⇒トピック往来

★タマムシと輪島塗の輝き

★タマムシと輪島塗の輝き

  先日、金沢大学「角間の里山自然学校」で昆虫採集の集いがあった。いま人気のゲーム「ムシキング」の影響もあってか、あるいは夏休みの宿題の便乗か、このところ子どもたちの参加が多い。ある子どもが「これキラキラムシだね」と捕ってきたムシを見せてくれた。それは、和名・ヤマトタマムシだった。

   タマムシと聞いて、6年前の番組のことを思い出した。当時、輪島塗の産地・石川県輪島市でタマムシを使った壮大な作品づくりが行われた。東南アジアのジャングルからタマムシの羽を拾い集め加工し屏風や茶釜など30点にも上る輪島塗に仕上げるとうもの。タマムシを使った工芸品と言えば、法隆寺の国宝「玉虫の厨子」が有名だ。実に1300年の時を経ているが、それ以降、タマムシを使った作品が鎌倉や江戸時代にも見当らない。乱暴な言い方かもしれないが、「玉虫の厨子」から1300年ぶりの作品ではないか、と思ったりもした。

   タマムシの羽は硬い。鳥に食べられたタマムシは羽だけが残り、地上に落ちる。東南アジアのジャングルで現地の人を雇い、拾い集める。それを輪島に持ち込んで、レーザー光線のカッターで2㍉四方に切る。それを黄系、緑系、茶系などに分けて、一枚一枚漆器に貼っていく。江戸期の巨匠、尾形光琳がカキツバタを描いた「八橋の図」をモチーフにした六双屏風の大作もつくられた。これには延べ2万人にも上る職人の手が入った。

   この作品を発注した岐阜県高山市の美術館「茶の湯の森」のオーナー、中田金太氏から依頼を受けて私は番組をプロデュースした。タマムシで輪島塗を作る、タマムシの羽を拾い集めるという着想は中田氏のオリジナルである。すべての工程をお金で換算すれば数億にも上る「玉虫工芸復活プロジェクト」であった。完成したこれらの作品はすべて茶の湯の森に納められた。輪島塗業界に新たな新風を吹き込んだ中田氏のアイデアの面白さを番組に盛り込んだ。

   見る角度によって異なる輝きを放つ。「玉虫色の決着」などと政治の世界ではいまでもよく耳にする。俗な言い方は別として、輪島塗の高度な技と生物の輝き、それを考え出す人の着想の面白さは一見の価値がある。タマムシの四文字から連想ゲームのようにして千文字ほどの文章を書いてしまった。

⇒30日(火)朝・金沢の天気  晴れ   

☆小泉総理と徳川幕府

☆小泉総理と徳川幕府

  先日、名古屋市を訪れた際、徳川美術館に立ち寄った。昭和10年(1935)の開館以来70周年に当たり、尾張徳川家に伝えられる名品や家康の甲冑など見ごたえのある品々だ。しかし、国宝「源氏物語絵巻」は11月12日から特別展として公開され、今回は複製のダミーが展示されていた。これで入館料1200円は高い、と思いつつも名古屋人の商売上手に脱帽した。

   ところで、徳川と言えば私は小泉総理を思い出す。以下は「風が吹けば桶屋が儲かる」と言ったような話の展開になる。朝日新聞「AERA」スタッフライターで軍事問題に詳しい田岡俊次さんは「今の日本は江戸幕府時代の加賀藩と同じだ」が持論の人だ。東西の冷戦に終止符が打たれ、西側の代表アメリカが名実ともに世界のナンバー1となった。これは、天下分け目の戦いといわれた関が原(1600年)で東軍が勝ち、徳川家康が幕府という統治機構を築いたことと重なる。加賀の前田利家は関が原の戦いの前年に没するが、病床にあった時、見舞いに来る家康を「暗殺せよ」と家臣に言い残しこの世を去る。遺言は実行されなかったが、「謀反の意あり」と見抜かれ、利家の妻・まつは江戸で人質となり、その後も加賀藩は百万石の大藩でありながら外様大名の悲哀を味わうことになる。日本も太平洋戦争でアメリカに宣戦布告して、4年後に占領統治される。いまだに国連憲章の「旧敵国条項」は生きている。

   地元・金沢ではこんな話が伝わっている。前田家は、徳川家の警戒心を解くことに腐心した。このため、自らの金沢城に戦時の司令塔となる天守閣は造らなかった。また、三代藩主の利常は、江戸城の殿中ではわざと鼻毛を伸ばし、立ち居振舞いをコミカルに演じたそうだ。ここまでやって加賀藩は264年続いた幕藩体制を生き抜いた。駐留米軍に「思いやり予算」と称して、15億ドルをポンと「上納」する日本。田岡さんの「日本は加賀藩と同じ」という論拠は、地元では実に理解しやすい話なのだ。

   そろそろまとめに入る。小泉さんの鼻は長くて高くてかっこいいが、ローアングルのカメラから顔に寄った時の映像で、鼻毛が覗くのが気になる。特にNHKのハイビジョンカメラだと鮮明に見えるときがある。「何もそこまで(加賀藩を)真似することはないだろう」と笑うのは私だけか…。

   先日宴席があり、この話をマンスフィールド財団の政府間交流事業で金沢を訪れていたアメリカ人弁護士(35歳)にしたら、「このユーモアはアメリカ人にも通じる」と喜んだ。彼は20代に金沢に4年間滞在した経験があり、日本語と日本史に対する造詣は深い。宴席後のカラオケで、彼はこの話のお礼にと十八番の沖縄の「島唄」を歌ってくれた。これだけの話である。他意はない。

⇒23日(火)朝・金沢の天気 雨

★選挙に「ロマンを感じる」世代

★選挙に「ロマンを感じる」世代

   新聞紙面から「国民新党」や「新党大地」はもう消え去りつつある。最近の新党「日本」ですらもう時間の問題かもしれない。ことほどさように、時間の流れは速い。そして、マスメディアの関心事は広島6区(亀井静香氏VS堀江貴文氏)がさらっている。けさ、フジテレビ系の朝の情報番組でコメンテイターが「なんで自民党と」としつこく堀江氏に質問した。堪忍袋の緒が切れた様子の堀江氏が「くだらない質問には答えたくない」と憮(ぶ)然とした。こうした緊張した場面には生中継ならではの醍醐味がある。おそらく収録だったらカットされていたに違いない。見ている側からすれば、堀江氏が憮然した理由は「理解の範囲」である。揚げ足を取るための繰り返しの質問は見ている側も不愉快に感じる。

   これからの話はおそらく50歳代の後半からの世代の人のごく一部が理解できる話かも知れない。先日、私のかつての業界の先輩と2時間ばかり話をする機会があった。先輩いわく。「今回の選挙にはロマンを感じる」という。「何のロマンですか」と問うと、「革命のロマンだよ。われわれは70年安保の世代。権力との対峙に明け暮れて、自民党=体制をぶっ潰すことを考えていた。細川(政権)はブルジョワ革命だと思っていたので魅力はなかった。でも、今回の小泉は戦略的な手法の革命だね。感じるんだよロマンを」と。

   上記の話には少し説明がいる。先輩は東京の私大卒。70年安保では国会付近でのデモに参加し、警察に「パクられた(逮捕された)」経験がある。過激派ではないが、つい最近までパクられた当時のヘルメットを家族に見つからないように隠し持っていた。近く早期退職するので、「一応人生にケリをつけたい」と思い出の品は全部捨てた。ヘルメットも捨てた。彼には、警察官僚だった亀井氏や自民党最大派閥の綿貫民輔氏は「自民党そのもの」に思えてならない。「その連中と小泉は闘っている」と。「右翼に共感する左翼もいる。左翼に共感する右翼もいるんだ」と先輩は言う。「靖国を信奉する小泉は右翼だが、共感できる」のだそうだ。

   そして「戦略的な手法の革命」のことである。レーニンが「すべての権力を会議(ソビエト)へ」と発し、全ロシア労働者・兵士ソビエト大会で革命に反対するメンシェビキを追い出しソビエト権力の樹立(1917年)した過程と似ている、と言う。「権力闘争の何たるかを小泉は知っている」と先輩は妙に関心して見せるのである。若かりしころの「革命のロマン」をイメージさせているのだ。

   先輩と別れた後で、最後に一つ質問をすべきだったと悔やんだ。「ところで先輩、投票に行くんですか」と。いまさら電話で質問をするのも気が引けるので、以下想像する。先輩は投票には行かないだろう。ロマンと投票行動は違う。「小泉には共感する」が選挙区は違う。その選挙区の自民党候補者は70歳を過ぎた老人である。先輩がその候補者に一票を投じるとは到底思えない。

⇒22日(月)夕・金沢の天気  雨

★流しそうめんと選挙

★流しそうめんと選挙

    旧盆も終わり、あいさつ文は「残暑お見舞い」となった。先日、学生が流しそうめんのキットをつくった。キャンパスの山林から調達した竹でつくったなかなかの優れものである。問題はどうやって数㍍もある竹を真っ二つに割いたか、である。まず、ナタで円の面を割く。その後、棒を裂けた部分に差し込んで金槌で棒の両端叩きながら割いていく。一気に割くと真っ二つにならなら場合もあるので結構慎重さを要する。

     そうしてできた竹に水を流し、そうめんを上流から手のひらに乗るくらいの分量で流していく。水流が速すぎるとキャッチが難しい。加減というものがある。流しそうめんでポイントはつけタレだろう。水切りが十分にされないまま食べるとすぐタレが薄まってしまう。そうめんをよく振って水を落としてから食べるのだ。右利きの人は水の流れる方向の右側に座った方がよい。箸で流れを棹差すようにして待ち構え、そうめんが箸に絡まるタイミングを見計らって一気にすくい上げる。これがコツだ。

     ところで竹を割ったように、スパっと自民は割れた。郵政民営化反対のドン、綿貫民輔氏と亀井静香氏らが新党を旗揚げすることになった。党名は「国民新党」という。傑作なのはその活動方針だ。「小泉恐怖政治の打破」「破壊でない真の改革」である。どこかの国のように、大統領権限を振りかざして民政を圧迫するのであれば恐怖政治とも表現できようが、総理が解散権を行使し、対立候補を立てたくらいのことを恐怖政治と称しては「言葉の愚弄」となる。語気を強め、他人が嫌悪する言葉を吐いても、誰にも意図するところは伝わらない。

    新党の結成で、綿貫氏の地盤、富山3区の自民党県連は胸をなでおろしているだろう。綿貫氏は富山県の自民党のドンでもある。無所属で立候補した場合、これまでのことを恩義に感じあるいは義理立てして応援に回る人もいる。しかし、新党となると話は別である。「オレは自民党だから、他党は支持できない、従って綿貫氏は申し訳ないが…」と支援を断る理由になる。県連もおそらく「他党を応援するのはよろしくない」とお触れを出すだろう。それにしても綿貫氏は78歳、新党の代表をよく引き受けたものだ。 冷静に考えれば哀れでもある。

    そうめんは好き嫌いが分かれる麺類である。うどんやそばとは違って食感が薄いからだ。それでも流しそうめんだと風流や涼感という別の要素が加わって食べる人は多い。新党も同じで「改革を断行しそうだ」などといった期待感やムードが醸成されれば、その党の候補者をよく知らなくても一票を投じるものだ。それがこれまでの民主党だった。ところが、その新味が民主党には感じられないという意見をよく聞く。実際、ブログを閲覧しても、そのような書き込みが多いのではないか。ましてや、綿貫氏や亀井氏の新党に期待感がわくだろうか。水分が抜けて絡まって食えないそうめんのような感じがするのだが…。

 ⇒17日(水)午後・金沢の天気  雨  

★金沢を描くということ

★金沢を描くということ

      画家で金沢美術工芸大名誉教授の百々(どど)俊雅さんと同大教授の小田根五郎さんの絵画展「金沢百景展」(8月11日-16日)が金沢市武蔵町の「めいてつエムザ」で開かれている。

    2001年から2004年まで足掛け4年にわたって、北陸朝日放送で放送された番組「金沢百景」で紹介された身近な風景を描いた油絵やパステル画を含む150点を中心に展示している。金沢の伝統的な街並みに加え、JR金沢駅前や新県庁舎、新しい商店街にも百々さんと小田根さんの目線が優しいタッチで注がれている。一枚一枚を眺めていると、金沢の街を散策した気分になる。

   かつて、2人をテーマにしたスペシャル番組の収録で、絵画制作の苦労話などうかがう機会があった。その中で印象に残るエピソードをいくつか。小田根さんが金沢の古い民家を描いていた。すると、家の女性が出てきて、「絵描きさんに描いてもらえるほどの価値があるのならこの家を残そうと思います」と言う。跡継ぎの女性は改築して保存しようか、いっそうのこと壊して新築しようかと迷っていた。小田根さんの真剣な眼差しを見て、女性は保存を決心したそうだ。

    百々さんは白髪の長身だから目立つ。路肩で描いていると、「ご苦労さまやね」とわざわざお茶を差し入れてくれたりする人もいる。弁当忘れても傘忘れるなーといわれるくらい金沢の天気は変わる。百々さんは雨が降っても絵が描ける場所を確保することに苦心した。屋根の下、橋の下、ビルの中、商店街のアーケードとありとあらゆる避難場所を探す「雨傘名人」となった。金沢市内でざっと100ヵ所にも。北陸・金沢でスケッチをするにはこういうことが話題になる。

    絵画展の会場では絵はがき=写真=も販売されている。ちなみに、左から県立音楽堂、金沢城二の丸、金沢城石川門である。また、番組と同名の「金沢百景」という書籍もある。変形A4判で132ページ、能登印刷出版部の発行で、会場ほか石川県内の主な書店で2700円で販売されている。

 ⇒13日(土)午後・金沢の天気  曇り

☆幻影と化した猿

☆幻影と化した猿

  ちょっと奇怪な写真を2枚お見せしよう。ブログにつける写真の多くは、ケータイ(携帯電話)のカメラ(100万画素)で撮っている。ケータイはいつも持ち歩いているので、シャッターチャンスには恵まれる。上の写真は7月23日、金沢大学角間キャンパスの創立五十周年記念館「角間の里」で撮影した。金沢市内の保育園がこの記念館で実施した園児のお泊り保育でのこと。その時のおやつにスイカが出た。保母さんたちが器用にスイカの中身をくり抜き、目と鼻と口も抜き、最後にトウモロコシの「頭髪」をかぶせた。実物はちょっと愛嬌のある「スイカくん」なのだが、逆光で撮影した写真はまるでエイリアンの凄みがある。口の中の赤が生物を感じさせ、向かって左の目が光っているので宇宙人のように見える。

  下の写真は24日に「いしかわ動物園」で撮影した2頭のチンパンジーの姿。くもり空で夕方16時50分。遠くにいたのでズームを最高にした。もともと黒毛で覆われているのでまるで影絵のようになった。核戦争で人類が滅亡し、次にサルが地球を支配するという映画「猿の惑星」のシーンとイメージが重なる。しかも、影絵だとそれがなんとなく深層心理の世界を表現するシュールレアリズムの絵画のように思えるから不思議だ。サルバドール・ダリ風にタイトルをつければ「幻影と化した猿」。「もはや誰<ヒト>もいなくなった死の空間に幻影と化した猿が群れる。未来の終わりも始まりをも予感させる奇怪な躍動」とでも説明しようか…。

   写真の技術で言えば完全な失敗作だ。私が写真家のはしくれだったら恥ずかしくて出せない。ただ、テレビや雑誌で見かける奇怪な写真とでも思って楽しんでもらえばいい。それも真夏だからなんとか理由をつけて掲載させてもらった…。

⇒27日(水)午前・金沢の天気 曇り

★あるカバの夏物語

★あるカバの夏物語

水槽にもぐったままのカバと目線が合った。じっとこちらを見つめる大きな眼(まなこ)だ。しかも見つめると人を離さない、眼力がある。この眼で50年余りも人を引きつけてきたのだろう。連日30度を超す真夏日、石川県能美市にある「いしかわ動物園」を先日ぶらりと訪れた。もうすでに夏バテ気味のチンパンジーの「イチロウ」やゾウの「サニー」に比べ、水中でじっとしているカバの「デカ」はなぜか存在感がある。

  いしかわ動物園へは7年ぶりだった。この動物園はもともと昭和33年(1958年)に金沢市卯辰山に開園した民間の娯楽施設だったが、経営不振のため、平成5年(93年)に閉鎖となった。それを石川県が買い取り、財団を設立して、平成11年(99年)に新規に開園した。目が合ったデカは紆(う)余曲折を経た動物園をじっと見続けてきた生き証人であり、その経歴は物語にもなる。

  デカが金沢の動物園にやってきたのは開園からしばらくたった昭和37年(62年)だ。その前は、「カバ子」と言い、キャラメルのメーカー「カバヤ」のキャンペーンで全国めぐりをしていた。昭和28年(53年)に生後1歳でドイツから日本にやってきてずっと全国巡業が続いた。戦後で動物に飢えていた子供たちの間で人気を博し、岡山県のキャラメルメーカーを一躍、全国ブランドに押し上げたのもデカの功績だ。キャラメルメーカー、そして動物園と、デカがもたらしたブランド価値は一体何億円の換算になるのだろう。

  デカが全国ニュースになったことがある。平成11年5月20日、デカが新しくできた「いしかわ動物園」へ引っ越した日だ。デカを乗せたトラックは石川県警のパトカー1台、白バイ8台に先導され、金沢から新動物園までの27ヵ所の信号をノンストップで走った。交通混雑を避けるために動員された警察官は80人にも及んだ。空には取材のヘリコプターが飛び交った。当時、私は地元テレビ局の報道制作部長だった。全国ニュースとして東京キー局に送り込むと、キー局の編集長からさっそく電話があり、「G7の首脳が来日した時のような映像ですね」と言われたの覚えている。

  外国のVIP並みの先導となったのには理由があった。車での揺れがデカに与える心臓への負担が心配され、そこで、ゆっくりとノンストップでトラックを走行させることになった。ところが、移動中のデカは終始落ち着いた様子で、到着後の獣医による診断もまったく問題はなかった。何しろ若いころは9年間も車に揺られて全国行脚をした「ツワモノ」だ、鍛え方が違うのである。
  
  人間にたとえれば百歳を超え「日本一長寿のカバ」というタイトルも持つ。しかし、高齢には勝てず老齢性白内障を患っており目はかなりかすんでいるはずだ。それでも人に愛嬌のある眼を向けるのは、水から伝わってくる振動方向に目を向けるせいだろう。デカが2.5㌧もの巨体を物静かに水槽に浮かべる様はまるで、かつて映画で見た、元銀幕のスターがロッキングチェアでゆっくりと身を揺らす晩年の姿にイメージを重ねてしまう。悲劇もあった。オスの「ゴンタ」(86年死亡)との間に6頭の子をもうけたものの、いずれの子も出産直後にゴンタの虐待を受けて死んでいる。でも、もうそのことは忘却のかなたとなっているに違いない。

  老い先はそう長くない。彼女の最期はおそらく再び全国ニュースになるだろう。「日本一長寿のカバ死ぬ」と新聞社会面の片隅に。カバとは言え、見事な生き様である。(写真提供:いしかわ動物園)

⇒26日(火)午後・金沢の天気  曇り

★「小泉語」で大いに語る

★「小泉語」で大いに語る

   予め断っておきますが、きょうの「自在コラム」は小ネタです。6月4日付は、政府がキャンペーンをはっている夏の軽装「クールビズ」について書きました。ネクタイの男性社員に気兼ねして、冷房が効きすぎるオフィスで我慢している女性社員からもノーネクタイ運動は支持される、との内容でした。

   きのう届いた「小泉内閣メールマガジン」(第192号)は、小泉さんへのインタビュー企画。「おやっ」と思ったのが、「クールビズ」についての小泉さんの感想の下りです。「…オフィスに来ても、皆さんきっちりとネクタイと背広だから、女性はスカートで膝かけをしなければならない。それもしなくていいと。女性はもともとノーネクタイなんですが、男性より薄着だから、何か寒さを防ぐような服装を考えて、電車なり会社に行っていたという人も多かった。ですから、あまり冷房をきかせないということは体にもいいから助かるという声が多いです」。表現は異なるものの、内容としては「自在コラム」と偶然にも同じです。

    私がこのインタビューで注目するのは、小泉さんが目線を低くして、オフィスや電車での光景をイメージして答えていることです。実は、小泉さんの言動は庶民の目線で語るパターンが多く、分かりやすいのです。中曽根さんのように、天下国家を論ずることは稀です。

    そこで、「小泉語」で諸問題を解説してみます。

靖国参拝問題は…
 「坂本竜馬も靖国に祀られているんですよ。A級戦犯を崇めにいくのではありません。だいいち、A級戦犯は死をもって罪をあがなったではないですか」

日中問題は…
 「映画『亡国のイージス』に自衛隊が撮影協力しただけで軍国主義の復活と騒ぎ立てる方が異常ですよ。世界の常識というものを中国人は知らなさ過ぎる。だいたい、副首相が会談をいきなりキャンセルするからな。あの国はえらいよ」

郵政民営化は…
 「民でやれることは民で、と昔から言っているではないですか。反対だったら、何でオレを自民党総裁選で落とさなかったのか、と言いたい」

北朝鮮による拉致問題…
 「2回握手して5人帰して、おまけまでつけた。いまアメリカに行っているけどね。91歳の母親は今ごろ涙ぐんでいるんじゃないかな…」  

   どうです、分かりやすいと思いませんか。以上、小ネタでした。

⇒17日(金)午後・金沢の天気 くもり

☆続・ノーネクタイは楽じゃない

☆続・ノーネクタイは楽じゃない

  マスメディアはもうこの手のニュースは止めたらどうだろう。中央官庁で6月から始まった夏の軽装化の経済効果は1000億円に上るとの試算を生保系の経済研究所がまとめたとの記事がきょう4日付の各紙に掲載された。軽装化に伴う一連の出費は普通に夏物スーツを買うより3万円多いとし、国家公務員の男性25万人分なので75億円、さらに地方自治体や民間企業の12%が「今後、軽装を奨励する」という想定で、国内の男性ホワイトカラー計1500万人にこの数字を当てはめた経済効果が619億円、これに衣料関連の小売業などへの間接的な恩恵も含めた全体の波及効果は1008億円に上るというのだ。

  メディアに対し「止めたらどうだろう」と言ったのは、ノーネクタイの提唱は経済効果より本来もっと崇高な目的があったはずだ。夏のオフィス冷房温度を28度に上げて消費電力を抑制、二酸化炭素の排出量を減らし地球温暖化防止に役立てることだ。働く女性にも支持されるだろう。職場はネクタイに上着の男性優先で冷房がきつい。半袖やノースリーブの女性はカーディガンやひざ掛けで必死に冷房病から自衛している。ノーネクタイがあの悪しきオフィスの光景を変えることになるはずだ。

  机上で描いた経済効果の数字が独り歩きするほど怖いものはない。小中学校でのパソコン教育は当初、アメリカやシンガポールの学校を見て国際的な競争力に遅れるとの危機感から出発した。ところが、いつの間にか「IT革命で経済大国の夢よもう一度」と国の「E-ジャパン構想」の柱になってしまった。また、地上波テレビのデジタル化も、「1台30万円のデジタル対応テレビが国内の3000万世帯で普及したとして経済効果は9兆円」などと家電メーカーを勇気づける産業実験(6月1日付の「自在コラム」参照)になっているのである。国の教育や電波行政が、国民の金融資産1200兆円をいかに消費に回すか、そんなレベルの景気浮揚策の話に成り下がっているのだ。

  「獲らぬタヌキの皮算用」なのか「風が吹けば桶屋が儲かる」なのか、どちらでも構わないが、経済原則を当てはめると物事の本質論が歪められてしまう、と言いたかったのである。

⇒4日(土)午後・金沢の天気 晴れ 

★ノーネクタイは楽じゃない

★ノーネクタイは楽じゃない

  6月の衣替えで、政府がノーネクタイを奨励している。政府が夏の服装でキャンペーンをはるのは、羽田孜元首相の例の「半そでジャケット」以来のことかもしれない。当時、スーツの袖をちょん切って半袖にしただけのファッションにも見え、不評を買ったものだ。本人はいまでも夏はあのルックで通してているが、あれ以来表立って政府が夏の服装でキャンペーンをはることがなかった。でも、今回のノーネクタイはある種の思い入れが自分なりにある。

  私は1991年1月以来、冠婚葬祭を別にして、職場ではずっとノーネクタイを通してきた。当時、ある事情で会社(マスコミ)を辞めたのがきっかけ。その時、会社に残った同僚らが「社蓄」にも思え、ネクタイはその象徴のように感じ嫌悪感を持った。それ以来、ネクタイをすると首が絞まるように感じ、ある種の「絞首恐怖症」になったのである。「なぜネクタイをしないのですか」と問われると、「首に不快感を感じるもので・・・」とだけ説明してきた。その説明が手っ取り早かった。

  しかし、儀礼を重んじる日本の社会でノーネクタイで通すのは至難の業である。目上の人との応対、会議などでジロリと睨まれたこともたびたび。その後に転職した会社(テレビ局)の初めての辞令交付式で、社長から「君はネクタイをしないのかね」と問われ、「ノーネクタイの宇野で通します」と答えると、社長は「そうか、ノーネクタイが君の売りならば、それで通せ」と理解のある言葉をいただいた。それ以来、半ば会社で公認となった。大臣や知事の取材、スタジオ出演、シンポジウムの司会など公の場もこれで通したのである。ただ、先に述べたように、葬式か結婚式か判然としないので礼服は一応、白黒をつけた。

  ところが、金沢大学に再就職したことし4月19日、私はネクタイを締めた。この日、打ち合わせがあり、かつてお世話になった会社をネクタイ姿のまま訪れた。専務に「初めて見た、おーいみんな・・・」と随分と冷やかされた。突然の心変わりのように思えるが、実は大学では周囲のほとんどがノーネクタイなので、「売り」が薄れたのである。自分なりの意地の張り合いがなくなったとも言っていい。むろん、毎日ネクタイで通勤しているわけではない。気分に応じて、である。

  今回の話はこれでお終い。最後にひと言、会社勤めでノーネクタイというのは、性格的にも相当変わった人物が多い。ひねくれているか、アウトローか、腹に一物持っているか、自由人と称すキザ男か、まともな人はいないと思ったほうがいい。これは同じ姿の人物を長らく観察したことから得た経験則である。自分はどのタイプかは分からないが・・・。

⇒3日(金)午後・金沢の天気 晴れ