☆金沢名所めぐり~兼六園桜の散り際と曲水の美学~
国の特別名勝に指定されている兼六園の園名が付いたのは文政5年(1822)とされる。一説に、中国・洛陽の名園を紹介した書物『洛陽名園記』から引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えることが名園の誉(ほまれ)と命名され
た。ただ、命名した人物には諸説ある。これ以降、兼六園のシンボルとも言える霞ヶ池が造られるなど本格的に手が入ることになる。兼六園に隣接する「いしかわ生活工芸ミュージアム」に、当時の加賀藩主から依頼を受けた幕府の老中・松平定信の筆「兼六園」の扁額=写真・上=が飾られている。
兼六園には四季折々の楽しみ方がある。春といえば、兼六園は桜の名所で40種類、400本を超える木々がある。「兼六園菊桜(ケンロクエンキクザクラ)」という遅咲きの桜がある=写真・中=。ソメイヨシノが散るころに花を咲かせ、3回色が変わり、最後は花ごとポロリと落ちる。桜の季節を終
わりまで楽しませてくれて、潔く花の命を終わらせる。まさに散り際の美学である。武家の庭園らしい見事な花だと語り継がれる桜でもある。慶應年間(1865-68)に天皇より加賀藩主が賜わったものと伝えられ、別名「御所桜」ともいわれている。
兼六園の6つの風景の一つが「水泉」。春、夏、秋、冬、いつ来ても曲水(きょくすい)のせせらぎが心を和ませてくれる=写真・下、「花見橋」から=。じっと眺めていて、不思議に思ったことがある。雨が降っていれば当然、水かさが増して流れも激しくなるものだ。でも、兼六園の曲水が大雨で荒れて氾濫したという話は聞いたことがない。逆に、夏に日照りが続いて、曲水が干せ上がったという話も聞いたことがない。なぜ、この穏やかなせせらぎが絶えないのか、と。
10年ほど前の話だが、この曲水の源流を訪ねて水の流れの上流をさかのぼってみた。すると「山崎山」という兼六園のもっとも東側の小高い山の下に小さな洞窟があった。この中には入れないので、山崎山の裏側に回ると、池があった。ガイドマップには「沈砂池(しんさち)」という池だった。ここから向こうは兼六園ではないので、ここが曲水の発生源の池だと分かった。池は深く、よく見ると水道管と思われるパイプラインとつながっている。そこで、兼六園管理事務所を訪ねると、当時の所長が丁寧に説明してくれた。「この池は辰巳用水という江戸時代につくられた用水から水を引いている。ここで水を調整し、1秒間に160㍑の水が流れるように計算して下流に流している」と。
雨が降れば水門を少し閉めて水量を調整し、水が足りなくなれば、ほかの貯水池から水を補給するようにもしている。160㍑以上になっても、以下になっても、曲水のせせらぎは流れないとの話だった。兼六園の曲水の美学は「人力」の景色でもある。
⇒1日(水)夜・金沢の天気 はれ
トでもある。レンタルの着物を羽織った女性グループや、男女が街並みをバックに撮影している姿をあちらこちらで見かける。中には、和装のインバウンド観光客もいる。
遊宴を盛り上げた。勘定はすべて後日払いだった。お茶屋はそうした、なじみの客との信頼関係を大切にした。なので、なじみの客から紹介があったとしても、新規の客は「一見さんお断り」を貫いた。
由緒ある「中や」にはもてなしの宴を彩る加賀蒔絵や加賀象嵌、九谷焼など優美な御膳や碗などの道具が遺され、「美術品」として展示されている。中でも目を引いたのは櫛(くし)や簪(かんざし)など芸妓たちの黒髪を飾った品々だった=写真・下=。実際に使用されていたべっ甲や象牙などの櫛や簪はとても意匠(デザイン)にこだわりが感じられる。踊りや衣装だけでなく、こうした櫛や簪にも芸妓たちは華やかさを込めたのだろう。
留学生は、兼六園を散策に行き、そのときインバウンド観光客の団体を案内していた日本人のガイドが「カガ・ワン・ミリオン・ストーンズ」と言っていたのを聞いて、「加賀百万石」のことかとガイドの案内に耳をそばだてた。そのとき、ガイドは金沢城の石垣を指さして説明していたので、とても腑に落ちたという。「百万個もの石を使って、お城を造り、そして金沢に用水をはりめぐらせた加賀のお殿様はとても有能な方だったのですね」と留学生は感心していた。
今回の寒波で身の回りのことを言えば、あす25日に出席予定だった金沢での会議が延期になった。きょう午後4時ごろ、風雪の中で車を運転すると、マイナス3度となっていた。そのせいで、フロントガラスやバックミラーになどに雪がこびりついて運転に危なさを感じたので=写真=、ほどなくして自宅に引き返した。
そのことが身近で現実になったのは12年後、2007年3月25日午前9時41分に起きた能登半島地震だった。マグニチュード6.9、震度6強の揺れで、輪島市や七尾市、輪島市、穴水町で家屋2400棟余りが全半壊し、死者1人、重軽傷者は330人だった。当時は金沢大学に転職していたので、大学の有志と被災調査に入り、その後、学生たちを連れて被害が大きかった輪島市門前地区=写真・上=を中心に高齢者世帯を訪れ、散乱する家屋内の片づけのボランティアに入った。
気仙沼は漁師町。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・中=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「午後2時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で祈る人々、すすり泣く人々の姿は今も忘れられない。
て、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・下、熊本市役所公式ホームページより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっていた。
客席の気分がさらに盛り上がるものだが、確かにブラボーを叫べば前方につばが飛ぶだろう。今後、コロナ禍が沈静化しても、ブラボーは復活しないかもしれない。
その火様を今でも守っているお宅があることを聞いたのは10年前のこと。2014年8月、教えていただいた方に連れられてお宅を訪れた。能登半島の中ほどにある七尾市中島町河内の集落。かつて林業が盛んだった集落で、里山の風景が広がる。訪れたお宅の居間の大きな囲炉裏には、300年余り受け継がれてきたという火様があった。囲炉裏の真ん中に炭火があり、その一部が赤く燃えていた=写真=。訪れたのは夕方だったので、これから灰を被せるところだった。この集落でも火様を守っているのはこの一軒だけになったとのことだった。このお宅の火様を守っているのは、一人暮らしのお年寄りだった。
メージを超えた華やかな味わいだ。農口杜氏から「ブルゴーニュワインのロマネ・コンティをイメージして造った」と説明があった。低温で熟成させるため新鮮な香りがする。500本限定の特別Ver。御年90歳の杜氏のさらなる挑戦でもある。
例年、カニは地酒の辛口吟醸酒で味わう。今回はちょっと趣向を変えて、能登産の「どぶろく」で味わうことにした。能登半島の中ほどに位置する中能登町には、連綿とどぶろくを造り続けている神社が3社ある。五穀豊穣を祈願するに供えるお神酒で、お下がりとして氏子に振る舞われる。同町ではこの伝統を活かして2014年に「どぶろく特区」の認定を受け、いまでは農家レストランなど営む農業者が税務署の製造免許を得て醸造している。
それ以来、「アナフィラキシー症状だったのか」と気になっている。この症状は、薬や食物が身体に入ってから起きることのあるアレルギー反応で、じんま疹などの皮膚症状、腹痛や嘔吐などの消化器症状、息苦しさなどの呼吸器症状が急に起こる(厚労省公式サイト「新型コロナワクチンQ&A」)。じんま疹などの皮膚症状はなく、震えだったので呼吸器症状ではなかったか、と。(※イラストは厚労省公式サイトより)