⇒ドキュメント回廊

★團十郎の襲名酒の誉 農口杜氏の人生に酔う

★團十郎の襲名酒の誉 農口杜氏の人生に酔う

   今月で御年90歳、顔がつやつやしている。「酒蔵の階段の昇り降りが健康の素」と笑う。石川県小松市の造り酒屋で杜氏として蔵人たちを指導する農口尚彦さんは国が卓越した技能者と選定している「現代の名工」であり、日本酒ファンからは「酒造りの神様」と呼ばれる。「のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」。理路整然とした言葉運びに圧倒される。農口杜氏の山廃仕込み無濾過生原酒にはすでに銀座、パリ、ニューヨークなど世界中にファンがいる。

   きのう醸造所「農口尚彦研究所」を訪れ、杜氏が特別に造った酒を楽しませてもらった。そのブランド名は「十三代目市川團十郎白猿襲名披露 特別Ver」。歌舞伎俳優の市川海老蔵改め十三代市川團十郎白猿の襲名を記念した公式の日本酒だ。特別バージョンというのも、4年前から造りためた未発売の酒をブレンドしたもの。これまでの日本酒のイメージを超えた華やかな味わいだ。農口杜氏から「ブルゴーニュワインのロマネ・コンティをイメージして造った」と説明があった。低温で熟成させるため新鮮な香りがする。500本限定の特別Ver。御年90歳の杜氏のさらなる挑戦でもある。

   それにしても、十三代目市川團十郎白猿と結びつく、どのような縁があったのか。小松市の安宅海岸は「安宅の関」で知られる。源義経が都落ちして平泉に向かうとき、武蔵坊弁慶が杖で義経を叩いて検問をくぐり抜けたというこの地の伝説は、十三代目市川團十郎白猿のお家芸の歌舞伎十八番『勧進帳』として演じられる。来年3月には、襲名披露の巡業が小松市の「こまつ芸術劇うらら」である。うららは襲名を機に「小松市團十郎芸術劇場うらら」に改称されることも決まっている。こうした縁から襲名を記念した公式の日本酒を農口杜氏が造ることになった。

   先日、知り合いから写真を送ってもらった。東京の歌舞伎座の前では農口尚彦研究所の酒樽が積まれている=写真=。農口の「の」の字がデザインされた酒樽。「歴史がある市川家の襲名記念の酒を造れるのは光栄です。さらに、世界に通じる酒を造りたいと思いこの歳になって頑張っております」。まさに、酒造りのエンドレスな人生。ちなみに、「研究所」の名称は、この農口杜氏の技と発想を若い人たちに学んでもらいたいとの思いから付けられたそうだ。

⇒4日(日)午前・金沢の天気   あめ

★どぶろくを飲み、カニを味わう 「時代食感」の楽しみ

★どぶろくを飲み、カニを味わう 「時代食感」の楽しみ

   庶民にとってカニの季節が訪れた。きのう午後、近くのスーパーに行くと、地元産のズワイガニがずらりと並んでいた。雄のズワイガニ(加能ガニ)はゆでたものをカットしたもので大パックで5800円、中パックで3800円の値段だった。今月6日に漁が解禁となり、上旬はご祝儀相場もあり、大パックは9000円ほどだったが、下旬に入って5000円台に。雌の香箱(こうばこ)ガニは大きめのもので1500円ほどだったが、いまは800から900円ほどで値が落ち着いている。今季で香箱ガニは2、3度食したが、今回は思い切って加能ガニに手を伸ばした。

   例年、カニは地酒の辛口吟醸酒で味わう。今回はちょっと趣向を変えて、能登産の「どぶろく」で味わうことにした。能登半島の中ほどに位置する中能登町には、連綿とどぶろくを造り続けている神社が3社ある。五穀豊穣を祈願するに供えるお神酒で、お下がりとして氏子に振る舞われる。同町ではこの伝統を活かして2014年に「どぶろく特区」の認定を受け、いまでは農家レストランなど営む農業者が税務署の製造免許を得て醸造している。

   蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁り、「濁り酒」とも呼ばれる。もともと、どぶろくは各家々で造る庶民の味だった。明治政府は国家財源の柱の一つとして酒造税を定め、日清や日露といった戦争のたびに増税を繰り返し、並行してどぶろくの自家醸造を禁止した。

   そして、ズワイガニもかつては庶民も味だった。能登半島で生まれた自身の記憶だが、子どものころにコウバコガニをおやつ代わりに食べ、カニ足をパキパキと折って身を吸い出して食べる「カニ食い競争」に興じたものだ。そのころ、乱獲などで漁獲量が減り、石川県から島根県の漁業者らが昭和39年(1964)に「日本海ズワイガニ採捕に関する協定」を結び、漁期や漁獲量を取り決めた。そのころから、カニは高嶺の花となっていく。

   今回ふと、いにしえの人々のように、どぶろくを飲みながらカニを食べるとどのような風味になるのだろうかと思い立った。そこで、中能登町へ行き、本場のどぶろくを手に入れ、今季初の加能ガニに挑んだ。ぴっちりと締まったカニの身を、とろりとしたどぶろくが包み込むような食感で、実にのど越しがいい。さらに、カニみそ(内臓)としっくりなじみ、満足度が高い。どぶろくとカニを味わっていた昔の人々と時代を超えて食感が共有できたひと時でもあった。

⇒27日(日)午後・金沢の天気    はれ

★コロナワクチン接種5回目 迷った末に

★コロナワクチン接種5回目 迷った末に

   おそらく迷っている人が相当数いるのではないか。先日郵送で金沢市役所の新型コロナワクチン接種推進室から5回目のワクチン接種の案内が届いた。接種費用はこれまでと同様に無料であり、ありがたいのだが、接種すべきかどうか。

   じつは、8月9日に4回目のワクチン接種を市内の病院で受けた。去年の2回(6月、7月)はファイザーで、3回目(ことし3月)と4回目はモデルナだった。3回目とのときは、接種した右腕の付け根の部分に痛みが1週間ほど残った。4回目では右腕の付け根だけでなく、左腕のほぼ同じ個所にもじんわりとした痛みが続いた。そして、恐怖を感じたのは2日目の午後、小刻みに体が震える症状が出た。しばらくキードボードを打つことができなかった。数分して震えが治まった。

   それ以来、「アナフィラキシー症状だったのか」と気になっている。この症状は、薬や食物が身体に入ってから起きることのあるアレルギー反応で、じんま疹などの皮膚症状、腹痛や嘔吐などの消化器症状、息苦しさなどの呼吸器症状が急に起こる(厚労省公式サイト「新型コロナワクチンQ&A」)。じんま疹などの皮膚症状はなく、震えだったので呼吸器症状ではなかったか、と。(※イラストは厚労省公式サイトより)

   後日、知人にこの症状を話すと、「接種後にじんま疹などの副反応が出てしばらく病院で待機したという話は聞いたことがあるが、翌日の震えは初めて聞いた」とのことだった。病院に行くことを勧められたが、その後は症状がないので行ってはいない。ネットで調べると、アナフィラキシーの症状は実にさまざまなケースがあり、中でも恐ろしいのは気道閉塞(喉の奥の空気の通り道が塞がれること)や不整脈、ショックなどで、死に至る事例もあるという。

   以下は憶測だが、副反応を一度でも経験した人は次回の接種をためらうのではないか。これは全国的な傾向のようだが、たとえば石川県内のワクチン接種率は、1回目終了者は82.4%、2回目の終了者は81.5%、3回目の終了者は67.7%、そして4回目終了者は38.6%と激減する。11月に始まった5回目の終了者は3.9%に過ぎない(NHK公式サイト「ワクチン接種 日本国内の状況は」より)。

   アナフィラキシーなどの副反応を覚悟して接種するか、あの経験をもう二度としたくないと辞退するか。冒頭で述べたように迷っている人は多いのではないか。自身は万が一のことを考え、控えることにした。

⇒22日(火)午前・金沢の天気    くもり

★霜降のころ 一滴の茶

★霜降のころ 一滴の茶

   きょうは二十四節季の「霜降」にあたる。朝夕が冷え込み、霜が降りるころだ。霜降の次は「立冬」(11月7日)。季節は冬に移ろいでいる。とは言え、きょう午後1時ごろの金沢の気温は23度だった。その後、強い雨が一時的に降って、夕方は17度ほどに。

   きのう金沢21世紀美術館の茶室「松涛庵」で催された「小川流煎茶会」に席入りした。今月8日にも「金沢城・兼六園大茶会」が松涛庵であり、表千家流の抹茶を楽しんだ。それぞれ趣きのある場の雰囲気にひたりながら茶の湯を楽しませてもらった。

   煎茶を味わって感じることは「一滴の哲学」ということだろうか。小さな茶碗にほんの僅か、ほぼ一滴の煎茶が出される。それを2回味わい、その後に菓子をいただき、最後に白湯を飲み、茶席が終わる。抹茶とはまったく異なる流儀だ。

   そもそも茶碗に一滴、その意味は。亭主(主催者)の説明は示唆に富んでいた。小川流煎茶の開祖は幕末に京都で御殿医を勤めていた。茶とは何かを問い、「茶の真味」を突き詰めていく。そして、明治維新の最中にまったく無駄のない、「滴々の茶」という発想にたどり着く。「茶は渇きを止むるに非ず、飲むに非ず、喫するなり。ただ湯水の如く呑飲で、いかでか茶味を知ることを得んや」(小川可進著『喫茶弁』)。茶碗に注がれる滴の茶の味にこそ、茶本来の自然の味があり、それを引き出すのが茶道である、と。

   確かに一滴の茶ながら、凝縮された味わいがある。抹茶碗で一服をいただたときより味わい深いかもしれない。これは、一滴の味わいを求めて、全神経と味覚が集中するからかもしれない。そして、「茶とは何か」と思索にはまる。

   茶室「松涛庵」。露地は枯山水の造り。モダンアートを展示する「21美」とは真逆の伝統的な和風空間でもある。ここで茶とは何か、人が茶を味わうとは何か、味わうことの喜びや楽しみ、そして幸福感とは何かを考えた時間だった。

   茶室庭の後ろ側の道路は紅葉の道だった=写真=。落ち葉が小路を覆い、晩秋を感じさせる。そして、自身の人生も秋のころかと、ふと思った。

⇒23日(日)夜・金沢の天気   くもり時々あめ

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

★セイタカアワダチソウは「厄介な雑草」なのか

   きょうは秋晴れのすがすがしい一日になりそうだ。庭にはセイタカアワダチソウが黄色の花を咲かせ、時折そよぐ風に身を揺らしている=写真=。ただ、この植物は植えた覚えはなく、いつの間にか庭に生えていた、いわゆる外来種の雑草ではある。

   なのに、春と夏の草むしり(除草)の際は、数本だけ残している。観賞用でもないのだが、「雑草という草はない。どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」(昭和天皇のお言葉)という有名なフレーズを妙に覚えていて、根こそぎの除草はしていない。ところが、この季節に休耕田や河原、空き地に一面に群生している様子を見るとその勢いに圧倒されそうになり、複雑な思いに駆られることもある。

           そうした見た目のよくない印象もあるのだろう、セイタカアワダチソウは花粉症の元凶と誤解されたこともかつてあった。今でもそう思っている人も多いかもしれない。風に揺れる様子を見ていても分かるように、花粉がほとんど飛ばない。花粉は量が少なく、比較的重いためとされる。いわゆる「風媒花」ではなく、花に寄って来た虫によって受粉する「虫媒花」なのだ。

   以前、植物研究者から聞いた話だが、セイタカアワダチソウは生命力が強い植物であり、さまざま薬効もあるようだ。葉にはポリフェノールの一種であるクロロゲン酸などが含まれていて、煎じて飲めば、血糖値や血圧の上昇を抑える効果がある。また、フラボノイドも含まれていて、ヨーロッパなどでは葉を潰して虫刺されや外傷の止血剤としても用いられている。入浴剤としても使われている、とか。今では見かけないが、日本では、草丈が1㍍から2㍍と長いことから、かついては簾(すだれ)の材料として活用されていた。

   さまざまに活用方法があるものの、人々の暮らし方の変化にともない、厄介な雑草としか見られない植物になった。こう考えると、才能がある人物を活かしきれず、厄介者扱いにする人間社会も同じ、かと思ってしまう。

⇒13日(木)午前中・金沢の天気    はれ

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

☆金沢の茶席で見たトンボ絵の茶器のこと

      きょうは3連休の初日。空模様を気にしながら、3年ぶりに開かれた「金沢城・兼六園大茶会」(石川県茶道協会など主催)に足を運んだ。「大茶会」と言うのも、4つの会場で茶道7流派の12の社中が日替わりで茶席を設ける形式。4つの会場は金沢城や兼六園の近くにあり、それぞれ趣きのある場の雰囲気にひたりながら茶の湯を楽しむことができる。

   最初に訪れたのは金沢21世紀美術館の敷地の一角にある茶室「松涛庵」。もともとは加賀藩主が江戸時代の末期に東京の根岸に構えた隠居所だった。その後、金沢に移築されて茶室に改装、平成13年(2001)に金沢市が取得して一般公開している。露地は枯山水の造り。モダンアートを展示する「21美」とは真逆の伝統的な和風空間でもある。

   ここで表千家の社中が立礼(りゅうれい)席を設けていた。立礼は椅子に座ってお茶を点てる作法=写真・上=。客も椅子に座り、抹茶碗はテーブルの上に置かれる。まさに和洋折衷の風景だ。一説に、明治5年(1872)に西本願寺などを会場として京都博覧会が開かれ、裏千家が外国人を迎えるために考案したものとされる。文明開化といわれた激変する時代に対応するアイデアだったのだろう。

   その立礼でお茶を点てる様子を眺めていた。すると、お点前の女性が手に持った茶器がキラリと光った。何だろうと思い、茶道具の一覧を記した会記を見ると、茶器の作者は「SUZANNEZ ROSS」、作品名は「KINDRED SPIRITS」と記されていた。「あっ、スザーンさんの作品だ」と心でつぶやいた。茶器は粉の抹茶を入れる漆器で、茶杓で抹茶を碗に入れ、お湯を入れて点てる。茶席に欠かせない道具の一つ。 

   スザーンさんには9年前、金沢大学の社会人講座で講演をいただき、輪島市の工房も訪問したことがある。ロンドン生まれのスザーンさんが漆器と出会ったのは19歳の時、美術とデザインを学んでいて、ロンドンの博物館で見た漆器の美しさに魅せられた。 22歳で日本にやって来て、書道や生け花、着付けなど和の文化を学んだ。その後、漆器を学ぶために輪島に移住。1990年から輪島漆芸技術研修所で本格的に学んだ。

   輪島塗には100を超える作業工程があり、分業システムが確立されていて「輪島11職」とも称される。ところが、スザーンさんは木地造り以降の作業をすべて自分一人で手掛けている。漆器の魅力をこう話していた。「器も木で出来ていて生きている、漆も生きているし、私も生きているから、3つの生き物を合わせて一つ。 うまくいく日と、いかない日がある。でも、それが楽しい」

   茶器には蒔絵で秋雲とトンボが描かれていて、トンボの羽には螺鈿(らでん)が施されている=写真・下=。キラリと光ったのはこのトンボの羽だった。では、「KINDRED SPIRITS」をどう日本語に訳するか。「心の友」だろうか。手塩にかけて仕上げた作品が心を癒してくれる、それは友のようでもあり、漆器という「生き物」に込めた想いかもしれない。チャンスを見つけて本人にお会いして作品名について尋ねてみたい。

⇒8日(土)夜・金沢の天気   くもり   

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

★安倍国葬後の課題 「今より後の 世をいかにせむ」

   きょう日本武道館で営まれた安倍元総理の国葬の中継番組をNHKなどで視聴した=写真=。見ていた時間は午後1時50分から午後3時50分ごろまで2時間。この間、安倍氏の昭恵夫人が遺骨を抱いて車から降りて会場に入る。開式の辞で始まり、国歌演奏、黙とう、政府が制作した生前の安倍氏の映像を映写、追悼の辞(三権の長がそれぞれ、友人代表)、皇族による供花、献花(海外参列者、駐日大使ら)までを視聴した。

   あくまでもテレビ視聴での感想だが、めりはりのない形式的な追悼式というイメージだった。目立ったのはきびきびとした動きの自衛隊の儀杖隊だった。そもそも、10分にも及ぶ生前の安倍氏の映像を流す必要性が一体どこにあったのか。故人の功績や人柄をしのぶのは追悼の辞で十分ではなかったか。追悼式は追想の場であり、映像シーンを次々見せてしのぶものではない。

   追悼の辞で、友人代表として菅前総理が興味深いエピソードを紹介していた。平成12年(2000年)、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしていた。当選2回目だった菅氏は「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と自民党総務会で反対意見を大々的に述べた。紙面で掲載され、記事を見た安倍氏が「会いたい」と電話をかけてきた。これが、安倍氏と菅氏が北朝鮮の拉致問題にタッグを組んで取り組むきっかけだった。当時の森喜朗内閣や外務省などは日朝正常化交渉を優先していて、拉致問題はむしろ交渉の阻害要因というスタンスだった。

   安倍政権の7年8ヵ月、官房長官として苦楽を共にした菅氏は、明治の政治家・山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれて故人をしのんだ歌を一首詠んで追悼の辞を締めくくった。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」。追悼の辞で拍手があったのは菅氏だけだった。

   民放チャンネルも中継番組を流していた。横並びの中継には当初、総務省からの圧力かと違和感があった。日本テレビ系とテレビ朝日系は海外参列者の献花のタイミングで、安倍氏と世界平和統一家庭連合(旧「統一教会」)の関係や、いわゆるモリカケ問題など取り上げ、安倍長期政権の光と陰にスポットを当てていた。日テレ系は、この国葬を統一教会がプロパガンダとして使っていく可能性があると、霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士のコメントを中継で紹介していた。

   来週3日から秋の臨時国会が始まる。自民党は旧統一教会と絶縁宣言(今月8日)をする一方で、安倍氏と教団の関係を調査することについては「本人が亡くなった今、限界がある」(岸田総理)として否定している。国葬をプロパガンダにさせないためにも、この問題にけじめをつけてもらいたい。まさに、菅氏が詠んだ山県有朋の歌、「今より後の 世をいかにせむ」だ。

⇒27日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

★「芝生」の「雑草」に除草剤 是か非か

   午後に晴れていれば、庭の草むしり(雑草取り)を日課としている。草取りをすると作業の成果が見えるだけに、気持ちがすっきりとする。しかし、いくら抜いても取ってもすっきりしない雑草がある。チドメグサだ。漢字では「血止め草」と書き、学名は「Hydrocotyle sibthorpioides」。すっきりしない理由は、数日するとまた茎を張りめぐらして生えてくるからだ。

   チドメグサはどこにも適応できる多年草で、匍匐茎(ほふくけい)といい、地中深くに茎を伸ばしながら繁殖する。茎を途中でちぎっても、残った茎から繁殖し、あっという間に広がってしまう。すさまじい繁殖力だ。こうなると、雑草とはいえ、敵意がむき出しになる。

   とくに、芝生に入ったチドメグサは許せない=写真=。まるで、「隠れ蓑」戦術だ。目立たないように勢力を拡大している。そこで戦いを挑む。まず、芝刈り機で刈り込む。チドメグサの葉や茎も刈ることができるが、問題は芝生の根にチドメグサの茎が絡まって離れようとしない。そこで、一本一本を無心に外すことになる。芝生専用の除草剤もあるのが、除草剤は使いたくないので手作業だ。

   先日この作業をしていて、ふと、いま霊感商法や献金強制で問題となっている旧統一教会と仕組みが似ていると思い浮かんだ。自民党など政治家を芝生に例えれば分かりやすい。そこに、選挙応援などと称して入り込み、いつの間にか自民党の国会議員全体の半数近くの179人が何らかの関係を持っていた。中には秘書となり、しっかりと根を張った者もいる。

   そこで自民党は今後、統一教会や関連団体と一切関係を持たないことを基本方針とし、党所属の国会議員との関係を点検して公表したが、それだけでは教団との関係性を絶ち切れない。そこで、立憲民主党など野党は今月20日、旧統一教会の問題に取り組む弁護士や2世信者を招いてヒアリングを実施し、宗教法人法に基づく解散命令の請求を文化庁に求めた。この解散命令を除草剤と言い換えれば、分かりやすい。

   しかし、文化庁宗務担当者は「安易な解散命令請求することはできない。確実に(裁判で)勝てるだろうという状況がなければ解散命令請求すべきでない」との見解を繰り返した。つまり、除草剤の効果が分からないのにまくべきではないとの主張だ。これに対し、野党側は「解散命令を出す十分な要件がある。裁判で勝つ可能性が極めて高い」と述べていた。除草剤をまいてみないことにはその効果は分からないでしょう、と。

   それぞれに一理はある。個人的には庭に除草剤をまきたくはないが、反社会的な問題を起こしている宗教法人に対して、政治サイドがきっぱりとけじめをつけない限り、また時間とともに茎を生やし芝生を覆うようになる。

⇒23日(金)午後・金沢の天気     あめ

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

★「小泉訪朝」から20年 「拉致1号事件」から45年

   もう20年になる。2002年9月17日、当時の小泉総理が北朝鮮を訪れた。金正日総書記は小泉総理に対し、日本人拉致の事実を認めて謝罪した。拉致被害者5人の生存も確認され、帰国した。ただ、日本政府が認定している拉致被害者17人のうち、帰国できたのはこの5人だけだった。

   北朝鮮による拉致問題はいまだに解決していない。2021年11月、国連総会で人権問題を扱う第3委員会は北朝鮮に対してすべての拉致被害者の即時帰還を求める決議案を採択した。採択は17年連続となる。拉致被害者は日本だけではない。ヨーロッパではオランダ、フランス、イタリア、ルーマニアなど5ヵ国に及んでいる。アジアでは日本のほか韓国、タイ、マレーシア、シンガポール、マカオの6つの国・地域だ。   

   これまで何度か、日本人拉致「1号事件」の現場を訪れたことがある。能登半島の尖端近く、能登町宇出津(うしつ)の遠島山公園の下の入り江がその現場だ=写真・上=。1977年9月19日に事件は起きた。以下、当時事件を取材した元新聞記者のK氏から聞いた話だ。

   同年9月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん(当時52歳)と在日朝鮮人の男(同37歳)はJR三鷹駅を出発。翌19日、現場と近い旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。怪しんだ旅館の経営者は警察に通報し、石川県警の捜査員らが現場に急行した。旅館から歩いて5分ほどの入り江で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを船に乗せて闇に消えた。男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんが持参していた警棒などが見つかった。

   しかし、当時は拉致事件としては扱われず、公にされなかった。その後、拉致は立て続けに起きた。同年10月21日に鳥取県では松本京子さん(同29歳)が自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪(2号事件)。そして、11月15日、新潟県では下校途中だった横田めぐみさん(同13歳)が日本海に面した町から姿を消した(3号事件)=写真・下=。

   政府は拉致事件として認定していないが、1963年5月11日、能登半島の志賀町沖に刺し網漁に出た寺越昭二さん(当時36歳)、寺越外雄さん(同24歳)、寺越武志さん(同13歳)の3人が行方不明となり、後日、船だけが沖合いで発見された。1987年1月22日、外雄さんから姉に北朝鮮から手紙が届いて生存が分かった。2002年10月3日、武志さんは朝鮮労働党員として来日し、能登の生家で宿泊した。武志さんは「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と拉致疑惑を否定している。このケースは、北朝鮮の工作船と遭遇したため連れ去られた「遭遇拉致」と見られている。 

   1999年3月23日朝、能登半島東方沖の海上から不審な電波発信を自衛隊が傍受し、能登沖と佐渡島沖で2隻の「漁船」が発見された。北朝鮮の不審船による日本領海侵犯事件として、海上自衛隊と海上保安庁の巡視船など追跡したが、不審船は高速で逃げ切った。いまでも海上保安庁は北朝鮮の不審船による領海侵犯に目を光らせている。拉致事件は終わってはいない。

⇒17日(土)午後・金沢の天気    はれ

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

☆「旅するチョウ」アサギマダラが舞う季節

   「旅するチョウ」と称されるアサギマダラが能登や加賀の空に舞う季節がやってきた。このチョウは春は日本列島の北の方へ、秋には南の方へ。その距離は2000㌔にも及ぶと言われる。金沢大学に在職中はこの時季に学生や留学生といっしょに、能登半島で一番高い山である宝達山(637㍍)によく登った。山頂付近にはエサとなるフジバカマやホッコクアザミが繁っていて、東北方面からやってきたアサギマダラを間近に観察できた。

   地元でアサギマダラの保護活動を取り組んでいる人たちに同行してもらい、アサギマダラを捕獲し、マーキングして放す様子を見せてもらった。面白いのは捕獲の様子だ。右手で白いタオルを振り回すと、そのタオルをめがけてふわふわとまるでダンスを踊っているようにアサギマダラが飛んで来る。近寄って来たところを、左手に持ったネットで捕まえる。

   なぜアサギマダラは回るタオルに寄って来るのか。解説も面白かった。寄って来るタオルの色は白色と水色。白色と水色でも、回転しないタオルには寄って来ない。ゆっくり回すより、はやく回すと寄って来る。アサギマダラには回転する白や水色のタオルはどのように見えているのだろうか。吸蜜植物のホッコクアザミやフジバカマ、ヒヨドリバナなどお花畑が広がる光景のように見えるのかもしれない。

   ところで、「アサギマダラ」という名前はなぜついたのだろうか。ネットで調べると、「前ばねは黒、後ろばねは茶色の地色ではねの中央に透き通るような部分があります。この白い部分が新鮮な個体では青みがかっており、日本古来の色『あさぎ色』に見えることからアサギマダラの名前がついています」(「愛媛県総合科学博物館」公式サイト)との解説がある。

   アサギマダラの命は羽化後4、5ヵ月とされる。その間に2000㌔の旅をする。いま能登で蜜を吸って、これから小笠原諸島や与那国島、さらに台湾まで移動する。この時節は台風の季節でもある。向かい風をどう乗り切って南に向かうのか。そして、なぜ過酷な旅をするのか。人の人生というものを連想させる、不思議なチョウではある。

(※写真は、世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル公式サイトより) 

⇒16日(金)夜・金沢の天気     はれ