⇒ドキュメント回廊

☆両陛下が2度目の能登見舞い 丁寧な被災者への寄り添い

☆両陛下が2度目の能登見舞い 丁寧な被災者への寄り添い

  天皇、皇后両陛下がきょう再び能登を訪れ、被災した人々を見舞われた。前回は3月22日だったので、1ヵ月以内に2度は皇室では異例ではないだろうか。メディア各社の報道によると、両陛下は羽田空港の出発時に搭乗した特別機に機材トラブルがあり、別の予備機に乗り換えて能登空港に向かい、予定より1時間遅れて午前11時30分ごろに到着された。

  きょうの能登は青空が広がり、輪島では午前中に20度まで気温が上がった。テレビのニュースで訪問の様子を視ていると、天皇陛下は白いシャツにグレーのジャケット、皇后さまは薄手のブレーのタートルネックに紺のブレザーだった。少し暑く感じられたかもしれない。

  能登空港のターミナルビルで馳知事から被災状況などの説明を受け、その後、午後に自衛隊のヘリコプターで穴水町に移動された。同町では20人が亡くなり、6260棟で全半壊などの建物被害が出ている。両陛下はマイクロバスに乗り、吉村町長の案内で倒壊した建物がそのままの状態となっている商店街などを視察された。その後、50人ほどが避難生活を送っている公共施設「さわやか交流館プルート」で被災者を見舞われた。被災した人たちに「おケガはありませんでしたか」、「お宅の被害がどの程度ありましたか」、「大変ですね」などと言葉をかけておられた。(※写真は、両陛下が見舞いに訪れた能登町の避難所=NHKニュースより)。

  臨時ヘリポートとなっている穴水港の広場では、地震による土砂崩れで16人が亡くなった対岸の由比ヶ丘地区に向かって黙礼された。この後、両陛下は再びヘリコプターで能登町に移動された。同町では災害関連死6人を含め8人が亡くなり、9090棟の建物が全半壊などの被害を受けている。大森町長の案内で、40人余りが避難生活を送っている町立松波中学校を訪れ、被災者と懇談された。その後、津波で住宅が流されるなどした白丸地区を訪ねた両陛下は家屋が倒壊し1人が亡くなった現場の方に向かって黙礼された(同)。

  両陛下は3月22日に輪島市と珠洲市、きょう穴水町と能登町を回られ、地震災害がもっとも大きかった奥能登を一周されたことになる。両陛下の見舞い訪問に、能登の人たちは「気をかけてくださっとる」と敬服していることだろう。金沢でニュースを視聴していても、被災地での丁寧な寄り添いの言葉や所作には共感する。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ

★日米首脳会談に「貢献」 能登地震と輪島塗コーヒーカップ

★日米首脳会談に「貢献」 能登地震と輪島塗コーヒーカップ

  朝の日差しに目が覚めてスマホでニュースをチェックし始めたころ、グラッときた。気象庁の地震速報に画面を切り替える。「発生:6時50分ごろ 震央地名:石川県加賀地方 深さ:ごく浅い マグニチュード:2.7」と出ている。そして、震源とされる地図上で赤の✖印がついている場所は金沢の山沿いで割と自宅に近い。これを見て一瞬、「森本・富樫断層帯」のことを思い出した。金沢市内を南北に貫くこの断層は、今後30年以内の地震発生確率が2%から8%と、全国的にもリスクが高い(政府地震調査研修推進本部公式サイト)。今回の揺れが、断層と連動しているのか。寝起きの悪い朝になった。

  アメリカを訪問中の岸田総理はバイデン大統領と会談した。メディア各社の報道によると、日米同盟を「未来のためのグローバル・パートナー」と位置づけ、防衛協力を深めるとともに、経済安全保障や宇宙など幅広い分野での連携強化を確認した。また、中国の動向をめぐっては、尖閣諸島を含めた東シナ海や南シナ海での力や威圧による一方的な現状変更の試みに強く反対することで意見が一致。さらに、アメリカの防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条が、沖縄県の尖閣諸島に適用されることを再確認した(11日付・NHKニュースWeb版)。

  いきなり不適切な表現かもしれないが、日米首脳会談がスムーズに運んだとされる背景には能登半島地震が貢献しているのではないだろうか。バイデン大統領は地震があった元日に岸田総理に見舞いの電報を送っている。「As close Allies, the United States and Japan share a deep bond of friendship that unites our people. (緊密な同盟国としてアメリカと日本は両国の国民を結びつける友情という深い絆を共有している)」、「 Our thoughts are with the Japanese people during this difficult time.(この困難な時期に、私たちの思いは日本の人々とともにある)」(※意訳、電報の出典は「ホワイト・ハウス」公式サイトより)

  岸田総理はこの見舞い電報を受けたことについてお礼を述べ、外交交渉をスムーズに運びたかったに違いない。日本時間の10日、夕食会に先立ち、見舞い電報のお礼を込めて、輪島塗のコーヒーカップとボールペンをプレゼントした=写真・上、外務省公式サイトより=。

  コーヒーカップにはバイデン夫妻の名前入り、青と黒のグラデーションが施されている。岸田総理は、被災した能登で創られている日本ではとても有名な「lacquerware(漆芸品)」と紹介し、被災した輪島塗の若手職人たちが今回のために特別に、100以上の工程を経て、心を込めて作製したと説明した(外務省公式サイト)。  

  岸田総理は2度、被災地を訪れている。一回目の1月14日はヘリコプターで上空から被災地の状況や道路など視察。避難所を訪れた。2回目の2月24日には輪島市で農業や漁業者、輪島塗の事業者らと車座で対話し、輪島塗販売店なども視察した。おそらく、このとき岸田総理はピンとひらめいたのだろう。4月の日米首脳会談で、バイデン大統領への手土産に輪島塗を持って行こう、と。(※写真・下は、輪島市での視察後の会見、総理官邸公式サイトより)

  夕食会などで輪島塗のプレゼントで話が盛り上がって、日米の絆を互いが確認し合ったとすれば、能登半島地震と輪島塗が日米会談の成果に貢献したといえるのかもしれない。

⇒11日(木)夜・金沢の天気     はれ

☆両陛下、12日再び能登に 被災地に丁寧な足運び

☆両陛下、12日再び能登に 被災地に丁寧な足運び

  先月22日に天皇、皇后両陛下が能登半島地震で被災した人々を見舞うため輪島市と珠洲市の避難所を訪れた。その様子をテレビを視聴していた。午前中に能登空港に到着し、両陛下は黒のタートルネック姿だった。そして、現地に負担をかけないようにと、昼食は東京から持参された。240棟が焼け、多くの犠牲者が出た輪島の朝市通りでは両陛下が黙礼をされた=写真、宮内庁公式サイト・4月2日付「被災地お見舞い」より=。避難所を訪れ、膝をついて被災者と対話する丁寧な所作に、被災者に寄り添う気持ちが感じられた。その両陛下はあさって12日に再び能登の被災地を見舞いに訪れると、メディア各社が伝えている。

  当日は午前中に羽田発の特別機で能登空港に。自衛隊のヘリコプターで穴水町に向かい被災者を見舞うほか、災害対応に当たる関係者をねぎらう。その後、ヘリで能登町に移り、津波の被害が大きかった地域など訪れ、被災者と面会する。夜に帰京する。穴水町では20人、能登町では8人が震災で亡くなっていて、被害が大きかった奥能登4市町をすべて見舞われることになる。被災者と対面する所作だけでなく、被災地域にまんべんなく足を運ばれる丁寧さには敬服する。

  一方で腑に落ちない国の動きもある。きょうの新聞メディアの記事によると、財務省は9日、税制制度等審議会(財務大臣の諮問機関)の分科会を開き、能登半島地震の被災地の復旧・復興は「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、住民の意向を踏まえ、十分な検討が必要だ」と訴えた。「被災地の多くが人口減少局面にある」ことなどを理由に挙げた。復興が本格化する中、無駄な財政支出は避けたいという立場を明確にした(10日付・北陸中日新聞の記事を要約)。

  うがった見方をすれば、そもそも能登は人口減が続いていて人がいなくなる地域なので、そんなところに無駄な財政を注ぎ込むことはない。と言っているようにも読める。記事では、分科会終了後に会長代理の増田寛也氏(日本郵政社長)が「家の片付けが進んでない地域に将来の議論をしようと言っても難しい」と指摘した、という。

  この指摘は言い得て妙な感じもするが、中央の権力者の発想ではないだろうか。地域行政が怠慢だと指摘して、そんな能登に財政を投下する価値はない、と言っているのか。地方消滅論を訴えた増田氏だけに、「消えるべき地域はさっさと消えろ」とでも言っているのか。増田氏をはじめ税制制度等審議会の分科会メンバーには一度、能登に足を運んでほしいものだ。       

⇒10日(水)午後・金沢の天気   はれ   

★隆起した海岸に道路を新設 「逆転の発想」は成功するか

★隆起した海岸に道路を新設 「逆転の発想」は成功するか

  きのう午前中、鹿児島県大隅半島を震源とするマグニチュード5.1の地震があり、宮崎県日南市で震度5弱の揺れがあった。そして、午後10時29分に能登半島の尖端を震源とするM4.1の揺れがあり、珠洲市では震度3だった。元日の地震から100日目のきょう、能登半島では震度2から1の地震が6回もあった。不気味な日々が続いている。

  輪島の海岸線に沿った国道249号を走り、国の名勝「白米千枚田」の棚田を眺める。次に断崖絶壁の曽々木海岸を見ようと、国道を東方向に走らせる。本来ならば、あの勇壮な御陣乗太鼓の発祥地として知られる名舟町の海岸沿いを通過するのだが、地震で地滑りが起きていて、国道が寸断されている=写真・上=。結局、輪島市街地へ引き返すことになる。

  現場は山の中腹からの大規模な崩落であり、従来の道路の土砂を取り除くだけでは復旧は難しいだろう。この国道249号は能登半島の観光ルートでもあり、復旧・復興に携わる国土交通省とすれば、なんとか車の往来を復活させたいと考えたのかもしれない。そこで、浮かんだのが逆転の発想だった。

  きょう付の地元紙・北國新聞によると、国交省復興事務所は土砂崩れで寸断された国道の海側が隆起していることに着目し、海側の地盤を活用して道路を新設する。新しい道路の延長は800㍍で、うち海側430㍍で幅6㍍の2車線。山と海の両サイドに高さ3㍍の土嚢を積んで山からの崩落と高波の影響を防ぐ、としている。新たな道路は5月のゴールデンウィーク(GW)をめどに供用を開始する。

  簡単に言えば、地震で隆起した海側の地盤は陸になった=写真・下=。だったら道路として使おうという逆転の発想だろろ。もし、海のままだったら漁業権などが絡んで易々と事は運ばない。記事を読んでの前向きな感想は、山の崩落現場を眺めながら海道を走行する、じつにダイナミックなスポットではないだろうか。すぐ近くにある千枚田は1684年に起きたと言い伝えのある地滑り地帯で、人々が200年かけて再生した歴史がある。まさに災害史が刻まれた能登のスポットだ。

        素人考えだが懸念もある。日本海の冬の風や波は想像がつかないほど荒れることがある。海沿いの民家では、「間垣(まがき)」と呼ぶ長さ3㍍ほどの細い竹「ニガダケ」を隙間なく並べた垣根を造り、吹き付ける冬の強風に備えている。新しい道路には3㍍の土嚢を積む計画だが、強固なコンクリート壁の方がトライバーも安心できるのはないだろうか。

⇒9日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆ 避難所の情報インフラは昔テレビ、今スマホ

☆ 避難所の情報インフラは昔テレビ、今スマホ

  先日(3月24日)能登の被災地の穴水町の避難所を訪れた。支援ボランティアとかではなく、トイレを拝借するためだった。穴水町はすでに断水が解消されていて、普通にトイレが使える状態だったので、公共施設でもある避難所を訪れた次第。中を見渡すと、避難所だけあって衣類や食糧(カップ麺、缶詰など)、菓子類などが自由に取れるように積んであった。1月に訪れたときは、台湾のボランティア団体がここで炊き出しを行っていた。

  この避難所には和室(畳部屋)だけでなく 椅子に座ってくつろげるロビーもある。そこで見かける光景は被災者の人たちが談笑している様子のほか、スマホを熱心に見ている人たちの姿だ。おそらく被災情報にアプローチしているのだろう、スマホを片手に罹災証明書の取得について話し合っている人たちもいた。避難所の和室の入り口にはスマホの充電コーナーがあり、自由に使えるようになっていた=写真・上=。この避難所の光景を見て、2007年の能登半島地震で訪れた避難所での様子とはずいぶんと変わったと時代の流れを感じた。

  2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)の後、震源地と近かった輪島市門前町で避難所となっていた公民館を訪れたことがある。公民館のホールでは避難者が敷布団を敷いて寝転がり、テレビを食い入るように見ていた=写真・下=。新聞は避難所の入り口付近に束のまま置かれていた。避難所の中では新聞を広げるスペースがないため、読む人は少なかったのだろう。テレビの設置はNHK金沢のスタッフが各避難所を回って取り付け、広めの避難所には大型画面のテレビを置くなど、情報インフラにチカラを入れていた。

  しかし、今回見た避難所ではテレビは設置されていたものの、避難者の多くの人はスマホ画面を指でなぞっていた。AppleがiPhoneをアメリカで発売したのは能登半島地震から3ヵ月後の2007年6月だ。あれから17年、知りたい情報を自分で探す、日常生活でそれが当たり前になった。避難所の風景も変わった。ただ、充電設備を整えるという点は「ガラケー」時代と変わらない。 

⇒8日(月)夜・金沢の天気   くもり

★「のと鉄道」全線で運行再開、「さくら駅」間もなく見頃

★「のと鉄道」全線で運行再開、「さくら駅」間もなく見頃

  金沢でソメイヨシノが見頃になっている。桜の開花の発表が今月1日で、初の日曜日とあって兼六園周辺はとても混みあっていた。家族連れやカップル、そして着物姿のインバウンド観光客もいて、花見を満喫する人々の様子も多彩で面白い。自身の桜のカメラアングルは金沢城を入れたもの。桜の満開の様子がまるで雲のようで、その上に城があり、アニメ映画『天空の城ラピュタ』のようなイメージを思い浮かべて撮影した=写真・上=。

  能登にも桜の名所がある。七尾市の小丸山城址公園。加賀藩の藩祖・前田利家が築いた小丸山城跡がある公園で、七尾城下を見守るようにして「利家とまつ」像が建つことで知られる。260本の桜があり、ソメイヨシノや八重桜、しだれ桜がまもなく見頃を迎える。高台からぼんぼりの灯りで街並を眺める夜桜がなんとも風情がある。しかし、元日の震災で小丸山城址の石垣が崩れるなどの被害が出ていて、いまも公園内には立ち入り禁止となっている。残念ながら、花見はできない。

  では能登の「桜駅」はどうか。七尾市から北上したところにある第三セクター「のと鉄道」の能登鹿島駅のプラットホームは100本のソメイヨシノが並び、線路上が桜のトンネルとなっていることから、「能登さくら駅」とも呼ばれている=写真・下、のと鉄道公式サイト=。満開の時季になると、夜桜のライトアップもある。そして、海岸線にも近いことから、海からの風で桜吹雪が舞い、映画のシーンのようなドラマチックな風情を醸し出す。能登半島地震で運行停止となっていたが、きのう6日に全線で運行が再開された。桜の見ごろは今月中旬ごろ。

  復旧作業中の沿線の様子を何度か見たが、鉄道トンネルが土砂でふさがれたり、線路がガタガタにゆがんだりと相当な被害だった。のと鉄道は、それを3ゕ月で全面復旧させた。能登の復旧・復興のシンボルになってほしい。

⇒7日(日)夜・金沢の天気    くもり  

☆輪島朝市通りの焼け跡に咲くスイセンの可憐な花

☆輪島朝市通りの焼け跡に咲くスイセンの可憐な花

  きのう奥能登2市(輪島、珠洲)の震災地をめぐった。最初に地震と火災の複合災害に見舞われた輪島の朝市通りを歩いた。3ヵ月経っても変わらぬ無情な光景に切なさを感じた。焼け跡を見ると。黄色い花のスイセンが咲いていた=写真=。不思議でならなかった。かつての商店街の焼け跡でどのようにして花を咲かせたのか。花鉢ではなく、盛り上がった土に咲いていたので、この商店には中庭があったのだろうかと想像した。黄色のスイセンの花言葉は「私のもとに帰ってきて」。焼け跡のスイセンはそう訴えているのかと想像を膨らませた。

  石川県がまとめた避難所の開設状況(今月5日現在)によると、市町が設置した1次避難所には146ヵ所・3597人が身を寄せている。県が開設した1.5次避難所(スポーツセンター)には80人、県が手配した2次避難所(金沢市などのホテルや旅館など)は167ヵ所・2671人となっている。2月1日現在の状況は、1次避難所は285ヵ所・8232人、1.5次避難所は3ヵ所・288人、2次避難所は217ヵ所・4944人だったので、2ヵ月でそれぞれ半数に減っている。

  では、減った分の人たちは自宅に戻ったのか。そうではないようだ。被害がとくに大きく出た奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の今年1月から3月の転出超過は計1582人に上り、前年同期比の3.8倍になった(今月3日付・読売新聞Web版)。奥能登の人口はこの10年で2割以上減っていて、過疎化が問題となっている。そこに拍車をかけるように震災が起きた。能登をあきらめ、金沢市やその周辺に住所を移す家族などが増えているのだ。

  住まいと生業(なりわい)が確保できなければ、特に子育て世代を中心に流出は止まらないだろう。きのう珠洲市の被災地で感じたことは断水状態が危機的ということだった。水道管の漏水などで、市全域の約4000戸でいまでも断水が続いている。同市は5638世帯(3月末現在)なので単純計算で7割の世帯で水道が使えない状態が続いていることになる。そして、上水道がこの現実ならば下水道管の損傷も相当なものと憶測した。人口が戻らなければ生業も成り立たなくなる。

  人々が戻りたくなる能登を、人々を呼び戻す能登をどのように構築していくのか。冒頭に述べた黄色のスイセンの花言葉はギリシア神話に由来しているという。農業の女神デメテルの娘ペルセポネが冥界の王プルトンに連れ去られた。このとき、ペルセポネが落とした白いスイセンが黄色く色づいた。デメテルは黄色いスイセンを愛で、「私のもとに帰ってきて」と深い悲しみを込めた。母なる能登の大地から多くの人々を連れ去った地震。また耕しに戻って来てと能登の大地が叫んでいる。スイセンの花言葉からそんなことをイメージした。

⇒6日(土)夜・金沢の天気    くもり

★震災を共有する日本と台湾 人道支援の深いつながり

★震災を共有する日本と台湾 人道支援の深いつながり

  台湾での大地震について、前回ブログで「他人事とは思えない」と述べた。同じ極東アジアで起きたマグニチュード7クラスの揺れであり、その恐怖感は共有体験でもある。そして、これは個人的な思いかもしれないが、震災を通じた台湾との友好な関係性が心をよぎるからだ。

  元日の能登半島地震が起きて1週間ほど経って、台湾の台北市に赴任している知人からメールで写真が送られてきた。台北市内のコンビニでは能登地震の義援金を受け付けていて=写真・上=、街頭でも募金活動が行われているという内容だった。「台湾の人たちの能登の被災地への思いやりは半端じゃないよ」とコメントがあった。

  後日、その半端じゃない思いやりが数字となって表れて、さらに驚いた。被災から1ヵ月も経たない1月23日、林官房長官が記者会見で、能登半島地震に対して台湾政府から民間で募った25億円以上の寄付金が贈られてきたと説明し、「多大なる支援をいただき、深く感謝する。台湾の日本に対する友情の証しだ」と謝意を表明した(1月23日付・共同通信Web版)。台湾政府は 地震発生直後に6千万円を被災地への義援金として日本政府に寄付していて、政府と民間を合わせると27億円にも届く志(こころざし)が寄せられたことになる。

  日本と台湾の被災支援を通じた交流はこれだけではない。1999年9月21日に台湾中部で起きた震度7の地震で2400人が亡くなった。このとき日本政府は救助隊を派遣し、仮設住宅1500戸を整備し寄贈した。1万5900人が亡くなり、行方不明者が2500人に上った2011年3月11日の東日本大震災では、台湾が日本に緊急援助隊を送り、さらに200億円の寄付金を寄せている。

  日本は1972年の中国と国交正常化で、台湾と外交的には断交した。しかし、震災を通じた人道支援で日本と台湾はしっかりとつながっている。

⇒4日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆能登に続き台湾でマグニチュード7級の大地震

☆能登に続き台湾でマグニチュード7級の大地震

  気象庁はきょう3日午前8時58分に台湾東部付近を震源とする地震が発生したと速報。深さ23㌔を震源とするマグニチュード7.7の地震で、与那国島で震度4の揺れを観測したほか、石垣島と竹富町の西表島と黒島、波照間島で震度3を観測した。また、宮古島ならびに八重山地方と沖縄本島地方に津波警報を発表。各地で観測された津波の高さは、沖縄県の与那国島で30㌢、宮古島で30㌢、石垣島で20㌢だった。午前10時40分、いずれも津波注意報に切り替えた=図=。

  台湾の中央気象署の観測によると、震源地は台湾東部の花蓮県の沖25㌔の海域で、震源の深さは15㌔、マグニチュードは7.2と推定。花蓮県で震度6強の揺れを観測したほか、北東部の宜蘭県などで震度5強、北部の台北市や新北市、それに中部の台中市などで震度5弱の揺れを観測した。

  アメリカ海洋大気局(NOAA)はこの地震で、台湾東部の台東県成功で45㌢の津波を観測している。また、アメリカ地質調査所(USGS)は最初の地震のあともマグニチュード5から6.7の地震が断続的に観測している(3日付・NHKニュースWeb版)。

  台湾のテレビ局TVBSは台湾東部の花蓮県でビルが横倒しになり、車などが下敷きになっている様子を伝えていまを伝えている=写真、TVBSのSNSより引用=。また、山の土砂が崩れ土煙が上がっている様子や建物の壁が崩れて道路に散乱している様子などを繰り返し伝えている。

  元日の能登半島地震はマグニチュード7.6、今回の台湾付近の地震もマグニチュード7超えで、極東アジアに大地震が相次ぐ。他人事とは思えない。

⇒3日(水)午前・金沢の天気   あめ

★輪島の千枚田が「六十枚田」に 被災地の現実

★輪島の千枚田が「六十枚田」に 被災地の現実

  前回のブログで能登半島は田起こし、田植えの季節だが、震災の影響で田んぼに亀裂が入り、ため池や水路が破損、農道も亀裂や隆起などで田植えができるかどうか見通せないと述べた。新聞各紙(2日付)によると、輪島の千枚田で地元有志でつくる「愛耕会」がきのう田起こしを始めたが、亀裂が入る棚田が多く、ことしは1004枚のうち60枚に限って作付けすることになった。(※写真は、4㌶の斜面に小さな棚田が連なる白米千枚田。2001年に文化庁「国指定文化財名勝」に指定されている)

  1004枚のうち60枚とは極端に少ないとの印象を受けるかもしれないが、これには棚田独特の事情がある。棚田の上段から下段に向ってすべての田んぼに水が流れるように水路設計が施されている。しかし、たとえば中段の田んぼにひび割れが入ると水が中段から下段に水は流れなくなる。千枚田の現地を見渡すと、上段の広めの田んぼ、ならびに展望台サイドの田んぼは無事であるものの、とくに中段ではひび割れが激しい。すると、60枚しか耕せないというのも分かるような気がする。報道によると、ことしは耕作よりむしろ割れた田んぼの修復が愛耕会の主な作業になるようだ。

  激減するのは千枚田の耕作枚数だけではない。同じく新聞報道によると、震源地に近い珠洲市大谷地区にある小中学校では新学期に在籍する児童生徒は前年度の23人から5人に減少する見込みと伝えている。同地区では現在も断水が続き、体育館は避難所として使われている。地元に唯一あったスーパーも倒壊。教育環境を優先したい親たちの転居が相次いでいるようだ。

  珠洲市だけの話ではない。地震で甚大な被害を受けた奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の今年1月から3月の転出者数が計1708人となり、前年同期比で2.4倍に上る(2日付・北國新聞)。生活インフラの復旧の遅れなどで転出者はさらに増え、過疎化現象にさらに拍車がかかる。この厳しい現実にどう対応していけばよいのか。

⇒2日(火)午前・金沢の天気   くもり