⇒トピック往来

☆「猿岩石」的な詐欺師

☆「猿岩石」的な詐欺師

 詐欺師という犯罪者をほめるつもりはまったくない。ただ、その手口が人の心理を手玉にとっていて、思わず笑ってしまう。それが詐欺という被害であったことをまだ知らずにいる人の中には、「ささやかな夢」をいまだに抱いている人もいることだろう。そして、私もその詐欺師とどこかで遭遇していいれば、その手口にひっかかったかもしれない。

  その詐欺とはきょう(10日)の地元紙に載った寸借詐欺の記事である。富山市で逮捕された詐欺師は長崎県大村市出身の28歳、無職の青年である。手口はこうだ。「北海道出身だが、バッグを盗まれた。北海道の自宅に帰ったら金を返す」と見ず知らずの人に無心する。そして、「そのお礼にカニとウニのどちらかを後ほど送るので住所を教えてほしい」と借りた現金に添えて海産物を送る約束をする。この手口で去年12月以降、50人から合計50万円をだまし取ったというのが容疑だ。

  人間の心理を巧みについているのは、「北海道」と「カニ」と「ウニ」のキ-ワードを相手に提示し、「お礼に送る」とダメ押しをする点である。余罪は50人、50万円なので、おそらく1万円を貸してほしいと持ちかけたのだろう。日本人は「北海道」「カニ」「ウニ」にほれ込んでいる。金沢市内のデパートでも北海道物産展は人だかりである。1万円を貸して北海道のカニかウニなら利子としては悪くはない。しかも、北海道から海の幸が送られてくるという「ささやかな夢」がある。詐欺師はそこにつけ込んだ。

  もう一つ、この寸借詐欺を容易にした伏線がある。詐欺をはたらいた場所は関西、そして北陸である。以下想像をたくましくして書く。28歳の青年は放浪の旅をしながら日本列島を北上していた。ここであるテレビの場面を思い出さないだろうか。10年ほど前に高い視聴率をとった日本テレビの番組「進め!電波少年」のタレント猿岩石が繰り広げたヒッチハイクの旅である。ヒゲも頭髪もぼうぼうだが、旅人である青年たちの眼は輝いていた。多少のヤラセ臭さはあったが、そのような点を差し引いても人気のある番組だった。

  昔から土地の人は旅する人に情けをかけた。むしろ旅する人に対するあこがれかもしれない。この青年が猿岩石のような風貌だったらどうだろう。ひょっとして被害にあった50人の人たちは、多少のうさん臭さは感じながらも旅する28歳の青年に励ましのつもりで金を渡したのかも知れない。

 逮捕された青年はだました相手の住所を控えていた。青年には更正して働き、そして被害者に現金を弁済し、カニかウニを送ってほしい。それは金額からして可能な目標である。これは人の厚意に報いるということであり、何より自分自身のメイクドラマになるではないか。

⇒10日(土)午後・金沢の天気  はれ 

☆「ネットどぶ板選挙」を読む

☆「ネットどぶ板選挙」を読む

 小沢一郎という人物が民主党の代表になって、どちらが民主でどちらが自民か分からなくなったという声をよく聞く。何しろ4月の代表就任早々でその小沢氏は政策を語るのではなく、開口一番「選挙に勝って、政権を取る。そのためにどぶ板選挙を徹底してやる」(4月10日・NHK番組「クローズアップ現代」)、それだけだった。

 確かに実に分かりやすい。小沢氏の戦略には、民主党の独自色といった概念より、自民党の候補者よりどぶ板選挙を徹底して選挙に勝つこと、それが政権構想そのものだと訴えたに等しい。しかし、その選挙手法はかつての自民党そのものだ。去年9月の郵政民営化を問う総選挙のように、政策の違いがはっきり理解できなければ有権者は戸惑い、しらける。

 逆に「民主党的」なのが自民党だ。きのう6月4日、自民党青年局を中心にした全国一斉街頭行動を行った。「次世代へ繋ぐ安心と安全」をテーマに各都道府県レベルで街頭に立ち、北朝鮮による拉致問題の早期解決や街の安全、食の安心などを政策推進を求めるという内容だ。注目を集めたのが、武部勤幹事長がラジオCMで統一行動への市民参加を呼びかけ、「詳しくは自民党ホームページを見て下さい」とコメントしていたことだ。その自民のホームページを見ると各都道府県でキャンペーンが行われる場所や内容が詳しく掲載されていた。ラジオからインターネットへのメディアを連動なのである。放送媒体やインターネットを使って呼びかけ、全国一斉くまなく街頭に立つという意味ではこれもある意味でのどぶ板と言えるかもしれない。

 そもそも統一行動の呼びかけにラジオを使ういう発想は従来の自民党にはなかったのではないか。おそらく、党広報本部副本部長の世耕弘成氏(参院議員)ら若手が仕掛けたに違いないと思った。というのも、世耕氏らは来年夏の参院選挙で解禁される予定の選挙のインターネット利用を念頭に置いて、すでに党内でワーキンググループを結成し、選挙対策をすでに始めている。つまり、来年の参院選挙は「ネット選挙」が注目され、いかにインターネットをメディアとして駆使するか、放送メディアとインターネットを連動させるか、という選挙戦略に練っているのである。今回の統一行動のラジオCMもそのシュミレーションの一つと見てよい。

 従来の「労組まわり」や「地盤」を歩くどぶ板戦略を踏襲する小沢・民主と、放送メディアとインターネットで「どぶ板」戦略を打ち出す自民が鋭く対立するのが来年の選挙である。どちらのどぶ板が勝つのか。こんな視点で見ると、随分と選挙も面白く見えてくるのではないだろうか。

⇒5日(月)午前・金沢の天気   はれ

★その後の「南極物語」

★その後の「南極物語」

  動物はどちらかというと苦手で、犬は飼ったことがない。しかし、犬をテーマに映画では2度涙を流した。「ハチ公物語」(神山征二郎監督)と「南極物語」(蔵原惟繕監督)だ。南極物語はことし2月に、ディズニーが登場人物をアメリカ人に差し替え、「Eight Below」(直訳すれば「華氏8度以下」)というタイトルでリメイクした。どうも、この種の映画は日本だけではなく、万国共通して涙腺を緩ませるらしい。

  物語をおさらいしておこう。1958年(昭和33年)2月、先発の南極地域観測隊第一次越冬隊と交代するため海上保安庁観測船「宗谷」で南極大陸へ赴いた第二次越冬隊が、長期にわたる悪天候のため南極への上陸・越冬を断念した。その撤退の過程で第一次越冬隊のカラフト犬15頭を首輪と鎖でつないだまま無人の昭和基地に置き去りにせざるを得なくなった。極寒の地に取り残された15頭の犬がたどる運命や、犬係の越冬隊員の苦悩が交錯する。そして1年後、たくましく生き抜いた兄弟犬のタロとジロ、再び志願してやってきた越冬隊員が再会をする。余韻を語らず、この再会のシーンでバッサリと物語が終わるのでなおさら感動が残る。実話に基づいた作品。犬係の越冬隊員を演じる言葉少ない高倉健の存在感が全体の流れを締めている。

  ドキュメンタリー・タッチで描いた動物映画だが、蔵原監督が映画の中心に据えたかったテーマは一つだろう。置き去りにすると分かった時点で人間の責任として薬殺すべきだったのか、どうかの問いかけである。映画の中で、外国人の女性記者がマイクを向けて、「生きながらに殺す、残酷なことだと思いませんか」と元の飼主にお詫びにまわる犬係の潮田隊員(高倉健)に迫るシーンがそれである。これは重いテーマだ。

   ところで、映画では感動の再会のシーンで終わっているが、タロとジロのその後の運命である。タロとジロは、そのまま第3次越冬隊とともに再度任務についた。が、1960年(昭和35年)7月にジロが南極で死亡、翌年に帰国したタロは1970年(昭和45年)8月に北海道大学農学部付属植物園で死亡する。ともに南極観測犬の貴重な資料としてはく製にされ、タロは北海道大学農学部博物館(札幌)に、ジロは国立科学博物館(東京・上野)で展示されている。離れ離れになっているタロとジロをいっしょにさせてやりたいという運動が北海道・稚内市で起こり、平成10年に同市の市制施行50年を記念する行事として一時的ながら2頭そろって「稚内への里帰り」が実現した。その後もタロとジロは極寒で生き抜いた英雄として日本人の心の中で生き続けている。

                    ◇

 金沢大学は6月17日(土)午後1時から自然科学系図書館で「南極教室」を開く。金沢大学助手で越冬隊員の尾崎光紀氏にテレビ電話で結んで生活の様子などの話を聞く。(写真は南極のオーロラ=提供:尾崎光紀氏)

 ⇒31日(夜)金沢の天気   はれ

★「地球8分の1」の実感

★「地球8分の1」の実感

  「人生七掛け、地球八分の一」とよく言われる。それだけ、人生は長く、地球は小さくなったという意味だが、今回は「地球八分の一」が実感できるような話だ。

  第47次南極観測隊に加わっている尾崎光紀隊員(金沢大学助手)と26日、テレビ電話で話しする機会があった。6月17日に開催する「南極教室」のための接続テスト、つまり金沢大学と南極の昭和基地を実際につないでテレビ電話がうまくいくかどうかのテストである。

  南極と日本は遠い。では実際にどのような回線ルートでつながっているのかというと。南極の昭和基地からのデータは電波信号にして、太平洋をカバーしている通信衛星「インテルサット」を介して、山口県の受信施設に送られる。山口から東京の国立極地研究所は光ファイバーでデータが送られ、さらに金沢大学に届くという訳だ。それを双方向で結ぶとテレビ電話になる。

  尾崎隊員の話では、南極は本格的な冬に入るころだ。マイナス20度の寒気の中を観測に出かける。上の写真は、昭和基地の外に通じる扉だ。ブリザードが続いた翌日、その扉を開けるとご覧の通り(写真下)、外はびっしりと雪で埋まっている。でも、基地の中は快適で、しかも3度の食事がきちんと食べることができ、「14㌔も太った」とか。

  こんな対話を南極と日本でリアルタイムで交わすことができるようになったのだ。当日は、基地の中での生活、観測の様子など紹介してもらうことになっている。(写真提供:尾崎光紀隊員)

⇒27日(土)夜・金沢の天気   あめ

★ペンギンのドミノ倒し

★ペンギンのドミノ倒し

  この話の真贋をあなたはどう思うか。ある時、南極の皇帝ペンギンのルッカリー(集団繁殖地)の上空を低空飛行のヘリコプターが飛んだ。一羽のペンギンが空を見上げ、頭上をヘリが通り過ぎるとそのまま後ろにひっくり返った。ペンギンは集団でいたので、次々とドミノ倒しのような状態となり大混乱に陥った。その光景を目撃したイギリス軍のヘリの操縦士は自責の念にかられ、「ペンギンのルッカリーの上空を飛んではいけない」と仲間に話したという。この話が世界に広まった。

   南極では、地上に敵なしのペンギンだが、空には卵やヒナを狙うトウゾクカモメがいるので、上空を常に警戒している。でも本当にひっくり返るだろうか。確かに、写真のように不安定な流氷の上では、サルも木から落ちるのたとえがあるように、ペンギンも氷上でバランスを崩して転ぶかもしれないと思ったりもした。

   この話が日本のマスコミの話題にも上るようになったころ、南極に調査団が派遣された。2000年12月のことである。以下は本当の話だ。イギリス極地研究所のリチャード・ストーン博士らがサウスジョージア島の皇帝ペンギンのルッカリーで、イギリス軍のヘリが上空230-1768㍍の高度で数回飛行を繰り返し、ペンギンの反応を観察した。すると抱卵していないペンギンはヘリが近づくと逃げ出した。抱卵しているペンギンは逃げなかったが、縄張り行動(突っつきあいや羽でたたく行動)が見られ、明らかに動揺している様子が見て取れた。しかし、ひっくり返るペンギンはいなかった。軍から出たうわさを軍が否定したかたちだ。以上の調査結果は01年8月、アムステルダムで開かれた南極研究科学委員会のシンポジウムで発表された。(※国立極地研究所ホームページより一部抜粋)

  ところで、最後に疑問が残る。なぜ唐突に「自在コラム」の筆者が専門でもないペンギンの話をしたのか。実は、6月17日(土)13時から、金沢大学では小学高学年と中学生を対象に「南極教室」を開く。私はこのイベントを担当するワーキンググループの一員なのだ。この話は仲間と雑談をしている中で出てきた。南極教室では実際に南極の昭和基地と金沢大学をテレビ電話で結んで、金沢大出身の隊員と対話する。こんな楽しい話がいくつも聞くことができるかもしれない。(写真提供は第47次南極越冬隊、尾崎光紀隊員=金沢大学自然科学研究科助手)

 ⇒25日(木)朝・金沢の天気   はれ

☆「総合学習」の新人類

☆「総合学習」の新人類

 私のオフィスがある金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」は昨年4月に完成した。この建物は白山ろくの旧・白峰村の文化財だったものを大学を譲り受けて、この地に再生した。築300年の養蚕農家の建物構造だ。建て坪が110坪 (360平方㍍)もある。黒光りする柱や梁(はり)は歴史や家の風格というものを感じさせてくれる。金沢大学の「里山自然学校」の拠点でもある。

 古民家を再生したということで、ここを訪ねてくる人の中には建築家や、古い民家のたたずまいを懐かしがってくる市民が多い。最近は学生もやってくる。その学生のタイプはこれまでの学生と違ってちょっと味がある。「こんな古い家、とても落ちつくんですよ」と言いながら2時間余りもスタッフとおしゃべりをしていた新入の女子学生。お昼になると弁当を持ってやってくる男子学生。「ボクとても盆栽に興味があって山を歩くのが好きなんです」という同じく新入の男子学生。今月初め、いっしょにタケノコ掘りに行かないかと誘うと、「タケノコ掘り、ワーッ楽しい」とはしゃぐ2人組の女子学生がいた。いずれも新入生である。

  「学生が来てくれない」と嘆いた去年とは違って、ことしは手ごたえがある。この現象をどう分析するか。同僚の研究員は「総合学習の子らですね」と。総合学習とは、2002年度4月から導入された文部科学省の新学習指導要領の基本に据えられた「ゆとり教育」と「総合的な学習の時間(総合学習)」のこと。子どもたちの「生きる力」を育みたいと、週休2日制の移行にともない、教科書の学習時間を削減し、野外活動や地域住民と連携した学習時間が設定された。その新指導要領の恩恵にあずかった中学生や高校生が大学に入ってくる年代になったのである。

  当時、批判のあった画一教育の反動で設けられた総合時間だが、その後、「ゆとり」という言葉が独り歩きし「ゆるみ」と言われ、総合学習も「遊び」と酷評されたこともあった。しかし、私が接した上記の「総合学習の子ら」は実に自然になじんでいるし、「ぜひ炭焼きにも挑戦したい」と汗をかくことをいとわない若者たちである。そして、動植物の名前をよく知っていて、何より人懐っこい。それは新指導要領が目指していた「生きる力」のある若者であるように思える。

  もちろん、新入生のすべてがそうであるとは言わない。今後、金沢大学の広大な自然や里山に親しみを感じてくれる若者たちが増えることを期待して、数少ない事例だが紹介した。

 ⇒24日(水)朝・金沢の天気   くもり

★夢のサイズを大きくした男

★夢のサイズを大きくした男

 怪我(けが)というダメージを受けたスポーツ選手を励ます広告というのを初めて見た。きょう15日の全国紙に掲載された建設機械メーカー「コマツ」の広告である。そのコピーには「日本人の夢のサイズを大きくしたのは、この男です。」と書かれてあった。この男とはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手。

 コピーの続き。「松井は野球の天才ではない。努力の天才なのだ」と言い、「コマツは、どうだろう。自分たちの技術に誇りを持ち、よりよい商品づくり心がけているだろうか。」と問う。そして、最後に小さく、「松井選手の今回のケガに際し、一日も早い復帰をお祈りしております」と締めている。松井の出身地である石川県能美市に近い小松市に主力工場を持つコマツは、ヤンキース入りした直後から松井選手のスポンサーになった。嫌みのない、実にタイムリーな広告企画ではある。

 松井選手は日本時間の12日、レッドソックス戦の1回表の守備で、レフトへの浅い飛球をスライディングキャッチしようとして左手首を負傷、そのまま救急車で病院に向かい、骨折と診断された。これで巨人入団1年目の1993年8月22日から続いていた日米通算の連続試合出場は前日までの1768試合(日本1250試合、米国518試合)でストップした。現在は自宅療養が続いている。

 松井選手は逆境に強い。1992年(平成4年)、甲子園球場での星稜と明徳義塾の戦い。あの物議をかもした「連続5敬遠」が彼の名を一躍全国区に押し上げた。松井選手の父親、昌雄さんはこう言って息子を育てたそうだ。「努力できることが才能だ」。無理するなコツコツ努力せよ、才能があるからこそ努力ができるんだ、と。ホームランの数より、一見して地味に見える記録だが連続出場記録にこだわったのもプロ努力とは本来、出場記録なのだと見抜いていたからだろう。

 記録ストップは残念だろうが、新たな目標を設定し、再びバッターボックスに立ってほしい。

⇒15日(月)夜・金沢の天気   はれ
 

 

☆東京の「金沢町内会」

☆東京の「金沢町内会」

 東京で「金沢町内会」と呼ばれているエリアがある。東京都板橋区の一角である。その「町内会」の話は、先日訪れた国立極地研究所で聞いた。同研究所の広報担当のS氏が「金沢大学の人ですか、この地区の人たちは金沢に親しみを持っていますよ。金沢町内会と自ら呼んでいます」と。

 確かに、同研究所は板橋区加賀1丁目9番10号が所在地だ。加賀といえば加賀藩、つまり金沢なのである。加賀という地名は偶然ではない。かつて、加賀藩の江戸の下屋敷があったエリアなのである。それが今でも地名として残っている。

 歴史をたどると、参勤交代で加賀藩は2000人余りの大名行列を編成して金沢を出発し、富山、高田、善光寺、高崎を経由して江戸に入った。金沢-江戸間約120里(480㌔㍍)、12泊13日の旅程だった。そして江戸に入る際、中山道沿いの板橋に下屋敷を設け、ここで旅装を粋な羽織はかまに整え、江戸市中を通り本郷の加賀藩上屋敷(現在の東京大学)へと向かったのである。この参勤交代は加賀藩の場合、227年間に参勤が93回、交代が97回で合計190回も往来した。

 ところで、板橋区と加賀藩について調べるにうちに面白い史実を発見した。明治以降の加賀藩下屋敷についてである。新政府になって、藩主の前田氏は下屋敷とその周囲の荒地を開墾する目的で藩士に帰農を奨励した。その中に、備前(岡山)の戦国武将、宇喜多秀家の子孫8家75人がいた。実は、加賀藩の初代・利家の四女・豪姫は豊臣秀吉の養女となり、後に秀家に嫁ぐ。関が原の戦い(1600年)で西軍にくみした夫・秀家とその子は、徳川家康によって助命と引きかえに八丈島に遠島島流しとなる。豪姫は加賀に戻されたが、夫と子を不憫に思い、父・利家、そして二代の兄・利長に頼んで八丈島に援助物資(米70俵、金35両、その他衣類薬品など)の仕送りを続けた。

 この援助の仕送りは三代・利常でいったん打ち切りとなった。物語はここから続く。秀家一行が八丈島に流されるとき、二男・秀継の乳母が3歳になる息子を豪姫に託して一家の世話のため自ら島に同行した。残された息子はその後、沢橋兵太夫と名乗り、加賀藩士として取り立てられた、この沢橋は母を慕う気持ちを抑えきれずに幕府の老中・土井利勝に直訴を繰り返し、八丈島にいる母との再会を願って自らを流刑にしほしいと訴えた。同情した土井の計らいで、母に帰還を願う手紙を送ることに成功する。しかし母の返事は主家への奉公を第一とし、これを理解しない息子を叱り飛ばす内容だった。

 母に会いたいという沢橋の願いはかなわなかった。が、この話はその後、意外な方向に展開していく。当時の幕府の方針である儒教精神の柱「忠と孝」の模範として高く評価され、幕府は加賀藩に八丈島の宇喜多家への仕送りを続けるよう命じたのである。加賀藩の仕送りは実に明治新政府が誕生するまでの270年間に及んだ。そして、新政府の恩赦で流罪が解かれ、一族は内地に帰還し、加賀藩預かりとなる。一族は浮田を名乗り、前述の加賀藩下屋敷跡と周辺の開墾事業に携わることになる。前田家の援助で浮田一族の八丈島から板橋への移住は成功したのである(「板橋区史 通史編下巻」)。

 板橋区史に出ているくらいだから当地では有名な話なのだろう。とすれば、加賀という文字が地名となり、「金沢町内会」と親しみを込めて呼ばれる歴史的な背景が理解できなくもない。

⇒13日(土)夜・金沢の天気  くもり

★都市の輪郭

★都市の輪郭

 ヨーロッパの中世都市では城を中心に都市を囲む城壁が築かれた。ことし1月に訪れたイタリアのフィレンツェでも石垣で構築された城壁が残っていて、防備ということがいかに都市設計の要(かなめ)であったのか理解できた。多くの場合、川の向こう側に城壁が設けられ、その城壁が破られた場合、今度は橋を落として堀にした。城壁と川の二重の防備を想定したのだ。

  先月15日に金沢市の山側環状道路が開通した。寺町台、小立野台という起伏にトンネルを貫き、信号を少なくした。このため、この2つの台地をアップダウンしながら車で走行したこれまでに比べ15分ほど時間が短縮したというのが大方の評価となっている。この道路は金沢市をぐるりと囲む50㌔に及ぶ外環状道路の一部で、今回は山側が開通し、海側は工事中だ。

 この道路を車で走りながら、思ったことは、外側環状道路は金沢という「都市の城壁」を描いているかのようである。これまで、金沢の都市計画が市内の中心部がメインに構成され、道路の幅何㍍などといったことが中心だった。が、この道路が完成するにつれて金沢という都市の輪郭がある意味ではっきりしてきたというのが実感だ。これは今後の都市計画を策定する上で、キーポイントとなる。道路計画や民間の宅地開発プランが外側がはっきりしたことで策定あるいはセールスがしやすくなったのではないか。

 先に述べたフィレンツェも城壁の内側がすこぶる整備された都市なのである。人が濃密に交流する場ができ、そこへのアクセスが容易になることは都市機能としては重要だ。これによって、都市で熟成される文化もある。フィレンツェの場合、ミケンランジェロやラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチなどイタリア・ルネサンスの巨匠を生んだ。現在でもたかだか37万人ぐらいの都市で、である。

 金沢の外側環状で面白いのは、偶然かもしれないが、金沢大学、金沢星稜大学、金沢工業大学、北陸科学技術先端大学院大学(JAIST)など大学のロケーションが外側環状道路でつながっていることだ。その意味で、道路を介してさらにお互いが近く親しくなればと思っている。それにして面白い道路ができたものだ。あとは地元の人がこの「都市の輪郭」という道路をいかに活用するか、であろう。

⇒12日(金)夜・金沢の天気   はれ 

  

☆サッカーボールを手にする松井

☆サッカーボールを手にする松井

 あの松井秀喜選手はどうなっているのか、楽しみにしていた。きょう(9日)、久しぶりに東京のJR浜松町駅にきた。なんと、松井選手はサッカーボールを持っていた。駅構内の広告のことである。なぜ松井がサッカーボールをと思うだろう。答えは簡単。松井のスポンサーになっている東芝はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のスポンサーでもある。その大会に東芝は2000台以上のノートパソコンを提供するそうだ。理由はどうあれ、サッカーボールを持った松井選手というのは珍しいので、その広告をカメラで撮影した。

 JR浜松町駅近くに東芝の本社があり、ここでしか見れない、いわば「ご当地ポスター」のようなもの。去年の大晦日に見た松井選手の広告は本物のゴジラと顔を並べていた。

 そのヤンキースの松井選手は日本時間の8日、レンジャーズ戦で5番・指名打者で先発出場し、5号となる3ランホームランを放ってヤンキースを勝利に導いた。絶好調のようだ。

 話は戻るが、サッカーボールの松井の表情が実に硬く、ゴジラと並ぶ松井とは大違いだ。以下は想像である。この広告のクリエイターはおそらくサッカー日本代表のユニフォームを松井に着せたかったに違いない。しかし、内部で反対論が出た。松井がサッカーボールを持つことに違和感を持つファンもいるはずで、ましてやユニフォームとなると反感に変わるかもしれない。そこはスポンサーならびに松井のマイナスイメージにならないよう慎重に、と。で、「にやけた松井」ではなく「しまった松井」で日本代表の心強い応援団というイメージを演出することになった。ダークブルーのスーツも感情の抑えの心理的効果がある…などなど。この広告を眺めながら、デザインをめぐり揺れ動いたであろうコンセプト論議を想像してみた。

⇒9日(火)午後・東京の天気  はれ