⇒ドキュメント回廊

★「どぶろく」と「シャルドネ」

★「どぶろく」と「シャルドネ」

    きょう(17日)金沢の友人たちと朝から「酒の秘境」をめぐる旅をした。秘境の意味はまだ一般に知られていない場所という意味ではある。まずは日本酒のルーツをめぐる旅から始めた。

    最初に訪れたのは「雨の宮古墳群」(中能登町)。国指定史跡である雨の宮古墳群は、眉丈山(びじょうざん)の尾根筋につくられた古墳群で、地元では古くから「雨乞いの聖地」として知られた。尾根を切り開いて造られた古墳は前方後方墳(1号墳)と前方後円墳(2号墳)を中心に全部で36基が点在している。全長64㍍の1号墳は、4世紀から5世紀の築造とされ、古墳を覆う葺石(ふきいし)も当時ままの姿。まるでエジプトのピラミッドのようだ。山頂にあるこの古墳からは周囲の田んぼが見渡すことができる。この地域は能登半島のコメの産地でもある。1987年に古墳近くの遺跡から炭化した「おにぎりの化石」が出土し、2千年前の弥生時代のものと推定され、日本最古のおにぎりとして当時話題になった。

    コメの恵みに感謝する神事も営まれてきた。同町にある天日陰比咩(あめひかげひめ)神社は稲作の実りに感謝する新嘗祭(にいなめさい、毎年12月5日)で同社が造った「どぶろく」をお供えし、お下がりとして氏子らに振る舞っている。今回、同神社を参拝してお神酒としてどぶろくをいただいた。蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁り、「濁り酒」とも呼ばれる。神社の説明によると、どぶろくを造る神社は全国で30社あり、石川県内では3社とも同町にある。コメ造りと酒造りが連綿と続く地域である。

    次に能登半島をさらに北上して、穴水町に。この辺り一帯は赤土(酸性土壌)だ。ブドウ畑に適さないと言われてきたが、畑に穴水湾で養殖されるカキの殻を天日干しにしてブドウ畑に入れることで土壌が中和され、ミネラルが豊富な畑となり、良質なブドウの栽培に成功している。白ワインの「シャルドネ」、赤ワインの「ヤマソービニオン」は国内のワインコンクールでグランプリに輝いている。さっそく、予約してあったかき料理の店に入った。けさ水揚げしたカキを炭火で焼く。プリプリとしたカキの身はシャルドネにとても合う。

    穴水湾ではカキのほかにボラが獲れる。同町の寿司屋では、ボラの卵巣を塩漬けにして陰干した珍味のカラスミが楽しめる。このカラスミは柔らかく、まるでチーズのような濃厚な風味なのである。これもシャルドネと合う。そのような話をしながら、焼きガキとシャルドネの「マリアージュ」を楽しみながら旅のクライマックは終了したのだった。

⇒17日(日)夜・金沢の天気     はれ

★「雪すかし」 不都合な真実

★「雪すかし」 不都合な真実

   金沢の「雪すかし」、つまりスコップを持っての除雪にはちょっとした暗黙のルールのようなものがある。時間的には朝、それも学校の児童たちが登校する前の7時すぎごろ。ご近所の誰かが、スコップでジャラ、ジャラと始めるとそれが合図となる。別に当番がいるわけではないが、周囲の人たちがそれとなく家から出て来始める。「よう降りましたね」「冷え込みますね」とご近所が朝のあいさつを交わす。いつの間にかご近所が一斉に雪かきをしている=写真=。

   雪をすかす範囲はその家の道路に面した間口部分となる。角の家の場合は横小路があるが、そこは手をつけなくてもよい。家の正面の間口部分の道路を除雪する。しかも、車道の部分はしなくてよい。登校の児童たちが歩く「歩道」部分でよい。すかした雪を家の前の側溝に落とし込み、積み上げていく。冬場の側溝は雪捨て場と化す。

   暗黙のルールに従わなかったからと言って、罰則や制裁があるわけではない。雪は所詮溶けて消えるものだ。しかし、町内の細い市道でどこかの家が積雪を放置すれば、交通の往来に支障をきたし雪害となる。ご近所の人たちはその家の危機管理能力を見抜いてしまう。

   雪すかしのご近所ルールはさて置くとして、最近ある懸念を抱いている。最近のスコップはさじ部がプラスチックなど樹脂製が多い。少し前までは鉄製やアルミ製だったが、今はスコップの軽量化とともにプラスチックが主流なのだ。雪をすかす路面はコンクリートやアスファルトなので、そこをスコップですかすとなるとプラスチック樹脂の方が摩耗する。その破片は側溝を通じて川に流れ、海に出て漂っている。日常の雪すかしが、意識しないうちに「マイクロプラスチック汚染」を増長しているのではないか、ということだ。

    マイクロプラスチック汚染は、粉々に砕けたプラスチックが海に漂い、海中の有害物質を濃縮させる。とくに、油に溶けやすいPCB(ポリ塩化ビフェニール)などの有害物質を表面に吸着させる働きを持っているとされる。そのマイクロプラスチックを小魚が体内に取り込み、さらに小魚を食べる魚に有害物質が蓄積される。食物連鎖で最後に人が魚を獲って食べる。

    ご近所で仲良く路上で雪すかしをするが、それが知らず知らずのうちにマイクロプラスチックを陸上で大量生産することになっているとすれば、それこそ不都合な真実ではある。そう考えると、樹脂製のスコップには製造段階でさじ部分の先端に金属を被せることを義務づけるなどの対策が必要なのではないだろうか。

⇒28日(月)朝・金沢の天気    くもり   

☆雪吊りの価値と景観

☆雪吊りの価値と景観

   けさ金沢はすっかり雪景色になった。それでも自宅周囲は20㌢ほど。昨年のこのごろは70㌢積もったこともあったので、ある意味穏やかな冬将軍かもしれない。雪が積もると金沢の街で目立つが雪吊りだ。北陸の湿った重い雪から樹木を守ってくれて、さらに冬景色を単なる銀世界からアートへと誘ってくれる。まさに、雪吊りが醸し出す価値と景観だ。

   金沢の造園業者は雪吊りにかけてはなかなか「うるさい」(技が優れている)。雪吊りには木の種類や形状、枝ぶりによって実に11種もの技法がある。庭木に雪が積もりと、「雪圧」「雪倒」「雪折れ」「雪曲」と言って、樹木の形状によってさまざま雪害が起きる。樹木の姿を見てプロは「雪吊り」「雪棚」「雪囲い」の手法の判断をする。毎年見慣れている雪吊りの光景だが、縄の結び方などもまったく異なる。

   雪吊りで有名なのは「りんご吊り」=写真・上=。五葉松などの高木に施されている。マツの木の横に孟宗竹の芯(しん)柱を立てて、柱の先頭から縄を17本たらして枝を吊る。パラソル状になっていることろが、アートなのだ。「りんご吊り」の名称については、金沢では江戸時代から実のなる木の一つとしてリンゴの木があった。果実がたわわに実ると枝が折れるので、補強するため同様な手法を用いていたようだ。

   低木に施される雪吊りが「竹又吊り」=写真・下=。ツツジの木に竹を3本、等間隔に立てて上部で結んだ縄を下げて吊る。秋ごろには庭木の枝葉を剪定してもらっているが、ベテランの職人は庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うという話だった。このために強く刈り込みを施すこともある。ゆるく刈り込みをすると、それだけ枝が不必要に成長して、雪害の要因にもなる。庭木本来の美しい形状を保つために、常に雪のことが配慮される。「うるさい」理由はどうやらここにあるようだ。それにしてもせっかくの雪吊りの景色だが、電線を地下配線化してくれたらもっと違う景色になるのではないかと思うのだが。

   周囲の庭木の雪吊りを眺めながら、「雪すかし」(スコップで除雪)をする。玄関前やガレージ周辺の雪を側溝に落とし込む。20分ほどの軽い運動でもある。ただし、これが一夜にして70㌢の積雪だと数時間の重労働となるのは言うまでもない。

⇒27日(日)朝・金沢の天気      はれ

★雪のない冬の兼六園で

★雪のない冬の兼六園で

   このところの天気が異常に思える。例年ならば、周囲は雪景色なのだが積雪はゼロである。まったく降らなかったわけではない。12月30日朝は雪が4、5㌢積もっていて、30分ほど自宅周囲の雪すかしをした。この冬はそれ一回だけ。新調したスコップも手持ちぶさたで、出番を待っている=写真・上=。

    きょう午前、所用で通りかかったので久しぶりに兼六園を歩いた。前を歩く家族連れらしき3人のうち女性が「せっかく兼六園に来たのに、雪がないと魅力がないよね」と。そうか、暖冬で一番ぼやいているのは観光客かもしれない。確かに、雪吊りの風景をパンフで見て、銀世界の兼六園のイメージを膨らませて金沢にやって来たのに、拍子抜けとはこのことか。

   夕顔亭(ゆうがおてい)=写真・下=という古い茶亭の横を通った。もう14年も前のことだがエピドーソを思い出した。茶亭をハイビジョンカメラで撮影したことがある。撮影は、石川県の委託事業で兼六園を映像保存するもの。兼六園の数ある茶亭でもなぜ夕顔亭にこだわったのかというと、この茶室から滝を見ることができるので「滝見の御亭(おちん)」と呼ばれていて、茶室から見る風景がもっとも絵になるからだ。

   この夕顔亭の見本となったといわれるのが、京都の茶道・藪内家の「燕庵(えんなん)」という茶亭。そこで、撮影では藪内家の若宗匠、藪内紹由氏(2015年に家元を継承)に夕顔亭まで起こし頂き、お点前を撮影させていただいた。そこで出た話だ。藪内家には、「利家、居眠りの柱」とういエピソードがある。京の薮内家を訪れた加賀藩祖の前田利家が燕庵に通された時、疲れがたまっていたのか、豪快な気風がそうさせたのか、柱にもたれかかって眠リこけてしまった。こうした逸話が残る燕庵を後に利家の子孫、11代の治脩(はるなが)が1774年に燕庵を模してつくった茶亭が夕顔亭だった。 

   この夕顔亭をつくる際、薮内家と加賀藩には一つの約束事があった。茶器で有名な古田織部が指導してつくったこの由緒ある茶亭を簡単に模倣させる訳にはいかない。そこで、もし燕庵が不慮の事故で焼失した場合は「京に戻す」という条件で建築が許された、との言い伝えだ。知的財産権の観点からいうと、広い意味での「使用権」だけを加賀藩に貸与したということになるかもしれない。その後、契約者である前田ファミリーは明治維新後この夕顔亭を手放し、今では石川県の所有になっている。その約束事は消滅しているのかもしれない。

   知的財産権という法律は当時なかったにせよ、「知財を守る」という精神は脈々と日本の歴史の中に生きていたと、若宗匠のお点前を拝見しながら思ったものだ。暖冬の話がいつの間にか知財の話になってしまった。

⇒19日(土)午後・金沢の天気     はれ

★ブログ5000日

★ブログ5000日

   きょう1月5日はブログ「自在コラム」を開設して5000日目に当たる。2005年4月28日にアップした「★50歳エイ・ヤッと出直し」がスタートだった。その年の1月に民放テレビ局を辞して、4月から金沢大学の「地域連携コーディネーター」という仕事に就いた。まったくの異業種、エイ・ヤッだった。友人からは「よくテレビ局を辞めたね。もったいない」と言われたが、私自身は以前から「50歳になったら人生を見直す」と公言してきたのでそれを実行したまでのこと。そもそも、性格的に言って、一つの仕事を最後まで務め上げて云々というタイプではなく、幼いころから寄り道や道草、よそ見ばかりしてよく親に心配をかけた。 

        では、ブログを始めるきっかけは。大学でコーディネーターの職に就いたことを知らせるあいさつの葉書を友人たちに送った。その当時の私のオフィスはキャンパスに移築された築280年の古民家=写真・上=だった。その外観の写真を葉書に掲載した。すると、テレビ局時代の秋田の友人から「ブログに掲載するので内部の写真も送ってほしい」とメールで返信があった。メールで何度かやり取りをしているうちに、「宇野ちゃんは元新聞記者だから、書き始めるときっとはまるよ」と勧められ、当時ブログに余り興味はなかったが、誘われるままにブログの世界に片足を突っ込んだ。あれから14年、アップロード回数は今回で1363になった。その意味では、どっぷりと「はまった」のかもしれない。

   ブログは毎日書いているわけではなく、3日か4日に1本のゆっくりペースだ。ただ、日々のニュースや身の回りの出来事に目を向け、「これはブログのネタになるかもしれない」などと常に思いを巡らしてきた5000日だった。ブログを意識して写真も随分と撮った。画像ファイルがハードディスクの容量を占めるようになってきたので、外付けのハードディスクを持ち歩いている。これまでの中で印象に残る写真を1枚紹介するとすれば、2006年1月、イタリアの国立フィレンツェ修復研究所を訪れたときの画像だ。この研究所は16世紀に「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が設立し、世界トップクラスの修復のプロたちが集う。研究所内を許可を得て撮らせもらった。ベッドに横たわる聖像があった。修復士たちが何やら聖像の声に耳を傾けているようにも見えた。聖像は右手を上げ、「病んでいる私を助けてほしい」と訴えかけているよう=写真・下=。まさに病院の医者と患者の光景であった。美術王国イタリアのひとコマである。

    ブログを勧めてくれた友人はその後SNSに乗り換え、トレンドを走っている。これまで、SNSの誘いを何人かの友人から受けたが、かたくなにブログ一本で通し、「不器用」な人生を貫いている。「ブログ1万日」となると78歳だ。いま密かに計画を練っている。自身のデータ(日記、検診や診療記録など)、講演や講義の原稿、著作物、撮った写真、読んだ本のリスト、名刺、これまでのブログなどをすべてAIに読み込ませ、私の思考や感情、心理と論理、知識、対人関係を身に着けた「分身」になってもらうのだ。1万日目のブログはひょっとしてAI分身が書いているかもしれない。  (※写真・上は金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」)

⇒5日(土)朝・金沢の天気    あめ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その6

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その6

   この一年の墓碑銘をなぞってみて、映画『日日是好日』で主役を演じた樹木希林(9月15日逝去)に哀悼の意を表したい。映画は亡くなった後の翌月に封切られ、「日日是好日」の意味が知りたくて金沢の映画館で鑑賞した。物語は樹木希林が演じる茶道の先生の元で、主人公を演じる黒木華が大学生の20歳の春にお茶を習い始めことから始まる。

     日日是好日の人生を生き抜いた二人の墓碑銘をなぞる

   映画の空間は一つの小さな茶室なのだ。ここで茶道の帛紗(ふくさ)さばき、ちり打ちをして棗(なつめ)を「こ」の字で拭き清める。茶巾(ちゃきん)を使って「ゆ」の字で茶碗を拭く。多くのシーンは点前だ。面白いのは二十四節季の茶室が描かれ、茶道の四季を際立たせている。四季は「立春」「夏至」「立秋」「小雪」「大寒」などと移ろっていく。同時に掛け軸と茶花が変わり、炉から風炉へ、菓子も季節のものが次々と。外の風景も簀(す)戸、障子戸と季節が移ろう。夏のシーンで主人公が床の掛け軸の「瀧」と茶花のムケゲと矢羽ススキを拝見する姿がある。瀧の字は流れ落ちる滝のしぶきをイメージさせ、「文字は絵である」と悟る。小さな茶室での物語であるものの、季節感あふれる多様な茶道具に見入り、茶道の世界の広さと深さに圧倒された。

   樹木希林の演技はまさに「お茶の先生」だった。初釜の場面で、濃茶の点前をする長めのシーンがある。複雑な手順も自然にこなし、流れが身についていると感じさせる。作法と演技を一体化させる才能はどこから来るのだろうか。主人公は失敗と挫折、人生の岐路に立たされながらも、茶道を通じてその清楚さに磨きをかけ、ヒロインとして輝きを放つ。小さなお茶室で繰り広げられる、茶道という「道」の壮大なドラマだった。日日是好日の意味は、喜怒哀楽の現実を前向きに生きる、その一瞬一瞬の積み重ねが素晴らしい一日となる、そんな解釈だろうか。

   映画を見終わったとき、ひょっとして樹木希林が演じたお茶の先生のモデルではないのかと想像を膨らませた先生がいた。金沢市の出村宗貞さん(本名・貞子)。茶室がある自宅を訪問すると、庭には茶花が咲き、茶室では社中の人たちが稽古に余念がない。出村先生はときには叱り、ときには手を取り教える。話し方、所作など樹木希林が演じる役を地で行く先生だ。その出村さんは10月27日に逝去された。94歳だった。慕われ、尊敬される茶道教授の役柄を見事に演じ切った。日日是好日。名優として最期を遂げた樹木希林と私の心の中でどこか2人の生きざまが重なって見える。(※写真は映画『日日是好日』のパンフレットから)

⇒31日(月)午後・金沢の天気  くもり時々あめ

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その5

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その5

  年の瀬になって起きた「能登半島沖」の「大和堆」での事件。日本の排他的経済水域(EEZ)内で、韓国海軍の駆逐艦が20日午後3時ごろ、海上自衛隊のP1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射した。岩屋防衛大臣が21日夜に緊急記者会見で公表した。P1は最初の照射を受け、回避のため現場空域を一時離脱した。その後、状況を確認するため旋回して戻ったところ、2度目の照射を受けた。P1は韓国艦に意図を問い合わせたが、応答はなかった。照射は数分間に及んだと報じられている。

   ドラマ仕立ての反論、事実と向き合えない相手が陥る弱点とは

   28日、防衛省はP1が韓国駆逐艦を撮影した動画をホームページで公開した。再生して視聴すると、当時のリアルな状況が伝わってくる。レーダーの電波を音に変換してヘッドホンで聞いているP1の操縦士たちが「出しています」と電波を感知すると、「避けた方がいいですね」「めちゃくちゃすごい音だ」と緊迫した会話が録音されている。その後、P1から駆逐艦に向けて、「KOREAN NAVAL SHIP, HULL NUMBER 971, THIS IS JAPAN NAVY, We observed that your FC antenna is directed to us. What is the purpose of your act ? over.」とレーダー照射の目的を無線で3度問い合わせている=写真・防衛省ホームページより=。問い合わせに対する駆逐艦からの応答はなかった。テロップは付けてあるものの、画像の編集はなく、13分7秒の実録である。

   これに対する韓国側の対応はドラマ仕立てだ。映像の公開を受けて、韓国国防部側は「日本側が公開した映像資料は単純に日本の哨戒機が海上から巡回するシーンとパイロットの対話だけだ。一般的な常識からみると射撃統制レーダーを調査したという日本側の主張に対する客観的な証拠とはみられない」と映像の信ぴょう性そのもものを否定。さらに、P1からの呼びかけに答えなかった理由として「日本乗務員がKorea South Naval Shipと呼んだが、通信状態が良くないえうえ英語の発音が悪くてSouthがCoastと聞こえた。海警を呼んだと考えた」と明らかにした、と29日付の韓国・中央日報(日本語版)は伝えている。

  韓国側の対応を「ドラマ仕立て」と述べたのは、事実のストーリーの書き換えを懸命に行っているとの意味である。「英語の発音が悪くて」というそれこそ客観性のない言葉で責任逃れのストーリーを組み立てようとしている。国際外交の舞台であれば、ある意味でドラマ仕立てのハッタリを効かせて交渉を優位に進めることもあるだろう。防衛は外交の場ではなく、相手の弱点を見抜く場でもある。事実と向き合えない相手の弱点とは何か。自己防衛本能は強いが、そのうち自己矛盾に陥る。そのときどうなるのか韓国は。

⇒30日(日)午後・金沢の天気    くもり時々みぞれ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

     「キャッシュレス」も今年よく耳目で触れた言葉かもしれない。テレビや新聞によると、その先進事例は中国で、スマートフォンによる決済が進んでいて、マクドナルドでは現金レジがない店もあるようだ。さらに、食材市場の個人商店などでもQRコード決済が可能で、キャッシュレスが日常の光景になっている。この傾向は世界的に進んでいて、日本だけが「キャッシュレス文明」に乗り遅れてしまうと言わんばかりの少々自虐的なメディアの論調ではある。

     日本は「キャッシュレス文明」に乗り遅れているのか    

   そもそもキャッシュレスは物理的な紙幣や硬貨の現金ではない支払い手段のことだと自身は解釈している。プリペイドカードなど電子マネー(前払い)で買い物をし、電車やバスに乗車する。クレジットカード(後払い)で家電製品を買ったりもする。私は持っていないがデビットカード(即時払い)でレストランで食事を楽しんでいる友人たちもいる。このほか、電気料金や水道・ガスなどの公共料金などは自動引き落としだ。すでに身の回りはキャッシュレスだ。さらに、住宅ローンなどは銀行口座間での送金となっていて、支払い総額の高い比率がすでにキャッシュレス化している。

   それでも、日本のキャッシュレス化は低い。経済産業省の『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)によると、世界各国のキャッシュレス決済比率では韓国が89.1%でトップ、2位中国、3位カナダと続く。日本は18.4%にとどまる。韓国では、年商240万円以上の店舗にクレジットカードの取扱義務を課しているほか、硬貨の発行や流通にコストがかかることから「コインレス」に取り組み、消費者が現金で買い物をした際のつり銭を、直接その人のプリペイドカードに入金する仕組みを国家の政策として進めている(『キャッシュレス・ビジョン』より)。
 
   日本でキャッシュレス化が進まないのは貨幣(お金)に対する日本人独特の意識と文化があるのかもしれないと考察している。その典型的な事例が「新券」という考えだ。俗にいうピン札だ。結婚や出産のお祝いの慶事の熨斗袋や、習いごとの月謝袋にはピン札を入れる。同じ1万円札なのに何故に、と他国の人々は不思議がるかもしれない。新券に気持ちを込めるという文化があるのだ。もう一つは治安のよさだろう。スウェーデンのキャッシュ決済比率も48.6%と高い。この背景に、現金を扱う金融機関や交通機関などで強盗事件がかつて多発したことから、犯罪対策としてキャッシュレス化が推進された(『キャッシュレス・ビジョン』より)。

   では、日本でキャッシュレス化を進めるメリットはどこにあるのだろうか。よく分からない。プリペイドカードの枚数が増えて混乱するのは消費者の方だ。根深いところでは、自然災害が多発する日本で送電網が絶たれた場合、プリペイドカードやクレジットカード、デビットカードは果たして使えるのか、機能するのか。それより手元に現金があったほうが安心なのではないか、という深層心理が日本人のどこかにあるのではないだろうか。小銭を財布の中で探すのは時間がかかり、おっくうではあるが。  ※写真は経済産業省『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)より。

⇒28日(金)夜・金沢の天気     くもり

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

  最近耳にする言葉を2つ挙げると「SDGs(エス・ディ・ジーズ)」と「5G(ファイブ・ジー)」かも知れない。慣れない人は「エス・ディ・ジー」と発音して、なかなか「ズ」が出てこない。この2語はおそらく来年のキーワードではないかと想像している。

      能登半島の最尖端から発するSDGsアクション

   偉そうに言う自身が「SDGs」を発するようになったのはことし3月ごろだ。能登半島の先端に位置する珠洲市が、「SDGs未来都市構想」を掲げる内閣府が全国自治体から公募する「SDGs未来都市」に応募するので、知恵を貸してほしいと持ちかけられたのが最初だった。同市の提案「能登の尖端“未来都市”への挑戦」が採択されたのは6月だった。初公募で29自治体が採択された。次年度(2019年)は応募が過熱するだろうと読んでいる。それだけ、学校教育や企業の現場でも「SDGs」が語られるようになっている。

   珠洲市が率先して「SDGs未来都市」に乗り出したことには2つの意味があると考えている。それは、これまでの地方創生の目標に加え、国際的に通用する「新しい物差し」で地域の課題に向き合うという意思表示を国内だけでなく世界に示したということになるからだ。 

  国連の持続可能な開発目標であるSDGsの基本原則は「誰一人取り残さない」ということ。これは、立場の弱い人々に手を差し伸べて、負担を少なくする、あるいはどうすれば負担が少なくなるのかを福祉の観点だけでなく、環境や経済などの視点から前向きに幅広く考えて、地域のプラス成長にもっていくという発想でもある。SDGsは高邁な理想にも聞こえるが、実践ベースではとても地味だ。珠洲市は7月に市内の10の郵便局とSDGsの目標達成に向けて協力する包括連携協定書を交わした。「なぜ郵便局と」と思われるかもしれないが、郵便局はすべての世帯に郵便物を届けるという使命感がある。その郵便局のネットワークを活かして、地域の見守り活動や災害時の支援、広報など行政の取り組みを支援していく。これは、SDGsの「誰一人取り残さない」社会の理念と実に合致する。地味な一歩かもしれないが、SDGs実践に向けてプロジェクトを積み上げる大きな一歩ではないだろうか。

   10月1日には、珠洲市におけるSDGsの取り組みの中核となる「能登SDGsラボ」がオープンした=写真=。能登SDGsラボは、地域の課題解決のワンストップ窓口であり、さまざまな専門家や有識者が集うシンクタンクの拠点機能を目指している。多くの研究者や学生にも参加してもらい、グローバルな視点で地域課題を考え、課題解決に参画するアクションの場となればと期待する。

        2020年には同市で「奥能登国際芸術祭」が開催される。半島の先端から「SDGs芸術祭」を世界に発信するチャンスかもしれない。

⇒25日(火)朝・金沢の天気     はれ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

   きのう23日は天皇誕生日だった。平成最後の年末を迎えるにあたって、天皇のお気持ちを察する。85歳の誕生日を前に開かれた記者会見(20日、皇居)の内容からお気持ちを読んでみる。宮内庁ホームページに会見録が掲載されている。在位中最後となる会見でもあり、象徴として歩んで来られた平成という時代に込めた思いを述べられ、「私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と語られた。印象的な言葉は、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」とのフレーズだった。来年春の譲位が決まり、安堵のお気持ちが伝わるフレーズだと感じた。

    在位中最後となる会見で天皇が込められた「旅を終える」想い

   天皇が初めて譲位の意向をお言葉として発せられた、平成28年8月8日のお言葉の中で、「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と語られ、悲壮感が漂ったお言葉だと感じた。それが、今回のお言葉では、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」と肩の荷を下ろされたような表現になっている。

   その背景を探ってみる。平成28年8月8日のお言葉の中に、重苦しいお言葉があった。「皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」と。

   「重い」との形容詞をあえて被せた「殯の行事」。一般の葬儀とは違って、夜を徹してご遺体と共にする「お通夜」が2ヵ月にわたって続く。天皇というのは皇位を継承するだけではなく、亡くなられた天皇の霊を継承するという宗教的な意義がセットになっている。こうした「重い」儀式は果たして現代の皇室に必要なのだろうかと天皇自ら問いかけられたのが前段のお言葉だった。生前退位で皇位が継承されれば、殯の行事は簡素化で済む。これが皇室改革の大きな一歩になると、天皇は平成28年8月8日のお言葉を述べられたのではないかと解釈している。今回の「天皇としての旅を終えようとしている今、…」はようやくその願いがかなったとの安堵のお言葉ではないだろうか。

   ちなみに、殯の弔いは東南アジアの一部で残っている。壮大な棚田で2千年の稲作の歴史を有するフィリピン・ルソン島中央のイフガオだ。現地で聞いた話だが、イフガオ族では死者を布でくるんで白骨化するまで自宅に置いて弔う。家族は死者を身近に置くことで、亡き人をしのぶ。日ごとに悲しみにと同時に死者への畏敬の念が沸いているのだという。その後、家族で洗骨の儀式を営み、埋葬する。カトリック教の布教の広がりとともにこうした弔い方は減ってはいるが、古代からの農耕民俗として今でも伝えられている。(※写真は、今月20日の天皇の記者会見、場所は宮殿「石橋の間」=宮内庁ホームページより)

⇒24日(振休)朝・金沢の天気   くもり