⇒トピック往来

☆そのニュースでほくそ笑む者

☆そのニュースでほくそ笑む者

 ニュースの陰でほくそ笑む者がいる。パロマ(本社・名古屋市)が販売した瞬間湯沸かし器で一酸化炭素(CO)中毒事故が相次いだ問題で、経済産業省から指摘された17件以外に10件の事故が起こり5人の死亡者が出ていたと、同社は18日になって発表した。判明した事故は合計27件、死者数は20人に上る。

  記者会見したパロマの社長は「経営者としての認識の甘さや社会的責任に関して、本当に申し訳なく思う」と謝罪し、事故が起こる恐れのある7機種について無償で交換すると述べた。この一連のニュースを見ながら高笑いしている電力会社の経営陣の姿が目に浮かぶ。「ガスの連中もこれでお仕舞いだな」と。

  ガスと電力の攻防はすさまじい。都市ガスを供給している金沢市企業局のチラシを見ても、その一端が伺える。それは新築を希望している人に向けたチラシ。要約すると「(企業局が所管している)水道引き込み管工事は42万円、しかし都市ガス引き込み工事とのワンセットなら19万円となりお得です」という触れ込み。ガスを引いてくれれば双方の工事を水道工事費の半分以下に落とす、と。ある種の捨て身の作戦である。

  これに対し、電力会社は住宅メーカーを巻き込んで「オール電化で安全、クリーン」とキャンペーンを張っている。家庭の光熱費をめぐってガスと電力それぞれの関連会社が争奪戦を繰り広げている。今のところ勢いに乗っているのは電力側だ。今回のパロマ事件は会社単体の話ではない。「ガスはやっぱり危ない」との印象が国民に広がり、家庭のガス離れが加速する。ガス業界全体の敗色は濃厚だ。

  では、電力は安泰か。これまで電力会社が独占してきた電気の販売事業が2005年から本格的に自由化された。参入を始めている商社系企業と大口需要のシェア争いに勝つことが電力会社の本命、さらに小口の家庭も「オール電化」によって基盤固めをするのが電力側の戦略だろう。

  しかし、電気は米や水のように産地や生産者によって風味が異なるというものではない。差別化できない分、価格勝負、つまり値下げするしかないのである。安閑としていると隣のエリアの電力会社が攻めてくる。この市場原理を考えれば、どの電力会社もコストを削減し生産効率を上げ、どこよりも低価格を売りにするしかないのである。つまりエンドレスの戦いなのだ。

 ⇒18日(火)夜・金沢の天気  あめ  

★ステマネの師匠逝く

★ステマネの師匠逝く

  こんな偶然というものが実際にあるのだ、と思った。11日付の朝日新聞の「惜別」のページに6月13日に亡くなった指揮者、岩城宏之さん(享年73歳)を追悼する署名記事が載っていた。「…音楽界を常に驚かせ、皆に愛され続けた希代の『ガキ大将』らしく、命がけで、自らの音楽人生にけじめをつけようとしているかのように見えた。」と。この記事を書いた吉田純子記者は、2004年12月31日にベートーベンの全交響曲を独りで振り切るという岩城さんの壮大なプランが持ち上がったとき、何度か朝日新聞東京本社に出向いて、番組化について相談させていただいた人だ。

   ところで、「こんな偶然」というのは、同じ11日付の北陸中日新聞に、「延命千之助氏 死去」の死亡記事が掲載されていたことだ。2人を知る人ならば、「延命さんは岩城さんを追いかけたのかも知れない」と言うに違いない。延命さんは石川県旧鹿島町(現・中能登町)の出身で、慶応大学文学部西洋美術美学科を卒業、音楽雑誌の編集部を経て、NHK交響楽団の演奏担当マネジャーを務めた。長男だったので父親の後を継ぐため54歳で故郷に戻った。

 岩城さんは延命さんのことを、「世界一の感じのステージマネージャー」と著書「オーケストラの職人たち」(文春文庫)で絶賛している。そして何よりも、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の設立に奔走し、岩城さんをOEKの音楽監督に招いたのは延命さんだった。私は延命氏と直接の面識はなかったが、岩城さんから「延命さんが(石川県に)いたから金沢にきたんだ」と何度か聞かされたことがある。上記の延命さんのプロフィルも岩城さんから聞いていた。

  80歳。死亡記事によると、いまでもOEKのアドバイザーとして、時折り若手の団員を指導していて、「ステージマネージャーの師匠のような存在だった」。この業界ではステージマネージャーをステマネと呼んだりする。たいぐい希なるマエストロとステマネは同時に逝った。

 ⇒12日(水)午前・金沢の天気  あめ

★続・天を仰いで唾する…

★続・天を仰いで唾する…

 北朝鮮のミサイル発射が韓国でも相当、論議をよんでいるようだ。中には、「北」擁護の声を紹介している韓国紙もある。日本では見受けられない貴重な内容だ。以下、6日付の中央日報インターネット版(日本語)から引用する。

 ・・・「盧武鉉を愛する人々の会」の掲示板には「今回のミサイル発射実験は強大国間で犠牲になった不遇な民族歴史の憂憤を晴らす発射だった」という解釈もある。 この文に関連し「北朝鮮の(ミサイル)発射はそれほど責めることではない。政府の立場としては止むを得ないが、われわれは拍手を送るべき」という意見もあった。・・・

 上記は盧武鉉大統領支持派のインターネット掲示板の内容紹介であり、新聞社の論調ではない。ただ、ミサイル発射の対応について、小泉総理が主宰する国家安全保障会議が開かれたのは5日午前7時30分だったのに比べ、盧大統領が主宰する安保長官会議が開かれたのは同午前11時だった。この3時間半のタイムラグをめぐり、日ごろから「北」擁護の論陣を張っている盧大統領についてさまざな憶測を呼んでいる。たとえば、ミサイル発射と排他的経済水域(EEZ)での調査が同じ日だったことから、「盧大統領はミサイル発射の日を予め知っていて、調査船を竹島沖に向わせた。つまり南北合作の陽動作戦じゃないのか」といった疑念が日本側でもくすぶっているのだ。

  話は変わる。今回の北のミサイル発射でマスメディアでの露出が格段に多くなったのが安倍晋三官房長官だ。安倍氏は5日午前4時30分ごろ、首相官邸に一番乗りだった。内閣のスポークスマンとしてこの日は4回の記者会見に臨み、北を強く批判する声明を発表した。その毅然とした物言いの映像や、口をヘの字に閉ざした写真がマスメディアに頻繁に登場することになる。マスメディアが番組や紙面で緊張感を演出するには「安倍」は欠かせない素材となっているのである。

  言いたいことは一つ。自民党は5日の党総裁選管理委で、小泉総理の任期満了に伴う総裁選を「9月8日告示、20日投票」と決めた。告示まであと2カ月。ミサイル発射の衝撃は今後、国連安保理での北朝鮮非難決議の採択や経済制裁などをめぐり2カ月は持つだろう。ということは、総裁選レースは安倍氏がこのまま走り込んでゴールとなる。10月上旬には首班指名選挙、続く組閣と政治日程は組み立てられていく。

 ⇒6日(木)夜・金沢の天気  くもり

☆天を仰いで唾するのたとえ

☆天を仰いで唾するのたとえ

  誰がどう見ても、常識的に考えても、この2つの行為はおかしい。北朝鮮によるミサイル発射と、日本が主張する排他的経済水域(EEZ)での韓国の一方的な海洋調査のことである。きょう帰途のバスの中で、私の前の席に座っていた会社員らしき2人の男が交わしていた会話の中で、「南北(韓国と北朝鮮)共同の宣戦布告みたいなもんやろ」という言葉もあった。こうした「車内の声」は意外と世論なのである。

   この2つの行為が連動していないにしても、また意図がどうであろうと韓国が北朝鮮と同等だとみなされたことは韓国にとって大きなダメージだろう。先にこの「自在コラム」で韓国の土地バブルが崩壊寸前だと書いた。この動向はすでに日韓の懸案になっていて、ことし2月の日韓財務長官会議で、韓国に通貨危機が発生すれば日本が100億㌦を、日本に危機が生じれば韓国が50億㌦を支援することに合意している。 支援は、通貨危機にある相手国の通貨をドルに換える形式(通貨スワップ)で行われる。双方の危機に対応するというかたちをとっているが、実質的に韓国のデフォルト(破綻)に対する救済策なのである。しかし、今回の北朝鮮によるミサイル発射を受け、政府が新たな制裁措置を行う過程で南北の2つの行為が連動していたものとなれば、この100億㌦の合意は当然、ご破算だろう。

   しかも、北朝鮮はきょう5日未明の午前3時から8時かけての6発で国際世論が沸き立ったにもかかわらず、夕方午後5時20分にも中距離ミサイル1発を追加で発射している。国連安保理が日本時間の午後11時から緊急会合を開くと決めた以降もこうしてミサイルを発射し続けているのである。天を仰いで唾(つば)するとはこのことだろう。

    北朝鮮が巧妙だったは、アメリカの最大の祝祭日である独立記念日に「派手な花火」を打ち上げたことだ。 アメリカ時間の4日午後2時38分、フロリダのケープカナベラル基地から7人のクルーを載せた宇宙船「ディスカバリー号」が飛び立った。北朝鮮の最初のミサイル発射はアメリカ時間で午後2時32分だった。つまり、北朝鮮はディスカバリー号打ち上げ6分前に最初のミサイルを発射したのだ。これは意図的なものか、偶然か。アメリカがショックを受けているのはこの事実なのである。

  それにしても滑稽なことがある。このタイミングで共同通信など日本のマスメディアが北朝鮮を訪れている。きょう5日、横田めぐみさんら拉致被害者が一時居住していたとされる平壌市郊外の2カ所の招待所や、めぐみさんの「遺骨」を焼いたとする火葬場を見学した。真実が語られることのない北朝鮮で何を見ても聞いても果たして取材に値するのだろうか。北朝鮮がお膳立てした現場で撮ったものを、これがめぐみさんを焼いた火葬場の写真であると掲載しても、日本の読者は信じるだろうか。「さっさと戻って来い」。私ならそのひと言である。

 ⇒5日(水)夜・金沢の天気  あめ

★ベートーベンの「田園」を愛す

★ベートーベンの「田園」を愛す

  今月13日に亡くなった指揮者の岩城宏之さんのことを今回も書く。岩城さんはベートーベンの「田園」が好きだった。交響曲第6番である。ちょっとしたエピソードがある。

   2004年の大晦日(12月31日)、東京文化会館でベートーベンの交響曲1番から9番をすべて演奏するという大勝負をした。その時のことである。5番「運命」を終えて、夕食をとり、続いて6番へと続けた。ところが05年の大晦日に再度ベートーベンの連続演奏に挑戦したときは、4番を終えてから夕食に入った。この違いについて岩城さんはこう説明した。「曲の順番からも『運命』が一つのヤマなのでこれを越えてひと安心して、前回は夕食を食べた。ところが、『運命』が終わったのと、夕食を食べたのとで、『田園』になかなか気持ちのエンジンがかからなかった。そこで、今回は工夫して『運命』の前に食事を済ませることにしたんだ」と。気が乗らないとの理由で、大休憩(食事)の時間を大幅に前倒しした。そのほどの思い入れが「田園」にあった。

  もう一つエピソードを。このベートーベンの連続演奏に鹿児島の麦焼酎の造り酒屋がスポンサーについた。なぜか。この焼酎メーカーが発売している「田苑ゴールド」という銘柄は、すばり「田園」を聞かせて熟成させた酒なのである。コンサートのスポjンサーになったのも、あやかったというわけだ。会場でその説明を受けた岩城さんが思わず手を打って、「モーツアルト熟成は聴いたことがあるけど、ベートーベン熟成ね…」とニコリ。それまで緊張の面持ちだったのが相好を崩した瞬間だった。

  ベートーベンは、この曲に小川のせせらぎや小鳥のさえずりをイメージさせた。詩人のロマン・ローランは次のように言ったという。「私は第2楽章の終わりに出てくる小鳥のさえずりを聴くとき、涙が出てくる。なぜなら、この曲をつくったとき、ベートーベンにはもはや外界の音は聞こえなかったからだ。彼は心の中の小鳥のさえずりを音符を書きつけたのである」と。

 「マエストロの最期」で岩城さんが容態が急変するまで病院のベッドの中にあっても両腕で小さく円を描き、まるでタクトを振っているかのようであったと書いた。話せる状態ではなく、何の曲を指揮していたのかは周囲も分からない。が、ひょっとして、その曲は小川のせせらぎや小鳥のさえずりの「田園」ではなかったのか…。ベートーベンをこよなく愛した岩城さんの冥福を祈る。

 ⇒19日(月)午後・金沢の天気   はれ

★マエストロの死、その後

★マエストロの死、その後

  オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督だった岩城宏之さんが13日に急逝した。地元金沢では後継者問題などいろいろと話題が出始めている。そして追悼の番組やコンサート、追悼行事が具体化してきた。マエストロの死のその後を…。   

  地元テレビ局の北陸朝日放送はきょう16日(金)午前10時半から、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番を演奏し終えるまでを描いたドキュメンタリー番組「人生振るマラソン」(55分)を再放送した。2004年12月31日から翌1月1日までの9時間40分にも及ぶ演奏。指揮者控え室に固定カメラを置いて、ベートーベンの交響曲の一曲一曲ごとの指揮者の息遣いを撮り続けた。控え室で休憩中、苦しげでうなだれるマエストロ岩城が、「時間ですよ」のステージマネージャーのひと声で気を取り直してまたステージへと向かう。プロの宿命と気迫、そして使命感をタクトのひと振りひと振りに刻んでいく姿がリアルに描かれる。見ていて、なぜそこまで人生を追い詰めるのかと物哀しくもあり、また「ベートーベンを指揮してステージで倒れるなら本望」と言い切る姿はまさに悟りの人であり神々しくもある。その生き方をどう受け止めるかは、視聴する側の人生観によるだろう。

  6月18日(日)午後11時10分からNHK総合テレビでは05年12月31日のベートーベン演奏を追ったドキュメンタリー番組「岩城宏之ベートーヴェンとともにゆかん」が予告されている。

  追悼コンサートは7月16日(日)午後3時から石川県立音楽堂で。指揮者は岩城さんと親交があった外山雄三、OEK初代常任指揮者の天沼裕子。武満徹、モーツアルトなどの曲が予定されている。その2日後の7月18日(火)午後2時から東京・サントリーホールの小ホールで「岩城宏之お別れの会」がある。岩城さんが拠点としていたNHK交響楽団、OEK、東京コンサーツ、メイ・コーポレーション(三枝成彰事務所)の4者が実行委員会をつくり追悼の会を催す。

  今月26日(月)午後7時から朝日新聞金沢総局の4階ホールで講演が開かれる。講師はOEKゼネラルマネジャーの山田正幸さん(63)88年の創設当初からのメンバーで、岩城さんが「ジミー」とニックネームで呼んで信頼を置いた人だ。舞台裏から見た岩城さんの知られざるエピソードが語られるかもしれない。

  ところで、岩城さんの後継について、岩城さんがだれかれと具体名をあげたという話を聞いたことがない。むしろ、周囲には「そろそろ考えて置けよ」と笑いながら言っていた。人事に頓着せず、だった。  

 ⇒16日(金)夜・金沢の天気  くもり

☆マエストロの最期

☆マエストロの最期

 きょう14日、東京の文部科学省へ仕事の打ち合わせのため出張した。小松空港の発券カウンター近くでかつての会社の上司の顔が見えたので声をかけた。すると向こうから「東京へ行くの、岩城さんの…」と。私の顔を見て「岩城さん」を連想してくれたのはある意味でうれしかった。半面、生前お世話になりながら、東京へ行くのにお線香の一つも上げることもできない自分にもどかしさも感じた。

  13日逝去した指揮者の岩城宏之さんの密葬がきょう都内で営まれた。葬儀に参列したオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の関係者によると、岩城さんは生前、「荼毘(だび)に付すまで秘してほしい」と言葉を遺していたようだ。この遺志に沿って、付きあいがあった指揮者仲間からの参列の申し入れも遠慮願っての、ごく内輪の密葬になった。

  岩城さんは胃がんや咽頭がん、肺がんなどこれまで30回近くも手術を繰り返した。5月25日に容態が悪化し、聖路加病院に入った。6月1日に見舞った上記のOEK関係者によると、この時点で話ができる状態ではなかった。でも、午前10時ごろになると、両腕で小さく円を描いた。オーケストラの練習の時間になると、決まってその仕草をした。そして、夫人の木村かおりさん(ピアニスト)が「休憩ですよ」と声をかけるとその両腕は止む。そしてゲネプロ(本番前のリハーサール)の時間である午後4時ごろになるとまた両腕で円を描く。その繰り返しだった。「10時と4時のタクトは長年しみついた指揮者の職業病のようなもの。それにしても何を演奏していたのでしょうか」と、1988年のOEK創立からの関係者は顔を曇らせた。

  東京出張の目的地に向かう際、少し時間があったので上野の東京文化会館に立ち寄った。04年12月31日、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番の連続公演の「偉業」を初めて成し遂げたホールである。チラシのスタンドを見ると、岩城さんが指揮する予定だった東京フィルハーモニー交響楽団の公演チラシが置いてあった。そのチラシを手にして、ふとある考えがよぎった。この東京文化会館を「ベートーベン演奏の聖地(メッカ)にしてはどうか」と。岩城さんが偉業を打ち立てたこのホールを。ベートーベンの1番から9番の連続演奏を試みる次の指揮者をここで待ちたいと思った。

 ⇒14日(水)夜・金沢の天気 くもり 

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む
06年6月13日・・・ベートーベンに抱かれ眠る

 

☆マエストロ岩城の死を悼む

☆マエストロ岩城の死を悼む

 日本を代表する指揮者の一人、岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが13日午前0時20分、心不全のため東京の聖路加病院で死去した。73歳。夫人はピアニストの木村かをりさん。

  1932(昭和7)年、東京生まれ。東京芸術大学音楽学部に進学。在学中から指揮者を志し、56年にNHK交響楽団を指揮してデビュー。ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど、世界的なオーケストラの指揮台に迎えられた。正指揮者を務めたNHK交響楽団をはじめ、札幌交響楽団、音楽監督として設立に尽力したオーケストラ・アンサンブル金沢など、多くのオーケストラを率いた。

  近年の顕著な活動としては、2004年12月31日午後3時30分から翌2005年1月1日午前1時にかけて、東京文化会館でベートーベェンの全交響曲を一人で指揮したのが知られている。この企画は、05年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。

  「初演魔」として知られ、特にオーケストラ・アンサンブル金沢ではコンポーザー・イン・レジデンス(座付き作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。

  指揮者の職業病ともいうべき頸椎後縦靭帯骨化症を皮切りに、2001年喉頭腫瘍、05年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、その度に復活し力強い指揮姿を披露した。手術は実に25回、「手術が元気の素と」とも本人が言っていた。ことし5月末に体調を崩して東京の病院に入院していた。

  岩城さんの生前のご厚情に感謝し、ご冥福を祈ります。

※上が岩城さんのステージ写真(01年3月)。下が06年1月1日にベートーベンの交響曲1番から9番までの演奏を終えて歓談する岩城さん=東京芸術劇場で

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題

 

 

 

 

 

★ベートーベンに抱かれ眠る

★ベートーベンに抱かれ眠る

 「この世」と「あの世」がもしあるのならば、いまごろ岩城宏之さんは「あの世」で待つ武満徹や山本直純、黛敏郎らの手招きで三途の川の橋を渡ろうとしているのかしれない。そして、岩城さんは「向こうへ行けばベートベンに会えるかも知れない」と胸を弾ませているに違いない。

   もう10年以上も前の話になる。テレビ朝日系列ドキュメンタリー番組「文化の発信って何だ」を制作(1995年4月放送)する際に、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督で指揮者だった岩城さんにあいさつをした。初めてお会いしたので、「岩城先生、よろしくお願いします」と言うと、ムッとした表情で「ボクはセンセイではありません。指揮者です」と岩城さんから一喝された。そう言えば周囲のオーケストラスタッフは「先生」と呼ばないで、「岩城さん」か「マエストロ」と言っている。初対面で一発かまされたのがきっかけで、私も「岩城さん」あるいは「マエストロ」と呼ばせてもらっていた。

  そのドキュメンタリー番組がきっかけで、足掛け10年ほど北陸朝日放送の「OEKアワー」プロデューサーをつとめた。なかでも、モーツアルト全集シリーズ(東京・朝日新聞浜離宮ホール)はシンフォニー41曲をすべて演奏する、6年余りに及ぶロングランリシーズとなった。あの一喝で「岩城社中」に仲間入りをさせてもらったというそんな乗りで仕事を続けてこられたのである。

  私は「岩城さんの金字塔」と呼ばれるベートーベンの交響曲1番から9番の連続演奏に2年連続でかかわった。2004年12月31日はCS放送の中継配信とドキュメンタリーの制作プロデュースのため。そして05年1月に北陸朝日放送を退職し、金沢大学に就職してからの05年12月31日には、この9時間40分にも及ぶ世界最大のクラシックコンテンツのインターネット配信(経済産業省「平成17年度地域映像コンテンツのネット配信実証事業」)のコーディネーターとしてかかわった。

  それにしても、ベートーベンの交響曲を1番から9番まで聴くだけでも随分と勇気と体力がいる。そのオーケストラを指揮するとなると、どれほどの体力と精神を消耗することか。04年10月にお会いしたとき、「なぜ1番から9番までを」と伺ったところ、岩城さんは「ステージで倒れるかもしれないが、ベートーベンでなら本望」とさらりと。当時岩城さんは72歳、しかも胃や喉など25回も手術をした人である。体力的にも限界が近づいている岩城さんになぜそれが可能だったのか。それは「ベートーベンならステージで倒れても本望」という捨て身の気力、OEKの16年で177回もベートーベンの交響曲をこなした経験から体得した呼吸の調整方法と「手の抜き方」(岩城さん)のなせる技だったのである。

   このインターネット配信はオーストリアのウイーンから17のIPアクセス(訪問者)があるなど、総IPアクセスは2234にのぼり、実証事業としては大成功だったと言える。インターネット配信事業は実のことろ難題があった。その一番の大きな障害が演奏者の著作権(隣接権)だった。この権利処理に関して、「オーストラリアやヨーロッパの友人が見ることができるのなら、それ(インターネット配信)はいいよ」と岩城さんの理解をいただいたからこそ実現したのである。

  「ベートーベンで倒れて本望」と望んだ岩城さんの願いは叶い、ベートーベンに抱かれて眠ったのではないだろうか。インターネット配信では岩城さんに最初で最後の、そして最大にして最高のクラシックコンテンツをプレゼントしてもらったと私はいまでも感謝している。

 ※写真:ことし1月1日午前1時、ベートーベンの交響曲9番が終わり、観客からのスタンディング・オベイションの嵐は鳴り止まなかった=東京芸術劇場

 ⇒13日(火)夜・金沢の天気   はれ

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む

 

★野武士のごとく

★野武士のごとく

  ブログを書いている途中で何とも残念な結果が。サッカーのワールドカップ・ドイツ大会の日本の初戦、対オーストラリア戦で、日本は前半を1-0とリードしたものの、後半で一気に3点を入れられ逆転負けを喫した。1点リードで守りの姿勢に入ってしまった日本は、何も失うものがないオーストラリアの気迫に負けた。まるで心理戦だった。

     ~   ~   ~

 古くからの街並みと新しい建物が妙に調和するのが金沢という街である。その金沢の景観賞ともいえる金沢都市美文化賞に、私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」が選ばれた。金沢都市美文化賞そのものも昭和53年(1978年)から始まった歴史ある賞だ。

  築300年の黒光りする柱や梁(はり)など古民家の持ち味を生かし再生したという建築学的な理由のほかに、周囲の里山景観と実によくマッチしているという点が評価された。その建物の中をご覧いただきたい。青々としたヨシが廊下に生けられ、気取らぬ古民家の廊下に野趣の雰囲気を醸す。ちなみに、ヨシはアシの別名。「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものといわれる。

  住人として私がこの「角間の里」を一つだけ自慢する点といえば、野武士のようなたたずまいである。派手さや彩りは似合わない。黒光りする柱のように凛(りん)とした風格がある。

      ~   ~   ~

  サッカーの話に戻る。緒戦は落とした。しかし、もう日本は何も失うものはない。18日のクロアチア、22日のブラジル戦は正々堂々と勝負すればいい。孤高の野武士のような気迫を持って。

  念のために言うと、この古民家とサッカーの脈絡はまったくない。ただ、野武士のイメージだけで2つのことを書いた。

 ⇒12日(月)夜・金沢の天気  くもり