⇒ドキュメント回廊

☆緑に浮かぶ能登キリコ祭り 埼玉・行田市が田んぼアートで復興応援

☆緑に浮かぶ能登キリコ祭り 埼玉・行田市が田んぼアートで復興応援

  能登のキリコ祭りが埼玉県行田市の「田んぼアート」で描かれ、2.8㌶にもおよぶダイナミックなデザインが話題になっている。このブログでこれまでキリコ祭りを取り上げているので、掲載を思い立ち行田市の田んぼアート担当者にメールを送り、画像の使用許可をお願いした。すると、担当者からOKの返信が来て、画像も添付されていた(※写真・上)。

  行田市の田んぼアートは行政とJAが企画し、2008年から毎年実施されている。タテ180㍍余り、ヨコ150㍍余りの田んぼには、色の異なる4種類の稲(緑は「彩のかがやき」、白は「ゆきあそび」、赤は「べにあそび」、黒は「ムラサキ905」)が植えられる。この世界最大級の田んぼアートは2015年にギネス世界記録に認定されている。

  6月上旬に行われた田植えには、市長の行田邦子氏はじめ、子どもたちほか916人が参加した。ことしのテーマは『がんばろう!能登 日本遺産 キリコ祭り』。田んぼアートを通じ、世界に向けて能登復興を発信したいとの思いから、日本遺産「灯り舞う半島 能登~熱狂のキリコ祭り~」のキリコ祭りを図柄に選んだ。苗が成長し、7月下旬から見頃を迎えている。花火の下でキリコが3基舞い、キリコを担ぐ人々の姿などが緑の中に浮かび上がる。デザインの中の「能登」「復興祈願」「がんばろう!」の文字は、石川県立能登高校の書道部員の作品を使用している。(※写真・下は、毎年9月に開催される珠洲市正院のキリコ祭り)

  現地には、田んぼアートを見渡すことができる「古代蓮会館」という施設の展望台があり、稲刈りが始まる10月中旬まで楽しめる。入館料は大人400円、小中学生200円。うち10円が震災復興の義援金として石川県に寄付されることになっている。

  壮大なスケールで、しかもデザインや文字にこだわりがある。田んぼアートに込めた復興への願いが強烈に伝わって来る。石川県民の一人として感謝したい。

⇒6日(火)夜・金沢の天気   くもり時々はれ

★奥能登芸術祭の破損作品を再生し 復興のシンボルに

★奥能登芸術祭の破損作品を再生し 復興のシンボルに

  株式相場が荒れまくっている。先週末の終値より一時4600円以上値下がりした。岸田内閣は、「貯蓄から投資へ」というスローガンを掲げ、ことしから「新NISA(少額投資非課税制度)」を始めるなど資産運用を奨励してきたので、この制度を活用して株式投資を始めた人も多かっただろう。また、円安でドル建て外債を購入した人も多かった。ところが、株式市場の暴落と急激な円高だ。もちろん、投資は自己責任なのだが、「政府や日銀が余計なことをするからだ」といまさら嘆いている人も多いのではないか。詰まるところ、個人消費が一段と冷え込み、景気全体が腰折れするのではないか。

  話は変わる。去年秋、能登半島の尖端の珠洲市で奥能登国際芸術祭が開催されたとき、「奇跡の作品」と称された作品があった。その年の5月5日に同市北部を震源とするマグニチュード6.5、震度6強の地震が発生し、市内だけでも住宅被害が690棟余りに及んだ。その強烈な揺れにもビクともしなかった作品が、金沢在住のアーティスト・山本基氏の作品『記憶への回廊』(2021年制作)だった。

  写真・上は、去年5月の震災後の8月23日に金沢市内の学生たちとスタディ・ツアーで、作品の展示会場を訪れたときのもの。スカイブルーの室内で、白い塩の作品。高さ2.8㍍の塩の階段だ。床と階段で7㌧の塩を使っている。作品の階段の中ほどと頂上付近で崩れたように見える部分があるが、これは2021年の制作のときとまったく変わっていない。

  作品は2021年9月16日の震度5弱、2022年6月19日の震度6弱、そして去年5月の震度6強とこれまで3度の大地震に耐えた。しかし、ことし元日の震度7の地震では、珠洲市の関係者から「残念ながら壊れた」との話を耳にしていた。

  どのように壊れたのか一度見てみたいと思い、先日(7月24日)、展示会場を訪ねたが、鍵がかかっていた。きのう、芸術祭の総合ディレクター・北川フラム氏が震災支援を目的に立ち上げた「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイトをたまたま見つけた。チェックすると、「5月の活動報告」(6月11日付)に壊れた『記憶への回廊』の現状の画像が掲載されていた=写真・下=。塩の塔が無残にも崩れ落ちた姿だ。この画像を見る限りでは、根こそぎ倒壊したように見える。

  公式サイトによると、作品を点検に訪れた山本基氏が「落下した天井板が当たったことにより塩の塔が崩れた」と述べた。また、「今後の修繕も出来る限り現状のものを利用していく考え」と語るなど、作品の復旧に意欲を燃やしているようだ。

  プロジェクト名の「ヤッサープロジェクト」の「ヤッサー」は、珠洲のキリコ祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせてキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。北川氏は芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて、「ヤッサープロジェクト」と名付たのだろう。この作品『記憶への回廊』の再生が復興のシンボルの一つにならないだろうか。

⇒5日(月)午後・金沢の天気   はれ時々くもり

☆阿部詩選手と能登の「泣き女」の号泣 威勢よくキリコ巡行

☆阿部詩選手と能登の「泣き女」の号泣 威勢よくキリコ巡行

  パリオリンピックで柔道女子52キロ級の2回戦でまさかの敗退を喫し、大会2連覇ならず号泣した阿部詩選手の姿が印象的だった。試合会場に響き渡るようなあの泣き声、テレビで視ていて、ふと自身の故郷の奥能登のことを思い出した。小学生のころだから今から50年以上も前のことだ。親戚の葬儀に参列すると、棺(ひつぎ)にしがみつくようにして、ワァッーと号泣する女性がいた。子どもながらにびっくりしたのを覚えている。あのときのイメージと阿部選手の号泣が重なる。

  能登では真言宗の葬儀などで「泣き女(め)」と呼ばれる女性の号泣で死者を弔う儀式がかつてあった。泣き女の泣く姿に周囲の人たちも泣いて弔う。そんな儀式だったと記憶している。それぞれの地域には泣き女役の女性がいた。ただ、いまは見たことも聞いたこともない。すっかり昔の話になった。(※写真・上は、東京五輪女子52㌔級で阿部詩選手が金メダル。史上初の兄妹同日優勝を飾った=JOC公式サイト動画より)

  話は変わる。能登では夏から秋にかけて祭りのシーズンとなる。「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」。能登の集落を回っていてよく聞く言葉だ。能登の祭りは集落や、町内会での単位が多い。それだけ人々が祭りに関わる密度が濃い。子どもたちが笛を吹き、太鼓をたたき、鉦(かね)を鳴らす。大人やお年寄り、女性も神輿やキリコと呼ばれる大きな奉灯を担ぐ。集落を挙げて、町内会を挙げての祭りだ。(※写真・下は、燃え盛る松明をキリコが威勢よくめぐる能登町宇出津の「あばれ祭」=7月5日撮影)

  きのう夜(3日)能登で最大級のキリコが巡行する七尾市の「石崎奉燈祭」が行われた。キリコは高いもので15㍍になり、五階建てのビルの高さに匹敵する。重さ2㌧ほどのキリコを男衆100人が担ぎ上げ、「サッカサイ、サカサッサイ、イヤサカサー」と威勢のよい掛け声で町内を練り歩いた。元日の地震で倒壊した家屋があり、道路も一部で歪んだりしているため、祭りの開催には町内で賛否両論があったようだ(8月4日付・地元メディア各社)。そこで、前夜祭は中止とし、キリコの巡行も道路に傷みが少なかった300㍍に限定して行われた。

  もう一つ、能登でよく聞く言葉。「1年365日は祭りの日のためにある」。震災があっても祭りの伝統は絶やさない。能登の人たちの意地でもある。

⇒4日(日)夜・金沢の天気    はれ時々くもり

★住家再建へ公費解体の長い道のり 集落ごと集団移転の動きも

★住家再建へ公費解体の長い道のり 集落ごと集団移転の動きも

  能登半島地震で損壊した住宅などの公費解体は進んでいるのだろうか。先日(7月24日)、半島尖端に位置する珠洲市をめぐった。倒壊した家屋の解体作業が行われていて、ショベルカー2台が屋根や壁、柱などは解体していた。その中から木材や金属類、家電製品などを分別するのは手作業だ。それを終えて、ショベルカーでトラックの荷台に積み込んでいた=写真=。この後、市内に設けられた災害ごみの仮置場に運んでいく。この様子を見ていると、徐々にではあるものの復旧・復興へと向かっているようにも感じた。

  公費解体は4月から本格化に始まり、4ヵ月余り経った。珠洲市の場合は、公費解体の申請件数は5095棟、うち7月15日までに完了したのは465棟、解体完了率は9%となる(環境省公式サイト「公費解体の課題と取組状況について」より)。このほか、穴水町は11%となっている。ただ、輪島市は3%、七尾市は4%と進捗状況についてはバラつきがある。石川県は、申請の総件数2万3400棟におよぶ公費解体を2025年10月までに完了させる目標を立てているが、目標達成は可能なのだろうか。

  では、公費解体のハードルは何か。石川県は、解体作業の業界団体「石川県構造物解体協会」に依頼し、解体チーム664班を編成しているが、まだフル稼働には至っていない。また、原則として建物の所有者が解体作業に立ち会うことになっているが、遠くに避難している所有者の場合、日程調整に時間がかかる場合があるようだ。1つの現場で解体を終えるには1週間から10日ほどかかる(環境省公式サイト「公費解体の課題と取組状況について」などより)。公費解体を終えて、新たな住まいづくり計画している世帯も多いはずだ。長い道のりではある。

  一方で、公費解体などせずに集落ごと集団移転する動きがある。輪島市門前町の浦上地区では26集落に235世帯455人が居住していたが、震災でほとんどの住家が全半壊となり、市外に避難している人も多く、11集落が無人となっている。そこで、地区として60世帯にアンケートを実施したところ、8割が「災害公営住宅」への入居を希望した。同地区の区長らが今月1日、輪島市長を訪れ、浦上地区の中心部に災害公営住宅の建設を求めた(8月1日付・共同通信Web版)。地区では、一人暮らしの高齢者も多く、自力での住宅再建が困難であるとの背景があるようだ。

⇒3日(土)午後・金沢の天気   はれ

☆能登地震の災害ごみ 大量輸送する連結トレーラーの壮観さ

☆能登地震の災害ごみ 大量輸送する連結トレーラーの壮観さ

  まさに「ブラックマンデー」(1987年)のような動揺だ。きょう2日の東京株式市場は、日経平均株価の終値は前日より2200円余りも値下がりした。おそらく政府の面目丸つぶれではないか。貯蓄から投資へと、政府は投資で得られた利益が非課税となる少額投資非課税制度「NISA」の枠を今年から拡大して、株式や投資信託への投資を煽った。これをきっかけに株式投資に手を染めた人たちも大勢いるはずだ。投資は自己責任とは言え、新NISAがまだ8ヵ月目のホヤホヤな時期でこの大きな下落はタイミングが悪すぎる。

  話は変わる。能登の基幹道路である自動車専用道路「のと里山海道」や国道249号を走っていて、目につくのは「連結トレーラー」だ=写真=。大型トラックの荷台が二つ連なり、大容量の荷物を運ぶ。一般的なごみ収集車の積載能力は2㌧から4㌧とされるが、連結トレーラーは16㌧積める。これが、能登を行き来している。連なって走行しているとなかなか壮観な光景だ。

  きょう能登町宇出津の港に行くと、連結トレーラーが待機していた。港のヤードには公費解体で発生した木くずが山と積まれていた。この木くずがクレーン車で連結トレーラーに積み込まれていた。

  地震で発生した災害ごみを244万㌧と石川県は推計していて、このうち38万㌧の木くずを海上輸送で28万㌧、陸上輸送で10万㌧に分けて県外に運ぶ計画を進めている。木くずのほか、金属くずやコンクリート片など120万㌧については、県内で製鋼原料や家電部品、復興の建設資材に再利用する。また、可燃物13万㌧、不燃物73万㌧は県南部の処理場へ搬入する。県は2026年3月までの処理完了を目標としている。

⇒2日(金)夜・金沢の天気    はれ

 

★北陸ようやく梅雨明け 「草むら」化する金沢の風景

★北陸ようやく梅雨明け 「草むら」化する金沢の風景

  北陸はきょうようやく梅雨明け。気象庁の発表によると、平年より9日遅く、去年より11日遅かった。午後、金沢の自宅近くにある大乗寺丘陵公園に行った。標高差83㍍の丘陵地に広がり、頂上部からは市街地や日本海を見渡すことができる=写真・上=。それにしても暑い。公園の近くにある街路の気温計を見ると33度だ。厚生労働省公式サイトの「熱中症による死亡数の年次推移」を読むと、2018年以降は国内で毎年のように1千人以上が命を落としている。すでに40度を超える暑さが各地で観測されている。生命に被害を及ぼす暑さはことしもか。

  話は変わる。前回ブログで犀川大橋について述べた。その犀川大橋の下流域は荒れている。写真・中は、下流の新橋から撮影したものだ。犀川の川床にクズなどの雑草や草本、雑木が生い茂り、川水の流れが河川の3分の1ほどになっているところも見られる。素人目線から見ても、局地的豪雨が発生すれば、河川が氾濫する箇所となるのではないかと思ってしまう。犀川は二級河川で管理者は石川県。このまま河川を「草むら」化させておいてよいのだろうか。

  「草むら」化しているのでは河川だけではない。道路もだ。犀川の左岸の高台に位置する寺町五丁目の交差点。県道45号金沢鶴来線の風景。主要地方道、つまり幹線なのだが、草が生え放題の状態だ=写真・下=。河川にしても道路にしても、本来ならば定期的な除草作業などが施されているはずだ。それが「手抜き」状態となっている。なぜか。

  これはある行政の担当者から聞いた話だが、金沢市の道路や河川の関連業者の多くは、能登半島地震の河川や道路の復旧工事で輪島市や珠洲市、七尾市などの被災地に出向いている。このため、金沢市の関連作業は遅れている、とのことだった。県道45号のほかにも街路樹や下の雑草は伸び放題だ。被災地が最優先なので、それはそれで致し方ない。

      それだったら、県が主導して街路の草刈りボランティアを募ってはどうだろうか。とりあえず、豪雨が来ないことを祈るのみ。

⇒1日(木)夜・金沢の天気     はれ

☆金沢の犀川大橋が架設100年 歴史と詩の流れ

☆金沢の犀川大橋が架設100年 歴史と詩の流れ

  金沢市の中心部を流れる犀川に架かる犀川大橋では今月7日に架設100周年を迎えるイベント「百寿(ももじゅ)祭」が開催された。同日夜は犀川大橋周辺を全面通行止めにし、歩行者天国とするなどにぎやかなイベントとなった。

  その犀川大橋の歴史を調べてみると、犀川の洪水の歴史でもある。大正時代の1922年8月3日、金沢測候所が明治の開設以来ともいわれた豪雨に見舞われ、犀川の堤防決壊は60ヵ所に及んだ。繁華街の片町や香林坊も大水害となった。犀川大橋はその3年前の1919年に市内電車の敷設のため木造から鉄筋製に架け替えられていた。ところが、上流に架かる大桑橋や上菊橋、桜橋などの木橋が押し流され、犀川大橋に追突し、大橋も流されてしまう。

  その後、犀川大橋は先の大水害の教訓を生かし、橋脚のない橋に設計され工事が進んだ。が、1923年9月1日の関東大震災の影響で鋼材が入手困難となり、一部はイギリス産を使用するなど困難を極めたが、1924年に現在の犀川大橋が完成した。そして、2000年には国の登録有形文化財に登録され今に至っている。(※写真は、上流から撮影した犀川大橋)

  この犀川大橋を身近に感じていたのは、金沢出身の詩人で小説家の室生犀星(1889-1962)かもしれない。何しろ犀川大橋の橋詰に近い真言宗の寺院「雨宝院」という寺で幼少期から青年期を過ごした。「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」。この「犀川」の詩が収められている詩集『抒情小曲集』は大正7年(1918)に刊行された。ということは犀川大橋が木造から鉄筋橋に替わるときにこの詩を創ったのだろうか。犀星は1910年ごろから上京し、詩人の北原白秋らを訪ねるなど、帰郷と上京を繰り返している。結婚し、東京に新居をかまえたのが1918年だった(Wikipedia「室生犀星」)。

  「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」。この詩も『抒情小曲集』に収められている。遠方にあって故郷を思う詩ではなく、犀星が金沢に帰郷した折に創られた詩とも言われている。犀川大橋から犀川を眺めながら詠んだのではないだろうか。

⇒31日(水)夜・金沢の天気    くもり

★知事は「配慮に欠けた」と釈明 震災の死亡は339人に

★知事は「配慮に欠けた」と釈明 震災の死亡は339人に

  前回ブログの続き。物議を醸した石川県の馳浩知事の発言「1次避難所の滞留者は所得が低い」は今月25日に都内で開かれた、能登半島地震で対応した関係府省庁の職員らを集めた会合で発した言葉だった。地元メディア各社の報道によると、きょう(30日)馳知事は記者会見し、「配慮に欠ける発言だった」と釈明した。その上で、「さまざまな事情で避難所に留まらざるを得ない人がいる。行政の責任として1人1人の事情に沿って対応する必要がある」と改めて述べた。(※写真・上は、石川県庁公式サイト「知事のホームページ 」より)

  また会見では、県が進めている被災地での仮設住宅6804戸について、これまで8月中にはすべてを完成させるとしていたが遅れる見通しを示した。工事の途中での設計や仕様に変更が生じたためで、8月末までの完成は6262戸、残り542戸については9月以降、もっとも遅いところでは11月になる。馳知事は「遅れることとなり申し訳ない。仮設住宅ができるまでは避難所などでの生活が続くが、日常生活や健康維持のための支援、見守りなどしっかりと対応していきたい」と述べた。

  一方、能登半島地震での災害関連死について、県と被災自治体による5回目の合同審査会(医師・弁護士5人で構成)が30日開かれ、新たに21人(珠洲市8人、七尾市6人、能登町7人)を関連死と認めた。この後、審査会は3自治体に答申し、それぞれの首長が正式に認定する。4回目までで89人が認定されていて、今回21人が正式に認定されれば、関連死は合わせて110人となり、地震で家屋の下敷きになるなどの直接死229人と合わせて339人となる。

  今回の関連死のケースとして、地震時に入所していた施設が停電や断水になり体力が落ちたことや、自宅が停電して酸素吸入ができなくなったなどの事例があった。また、不認定のケースでは、持病があり地震直後に亡くなったものの、地震との因果関係は認められないとの判断もあった(30日付・メディア各社の報道)。関連死に認定された場合、遺族には災害弔慰金支給法に基づき最大500万円が支給される。

  県危機対策課のまとめ(7月30日時点)によると、避難生活を送っている人は1422人いる。被災地の地元の公民館や体育館など48ヵ所(1次避難所)で654人、県が指定した金沢市などのホテルなどの宿泊施設97ヵ所(2次避難所)で705人、そのほかで63人となっている。このほかにも、役所には届けていないが、県内外の親戚や知人宅に身を寄せている人が多くいると言われている。行政も実態はつかみ切れていない。(※写真・下は、地震で半壊した住家には「危険」などの貼り紙が)

  県のまとめた数字で不可解なことが一つあった。住家の全壊・半壊・一部損壊の数値が今月23日に発表した数値と今月30日の数値では大きく異なるのだ。たとえば、輪島市の全壊家屋は23日付で4042棟となっているが、30日付では2257棟となっている。この数字の落差について、県危機対策課に直接電話で尋ねた。すると、これまで空き家を住家として計算していたが、30日付から空き家を非住家として分類したので数字に変動が生じた、とのことだった。逆に、能登ではこれほど空き家が多いのかと思った次第だ。

⇒30日(火)夜・金沢の天気    くもり

☆「1次避難所の滞留者は所得が低い」 知事発言また独り歩きを始める

☆「1次避難所の滞留者は所得が低い」 知事発言また独り歩きを始める

  元日の能登半島地震から7ヵ月が過ぎようとしているが、避難している人々は1590人いる。被災地の地元の公民館や体育館など市町の54ヵ所(1次避難所)で721人、県が指定した金沢市などのホテルなどの宿泊施設103ヵ所(2次避難所)で805人、そのほかで65人となっている(7月23日時点、石川県危機対策課まとめ)。

  きょう29日付の読売新聞オンラインによると、石川県の馳知事は25日、東京都で開かれた、能登半島地震で対応した関係府省庁の職員らを集めた会合で、「自宅にも戻れない、障害のある方など、所得の低い方が1次避難所で滞留している。この方々をいかに支えていくかも私どもの使命だ」とあいさつした。また、閉会後、記者団に対し、「家で自分で本来生活していかなければならないが、避難所の方が食事、掃除、見守りもあるので安心していられる。こういった方がけっこうな数、滞留している」と説明した。2次避難所についても「ホテルにいた方が楽。『実はもう自宅に戻れますよね』と言ってもなかなか戻れない人もいる」と語った。

  知事として避難所で生活をしている人々のことを、「所得が低い」や「ホテルにいた方が楽」などと語る必要性があったのだろうか。能登半島地震で対応した関係府省庁の職員らを集めた会合だったので、身内のような気持でリップサービスをしたのかもしれないが、これは政治家としては舌禍だ。

  馳知事は今月3日の記者会見で、連休を利用して8月11日の「山の日」に合わせて白山に登ると表明していた。ところが一転、8日の県庁の会議で、9月補正予算案に向けて被災した自治体への視察や聞き取りなどのスケジュールを改めて確認したところ白山登山の日程を組むことが厳しくなったとして、登山の取りやめを明らかにした(7月9日付・メディア各社の報道)。知事として、被災地よりなぜ登山なのかと批判が高まっていた。

  金沢で「能登へ行かないことが支援」と思っている人が多くいる。そのきっかけは、馳知事が1月10日の記者会見で「個人的なボランティアは2次被害に直結するので控えてほしい」と訴えたことだった。馳知事は被災地へ向かう道路事情が悪く、個人的なボランティアで自家用車で現地に行くと渋滞に巻き込まれ、救急車や消防車の往来にも支障をきたすのでしばらく控えてほしいという意味で述べたのだが、いつの間にか「ボランティアは自粛」「行かないことが支援」の言葉が独り歩きを始めた。

  今回の避難所生活者への「所得が低い」や「ホテルにいた方が楽」もまた、言葉が独り歩きを始めるかもかもしれない。

⇒29日(月)夜・金沢の天気    くもり時々はれ

★たかが蒲鉾、されど蒲鉾 ウナギかば焼やカニ脚「代替食品」は進化する

★たかが蒲鉾、されど蒲鉾 ウナギかば焼やカニ脚「代替食品」は進化する

  華々しい開幕式のパリオリンピックだったが、騒動もあったようだ。メディア各社の報道によると、水上パレードで入場した韓国の選手団を、現場のアナウンスが英語とフランス語で「朝鮮民主主義人民共和国」と言い間違えて紹介した。韓国政府はIOCに対し遺憾の意を表明。これを受け、IOCのバッハ会長は韓国のユン・ソンニョル大統領に電話し、直接謝罪したようだ。対立が深まる両国だけに重大なミスと判断したのだろう。

  話は変わる。きのう近所のスーパ-に行くと、久しぶりに「うな蒲ちゃん」を見つけた。ウナギのかば焼きもどきの蒲鉾なのだが、「土用の丑の日」の特設コーナーで本物のかば焼きと並んで販売されていた。水産加工会社「スギヨ」の商品だ。スギヨは能登を代表する企業の一つでもある。うな蒲ちゃんを手にして、能登の復興の兆しを感じた。

  能登半島の中ほどにある七尾市に主力工場があり、元日の能登半島地震で工場の稼働はストップしていた。スギヨの代表的な商品と言えば、カニ風味の蒲鉾、通称「カニカマ」なのだが、スーパーの売り場から消えていた。再びカニカマが並んだのは3月下旬ごろだった。本物の香箱ガニの脚を再現した『香り箱』という商品は練り物のコーナーではなく、鮮魚コーナーで陳列されていた。

  そのとき、ふと思ったのが「うな蒲が並んでいない。ということは、工場の稼働はまだ道半ばなのだろうか」と。これまで売り場に何度か立ち寄ったが商品はなかった。そして、きのうようやく見つけた。おそらく、土用の丑の日をめがけて製造ラインの復旧に取り組んだのだろう。主力商品がようやくそろったことで、能登の復興の兆しを感じた次第。

  いわゆる代替食品は進化している。初めてカニカマを食べたのは高校生のときで、いまから50年ほど前だ。当時は「かにあし」という商品名で、細かく身をほぐしたような中身だった。いま販売されているようなカニの脚を模した標品ではなかった。味だけでなく、見た目も限りなく本物に近づいている。

  日本の消費者は本物ではないと知りながら代替食品に手を伸ばす。「マツタケの味、お吸い物」のCMもある。代替食品に違和感を持たない日本人、考えてみればこれも不思議な話ではある。

⇒28日(日)午後・金沢の天気   くもり