⇒ドキュメント回廊

★震災から5年、熊本城は復旧半ば

★震災から5年、熊本城は復旧半ば

   5年前の2016年4月14日、熊本地方を震源とする最大震度7の地震が発生した。その28時間後にも再び震度7の地震に見舞われた。その後も震度6弱以上の地震が7回発生した。2度の震度7の揺れで被害を受けた熊本城は天守閣や石垣などが崩れ、被災のシンボルでもあった。震災から6ヵ月後となる10月8日に被災地を訪ねた。

   当時テレビで熊本城の被災の様子が報じられていた。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた「飯田丸五階櫓(やぐら)」を見に行った。ところが、石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、見学することはできなかった。ボランティアの腕章を付けた女性がいたので、「被災した熊本城でかろうじて残った縦一列の石垣で支えらた城はどこから見えますか」と尋ねた。すると、「湧々座(わくわくざ)の2階からだったら見えますよ」と丁寧にもその施設に案内までしてくれた。

   「湧々座」は熊本城の近くにある県の施設で、飯田丸五階櫓の様子がよく見えた。応急工事が施されていた。ボランティアの女性の説明によると、櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・上、熊本市役所公式ホームページより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。それを高さ10㍍の「コ」の字形の鉄骨の架台で櫓を支え、一本足の石垣の倒壊を防いでいるのだと説明してくれた=写真・下=。湧々座からの見学後、熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっていた。

   熊本城は築城の名人として知られた加藤清正が慶長12(1607)が築いた。「日本一の名城」は熊本市民の誇りであり、城の復旧は「熊本復興のシンボル」でもある。天守閣が復旧工事を終え、今月26日から内部が一般公開される。しかし、崩れた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す作業は時間がかかる。飯田丸五階櫓もようやく石垣部分の積み直しが終わったものの、建物部分はまだ解体されたままとなっている。復旧工事は2037年度まで続く(熊本市役所公式ホームページ)。名城の復旧には時間がかかる。

⇒14日(水)夜・金沢の天気   はれ

☆庭仕事の愉しみと床の間の風景

☆庭仕事の愉しみと床の間の風景

   きょう11日、金沢の気温は17度まで上がった。これまで肌寒さを感じる「四寒三温」が続いていたが、ようやく春めいた天気となった。午後から庭の「草むしり」に精を出した。雑草は例年、ソメイヨシノの開花ごろから勢いが増す。スギナ、ヨモギ、ヤブカラシ、ドクダミ、チドメグサなどがもう顔を出していた。無心に雑草を抜き取り、落ち葉を掃く。草むしりはまるで雑念を払う修行のようなものだ。 

  作業の途中、松の枝葉がサラサラと音を立て、風が頬をなでた。ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセの詩を思い出した。ヘッセは庭好きだった。庭に関するヘッセの詩やエッセイを集めた『庭仕事の愉しみ』(草思社)の中に、「青春時代の庭」という詩がある。「あの涼しい庭のこずえのざわめきが 私から遠のけば遠のくほど 私はいっそう深く心から耳をすまさずにはいられない その頃よりもずっと美しくひびく歌声に」。庭の梢(こずえ)のざわめきが美しい歌声に響くほどにヘッセは庭をめでたのだ。

   草むしりを終え、心地よかった庭の風を連想して、床の間に『閑坐聴松風』の掛け軸を出してみた=写真=。「かんざして しょうふうをきく」と読む。静かに心落ち着かせて坐り、松林を通り抜ける風の音を聴く。茶席によくこの軸け物が掛かる。釜の湯がシュン、シュンと煮えたぎる音を「松風」と称したりする。花は庭のリキュウバイ(利休梅)とフクジュソウ(福寿草)を生けた。日曜日の静かな午後の愉しみでもある。

⇒11日(日)夜・金沢の天気      はれ

★イフガオの絶景と未来可能性~下~

★イフガオの絶景と未来可能性~下~

   フィリピン・ルソン島のイフガオの棚田は、ユネスコやFAOにより国際的に評価を受け世界遺産や世界農業遺産(GIAHS)に登録されているものの、若者の農業離れやマニラなど都市部への流出により、耕作放棄地の増加が懸念されている。地域の生活・文化を維持し、「天国への階段」とも称される絶景の棚田群をどう守るか。JICAや世界のNGOが懸命になって、地域を支援している。

   実は、イフガオとはスケールは違うが同様の課題を有しているのが、能登半島だ。担い手が減り、田んぼを始め、山林や畑、地域の祭り文化も後継者がいないというところが目立っている。そこで、金沢大学と自治体は連携して2007年から、若者たちに地域の価値を理解してもらい、地域資源をどのように活用するかを考え、実践する人材を育てる「能登里山里海マイスター育成プログラム」(現在「能登里山里海SDGsマイスタープログラム」)に取り組んでいる。スタート時のプロジェクトリーダーは中村浩二教授(当時)だった。

   人材育成プログラムで見えてきた「ボトムアップ民族」の力強さ

   この能登で取り組みを、中村教授がフィリピン大学の教授たちに紹介したのがきっかけとなり、能登の人材養成を取り組みをイフガオでも活かせないだろうかと訪れたのが、前回のブログで述べた2012年1月の訪問だった。

   大きく動いたのは2013年5月だった。能登の七尾市でFAO主催の 世界農業遺産(GIAHS)国際フォーラムが開催され、「能登コミュニケ(共同声明)」が採択された。その内容の一つが「先進国と開発途上国の間の認定地域の結びつきを促進する」との勧告だった。開催地の能登GIAHSはどう取り組めよいのか、議論となった。中村教授が提案したのは、能登とイフガオの連携、そして持続可能な地域づくりに欠かせない人材育成事業のイフガオでの展開だった。JICAへの事業申請に取り掛かり、実施主体を金沢大学、さらに能登と佐渡の世界農業遺産の関係者を交えた「イフガオGIAHS支援協議会」を結成することですそ野を広げた、JICAの採択を受け、2014年2月からフガオ里山マイスター養成プログラム事業が始まった。

   現地イフガオでは、「イフガオGIAHS持続発展協議会」が設立され、イフガオ州、イフガオ大学、フィリピン大学、地元4自治体(バナウェ、ホンデュアン、マユヤオ、キアンガン)、政府機関のイフガオ州事務所が参加。 会長にイフガオ州知事が就いた。この年の3月に「イフガオ里山マイスター養成プログラム」が開講した。面接で社会人の受講生20人が選ばれた。月に一度、1泊2日の泊りがけでの研修だ。カリキュラムに沿って学ぶ。里山概論や土地利用、生態学的な視点、伝統的なコメづくり、地元食材の料理法などを学んでいる。その上で、イフガオ棚田を保全し、活性化することを自らのテーマとして選び、調査し、議論を重ねた。

   9月には能登での研修が組まれ、能登のマイスタープログラムの交流や先進地視察など行う。この年の受講生のうち10人が能登を訪れた。輪島市の千枚田では稲刈りを体験した。イフガオの稲は背丈が高く、カミソリのような道具で稲穂の部分のみ刈り取っており、カマを使って根元から刈る伝統的な日本式の稲刈りは初めて=写真・上=。イフガオの民族衣装を着た受講生たちは、収穫に感謝する歌と踊りを披露した。

   11月、受講生たちは課題研究の中間発表を行った。マリヤ・ナユサンさん=保育士=のテーマは「離乳食に活用する伝統のコメ品種」。保育士の立場から、離乳食の歴史を調べ、乳児の発育によいイフガオ伝統コメ品種を比較調査している。マイラ・ワチャイナさん=家事手伝い・主婦=のテーマは「伝統品種米の醸造加工」。親族が遺した伝統のライスワイン製造器を活用し、イネ品種やイースト菌の違いによる酒味やコクを調査。売上の一部を棚田保全に役立てる販売システムを研究していた。発表を聴いたイフガオ州知事のハバウエル氏は「州の発展に役立つものばかりだ。ぜひ実行してほしい。予算を考えたい」と賛辞を送った。

   そして、2015年3月、1期生の修了式が国立イフガオ大学で執り行われた=写真・下=。1年間の講義とフィールド実習、能登研修、卒業課題研究を修了した14人一人ひとりに中村教授から修了証書が手渡された。ハバウエル知事は祝辞で、同州でも地域活性化の人材養成はまったなしの課題になっていると人材育成プログラムに期待を寄せた。

   その後、ワチャイナさんのライスワインはどう展開しているのか。ライスワインはで家々の酒だったが、同じ酵母による品質の基準化と瓶詰の商品ラベルを統一化を図り、共同出荷する体制を整えて販売を始めた。品質のラベルの統一化は能登での研修でヒントを得た。今はコメ農家と契約で品質の向上に取り組んでいる。イフガオで新たなライスワイン・ビジネスが生まれたのだ。

   2012年1月、壮大な棚田を見上げて、「イフガオはいつまで持つのか」が第一印象だった。「ところがどっこい」である。今では、女性たちによるライスワインの共同販売や、特産の黒ブタのブランド化、田んぼでのドジョウの養殖、棚田を守る運動などマイスター修了生たちによるアクティブな活動が目立つようになってきた。それも、トップダウン型ではなく、ボトムアップ型の動きなのである。2000年前に「天国への階段」をつくり上げたのは一部の権力者ではなく、民のチカラだったとイフガオの人々は自負する。まさに、「ボトムアップ民族」ではないかと考察している。

   2020年現在で修了生は100人を超え、2021年からは国立イフガオ大学の社会人教育プログラムとしてイフガオ里山マイスター養成プログラムは継続される。

⇒6日(火)午前・金沢の天気     はれ

☆イフガオの絶景と未来可能性~上~

☆イフガオの絶景と未来可能性~上~

   自身のパソコンは「Windows10」の設定で、電源を入れるとスクリーンに世界の絶景が表示される。画像は2、3日置きに入れ替わり、楽しく眺めている。現在表示されているのはフィリピンのルソン島イフガオの棚田の風景=写真=で、懐かしい思いで眺めている。

   金沢大学のJICA事業として2014年2月から、「世界農業遺産(GIAHS)イフガオの棚田の持続的発展のための人材養成プログラムの構築支援事業」(略称:イフガオ里山マイスター養成プログラム、ISMTP)に取り組んだ。3年間の節目で事業主体は変更したものの、ISMTPそのものは今年1月まで足掛け7年間に及ぶプロジェクトとなった。自身もこれまで5回現地に赴いた。

    危機遺産リストが教えてくれたイフガオの現状と為すべきこと

   最初に訪れたのは2012年1月だった。FAOの世界農業遺産に能登半島の「NOTO’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」が2011年6月に認定され、大学の中村浩二教授(当時)の発案でGIAHSの国際ネットワークづくりができないか相手先を探していた。フィリピン大学の教授から、すでにユネスコ世界遺産に登録され、GIAHSにも認定されていたイフガオを紹介され、連携の可能性を探りにイフガオに赴いた。チャーターしたワゴン車でマニラから車で8時間かけて移動した。

   ルソン島中央のコルディレラ山脈の中央に位置するイフガオ族の村、バナウエに着いた。2000年前に造られたとされる棚田は「天国への階段」とも呼ばれている。最初に見た村の光景は、半世紀前の奥能登の農村のようだった。男の子は青ばなを垂らして鬼ごっこに興じている。女子はたらいと板で洗濯をしている。赤ん坊をおんぶしながら。ニワトリは放し飼いでエサをついばんでいる。七面鳥も放し飼い、ヤギも。家族の様子、動物たちの様子は先に述べた「昭和30年代の明るい農村」なのだ。

   一つ気になることがあった。人と犬の関係が離れている。子たちが犬を抱きかかえたりはしない。犬も人に近寄ろうとはしない。同行してくれたフィリピン大学のイフガオの農村研究者に訪ねると、こともなげに「イフガオでは犬も家畜なんですよ」と。

   もう一つ気になったことがある。バナウエの棚田をよく見渡すと、棚田のど真ん中にぽつりと新築の一軒家が立っていたり、振興住宅地のように数十軒が軒を並べていたり、3階建てのホテルのようなビルも建っていて、世界遺産や世界農業遺産の景観と不釣り合いなのだ。ここ10年余りで棚田の宅地化が進んでいると先の研究者が説明してくれた。1995年にユネスコ世界遺産に登録されてから、欧米などの外国人観光客が増え、2010年の現地の統計で観光客数は10万3000人だった。

   確かに、沿道には土産物店が軒を連ね、バイクの横に1人乗りの籠(かご)をくつけた、「トライサイクル」と呼ばれる3輪車が数多く走り回っている。トライサイクルの料金は1時間30ペソだ。精米されたコメが1㌔35ペソで市販されるので、コメを作るより、トライサイクルを走らせた方が稼げると考える若者が増えている。いわゆる若者の農業離れが観光化とともに進んでるのが現状のようだ。バナウエ市役所に当時のジェリー・ダリボグ市長を訪ねると本人も「深刻な問題だ」と語った。同市の棚田の面積は1155㌶(水稲と陸稲の合計)で、これを専業の農家270軒で耕している。最近はマニラなどの大都市に出稼ぎに出るオーナー(地主)も多くなり、耕作放棄地は332㌶に増えていると。

   ユネスコも観光の影響や後継者不足による耕作放棄地、転作による景観への影響などを問題視にしていて、すでに2001年に「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に追加していた。このため、たフィリピン政府とイフガ州などは環境保護対策や国内外の支援、保全技術の開発などに取り組んだことが認められて、ようやく2012年7月に危機遺産リストからの削除が決まった。このニュースに耳立てたのはイフガオから帰国して半年後のことだった。

   このニュースによって、現地の若者が稲作を通して「イフガオのブランド価値」を高めるという発想を持ってもらえるチャンスではないと考えた。それが、「イフガオ里山マイスター養成プログラム」という人材育成事業だった。

⇒5日(月)午後・金沢の天気      はれ  

☆身の回りのコロナ世情

☆身の回りのコロナ世情

   コロナ禍の世情を眺めてみると、実は身の回りにいろいろ起きていると気付く。きのう2日、コーヒーのカプセルを通販で注文している「ネスカフェ」からお詫びのメールが届いた。以下。

「専用カプセルをご購入いただいているお客様にお知らせとお詫びがございます。専用カプセルは、主にヨーロッパの工場で製造し、輸入していますが、世界的な商品の需要増加と昨年末からの国際輸送の逼迫により、現在一部の商品で欠品が発生しております。さらに、その他の商品の安定供給も困難な状況となりましたため、十分な供給体制が確保されるまでの間は、専用カプセルにおきまして、新規の定期お届け便への商品追加注文と単品購入を休止とさせていただきます」

   新型コロナウイルスのパンデミックで自宅でのコーヒ-飲みが世界中で急増していて、ヨーロッパでの生産が追いついていないという内容だった。5月半ばで再開するので、それまでは我が家もインスタントコーヒーで。

   先日自宅近くのガソリンスタンドで給油した。ガソリンはまだ半分ほど残っていたが、このところ毎日のように価格が値上がりしているので、1円でも安いうちにと消費者心理が働いて満タンにした。1㍑当たり149円だった。それにしても不思議だ。新型コロナウイルスの感染で、不要不急の外出自粛やオンライン会議、リモートワークの生活スタイルが定着して、自身もマイカーに乗る回数が減ったと実感している。街中でもコロナ禍以前の3分の2ほどの交通量だ。さらに、脱炭素化で「EVシフト」が加速し、電気自動車やプラグインハイブリッド車が目立つようになってきた。

         車のガソリン需要は全国、あるいはグローバルに見ても減少傾向だろう。脱炭素時代に入り、石油が余っていると思うのだが、ガソリンの小売価格が上がっている。解せない。

   そしてこれは、おそらく日本人の誰もの感じていることだ。なぜ日本の製薬メーカーが新型コロナウイルスのワクチンや治療薬を独自開発できないのか。メディアに報じられている開発メーカーは、ファイザーやモデルナ、アストラゼネカ、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ノババックスなどアメリカやイギリスの会社だ。日本の製薬メーカーは不活化ワクチンというインフルエンザのワクチンをつくる伝統的な技術には強いが、独自にコロナワクチンを開発したというニュースを見たことも聞いたこともない。

   日本の最大手、武田薬品工業は売上高で世界トップ10に入るメガファーマ(巨大製薬企業)だ。それでも、コロナワクチンの独自開発をしていない。ただ、同社はノババックス(アメリカ)が開発したコロナワクチンについて、日本国内での臨床試験(治験)を開始したと発表した(2月24日付・時事通信Web版)。下請けだが、7月以降に結果をまとめ、厚生労働省に薬事承認を申請。年内の供給開始を目指すという。

   きょう石川県は、新たに11人に新型コロナウイルスへの感染が確認されたと発表した。きのうは14人で2日連続の二桁の人数だ。いよいよ第4波の始まりか。県内のワクチン接種は今月13日から一部自治体でようやく始まる。ワクチンから日本の滞った国の姿がよく見える。

⇒3日(土)夜・金沢の天気      はれ

☆黄砂がもたらすもの

☆黄砂がもたらすもの

   きのう野外の駐車場に停めておいた自家用車のフロントガラスが一夜で白くなった。きょう日中も金沢を囲む山々がかすんで見えた=写真=。黄砂だ。ソメイヨシノは満開なのだが、空がこのようにかすんでいては見栄えがしない。

   日本から4000㌔も離れた中国大陸のタクラマカン砂漠やゴビ砂漠から偏西風に乗って黄砂はやってくる。最近では、黄砂の飛散と同時にPM2.5(微小粒子状物質)の日本での濃度が高くなったりと環境問題としてもクローズアップされている。外出してしばらくすると目がかゆくなってきた。黄砂そのものはアレルギー物質になりにくいとされているが、黄砂に付着した微生物や大気汚染物質がアレルギーの原因となり、鼻炎など引き起こすようだ。さらに、黄砂の粒子が鼻や口から体の奥の方まで入り、気管支喘息を起こす人もいる。

   黄砂は「厄介者」とのイメージがあるが、意外な側面もある。黄砂といっしょにやってくる微生物を「黄砂バイオエアロゾル」と呼ぶ。金沢大学のある研究者は、食品発酵に関連する微生物が多いこと気づき、大気中で採取したバチルス菌で実際に納豆を商品化した。その納豆の試食会に参加したことがある。日本の納豆文化はひょっとして黄砂が運んできたのではないかとのその研究者の解説に妙に納得したものだ。

   生態系の中ではたとえば、魚のエサを増やす役割もある。黄砂にはミネラル成分が含まれ、それが海に落ちて植物性プランクトンの発生を促し、それを動物性プランクトンが食べ、さらに魚が食べるという食物連鎖があるとの研究もある。地球規模から見れば、「小さな生け簀(す)」のような日本海になぜブリやサバ、フグ、イカ、カニなど魚介類が豊富に獲れるのか、黄砂のおかげかもしれない。

⇒30日(火)夜・金沢の天気        くもり

★「外来種」ヒメリュウキンカを生ける

★「外来種」ヒメリュウキンカを生ける

   春分のこの時節、金沢でもウグイスの鳴き声を聞く。庭にはウメやツバキが、地面にはヒメリュウキンカの黄色い花が咲いている。床の間に季節の花を活けてみる=写真=。ヒメリュウキンカの花は小ぶりなので主役ではないが、愛くるし眼差しのようで目を引く。

   これまで意識はしていなかったが、ヒメリュウキンカはヨーロッパが原産のいわゆる外来種のようだ(3月21日付・北陸中日新聞)。日本の固有種を駆逐するような特定外来生物などには指定されていない。1950年代ごろに園芸用として国内に入り、金沢市内でも一時、流行したという。葉の形が似たリュウキンカから名前が取られたが、属は異なる。英語名のセランダインとも呼ばれる(同)。

 
   外来種といえば、このブログでも何度か取り上げたタカサゴユリもそうだ。旧盆が過ぎるころ、花の少ない季節に咲く。「高砂百合」の名前の通り、日本による台湾の統治時代の1924年ごろに園芸用として待ちこまれたようだ(ウィキペディア)。当時は外来種という概念もなく、花の少ない季節に咲くユリの花ということで日本で受け入れられたのではないだろうか。匂いもなく、同じころに咲くアカジクミズヒキやキンミズヒキといった花と色合いもよく、床の間に飾られてきたのだろう。
 
   ヒメリュウキンカにしても、タカサゴユリにしても外来種だからといって、自身はほかの在来種と分け隔てしているわけではない。ただ、両方とも繁殖が旺盛なため、増えすぎると根ごと除去することにしている。そして、庭を眺めて植物の生存戦略というものに感じ入ったりする。タカサゴユリは同じ場所に何年も生育すると、土壌に球根を弱める特定のバクテリア(病原菌)が繁殖して枯死してしまう。連作障害だ。そのため、タカサゴユリは種子を風に乗せて周辺の土地にばらまいて新たな生育地に移動する。「旅するユリ」とも称される。

   ブログでこのようなことを書くと、知り合いの植物学者からは、「外来種を床の間に生けるなんて、そんなのんきなことをやっているから在来種が駆逐されるんだ」と言われそうだが。

⇒21日(日)夜・金沢の天気      くもり

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

   東日本大震災から2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで家人から電話を入れていただき、翌日12日に東京で会うことにした。

      「森は海の恋人」畠山重篤氏が語った津波のリアル

   畠山氏と知り合いになったきっかけは、前年の2010年8月に金沢大学の社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。畠山氏らカキ養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山で植林活動を1989年から20年余り続け、5万本の広葉樹(40種類)を植えた。同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのがきっかけに、畠山氏の提唱で山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する「森は海の恋人」運動は全国で知られる活動となった。

   12日午前中に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。頭髪、ひげが伸びていて、まるで仙人のような風貌だった=写真・上=。この折に、9月2日に輪島市で開催する「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演をお願いし、承諾を得た。4ヵ月後、畠山氏と輪島で再会した。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか、実にリアルな話だった。以下、講演の要旨。

             ◇

   3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった=写真・中=。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。

   私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。津波は海底から水面までが全部動く。昨晩、(輪島市の)海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。

   過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。

   地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。

   津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2ヵ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した=写真・下=。

   塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だと思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。

⇒10日(水)朝・金沢の天気

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

   東日本大震災では報道する側も被災者となった。震災からちょうど2ヵ月の5月11日に気仙沼市、そして翌12日に仙台市に向かった。仙台に本社があるKHB東日本放送を訪ねた。自身のテレビ局時代に懇意にしてもらった報道関係者がいて、震災当時の報道現場の様子を聴くことができた。

      報道する側も被災者、命を救う情報発信に徹する

   案内された部屋に入ると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請した。しかし、仙台空港に駐機していたヘリは津波で機体が損壊していた=写真・上=。空撮ができなければ被害全体を掌握できない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

   同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、被害を全国に向けて発信し、一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。そのため、全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先とした。

   持久戦に備えてロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビ取材の要(かなめ)である収録用テープの確保を最優先した。さらに、食料補給の充実が欠かせない。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。情報共有のための「立会い朝会議」をほぼ毎日午前9時から実施した(3月16日-4月28日まで)。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。非常事態であるがゆえに徹底した情報共有や気配りが必要なのだと教えられた。

   被災しながらも報道を続けたのは新聞も同じだった。宮城県の地域紙「石巻日日新聞」は停電と輪転工場の損壊で新聞発行ができなくなった。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本『6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(角川SSC新書)で描かれている。同紙は夕刊紙で、県東部の石巻市や東松島市、女川町などエリアに1万4000部を発行し、翌年には創刊100周年を迎える老舗だった。新聞発行がストップして社長は決断した。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真・下=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出した。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。

   伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせた。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞を配布できたのは18日。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。そして、輪転機が再稼働したのは翌日19日だった。

⇒9日(火)午前・金沢の天気      はれ

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

   震災・津波を自身が初めて経験したのは1983年(昭和58年)5月26日の日本海中部地震だった。午前11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、マグニチュード7.7、10㍍を超える津波が発生した。そのころ、地方紙の記者で能登半島の輪島支局に赴任していた。金沢本社のデスクから電話で「津波が能登半島にまもなく来る」との連絡だった。急いで輪島漁港に行くと、漁港内に巨大な渦が巻いていて、渦に飲み込まれる寸前の漁船があり、足元まで波が来ていたが写真を1枚だけ撮って一目散に現場から離れた。欲を出して2、3枚と撮っていたら逃げ遅れるところだった。それ以来、震災・津波の現場を訪れるようになった。

       大漁旗に込められた「祈」、気仙沼で見た復興の願い

   2011年3月11日の東日本大震災。14時46分、その時、金沢大学の公開講座で社会人を対象に広報をテーマに講義をしていた。すると、事務室でテレビを見た講座の主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。2005年から金沢大学に転職していたが、自身の中では被災地をこの目で確認したいとい思いが募った。

   2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

   気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた=写真・上=。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・下=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない。

   2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたのだった。

⇒8日(月)午後・金沢の天気     くもり