⇒ドキュメント回廊

★「弁当忘れてもマスク忘れるな」

★「弁当忘れてもマスク忘れるな」

   「弁当忘れても傘忘れるな」。地域ならではの教えというものがある。金沢は年間を通して雨の日が多く、年間の降水日数は170日余りと全国でもトップクラス(総務省「統計でみる都道府県のすがた」) 。天気も変わりやすく、朝晴れていても、午後には雨やくもり、ときには雷雨もある。そのような気象の特徴から冒頭のような言葉が金沢で生まれたのだろう。ただ、最近思うのは「弁当忘れてもマスク忘れるな」だ。

   きのう出勤する途中でマスクを忘れたのに気が付き、コンビニに立ち寄ったが売り切れだった。大学に到着して、生協売店で買いを求めた。バラ売りで1枚74円。それから職場に行く。エレベーターに乗るとすでに3人いた。おそらくマスクを着けていなかったら気が引けて乗らなかっただろう。マスクは通行手形のようなもので、「場」に入るには今や必須となっている。弁当を忘れても、誰も何も言わないが、マスクを着けていないとジロリとした視線を感じる。さらに咳やくしゃみをしようものなら、多様な角度から目線が集中するのだ。

   マスクの常識は新型コロナウイルスによって大きく変わった。これまでマスクは使い捨てが常識だった。それが、洗濯して再利用が当たり前になった。また、マスクは白色が当たり前と思っていたが、最近では黒色もあればピンクもあり、白地に花柄模様と実に多様である。先日も夜の街ですれ違った男性が「首なし」で一瞬ドキリとした。黒色マスクに黒の帽子を深く被っていたのでそう見えたのだ。

   先日もこのブログで取り上げたWHOの公式ホームページには「When and how to use masks」と題してマスクの使い方を紹介している。これを見ていて感じることは日本人のマスク観と海外のマスク観が違っていることだ。この中で「やってはいけないこと」として、マスクを他人とシェアする、破れたマスクを使う、マスクで鼻を出す、汚れたマスクを着用する、などイラスト入れりで説明している=写真=。衛生観念の違いと言えばそうなのかもしれないが、日本人がこのイラストを見れば、マスクが普及していない国や地域ではマスクの使い方をめぐって混乱しているのではないかと想像する。

   というのも、WHOが掲載しているマスク着用に関するイラストや文書は、世界の国民に向けて発しているのではなく、「on Advice to decision makers」(意思決定者へのアドバイス)として発信しているのだ。「マスク途上国」は世界で多くあり、そのマスクの使い方を初歩から指導者に教えている、そんなふうにも読める。ここはWHOに期待したいところだ。

⇒23日(火)朝・金沢の天気    はれ

☆加賀千代女と酒飲み男

☆加賀千代女と酒飲み男

    『朝顔やつるへとられてもらい水』の俳句で有名な江戸時代の俳人、千代女(1703-75)は加賀国松任(現・石川県白山市)に生まれ育った。小さいころから、この句を耳にすると夏休みのイメージがわくくらい有名だった。昨年の話だが、古美術の展示販売会で千代女の発句が展示されていると聞いて、会場の金沢美術倶楽部へ見学に行ってきた。

   2点展示されていると聞いていたが、『朝かほや起こしたものは花も見ず』は早々と売れて展示されてはなかった。もう一点の『男ならひとりのむほど清水かな』の掛け軸はまるで滝を流れるような書体だった。「千代尼」と署名があるので、剃髪した晩年の作だろうと美術商から説明を受けた。ただの見学のつもりだったが、『男ならひとりのむほど清水かな』の句に魅かれて購入した。

   自宅の床の間にさっそく飾ってみる=写真=。掛け軸にじっと向き合っていると、千代女のくすくすと笑い声が聞こえてきそうになった。酒飲みの男が一人酒でぐいぐいと飲んでいる。それを見て千代女は「酒はまるで水みたい」と思ったに違いない。おそらくその男は僧侶だった。法事で余った酒をもらい、自坊で黙々と飲んでいる姿ではなかったか。『男ならひとりのむほど清水かな』。千代女の観察眼は鋭い。

   はたと気がついた。冒頭の『朝顔やつるへとられてもらい水』に面白い解釈が浮かんだ。自らの体験だが、若いころ飲み仲間数人と朝まで飲んでいて、「朝顔みたいだ」と互いに笑ったことがある。赤くなった顔と、青白くなった顔をつき合わせるとまるで朝顔の花のようだった。以下はまったくの空想だ。千代女がある夏の朝、自坊の外の井戸に水くみに出ようとすると、朝まで飲んでいた酔っ払い男たちが井戸で水を飲んでいた。あるいは、井戸の近くでへべれけになって寝込んでいた。近づくこともできなかった千代女はしかたなく近所に水をもらいにいった。そして、男たちのへべれけの顔や姿から井戸にからまる朝顔をイメージした。そんなふうに解釈するとこの句がとても分かりやすい。

   私は俳句の研究者でもなければ、たしなんでもいない。酒はたしなんでいる。顔は赤くなる。今もその酒の勢いでブログを書いてしまった。

⇒13日(土)夜・金沢の天気    あめ

☆「非日常」から見えてきた「日常」の不都合

☆「非日常」から見えてきた「日常」の不都合

   けさ地元紙を開くと、新型コロナウイルスの感染防止のため全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は中止となったが、石川県独自に代替の大会を開催するとの記事が目を引いた。7月中旬から8月上旬の土日と祝日に試合を行う。併せて、これも中止となった全国高校総体(インターハイ)も、剣道や柔道、相撲など選手が密着する5つの競技を除き県大会の実施を検討している(28日付・北陸中日新聞)。

   確かに、選手には3年生が多いだろうから、このままでは「不完全燃焼」で卒業することになる。何とか競技の場に出してやりたいとの県大会の運営に携わる教諭サイドの配慮だと察する。

   今月6日付のブログで紹介した国立工芸館のオープンが9月半ばの開業にめどがたったと、同じ紙面で紹介されている。本来は東京オリピック開会前の7月開業を予定していたが、コロナ禍の影響で人が集まる公共施設が休館を余儀なくされたことから、オープンも見送られていた。工芸館は東京国立近代美術館の分館だったが、地方創生の一環として金沢に移転、分館から独立した国立美術館となる。

   人間国宝や日本芸術院会員の作品を中心に陶磁や漆工、染織、金工、木工、竹工、ガラス、人形など1900点の収蔵品も金沢に移される。金沢には伝統的な工芸品に目の肥えた「うるさい」人たちが多い。オープンが待ち焦がれる。

   こうしたニュースに接すると、緊急事態宣言が全面解除されて、生活や行動、そして発想が「非日常」から「日常」に戻りつつあると感慨深い。一方で、非日常を経験して、はっきりと見えてきたこともいくつかある。たとえば、働き方の在り様だ。タイムカードを押す出勤、対面での会議、会議出席のための出張、印鑑での決裁などは、自宅の通信環境さえ確保されていればリモートワーク(在宅勤務)やオンライン会議、パソコン決裁で事足りることが分かってきた。営業マンも自宅から訪問先に向かう、あるいは、リモートセールスの手法があってもいい。ただ、製造現場に携わる人たちの在宅勤務が難しいことは理解できる。

   もちろん、全ての会議をオンラインで済ませるのではなく、数回に1度の割合で意思疎通の観点で対面があってもよい。在宅勤務にしても、週1回くらいは職場に顔出ししてもよいかもしれない。働き方改革が叫ばれながらその改革ぶりが日常の風景として見えてこなかった。表現は適切ではないかもしれないが、コロナ禍がきっかけで動き始めた。

   ここからは想像だ。日本人の働き方の尺度や人事評価も大きく変化していくのではないだろうか。これまでの勤務態度や能率、成果主義から、たとえば、ビジネスに立ちはだかる課題の検証力や、事業展開の巻き込み・推進力、ビジネスマッチィングを企画する発想力などコンピューターでは処理できない、クリエイティブな仕事ぶりが評価される時代になるのかもしれない。むしろ、変化していかなければ日本のビジネスに未来は拓けないかもしれない。

⇒28日(木)朝・金沢の天気     はれ

★「旅するユリ」の生存戦略

★「旅するユリ」の生存戦略

   きょう庭の手入れをしていて気がついた。タカサゴユリ(高砂ユリ)の先端が枯れている。4年ほど前に突如咲き始めた、いわゆる外来種だが、花がきれいなので伐採せずにそのままにしておいた。旧盆が過ぎるころ、花の少ない季節に咲き、茶花としても重宝されている=写真=。雑草の力強さ、そして床の間を飾る華麗さ。したたかなタカサゴユリではある。

  その生命力ある植物が若くして枯れようとしている。連作障害だ。同じ場所に何年も生育すると、土壌に球根を弱める特定のバクテリア(病原菌)が繁殖して枯死してしまう。そのため、タカサゴユリは風に乗せて種子を周辺の土地にばらまいて新たな生育地に移動する。いわゆる「旅するユリ」とも称される。

   以前、植物に詳しい知人にタカサゴユリの花の話をすると、外来種をなぜほめるのかと苦笑いされたことがある。確かに、立場が異なればタカサゴユリは外敵、目の敵だ。国立研究開発法人「国立環境研究所」のホームページには「侵入生物データベース」の中で記載されている。侵入生物、まるでエイリアンのようなイメージだ。日本による台湾の統治時代の1923年ごろに、観賞用として待ちこまれたようだ。

    それにしても、バクテリアで枯死する前に種子をばらまいて次々と拠点をつくり、侵入生物と敵視される一方で、床の間に飾られるような見事な花をつける。人間社会に入り込んだ植物として、その生存戦略は実に見事ではないだろうか。

⇒23日(土)夜・金沢の天気    はれ  

★洗い使う「アベノマスク」が届く日

★洗い使う「アベノマスク」が届く日

   新型コロナウイルスの感染拡大の影響で緊急事態宣言が延長され、「新しい生活様式」という概念が提案された。ウイルス対策について話し合う政府の専門家会議が提言した、3つの基本として①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗い、を掲げている。中でもマスクの着用は、街中を歩く人や車を運転する人、見かける人のほどんとが心がけている。もともと日本ではマスクの着用に抵抗感が薄かったので、新しい生活様式としてなじみやすかったのだろう。手洗いも同様。また、ソーシャルディスタンスの言葉として定着した身体的距離の確保はコンビニなどでもちろん、エレベーターでも見かける。4つの角にそれぞれ1人が立ち、5人目として入らずに次を待つ。

   新しい生活様式による日常の最大の変化は、マスクの洗濯かもしれない。マスクは衛生上、使い捨てという概念だったが、それが一変した。生活様式としてマスクを身につけるのであれば、それは衣類と同様に持続可能な使い方をしなけらばならない。それは洗濯である。自らも実践している。洗剤で手洗いをする。1枚を2日間使い、2枚か3枚をまとめ洗いをする。ハンガーにつるすと改めて時代の変化を感じる=写真=。

   マスクは消耗品ではないということに気づかせくれたのは需要と供給のアンバランス、「品切れ」だった。先日も金沢市内のドラッグストアを2軒回ったが商品棚にはなかった。3軒目を回ろうとしたがまるで「マスク・パトロール」のようでやめた。マスクを求めて店を探し回るとの意味だが、それが3密(密集、密閉、密接)のもととなる。

   ところで、安倍総理は洗濯して繰り返し使える布マスクを全世帯に2枚配布すると方針を表明した(4月1日・新型コロナウイルス感染症対策本部)。あれから1ヵ月以上たつが、466億円かけて支給されるマスクはいつ届くのか。気になって厚労省公式ホームページを検索する。「4月17日から東京都、5月11日の週から東京都以外の特定警戒都道府県に順次、配送を開始」とある。「特定警戒県」である石川県はあさって11日から配布されるようだ。「アベノマスク」と揶揄されてもいるが、ありがたく受け取りたい。何度も洗い、着け心地をそのつど試し、そしてパンデミックの時代を語るシンボルとして保存しておきたいものだ。

⇒9日(土)朝・金沢の天気     くもり

☆コロナ的日常が創り出すビジネスと新語

☆コロナ的日常が創り出すビジネスと新語

   今ではオンラインがすっかり定着した感がある。金沢大学でも「5月6日まで対面での授業は実施しない」との新型コロナウイルスの予防対策がとられ、オンラインでの講義が中心となっている。大型連休に入ってからは、「オンラインで飲み会をやろう」という輩(やから)もいて、それも「昼から」だという。きのうのことだ。30分ほどだったが画面に顔出しをした。会話が弾み、この時初めて意識したことは、飲み会とは本来「近況を語り合う会」なのだ、と。

   この飲み会の中で、「オンライン・ソムリエ」が話題になった。金沢のワイン・バーのソムリエがネットで客とつながり、客の自宅の食卓に並ぶ料理に合うワインの銘柄などを解説してくれるという。自宅にいながらにして「マリアージュ」の楽しみ方が学べる。確かに、ワインのソムリエからはグラスに注いでもうらうだけではなく、そのワインの歴史やエピソードなどの語りが面白い。参加者から「ハッピータイムだね」と声も上がり、雰囲気が盛り上がった。

   そのワイン・バーは夜の営業は今月11日から自粛しているが、その代わり午後2時から7時まで店を開いて貯蔵しているワインを販売している。きょう午後、オンライン・ソムリエの店に行った。ネットお客と会話が始まっていた。ソムリエはオーストラリアのワインについて説明していた。「最初にブドウの木が植えられたのは1788年で、場所はシドニーにだったそうです」とまるでカウンター越しに話しかけているようだった=写真=。

   話のルールはただ一つ、コロナウイルスの話はしないことだそうだ。「話がマイナスのイメージばかりになるので避けています」と。プロの世界はリアルでもオンラインでも話が面白い。これは新しいビジネスではないか、そう実感した。ちなみにオンライン・ソムリエの利用は20分間で2000円、ワインは客が自分で購入する。帰りに店でワインを数本購入した。

   帰宅すると、高校時代からの友人が訪ねてきてくれた。先日(27日付)ブログで金沢市内のドラッグストアを4軒回ったもののマスクが販売されてなかったと書いたが、それを読んでわざわざ新品のマスク(5枚セット)を持参してくれたのだ。「マスク・パトロールばかりやっていると感染するから注意しろよ」とアドバイスがあった。マスク・パトロールという言葉を初めて聞いた。マスクを求めて、店を探し回ることを意味するそうだ。それが、3密(密集、密閉、密接)」のもととなる、とか。気遣ってマスクをプレゼントしてくれた友人にお礼として購入したワイン1本を持って帰ってもらった。

   コロナ的な日常はオンラインとうビジネスチャンスと新しい言葉を創り出している。そのひとコマを記した。とくに話の文脈はない。

⇒30日(木)午後・金沢の天気    はれ

☆コロナ的な常識 胃カメラは鼻から入れず

☆コロナ的な常識 胃カメラは鼻から入れず

   先日(22日)金沢市内の病院で胃カメラの検査を受けた。胃カメラを口からではなく、鼻から入れてほしいと頼んだ。すると看護師が一瞬身構えるように「当病院では鼻からの内視鏡検査は当面行わないことにしています。鎮静薬を注射して口から入れさていただきます。ご理解をお願いします」と言う。口からだと激しい吐き気をともなうので、これまで何回か左の鼻から入れてもらっていた。「なぜ、鼻からはダメなの」と聞き返した。

   病院では口からの胃カメラのことを「経口内視鏡」、鼻からの胃カメラのことを「経鼻内視鏡」と言っている。鼻からのチューブはやや細い。経口内視鏡は人体の防御反応による激しい吐き気をともなうケースがあり、最近では経鼻内視鏡での検査を希望する人が増えているそうだ。ところが、猛威をふるっている新型コロナウイルスは鼻の奥で多く増殖しているとされ、PCR検査も専用の綿棒を鼻から入れる。では、なぜ鼻から胃カメラを行わないのか。鼻から内視鏡を出し入れすると検査室にウイルスが飛び散る危険性があるというのだ。要は医療従事者への感染を防ぐ措置ではある。「ご理解ください」の意味が分かった。

   鎮静薬を注射して間もなく睡眠状態に入った。「終わりましたよ」の看護師の声で目が覚めた。吐き気も痛みもまったくない。案内された別室のベッドで再び眠りについた。30分ほどで目覚める。鼻の奥にある嗅覚細胞がウイルスに感染することで嗅覚障害が起こるとの説明を思い出し、室内の匂いを意識して嗅いでみる。院内独特の薬品のような匂いがして、鼻は健全だと確認して安心した。

   石川県で初めて新型コロナウイルスの罹患が確認されたのは2月21日のことで、あれから2ヵ月余り経った。罹患した50歳代の男性が前の17日と19 日にこの病院で受診していて、連日この病院のことがメディアで報じられた。それ以来、病院では感染予防に積極的な対応を取っている。検査室前の待ち合いのイスも間隔を空けて座るように工夫がなされている=写真=。

   検査後、医師の問診があった。体温の話をした。というのも、病院に入って内科のカウンターでコロナ感染予防のためと体温計を渡され3回測ったが、いずれも34度後半だったことを伝えた。医師は体調不良がなければ様子を見ましょう、ということになった。最後に「でも、コロナではなさそうですね」と。確かに、このご時世では高体温がむしろ怖い。

   一方で体温が下がると免疫力も低下するとも言われた。そこで、スマホで体を温める食材を調べ、帰りに病院近くのスーパーでキムチを買った。普段そのような思いでキムチを求めたことはない。日常でコロナ対策が常識化しつつある、ということか。

⇒24日(金)朝・金沢の天気    くもり時々あめ  

☆花の命は短くも、コロナは散らず

☆花の命は短くも、コロナは散らず

   このところの雨風で桜吹雪が舞い散り、自家用車に花びらがこびりつく。給油スタンドで洗車すること2回、毎年のことながらようやく桜の季節が終わったと実感した。自宅の庭先には、ヤマシャクヤク(山芍薬)とイチリンソウ(一輪草)が競うように白い花を咲かせている=写真=。

   山芍薬の白い花は丸いボール型に咲く、「抱え咲き」の花である。3日か4日で散ってしまう。花の命が短いだけに、実にけなげで清楚な感じがする。名前の由来の通り、もともと山中に自生している。根は生薬として鎮痛薬として利用される。山の芍薬はかつて乱獲され、今では環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に登録されている。花言葉は「恥じらい」「はにかみ」。日陰にそっと咲く。   

   写真手前のイチリンソウ(一輪草)は「スプリング・エフェメラル(春の妖精)」と称されるように、早春に芽を出し、白い花をつけ結実させて、初夏には地上からさっと姿を消す。一瞬に姿を現わし、可憐な花をつける様子が「春の妖精」の由来だろうか。1本の花茎に一つ花をつけるので「一輪草」の名だが、写真のように群生する。ただ、可憐な姿とは裏腹に、有毒でむやみに摘んだりすると皮膚炎を起こしたり、間違って食べたりすると胃腸炎を引き起こす。

   それにしてもなかなか咲かない花が、新型コロナウイルスの対策に伴う給付金だ。当初の「減収世帯へ30万円」から急きょ実施が決まった「1人一律10万円」。花の大きさにたとえると、減収世帯30万円はヤマシャクヤクのようで清楚さを感じたが、一律10万円はイチリンソウのよう。小さな花がたくさん咲いてにぎやかしく思えたが、少々毒があるようで世の中が落ちつかない。

   麻生財務大臣が今月17日の会見で「手を上げた方に1人10万円」と述べ、自己申告制で辞退もできると発言したことで物議をかもした。政府では、住民基本台帳で各家庭に申請書を送り、振込先の口座を書いて返送してもらい、送金となる。ただ、全国民を対象にした給付である以上、いわゆるネットカフェ難民といわれる人たちや、ホームレスの人たちなど住所がない人たちにはどう対処するのか、などの課題もある。

   当たり前のことだが、お金は花のようにきれいに咲かない。花は約束したように季節に咲いてくれるが、お金の約束はなかなかできない。ただ、花の命は短い。

⇒20日(月)午後・金沢の天気   くもり時々あめ

☆猿回し芸、能登への想い

☆猿回し芸、能登への想い

   奥能登・珠洲市の旧家で、江戸時代から伝わるという「猿回しの翁(おきな)」の陶器の置き物=写真・上=を見せていただいたことがある。翁は太鼓を抱えて切り株に座り、その左肩に子ザルが乗っている。古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。大きな河川のない能登などでは古くからため池による水田稲作が行われていて、猿使いたちの巡り先だった。猿使いたちは神社の境内などで演じ、老若男女の笑いや好奇心を誘った。代々床の間に飾られるこの猿回しの翁の置き物は、その時代の農村の風景を彷彿(ほうふつ)させる。

   その猿回しの翁とそっくりな人物と出会った。職業も同じ、「猿舞座」座長の村崎修二さん。2006年5月に友人の紹介で金沢大学の角間キャンパスで猿回し芸を披露してもらったのが最初だった。きょう午後、村崎さんから久しぶりに電話をいただいた。「コロナ騒ぎで世の中は自粛ムードなので芸人は大変ですよ」と開口一番に。続けて「昭和天皇の崩御のときも猿回しと伊勢神楽と狂言は自粛しなかった。それはね、それぞれが神様を持ち歩く人たちだから」と。人を惹きつける語り口調は相変わらずだった。本人は72歳になり、生まれ故郷の山口県周防に戻っている。

   電話での話は、猿回しという伝統芸を復活させた経緯から始まった。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司氏(故人)が村崎さんと民俗学者の宮本常一氏(故人)に「おサルの学校」をつくってほしいと依頼したことがきっかけだった。江戸時代から連綿と続いた周防の猿回しが途絶えたのは昭和42年(1967)。佐々木組という一座が最後に演じた場所が能登半島の輪島市大西山町だった。かつて、猿回しの旅の一座を無料で泊めてくれる家を善根宿(ぜんこんやど)と呼んでいたが、戦後の高度成長期、そのような善根宿は全国的に少なくなっていた。能登は猿回しの旅芸人を快く迎えてくれた最後の場所だった、と。

   その後、今西氏らの支援を受けて、昭和52年(1977)に「周防猿まわしの会」が結成され復活する。平成19年(2007)3月25日に震度6強の能登半島地震が発生。4月21日、村崎さんの一座が相棒の安登夢(あとむ)を伴って、被災地の輪島市門前町を慰問ボランティアに駆けつけた。跳び上がって輪をくぐる「ウグイスの谷渡り」などの芸を披露。被災地のお年寄りたちを喜ばせた。このとき、村崎さんは観客の前で重大なことを言った。「安登夢は15歳、人間の年齢ならば還暦は過ぎている。きょうが引退の公演です」と。

   電話の話はこれまで何度か聞いたことがあったが、実に鮮明に周防猿回しと能登の関係、そして自分史について語っておられた。「できたらまた能登に行きたい」と。体調を崩され、デイケアにも通っているが、私への電話はそのメッセージだった。「心から歓迎します」と伝え、電話の別れを惜しんだ。(写真・下は村崎さんと安登夢の共演=2006年5月・金沢市)

⇒12日(日)夜・金沢の天気    くもり

☆蟄居生活、グランドカバーの攻防

☆蟄居生活、グランドカバーの攻防

  新型コロナウイルスの感染を警戒して自宅にこもるような生活を「巣ごもり」とメディアでは紹介され、自らは「蟄居(ちっきょ)」と言っている。江戸時代の武士に科せられた刑罰で、閉門の上、自宅の一室に謹慎する。TBS番組『水戸黄門』で黄門様が蟄居の武士と障子戸ごしに対話するシーンがあったのを覚えている。現代では都会を退いての田舎暮らしを謙遜してそう言ったり、外出をなるべく避けて家で暮らすことを指す。

   一昨日の土曜日、そして昨日の日曜日はまさに蟄居生活だった。不要不急な外出を避け、買いだめした食材を自宅で食べ、パソコンとテレビで国内外のニュースをチェックしブログを書き、読書、掃除と洗濯をする。ただ、そのような中で戦いに挑んだのが「グランドカバーの攻防」だった。分かりやすく言えば、「草むしり」だ。

   ソメイヨシノの開花ごろから雑草の勢いが増す。庭にはグランドカバープランツ(地べたに生やす植物)があり、芝生とスギゴケの2つのゾーンで、手入れをしている。ところが、油断すると雑草に覆われる。スギナ、ヨモギ、ヤブカラシ、ドクダミ、チドメグサなどは通年で生えてくる。最近はチドメグサの勢いが強い。チドメグサは茎全体が横にはって、節から根を出し、どこまでも広がる=写真=。これが芝生ゾ-ン、スギゴケ・ゾーンに侵入し、急速に増殖する。

   雑草には専用の除草剤はあるのだが、使いたくないので手作業での草取りだ。手作業は地味だ。芝生ゾーンでは、芝生の根に絡まるようにして生えているので、しかたなく芝生の根ごと除草することもある。スギゴケの場合、スギゴケをかき分けて、チドメグサの茎を捜し出して抜く。1日に2時間ほどの戦いを終えると爽快感がある。ただ、敵もさるもの、こちらの気の緩みうかがってまた攻防が始まる。持久戦ではある。

   ひと昔前なら、「年寄くさい」と一笑に付された話ではある。が、金沢の街も雑草が生い茂っている公園や住宅、道路をよく見かけるようになった。雑草をあまり気にしない人が多くなったのか。あるいは、行政は公共施設の美化に予算をさけなくなったのか。このままでは街全体のグランドカバーの攻防はじわじわと雑草にやられてしまうのではないか。

   新型コロナウイルス感染で不要不急な外出は自粛するが、この際、自宅や周囲の公園の美化清掃を行政が市民に呼びかけてはどうだろう。          

          と、書いたところで、ニュースが飛び込んできた。安倍総理はようやく緊急事態宣言の発令の意向を固めた、とメディア各社が報じている。緊急事態宣言はロックダウン(都市封鎖)かと以前から騒がれているが、法的強制力と罰則を伴う外出禁止令などが発令される海外の緊急事態宣言とは違い、日本の場合はあくまでも「自粛要請」であり、法的拘束力も罰則もない。緩い。

⇒6日(月)朝・金沢の天気      はれ