⇒ドキュメント回廊

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その4

     「キャッシュレス」も今年よく耳目で触れた言葉かもしれない。テレビや新聞によると、その先進事例は中国で、スマートフォンによる決済が進んでいて、マクドナルドでは現金レジがない店もあるようだ。さらに、食材市場の個人商店などでもQRコード決済が可能で、キャッシュレスが日常の光景になっている。この傾向は世界的に進んでいて、日本だけが「キャッシュレス文明」に乗り遅れてしまうと言わんばかりの少々自虐的なメディアの論調ではある。

     日本は「キャッシュレス文明」に乗り遅れているのか    

   そもそもキャッシュレスは物理的な紙幣や硬貨の現金ではない支払い手段のことだと自身は解釈している。プリペイドカードなど電子マネー(前払い)で買い物をし、電車やバスに乗車する。クレジットカード(後払い)で家電製品を買ったりもする。私は持っていないがデビットカード(即時払い)でレストランで食事を楽しんでいる友人たちもいる。このほか、電気料金や水道・ガスなどの公共料金などは自動引き落としだ。すでに身の回りはキャッシュレスだ。さらに、住宅ローンなどは銀行口座間での送金となっていて、支払い総額の高い比率がすでにキャッシュレス化している。

   それでも、日本のキャッシュレス化は低い。経済産業省の『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)によると、世界各国のキャッシュレス決済比率では韓国が89.1%でトップ、2位中国、3位カナダと続く。日本は18.4%にとどまる。韓国では、年商240万円以上の店舗にクレジットカードの取扱義務を課しているほか、硬貨の発行や流通にコストがかかることから「コインレス」に取り組み、消費者が現金で買い物をした際のつり銭を、直接その人のプリペイドカードに入金する仕組みを国家の政策として進めている(『キャッシュレス・ビジョン』より)。
 
   日本でキャッシュレス化が進まないのは貨幣(お金)に対する日本人独特の意識と文化があるのかもしれないと考察している。その典型的な事例が「新券」という考えだ。俗にいうピン札だ。結婚や出産のお祝いの慶事の熨斗袋や、習いごとの月謝袋にはピン札を入れる。同じ1万円札なのに何故に、と他国の人々は不思議がるかもしれない。新券に気持ちを込めるという文化があるのだ。もう一つは治安のよさだろう。スウェーデンのキャッシュ決済比率も48.6%と高い。この背景に、現金を扱う金融機関や交通機関などで強盗事件がかつて多発したことから、犯罪対策としてキャッシュレス化が推進された(『キャッシュレス・ビジョン』より)。

   では、日本でキャッシュレス化を進めるメリットはどこにあるのだろうか。よく分からない。プリペイドカードの枚数が増えて混乱するのは消費者の方だ。根深いところでは、自然災害が多発する日本で送電網が絶たれた場合、プリペイドカードやクレジットカード、デビットカードは果たして使えるのか、機能するのか。それより手元に現金があったほうが安心なのではないか、という深層心理が日本人のどこかにあるのではないだろうか。小銭を財布の中で探すのは時間がかかり、おっくうではあるが。  ※写真は経済産業省『キャッシュレス・ビジョン』(2018年4月)より。

⇒28日(金)夜・金沢の天気     くもり

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その3

  最近耳にする言葉を2つ挙げると「SDGs(エス・ディ・ジーズ)」と「5G(ファイブ・ジー)」かも知れない。慣れない人は「エス・ディ・ジー」と発音して、なかなか「ズ」が出てこない。この2語はおそらく来年のキーワードではないかと想像している。

      能登半島の最尖端から発するSDGsアクション

   偉そうに言う自身が「SDGs」を発するようになったのはことし3月ごろだ。能登半島の先端に位置する珠洲市が、「SDGs未来都市構想」を掲げる内閣府が全国自治体から公募する「SDGs未来都市」に応募するので、知恵を貸してほしいと持ちかけられたのが最初だった。同市の提案「能登の尖端“未来都市”への挑戦」が採択されたのは6月だった。初公募で29自治体が採択された。次年度(2019年)は応募が過熱するだろうと読んでいる。それだけ、学校教育や企業の現場でも「SDGs」が語られるようになっている。

   珠洲市が率先して「SDGs未来都市」に乗り出したことには2つの意味があると考えている。それは、これまでの地方創生の目標に加え、国際的に通用する「新しい物差し」で地域の課題に向き合うという意思表示を国内だけでなく世界に示したということになるからだ。 

  国連の持続可能な開発目標であるSDGsの基本原則は「誰一人取り残さない」ということ。これは、立場の弱い人々に手を差し伸べて、負担を少なくする、あるいはどうすれば負担が少なくなるのかを福祉の観点だけでなく、環境や経済などの視点から前向きに幅広く考えて、地域のプラス成長にもっていくという発想でもある。SDGsは高邁な理想にも聞こえるが、実践ベースではとても地味だ。珠洲市は7月に市内の10の郵便局とSDGsの目標達成に向けて協力する包括連携協定書を交わした。「なぜ郵便局と」と思われるかもしれないが、郵便局はすべての世帯に郵便物を届けるという使命感がある。その郵便局のネットワークを活かして、地域の見守り活動や災害時の支援、広報など行政の取り組みを支援していく。これは、SDGsの「誰一人取り残さない」社会の理念と実に合致する。地味な一歩かもしれないが、SDGs実践に向けてプロジェクトを積み上げる大きな一歩ではないだろうか。

   10月1日には、珠洲市におけるSDGsの取り組みの中核となる「能登SDGsラボ」がオープンした=写真=。能登SDGsラボは、地域の課題解決のワンストップ窓口であり、さまざまな専門家や有識者が集うシンクタンクの拠点機能を目指している。多くの研究者や学生にも参加してもらい、グローバルな視点で地域課題を考え、課題解決に参画するアクションの場となればと期待する。

        2020年には同市で「奥能登国際芸術祭」が開催される。半島の先端から「SDGs芸術祭」を世界に発信するチャンスかもしれない。

⇒25日(火)朝・金沢の天気     はれ

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

☆平成最後の年末、レクイエム回顧~その2

   きのう23日は天皇誕生日だった。平成最後の年末を迎えるにあたって、天皇のお気持ちを察する。85歳の誕生日を前に開かれた記者会見(20日、皇居)の内容からお気持ちを読んでみる。宮内庁ホームページに会見録が掲載されている。在位中最後となる会見でもあり、象徴として歩んで来られた平成という時代に込めた思いを述べられ、「私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と語られた。印象的な言葉は、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」とのフレーズだった。来年春の譲位が決まり、安堵のお気持ちが伝わるフレーズだと感じた。

    在位中最後となる会見で天皇が込められた「旅を終える」想い

   天皇が初めて譲位の意向をお言葉として発せられた、平成28年8月8日のお言葉の中で、「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と語られ、悲壮感が漂ったお言葉だと感じた。それが、今回のお言葉では、「天皇としての旅を終えようとしている今、…」と肩の荷を下ろされたような表現になっている。

   その背景を探ってみる。平成28年8月8日のお言葉の中に、重苦しいお言葉があった。「皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません」と。

   「重い」との形容詞をあえて被せた「殯の行事」。一般の葬儀とは違って、夜を徹してご遺体と共にする「お通夜」が2ヵ月にわたって続く。天皇というのは皇位を継承するだけではなく、亡くなられた天皇の霊を継承するという宗教的な意義がセットになっている。こうした「重い」儀式は果たして現代の皇室に必要なのだろうかと天皇自ら問いかけられたのが前段のお言葉だった。生前退位で皇位が継承されれば、殯の行事は簡素化で済む。これが皇室改革の大きな一歩になると、天皇は平成28年8月8日のお言葉を述べられたのではないかと解釈している。今回の「天皇としての旅を終えようとしている今、…」はようやくその願いがかなったとの安堵のお言葉ではないだろうか。

   ちなみに、殯の弔いは東南アジアの一部で残っている。壮大な棚田で2千年の稲作の歴史を有するフィリピン・ルソン島中央のイフガオだ。現地で聞いた話だが、イフガオ族では死者を布でくるんで白骨化するまで自宅に置いて弔う。家族は死者を身近に置くことで、亡き人をしのぶ。日ごとに悲しみにと同時に死者への畏敬の念が沸いているのだという。その後、家族で洗骨の儀式を営み、埋葬する。カトリック教の布教の広がりとともにこうした弔い方は減ってはいるが、古代からの農耕民俗として今でも伝えられている。(※写真は、今月20日の天皇の記者会見、場所は宮殿「石橋の間」=宮内庁ホームページより)

⇒24日(振休)朝・金沢の天気   くもり

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

★平成最後の年末、レクイエム回顧~その1

    きょう23日午後2時から石川県立音楽堂で、県音楽文化協会の年末公演が開催された。モーツアルトの「レイクエム」、年末を飾るのにふさわしいコンサートだった。昭和38年(1963)から続く恒例の年末コンサートはこれまで長らく、ベートーベンの「第九交響曲」と「荘厳ミサ曲」の2公演がセットだった。今回初めて「荘厳ミサ曲」から「レクイエム」に変更された。平成最後の年末公演を「レイクエム」で締める。練習も相当厳しいものがあったろうことは想像に難くない。公演では、イタリアの合唱団メンバーも加わり、35歳で亡くなったモーツアルトが最後に残した曲が感動的に演奏された。「レイクエム」を聴きながら、平成最後の1年を振り返る。

      日本海の「厄介な危険物」、来年はさらに混沌と

    日本海側で暮らす一人として、はやり北朝鮮と日本海、そして最近の韓国の動向が気にかかった1年だった。年初の1月10日朝、金沢市下安原海岸に北朝鮮の漁船が漂着し中から7人の遺体が見つかった。現場に足を運んだ。船の中には、ハングル文字で書かれた菓子袋などが散乱し、迷彩服もあった。ひょっとして軍人が乗っていたのではないかと勘ぐった。昨年から問題となっている北朝鮮の漂着船を現場で見るのは初めてだが、それにしても古い木造船だ。全長16㍍、幅3㍍ほど。このような船で日本海のイカの好漁場である大和堆(日本のEEZ内)に繰り出し、漁をする。しかし、冬の日本海は荒れやすい。命がけで、なぜそこまでしてイカ漁に固執する必要があったのだろうか。上からの命令だったのか。

      海上保安庁によると、ことし1年ですでに北朝鮮からとみられる木造船が漂着は201件、昨年の2倍。問題はこうした漂着船の解体処分や遺体の火葬をするのは自治体だ。石川県に漂着した木造船などの処分費用21件880万円(11月現在)。最終的に国が全額負担している。

   もっと厄介なのは北朝鮮の違法操業だ。スルメイカ漁は6月に解禁になり、多くの日本漁船が大和堆でのイカ釣り漁を開始する。日本漁船は釣り漁であるのに対し、北のイカ漁船は網漁だ。夜間に日本漁船が集魚灯をつけると、集魚灯の設備を持たない北の漁船が多数近寄ってきて網漁を行う。獲物を横取りするだけでなく、網が日本漁船のスクリューに絡むと事故になる危険性にさらされる。また、夜間では北の木造漁船はレーダーでも目視でも確認しにくいため、衝突の可能性が出てくる。衝突した場合、水難救助法によって北の乗組員を救助しなければならない。そうなればイカ漁どころではなくなる。だから、「厄介な危険物」にはあえて近寄らない。多くの日本漁船が好漁場である大和堆を避けるという現象が起きたのはこのためだ。

    さらに厄介なのは最近の韓国の動きだ。11月20日、大和堆付近で操業中の日本のイカ釣り漁船に対し、韓国の海洋警察庁の警備艦が「操業を止め、海域を移動するよう」と指示を出し、漁船に接近していた「事件」があった。日本の海上保安庁の巡視船が韓国の警備艇と漁船の間に割って入ることで、韓国の警備艇は現場海域を離れた。

    スルメイカは貴重な漁業資源だ。それを北朝鮮に荒らされ、さらに「日本漁船は海域を出ろ」という韓国。来年の日本海はさらに混沌としてくるのではないか。

⇒23日(日)夜・金沢の天気    あめ

★島崎藤村と「どぶろく」

★島崎藤村と「どぶろく」

   出張の帰りに北陸新幹線軽井沢駅で途中下車し、「しなの鉄道」に乗り換え、小諸市を巡った。晴れてはいたが寒風がふいていた。小諸駅の裏手にある「小諸城址 懐古園」を散策した。ダイナミックな野面石積みの石垣、樹齢500年のケヤキの大木など城址めぐりを楽しんだ。ただ、城の大手門と本丸の間に鉄道が敷設されているので、城址公園の遺産がまるで分断されたようになっていて、「もったいない」と感じたのは私だけだろうか。

   懐古園にある「藤村記念館」に入った。平屋の小さな民家のような建物なのだが、設計者は東宮御所や帝国劇場を手掛けた建築家、谷口吉郎(1904-1979)だった。パンフレットによると、島崎藤村が小諸にやってきたのは明治32年(1899)のこと。牧師として藤村に洗礼を施した木村熊二に招かれて私塾の教員として小諸にやってきた。ここで過ごした6年余の間に創作活動を広げ、『雲』『千曲川のスケッチ』、そして『破戒』を起稿した。記念館には藤村の小諸時代を中心とした作品や資料、遺品が展示されている。

   館内は写真撮影は不可なのだが、一枚の写真のみ「撮影可」となっているものがあった。浅間山、小諸の街並み、そして千曲川が流れる大判サイズの写真で、『千曲川旅情の歌』と藤村の写真を配置している=写真=。確か中学時代に覚えた『千曲川旅情の歌』の始まりは今でも記憶にある。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」。出だしは覚えているのだが、実は最後まで目を通したことは記憶に薄い。歌詞が長い。改めて最後まで目を通すと、歌詞は「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて草枕しばし慰む」で締めている。このとき、「藤村はどぶろく大好きだったのか」と想像をたくましくした。どぶろくは蒸した酒米に麹と水を混ぜ、熟成させた酒。ろ過はしないため白く濁り、昔から「濁り酒」とも呼ばれていた。どぶろくは簡単に造ることはできるが、明治の酒税法によって、自家での醸造酒の製造を禁止され、現在でも一般家庭では法律上造れない。

   歌詞にあえて「濁り酒」を入れるとは好物だったのではないかと想像するが、と言うことは、藤村自身も家庭で醸造していたのか。酒税法によって自家での醸造酒の製造を禁止されたのは明治32年(1899)。藤村が小諸にやって来た年である。この歌が作品として発表されたのは同34年(1901)の『落梅集』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションでこの著作物を開いてみると、巻頭言の次の2ページと3ページに「小諸なる古城のほとり」のタイトルで掲載されている。藤村にとって相当の自信作だったに違いない。

           当時法律の周知には数年かかったろうと想像すると、この歌をつくったころはまだ、どぶろくを自由に造れ、存分に飲めたのだろう。しかし、日露戦争が明治37年(1904)に起き、戦費調達のために税の締め付けがきつくなり、「濁り酒」は本格的に御法度となっていったのではないだろうか。

⇒16日(日)午前・金沢の天気   くもり

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

☆「壺中日月長」 庭清掃と茶の湯のこと

   寺社の庭園で清掃ボランティアをして、その後、茶会に臨む。4日に金沢市山の上町にある浄土宗心蓮社でそのような催しが開かれ、参加した。ボランティアとしてではなく、茶会のバックヤードでのスタッフとしての参加だった。

   このイベントは金沢市などが主催する「東アジア文化都市2018金沢」の中の「金沢みらい茶会」の一つ。みらい茶会では「トラディショナル(伝統)」と「コンテンポラリー(現在)」の2つをテーマに茶の湯の文化を味わうという、ある意味で野心的な試みでもある。

   「ボランティア茶会」を企画したのは国連大学IAS研究員のフアン・パストール・イヴァールス氏。日本の建築と庭園が専門で、研究のかたわら茶道をたしむ。フアン氏は金沢の寺社などで研究を進める中であることに気づいた。市内には庭園が数多くあるものの、所有者の高齢化などによって、あるいは経費的に維持管理ができない状態に陥っているケースが目立つことだった。心蓮社も住職が兼務で、庭園になかなか手が回らない状態だった。2年前にフアン氏が同社の庭園を訪れ、ボランティアによる清掃を住職に提案。その後、学生や知り合いの外国人仲間を誘って清掃のボランティア活動を続けている。

      同社の庭園は「築山池泉式」と呼ばれる江戸時代に造られた書院庭園。湧水の池は「心」をかたどり、池のきわにはタブの巨木がそびえる。市指定名勝でもある。今回午前と午後に分けて30人余りのボランティアが参加。サンショウウオが住む池の周囲で落ち葉を拾い集めたり、草刈りなどを行った。参加したボランティアのほどんどが女性。東京や大阪などから観光で訪れ偶然イベントを知って参加した人たちや、フアン氏の活動を支援する外国人も。また、趣味で寺巡りをしている女性、テラジョ(寺女)と呼ばれる人たちもいてなかなかにぎやか。2時間ほどの作業で、庭園が清められた=写真・上=。

  その後、書院での茶会に。床の間には「壺中日月長」の掛け軸。秋明菊など種の季節の花が彩りを添える=写真・下=。参加者は薄茶を味わいながら、書院から清められた庭園を眺める。寺社の庭で清掃ボランティア、そして茶会という2つのステージは参加者にとって2度心が洗われ満足度も高かったのではないだろうか。

   私の仕事は「点(たて)出し」。 茶の湯で薄茶を客の前でたてるのは正客と次客の2人。3人目の客からはあからじめ、「点出しでさせていただきます」とことわってから、水屋でたてたお茶を運ぶ。お湯に入れて茶碗を温め、薄茶の粉を茶碗に入れて、茶筅(ちゃせん)をスクリューにように回してたてる。それを半東(はんとう)役が客に運ぶ。

   庭園の清掃ボランティアと茶の湯という小さな空間だが、それはそれで歴史的な背景もあり、人の作法や人生観、人と自然のかかわりが時空として深く広がる。掛け軸の壺中日月長(こちゅうじつげつながし)という禅語はこの一日のことを筆一行に凝縮しているように思えた。

⇒6日(火)夜・金沢の天気     くもり

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

★阿武松と輪島の横綱顕彰碑

   能登が生んだ相撲界のトップは2人いる。第6代横綱、阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)と第54代横綱の輪島大士(わじま・ひろし)だ。2人の生きた時代はまったく違うが、幼いころからエピソードはよく聞いた。ことし5月に2人の顕彰碑を訪ねる機会があった。

   阿武松の顕彰碑は生まれ故郷の能登町七見にある。富山湾を臨む海辺に、高さ4.5メ㍍、幅2.4㍍の石碑だ。町の案内板によると、碑は昭和12年(1937)に建立され、相撲力士碑としては日本一の大きさと説明がある。文政11年(1828)に横綱に昇進、天保6年(1835)の引退までの在位15場所の通算成績は230勝48敗だった。ちょっと癖もあったようだ。立合いでよく「待った」をかけた。良く言えば慎重派だったのだろう。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし…」と阿武松の取り組みを引用したほどだった。

   阿武松が引退して、145年後再び能登生まれが横綱に駆け上った。輪島だ。七尾市石崎町の出身。阿武松の故郷とは直線距離にして30㌔ほどだろうか。同じく海辺の町だ。ちなみに現役の遠藤聖大(えんどう・しょうた)は2人の中間地点の穴水町中居の生まれ。

   輪島は金沢高校1年のときに国体で優勝して地元石川で名をはせた。日本大学へ進み、2年連続の学生横綱、そして花籠部屋へ入門した。当時、学生横綱がプロの世界に入るのは異例だった。1973年に横綱に昇進したが、本名で通した。これも異例だった。ただ当時、能登半島の観光ブームの起爆剤になった。輪島は「輪島の朝市」や「輪島の千枚田」を連想させ、生誕地に接する和倉温泉のにぎわいに貢献した。77年に歌手・石川さゆりの『能登半島』がヒットし、能登ブームはピークに達した。

   左下手を取ると力を発揮する特異な取り口は「黄金の左」と呼ばれ、ライバルの横綱・北の湖とともに「輪湖時代」の全盛期を築いた。81年春場所で引退、通算成績は673勝234敗だった。その後、花籠部屋を継承したが、金銭トラブルなどで日本相撲協会を退職。プロレスラーに転向し、ジャイアント馬場の門下に。その後も輪島の話題は地元でよく聞いた。出身地の石崎奉燈祭(8月)では、帰省してキリコを担いでいる写真が地元紙で掲載されたこともあった。一方、仕事に困って和倉温泉の旅館で下足番をしているのを見たなどと噂話も。これも「有名税」なのだろう。

   その輪島がきのう8日逝去したと報じられた。70歳だった。阿武松の顕彰碑に匹敵する石碑が生まれ故郷の石崎町、市立能登香島中学の後方に建っている。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    あめ

☆たかが茶会、されど茶会

☆たかが茶会、されど茶会

    きょう(8日)台風一過の晴天。そして文化の秋、真っ只中でもある。知人に誘われ、茶会に出かけた。自身も大人のたしなみを心得たいと思い、茶道の稽古を月2回のペースで積んでいるが、何しろ「六十の手習い」で習っては忘れるの繰り返しではある。

    茶会の名称は「金沢城・兼六園大茶会」、石川県茶道協会や地元の新聞社などの主催。8流派13社中が点前を披露する、まさに大茶会だ。この茶会の特徴は、陶芸や漆芸、木工などの人間国宝から若手作家までの新作道具を使用することが条件となっている。点前もさることながら工芸作家の新作も楽しみな茶会だ。

    午前中、国の登録有形文化財の武家屋敷「松風閣」=写真・上=で遠州流の点前を披露する茶席についた。多数の客がいる「大寄せの茶会」でそれぞれの流派の点前を拝見すると流派の特徴がよく分かる。遠州流は大名茶人で知られた小堀遠州を祖としていて、武家茶道の代表でもある。遠州流では、袱紗(ふくさ)は右腰につけ、私が習っている表千家流では左腰につける。同じ社中の人から、武家茶道では左腰は刀を指す場所なので、反対側の右側に袱紗をつけるのだと聞いたことがある。「なるほど」と思ったのだが、遠州流を習っている別の知人に聞くとそうではないらしい。千家流(表千家、裏千家、武者小路千家)を広めたとされる千宗旦(利休の孫)は左利きだったので、左腰に袱紗をつけるのが千家の流儀になったのだと。念を入れて、遠州流のホームページをチェックすると確かに同様のことが記載させれていた。はやり、人物の利き手の違いなのだろうか。

    茶席の床を拝見する。床の掛軸は『一山行尽一山青』。亭主が解説してくれた。禅語で、「一山行き尽くせば一山青し」。何とか山を登りきったと思えば、 また登らねばならぬ青々とした山が見えてくる、人生は是れ修行なり、と。武家茶道らしい、人生を山にたとえたダイナミックさ、そして実にストイックな一行である。

   掛軸の下の季の花に心が打たれた。花入は遠州が好んだといわれる瓢型の『砂張瓢花入』(魚住為楽作)。砂張(さはり)は、銅と錫(すず)を主成分に亜鉛銀、鉛を少量含ませた銅合金の一種。黒く重そうな質感が床の空間をぐっと締めている。季の花は、浜菊(はまぎく)の華やかな姿、上臈杜鵑(じょうろうほととぎす)」は黄色い花、赤い光沢の実をつけた梅擬(うめもどき)で彩られていた。上臈杜鵑の葉先に目をやると、虫食いになっている。秋の自然の情景を際立たせている。華やかさの後に控える「枯れ」の現実。諸行無常のたとえが心によぎる。許しを得て、写真を一枚撮らせてもらった=写真・下=。

   茶席は「わび・さび」「もてなし」の心に自然の美しさと豊かさを加えて、客観的な美を空間に創り上げる総合芸術だと思う。最近は生物文化多様性という表現で日本の茶道を紹介することもある。たかが茶会、されど茶会。その空間には実に深みがある。

⇒8日(祝)夜・金沢の天気    はれ

★華厳の滝で尋ねたこと

★華厳の滝で尋ねたこと

    日光では華厳の滝も見学した。鬼怒川支流の大谷(だいや)川を渡って、「第二いろは坂」(国道120号)の上り坂を走行する。ヘアピンカーブの連続はスリルと同時に妙なふらつき感も伴う。

    そうこうしながら華厳の滝に。「華厳滝エレベーター」で100㍍下の展望台まで行くことにした。エレベーターの料金は1人550円。受付入口でこの値段を聞いて引き返すインバウンド観光のカップルもいた。パンフによると、エレベーターは岩盤をくりぬき1930年に造られたとある。2基のエレベーターには改札口があり、車掌の姿をした係員もいる。民間会社が経営しているが、おそらく上下を移動する交通機関という位置づけなのだろう。30人乗りで60秒の移動だ。

    エレベーターを降り、スロープと階段を下り展望台に行く。少々霧がかかっていたが、高さ97㍍を一気に落下する壮大な景観は、まさに自然の造形美だ。爆音とともに水しぶきが弾ける豪快な姿。滝のことを「瀑布(ばくふ)」と称することもある。高所から白い布を垂らしたような。まさにその景観=写真=には圧倒された。展望台は小学生の修学旅行と思われる児童たちが滝をバックに記念撮影をしていた。腕章に「富」と書かれてあったので、「どこの小学校なの」と男子児童に尋ねると、「神奈川県の・・市立富士見小学校です」と即答があった。さらに「富士山を毎日のように見ることができて、そしてきょうは華厳の滝、いい修学旅行だね」とさらに言葉をかけると、「富士山はきれいで眺めるだけですが、ここは音に迫力があって、とても心に残ると思います」と。理解しやすく無駄のない言葉使いだった。

   30分ほど滝の迫力を楽しんで、エレベーターに戻った。車掌に尋ねた。「展望台まではスロープと階段がありますが、車椅子の障害者が展望台に行きたいと希望した場合、介助や支援はされているのですか」と。すると「そこまでやっていません」と。「介助なしですか」と確認すると、「そうなんです。民間ですから」と。エレベーターの案内入口では車椅子の見学者には地下ではなく地上の展望台を案内しているようだ。私見だが、上から眺める滝より、下から見上げる滝の方が、先の小学生の言葉通り、音響が得られる分、臨場感がまるで違う。

   会社が人手不足などで車椅子の障害者を介助する常駐スタッフまでは確保できないとすれば、「550円のエレベーター料金は無料にしますので、お客さんの中で車椅子の介助を手伝っていただける方を募集します」と場内アナウンスで呼びかけてもよいのではないか。先に引き返したインバウンドのカップルは手を挙げるかもしれない。そんなことを思いながら華厳の滝を後にした。戦場ヶ原(標高1400㍍)はうっすらと草紅葉(くさもみじ)が色づいていた。

⇒28日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆日光東照宮で見たこと

☆日光東照宮で見たこと

     東京へ行くついでに足を延ばして、日光を訪れた。北陸新幹線の大宮駅で下りて、東武線に乗り換えて日光駅へ。駅前でレンターカーを借りて日光東照宮と華厳の滝などをめぐった。実は日光は初めて。「三猿」や「眠り猫」はよく知られているが、ぜひこの目で見てみたいと思い立った。

   駅から参道の坂道を走行すると、「ゆば料理」の店が看板があちらこちらに見えてくる。日光東照宮の表門に到着し、外に出ると小雨ということもあって少々肌寒い。小さな案内板があった。「ここは標高634㍍ 東京スカイツリーと同じ高さです」と。平地に比べ寒いわけだ。30㍍はあるだろう杉の大木に圧倒されながら、表門に行く。

   表門の入口に拝観受付所(料金所)があった。霊験あらたかな気持ちで受付所に行くと、待っていたのは「Suica(スイカ)」の自動拝観券売機だった。交通系電子マネー決済システムでありがたく拝観券をいただく。そう言えば、レンタカーの窓口の従業員が言っていた。昨年、日光東照宮の国宝「陽明門」の4年の大修理が完了したので、参拝客やインバウンド観光の客で随分増えた、と。確かに、Suica販売機は現金を入れない分、人のさばきが速い。また、英語や中国語、韓国語にも対応している。「さすが、ユスネスコの世界遺産」と感心しながら表門をくぐった。

    「神厩舎(しんきゅう)」と呼ばれる神馬の厩(うまや)が左側に見えてきた。「見ざる・言わざる・聞かざる」三猿の木彫がある建物だ。正面と側面合わせて8面の彫刻があり、男性ガイド氏の「悪いことは見ない、言わない、聞かないという、親から子どもへの躾(しつけ)教育を表しているといわれています」との説明に聴き入る。

    厳かできらびやかな「陽明門」をくぐる。極彩色で精緻な彫刻の数々。門の内側の天井には狩野探幽が描いた「昇り龍」と「降龍」が。徳川三代将軍・家光が家康を神格化するために大改造を行ったとされる。高さ11m、幅約mの門にどれだけの江戸の建築の技、工芸、そして美術の粋が凝縮されていることか、圧倒的な存在感がある。

    唐門から本社を仰ぎ、右に回って「眠り猫」=写真・上=がいる坂下門へ。家康公の眠る墓所に通じる門に刻まれている、あの有名な体を丸めて寝ている猫。門をぐぐって振り向くと、眠り猫の裏側に当たる木彫は二羽の雀(すずめ)が躍っている姿だ。作者は左甚五郎。この二つの作品から読み取れる意図は「共存共栄の世界」かと想像した。戦乱の世をかいくぐって天下を治めた初代の威厳を借りて、三代目は泰平の世の願いを東照宮の大改造に込めた。もし、三代目の発想が眠り猫の作成に反映されているとすれば、武家諸法度や参勤交代などもろもろの制度による泰平の世を構築することが、まさに眠り猫と雀の共存共栄ではなかったか。

    墓所がある奥宮までの階段207段を上った。石坂と石段、石垣=写真・下=が続く。日光の山奥までこれら石をどのように運んだのか。普請した大名たちの嘆き節が聞こえてきそうだ。

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