★能登半島地震 干上がった岩ノリ畑、海岸にも近寄れず
毎年この時節に能登の知人から「季節のものです」と一筆添えて「岩のり」が送られてくる。岩のりは半島の北側の外浦の岩場で採れた天然のノリで、干したもの。養殖のノリに比べて厚みがあり、食感はやや硬めだが、磯の香りが広がり食欲がわいてくる。(※写真・上は、赤い丸盆に乗せた岩のり)
この冬の季節のノリを「寒ノリ」と言って、能登の海沿いの家々では、波が穏やかな天気を見計らって海岸の岩場に出かける。手で摘み、竹かごに入れて塩分を洗い流して水切りした後、自宅の軒下などで竹かごの上に乗せて陰干しする。干しかごが並ぶ様子は季節の風物詩でもある。
その岩のりの作業はことしは大丈夫なのかと案じる。今回の地震で海岸が隆起して、これまで海藻が採れていた岩場などの状況が一変したからだ。先日(今月5日)撮影に行った志賀町の海岸沿いでは、岩のりの原藻であるウップルイノリを繁殖させるためにコンクリートで造られた「岩ノリ畑」が隆起して干し上がっていた=写真・下=。もちろん、ノリが採れる場所は岩ノリ畑に限られているわけではない。
近くに住む人に話を聴くと、冬場に入った12月末まではノリがよく採れたそうだ。しかし、元旦の地震以降は誰も海岸には近寄ろうとはしない。それは、「津波は3分後に来る」という恐怖を今回の地震で共有したからだ、という。
能登半島ではきょう10日午前中で震度1から2の揺れが4回観測されている。気象庁によると、地震の回数は増減を繰り返しながら緩やかに減少してはいるものの、地震活動は依然として活発な状態が続いている。日本海沿岸で発生した日本海中部地震(1983年5月26日)や北海道南西沖地震(1993年7月12日)では地震発生のおよそ1ヵ月後に規模の大きな地震が発生していることから、震度5弱以上の揺れに注意を呼びかけている。
能登の海岸では海藻がよく採れる。岩ノリのほかにも、この地方で「カジメ」と称されるツルアラメやモズク、ワカメ、ウスバアオノリ(あおさ)、ハバノリ、アカモク(ぎばさ)、ウミゾウメン、マクサ(てんぐさ)、ホンダワラなど。そして海藻ごとにそれぞれ料理があり、海藻は能登の食文化でもある。ところが、海岸にも近づけないような現状がいまも続いている。
⇒10日(土)午後・金沢の天気 くもり時々あめ
1321年に開創された総持寺は曹洞宗の禅の修行寺として知られ、末寺は1万6千余を数える。1898年、明治の大火で七堂伽藍の大部分を焼失。これを契機に1910年、布教伝道の中心は横浜市鶴見区に移る。能登の総持寺は「祖院」と改称され別院扱いとなった。その後の再建で山門や仏殿などがよみがえり、周囲の山水古木と調和して大本山の面影をしのばせる(総持寺パンフ)。
円を集め、14年の歳月をかけて再建。開創700年に当たる2021年4月には落慶法要も営まれた。また、輪島市とともに復興を宣言し、観光誘客も順調に進んでいた。そして、2024年元旦に震度7の揺れに見舞われた。
行ってみると港には刺し網漁船や底引き網漁船などが肩を寄せ合うように停泊していた=写真・上=。冬場はタラやブリ、ズワイガニなどの水揚げでにぎわうのだが、静まり返っている。漁港の様子を見にきていた近くの輪島前町の漁師がいたので聞くと、海底が隆起して水深が足りないので船が出せないのだという。実際、港内で漁船2隻が座礁していた。
県農林水産部などの調査によると、漁港の海底の隆起は1㍍から1.5㍍ほど。もともと日本海側は満潮干潮の潮位の変動は少なく、1年を通じても50㌢から60㌢ほど。なので、日本海側の漁港では干潮を見込んでの深めの水深を設定しておらず、3㍍から4㍍のところが多い。そこに1㍍から1.5㍍ほどの海底の隆起となると船底がつかえる漁船が出てしまう。
その火災の様子をNHK中継番組で視聴していた=写真・上=。なぜこんなに燃える広がるか少々疑問に思った。元旦だったので、消防士の人数が不足していて消火活動が十分にできないのかといぶかった。その後、消火栓が断水で使用できず火災が広がったと報じられていた。そのときも、それなら朝市通りは海岸に近いので海の水をポンプでくみ上げて消火に使えばよかったのではと、またいぶかった。ところが、津波警報が出ていて、海に近づくことすらできなかったとことも後で理解した。さらに、朝市通りの近くを流れる河原田川も地震による地盤の隆起で当時は干し上がった状態になっていたようだ(2月1日付・NHKWeb特集)。
いろいろな悪条件が重なって焦土と化した朝市通り周辺に行った(今月5日)=写真・下=。1ヵ月以上経ってはいるものの、焼けごげた臭いがした。トラロープの結界を超えて、朝市通りに入ると懐かしさもこみ上げてきた。おばさんたちの「買うてくだぁー」「買うてくだぁー」の呼び声があちらこちらから響いてくるようだ。海の幸と山の幸の物々交換がルーツとされ、千年の歴史を有する輪島朝市。確かここには蒸しアワビを売るおばさんのテントの店があった。1個1万2千円の「蒸しアワビ」(120㌘)を思い切って買った、6年前のことを思い出した。
震度7を記録した能登半島の西端の志賀町香能(かのう)地区は小高い山の中にある=写真・上=。周囲にはレストランや牧場もあり、民家も点在している。外見を見る限り、建物の倒壊や屋根のめくれなどの被害もなく、道路などでの地割れも見られなかった。むしろ、香能から5㌔ほど離れ、震度6弱の揺れに見舞われた富来領家(とぎりょうけ)地区の方が被害は甚大と感じた=写真・中=。海沿いの平地で家並みが続く。両地点のこの違いは地盤の固さによるものなのか。富来領家地区のすぐそばには富来川が流れていて、地盤が柔らかかったことが被害拡大の要因なのだろうか。
その富来領家地区では、仮設住宅の建設が進んでいた=写真・下=。いわゆる「トレーラーハウス」で、説明書を見ると、高さ4㍍、幅11㍍、奥行き3.4㍍、広さ37平方㍍の1LDKだ。浴室やトイレのほか、キッチンやエアコンも備え付けられている。水道などが整えば、早ければ今月下旬ごろ入居が可能になるようだ。
り上げる「みなし仮設住宅」を3800戸、県内の公営住宅800戸、県外(富山、愛知両県や大阪府など)の公営住宅8000戸の計1万5600戸を3月末までに確保すると発表している。
この目で確かめたかったこと、それは珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品だった。金沢市在住のアーティスト山本基氏の作品『記憶への回廊』(2021年制作)=写真・上=が倒壊したとメディア各社が報道していた。作品がある場所は、旧・保育所の施設。真っ青に塗装された壁、廊下、天井にドローイング(線画)が描かれ、活気と静謐(せいひつ)が交錯するような空間が演出されている。遊戯場には塩を素材にした立体アートが据えられ、天空への階段のようなイメージだ。途中で壊れたように見える部分は作者が意図的に初めから崩したもので、地震によるものではない。作品には10㌧もの塩が使われている。2023年5月5日に起きた震度6強の揺れには耐えたが、今回の地震では塩の作品が崩れたという(※写真は2022年8月23日に撮影)。
塩田千春氏(日本/ドイツ)の作品『時を運ぶ船』=写真・下=は芸術祭の公式ガイドブックの表紙を飾るなどシンボル的な作品だ。この作品は2017年の第1回芸術祭で制作された。赤い毛糸は強烈なイメージで、作品を観賞するたびに人間の本能をくすぐるような感動を覚える。この作品は無事だったようだ(※写真は2023年8月23日に撮影)。
志賀町の全壊・半壊など家屋被害は4900棟におよび、その多くがこの富来地区での家屋だった。増穂浦海岸は、さくら貝が流れ着く観光名所として知られる。8月になれば30基の奉灯キリコが威勢よく担がれ冨木八朔祭礼が行われる。町の中を歩くと、本祭りで神輿が集う住吉神社の鳥居が砕け落ちていた=写真・上=。2007年3月25日の能登半島地震は震度7クラスの揺れだったが、石灯ろうが倒れるくらいで済んだ。しかし、今回倒壊した鳥居を見ると相当な揺れだったことが分かる。全壊の家も数多く、全壊は免れても窓ガラスが割れたり、屋根の瓦が崩れ落ちたりしている家は相当な数にのぼる。
察するため現地を訪れた。当地でのヒナの誕生は2年連続だった。気になるというのも、コウノトリの巣が地震で落ちたり、壊れたりしているのではないかと思ったからだ。
「能登はやさしや」に障がいを持った人たちへの気遣いも感じる。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている能登の農耕儀礼『あえのこと』は、目が不自由な田の神様を食でもてなす行事だ=写真=。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂で目を突いてしまったなど云われがある。目が不自由であるがゆえに、農家の人たちはその障がいに配慮して田の神に接する。座敷に案内する際に段差がある場合は介添えをし、供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。じつに丁寧なもてなしだ。
前回ブログの続き。珠洲市に行き、山の中で製炭業を営む大野長一郎氏を訪ねた。茶道用の炭である「菊炭」を生産する県内では唯一の業者でもある。今回の地震で稼働していた3つの炭焼き窯が全壊した=写真・上=。2022年6月19日の震度6弱の揺れで窯の一部がひび割れ、工場の天井が一部壊れた。2023年5月5日の震度6強では窯の一部が崩れた。支援者の力添えを得ながら修復してようやく炭を焼き始め、品質にもメドがたちこれからというときに今回全壊となった。
窯をじっと見つめる大野氏の口から「でも、やめませんよ」の言葉が出た。1971年に父親が創業した製炭業を2003年に引き継いだ。茶炭に使うクヌギの木は炭焼き工場の近くの山でボランティアを募り植林した。そして、二酸化炭素を増やさない「カーボンニュートラルな生業(なりわい)」を目指すことを決意する。
道」を北上すると崩落の箇所などがあり、う回路を経由して走行することになる。そのう回路には警察のパトカ-や自衛隊のトラック、救急車、支援物資を運ぶ車が列をなしていてゆっくり運転が続く。(※NHK図=✖が震源とされる珠洲市大谷・馬緤地区)
2時現在)によると、犠牲者は101人、重軽傷者249人、全壊2092棟、半壊1036棟だ。同市は約6000世帯なので、半数超えが全半壊となった。2022年6月19日に震度6弱、2023年5月5日に震度6強の揺れがあり一部地域に損壊があったものの、それでも芸術祭は実施できた。ところが今回はさらに幅広い場所で被害が出た。海岸沿いでは4㍍の津波による被害、そして山沿いでは土砂崩れとまさに複合被害だ。(※写真・上=地震と土砂崩れで崩壊した住宅)
珠洲市の観光名所として知られる見附島も変わり果てていた。そのカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2022年と2023年、そして今回と度重なる揺れで、勇壮な面影は変化した。(※写真・下=津波で海岸に打ち上げられた漁船、地震で崩れた見附島)