⇒トピック往来

★元旦、晴天に映える兼六園

★元旦、晴天に映える兼六園

 2007年の元旦、金沢はよく晴れた。午後から兼六園に隣接する金沢神社に初詣に出かけた。案の定、観光客の混み合いと参拝客で周辺はごった返していた。初詣の列もこれまでになく長いと感じた。

  家人を列につけさせ、私は無料開放された兼六園にカメラのアングルを求めて入った。お目当ては兼六園の中でも見栄えがする、唐崎(からさき)の松の雪つりである。ごらんの通り、青空に映える幾何学模様の雪つりである。このほか、冬桜を撮影して列に戻った。思ったほど列は進んでいない。

  列に並んで、ふと気がついた。若者も相当いるのに、携帯電話をかけている人が少ない。これまでだと無邪気に周囲かまわず電話をかける姿を必ず見たものだ。そして女性の和服姿が例年より多いことにも気づいた。何か青空と関係があるのか知れないと思ったが、根拠らしいものは考え出せなかった。ひょっとして偶然かもしれない。

  ことろできょう2日、大晦日のNHK紅白歌合戦の視聴率が発表された。関東地区で第1部30.6%、第2部39.8%(関西地区は1部28.5%、2部37.6%)となり、第1部で1990年と並び過去最低、第2部でも2004年に次ぐワースト2位だった。前年にやや持ち直していた視聴率も第1部で4.8ポイント、第2部で3.1ポイントそれぞれダウンである。

  しかも今回は、「DJ OZMA」の演出の中で、女性ダンサーが上着を脱いで上半身裸になったように見えるシーンがあり、ひんしゅくを買った。ボディスーツとは言え、そのボディスーツに女性の裸体が描かれているのだから、気がついた視聴者は誰だって「トップレスで踊りか。いくら視聴率稼ぎでも露骨」と思ったに違いない。私は気味の悪さを感じた。

 本来、本番前のリハーサルでプロデューサーやディレクターのチェックがあるはずだ。あるいは、それより以前の打ち合わせ段階でNHKの衣装担当が必ずチェックするものではないか。これがすんなり通っていたとすれば、NHKの制作現場は「あの程度は問題ない」、あるいは「それを問題にする視聴者がおかしい」くらいに済ませていたのか知れない。

  テレビを見た視聴者の中で、義憤に感じてわざわざテレビ局に電話をする人が仮に1万人に1人だったとする。今回750本もの苦情電話(NHK調べ)があったのだから、750万人の人が憤っていたと考えたほうが素直だ。それにしても、あのダンサーの演出が事前に問題にならなかったとは、視聴者感覚と随分とズレた話ではある。

 ⇒2日(火)午後・金沢の天気   くもり 

★「奉食」と「訪食」

★「奉食」と「訪食」

 季節の移ろいははやい。つい先日まで友人らとキノコの話題をいろいろとしていた。たとえば、キノコは合理的な施設栽培が主流となって、店頭では四季を問わず様々なキノコが並んでいる。しかし、それらのキノコからは味や香り、品質そして季節感が感じられない。味より合理性を重視した供給体制が多すぎる。

  だからキノコは天然もの、山で採れた地のものを食べようといったたぐいの話である。たかがキノコ、されどされどキノコなどと言いながら、コノミタケと能登では呼ぶ雑ゴケと能登牛のすき焼きをつついたりした。

  12月・師走に入り、いつの間にか話題はカニになっていた。オスのズワイガニより、メスのコウバコガニの方が味が詰まった感じがしてよいとか、「23日に能登でカニを食べる会に誘われている」などといったたぐいの話である。

  そういえば、人生の先輩のTさんが面白いことを話していた。Tさんは、奥能登で蕎麦屋をやっていて、能登半島から「訪食」の時代の到来を発信したいと意気込んでいる。戦後、腹いっぱい食べたいという「豊食」を求めていた時代から、経済の急成長に伴って「飽食」の時代が訪れた。そして、モノがあふれ、何が本物か見分けのつかない、飲み放題や食べ放題の「放食」の時代、やがては食の安全性が問われた「崩食」の時代が来た。そして今、本当に安心しておいしく食べることができるのであれば、その地を訪ね歩く「訪食」の時代でもあるというのである。

  私なりに解釈して、「奉食」もある。自然食のマクロビオテック料理である。「マクロ=長い・大きい」「ビオ=生命」「テック=術」の造語だ。食と健康、生命というものをとことん追求した料理。食に神が宿るとでも言いたげなネーミングではある。 食の最先端とでも言おうか…。

 結論めいたものはない。とりとめのない話になってしまった。

⇒8日(金)朝・金沢の天気  くもり  

★岩城宏之と松井秀喜

★岩城宏之と松井秀喜

 先日このブログで、指揮者の故・岩城宏之さんのことを書いた。その続きである。

  東京生まれの岩城さんは読売ジャイアンツのファンだった。親友だった故・武満徹さんが阪神ファンで、岩城さんがある新聞のコラムで「テレビの画面と一緒に六甲おろしを大声で歌っていた」「あのくだらない応援歌を」と懐かしみを込めて書いていた。また、岩城さんはクラシックを野球でたとえ、04年と05年の大晦日、ベートーベンの1番から9番の交響曲を一人で指揮したときも、作曲家の三枝成彰さんとのステージトークで「ベートーベンのシンフォニーは9打数9安打、うち5番、7番、9番は場外ホームランだね」と述べていた。面白いたとえである。

  その岩城さんがことし6月13日に亡くなる前、ある野球プレイヤーに人生のエールを手紙にしたため送っていた。あて先はニューヨークヤンキースの松井秀喜選手である。松井選手はその時、故障で休場を余儀なくされた。

  「今回あなたの闘志あふれる守備のため、負傷したことは、誠に残念です。しかしながら、これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。(中略)私も30回に及ぶ手術を受けましたが、次のコンサートのポスターをはって、あのステージにたつんだと、気持ちを奮い立たせました。(中略)お互い、仕事の世界は違いますが、世界を相手に、そして観客の前でプレーすることには変わりはありません。私も頑張ってステージに戻ります。」(06年6月1日の岩城宏之さんの手紙から)

  岩城さんと松井選手の直接の接点はない。ただ、岩城さんは松井選手の故郷である石川県に拠点を置くオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をしていた。そして常々、「このオーケストラを世界のプレイヤーにしたい」と語っていた。岩城さん自らも、20代後半にクラシックの本場ヨーロッパに渡り、武者修行をした経験がある。その後、NHK交響楽団(N響)などを率いてヨーロッパを回り、武満作品を精力的に演奏し、日本の現代曲がヨーロッパで評価される素地をつくった。

  岩城さんは挑戦者の気概を忘れなかった。2004年春、自らが指揮するOEKがベルリンやウイーンといった総本山のステージを飾ったときの気持ちを、「松井選手が初めてヤンキー・スタジアムにたったときのような喜び」とインタビューに答えた。クラシックのマエストロが、当時華々しくメジャーデビューを飾った松井選手の心境になぞらえたのである。

  これは後日談になるが、73歳のマエストロはメジャーの並みいるピッチャーを睨みつけ撃ち続ける松井選手の姿にほれこんだのだろう。今年に入ってからは、松井選手のために応援歌をつくろうと、自ら歌詞の公募や作曲家の人選などの準備を進めていたのである。その矢先の「松井故障」の報だった。くだんの手紙はそのような背景があってしたためられた。

  岩城さん自身、「私の元気のもとは手術」と言うくらい、後縦靭帯骨化症という職業病でもある難病を患い、その後も胃がんや咽頭がん、肺がんと数々の病と闘いながらも復帰を果たし、ステージに立った。手紙にある「これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。」とは、術後の養生の極意なのだろう。決して焦るな、と諭しているようにも解釈できる。

  おそらく直接話したこともない2人の心のやりとりを手紙という1点で結んで地元テレビ局のHAB北陸朝日放送がドキュメンタリー番組にして放送する。HABは、高校野球の取材を通じて松井選手をプロデビュー以前から知り尽くしている。そして、7年に及ぶOEKのモーツアルト全集(95年-01年、東京・朝日新聞浜離宮ホール)の放送や、04年と05年の大晦日のべートーベンチクルス(連続演奏)の収録を通じ岩城さんの傍でその人となりを見てきた。2人を知るテレビ局をだからこそ制作できたドキュメンタリー番組だ。

  それにしても、岩城さんが松井選手に手紙を送って、その2週間後に亡くなるとは・・・。死してなおエピソードを残した偉人だった。(写真は、06年1月1日、ベートーベン連続演奏を終えて乾杯する岩城さん=東京芸術劇場で)

 ※石川エリアでの放送日程  全国での放送日程

⇒24日(金)朝・金沢の天気  はれ

★人とクマ、闘うとき

★人とクマ、闘うとき

 クマの出没がニュースとして取り上げられている。なにしろ、今年度、クマによる人身事故や農作物への害で捕獲されたツキノワグマが全国で2956頭(10月30日現在・朝日新聞まとめ)にもなり、死者3人・けが人111人となっている。大量出没したおととし(04年度)より捕獲数ですでに上回っている。

 クマ出没に関して、現在はドングリなどのエサ不足に加え、里山と奥山の区別がつかないほど里山が荒れ、クマ自身がその領域の見分けがつかず、里山に迷い込んでくる…などの原因が考えられている。これを人災と見るか、害獣の侵入と理解するか意見は分かれる。

 かつて、この「自在コラム」(05年4月30日)にこのクマ問題でこんなふうに書いた。「クマが里に出没すると人の対応もさまざまです。去年の秋、富山県はクマに襲われ負傷した人が22人(去年10月時点)にもなりました。同じ北陸でも石川と福井は負傷者が一ケタに止まりました。クマに追いかけられて取っ組み合いとなったり、棒やカマで反撃したりとなかなか気丈な人が多いのが富山県です。私が新聞で見た限り、クマと「格闘」した最高齢は富山県上市町の77歳のおばあさんでした。」

 要は、富山県で負傷した人が多いのは、気丈な県民性でクマと出くわしても追い払おうとするせいではないか、と当時考えたのだ。この話を、先日(11月10日)にお会いした富山市ファミリーパーク園長の山本茂行さんにうかがった。山本さんの答えは、県民性というより地形に問題がある、との考えだった。

 五箇山山系の山と人里はとても近く、さらに砺波平野では散居村(さんきょそん)と呼ばれ、集住を避けて点在している。しかも、その家屋には「屋敷林(かいにょ)」と呼ぶ樹木が植わっている。すると山から下りてきたクマが人と出くわして、うっそうとした屋敷森に逃げ込む。するとそこは住家なので人との接触率も高い。けが人の数も多くなる。

 ここからは、私の推測だが、侵入者が自分の家屋や敷地など自分の生活圏(テリトリー)に入ってくれば、追い返そうと闘う。これは県民性というより、本能ではないか。クマと人とのかかわりをさらに考察してみたい。

⇒13日(月)朝・金沢の天気  はれ

★ブリ起こしの雷

★ブリ起こしの雷

 きょう(7日)は立冬だ。発達した低気圧が日本海が回りこんでいるようで、金沢では、昨日から断続的に強い雨と風、雷が吹き荒れている。まさに冬の訪れをイメージさせる天気ではある。

 昨夜、金沢の繁華街・片町を歩くと、居酒屋などでは6日解禁となったズワイガニがさっそくお目見えしていた。例年、解禁初日には石川県内から100隻を越える底引き網漁船が出港し、近江町市場の店頭にはドンとカニが並ぶ。ご祝儀相場が立つので高値で売れるからだ。だが、庶民にはちょっと手が出せない。何しろ一匹数千円の食材なのである。

 そこで、金沢の人々は初日は小ぶりながら身が詰まっているメスのコウバコガニを食する。オスのズワイガニに比べれば安い。一匹1000円前後だ。で、高値のズワイガニはどうなるかというとお歳暮用、つまり贈答用になる。だから、金沢のお歳暮商戦の実質的な幕開けはこのズワイガニの解禁日と重なる。

 冬のもう一つの食材がブリだ。きょうも未明から雷鳴がとどろいた。金沢ではこうした立冬前後の雷を「ブリ起こし」と呼んでいる。ブリが能登半島に回遊してくる季節と重なるのだ。ちなみに、能登半島の輪島では「雪だしの雷」と呼ばれ、初雪の訪れを告げる。

 食材の訪れもさることながら、そろそろ「雪つり」をしなければならない。自分では技術的にできないので植木職人に依頼する。下手に自分で施して、松の枝でも折ろうものなら、「金をケチるからや」とそしりを受けることになる。で、職人に頼むのだが、これは「冬税」だと思ってあきらめるしかない。

 昨日からの雷で、車のタイヤ交換のことを連想した人も多いはず。「よーいドン」ではないが、立冬の雷鳴で、冬支度の準備が始まったのだ。

⇒7日(火)朝・金沢の天気   あめ

★成熟社会の実りの秋

★成熟社会の実りの秋

 私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」が子どもたちの歓声で包まれた(17日)。収穫した稲の脱穀作業があった。何しろこの農作業は50年前の方法で農業体験を試みるというもの。千羽こき、足踏み脱穀機などいまでは民俗文化財のような道具を使っての作業だ。

 子どもたちにすれば、足で踏んでローターが回転するだけでも楽しく、さらにそこに稲穂を差し込むとモミが簡単に取れるから面白い。50人ほどの子どもたちが入れ替わり立ち代わり試みる。子どもたちの歓声は絶えなかった。

 なぜ金沢大学で子どもたちが、と思われるかもしれない。近くの金沢市立田上小学校の5年生の総合学習の時間を大学として支援している。このため、子どもたちは春にはキャンパス内の竹林でタケノコ掘りを体験し、初夏には田植え、草取り、秋には稲の収穫を行っている。

 こうした作業を学生や教員が支援するのではなく、地域のボランティアの人たちが子どもたちに手ほどきをしている。大学は場所の提供と、ボランティアと学校をつなぐ役目に徹している。ボランティアの中には91歳のおばあさんもいる。

 これまでの話を次ぎように考える。大学キャンパスを学問の砦(とりで)として閉ざすのではなく、地域に開放している。学校は地域の人々の協力でさまざまな子どもたちへの教育を試みている。ボランティアは高齢であっても地域参加の志(こころざし)を持って生きがいとしている。この3つの要素がうまくかみ合った結果として、子どもたちの歓声が沸き起こったのである。

 もちろん、この3つの要素は偶然に重なったのではない。ここに至るまでに大学は大学で地域開放と社会貢献の論議をし、学校は学校で管理教育とゆとり教育の論議をし、地域は地域で人のネットワークづくりの長い歴史があったろう。そのお互いの試みが広がる裾野の一端で重なり合って、今回の「歓声のトライアングル」の光景があった訳である。季節は収穫の秋であり、成熟した社会の実りの光景でもある。

⇒18日(水)午前・金沢の天気  はれ

★「新米」2題

★「新米」2題

 能登半島に金蔵(かなくら)という地名の集落がある。標高150㍍ほどの山村で段々畑が連なっている。ここを訪れると、日本の農村の原風景に出会える。稲はざで干されたコシヒカリがいかにも黄金色に輝いて見える。

  きょう26日、この集落を訪れたのは金沢大学が委嘱している研究員で、郷土史家の井池光夫さんに会うためだった。「新米を食べてみませんか。私もことし始めてです」と井池さんにすすめられた。金蔵の農家は米のブランド化に熱心だ。増産はせず、10㌃あたり450㌔以下の収穫、有機肥料、はざ干し、そして何より汚染されていないため池の水を使っての米作り。つまり、正直に丁寧に米をつくるのである。

  井池さんが懇意にしているお寺の坊守りさん(住職の奥さん)が新米のご飯をたいてくれた。そして能登の天然塩を一つまみ入れたおにぎりを「お昼に」と出してくれた。

  はざ干しに近づいてにおいをかぐと、光を吸収したなんともかぐわしい香りがするものだ。感覚で言えば、干した布団のぬくもりとでも言おうか…。おにぎりもそんな健康的なにおいがした。口にすると、ふっくらとして甘みがある。「うまい」という言葉が自然に出てきた。3個もいただいたせいか、終日腹持ちがした。

  新しい総理の安倍晋三氏が就任後初めて記者会見する様子が26日夜、テレビでライブ中継されていた。財政再建の模範を示すため自らの給与の3割、閣僚の給与の1割をカットすることを明らかにした。国家公務員の給与をばっさり落としていくと宣言したとも取れる内容だった。

  3割給与カットは並大抵の決意ではない。発表した組閣内容と会見内容を自分なりに読み解くと、内政的には、公務員改革、財政の見直し、社会保険庁の民営化、地方のリストラと裏腹の道州制への移行などがキーワードになろう。つまり、小泉政権を継承し、外交と防衛のみを担当する「小さな政府」を目指すと言葉に濃く滲ませた。

  外交では、北朝鮮の拉致問題で得た経験を生かし、今後は人権外交を展開していく。そのために塩崎恭久氏に官房長官と拉致担当大臣を兼務させ、総理の直轄とした。さらに、アドバイザーとして拉致被害家族の人望が厚い中山恭子氏(元内閣官房参与)を起用した。また、国連安保理の常任理事国入りに再度挑戦するという意志表示もした。政治の命脈はいかに政策の鮮度を保つか、である。52歳、新米の総理の手腕は未知数だ。

  きょうは「新米」という言葉を2度考えたのでそのまま「自在コラム」のタイトルとした。他意はない。

⇒26日(火)夜・金沢の天気  はれ

★トキが能登に舞う日

★トキが能登に舞う日

 国内のトキは環境省が佐渡保護センターで集中的に飼育していて、その数は現在98羽に増えている。しかし、1カ所に集めた飼育では鳥インフルエンザなどのリスクも大きいとして、分散飼育の方針を打ちしている(03年)。環境省では100羽になるのをめどに国内の複数の動物園で分散飼育して繁殖させる計画。さらにその先には放鳥による野生化計画も視野に入れているようだ。

  こうした環境省の動きを見越した「いしかわ動物園」(石川県能美市)ではトキ類人工繁殖チームが発足し(04年)、近縁種のクロトキで繁殖方法のノウハウを磨いている。石川のほか、東京の上野動物園や多摩動物園なども、環境省が公募した分散飼育先に名乗りを上げた。その公募がこのほど打ち切られ、飼育先の決定を待つばかりとなっている。

  石川が熱心になっているのも、本州最後の1羽は能登半島に生息していたオスだったからだ。「能里(のり)」という愛称まであった。佐渡のトキ保護センターに移され、1971年(昭和46年)に死亡した。その後、剥製となって里帰りし、毎年の愛鳥週間(5月10日から)には県立歴史博物館で展示されている。最後の生息地としては、何とか分散飼育で「トキよ再び」の夢をつないでいるのだ。

  こうした機運を盛り上げようと、石川県立自然史博物館(金沢市銚子町)では特別展「トキを石川の空へ2006」を開いている。県内で所蔵されているトキの剥製4体のうち2体を並べて展示。トキの複数展示は珍しいというので、きょう訪れた。係りの人は「トキのくちばしは湾曲しているので、ドジョウをついばむのは苦手だったかもしれない」などと熱心に説明してくれた。

  能登半島にトキが舞う日を夢見ている人がいる。半島突端の珠洲市で小学校の校長をしている加藤秀夫さん。「トキの野生化計画が進んで仮に放鳥が始まれば、佐渡から真っ先に飛んでくるのは奥能登なんです。何しろ佐渡から能登は見える距離なんですから。飛来したときに田んぼに水がはってあれば必ず舞い降りるはず」と熱く語る。そこで、冬の田んぼの水はり運動を農家に呼びかけている。その効果があってか、実はことし1月にはコウノトリの飛来が1羽観測されている。

  加藤さんの試みはまだ孤軍奮闘の状態。分散飼育が具体化して機運が盛り上がれば、加藤さんの運動の輪も広がるのかもしれない。

 ⇒9日(土)夜・金沢の天気  はれ  

★ブログ300回、印象に残る1枚

★ブログ300回、印象に残る1枚

 ブログ「自在コラム」は2005年4月にスタートして、今回で数えること300回となった。ブログを思わなかった日はない。「これをネタに書こうか」と思いながらも書かなかった日もあれば、書く予定ではなかったものの弾みで書いたこともある。ブログはすっかり私の生活習慣に根を下ろしている。ブログ率はおおよそ60%、5日に3日は書いている計算になる。

  写真も随分と撮った。画像ファイルがハードディスクの容量を占めるようになってきたので、外付けのハードディスクを急きょ購入した。この300回を振り返って、一番多くシャッターを切ったのがことし1月に訪れたイタリアだった。ローマで撮った中世街並みや文化財クラスの絵画や像の数々、遺跡、ミラノでのファッショナブルな街並みや人々など。こうしてみるとイタリアは絵になる国なのである。そこでその中から心に残る1枚の写真を掲載する。

  国立フィレンツェ修復研究所を訪れたときの画像だ。もともとこの研究所は16世紀に「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が珍しい鉱石(貴石)の収集と細工を目的に設立した。いま世界でトップクラスの修復のプロたちが集う。研究所内を許可を得て撮らせもらった。ベッドに横たわる聖像があった。修復士たちが何やら聖像の声に耳を傾けているようにも見えた。聖像は右手を上げ、「病んでいる私を助けてほしい」と訴えかけているよう。まさに病院の医者と患者の光景であった。美術王国イタリアのひとコマである。

⇒31日(月)夜・金沢の天気   はれ    

★人質の論理

★人質の論理

   一連のニュースを読み込んでいくと、これまで気づかなかったことが見えてくることがある。今回はとっさにそのタイトルが浮かんだ。「人質の論理」である。

  20日付の新聞各紙によると、北朝鮮が来月に予定された南北離散家族再会行事を取り消し、金剛山面会所の建設を中断すると韓国側に通報してきたという。この韓国と北朝鮮の離散家族の再会は南北の赤十字が窓口になって開催されているが、8月9日-11日、21-23日に予定されていたのを北朝鮮側が一方的に中止すると通告してきたというもの。

  北朝鮮側の中止理由は「南側がコメや肥料など人道的な事業を一方的に拒否した」である。この中止通告には伏線ががある。今月13日に韓国・釜山で開かれた南北北閣僚級会談で、北朝鮮代表団が「韓国の一般国民は金正日総書記の先軍政治の恩恵にあずかっている」と発言し、その代価としてコメ50万㌧の援助を要求した。しかし、この要求に対し、ミサイル発射問題から韓国側がコメの援助を凍結すると回答したのである。今回の南北離散家族再会行事の中止の直接の原因はおそらくこの韓国側の措置に対する主意返しである。

  もちろん、ミサイル発射問題で国連安保理が対北朝鮮決議を採択(15日)、国際的に四面楚歌になっている北朝鮮が「立場をはっきりせよ」と韓国政府に揺さぶりをかけているという見方があっても不思議ではない。20日付の中央日報インターネット版によると、盧武鉉大統領は19日の青瓦台での安保関係閣議で、北朝鮮がミサイルを打ち上げたことについて「状況の実体をこえて過度に対応し不必要な緊張と対決の局面を作っている一部(日本など)の動きは、問題解決にプラスにならない」と述べたといわれる。北側に配慮したコメントである。

  話を元に戻す。離散家族とは言うものの、先日話題になった金英男さんら韓国人拉致被害者も含まれる。拉致をしておきながら、韓国に帰さずに止めておき、韓国から家族を呼び寄せる。これは一体どういうことか。日本でも欧米でも、家族を誘拐されたらあらゆる手段を使って、奪還することを考える。だから、こうした「犯人」の意に沿った「離散家族の再会」などという手法には乗らない。日本人拉致被害者の横田めぐみさんの両親が北朝鮮には行かないのも、これは人質奪還闘争だからだ。

  ところが、今回の離散家族の再会問題にしても、北朝鮮の立場は人質を取った側の論理で、相手の弱みにつけ込んで身代金を要求するのは当たり前と考えている。一方、韓国側も人質を取られた側の弱みで、身代金を払う(コメや肥料の支援事業など)のは当たり前との考え方のようだ。これはまさに犯人側の人質の論理である。

  これに対し、日本は人質奪還の論理だ。日本と韓国の政府の立場は人質奪還闘争を展開するか、しないかの腹のくくり方の違いのように思える。かつて、日本も犯人側の人質の論理にすっぽりはまっていた時期が長らく続いた。「こちらが帰せと騒げば、(北で人質となっている)家族が殺される。それだったら穏便に日本政府としてコメでも援助して、肉親と会えるチャンスをつくってあげよう。それが人道というものだ」との考えだ。その論理で、寺越武志さんと家族の再会が演出された。おそらく森喜朗前総理まではこの発想だったろう。

 ⇒20日(木)夜・金沢の天気   あめ