⇒トピック往来

☆選挙を冷やす装置

☆選挙を冷やす装置

 参院選挙が今一つ盛り上がらない。それを立候補者側の話題の提供の少なさに求めるのはいささか酷だと思う。それより、選挙のあり方に問題があるのではないか。公職選挙法142条は、選挙活動のツールとして官製はがきと公定ビラの使用に限っている。インターネットによるパソコンの画面は文書図画(とが)とみなされ、使用禁止なのだ。「IT国家」を自認する国で、である。

  2002年8月に政府の「IT時代の選挙運動に関する研究会」が報告書を出し、インターネットの選挙利用を促進するよう方向付けをした。そして、04年に公選法の改正案が国会に出されたが、葬り去られてしまう。阻んだのは誰か。地盤(支持団体)、看板(知名度)、鞄(選挙資金)の「3バン」と呼ばれる古いタイプの選挙運動で選挙を勝ち抜いてきた候補者たち。与野党、老若男女を問わず、新しい選挙のやり方に抵抗感がある人たちだ。

  匿名の誹謗中傷や、何万通という大量のメールなどでホームページが攻撃されるなど疑心をもたれているようだ。ならば、選挙用のサーバーを党が構築してセキュリティを万全にする、あるいは選挙管理委員会が選挙掲示板を設けているように公設のサーバーで候補者のホームページをつくったらどうか、とも思うが話はそこまで進んでいないようだ。

  今回の選挙から海外の在留邦人は比例代表だけでなく、選挙区の投票も可能になった。これは2005年9月、選挙区選挙の投票を認めていなかった公選法は違憲とする「在外選挙権訴訟」で、最高裁が違憲判決を出したからだ。その中で、「通信手段の発達で候補者個人の情報を在外邦人に伝えることが著しく困難とは言えない」と指摘した。つまり、インターネットを使えば海外であろうと、有権者が判断できる選挙情報が得られると判断したのである。だから、本来ならば公選法の改正は、在留邦人の選挙区投票とインターネットの選挙利用はセットで行われるべきであった。ところが今回もネットの選挙利用は「抵抗勢力」の厚い壁に阻まれてしまうのである。こうして、民主主義の基盤である日本の選挙はIT化から阻害されている。

  で、ブログサイト「goo」では、このようなブロガーに対するお知らせが掲載されている。要約すると、選挙に関する記事を投稿の際は、公職選挙法違反(刑事罰の対象)に注意してほしい。その1は特定の候補者を「応援したい」といった表現、その2は単に街頭演説があったという出来事を記述、その3は街頭演説を撮影した写真や動画を投稿すること、その4は特定の候補者の失言シーンだけを集めた「落選運動」…など。要するに、選挙に関する記事は慎重に、と。

  街では候補者の「お願いします」のスピーカー音が日増しに大きくなっているが、インターネットの世界は静かだ。インターネットの選挙利用が進まなければ、選挙はいつまでたっても盛り上がらない。

⇒26日(木)朝・金沢の天気   くもり

★被災者にこそ情報を

★被災者にこそ情報を

 きょう(16日)の休日、金沢の自宅でパソコンに向かっているとグラリときた。12日午後11時半ごろにも能登半島で地震2の地震があったので、その関連と思った。しかし、きょうの地震は断続的に、時間的に長く感じた。

   揺れが収まり、しばらくして能登半島地震の学術調査でお世話になった、輪島市門前町の岡本紀雄氏から電話があった。「能登の学校の方は大丈夫だったの、珠洲が結構揺れたようだけど…」と。書き物を急いでいたので、テレビの地震速報を見ていなかった。岡本氏は地震にはとても敏感に反応する。何しろ、阪神淡路大地震(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自らを「13.5の男」と称している。

   =午前10時13分、新潟県柏崎市など震度6強=

  気象庁の地震速報をWEBでのぞくと、震源は能登半島ではなく、新潟県上中越沖となっている。金沢は震度2だった。やはり断続に3回の震度6強が揺れがあった。これが長く感じた理由だった。  能登半島・珠洲市も震度5弱。相当の揺れである。能登に住んでいる岡本氏に言われて初めて相当に広範囲な揺れであったことが理解できた。そこで、珠洲市に拠点を置く「能登半島 里山里海自然学校」の常駐研究員に電話を入れた。彼はすでに学校に到着していて、「特に被害は見当たりません」と。ひと安心した。この校舎では、ことし10月から「能登里山マイスター」養成プログラムという国の委託事業がスタートし、常駐研究員2人と受講生15人が入ることになっている。施設に被害があるとスケジュールに影響するからである。

  東京からも電話があった。「月刊ニューメディア」という専門誌の編集長からだった。「宇野さん、そちらも相当に揺れようですが、被害はありませんでしたか」と。能登半島地震の学術研究「震災とメディア」の中間報告の原稿を掲載していただたこともあり、気にしていただいたようだ。「被害はおかげさまでありませんでした」と答えると、「でも宇野さんの研究テーマはこれからも続きますね…」と。確かに、震災とメディアは切ろうにも切れぬ関係である。ワイドショー向けのドラマ仕立て人間ドキュメント、メディアスクラム、風評被害、コンビニ買占め・・・。それより何より、被災地にフィードバックがない情報発信の仕方は、メディアの構造的な問題である。

  読売新聞インターネット版はきょうの地震関連でさまざまなことを伝えている。輪島市は、能登半島地震で寄せられた救援物資のうち、未使用の水や食料などを今回の地震の被災地に送ることを決め、トラックへの積み込みを始めた、とのニュースがあった。何の被害も受けなかった人は、このニュースを好意的に感じるだろう。しかし、この情報は被災者には届かないだろう。インターネットを物理的に利用できないだろうし、その余裕もない。もし情報が届いたとしてもまったく役に立たないだろう。被災者にとって必要な情報は、この水や食料がいつ何時ごろ、どこの被災地に届けられるのかという情報だけである。

  メディアのすべての記者とカメラマンが被災者と同じ目線を持つ必要はない。ただ、何割かは被災者と同じ目線でニュースを伝えてほしいし、被災者のための情報発信をしてほしい。一番困っている人々に、情報を欲している人々に情報を伝えてほしいからである。

 ⇒16日(休)午後・金沢の天気  くもり

★続「塩釜のビジネスモデル」

★続「塩釜のビジネスモデル」

 加賀藩には徴税能力に長けた知恵者がいた。当時貴重品だった塩釜=写真=は、塩士(しおじ)と呼ばれる能登の製塩業者に13年の分割払いで貸付けられた。つまりリースされたのである。

  1年のリース代は米ベースで5斗(0.5石)だった。13年のリースのうち、藩が6年分を、鋳物師が7年分を分け合った。加賀藩は6年分を徴収する代わりに「諸役免除」と、運転資金となる「仕入銀」を与えた。13年のリース切れのものは塩士に払い下げられた。この「塩釜リース」は江戸時代初期の慶長10年(1605)には塩釜835枚、中期の元文2年(1737)年には塩釜2000枚が貸し付けられたという内容の古文書(複製)も展示されている。膨大な量の塩を独占した加賀藩は余剰となった塩を、相場をにらんで大阪に回した。

  面白いのはこのリースというビジネスモデルを中居の鋳物師たちは独自に応用し、「貸鍋(かしなべ)」という、自作農民を相手にした鍋のリース事業を展開する。「1升鍋」のリース代は米1升(1.8㍑)、2升鍋は米2升で無償修理とした。鍋釜は高根の花だったのである。これが当たってビークで3000枚の鍋リースを事業展開する。鍋だけで中居には100石の米が集まった。いまでいうコピー機の製造メーカーが事業所にメンテナンス付でリースするのとよく似ている。

  塩釜や鍋のリース事業のほか、寺社向けの梵鐘の製造販売、武具や金具の製造など産地形成がなされたものの、ある意味で官業に付随し、安穏と利益を得たツケはいずれ回ってくる。技術イノベーションへの取り組みが遅れるのである。中居が製造していた塩釜は「十鍔釜」(形太釜)と呼ばれ、底が深く、熱伝導が悪いものだった。同じ加賀藩の高岡鋳物で生産された浅釜は直径が長く、平底だったので格段に熱伝道がよかった。そこで、能登の塩釜はこの高岡釜に取って代われる。元文2年(1737)には2000枚を誇った貸付物件は、明治12年(1879)に600枚と激減している。明治以降、中居の鋳物職人たちは高岡産地などに吸収されていく。昭和9年(1934)に300年余り続いた塩釜リース事業を終えたとき、51枚になっていた。

  藩政時代、米1石は武士の1年の生活給の目安だった。加賀百万石というのは100万人の武士を雇える財力ということである。その租税はこうした、加賀藩によってハンドリングされた塩士や鋳物師、農民の労働の結晶でもあった。

  これでコラムを終わっては「中居の鋳物物語」はさみしい。中居の鋳物の伝統は消え去ってしまったのか。いや、いまに生きている。天正9年(1581)、初代の加賀藩主である前田利家は、中居から一人の有能な鋳物師を金沢に呼び寄せ、禄を与えて武具などの鋳造を行わせた。宮崎義綱(みやざき・よしつな)だった。その子・義一(よしかず)は、加賀藩に召し抱えられた茶堂茶具奉行の千宗室仙叟によく師事し、茶の湯釜の制作を学び、多くの名作を残す。仙叟から「寒雉(かんち)」の号をもらい、加賀茶の湯釜の創始者として藩御用釜師のステータスを得る。その技術は現在も代々脈打つ。「寒雉の釜」はいまも茶人の垂涎(すいぜん)の的である。

 ⇒17日(日)午前・

☆「塩釜のビジネスモデル」

☆「塩釜のビジネスモデル」

 鍋(なべ)を枚数でカウントするということを知らなかった。これまで、一つ、二つ数えていたのではないだろうか。先日、ぶらりと訪れた石川県穴水(あなみず)町の「能登中居鋳物館」でそんな小さな発見をした。

   鋳物館に入ると、ちょっと衝撃的な光景を目にすることにもなる。高さ268㌢の鋳物製の一対の灯篭(とうろう)が倒れ、あたりに散乱している=下の写真=。もともと明泉寺という近くのお寺の灯篭で、町指定文化財だ=上のパンフレト写真=。ことし3月25日の能登半島地震は造りがしっかりとしたこの建物を激しく揺さぶった。案内の女性は「痛々しいので早く補修していたのですが・・・」と申し訳なさそうに話した。でも、ある意味で、震災アメモリアルとしてこのまま保存しておいてもよいのではないかと思ったりもした。自然に倒れたのではない。能登の震災の歴史を刻んで倒れているのである。

  穴水町中居(なかい)という集落は江戸時代中ごろ、鋳物の生産が盛んで40軒ほどの鋳物師(いもじ)がいたとされる。この周囲には真言宗など寺など9ヵ寺もあり、それだけの寺社を維持する経済力があった。2003年7月に開港した能登空港の事前調査でおびただしい炭焼き窯の跡が周辺にあったことが確認され、当時、ニュースになったことを思い出した。つまり、鋳造に使う炭の生産拠点が近場で形成されていた。そして原料となる砂鉄や褐鉄鉱などが能登一円から産出され、中居に運ばれた。その技術は14世紀、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し南北朝の動乱に巻き込まれた河内鋳物師が移住したともいわれるが定かではない。

  資料館での展示品でひと際大きい釜が並んでいた。直径1.6㍍ほどで底は浅い。塩釜(しおがま)と呼ばれ、塩づくりに用いられた、と説明が書きがあった。驚くのは、ピーク時には2千枚もの塩釜が生産され出回ったこと。その行き先は。加賀藩は慶長元年(1596)に、農民救済のために「塩手米(しおてまい)制度」をつくり、耕地の少ない能登で農民に玄米1石(※1石は約180㍑)を貸し与え、塩4.5石を納めさせたといわれる。この制度はその後、藩による塩の専売制度(寛永4年=1627)のベースになる。中居の塩釜はこの制度とリンクしていた。(続く)

 ⇒16日(土)午後・金沢の天気   はれ

☆南極の氷アラカルト

☆南極の氷アラカルト

 この写真は最近学内で貼られた、クールビズ(夏の軽装)を呼びかける金沢大学のオリジナルのポスターだ。気が利いているのは、キャラクターにベンギンを起用しているところ。「氷が恋しい…」とぺンギン君は訴える。

  地球温暖化で極地の氷がどんどん解けているといわれている。写真は地べたに寝そべる皇帝ペンギンだ。タネ明かしをしよう。実はこの写真は、ことし3月帰国した第47次南極観測隊の隊員だった大学の研究者が提供してくれたもの。南極に降り注ぐ宇宙の電磁波を観測していた。でも足元のペンギンもしっかりとウオッチして撮影していた。

  去年6月、その隊員を交えて、南極の昭和基地と金沢大学を衛星回線で結んで子供たちのための「南極教室」を開催した。その折に、国立極地研究所(東京)の厚意で南極の氷をいただいた。実際に子供たちに見て、触ってもうらためである。催しが終了し、解けずに残っていた氷があったので、試しにウイスキーの氷割り(ロック)をつくって飲んでみた。グラスに耳を当ててみると、プチプチと音がした。氷に閉じ込められていた数万年、いや数十万年前の空気が弾けているのである。

    先月20日、評論家の月尾嘉男氏の環境をテーマにした講演を聴いた。海水面の上昇に関して一部誤解があるという。「温暖化による水面上昇は北極南極の氷が溶けるからではなく,水が熱膨張するからである」と。

  地球のグローバリゼーションをたとえて、「人生七掛け、地球八分の一」とよく言われる。空路が発達して、それだけ地球は小さくなった、そして人生は長くなったという意味だが、これに「地球の温度三度増し」を付け加えよう。「人生七掛け、地球八分の一、地球の温度三度増し」。3つのフレーズにすると言葉の走りが実によくなる。そして随分とエコっぽくなる。

  今回のブログにはストーリー性がない。一枚のポスターから連想したアラカルトの話になった。

 ⇒30日(水)朝・金沢の天気  くもり  

★「午前9時42分」という時間

★「午前9時42分」という時間

 能登半島地震から早いもので2ヵ月がたった。被害が大きかった輪島市門前町では、避難住民は避難所から仮設住宅へと移った。いま振り返り、つぶさに検証してみると、この震災は「奇跡的に・・・」という場面が多い。

 地元の人たちが「有線」と言っているシステムがある(※4月30日付「メディアのツボ-51-」参照)。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内臓された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。

 普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。地震があった日、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで自失茫然としていた住民が我に返って、近所誘い合って避難場所へと駆け出したのである。この有線放送電話が「ミニ放送局」となって、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者が必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年に敷設が始まったローテクともいえる有線放送電話が今回の震災ではしっかりと放送インフラとして役立ったのである。

 震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部の地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。専門家は「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。

 震災が一番大きかった輪島市門前町は300軒が全半壊などの家屋損傷。しかも、65歳以上のお年寄りが47%という高齢化地区である。しかし、命を落とした人はいなかった。学術調査でアンケート(被災者110人)を取ったところ、震災が起きた「午前9時42分」という時間で自宅にいた人は60人(54%)、うち「寝室」にいたという人は5人である。もし1時間早かったら、この数字は大きくなり、結果として逃げ遅れた人は多かったかもしれない。震災から2ヵ月、いろいろと考えることが多い。

⇒28日(月)夜・金沢の天気   はれ

☆たかが電子データ、されど…

☆たかが電子データ、されど…

 パソコン生活で起きた「事件」だった。今月20日、日曜日のこと。急ぎの用事があったので、ノートPCのメディア・プレーヤーを再生途中に強制終了(リブート)をかけた。すると、いつもはプシュという音で終了するのに、パツッという音がした。いやな予感がして、今度は立ち上げようとしたが立ち上がらない。

  そこで、金沢大学近くにあるPCの修理店に持ち込んだ。店員は、OSを再インストールする必要があるという。そして念のために、ハードディスクがどんな状態かみてもらった。すると、反応がない。コツコツと軽くたたいても反応がない。店員は「やられていますね」と。つまり、壊れている。この一言で頭の中が真っ白になった。ファイルなどのデータは全滅。なかには翌日(21日)と次週28日のメディア論の授業で使うパワーポイントも入っていたのだ。

  自失茫然。涙が込み上げてくる。そして、「なんと浅はかなことをしたのだ」と自分自身に対する怒りも。店員から「お客さん、大丈夫ですか。真っ青ですよ」と顔を覗き込まれ、我に返った。PCの修理を依頼して自宅に帰ったが、哀しさや怒りが収まらない。そうは言っても、当面、あすの授業をどうするか。新たにポワーポイントを作成しようにもPCがない。すると今度は手元にPCがないことの恐怖感が襲ってきた。メールの受発信をどうするか、自らが孤立するような不安感である。

  そして、PCが修理されて帰ってきても、これまで使っていたソフトのインストール作業の手まひまとコストを考えるとまた暗澹(あんたん)たる気持ちに陥った。

  ハードディスクが壊れただけで、たかが電子データを失っただけで、失ったことのはかなさと哀しさ、自らへの怒り、ネット環境からはぐれてしまうことへの恐怖を感じてしまう。そして、いま代替機でブログを書いているが、ブログを書こうと気を取り戻すまでに5日間もかかったのである。

  ただ、唯一の救いだったのは先月末に外付けのハードディスクに一部のデータを保存してあったことだった。たかが電子データ、されど電子データの1週間だった。

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  くもり 

★能登のオキャン

★能登のオキャン

 このゴールデンウイークで行われた石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)を見物してきた(5月4日)。この祭りの山車(だし)の大きさが半端ではない。高さ12㍍だ。ビルにして4階建ての高さになる。車輪の直径が2㍍もある。民家の屋根より高い。通称「でか山」がのっそりと街を練る様はまさに怪獣映画に出てきそうなモンスターではある。

  でか山を出すのは、「山町(やまちょう)」と呼ぶ府中・鍛冶・魚町の3つの町内会。それぞれ1台の山車が神社に奉納される。山車の形は、末広形とも北前船を模したものとも言われる。先述したように、山車の高さは12㍍、上部の開きは13㍍、車輪の直径2㍍あり、山車としては日本最大級。上段に歌舞伎の名場面をしつらえるのが特徴だ。

  この山車を通すためにルートを横切る区間の電柱が極めて高く設置されている。電線を地中へ埋設する計画もあったが、この高い電柱のために祭りの存在を知る旅行客も多い、とか。

  このでか山を引っ張りまわす元気な女性グループがいた。粋なスタイルで、なんと表現しようか、オキャンなのである。つまり「おてんば」。祭りを楽しんでいるという感じだ。彼女たちの存在が、この祭りをとてもあか抜けしたイメージにしている。

  七尾市も能登半島地震(3月25日)では被害を受けた。とくに和倉温泉だけで6万余りのキャンセルがあったといわれる。震災による風評被害でもある。でも、今回の祭りを見て、七尾の人たちは震災にめげず、乗り切っていくのではないか、そんな元気を感じた。あのオキャンたちがいれば…。

 ⇒8日(火)夜・金沢の天気  はれ 

☆被災地でツバメが巣づくり

☆被災地でツバメが巣づくり

4月29日に能登半島地震の被災地、輪島市門前町を訪れた。被災家屋の軒下でツバメが巣づくりをしていた。帰巣本能で飛来したツバメは家屋の様相が一変しているのに戸惑ったに違いない。ツバメは3月25日の能登の震災を知らない。季節は移ろっているのだ。

 門前を訪れたのは、金沢大学の震災に関する学術調査で、私の研究テーマ「震災とメディア」の被災者アンケートがその目的だった。当日は日曜日ということもあって、調査に訪ねた諸岡公民館(避難所)では見舞い客が大勢訪れていた。被災者の世話をしている災害ボランティアのコーディネーター、岡本紀雄さん(52)から「あす(30日)から仮設住宅への引越しが始まるので、みんな(被災者)はその準備で忙しい。アンケートも手短に」とアドバイスを受けた。

 岡本さんは以前、「自在コラム」で紹介したように、阪神淡路大震災(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自ら「13.5の人」と称している。新潟県中越地震(2004年10月)で被災地の支援活動をした経験を生かし、今回も震災当日(3月25日)から避難所やボランティアセンターで活動を続けた。途中、過労でドクターストップがかかり、兵庫県宝塚市の自宅で数日静養し、また能登に戻ってきた。岡本さんにとっては、被災者が仮設住宅に移るというのは、これまでの活動の一つの区切りになるはず。

 その岡本さんから5月1日にメールが届いた。ひと区切りをつけたボランティア活動家の心情吐露とでも言おうか、被災地で汗まみれになった人間の生き様が見えて、すがすがしい。能登出身者の一人として、「お疲れさま」と感謝したい。岡本さんの許可を得て、その文面を紹介する。

               ◇

みなさんへ

ごぶさたしています 2週間ほったらかしでしたね 私の体調は大丈夫です 血圧は132/80と正常に戻っています でも頭はダメです 地震関係以外のことはまだ長時間考えられません 何を考えていてもそっちに戻ってしまいます

昨日 諸岡公民館避難所は終わりました 避難所から公民館に戻りました 夕方6時に前を通るとカーテンが閉まり、消し忘れのトイレの電気だけがさびしそうに灯っているだけでした 最後までいた約40名は最後の朝食を食べて朝の6:30過ぎには挨拶をして順番に出て行かれました ほとんどが仮設住宅に移られました

多くの皆さんに感謝です 「ありがとネ」です こんな私を受け入れてくれた道下・諸岡の方々、こんな私を助けてくれたボランティアの方々、こんな私を取り上げてくれたマスコミの皆様、私の呼びかけに応えて各集落宛に義援金を送ってくれた方々 こんな私を許してくれた妻と子どもたち・親戚、そして能登を応援して頂いている皆様 本当にありがとうございます

でもこれからです 住宅問題です 地域再生です 仮設は終の住家ではありません 2年限定です 昨日も能登や金沢の有志とそのことの打合せもしました 自力建て替え・公共住宅・老人住宅・ケアハウス・グループハウス/町並み保全・子どもたちからの「こっちへ来んかえ」の声・出て行く人出て行けない人・限界集落・お仕事などなど 今までは言葉だけの世界だったものがドット目の前に一気に迫ってきています これからは皆さんの知恵のボランティアをお願いしなければなりません

今日から仕事 ソフトボールの子どもたちを預かります その後宝塚に戻り東京へも行きます 決算もしなければなりません 補助事業の報告書作成も でも…

門前は非日常から日常へ 田植えも始まっています 観光客も帰ってきています マスコミは帰りました 私もいつまでも非日常でいられません 働きます

今日も長い駄文付き合っていただき「ありがとネ」

のと 岡本 紀雄

⇒3日(木)午前・金沢の天気  はれ

★モンキーパワーを借りよう

★モンキーパワーを借りよう

 能登半島地震から2週間余り、いまだに370人ほどの被災者が避難所での生活を送っている。窮屈な環境が招くとされる「エコノミークラス症候群」などを防ぐため、保健師の指導でお年寄りらが毎日30分間ほど、手を回したり伸ばしたりといった体操をしている。何しろ先の新潟県中越地震で亡くなった67人のうち、51人は避難生活によるストレスや疲労、エコノミークラス症候群などによる関連死だったといわれる。

  中越地震でボランティア経験もある地元・輪島市門前町のN・Oさん(52)から聞いた話では、避難所生活が長くなってくると、気力が弱ってくるせいか、お年寄りは外に出たがらなくなる。「外に出て深呼吸するだけでも随分といいのだが」と心配する。

  そこでなんとかお年寄りに外に出てもらう方法はないかと一計を案じ、ひらめいたのが「お猿さんの力を借りよう」。周防(すほう)猿回しの伝統芸能で全国を回っている村崎修二さん(59)が相棒の安登夢(あとむ)=オスの16歳=を連れて4月20日から石川県に入るという連絡を以前受けたのを思い出した。そこで村崎さんに電話をすると、「慰問ボランティア、ぜひやりましょう」と話が即決まった。

  村崎さんとは去年のゴールデンウイークに金沢大学角間キャンパスで猿回し公演と、文化講演をしていただいた縁でその後何度かお話をさせていただた。村崎さんは、作家・司馬遼太郎の「風塵抄」(中央公論社)の中に「おサルの学校」というタイトルに出てくる。日本の霊長類研究の草分けである今西錦司博士が村崎さんに「おサルの学校」をつくってほしいと依頼した経緯について記されている。その後、司馬氏から「あなたはサルのおかげで人間の大ザル(今西博士)とめぐり会えたんや」と声をかけられたことあったそうだ。

  その村崎さんから「お猿とお年寄りは相性がいい」「猿回しの芸を一番喜んでくれるのはお年寄り、それもおばあちゃんが喜ぶ」「安登夢が棒のてっぺんに上ってスッと立つと、たいがいのお年寄りは『有り難い、有り難い』と合掌までしてしてくれる」と何度か話してくれたのを思い出した。そのモンキーパワーを活用して、お年寄りを運動場に誘い出そう、そして少しでも元気を出してもらおうというアイデアなのだ。今月21日午後、輪島市門前町などで「猿回し慰問ボランティア」を実施する。

⇒10日(火)夜・金沢の天気  はれ