⇒ドキュメント回廊

☆能登地震で加速、人口13%減 今こそ「能登はやさしや」攻略策

☆能登地震で加速、人口13%減 今こそ「能登はやさしや」攻略策

去年元日の能登半島地震による災害の復旧はどの程度進んでいるのだろうか。石川県庁の資源循環推進課のまとめによると、能登地震や9月の奥能登豪雨で被災した家屋の公費解体の完了率は11月末時点で97.9%となった。解体申請のあった棟数4万2178棟のうち、4万1297棟の作業を終えた。これで、県内で公費解体を実施している16市町のうち、羽咋市や金沢市など9市町で完了した。残り7市町の解体作業は、七尾市はまだ92%ではあるものの、年内に作業を終えるとしている。

公費解体を終えた跡地をこれまで何ヵ所か訪れたことがある。跡地には草が生い茂っている=写真は、震災で焼失した輪島市朝市通りの跡地=。ここに人が戻り、家を建て、街並みの活気は戻るだろうか。県統計情報室がまとめた人口推計(11月1日時点)によると、地震の被害が特に大きかった奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の人口は4万7911人で、地震が発生した去年元日から7302人減り、減少率は13.2%となった。また、七尾市と志賀町を入れた能登半島の中央から北部の6市町でみると、去年元日から1万1132人減って10万8518人となり、減少率は9.3%となる。ことし10月からの1ヵ月の統計を見ても418人減っている。とくに、転出者が転入者を上回る「社会減」が247人と多い。

能登半島の市町は過疎高齢化が震災以前から指摘され、「消滅の可能性がある自治体」と称されていた。それが震度7の揺れで消滅可能性に拍車がかかっている。対応策はあるのか。人口戦略会議が公表した「令和6年・地方自治体『持続可能性』分析レポート」によると、石川県の19市町のうち9つが「消滅可能性」があるとされる。9つのうち8つが能登の市町だ。唯一、能登で対象外となったところが中能登町。先述の人口推計で10月から二桁増えているのがこの町だ。1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標となる「合計特殊出生率」が2020 年で1.83と県内でトップだった。増えたり減ったりしながら緩やかな人口減少となっている。

中能登町は「能登はやさしや土までも」という言葉が江戸時代から記録に残る、この言葉の発祥の地でもある。町役場では「障害攻略課プロジェクト」という、ハード面のバリアフリーだけでなく、「心のバリアフリー」を推進している。誰もが分け隔てなく、気軽に交流し暮らすことができる町づくりを、基幹産業である繊維会社などと連携して取り組んでいる。人だけでなく動物にも優しく、神社ではペットに健康と無事を願うお祓いがある。中能登町の取り組みが人口減少に歯止め、そして移住者を呼び込むヒントにならないだろうか。

⇒7日(日)午後、金沢の天気  はれ

★田の神さまへの感謝の気持ち忘れない 奥能登の「あえのこと」

★田の神さまへの感謝の気持ち忘れない 奥能登の「あえのこと」

JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)」が日本海を南下して大雪をもたらす可能性があるとの予報を前回ブログ(今月3日付)で述べた。除雪を行うスコップを用意して身構えていた。金沢では3日の夜に初雪が観測され、4日朝は1.7度とこの冬一番の冷え込みとなった。豪雪地帯でもある白山のふもとの山間地では5日午前で20㌢余りの積雪となった。写真は、きのう5日午前8時40分ごろの金沢の自宅前の庭の様子だ。雷鳴とともに霰(あられ)が一時的に激しく降ってきた。その後は雨となり自然と霰も消えていった。そしてきょうは午後から晴れ間も出て、気温は13度まで上がり、寒波は峠を越えた。用意したスコップは一度も使わなかった。

話は変わる。不安定な天気の中で、きのう5日、能登半島の北部の奥能登では、民俗行事の「あえのこと」が営まれた。ユネスコ無形文化遺産にも登録(2009年)されているこの行事は各農家で営まれ、目が不自由とされる田の神さまを丁寧にもてなす農耕儀礼として知られる。家の主(あるじ)は、そこにあたかも田の神さまがいるかのように家に迎え入れ、食事でもてなし、一年の労をねぎらう。12月5日に迎え、春耕が近づく翌年2月9日に送り出す。「あえのこと」の「あえ」は饗応、「こと」は祭りを指し、「もてなし」を意味する。

去年元日の能登半島地震でこの年12月の「あえのこと」を中止した農家や簡素化した農家の話をよく耳にした。被害が大きかった奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では震災による農地の亀裂や水路の破損、ため池の決壊などのため、奥能登の水田の作付面積は震災前の2800㌶から1800㌶に落ち込んだ。さらに奥能登を襲った9月の記録的な大雨に見舞われた。その後、土砂や流木の撤去、水路の整備などが行われ、ことしの作付面積は去年より100ha多い1900haとなり、7割近くに回復した。輪島市の白米千枚田では多数のひび割れが入り、耕せたのは去年は1004枚のうち120枚だったが、ことしは250枚に増やすことができた。(※写真は、能登町「合鹿庵」で執り行われた農耕儀礼「あえのこと」。田の神にコメの出来高などを報告する農業者=2016年12月5日撮影)

田んぼの復旧とともに田の神さまへの感謝の気持ちも戻ってきたようだ。地元メディア各社の報道によると、自宅が全壊した農家では隣家の納屋を借りて、あるいは敷地内に設置したインスタントハウス、あるいは仮設住宅で行ったりと、工夫して「あえのこと」が営まれたようだ。震災と豪雨に遭っても田の神さまへの感謝は忘れない。能登人の素朴で根強い精神性ではある。

⇒6日(土)夜・金沢の天気

★被災地と地域FM 被災者の安心感にこだわった新潟の事例

★被災地と地域FM 被災者の安心感にこだわった新潟の事例

前回ブログの続き。被災地とFMラジオの役割を調査したことがある。2007年7月16日に震度6強の新潟県中越沖地震が発生した際、柏崎市のコミュニティー放送「FMピッカラ」のスタッフは臨機応変な対応をしたことで評価されていると金沢のFMスタッフから話を聞いたことがきっかけだった。現地を訪れたのは3ヵ月後の10月21日。柏崎駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくく、復旧は半ばという印象だった。FMピッカラはそうした商店街の一角にあった=写真、当時=。

ヒアリングに対応してくれたのはパーソナリティーの船崎幸子さんだった。FMピッカラの公式サイトをチェックするとあれから18年になるが現役のパーソナリティーとして頑張っておられるようだ。震災当日の話はリアリティがあった。祝日の午前の静けさを破る揺れがあったのは午前10時13分だった。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急放送に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備をしていたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害時の緊急編成は24時間の生放送とした。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し時刻、物資の支給先、仮設浴場の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。

なるほどと思ったのは、行政からの一方的な情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある情報として伝えたいという想いだった。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「どこそこのお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報だった。また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。

24時間放送の緊急編成は8月25日まで続けた。この間、応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」とスタッフを気遣うメールが届いたほどだった。この話を聞いて、被災地での地域メディアの果たす役割について考えさせられた。

⇒29日(土)夜・金沢の天気  はれ

★晩秋の兼六園、松の古木に「りんご吊り」、紅葉の絨毯に風情

★晩秋の兼六園、松の古木に「りんご吊り」、紅葉の絨毯に風情

金沢21世紀美術館に近い、兼六園の入り口の坂の一つ、真弓坂の近くを通ると、枝を大きく広げた松の古木に雪吊りが施されていた=写真・上=。兼六園では今月1日から雪吊りが始まり、唐崎松(からさきのまつ)などの名木に順次、雪吊りが施されている。木の横にモウソウ竹の芯(しん)柱を立て、柱の先頭から縄をたらして枝を吊る。天を突くような円錐状の雪吊りはアートのようにも見え、そして、樹木を守り庭園の価値を高める作業でもある。

雪吊りは一般的な称し方で、画像のようなモウソウ竹の柱の先頭から縄をたらして枝を吊る方法は、金沢では「りんご吊り」と呼ばれる。この名称は、金沢では江戸時代に庭にリンゴの木を植えていて、果実がたわわに実ると枝が折れるのを補強するためそのような手法を用いたようだ。それが冬の樹木にも応用されたと伝えられている。このほかにも、竹を立てて縄を張る「竹又吊り」や、低木の枝を全て上に集め、縄で結ぶ「しぼり」など樹木の形状に応じてさまざまな雪吊りが施されていて、12月中旬ごろまで800ヵ所で行われる。

晩秋の兼六園の名所は「もみじ山」とも称される山崎山だ。高さ9㍍ほどの、いわゆる築山(つきやま)、造られた山だ。山頂にある茅葺き屋根の四阿(あずまや)からは兼六園の紅葉が見渡すことができる。ここから眺める景色は唐崎松の雰囲気とはまったく異なる風景で、カエデやトチノキなどが赤や黄に色づいている。そして、山のふもとの地面には紅葉の落ち葉がまるで絨毯のように広がっている=写真・下=。地面いっぱいに落葉した風景はやはり晩秋のこの時期だけしか見れない風物詩ではある。

雪吊りと紅葉、そして落葉の絨毯。まるでいいとこどりの情景に風情を感じながら眺めていると、気のせいかふと冷たい風を感じた。そしてサラサラと落ち葉が降ってきた。冬の足音のように聞こえた。

⇒27日(木)夜・金沢の天気   はれ

☆冠雪の白山を眺め 紅葉の那谷寺を歩く

☆冠雪の白山を眺め 紅葉の那谷寺を歩く

紅葉も散り始めている。きょう午前中は寒冷前線も遠ざかり、石川県内は秋晴れだったので、加賀地方へドライブに出かけた。小松市の木場潟周辺は白山がよく見えるので向かった。

白山は今月18日からの寒波で冠雪していた=写真・上=。「風かをる越しの白嶺を国の華」。江戸時代の俳人、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で加賀を訪れたときに詠んだ句だ。白山のまわりには、さわやかな風が吹き渡っていて、まるで国を代表するような山だ、と解釈する。白山は北陸3県(石川・富山・福井)のほか岐阜県にまたがる標高2702㍍の活火山で、富士山、立山と並んで「日本三名山」あるいは「三霊山」と古(いにしえ)より称される。奈良時代には禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれた登山ルートが開拓され、山岳信仰のメッカでもあった。2023年5月に白山と下を流れる手取川がセットになってユネスコ世界ジオパークに認定されている。

木場潟周辺から白山を望むと、ふもとの山々は紅葉の盛りで、白山の冠雪の白さがいっそう引き立つ。山容は穏やかでやさしいが、ひとつ気になったのは眺望所の「クマの出没注意」の貼り紙。クマよけの鈴を無料で貸し出すとのこと。「白山を眺めるもいいけど、油断しないで」との行政の配慮なのだろう。

その後、小松市にある名刹、那谷寺(なたでら)を訪れた。「石山の石より白し秋の風」。芭蕉が那谷寺で詠んだ『奥の細道』の句だ。奇岩がそびえ立つ景観で知られ、紅葉の名所でもある。境内ではモミジや、カエデなどが赤々と燃えて、見事な景観だった=写真・下=。

境内を巡っていて、「紅葉良媒(こうようりょうばい)」という四字熟語が脳裏に浮かんだ。男女のカップルが紅葉を見に行くことがきっかけとなって良縁が結ばれるという意味の言葉だ。さらに、奇岩がそびえ立つ那谷寺はパワースポットとしても知られ、若い人たちにとっては人気がある。

展望台から臨んだ「奇岩遊仙境」(国の名勝指定)。遊仙境には、寺でありながら赤い鳥居と稲荷社が点在するのが見える。パンフによると、奈良時代に創建された白山信仰の寺院とのこと。確かに、那谷寺の周辺から白山が見え、青空に映えた冠雪の白山はじつに神々しい。神社のような寺、そんな雰囲気を感じた。ちなみに拝観料は大人1000円。強気な価格設定だ。

⇒22日(土)夜・金沢の天気   くもり

★震災の能登にインバウンド観光客 ダ-クツーリズムの流れか

★震災の能登にインバウンド観光客 ダ-クツーリズムの流れか

「ダ-クツーリズム(Dark tourism)」という言葉を初めて耳にしたのは、去年元日の能登半島地震で最大震度7の揺れが観測された志賀町香能(かのう)地区を3ヵ月後の3月4日に見て回ったときだった。帰りに現地と近い富来地区のコンビニに立ち寄った。駐車場で外国人男性2人が警官から職務質問を受けていた。2人は「名古屋」ナンバーの車で来たようだ。店舗に入るためその横を通ると、警官がどのような目的で能登に来たのかと尋ねていた。すると、外国人は「ダークツーリズム」と答えていた。その後、外国人たちはどこをめぐったのかは知る由もないが、今にして思えば、おそらく香能に向かったのだろう。

ダークツーリズムは日本では使われていない言葉だが、欧米では被災跡地や戦場跡地などを訪ね、死者を悼むとともに、悲しみを共有する観光とされている。能登半島地震は世界のメディアでも大きく報道されたことから、インバウンド観光客がダークツーリズムに能登を訪れても不思議ではない。ただ、日本では「被災地への物見遊山はやめとけ」としかられそうだが。

確かに能登半島ではこのところインバウンド観光客をよく目にする。これはことし9月18日午後3時ごろに撮影したもの。輪島市の白米千枚田に立ち寄ると、稲刈りは半分ほど終わっていたが、多くの観光客が訪れていた。そこでもインバウンド観光客が目立っていた。中には、展望ができる高台から、わざわざ下に降りてあぜ道を歩いて見学するグループの姿があった=写真=。

地震により1004枚ある田んぼの8割でひび割れが生じたとされ、ことしは250枚しか耕されなかった。そのひび割れの現場を見たり、強風などで稲が倒れてまだ刈り取りが行われていない田んぼの様子を観察するためだろうか、倒伏した稲を撮影する姿もあった。欧米からと思われるインバウンド観光客の場合、危険とされる場所であっても、あえて現場に行く。ダークツーリズムは徹底した現場主義なのだろう。

能登の観光名所となっている奇岩など風光明美な景観と、震災後の光景を比較して眺めると、大地の造形物は何千年、何万年と歴史を刻みながら少しづつ姿を変えきたのだと実感することがある。その意味で、いまの能登は地球のダイナミズムを感じさせる「ジオパーク(Geopark)」でもある。ダークツーリズムとしてインバウンド観光客を積極的に受け入れるチャンスなのかもしれない。

⇒10日(月)午前・金沢の天気   あめ

☆秋深まり紅葉見ごろ 能登地震の公費解体は年末までに完了

☆秋深まり紅葉見ごろ 能登地震の公費解体は年末までに完了

きょうの金沢は雨模様で日中の気温は15度と秋の深まりを感じる一日だった。市内で買い物をした帰りに、兼六園周辺を車で走ると紅葉が見ごろとなっている場所がいくつか目に入ってきた。その一つが金沢市役所近くにある「しいのき迎賓館」(旧県庁)と「四高記念館」に挟まれた通りで、「アメリカ楓(ふう)通り」と呼ばれている。樹木のアメリカ楓は別名で、正式には「モミジバフウ」。原産地がアメリカだったことからアメリカ楓と呼ばれている。空を見上げると赤と曇り空のコントラスが目に映える=写真・上=。

兼六園にも「紅葉山」とも称される名所がある。本来の名称は「山崎山」。高さ9㍍ほどの、いわゆる築山(つきやま)、造られた山だ。雪吊りの唐崎松の雰囲気とはまったく異なる景色で、カエデやトチノキなどが赤や黄に色づく。山頂にある茅葺き屋根の四阿(あずまや)からは兼六園の紅葉、そして雪吊り作業の様子を見渡すことができる。天気予報ではあさって11日から晴れ間がのぞくようだ。

話は変わる。このブログで何度か取り上げているが、去年元日の能登半島地震と9月の能登の記録的な大雨で損壊した家屋の公費解体が遅れている。石川県の馳知事はこれまで10月末の完了を明言していたが、おととい(7日)の記者会見で10月末時点で公費解体を終えたのは申請棟数の95%に当たる4万56棟だったと述べた(地元メディア各社の報道)。そして、残り2106棟については、年内の完了を目指すと完了目標を切り替えた。

現実はどうか。地震と豪雨で被害が大きかった能登北部は輪島市(申請件数1万2523棟)で解体率は95.8%、珠洲市(同8449棟)は同98.7%だが、半島の中部に位置する七尾市(同7175棟)は同83.3%にとどまっている。七尾市での解体作業が遅れているような数字だが、同市では解体作業に戸惑う被災者への配慮から申請期限を8月末までとしたことが影響しているようだ。輪島市などは5月末を申請期限としていた。申請が遅れた分、解体作業は後回しとなったようだ。(※写真・下は、倒壊したままとなっている輪島市中心街の寺院=ことし10月23日撮影)

七尾市が公費解体の申請期限を輪島市や珠洲市になどに比べ遅らせたのには理由があるようだ。自治体が経費を全額負担する公費解体は家屋の損壊が「半壊以上」の被害認定を受けることが必要となる。一方で半壊以上の家屋には修理費用の一部(限度70万円)を自治体が負担する「応急修理制度」もある。ここで半壊の被災者は迷うことになる。解体か修理か、と。以下憶測だ。輪島市、珠洲市は震度6強以上の地区が多く、七尾市は震度6弱の地区が多かった。この揺れの強弱の違いで、同じ半壊でも多少の違いがあったのではないか。公費解体を行い新築するか、あるいは修理して住み続けるか。思い悩んだ被災者が七尾市では多かったということだろうか。

⇒9日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆能登地震の公費解体は道半ば七尾78% 災禍犠牲700人超え 

☆能登地震の公費解体は道半ば七尾78% 災禍犠牲700人超え 

去年元日の能登半島地震からきょう31日で1年10ヵ月となる。災害の現状はどうなっているのか。石川県では、震災と9月の記録的な大雨で半壊以上となった建物を所有者に代わり自治体が撤去する公費解体についてこれまで「10月までに終える」としていたが、今月末の完了は困難になったとして「概ね完了」との表現に切り替えている。では、その「概ね」とは実際どの程度まで進捗しているのか。

県が公表した「公費解体の状況」(速報値・今月27日時点)によると、解体見込の4万4953棟のうち解体が完了した棟数は3万9576棟で、解体見込数から撤去に時間を要する工場や修繕予定が入るなどした「別管理建物」2129棟を差し引いて換算すると、解体率は92.4%となる。これは全体的な数値で自治体別で見てみるとかなりのバラツキがある。穴水町の解体率は98.6%でまもなく終了をイメージするが、七尾市は77.9%と道半ばだ。1500棟ほどが解体されずに残っているのだ。

同市の和倉温泉に行くと被災した温泉旅館などが手付かずのままとなっていて、時間が止まったような光景のところもある。和倉温泉旅館協同組合に所属する20軒のうち、現時点で一般客を受け入れているのは7軒だが、今年中にさらに2軒が再開する。そして、老舗旅館の加賀屋は来年2026年度中に本館ならびにグループ旅館合わせて4軒の営業再開を目指している。和倉温泉は能登の観光産業の柱でもある。復興の弾みとなることに期待したい。(※写真は、能登復興を呼びかける幕=ことし5月3日・七尾市で撮影)

能登半島での震災と豪雨による災害関連死を石川県と各自治体は審査会(医師、弁護士5人で構成)を設けて認定している。地元メディア各社の報道によると、今月29日の審査会で震災による関連死として新たに5人が認定された。震災の関連死は富山、新潟両県の13人を含め計456人、直接死228人を合わせると684人となる。これに豪雨による死者19人を含めると災禍犠牲者は703人となる。

関連死と簡単に述べたが、痛ましい話が多い。自治体は遺族の承諾を得て関連死の状況を一部公表している。七尾市で亡くなった50代の男性のケース。自宅で被災し、震災によるとストレスに加え、道路事情が悪い被災地での勤務などにより、心身に負担が生じて急性心筋梗塞のため死亡した。能登町の80代の女性の場合は、自宅で被災後に近くの避難所へ。その後、親戚宅へ移ったが悪路の長時間移動や避難生活、慣れない場所での生活環境の変化で心身に負担が生じた。持病の影響もあり、十二指腸憩室穿孔で死亡した。自殺者が関連死として認定されたケースもある。冥福を祈りたい。

⇒31日(金)夜・金沢の天気   あめ

★万博フィナーレ 小さな心臓から大屋根リングまで感動の記憶

★万博フィナーレ 小さな心臓から大屋根リングまで感動の記憶

世界158の国・地域が184日間にわたって歴史・文化や最先端のテクノロジーなどを発信した大阪・関西万博がフィナーレを迎えた。きょう午後、NHKテレビで閉会式を視ていた。大阪府の吉村知事は閉会のあいさつで、警備担当者や医療従事者、ボランティア、児童生徒を引率した学校の教員など、様々な立場で万博に携わった関係者を挙げて、それぞれに「ありがとう」を8回も述べていたのが印象的だった。石破総理は公式キャラクター「ミャクミャク」に内閣総理大臣感謝状を授与したことを紹介していた。閉会式のコンセプトは、万博に関わったすべての人へ「感謝」を伝えることが目的だったようだ。自身も6月に大屋根リングを訪れている。以下、印象に残っていることをいくつか。

万博に来た甲斐があったと思ったのは、iPS細胞で創られた「小さな心臓」が鼓動する様子を見たときだった。円筒形の容器の赤い培養液の中でドク、ドクと動いていた。これを眺めていると、生命の源(みなもと)は心臓だと改めて思うと同時に、鼓動するその姿に生命の神秘を感じた。小さな心臓は大阪大学のチームが作成したもので、コラーゲンの土台にiPS細胞由来の心筋細胞を植え込み、3.5㌢ほどの原型をつくったと説明書きにあった。「iPS心臓」の未来がきっとやってくる、と想像を膨らませた。(※写真・上は「PASONA」パビリオンの「iPS心臓」)

万博について周囲の人と話していて、けっこう受けたのが「ワニの肉」の話。「オーストラリア」パビリオンの前にショップがあり、「クロコダイルロール」と赤ワインを注文した=写真・中=。説明書きには「ワニの切り身・ネギ・レモンマートルマヨネーズ・ブリオッシュロール」とあり、どんな食感がするんだろうと好奇心がわいた。値段は1650円。オーストラリア人らしき女性販売員から「ワニ、オイシイデスヨ」と片言の日本語で手渡された。少々ドキドキしながら口にした。ワニの肉は硬いイメージだったが、鳥肉のような柔らかさだった。そして、これがオーストラリア産の赤ワインとぴったりと合う。まさにマリアージュ。ちょっとした海外旅行気分が味わえた。

万博のシンボルは何と言っても大屋根リング=写真・下=。「多様でありながら、ひとつ」という万博の理念を表す建築物でもある。リングの下は歩ける通行空間であると同時に、雨風や日差しなどを遮る快適な滞留空間でもある。そして、構造が神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合の工法を加えた建築であり、和の風格を感じさせる。最大の木造建築物としてことし3月にギネス世界記録に認定されている。正式な英語記録名は「The largest wooden architectural structure」。大屋根リングは万博終了後に一部を残して解体される。

万博協会は解体後の木材を無償で譲渡することにしていて、その一部は能登半島の尖端に位置する珠洲市に「復興公営住宅への活用」を条件に譲渡することが内定している(メディア各社の報道)。万博会場から能登半島地震の被災地へ。第二のステージはある意味で地味ながら、被災地の人々の安らぎの空間として活用される。

⇒13日(月)夜・金沢の天気  はれ

☆能登で一青窈さん熱唱 デビュー曲「もらい泣き」のエピソード

☆能登で一青窈さん熱唱 デビュー曲「もらい泣き」のエピソード

きのう「古墳まつり」が開催された中能登町にきょうも行ってきた。町制20周年記念の音楽イベントが開催され、町ゆかりの歌手の一青窈さんが出演するというので、ファンの一人として足を運んだ。前回ブログで取り上げた国の史跡「雨の宮古墳群」は眉丈山(標高188㍍)の山頂にあるが、その山のふもとの街に「一青」という地名がある。一青窈さんの先祖の地でもある。彼女はこの町出身の母親と台湾人の父親との間で生まれた。そして、ヒット曲に『ハナミズキ』という曲があるが、この町にも「花見月(はなみづき)」という地名の田園地帯が広がる。

音楽イベントでは、公園で設けられた特設ステージでトークショーがあり、町長の宮下為幸氏と一青窈さんが出演した。町と関わるエピソードが披露された。「もらい泣き」でデビューした時、町の酒造蔵から純米吟醸酒「一青(ひとと)」をお祝いにもらい、感動したと話した。また、きょうは震災の仮設住宅を訪れ、入居する被災者と交流したことにも触れた。

ステージでは一青窈さんが『もらい泣き』や『ハナミズキ』など7曲を歌った。意外だったのは『アンパンマンのマーチ』だった。「なんのために 生まれて なにをして  生きるのか こたえられない なんて  そんなのは  いやだ!  今を生きる ことで  熱い  こころ  燃える だから 君は いくんだ ほほえんで・・・」。初めて聴いた。一青窈さんがしっとりと歌うと心に響く大人の歌になる。トークと歌謡ショーで40分余り、楽しませてもらった。(※ステージは撮影・録音が禁止だったので、写真はない)

町に入ると、地域の人たちの一青窈さんに対する思い入れを感じる。町では、JR西日本金沢支社に働きかけ、2015年にJR七尾線の駅で列車の発着を知らせるメロディーをヒット曲『ハナミズキ』に変更してもらった。町内にある良川、能登二宮、能登部、金丸の駅で、電車が通るたびにこのメロディーを聴くことができる。

「♪果てない夢が ちゃんと終わりますように 君と好きな人が百年 続きますように」。駅で列車が近づいてくると、この歌がじんわりと心に響いてくる。

⇒12日(日)夜・金沢の天気   はれ