⇒ドキュメント回廊

☆新盆で見える金沢の風景

☆新盆で見える金沢の風景

   金沢の風習の一つとして「新盆」がある。7月13日から15日ごろにかけて墓参りをする。その際、「札キリコ」を持参する。墓の前に札キリコをつり下げる棒か紐がかけてあり、墓参した人はそこに札キリコを吊るす=写真・上=。この板キリコの表面には、浄土真宗の家ならば「南無阿弥陀仏」、曹洞宗ならば「南無釈迦牟尼仏」と書いて、裏面の「進上」には墓参した人の名前を記す。この札キリコによって、その墓の持ち主は誰が墓参に来てくれたのかということが分かる仕組みになっている。いわゆる墓参者の名刺代わりのようなものだ。

   自身もきのう菩提寺を訪れ、墓参りを済ませた。最近思うことだが、墓地をざっと眺めて板キリコの数が減っているように思えてならない。つまり墓参する人の数が減っている。きのう午後に訪れたときも、墓参者はまばらだった。

   4月と6月に親戚と知り合いに物故者が出て、葬儀に出かけた。会場はいわゆる「家族葬」で、祭壇はコンパクトに白菊などの花が飾ってあった。近親者だけで行う小規模な葬儀なので、それぞれ40人ほどの参列だった。通夜も葬儀も時間にすれば1時間ほどだった。最近、朝刊の「おくやみ」欄で「通夜、葬儀ともに終了」の表記が目立つ。家族葬で通夜・葬儀をすでに済ませた、というケースが多いのだろう。ちなみに、14日付の「おくやみ」欄では石川県内で20名の方が掲載されていたが、うち8名は「通夜、葬儀ともに終了」となっている。葬儀の身内化、コンパクト化だろうか。

   先日、知り合いがマイホームを新築したというので、見学させてもらった。金沢の丘の上のある住宅で、見晴らしがとてもよい。知り合いは旧市街地から現在のところに、ある意味で移住した。キッチンとリビングが一体化していて、広々とした「住まい感」を感じた。そして、畳の部屋がない。「前の家にあったあの大きなお仏壇はどうしたの」と尋ねると、仏壇屋に引き取ってもらって、代わりに小さな仏壇にしたとのこと。リビングのドアを開けてくれた。すると、縦70㌢・横50㌢・奥行き30㌢ほどのコンパクトな仏壇が仕舞ってあった。「もちろん、月命日には家族で手合わせして供養している」とのこと。住宅の洋風化とともに仏壇がコンパクト化している、そんな印象を受けた。

   と同時に、金沢の金箔産業は大丈夫なのかとの思いも脳裏をよぎった。仏壇の内部には金箔がふんだんに施されている。なので、仏壇が小さくなるということは、金箔の需要が減るということだ。「金沢は金箔で持つ」と言われるくらいに、金沢は伝統的に金箔生産量を誇り、全国シェアは98%だ=写真・下=。金を極限まで薄く伸ばしたのが金箔であり、この「縁付(えんつけ)金箔」と呼ばれる製法は「伝統建築工匠の技」の一つとして、2020年にユネスコ無形文化遺産にも登録されている。(※写真は金沢金箔伝統技術保存会ホームページより)

   新盆に見えた金沢の風景を取りとめもなく書いてみた。

⇒14日(金)夜・金沢の天気     くもり時々あめ 

★安倍事件から1年 モラル崩壊の世の中に

★安倍事件から1年 モラル崩壊の世の中に

   安倍元総理が奈良市で選挙応援演説中に銃撃され死亡してから、きょう8日で1年になる。この銃殺は回避できなかったのかと思うことがある。それは警察が襲撃のとき何をしていたのか、という点だ。

   奈良市の大和西大寺駅前の交差点で安倍氏は候補者とともに立っていた。この場所はガードレールに囲まれていて、警視庁のSP1人を含む4人の警察官が警備にあたっていた。SPは安倍氏を見ながら、前方の大勢の聴衆を警戒していた。2人の警察官は安倍氏の目線と同じ方向にいる聴衆を警戒していた。つまり、傍らにいた3人が会場前方を中心に警備していたことになる。そしてもう1人の警察官は主に安倍氏の後方の警戒にあたっていた。

   最初、容疑者と安倍氏の直線距離は約15㍍だった。その後、安倍氏の背後に回り込むように歩いて車道を横断。ショルダーバッグの中から手製の銃を取りだし、約8㍍の距離から発砲した。周囲の人たちが大きな音に身をすくめる中、容疑者は白煙の上がる銃を手にし、さらに5歩前進。2.7秒後に、背後約5㍍から2発目を撃った。音の方を振り向くような動きを見せていた安倍氏は身をかがめるようにして倒れた。容疑者は直後、車道上で取り押さえられた。(※写真は、安倍氏銃撃事件を伝える、7月8日付の地元紙の夕刊) 

   ここで理解できないのは、背後8㍍まで近づいて発砲し、さらに5歩進み2.7秒後に2発目を発射している点だ。その間、SPと警察官の4人は何をしていたのか。ネットに上がっている関連動画などを見ると、一発目の後、安倍氏に覆いかぶさるなど警護対象者の身を守るような行動は確認できない。警察は常に容疑者の身柄の確保を最優先に考えていて、一発目の砲音と同時に犯人捜しに視線が注がれ、安倍氏をガードする行動が遅れた。5歩、2.7秒の二発目はその警備の死角を突いたのだろうか。

   銃規制がきびしい日本の社会にあって、専門知識があれば銃や弾を自作できる。それも無尽蔵にだ。これから銃がはびこるのではないか。そして、ことし4月には和歌山市で岸田総理の演説会場で爆発物が投げ込まれる事件もあった。世の中ではモラルの崩壊が起きているように思えてならない。

⇒8日(土)午後・金沢の天気   あめ

☆季節外れの黄砂がやって来る

☆季節外れの黄砂がやって来る

   きょうも線状降水帯が九州地方にはびこるなど、異常気象ともいえる状況が続いている。そして、これも異常な空だ。気象庁公式サイト「黄砂情報」によると、あす6日は大陸から黄砂が飛んでくる可能性がある。これまで7月から9月かけて黄砂が観測されたことはなく、もし観測された場合、統計が始まった1967年以来初めてのこととなる。季節外れの黄砂だ。   

   日本から4000㌔も離れた中国大陸のタクラマカン砂漠やゴビ砂漠から偏西風に乗って黄砂はやって来る。ただ、この時期に黄砂が来るということは、中国北部が高温少雨の干ばつに見舞われていて、砂が巻き上げられやすくなっているのではないか、と憶測してしまう。北京などでは猛暑が続き、観測史上初めて6月に3日連続で40度を超え、22日には過去最高の41度を記録したと報じれらている(6月25日付・AFP通信Web版日本語)。

   黄砂の日に外出すると、目がかゆくなる。黄砂そのものはアレルギー物質になりにくいとされているが、黄砂に付着した微生物や大気汚染物質がアレルギーの原因となり、鼻炎など引き起こすようだ。さらに、黄砂の粒子が鼻や口から体の奥の方まで入り、気管支喘息を起こす人もいる。日本海側の黄砂のルートにもなっている金沢では古くから「唐土の鳥」がまき散らす悪疫として、黄砂を忌み嫌ってきた。

   厄介もの扱いの黄砂だが、日本海に恵みをもたらすともいわれている。大量の黄砂が日本海に注ぐ3月と4月には、「ブルーミング」と呼ばれる、海の表面が白くなるほど植物プランクトンが大発生する。黄砂の成分といえるケイ酸が海水表面で溶出し、植物プランクトンの発生が促される。それを動物プランクトンが食べ、さらに魚が食べるという海の食物連鎖があるとの研究がある。確かに、地球規模から見れば、「小さな生け簀(す)」のような日本海になぜクジラやサメ、ブリ、サバ、フグ、イカ、カニなど魚介類が豊富に獲れるのか、いろいろ要因もあるが、黄砂もその役割を担っているのかもしれない。

   気象庁「黄砂情報」=予想図=によると、北陸地方にはあす6日午後3時ごろからが黄砂のピークだ。

⇒5日(水)夜・金沢の天気    くもり   

★タカになりたかったトンビ

★タカになりたかったトンビ

   きょう久しぶりに金沢城公園を散歩した。コロナ禍を経て観光客が戻っているようで、団体やインバウンド観光客の姿が多く見られた。休憩所に入ると、「トンビに注意!」のポスターが数枚貼ってあった。

   休憩所にいたボランティアガイドの男性に尋ねた。「トンビに注意とありますが、どんな被害があるのですか」と。すると、ガイド氏は困ったような顔つきでこう話してくれた。公園の広場で弁当などを食べていると、トンビが空から降りて来て、人に危害を与えないが食べ物を取っていくという事例が目立っているという。これまでも、サンドイッチやおにぎりなどが狙われた被害があったそうだ。確かに、注意書きの下には、「食べ物をねらって、空から急降下してくることがあります」と記してある。

   タカ科の猛禽類のトンビはピーヒョロヒョロと鳴きながら、空でくるりと輪を描いているイメージだが、地上の獲物を狙っている。ヘビやカエルなどが好物のようだが、以前、能登の千里浜海岸で打ち上げられたの魚の死骸を突いている様子を見たことがある。雑食性の鳥だ。「トンビに油揚げをさらわれる」という言葉もある。自分のものになると思っていたものや、大切にしていたものが不意に横取りされることのたとえで使われる。このようなことわざがあるくらい油断ならない生き物なのだろう。

   悪いイメージだけではない。「トンビがタカをうむ」という言葉もある。平凡な親が優れた子を生むことのたとえ。そして、「トンビも居ずまいからタカに見える」という言葉もある。普通の人間であっても、立ち居振る舞いによって立派な人に見えるというたとえだ。

   前回のブログの続きになるが、ロシアのプリゴジンをトンビにたとえてみる。タカ(将軍)になりたかったトンビが軍勢を引きいてモスクワに進軍したが、ベラルーシのルカシェンコ大統領にトンビはトンビと諭されておじけづいた。しょせんトンビはトンビ、タカにはなれない、と。

⇒30日(金)夜・金沢の天気    くもり

☆梅雨入り晴耕雨読とりとめのない日常

☆梅雨入り晴耕雨読とりとめのない日常

          北陸も梅雨に入り、金沢のきょう一日の天気はどんよりとした曇り空、そして雨が時折ぱらついた。この時節は、二十四節気の一つ「芒種(ぼうしゅ)」のころ。次候に「腐草蛍と為る」とある。ホタルが明かりをともして、飛び交うころだ。昔の人は、腐った草がホタルに生まれ変わると信じていたようっだ。

   光っては消えるゲンジボタルの明滅の間隔が東日本と西日本では違うことは知られている。西日本では2秒に1回、東日本では4秒に1回と観測されている。オスが交尾相手を探す際に見せる明滅なのだが、なぜ東西で間隔が異なるのかよく分かっていない。では、西日本と東日本と中間にある金沢ではどうか。以前、同じ関心を持った仲間たちと金沢大学の角間キャンパスで計測したことがある。すると、おおむね2秒間隔だった。金沢は西日本の生態系ということになる。

   話は変わる。夏を迎え、我が家の和室も障子戸を外して簾(すだれ)に架け替えた。床の間の掛け軸も『五月晴れ』から『青山緑水』に取り換えた=写真=。山の木々は青々と輝き、山から流れ出る川水に緑が映える。生命力あふれる自然の情景を感じさせる。

   禅語辞典をくってみると『青山緑水是我家』という書もある。各地を行脚して歩く禅の修行僧の境涯を表現したもの。自然界では人の奢り高ぶった気持ちは通用しない。自然を我家として修行に励むことで、人は全ての生き物と同じように大自然の中に生かされているということを改め感じ、悟りをひらく。

   掛け軸の下の花入には、庭に咲いていた額アジサイ、ツキヌキニンドウ、シマササの3種を生けた。草むしりなど野外の作業はせずに、取り留めなくのんびりと過ごした晴耕雨読の日だった。ただ、能登半島の尖端区域は先月5日の震度6強の地震で地盤が緩んでいる恐れがある。大雨にならないことを祈る。

⇒12日(月)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★「負けとられん珠洲」 円相の熱いメッセージ

★「負けとられん珠洲」 円相の熱いメッセージ

   「負けとられん 珠洲!!」。5月5日に震度6強の揺れに見舞われた能登半島の尖端・珠洲市の知人から、メールで写真が送られてきた。ことし9月に同市で開催される「奥能登国際芸術祭2023」の企画発表会がきのう(10日)、多目的ホール「ラポルトすず」であり、作品紹介と同時に震災復興をアピールするロゴマークが公開された。それが、「負けとられん 珠洲!!」のキャッチコピーの作品=写真=という。「負けとられん」は能登の方言で、「負けてたまるか」の意味だ。

   今回の震災で同市では1人が亡くなり、30人余りが負傷、全壊28棟、半壊103棟、一部損壊564棟(5月30日時点・石川県調べ)など甚大な被害を被った。知人は発表会に参加していて、メールでロゴの制作者のことも述べていた。考案したのは金沢美術工芸大学の研究生の男性で22歳。実家が珠洲市で最も被害が大きかった正院町にあり、自宅の裏山が崩れて祖母が負傷したのだという。

   別の背景もメールに書かれてあった。奥能登国際芸術祭には毎回、金沢美大の学生チームが市内の古民家で作品を発表していたが、震災で作品制作を予定していた民家が使えなくなり、今回は出展を断念したということだった。そこで、奥能登国際芸術祭を主催する市側は、断念した金沢美大の学生チームに地震からの復興のロゴマークの制作を依頼した。学生チームには研究生も加わっていて、身内の負傷と出展断念の2重の痛手を乗り越えて、このロゴの制作に携わったようだ。

   送られてきたロゴの写真を視ると、文字を取り巻く「円」が印象的だ。しかも、下から「円」が力強く描かれて、下で切れている。いわゆる「円相」だ。中国・唐代の禅僧である盤山宝積の漢詩である「心月孤円光呑万象」(心月  孤円にして、光 万象を呑む)をイメージして描いたのが円相と言われる。円は欠けることのない無限の可能性を表現する。そう解釈すると、被災者である市民が心を一つにして、災害を乗り越えようという、力強いメッセージのようにも読める。

   3回目となる奥能登国際芸術祭は当初の開催予定より3週間遅れて9月23日から11月12日まで開かれ、14の国・地域から59組のアーティストが参加する。実行委員長である泉谷満寿裕市長が発表会で、「国際芸術祭が珠洲の復興に向けた光になればと思う」とあいさつしたとメールで書き添えられていた。市長のあいさつからも、「負けとられん珠洲」の熱いメッセージが伝わってくる。

⇒11日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆震度6強から1ヵ月 揺れ止まぬ能登は日本の縮図なのか

☆震度6強から1ヵ月 揺れ止まぬ能登は日本の縮図なのか

   能登半島の尖端を震源とするマグニチュード6.5、震度6強の地震が発生してきょう5日で1ヵ月が経った。地震は断続的に続いていて、きのう4日朝にもマグニチュード3.0、震度2の揺れがあった。震度1以上の揺れはことしに入って171回目となった(金沢地方気象台「震度1以上の日別震度回数・積算震度回数」より)。被災地では再建に向けて動き出しているが、課題も浮かんでいる。

   震度6強の揺れから10日目の15日に被害が大きかった珠洲市を訪れた。同市の全壊家屋は28棟、半壊103棟、一部損壊が564棟となった(5月30日現在・石川県庁調べ)。市内でもとくに被害が大きかった正院地区では、「危険」と書かれた赤い紙があちらこちらの家や店舗の正面に貼られてあった。貼り紙をよく見ると、「応急危険度判定」とある。   

   危険度判定は自治体が行う調査で、被災した建築物がその後の余震などによる倒壊の危険性や、外壁や窓ガラスの落下、設備の転倒などの危険性を判定し、人命に関わる二次的被害を防止するのが目的。判定結果は緑(調査済み)・黄(要注意)・赤(危険)の3段階で区分する。ただ、法的な拘束力はない。現地を訪れたときも、赤い紙が貼られている家だったが、買い物袋を持った住人らしき人たちが出入りしていた。危険と分かりながらも住んでおられるのかと思うと、自身も複雑な気持ちになった。

   地域経済にも深刻な被害をもたらしている。西村康稔経済産業大臣が今月3日に珠洲市を視察し、焼酎の製造会社で仕込み用タンクの損害や、「かめ」や「たる」が壊れて中身が流れ出たことについて説明を受けた。また、地元の伝統工芸品である珠洲焼の窯が壊れた状況を視察した。その様子を当日のNHKニュースが報じ、西村大臣は「事業を再開、再建できる支援をしていきたい。さまざまな補助金などがあるのでニーズに合わせて対応していく」と述べていた。また、同行した同市の泉谷満寿裕市長は「500以上の事業者が被害を受けた。事業者が再建をあきらめないように国の支援をお願いした」とインタビューに答えていた。

   能登半島では過疎高齢化が進み、空き家も目立っている。そこに追い打ちをかけるようにして、今度は震災に見舞われた。インタビューに答えていた泉谷市長は切実な表情だった。いつ揺れが止むか見通しが立たない。少子高齢化と地震多発の日本の縮図がここにある。災害復興のモデル地区として再生して欲しい、そう願わずにはいられない。

⇒5日(月)午前・金沢の天気    はれ

★日本海中部地震から40年 能登の輪島ではその時

★日本海中部地震から40年 能登の輪島ではその時

   前回ブログの続き。日本海中部地震は40年前の1983年5月26日に発生したマグニチュード7.7の地震だった。同時に津波が発生し、能登半島にも押し寄せた。このブログでも日本海中部地震の津波のことは何回か書いてきたが、きょう改めて「あれから40年か」と思い起こす。

   当時、金沢のローカル紙の新聞記者で、輪島支局で勤務していた。正午ごろ、日本海中部地震が起き、輪島も震度3の揺れがあった。金沢本社の報道デスクから電話があり、「津波が発生しているようだ。輪島にも来るかもしれないので港に行け」と指示があった。輪島漁港に駆けつけると、すでに津波が押し寄せていて、港内に巨大な渦巻きが起きていた。高さ数㍍の波が海上を滑って走るように次々と向かってくる。

接岸部を見渡すと、漁船同士が衝突し、沈没しかかっている船から仲間を助け上げている漁船員の姿があった。現場に近づいて数回シャッターを切って、すぐ立ち去った。大波が間近に見えていたからだ。撮影した写真が翌日27日付の紙面で掲載された。撮影した2人の漁船員は無事だった。記者とすると、現場にさらに近いづいて撮影し、インタビューもしたかったが、あの大波には記者魂より恐怖心が先立った。

   きょう付のNHKニュースWeb版は、日本海中部地震について記載している。地震活動を分析してきた弘前大学の小菅正裕名誉教授によると、この地震で青森県西方沖から秋田県沖で海底の断層がずれ動き、この40年間、断層に沿うように今も地震活動が続いている。直ちに大地震が発生する可能性は低い一方、その南側にあたる秋田県沖から新潟の佐渡島北方沖では津波を伴う地震のおそれもあると指摘している。
   佐渡島と能登半島は地図上では近い。ワンランクアップの地震と津波への対策が必要となっているのかもしれない。
⇒26日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆能登のコウノトリ 幸福を運ぶのか

☆能登のコウノトリ 幸福を運ぶのか

          国の特別天然記念物のコウノトリの営巣地としては日本で最北といわれる能登半島の志賀町に出かけた。同町の山中で誕生した3羽のヒナを見学するためで、ヒナの誕生は2年連続となる。ヒナを育てているつがいは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと福井県越前市生まれのメスで、去年と同じペアだ。
 
   現地到着は午後5時30分ごろ。小雨が降っていて、気温は15度だった。電柱の上につくられた巣を見上げたが、ヒナが頭が少々見える程度だった。20分ほど見上げていたがよく見えなかったので撮影をあきらめて帰ろうとしたとき、親鳥が巣に戻って来た。すると、ヒナが口ばしを開けて、エサをねだっている様子が見え、シャッターを押した=写真=。静かだった辺りの雰囲気も親鳥やヒナの鳴き声でにぎやかになった。
   

   去年ここで巣立ったコウノトリのオスの1羽が10月から11月にかけて台湾で確認された。足環のナンバーから判明した。能登半島からダイレクトに飛んで渡ったとすれば、距離にして2000㌔におよぶ。日本生まれの個体が台湾で確認されたのは初めてのケースだった(台湾野鳥保育協会調べ)。
 
   「コウノトリが住み着くと幸福が訪れる」「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」との伝承がヨーロッパにある。能登から飛び立ったコウノトリたちが伴侶をともなって戻って定着することで、少子高齢化が進む能登もにぎやかになればと夢を膨らませてしまう。
 
   これは自治体への提案だ。能登で生まれ育ったコウノトリは足環をつけているので、「戸籍」を持ったようなものだ。この際、コウノトリの子どもたちに名前をつけてはどうだろうか。かつて、能登で生まれ育ったトキに愛称を募集して、「能里(のり)」とネーミングしたことがある。名前が与えられると、人々の愛着もさらにわくものだ。
 
⇒23日(火)夜・金沢の天気   くもり

★能登の震度6強 避難所に「バンさんのマジキリ」

★能登の震度6強 避難所に「バンさんのマジキリ」

   前回ブログの続き。今回の地震6強の揺れで家屋などの被害が大きかった珠洲市正院町を歩いていると、横から声をかけられた。市長の泉谷満寿裕氏だった。金沢大学が2006年に開設した、生物多様性の学び舎「能登半島 里山里海自然学校」は泉谷市長との協働作業で同市で実現したプロジェクトだった。その経緯から、これまで何かと声をかけていただいている。

   立ち話で、「バンさんのマジキリがすごいので見に行かれたらいい」と。「バンさんのマジキリ」の意味が分からなかったが、「それはどこにありますか」と尋ねると、「大通りを右にまわって、駐在所の後ろにある正院公民館にある」とのことだった。

   さっそく行ってみると、公民館は避難所だった。玄関でスタッフに「バンさんのマジキリはどこにありますか」と尋ねると、案内してくれた。正直な話、珠洲市は国際芸術祭を開催しているので、泉谷市長から「バンさんのマジキリ」と聞いて、芸術作品かとも思っていた。ところが、実際に見てみると、避難所のパーテーションだった=写真・上=。

   スタッフの説明によると、建築家の坂茂(ばん・しげる)氏は、被災した人々にプライバシーを確保する避難所用の「間仕切り」の支援活動を行っていて、同市にもその間仕切りが寄贈された、とのこと。間仕切りは木製やプラスティックなどではなく、ダンボール製の簡単な仕組み。カーテン布が張られているが、プライバシー確保のために透けない。中にあるベッドもダンボールだ=写真・下=。坂氏は1995年の阪神大震災を契機に災害支援活動に取り組んでいて、このような「バンさんのマジキリ」を開発したようだ。

   それにしても、泉谷市長からいきなり「バンさんのマジキリ」とは別の意味があるのではと考えてしまった。そこで、「珠洲市」「坂茂」でネット検索すると、ことし9月に開催を予定している「奥能登国際芸術祭2023」に向けて、日本海が見える丘にある劇場型民俗博物館「スズ・シアター・ミュージアム」の隣接地でカフェがオープンすることになっている。その建築設計を担当しているのが坂氏だった。おそらく、泉谷市長は坂氏とこれまで面談を重ねている。なので、「バンさん」と親し気な表現なのだと理解できた次第。

⇒17日(水)午後・金沢の天気   はれ