⇒ドキュメント回廊

★金沢に雷鳴とどろく 1時間に61㍉の激しい雨、避難指示も

★金沢に雷鳴とどろく 1時間に61㍉の激しい雨、避難指示も

雷鳴とともに激しい雨が降って来た。午前10時ごろだった。ヤバイと思い、すぐにパソコンの電源ケーブルを抜いた。雷が直接落ちなくても、近くで落ちた場合でも「雷サージ」と呼ばれる現象が広範囲に起きる。いわゆる電気の津波のこと。この雷サージがパソコンの電源ケーブルから機器内に侵入した場合、データなどが一瞬にして破壊される。「雷が鳴ったら電源抜き」は自身の反射的な行動パターンになっている。何しろ金沢はカミナリ銀座だ。雷日数の平年値(1991-2020年)で、年間の雷日数が全国でもっとも多いは金沢の45.1日なので、心がけている。

ウエザーニュースによると、金沢市では午前中の1時間で61.5㍉の非常に激しい雨が観測されたようだ。10時53分に金沢市を対象に大雨警報が発表され、局地的に非常に激しい雨となっている。きょうは小中学校の児童・生徒たちの登校日だった。自宅前は通学路なので、雷雨の中を帰宅する子どもたちの声が聞こえる。稲光がするたびに、「コワイッ」「アブナイッ」と叫び声が上っていた。確かに、雷雨の中で傘を差して歩いているので、傘に雷が落ちてくるかもしれないと思っただけでこれほど怖いことはないかもしれない。(※写真は、金沢市内の上空を覆った雨雲=27日午前10時半ごろ、自宅2階から撮影)

予報によると、夕方にかけて、落雷や竜巻などの激しい突風、急な強い雨となる所があり、金沢地方気象台では安全確保に努めるよう呼びかけている。大雨警報にともない、金沢市は正午に市内9地区、2万7520世帯・6万3730人に避難指示を出した。この地域周辺を流れる金腐川の一部では午前11時50分ごろ氾濫危険水位を超えている。

それにしても雷は鳴り止まない。午後0時35分ごろ、落雷の強烈な音がした。金沢の山手だ。いまのところ火の手など上がってはいない。ようやく雷雨が落ち着いてきて、パソコンに電源ケーブルを入れたのは午後1時ごろだった。また、金沢市が出していた河川の氾濫の危険性による避難指示は午後2時に解除された。

⇒27日(水)午後・金沢の天気  あめ

★地震にめげない五重塔 海底隆起で新たに漁港 句碑が後ろ向く

★地震にめげない五重塔 海底隆起で新たに漁港 句碑が後ろ向く

きょう金沢市内のバス会社が企画した能登半島地震の被災地を巡るツアーに参加した。テーマは「能登半島地震を風化させないために(減災企画)」。企画した会社の営業所長は阪神・淡路大震災を経験したことをきっかけにこれまでも東日本大震災の被災地で学ぶツアーなど企画している。今回も、参加者が被災の状況や復興の取り組みを直接見聞きすることで、今後の災害と向き合う減災の取り組みに役立ててほしいと企画した。ツアーで巡ったポイントの中からいくつか。

北陸随一の五重塔=写真・上=が羽咋市の妙成寺にある。二王門(国重文)をくぐると、高さ34㍍の優美な姿を現す。執事の大句哲史氏の説明によると、日蓮聖人の孫弟子の日像上人が1294年に開山した北陸最初の法華道場という。その古刹を熱心に保護したのが加賀藩祖・前田利家の側室で、2代藩主の利常の母の寿福院だった。妙成寺を菩提寺と定め、五重塔など整備した。能登半島地震では羽咋市は震度5強の揺れ。築400年余りの五重塔は無傷だった。妙成寺は海辺に近いことから、内部の木組みは風に強く、破壊力を吸収する構造となっているという。大句氏は、「重要文化財ですが、これを機にぜひ国宝に」と述べていた。

能登の海岸は日本海側を外浦(そとうら)、そして七尾湾側の方を内浦(うちうら)と呼んでいる。去年元日の地震では外浦は海岸の隆起、内浦では地盤沈下が起きた。外浦の輪島市門前町の鹿磯(かいそ)漁港では、地震で海底が4㍍も隆起した。被災地を案内してくれた谷内家次守氏によると、隆起した場所を活用して新たな港を造っているとのこと=写真・中=。実際に鹿磯漁港に行ってみると、なるほどと思った。隆起した部分に道をつけ、漁獲した魚を水揚げする場所が新たに設けられていた。谷内氏は「現地を見てもらい、復興に向けた地域の思いが伝わったらうれしい」と。

同じく同市門前町の曹洞宗の大本山・総持寺祖院は2007年3月25日の能登半島地震で大きな打撃を受け、14年の歳月をかけ完全復興を宣言。輪島市民にとって「復興のシンボル」でもあった。副監院の高島弘成氏によると、去年元日の地震では33㍍の廊下「禅悦廊」が崩れるなど国の登録有形文化財17棟全てが被災した。そして、案内してもらったのが、坐禅堂前の俳人・沢木欣一の句碑。地震の右回転の揺れによって180度回転し、句碑は後ろ向きになった=写真・下=。高島氏は「しばらく誰も気づかなかった。それにしてもこれが自然のチカラなんです」と。ちなみに句は、「雉子鳴いて 坐禅始まる 大寺かな」

静寂な寺で座禅修行の始まりを告げるかのようにキジの鳴き声が聞こえる。視覚的なイメージと聴覚的なイメージが絶妙に組み合わさり、場の情景が伝わってくる。

⇒23日(土)夜・金沢の天気 はれ

☆能登・祭りの輪~八朔祭に秘められた男神と女神の逢瀬の物語~

☆能登・祭りの輪~八朔祭に秘められた男神と女神の逢瀬の物語~

能登の夏祭りをテーマに各地を訪れているが、祭りの中心となる地域の神社は去年元日の能登半島地震で多く損壊した。社殿のほか鳥居が倒れるケースが目立つ。それをことしの夏祭りまでに再建しようと地域が力を合わせ、また他の震災地の人々の支援を受けて完成にこぎつけた事例(今月17日・18日付のブログ)もある。

きのう21日に訪れた志賀町富来領家町の住吉神社の鳥居も、今月23、24日の夏祭りを前に1年7ヵ月ぶりに再建された=写真・上=。社殿はまだ修復中だったが、高さ5㍍ほどの鳥居は木製で造られ、近づくとヒノキの香りがした。それまでの鳥居は石造りだった。境内で祭りの準備を行っていた地域の人に話を聴くと、「神輿で新しい鳥居の下をくぐるのを何よりも楽しみにしているんです」と目を細めていた。

あすからの祭りは、「冨木八朔(とぎはっさく)祭り」と呼ばれ、能登でも知られた祭りだ。むしろ能登では「くじり祭り」として知られる。「くじり」は男女の性行為のことだ。なぜそう呼ばれるのか。境内にある祭りの説明看板にはこう記されている。

「その昔、岩舟に乗り増穂浦(※富来地区の海岸)に漂着した男神が住吉神社の女神に助けられ、夫婦になりました。ところが、荒波の音を嫌った男神は里山の冨木八幡神社に遷座してしまいました。その後、男神は年に一度(旧暦の八月朔日)に女神との逢瀬のため住吉神社に渡御したことが冨木八朔祭礼の始まりと言われ、約800年の伝統を誇ります」

男神と女神が逢瀬を交わすことが祭りのルーツとされ、それが「くじり祭り」として伝えられてきた。2日間にわたる祭礼の1日目は「お旅祭り」と称され、町内各地から大小30本のキリコが冨木八幡神社に集結する。男神を乗せた神輿とともに夜道を練り歩きなながら2㌔離れた住吉神社に届ける。2日目は本祭りで10基の神輿が増穂浦に勢ぞろいし、白砂青松の海岸を渡御する「浜廻り」が行われる。その後、街中を練り歩き男神を八幡神社まで送り届ける。

ストーリー性といい、キリコと神輿の巡行といい、じつにダイナミックな祭りだ。ちなみに、男神が嫌った「荒波」はおそらく冬場の荒海だろう。富来地区には、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』の舞台となった名所の能登金剛があり、清張の歌碑がある。『雲たれて ひとり たけれる 荒波を かなしと思へり 能登の初旅』。清張が能登で初めて見た荒海の情景。人は出世欲、金銭欲、さまざまな欲望をうねらせて突き進むが、最後には自らの矛盾や人間関係、社会制度に突き当たって一瞬にして砕け散る。ズドンと音をたてて砕ける荒海から、サスペンスのイメージを膨らませたのかもしれない。

⇒22日(金)午後・金沢の天気  はれ

★能登・祭りの輪~岩手から神戸から、震災の縁がつながる曽々木大祭~

★能登・祭りの輪~岩手から神戸から、震災の縁がつながる曽々木大祭~

能登の祭りを見学に訪れると、前回ブログで述べた神輿の修復だけでなく、祭りに関わる地域を超えた支援がさまざまにあることが分かった。輪島市町野町曽々木の春日神社では16日に曽々木大祭が営まれた。きのう17日に境内に行って見ると鳥居が真新しくなっていた=写真・上=。近所の民宿のおばさんに尋ねると、去年元日の能登半島地震で鳥居が崩れた。「それを新しくしてくれたおかげで気持ちよく祭りができたんやわ」「岩手の人のおかげなんやわ」と話してくれた。

そこでネットでも見てみると、インスタグラムやX(旧ツイッター)でその鳥居の再建の様子がいくつか書き込まれている。東日本大震災の被災地でもある岩手県大槌町の石材業者が去年元日の能登半島地震の被災地の炊き出しなどのボランティアに1月下旬に能登に入った。東日本大震災の津波で社屋や車などを流されているだけに、被災者の一人として能登で何かできることはないかと考えていた。そのとき、曽々木で春日神社の鳥居が崩れているのを目の当たりにして修復を思い立った。ただ、そのときは能登半島は一般の車両走行も難しく、ことしに入って本格的に作業を始めた。

再建を指揮したのは、岩手県大槌町の「つつみ石材店」の芳賀光氏。ことし5月にほかの支援者も集まり、作業を進めて再建にこぎつけた。経費は「破格の値段」だったようだ。7月19日には芳賀氏や地元の人々が参加して「新鳥居くぐり初め」の神事が営まれた。関係者はそのときの様子をインスタグラムでこう述べている。「この特別な瞬間は曽々木地区の絆を深め、多くの温かい思いが集まりました。この感謝を忘れず、これからも曽々木地区の再建に向け共に頑張ります」。そして、今月16日の曽々木大祭では新しい鳥居の下を初めて神輿がくぐった。

祭りにはもう一つ被災地の縁があった。祭りにはキリコが4本が出たが。それを担ぎ上げたのは地元の若衆と関西からの学生ボランティアら120人だった。去年に続いて祭りに駆けつけたのは、NPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」(通称「HANDS」)=写真・下=。去年、震災の影響で担ぎ手が減少し、祭りの存続が危ぶまれていたことを知ったHANDSが支援を申し出て、開催にこぎ着けた経緯がある。地域を超えた同じ被災者からの支援の輪が能登の伝統文化を守り支えている。

⇒18日(月)午後・金沢の天気  はれ

☆能登・祭りの輪~復活した黒島天領祭に秘められた物語~

☆能登・祭りの輪~復活した黒島天領祭に秘められた物語~

輪島市門前町黒島の祭礼「黒島天領祭」(8月17、18日)は能登の祭りの中でも独自色がある。そもそも天領祭のいわれは何か。かつて北前船船主が集住した黒島地区は貞享元年(1684)に江戸幕府の天領(直轄地)となり、立葵(たちあおい)の紋が贈られたことを祝って始まった祭礼とされる。祭りはキリコを担ぐ能登のほかの祭りとは異なり、都(みやこ)風な趣がある。去年元日の能登半島地震でメインの神輿が損壊し、2年ぶりの巡行となった。

2基の曳山は輪島塗に金箔銀箔を貼りつけた豪華さ、「百貫」(375㌔㌘)もある神輿だ=写真・上=。小学生による奴(やっこ)振り道中のほか。地元の人たちは麻の黒い半纏(はんてん)を粋に羽織っている。

祭りの舞台となる黒島の街並みは重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に選定されていて、しかも道幅は狭いところで4㍍ほど。ここを曳山が巡行するので道路沿いの家の屋根部分に接触しないよう舵取りが必要となる。そこで求められているのは、きびきびとしたシステマチックな動きだ。

巡行する街路は山と海それぞれに平行に走っている。地元のベテランの舵取り担当が「山一つ」と声を上げると、担ぎ手は一斉に山側に舵棒を1回押す。すると、曳山の車輪は海側に10度ほど舵を切ることができる=写真・下は2017年8月の黒島天領祭=。「海二つ」と声が上がると、海側に2回押して山側に20度ほど舵を切る。この作業を繰り返しながら、曳山は曲線道路を器用に巡行するのだ。

2年目で天領祭が復活したのも、壊れた神輿を修復できたことにあるようだ。メディア各社が伝えている。震災後、黒島の出身者らでつくる姫路市のボランティア団体「黒島支援隊」が壊れた神輿のことを知り、姫路の「灘のけんか祭り」(兵庫県指定重要無形民俗文化財)の神輿を手がけてきた宮大工の男性に修理を持ち掛けた。男性は厚労省の「現代の名工」に選ばれている福田喜次氏73歳。依頼を快諾し、無償で修理を引き受けた福田氏は壊れた部材をすべて姫路へ運び、祭りの写真や動画を参考にしながら、小さいもので数センチ片になった部材を少しずつ組み上げた。8ヵ月ほどかけて完成させた(朝日新聞、神戸新聞web版)。

地域を超えた支援の輪が能登の伝統の祭りを復活させたのだ。秘話のようなストーリーだ。祭りはあす18日も引き続き行われる。

⇒17日(日)夜・金沢の天気  はれ

★能登・祭りの輪~2年ぶり復活、海で乱舞する大漁祭り~

★能登・祭りの輪~2年ぶり復活、海で乱舞する大漁祭り~

旧盆のこの時季、能登の各地では祭りが開催されている。奥能登の穴水町では海の安全と大漁を願う「沖波大漁祭り」が14日と15日の両日、能登半島地震から2年ぶりに復活した。祭りは5本のキリコが町中を練り歩き、15日には海中へキリコを担ぎ込んだ。

担ぐキリコは高さ5㍍ほど。鉦(かね)と太鼓が打ち鳴らされ、「ヤッサイ、ヤッサイ」と威勢のよい掛け声で法被姿の担ぎ手が首まで海水につかりながら大漁を祈願し巡行した。両日は35度近くの暑さで、例年だと午後2時からキリコを動かすが、ことしは暑さ対策として午後4時からに変更しての巡行となった。祭りの復活は能登半島地震で被災した能登の復興のシンボル、そんな光景でもある。(※写真・上は、穴水町の沖波大漁祭り=日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」 活性化協議会の公式サイトより)

七尾市中島町で14日に営まれた「釶打(なたうち)おすずみ祭り」(新宮納涼祭)では5本のキリコのそうろくに300年以上も燃え続けている「火様(ひさま)」が点火され、祭りを盛り上げた。能登ではかつて、囲炉裏の灰の中から種火を出し、薪や炭で火を起こした。そうした先祖代々からの火のつなぎのことを「火様」と言い、就寝前には灰を被せて囲炉裏に向って合掌する。半世紀前までは能登の農家などで見られた光景だったが、灯油やガス、電気などの熱源の普及で、囲炉裏そのものが見られなくなった。同町では能登でただ一軒、その火様の伝統を守っている民家があり、今回、伝統の祭りと火様がつながった。(※写真・下は、七尾市の釶打おすずみ祭り=同)

もう一つ祭りの話。能登の夏まつりでは、それぞれの家が親戚や知人を招いてご馳走でもてなすヨバレの風習がある。その家の自慢の料理が出る。そのなかでも印象に残っているのが、魚を塩と米飯で乳酸発酵させた「なれずし」。琵琶湖産のニゴロブナを使った「ふなずし」は有名だが、能登でもなれずしは祭りの伝統食だ。

能登町のある民家を訪ねると、アジ、ブリ、アユのなれずしを出してくれた。なれずし独特の匂いがあり、なじめない人も多いという。ただ、食通にはたまらない味と匂いのようだ。アユは5年もので、家の主人はが「ヒネものです」と説明してくれた。ヒネものとは2年以上漬け込んだもの。地酒ととても合う。

能登の祭りには伝統のキリコだけでなく、祭りの伝統料理がある。この伝統を守っていこうという地元の人たちの意気込みこそ、震災からの復興を絆(きづな)で結ぶエネルギーではないだろうか。

⇒16日(土)夜・金沢の天気   はれ

☆終戦から80年、戦没者310万人の死を悼む

☆終戦から80年、戦没者310万人の死を悼む

きょう15日は先の大戦の終戦から80年となる。政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、戦死した軍人と関係者、空襲や広島・長崎の原爆投下、沖縄戦で亡くなった310万人を悼み、正午の時報に合わせて黙祷が捧げられた=写真・上はNHK中継番組より=。  

100回以上の空襲で10万人余りの民間人が犠牲となった東京大空襲をはじめ、終戦までに200以上の都市が空襲を受けたとされる。北陸では福井市や富山市などで空襲があったものの、金沢ではなかった。かつて、終戦のこの頃になると、ではなぜ金沢は空襲を免れたのかと友人たちと激論を交わしたこともある。このブログの2015年7月31日付「『金沢空襲』計画」で新たな情報を含めまとめたことがある。以下、再録。

金沢に住んでいる者の根拠のない共通の理解として、金沢は京都と同じく文化財的な街並みや寺院が多く、空襲の対象にはならなかったという認識を共有している。その証拠の一つとして、金沢市郊外の湯涌温泉にかつてあった「白雲楼ホテル」は戦後、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥らアメリカ軍将兵が訪れていた、といわれる。

1945年7月にアメリカ軍による「金沢空襲」が計画されていた、というスクープ記事が出たのは2015年7月26日付の北陸中日新聞だった=写真・下=。以下、記事を引用。アメリカ軍が金沢市を攻撃目標とする空襲計画を立てていたことが分かったのは、アメリカ軍資料を収集する徳山高専元教授の工藤洋三氏(当時65)=山口県周南市=が分析した。金沢空襲の計画書は1945年7月20日付で作成され、同年8月1日夜に甚大な被害が出た富山大空襲の計画書が作られたのと同じ日だったという。

金沢空襲の計画書によると、攻撃目標は北緯36.34度、東経136.40度。現在の座標とは数100㍍の差異があるものの、旧日本軍の司令部があった金沢城付近を狙ったとみられる。高度4500㍍ほどから爆弾を投下し、70分以内で攻撃を完了する計画だった。その金沢への爆撃ルート。攻撃隊はまずグアム島の基地から出撃。硫黄島や現在の静岡県御前崎市上空を通過し、富山県黒部市付近で進路を北西に変える。石川県能登半島の穴水町あたりを周回し、金沢に向かって南下。空襲後は再び、御前崎市や硫黄島の上空を通って帰還するルート想定だった、という。

実際に8月1日、B29の爆撃編隊は金沢の上空に来たものの、通り過ぎて、富山市に1万2000発余りの焼夷弾を投下した。11万人が焼け出され、2700人余りの死者が出た。なぜ、金沢空襲の計画は実行されなかったのか。

富山市には発電所を基盤とした重工業の工場が立地していた。当時の金沢は陸軍第九師団が置かれていたものの、産業といえば繊維が主だった。しかも、九師団の兵は台湾などに赴いていた。記事をもとに考察すれば、空襲の計画はされたものの、金沢は軍事的な価値では優先度が低かったのではないか。そして、このころからアメリカ軍は「無差別攻撃」が主流となり、富山の場合でも重工業の工場が標的になっただけではなく、全市が対象となった。その後、無差別攻撃は一気にエスカレートし、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下された。

終戦がもう少し後にずれ込んでいたら、金沢も無差別攻撃に晒されていたのかもしれない。

⇒15日(金)午後・金沢の天気  くもり時々はれ

☆能登で激しい雨、4市町で2万6千人に避難指示 災害ごみ山積み

☆能登で激しい雨、4市町で2万6千人に避難指示 災害ごみ山積み

停滞する前線の影響で石川県内は大気の状態が不安定となっていて、とくに能登ではきょうも時折、激しい雨が続いている。このため輪島市は大雨で土砂災害が発生する危険性が高まっているとして午後3時までに9地区の4974世帯9778人に避難指示を出した。珠洲市も午後3時に市内全域にあたる5669世帯1万786人に、穴水町は2地区の2563世帯5347人に、能登町は2地区の78世帯174人に避難指示を出した。

また、石川県と金沢地方気象台は土砂災害の危険性が高まっているとして、輪島市、珠洲市、七尾市、穴水町、能登町、志賀町に土砂災害警戒情報を発表している。降り始めから10日夕方までの雨量は珠洲市で114.5㍉、輪島市三井で112.5㍉、同市門前で97.5㍉となどなっている。あす11日夕方までの24時間に降る雨の量は、いずれも多い所で加賀と能登ともに100㍉と予想されている。さらに12日にかけては能登を中心に警報級の大雨となる可能性があるとしている。(※図は、日本気象協会「tenki.jp」公式サイト「石川県の雨雲レーダー」)

7日に線状降水帯が発生し、金沢市は12時間の雨量が331.5㍉と記録的な大雨となった。なかでも冠水被害に見舞われたのが同市大浦地区だった。メディア各社の報道では、地区の道路は数10㌢の高さまで水に浸かり、住民は近くの小学校に避難していた。避難指示が解除されたのは8日午前6時半だった。きょう現地に行くと、水に漬かった家具の運び出しや泥の撤去作業が行われていた。

大浦地区近くの「こなん水辺公園」が災害ごみの仮置き場になっていて、使えなくなった家電製品などが次々と持ち込まれていた=写真=。受付にいた市の担当者に尋ねると、持ち込むことができるのは、木でできた製品や金属、家電、畳などで、ガスボンベや灯油などは対象外とのことだった。仮置き場は今月24日まで設けられ、午前8時半から午後4時まで無料で受け入れている。

また、こなん水辺公園の近くには金沢競馬場がある。豪雨で馬の厩舎など敷地内が水に浸かり、競走馬の一部は別の場所に避難していて、このためレースはしばらく中止のようだ。記録的な大雨の影響はいろいろなところで出ている。

⇒10日(日)夜・金沢の天気  あめ

☆3年前の「8月4日」 線状降水帯の豪雨で「美しき川」が暴れ川に

☆3年前の「8月4日」 線状降水帯の豪雨で「美しき川」が暴れ川に

きょう「8月4日」は線状降水帯の怖さを初めて思い知った日でもある。3年前のことだ。以下、2022年8月4日付のブログを再録する。この日の石川県内は、1時間に100㍉の猛烈な雨に見舞われ、気象庁は記録的短時間大雨情報を発表した。金沢地方気象台は、日本海にある前線に向かってあたたかく湿った空気が流れ込み、県内では大気の状態が非常に不安定と注意を呼びかけていた。

とくに金沢市や加賀地方が集中豪雨に見舞われ、小松市の平野部や白山市白峰では、午前10時半までの1時間で100㍉が降り、白山市河内では午後3時までの24時間に降った雨は385㍉となった。このため気象庁は、金沢市と小松市、白山市、能美市など6つの市に土砂災害の危険性が高まっているとして土砂災害警戒情報を発表した。

国土交通省金沢河川国道事務所は、小松市を流れる梯(かけはし)川について、堤防より水位が上がり氾濫が発生したとして、午後2時30分に氾濫発生情報を出した。また、白山市を流れる手取川についても、警戒レベルが最も高いレベル5の「緊急安全確保」を同市の9572世帯を対象に出した。そして、警戒レベル4の避難指示を小松市全域の4万4767世帯、金沢市の8万5759世帯などに出した。

この日の夕方、金沢市内の中心部を流れる犀川に架かる下菊橋の近くを通ると、濁流が波打ち、暴れ川のようになっていた=写真=。金沢出身の詩人で小説家の室生犀星が「美しき川は流れたり」と讃えた犀川だ。撮影時、市内では雨は止んでいたが、山間部はぶ厚い雨雲に覆われていた。

この日、石川県の馳知事は国立公園に指定されて60年を迎えた白山をPRするため、前日の3日から白山を登山していた。4日朝、馳氏は職員ともに山小屋を出て下山し、3時間後の正午すぎに登山道の入り口に到着した。しかし、豪雨のために一本道の県道・白山公園線が通行止めになった影響で移動できず、登山道の入り口で足止め状態になった。

金沢地方気象台は翌5日午後6時までに降る雨量は金沢・加賀地方で200㍉、能登地方で150㍉と予想され、引き続き土砂災害や川の増水に警戒するよう呼びかけていた。

金沢・加賀地方を襲った線状降水帯。さらに2年後の2024年9月には能登に「記録的な大雨」をもたらした。元日の震災からの復旧・復興の途上にあった輪島市などが9月21日、22日の48時間で498㍉の豪雨に見舞われた。震災と併せて2重災害となった。

以上のブログを書き終えてテレビを視ると、きょう小松市では午後1時半すぎに全国で最も暑い40.3度を観測したとニュースが流れていた。気温40度以上を「酷暑日」と言うそうだ。初めて知った。酷暑日が普通にニュースで流れる、そんな日常がやって来たのだろうか。

⇒4日(月)午後・金沢の天気  はれ

★「石川の水がめ」手取川ダムの貯水率さらに低下 ハイテク産業への影響は・・

★「石川の水がめ」手取川ダムの貯水率さらに低下 ハイテク産業への影響は・・

金沢市ではきょう(3日)も35度の猛暑との予報が出ていて、気象庁と環境省は石川県内に16日連続となる熱中症警戒アラートを発表した。ここまでくると気になるのが水不足だ。県内の人口の7割の水道をまかなっている「石川の水がめ」とも称される手取川ダムの貯水率は、以前ブログ(7月26日付)で述べた時点では48.5%だった。きょう午前ではさらに減って37.8%となっている(「石川県防災ポータル」より)。

先月25日に手取川ダムを訪れた際にダム上流の白山市白峰に行くと、河川は半ば干上がった状態のようにも見え=写真・上=、県民の一人として実に心細く感じた。なにしろ7月は雨が降らなかった。気象庁は、新潟を含む北陸地方の7月の降水量は平年の8%で、統計を開始した1946年以降の7月で最も少なかったとの速報値を発表している(今月1日)。まさに記録的な少雨だった。

では、今後の予報はどうか。8月前半は北陸地方などで曇りや雨の日が多くなり、平年並みかそれ以上の降水が予想されるものの、これまでの少雨を解消するほどの降水量にはならない可能性があるとの見方もある。

以下はあくまでも憶測だが、先端産業の関係者もこの少雨を案じているのではないだろうか。手取川の流域には、加賀東芝エレクトロニクスや金沢村田製作所、JDIといった半導体などを製造する大小含め50の先端企業が集積している=写真・下、いしかわサイエンスパークへの案内看板=。白山のふもとには地上に流れる手取川だけではなく、膨大な地下水がある。ハイテク企業の生産工場ではその地下水をくみ上げて、半導体の基板となるシリコンウエハーやプリント基板、液晶関連部品の洗浄に使っている。こうした洗浄水は不純物や酸性度、アルカリ度などが高くない、純水、真水に近いことが求められていて、白山の伏流水はまさに真水に近いのだ。

そして、洗った洗浄液は汚染に配慮しながら薄めて手取川に流すという作業を行っている。豊富な地下水と大きな川があるという立地が先端産業を支えている。今後、少雨が続けば飲み水や農業だけでなくハイテク産業に影響を及ぼすのではないか。

⇒3日(日)午後・金沢の天気   はれ時々くもり