★持続可能な事業継承とは何なのか 茶道・天然忌の教え
茶道・表千家には「天然忌(てんねんき)」という行事がある。茶道を習っている社中でも、きのう5日に行われ、表千家の中興の祖といわれる七代・如心斎(1705~51)の遺徳をしのんで、お茶を供えた=写真=。如心斎は9月に亡くなったので本来は同月の稽古で天然忌を行うが、今回、参加者が多く集える日を優先して10月となった。如心斎が工夫し制定されたとされる七事式の一つ、「且坐(さざ)」と呼ばれる稽古をするのが習いとなっている。
茶道の先輩諸氏から話を聴くと、如心斎は「求道者」のイメージがわく。その典型的なエピソードの一つが、大徳寺に毎日のように坐禅に通ったことだ。書物にもこう描かれている。「如心斎は、千家の伝統に従って、茶の湯は究極において禅に通ずる、と考えた。彼にとって、稽古は単に芸ごとの習練ではなく、悟りに達する自己鍛錬の道であった」(千宗左著『茶の湯 表千家』)。そして、死後も自分の肖像画を掛けることを禁じたという。ここから察するに、名誉欲をもたず、禅と茶道を極めた家元だった。
このイメージが表千家では代々共有されて、天然忌では「円相」の掛け物を飾る。中国・唐代の禅僧である盤山宝積の漢詩である「心月孤円光呑万象」(心月 孤円にして、光 万象を呑む)をイメージして描いたのが円相と言われる。円は欠けることのない無限を表現する、つまり宇宙を表している、とされる。茶の道も同じで、物事にとらわれず、純粋に精進することが茶の湯の道である、と。その心の宇宙の象徴が満月、円なのである。
如心斎が生きた江戸時代の中期は将軍家ほか大名も茶をたしなみ、茶道人口が増加したころだった。と同時に、茶の湯が遊芸化へと傾きつつあった時代ともいえる。そこで、原点回帰を進めた。茶道の祖といわれる千利休の150年忌を機に元文5年(1740)に利休像をまつった祖堂を建立。家元の一子相伝を明確にすることで、茶の湯の継承争いを避けることに苦心した。趣向に偏りがちな茶の湯の世界に禅の教えと厳しい作法を導入することで、その後、明治、大正、昭和と表千家の伝統が連綿と受け継がれることになる。
きのうの天然忌では、円相の掛け軸「人間万事 一場 夢(じんかんばんじ いちじょうのゆめ)」を掛けた。曹洞宗管長を務めた板橋興宗氏が金沢の大乗寺住職だったときの筆だ。そして、花は如心斎が好きだったとされる白い芙蓉を本来は飾るが、季節が少しずれたので白いムクゲを飾った。
⇒6日(金)夜・金沢の天気 くもり
能登ではサザエの貝殻の尖った部分を「ツノ」と呼んでいる。ただ、サザエにはツノのあるものと、ないものもある。さらに、そのツノは同じ長さではない。長いものと短いものがある。海流が速いところで採れるサザエのツノは長いと能登では言い伝えられているが定かではない。遺伝的な長さもあるのではないかと考えてしまう。ただ、ツノが長いほうが見栄えがいいので、ホテルでのサザエもつい、長いツノのものを選んで皿に入れた。
「サザエハウス」の壁面をよく見ると、サザエだけでなく、アワビや巻貝の殻もある。また、同じサザエでも貝殻のカタチが違う。殻に突起がいくつもあるもの、まったくないもの、それぞれにカタチの個性がある。サザエそのものがその生息地(海底の岩場の形状など)に適応して形づくられた、完成度の高いアートなんだと改めて思えるから不思議だ。靴を脱いでハウスの中に入ると今度はサザエの貝殻に入ったような白色の曲がりくねった世界が広がる。
北陸新幹線の金沢・敦賀間の開業によるJR西日本の運行計画概要(8月30日付ニュースリリース)=図=によると、金沢と大阪方面を結ぶ特急「サンダーバード」、そして、名古屋方面を結ぶ特急「しらさぎ」は敦賀止まりとなる。金沢から北陸新幹線に乗って大阪に行く際は敦賀でサンダーバードに乗り換え、名古屋に行く際も敦賀でしらさぎに乗り換えになる。時間は短縮されるだろうが、これまで直行だった列車が、乗り換えとなると不便さを感じるのではないだろうか。もちろん、当初から予定されていたことであり、いまさら言うのも適切ではないかもしれない。
ンダーバードやしらさぎで関西や中京と直行列車で結ばれているが、来年からは乗り換えの手間が客に煩わしさを感じさせるのではないだろうか。(※イラストは、敦賀市役所公式サイト「新幹線敦賀駅前広場のイメージ図を作成しました!」より)
ほど前に白い花が咲いていたのを檀家が株分けして数を増やしていったという伝えがある。そのせいか、花だけでなく境内も整備されて、ちょっとした「お寺の公園」というイメージだ。
ジ」と呼ばれる、瞬間的に電線を伝って高電圧の津波現象が起きる。この雷サージがパソコンの電源ケーブルから機器内に侵入した場合、部品やデータを破壊することになる。(※写真は、北陸電力公式サイト「雷情報」より)
日」として日本軍との戦いに勝利したことを祝い、10年に一度は大規模な式典が開催されている。本来ならば1945年8月15日が終戦の日だが、ルソン島で最後まで抵抗を続けていた日本軍の山下奉文陸軍大将が降伏を表明したのは9月2日だった。
面白いのは形状だけでなく、従来の図書分類の枠を超えたコンセプトだ。吹き抜けに面して1階から上へと続く360度の円形書架には、12のテーマで7万冊の本が手に取りやすい形で並べられている。たとえば、「自分を表現する」という書架には、絵を描く、音楽を奏でる、写真を撮る、演じるといった芸術関連の本が並ぶ。それは芸術論ではなく、本を手に取って読むことで自らも表現してみたくなるような内容の本だ。司書が選りすぐった本なのだろう。ほかにも「暮らしを広げる」「文学にふれる」「仕事を考える」「体を動かす」などのテーマで本が並ぶ。また、分類別図書の本棚には30万冊が並ぶ。
この時節いつも思うことだが、同じ墓参りでも金沢と能登・加賀では参り方に違いがある。金沢の場合は、墓所にキリコをつり下げる棒か紐がかけてあり、墓参した人は札キリコをかける。札キリコには浄土真宗の墓所ならば「南無阿弥陀仏」、曹洞宗ならば「南無釈迦牟尼仏」と書いて、裏の「進上」に墓参した人の名前を記す。この札キリコをつるすことで、その墓の持ち主は誰が墓参に訪れたのか分かる仕組みになっている。
墓参りの帰り、インド料理の店に入った。初めての店だった。店内で流れるBGMはまるでお経の合唱のような、ゆったりとして荘厳な響きで、インドの民謡のような雰囲気だ。マトンカレーとプレーンナン、タドリーエビを注文。
津幡町河合谷(かわいだに)地区は石川県と富山県の県境沿いの山間地にある。「禁酒の村」はこれまで話には何度も聞いていたが、先日、初めて現地を訪れた。かつては河合谷村として独立村だった。その村長から村ぐるみの禁酒の提唱があったのは大正15年(1926)1月28日のことだった。以下、説明書き「河合谷村【禁酒】の碑 由来」から。
生涯で1900余の句を残したといわれている。
18歳で加賀藩の足軽の家に嫁ぐも、20歳のときに夫と死別したことから松任の実家に帰る。このころから、金沢や小松、名古屋、美濃、伊勢の俳人らと交流を深める。52歳で剃髪して尼僧となる。(※写真は「千代女の里俳句館」の千代尼象)