合いだ。

    今では動力ポンプで海水を揚げている製塩業者もいるが、かたくなに伝統の製法を守る塩士(しおじ=塩づくりに携わる人)もいる。人がそれこそ手塩にかけてつくる塩は量産に限度がある。条件不利地ながら自然と向き合う人々の姿だ。ひとにぎりの塩をつくるために、人はどのように空を眺め、海水を汲み、知恵を絞り汗して、火を燃やし続ける。機械化のモノづくりに慣れた現代人が忘れた、愚直で無欲でしたたかな労働の姿でもある。

    この塩田での作業を見て芸術作品を創ったのが、ドイツ・ベルリン在住の現代美術家、塩田千春(しおた・ちはる)氏だった。昨年(2017)珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品を創作するために珠洲を訪れた塩田さんは、400年続く揚げ浜式塩田が日本で唯一残る当地に、自分のルーツにつながるインスピレーション(ひらめき)を感じて迷わず創作活動に入ったという。作品名は『時を運ぶ船』。戦時中、ある塩士が軍から塩づくりを命じられ、出征を免れた。戦争で多くの友が命を落とし、塩士は「命ある限り塩田を守る」と決意する。戦後、塩士はたった一人となったが伝統の製塩技法を守り抜き、その後の塩田復興に大きく貢献した。作品名はこの歴史秘話から名付けられた。

    塩田作品が今も展示されている旧・清水保育所に行く。舟から噴き出すように赤いアクリルの毛糸が網状に張り巡らされた室内空間。赤い毛糸は毛細血管のようにも見え、まるで母体の子宮の中の胎盤のようでもある。しばらく「胎盤」の中に身を置いてみる。一つ一つに心血を注いでモノづくりをする。一日一日を丁寧に暮らす。それが人として生きるということなのだ、と作品を眺めているうちに目頭が熱くなってきた。

    現代文明は脆(もろ)い。市場で約束されたことしかできない。売り買いが成立しなければ、生活すら危うい。それに比べ、塩田村で目にした塩士たちの姿は生命力にあふれている。

⇒15日(水)朝・金沢の天気    はれ

☆「点数主義エリート」の限界か

☆「点数主義エリート」の限界か

    昨日(9日)自家用車の運転中に参院決算委員会の模様をNHKラジオの中継で聞いていた。森友学園への国有地売却問題をめぐり、地中から出たごみの撤去について財務省側が昨年2月に森友学園側へ口裏合わせを求めていたことを理財局長が認め陳謝すると、質問した自民党の議員が「バカか、本当に」と大声を上げた。国会で「バカ」という言葉を実際に聞いたのはこれが初めてではないだろうか。昭和28年(1953年)の衆議院予算委員会で、当時の吉田総理が社会党の議員との質疑応答中に「バカヤロー」と発言したことがきっかけで解散にいたった、いわゆる「バカヤロー解散」は日本の政治史に残る。以来「バカ」は国会でタブーになっていたと思っていたのだが、どっこい生きていた。

   議員の「バカ」発言に別の感情を抱いた。「財務官僚にとってはショックな言葉だろう」と。財務省のようなエリート官僚たちは、点数主義の入試を突破して東京大学などに入学、さらに国家公務員試験の合格を目指し黙々と励んできた。断わっておくが点数主義の入試は透明性と公平性がある選抜システムともいえる。それを勝ち抜いてきただけにプライドは人一倍高いだろう。財務省の隠ぺい体質に浴びせられた「バカ」発言で財務官僚たちのプライドはひどく傷ついたのではないか。

    以下は考察だ。点数主義を勝ち抜いてきた人たちの同質性というのは、官僚機構や大企業にある「日本型組織の特性」ではないだろうか。こうした組織中では「空気を読む」「空気を察知する」「忖度する」、そして価値観を統一して突き進む。プロセスでは、異質性や多様性といった価値観が排除される傾向にある。森友学園問題の忖度などは詰まるところは、この日本型組織の特性によるものではないだろうか。

    点数主義によるエリートの選抜は限界に来ているのではないだろうか。アメリカのプリンストン大学の学生らが石川県に滞在して日本語と日本の文化について学ぶ「PII(Princeton in Ishikawa)」プログラムの講義を行ったことがある(2013年6月)。学生はプリンストンやハーバードなど16大学の50人、それに日本人学生65人も加わり、彼らを前に世界農業遺産(GIAHS)の講義(90分)を行った。テーマは「Noto’s Satoyama Satoumi ~Omnibus consideration ~」。

     プリンストンの女子学生から以下の質問があった。輪島の海女漁を持続可能な漁業を説明したことに対して、彼女は「なぜ女性が海に潜り漁をするのか、女性虐待ではないか」と。「いや、海女たちは権利として漁を行っている」と追加説明すると納得した。ハーバードの男子学生は「日本も交渉に参加するTPP(Trans-Pacific Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)では、能登の農林漁業にどのような影響が考えられるのか」と。この質問には以下のように返答した。GIAHSサイトの農業のほとんどは小規模農業、家族経営であり、その意味では生産効率の高いアメリカやオーストラリアの大規模農業とは農業形態がまったく異なる。しかし、GIAHSでは価格競争力ではなく、付加価値の高いブランド農産品を目指していて、たとえば能登の稲作では「能登米」「能登棚田米」としてブランド化を図っている。TPPのような農産品のグローバル取引の到来がむしろGIAHSの評価を押し上げていくのではないだろうか、と。

     日本人学生から質問がなかったことは残念だったが、プリンストンやハーバードの学生たちの数々の質問にはこちらも楽しませてもらった。「面白い質問をする学生たちをそろえている」、そんな印象を持った。実は、プリンストンやハーバードは点数もさることながら、面接を重視する選抜制度を採用している。入試ではエッセイ(作文)、推薦状2通、SAT®(アメリカの全国共通テスト)、そして面接が選抜の要件。とても手の込んだ入試制度だ。少なくとも、点数主義のエリートを育てる土壌ではない。その理念は多様な社会のリーダーを育てるということだ。「新たな知識の扉を開き、その知見を学生と共有し、学生の知性・人間性いずれにおいても最大限の可能性を引き出し、やがて学生をして社会に貢献する」(The Mission of Harvard Collegeより訳)。社会へ貢献は多様だ。だから、多様な人材をそろえる、大学の使命として理にかなっている。

⇒10日(火)朝・金沢の天気    はれ

★漢方薬は消滅するのか

★漢方薬は消滅するのか

   金沢で開催された日本薬学会第138年会に合わせて市民講演会(3月25日)が開かれた。講演会のタイトルが衝撃的だった。「漢方薬 消滅の危機と国産化の試み」。「消滅の危機って、一体なんだ」、そんな思いで出かけた。

   漢方薬に造詣が深いわけでもなんでもない。ただ、漢方薬と言えば、その原料が植物や鉱物など天然物に由来する生薬から構成される医薬品ということぐらいは知っている。知り合いの研究者からはこんな話を聞いた。漢方薬の理論は古代中国の影響を受けていて、その原料の生薬には中国からの輸入品が多く含まれている。中国産は安価で供給量があるため、日本で生産可能な生薬ですら中国産に依存するようになっている。日本の医療に使用される生薬の実に8割は中国産、国産は1割でしかない。輸入が途絶えると日本の漢方薬の7割以上が消滅するとまで言われている。

   本来ならば国産化は急務なのだが、それがなかなか進まない。何がネックになっているのか、それが知りたかった。また、個人的にも若干の興味はあった。私の金沢住まいは旧町名が「地黄煎町(じおうせんまち)」だった。江戸時代から、ここでは漢方薬の地黄を煎じて飴状にして売られていた。飴といっても現代のいわゆる飴ではなく、地黄を圧搾して汁を絞り出し、湯の上で半減するまで煎じ詰める。滓(かす)を絞り去り、さらに水分を蒸発させ堅飴のようにして仕上げる。堅く固まるのでノミで削って食べたと親たちから聞いたことがある。滋養強壮や夏バテに効果があったようだ。ただ、高度成長とともに宅地化が進み、地黄煎町の町名も50年前に変更になった。近所にある「地黄八幡神社」=写真=という社名から当時の地域の生業(なりわい)をしのぶのみだ。

   話を市民講演会に戻す。金沢大学の佐々木陽平准教授(薬学系)は「漢方処方『四物湯(しもつとう)』の原料生薬を石川県で」と題して講演。江戸時代に金沢で薬草栽培が盛んだった事例として、「地黄煎町」を紹介した。しかし、それは過去のことで、4種類の生薬から構成される漢方薬「四物湯」の中で一番自給率が低いのは地黄でわずか0.6%にすぎない。自給率の低さの理由は経済的な問題、つまり、国内産よりも海外産が安価だからだ。。

その背景は製薬会社が儲けに入ってるからという意味合いではない。保険診療制の中では漢方薬原料生薬の薬価(医療品公定価格)が決まっていて、国内の生産コストが薬価を上回る場合だってある。こうなると製薬会社は安価な輸入品に頼らざるを得なくなるのだ。野菜の場合は生産コストに利益を上乗せできるが、薬草の場合は頭が決まっている分、それ相当のコスト削減策を講じなければ栽培経営は難しいようだ。佐々木氏は「この問題を解決するために、生薬に付加価値をつけることや非薬用部として未利用であった部分を有効活用するなど、生産者の採算面を考慮する必要がある」と訴えた。
 
  「身土不二」という言葉がある。その土地で育った人にとって、その土地で生産されたものが最良で、安全、安心という意味合いもある。生薬で身土不二を実現するのはそう簡単ではない。地黄煎町でなぜ地黄が栽培されなくなったのか、考えさせられた。

⇒8日(日)夜・金沢の天気   くもり       

☆賛美歌をうたう

☆賛美歌をうたう

    きのう(16日)高校時代の恩師が逝去され、葬儀に参列した。日本基督教団若草教会(金沢市)で営まれ、賛美歌「いつくしみ深い」など歌い、故人を偲んだ。心に残る感動深い葬儀だった。

   恩師は関丕(せき・ひろ)さん、享年86歳。7年前から循環器系の病気を患っていた。高校1年のときのクラス担任で英語の女性教師、カウンセリングでもよく相談に乗っていただいた。高校を卒業して20年後、テレビ局で番組づくりに携わっていたとき取材でインタビューする機会に恵まれた。1992年10月公開のアニメ映画『パッチンして!おばあちゃん』の原作者であり、そして主人公としてだった。

   関さんは、脳血栓で自宅療養中の母ヤスエさんと2人暮らしだった。母が発作で倒れ入院。教壇に立ちながら親の看護を続けた関さん自身も過労で倒れた。病院の事務員に関さんの教え子がいて、仲間や友人に呼びかけて、また関さんの友人たちも加わってヤスエさんの付き添いをするグループの輪ができた。

   ヤスエさんは視覚と聴覚を除いて全身が麻痺していた。介護を通じて、まばたきで「イエス」「ノー」のコミュニケーションで「会話」を交わすようになった。このまばたき会話のことをグループでは「パッチン」と称していた。ヤスエさんは熱心なクリスチャンだった。クリスマスの夜、キャンドルを持ったグループの人たちが集まった病室で、ヤスエさんは力をふり絞るようにして声を発した。それは「ありがとう」の「あ」という一語だった。関さんは母親の死後、その実話を単行本『光のなかの生と死』(朝日新聞社)として出版。その著書を読んで感動した、朝日新聞社の向平羑(むかひら・すすむ)氏が脚本を担当して映画化が進められた。

   まばたき以外にコミュニケーションの手立てがない寝たきりの母をめぐる関さん、そして周囲の人々との交流がリアルに描かれたアニメーションとなった。当時、親の介護と言えば子どもたちや親族が面倒をみるものという固定観念があった。それを覆すように、周囲の人々も支える介護のカタチとして描かれ、当時とても新鮮な感動を呼んだ。

   関さんは持病を抱えながらも英会話教室を主宰し、時には欧米に出向き、多様な人々とのコミュニケーションを何よりも大切にしていた。まっすぐに生き、教育に捧げた人生だった。「真理を行う者は光の方に乗る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネによる福音書)

⇒17日(土)夜・金沢の天気    はれ

★この冬の覚え書き

★この冬の覚え書き

     それにしても、3月中ごろになった今でもこの冬の豪雪が話題になる。「庭の雪がまだ融けないね」「雪で庭木の枝が折れたよ」「雪すかしで折れたスコップはどう処分すればいいのか」といった金沢に住む仲間たちとの会話だ。

     1月と2月に強烈な寒波が3回やってきた。交通インフラなどガタガタになった2月7日、石川県内の公立の小中高校では3分の2に当たる232校が休校となった。金沢大学でも全面休講となった。自宅前は通学路なのだが、子どもたちの姿はなく、代わって通勤の大人たちが通りに目立った。マイカーやバスは通勤に使えず、徒歩で急ぐ様子だった。11日は朝から市内で一斉の除雪活動が行われた。自宅前の道路は30㌢ほどの高さの氷のように堅くなった雪道となっていたので、ツルハシで雪道を砕いた。

    なにしろ自宅周辺でも一時積雪量が150㌢になった。この雪で、雪吊りを施してある庭の松の枝が一本折れた。先日(3月11日)造園業の職人さんに来てもらって、雪吊りを外すための打ち合せをした。「雪吊りの松の枝が折れるほど大雪は初めてだった」と話すと、職人さんは「まだいい方ですよ。幹が折れたお宅もありますよ」と。折れた木の伐採と植え替え、剪定など豪雪の後始末で植木職人はこの春とても忙しいようだ。

    雪すかしでスコップを酷使したせいか、この冬で計3本折れた。3本とも強化プラスチック製で耐久性があると思って購入したのだが、柄とスコップ面の結節個所がもろくも。先月8日にスコップを買いに日曜大工の量販店に行った。すると「除雪用品は完売しました」と貼り紙がしてあった=写真=。こちらは必要に追われて買い求めに来たのに「完売しました」とさもうれしそうな文面はいかがなものかと思いながら、店員に尋ねた。「で、入荷はいつなんですか」と。すると店員は「全国的に品切れ状態のようで、いつになるかメドが立っていません」とこれまたニコニコと。こちらは困っているのに、店員の顔の表情にTPO(Time、Place、Occasion)が感じられない。

    「完売しました」もそうだ。「品切れでご迷惑をおかけしております」ならば角は立たないのにと思いながら店を出た。4時間後、別の商品を買いに再びこの店を訪れたところ、スコップが入荷していて、人だかりになっていた。運よく1本購入できたが、「入荷のメドがないと言っていたではないか」と再び割り切れない気持ちで店を出た。

    北陸豪雪は、家屋倒壊やアイスバーンの道路での転覆事故が相次ぎ、乗用車1000台が連なるなど全国ニュースになった。経済にも影響を与えている。きのう12日、北陸財務局が発表した「北陸3県の法人企業景気予測調査」によると、1-3月の景況判断指数(BSI)が非製造業でマイナス11に大きくぶれた。物流の滞りや宿泊予約のキャンセルが相次いだことが要因で、豪雪の影響力をまざまざと見せつけられた。

    スコップ3本、松の枝1本を折って、個人的に冬は終わり。庭の雪解けもあと少し。三寒四温で春本番を待つ。

⇒13日(火)午前・金沢の天気     はれ        

★3・11 あれから7年

★3・11 あれから7年

  「3・11」、私はその時、大学で社会人向けの公開講座で講義をしていた。「東北にでかい地震が起きて、津波も来るらしい」と事務スタッフが講義室に入ってきて、耳打ちしてくれた。講義を中断して、受講生にその旨を伝えると騒然となった。講義を早めに切り上げた。自身も震災のことが気になって仕方がなかったからだ。

  その脳裏にあったのは前年(2010年8月)、「能登里山マイスター」養成プログラムの講義に能登に来ていただいた畠山重篤氏(気仙沼市)のことだった。講義のテーマは、「森は海の恋人運動」だった。畠山氏らカキの養殖業者は気仙沼湾に注ぐ大川の上流で植林活動を1989年から20年余り続け、約5万本の広葉樹(40種類)を植えた。この川ではウナギの数が増え、ウナギが産卵する海になり、「豊饒な海が戻ってきた」と畠山氏はうれしそうに話していた。畠山氏らが心血を注いで再生に取り組んだ気仙沼の湾が「火の海」になった。心が痛む。畠山氏らの無事を願っていた。

  ちょうど2ヵ月後の5月11日から3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に取材した。震災から2ヵ月にあたりということで、各地で亡くなった人たちを弔う慰霊の行事が営まれていた。気仙沼市役所にほど近い公園では、大漁旗を掲げた慰霊祭があった。大漁旗は港町・気仙沼のシンボルといわれる。震災では漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていたものを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭に掲げられた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗旗は大空に映えた。

   その旗をよく見ると、「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった=写真=。おそらく、市民有志がこの大漁旗の持ち主と話し合いの上で「祈 大漁」としたのであろう。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。持ち主のそんな気持ちが伝わってきた。午後2時46分に黙とうが始まった。一瞬の静けさの中で、祈る人々のさまざま思いが交錯したに違いない。被災者ではない自分自身は周囲の様子を眺めそう思いやるしかなかった。

   公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。リアス式海岸の入り江であったため、勢いを増した津波が石油タンクを流し、数百トンものトロール漁船をも陸に押し上げた。以前見た関東大震災の写真とそっくりだ。「天変地異」という言葉が脳裏をよぎった。

   畠山氏とアポイントを取らずに出かけ、自宅を訪れると「さきほど東京に向かった」とのこと。行き違いになった。そこでアポをとっていただき、翌日12日朝、仙台駅から新幹線で東京駅に。八重洲ブックセンターで畠山氏と二男の耕氏と会った。畠山氏は津波で母を亡くされた。コーヒーを飲みながら近況を聞かせていただき、9月に開催するシンポジウムでの基調講演をお願いした。その時に、間伐もされないまま放置されている山林の木をどう復興に活用すればよいか、どう住宅材として活かすか、まずはカキ筏(いかだ)に木材を使いたいと、長く伸びたあごひげをなでながら語っておられたのが印象的だった。

   あれから7年、この間能登に2度来ていだき講演や講義もしていただいた。先日(3月3日)のNHK-ETV特集「カキと森と長靴と」で畠山氏がモノローグで語るドキュメンタリー番組が放送された。海は自らの力で必ず回復すると信じて養殖再開に挑む姿がそこにあった。津波という災害をもたらした海、生業(なりわい)の再興をかける海。「海との和解」、そんな畠山氏の思いを語りから感じた。

⇒11日(日)午後・金沢の天気   くもり

★AI、ヤポネシア人、新幹線、ミンコフスキ

★AI、ヤポネシア人、新幹線、ミンコフスキ

   きょう(26日)一日の行動をキーワードで表現すれば、少々長ったらしいタイトルにあるように「AI、ヤポネシア人、メンデルスゾーン、新幹線」だった。行動範囲も広く金沢と東京の往復だった。

   午前9時46分、JR金沢駅から北陸新幹線「かがやき」に乗った。目指すは東京・品川にある日本マイクロソフト社。午後2時からの勉強会「AIと放送メディアの活用を考える」(主催・月刊ニューメディア)に参加するためだった。金沢大学での講義「マスメディアと現代を読み解く」「ジャーナリズム論」の科目を受け持っていて、AIとメディアのつながりの可能性について関心があり、参加を申し込んでいた。

   北陸新幹線での金沢駅から東京駅への所用時間は2時間28分。この時間を利用して、読みかけの本がカバンにあったので取り出した。『日本人の源流 核DNA解析でたどる』(斎藤成也著、河出書房新社)。著書は10年足らずの間に急速に蓄積してきた膨大な核ゲノム・データの解析結果を分析して、日本人のルーツを論じている。アフリカを出た人類の祖先はいかにして日本列島にたどりついたのか、縄文人や弥生人とは異なる集団が存在したのではないか、日本列島の民を「ヤポネシア人」と定義して、謎解きに挑んでいるのが面白い。

   午後0時20分、ぴったりに東京駅に着いた。品川の日本マイクロソフト社に向かう。品川駅の港南口を出ると同じようなビルが高層ビルが群立していて、とにかく場所が分かりにくい。近くの書店で店員に尋ね、「確か、向こうのビルです」と指刺された方向を歩く。オフィスはテレビや雑誌に取り上げられることも多く、TBSで放映された「安堂ロイド〜A.Ⅰ. Knows Love?〜」や「下町ロケット」で、企業オフィスシーンの撮影に使用されたことでも有名なのだが。

   午後2時00分、東京湾が一望できる31階で勉強会「AI(人工知能)と放送メディアの活用を考える」が始まった。東京大学大学院情報理工学系研究科 の山崎俊彦准教授が「AI研究と放送メディアへの応用」と題して講演が面白かった。番組(TV局、曜日、時間帯)、役者(俳優、女優)、スタッフ(原作、脚本、監督、主題歌など)、役者人気(検索、Twitter)などのデータをAIで解析すれば、放送前でも視聴率が予測できる時代なのだ。また、「AIジャーナリズム」を掲げて、SNSの画像をAIで解析してメディアに提供、さらに「AIアナウンサー」を提供している株式会社「Spectee」代表取締役の村上建治郎氏の話はとてもリアルだった=写真・上=。たき火と火災の写真の違いの判断、偽造写真をAIが分析する時代だ。そこで質問をした。「昨年正月にドイツのドルトムントでイスラム教徒の暴動で、教会に放火とのフェイクニュースが世界的に問題となった。フェイクニュースを摘発するAIを開発してはどうか」と。すると「実は、すでに着手・・」と話が広がった。

   午後5時24分、東京駅から北陸新幹線「かがやき」に乗った。読みかけの本『日本人の源流 核DNA解析でたどる』の続きを。「あとがき」の最後は「本書を、故埴原先生に捧げる」と締めくくられていた。もう40年余りも前の話だが、東京の学生時代に、人類学者の埴原和郎氏の研究室を訪ねたことを思い出した。いきなり「君は北陸の出身だね」と言われ、ドキリとしたものだ。その理由を尋ねると、「君の胴長短足は、体の重心が下に位置し雪上を歩くのに都合がよい。目が細いのはブリザード(地吹雪)から目を守っているのだ。耳が寝ているのもそのため。ちょっと長めの鼻は冷たい外気を暖め、内臓を守っている。君のルーツは典型的な北方系だね。北陸に多いタイプだよ」。ちょっと衝撃的な指摘だったものの、目からウロコが落ちる思いだったことを覚えている。

   午後7時58分、金沢駅に着いた。「あと7分しかない」と年甲斐もなく駅構内を走った。金沢駅前の県立音楽堂で開催されているマルク・ミンコフスキ氏指揮のクラシックコンサートを聴くためだ。ミンコフスキ氏は現在フランス国立ボルドー歌劇場の音楽監督だが、こし9月からオーケストラ・アサンブル金沢(OEK)の芸術監督に就くことなっている。指揮する姿をぜひ一度見たいとS席を購入していた。ただ、東京で勉強会もあるので、3曲目のメンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」が始まる午後8時15分までに音楽堂に入る予定だった。

   ところが番狂わせが起きた。当初は①序曲「フィンガルの洞窟」(11分)、②交響曲「スコットランド」(38分)、③交響曲「イタリア」(27分)だった。休憩は午後7時55分-8時15分だった。前日の25日になって①序曲「フィンガルの洞窟」(11分)、②交響曲「イタリア」(27分)、③交響曲「スコットランド」(38分)に順番が入れ替わったのだ。したがって休憩は午後7時45分―8時05分と10分前倒しとなった。この知らせをOEKスタッフの知人から聞いて慌てた。金沢駅到着7時58分、演奏8時05分、「あと7分」と走ったはこのためだった。

   結果的に休憩時間も後にずれたので間に合った。ミンコフスキ氏のタクトを十分に楽しませてもらった。ちょっと印象的だったのは、服装だった。これまでのOEK音楽監督の故・岩城宏之氏や井上道義氏を見てきたので、指揮者はタキシ-ドというイメージだったが、ミンコフスキ氏は体にぴったりのこげ茶色のディレクターズウエアだった。年齢は55歳、丸肩で肉付きがよく幅広タイプの体格。指揮する後ろ姿は、言葉はふさわしくないかも知れないが、クマが起ち上って体を左右上下に動かし、タクトを振っているようなイメージでとても「おちゃめ」な感じがしたのは自分だけだろうか。

⇒26日(月)夜・金沢の天気    はれ

★「松林図屏風」の心象風景

★「松林図屏風」の心象風景

   これはまるで長谷川等伯の「松林図屏風」だ。クロマツの林が朝もやに覆われ、松林がかすんで見える。等伯はこの能登の風景の印象を京都で描いたのだろうと想像をたくましくした。ここは能登半島の先端、珠洲市の鉢ヶ崎海岸。けさ(17日)ホテルの3階から見える風景だ。砂浜が広がり、クロマツが防風林の役目を担っている。ただ、この朝もやに包まれたクロマツの林を眺めていて、なんとなくもの寂しさを感じるのだ。あの世をとぼとぼと独りで歩いているような寂寥感だ。

   国宝・松林図屏風を初めて鑑賞したのは2005年5月、石川県立七尾美術館だった。等伯が生まれ育った地が七尾だ。もとともこの作品は東京国立博物館で所蔵されている。七尾美術館が会館10周年の記念イベントとして東京国立博物館側と交渉して実現した。当時、国宝が能登に来るということで長蛇の列だった。東京国立博物館は俗称「トウハク」、等伯と同じ語呂だと話題にもなっていた。

   美術館では、学芸員の解説が面白かったので記憶に残っている。能登国は718年に成立した。その国府が七尾に置かれ、以降、政治的なガバナンスの中心として経済、文化も栄えた。町衆の経済的豊かさや文化的素地が後に桃山美術の画聖と讃えられる若き等伯を育んだのだろうということだった。能登を中心に絵師として活躍した時代、その画才を見込んだ町衆が寺院に寄贈した等伯の作品が今も多く保存されている。

   1571年、等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻子を連れて上洛した。京都に入り、本延寺の本山・本法寺のお抱え絵師になり創作活動に磨きをかける。後に本法寺住職となった日通上人と交友を深め、そのつながりで千利休との知縁が広がる。当時の堺は商業都市で、多くの文化人たちが集った。茶の湯の拠点でもあり、茶室には中国などの優れた軸が掛けられていて、等伯も作品に直に接し学ぶことになったことは想像に難くない。

   しかし、等伯の絶頂期に長男久蔵26歳が没する。妻もすでに亡くなっており、能登から連れてきた2人が亡くなった、その寂寥感はいかばかりだったろうか。松林図屏風が描かれたのは久蔵を亡くした翌年1594年、等伯56歳のときの作品といわれる。強風に耐え細く立ちすくむ能登のクロマツ、当時の等伯が心を重ねたのはこの心象風景だったのだろうか。

⇒17日(土)朝・珠洲市の天気   くもり

★除雪ヨイトマケ

★除雪ヨイトマケ

   きょう11日は朝から町内一斉の除雪活動だった。市道なので除雪車は回ってこない。道路は30㌢ほどの高さの氷のように堅くなった雪道となっている。きのうからの雨で深い轍(わだち)があちこちにでき、そこに軽四の自動車などがはまって、動けなくなるケースが町内でも続出していた。デイケアなどの福祉車両も通るため、町内会では人海戦術で一斉除雪となった=写真・上=。

   問題はその雪の堅さだ。金属スコップで突いてもびくともしない。クワでも凍った箇所は割れない。そこで登場したのがツルハシ=写真・下=だ。先端を尖らせて左右に長く張り出した頭部が特徴。形状がツルの口ばしに似ているからそう名付けられたのだろう。鉄製で4、5㌔の重さはあるだろうか、これを振り上げて下に勢いよく降ろし、堅くなった雪道を砕く。もともと、ツルハシは堅い地盤やアスファルトを砕くために使われる。

   問題提起をする人がいた。「ツルハシを使ってもよいが、そのため道路がガタガタにならないのか」と。道路に直接打ち込めば、確かに道路が破損するかもしれないが、今回は凍った雪道を砕くことが目的なので、道路への打撃は少ないのではないか、ということで話がまとまる。

   ツルハシを誰が担当するのか。これを所有しているご近所さんは70歳を過ぎており、「ワタシにはちょっと重すぎる」と言われたので、私がツルハシを引き受けた。ツルハシは見たことはあるものの、作業は初めて。とにかくやってみた。大きく頭上に振り上げて降ろすときは全身を腰ごと下げる。すると、凍った雪がパカンと割れた。ブロックのサイズだが、きれいに割れた。周囲で見ていたご近所さんも「この人こんなことができるんだ」と言わんばかりにうなずいてくれた。うれしくなって2度目、今度はブロックが3つに割れた。「ひょっとしてオレにはツルハシの仕事は向いているのかしれない」と3度目。ご近所さんたちは割れた雪をスコップで、あるいは手で道路側面に積み上げていく。除雪作業のピッチが上がってきた。

   こちらも、ここまで来たら引けないので、どんどんとツルハシを振るう。「父ちゃんのためならエンヤコラ 母ちゃんのためならエンヤコラ もひとつおまけにエンヤコラ」。なんと『ヨイトマケの唄』を自ら声を出し歌っているではないか。「父ちゃんのためなら」でツルハシを上げ、「エンヤコラ」で一気に降ろす。ヨイトマケの唄はこの3節しか知らないので、それを繰り返している。歌うという意識はまったくなかったのだが、自然と口にしていたのが不思議だ。

    労働はリズム。そう思った。1時間30分ほどで片付いた。「おつかれさま」と一斉除雪は終わった。が、これで腰痛が出ないか、だんだん不安になってきた。

⇒11日(日)午後・金沢の天気  くもりときどきゆき