⇒トピック往来

★ドイツ黙視録‐2-

★ドイツ黙視録‐2-

 ドイツを訪れるに際して、ベートーベンのシンフォニー3番、5番、6番、7番、8番がダビングしてある愛用のICレコーダーを携えた。故・岩城宏之が05年12月31日の大晦日に東京芸術劇場で指揮したベートーベン全交響曲のライブ演奏を私的に録画したものだ。ケルンの街には5番が合うなどと思いながら、移動のバスやホテルの窓から街を眺め、そして街を歩きながらイヤホーンを耳に聴いていた。中でも、5月27日に訪れたアイシャーシャイド村は、6番の心象風景にぴったりだった。

     アイシャーシャイド・美しすぎる村

  アイシャーシャイド村は、生け垣の景観を生かした村づくりで、ドイツ連邦が制定している「わが村は美しく~わが村には未来がある」コンクールの金賞を受賞(07年)した、名誉ある村である。景観という視点で地域づくりを積極的に行なっている村の政策や経緯を知りたいというのが知事ミッションがこの村を訪れた理由だ。

  人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」が家々にある。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めている。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いた。

  おそらくこの村には北ヨーロッパの三圃式農業の伝統があるのだろう。かつて村人は、地力低下を防ぐために冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)とローテーションを組んで農地を区分し、共同で耕作することを基本とした。このため伝統的に共同体意識が強い。案内された集会場にはダンスホールが併設され、バーの施設もある。ここで人々は寄り合い、話し合い、宴席が繰り広げられるのだという。おそらく濃密な人間関係が醸し出されているに違いない。ベートーベンの6番「田園」の情景はアイシャーシャイド村そのものである。第1楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民達の楽しい集い」・・・。のどかな田園に栄える美しきドイツのコミュミティーなのである。

  しかし、私には「わが村は美しすぎる」と感じた。濃密な人間関係で築かれた美観というのはどこか息苦しさを感じさせる。次元は異なるかもしれないが、金沢の町内会で道路の一斉除雪に参加しないと近所から白い目で見られるような、そんな雰囲気がひょっとしてあるのではないか、と…。

⇒31日(土)夜・金沢の天気  くもり 

☆ドイツ黙視録‐1‐

☆ドイツ黙視録‐1‐

 石川県知事の訪独ミッション(5月22日から30日)に加わり、ドイツの環境政策の現場や大学における環境教育の取り組みを見学させてもらった。28日には生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議に参加した。「ドイツは環境先進国」と呼ばれるが、どの点が先進なのかつぶさに観察を試みた。題して「ドイツ黙視録」-。

        シュバルツバルトの爪痕

  5月25日、ドイツの南西部に位置するオーバタール村にバスは着いた。ドイツの里山とも言えるシュバルツバルト(黒い森)が広がる。これまで勘違いをしていた。第二次大戦後、スイスやフランスの工業地帯と接しているため、酸性雨の被害によって、多くのシュバルツバルトの木々が枯死した。黒い森とはこうした状況を指しているのかと思っていた。が、黒い森はかつてモミの木が生い茂り山々が黒く見えたことから付いた名称なのである。黒い森と名付けたのはローマ人という説もあるくらい、昔からの呼称だった。

  案内してくれたバーデン=ヴュルテンベルク州森林局長、フロイデンシュタット氏は「昔から森の木々は私たちのパンなんです」とドイツ人と森のかかわりについて話してくれた。ドイツ人はもともと「森に入る民」だった。木を切り、建築材やエネルギー(薪など)を産出した。切った跡には牧草を植え、ヤギやヒツジを飼った。シュバルツバルトは200年ほど前まで牧草地が広がっていた。産業革命の波がヨーロッパにも及び、森にはトウヒ(唐檜)が計画的に植林され、良質の建材、電柱、船のマスト、楽器の素材を産出する一大植林地帯へと変貌していく。現在、山の木の70%が植林によるトウヒだ。かつてシュバツルバツトの語源ともなったモミの木は20%、マツは10%、ブナ3%とすっかり山の様相が変わった。

  「森の木々はパン」のお手本のような森林産業がシュバルツバルトに実現したのだった。ところが、人の手によって、トウヒの森へとモノカルチャー化した山々にはさまざまな問題が生じるようになる。密植により、低木に光が当たらなくなり、保水性が失われた山肌には地滑りが頻発するようになった。そして戦後の経済成長に伴って、酸性雨の問題が生じる。さらに、気候変動によって嵐が襲うようになったのはここ10年ほどのこと。1999年のクリスマスにやってきた「ローター(Lothar)」と呼ばれた大嵐による森林被害の爪痕(つめあと)は1万haにも及んだ。

  その大嵐の被害状況を保存し、記念公園にした「Lothar pfad(ローターの足跡)」をフロイデンシュタット氏に案内してもらった。「根こそぎ」とはこの状態を言うのだろう。直系6mにも広がるトウヒが根ごと倒れている=写真=。トウヒの根はもともと浅い。深く根をはるはモミの木などは途中でボキリと折れた。このときのトウヒやモミの森林被害は3000万立米と推測され、シュバルツバルトの20年分の木材出荷量に相当する損害となった。トウヒは種が取りやすく大規模な植林に適しているものの、根が浅く風に弱い。その盲点を突くかのように大嵐が数年に一度の割で襲ってくる。当然、単一樹林化への反省が生まれ、森林局では複層林へと森林政策の転換を図っている。

  ここで疑問が湧いた。根こそぎ倒れ荒廃した森林を公園として見せる価値はあるのだろうか。まして、キクイムシなどの害虫が異常繁殖すれば2次被害が生じる。この質問にフロイデンシュタット氏はニコリと笑って、我々にこう説明した。「幸いキクイムシの2次被害はいまのところ出ていない。それより、倒れた木の間に若い木が伸びてきているでしょう。私たちは森の自然の治癒力というものを子供たちに学んでほしいと思いこの一角を保存したのです」と。確かに倒木の隙間からトウヒやモミなどの針葉樹のほか、ナナカマドやブナなどの広葉樹の若木が育っている。倒木の根に巣をかけた鳥たちのさえずりもにぎやかだ。

  この「Lothar pfad」には年間5万人の見学者がやってくるという。カタストロフィ(破壊)から再生へ。大嵐の爪痕は生きた環境教育の場として生かされている。

 ⇒30日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆こいのぼりは絶滅危惧種か

☆こいのぼりは絶滅危惧種か

 この1週間で石川県内の能登、加賀を巡った。能登へはこの秋に予定しているスタディ・ツアーの打ち合わせに、加賀へは連休を利用して「九谷茶碗まつり」(能美市)と「山中漆器祭」(加賀市)に出かけた。乗用車を走らせながらふと気づいたことなのだが、沿道の民家でこいのぼりが泳ぐのを見ることは稀だった。きょうは「こどもの日」、こいのぼりについて考えてみる。

 こいのぼりが揚がらなくなった理由として、住宅が狭くこいのぼりを揚げるスペースがないとよくいわれる。でも、能登や加賀の広々とした家並みでも見かけるのは稀だ。それは少子化で揚がらなくなったのでは、という人もいるだろう。能登地区は確かに少子高齢化だが、地域をつぶさに眺めると、公園などで遊んでいる小さな男の子たちは案外多い。まして、加賀地区で少子高齢化の現象は顕著ではない。でも不思議とこいのぼりを揚げる家は極少ないのだ。

 では、こいのぼりはどこへ行ったのかというと、イベント会場に集められ、群れをなして泳いでいる。写真は、珠洲市大谷川で毎年開催されるこいのぼりの川渡し。実に350本のこいのぼりが泳ぐ。いまやGWのイベント会場のディスプレーとして、こいのぼりの存在感があるよう。

 過日、能登のお宅を訪ねると、五月人形(鎧)が早々と飾ってあった。家人に聞くと、かつては端午の節句にこいのぼりも揚げていた。ところが、その家の男の子が中学生なったころに「こいのぼりはガキっぽいからやめてれ」と言い出し、五月人形を飾るだけにしたという。確かに子どもたちが抱くこいのぼりのイメージには「お父さん、お母さんといっしょ」という、どちらかというと幼稚くささが付きまとう。中学生ともなるとこの幼稚くささを外に向かってアピールするというのは耐えられない、というわけだ。それに比べ、武者人形はいかめしさがあり、許容範囲なのかもしれない。ただし、五月人形が鯉を抱く金太郎ならば、中学生は「もうしまってくれ」と言い出すかもしれない。

 コイの滝登りは立身出世の象徴であり、江戸時代の武家では男の子が生まれると真鯉のこいのぼりを揚げたという。その風習が大衆化したのは戦後、高度成長で人口が増え、こいのぼりもにぎやかにカラフルになった。東レなどの繊維メーカーは新素材を駆使して、軽量で絡まず、風によく泳ぐこいのぼりを市場に出した。イーデス・ハンソンのナレーションによる、「東レの太郎鯉はよく泳ぐ」のテレビCMは今でも耳に残っている。大阪万博(1970年)で太陽の塔をデザインした岡本太郎が監修した目玉の大きな「太郎鯉」はヒット商品となった。でも、このころ住宅は高層化し、せいぜいがベランダ用のこいのぼりが出回った程度。地方の広々とした住宅でも、くだんの中学生のように「もうやめてくれ」となる。家庭でのこいのぼりの寿命は短く、行き場がない。だから、地域のイベントとなると天日干しを兼ねて、年に一度群れをなして出てくる。

 「屋根より高い」と歌われた、家庭用のこいのぼり。「文化・風習のレッドデータブック」があるとすると、おそらく「絶滅危惧種」になるに違いない。

⇒5日(祝)朝・金沢の天気  くもり

★ベートーベン「熱狂の日」

★ベートーベン「熱狂の日」

 「クラシックの民主化」を掲げたイベントが4月29日から金沢市で始まった。ラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭2008がそれ。5月5日まで、石川県立音楽堂とJR金沢駅周辺で80公演が予定されている。

 どこが「クラシックの民主化」なのかというと、①短時間で聴くクラシック②低料金で聴くクラシック③子どもも参加するクラシック・・・の3点に特徴があるそうだ。民主化というより、クラシックの裾野を広げるための音楽祭ともいえる。1995年にフランスのナント市で始まった音楽祭。この音楽祭の開催は世界で6番目、日本では東京に次いで2番目とか。

 今回のテーマはベートーベン。おやっと思ったのはポスターや看板=写真=に描かれているベートーベンの肖像画だ。広告物のデザインはフランスの音楽プロデューサー、ルネ・マルタン氏の手による。日本人がベートーベンで思い出す肖像は、いかにも神経質でいかめしそうな顔つき。しかし、「民主化」をめざす音楽祭では、参加者の心を解きほぐさなければならない。柔和な顔つきのベートーベンが広告物に描かれた訳はこんなところか。

1日夜、県立音楽堂で開かれた公開マスタークラス&レクチャーコンサートに出かけた。「『月光』の日」と銘打った催し。ピアニストのクレール・デゼールさん(パリ国立高等音楽院教授)が若手のピアニストやピアニストの卵に「月光」をレッスンするというもの。受講者の平野加奈さん(東京芸大2年生)が曲を一通り弾く。その後の通訳つきのレクチャーが面白い。「あなたの1楽章はショパンっぽい感じがした。左と右の手がどちらか遅いとロマンチックになる。でも、ベートーベンは左と右が同時なのよ。するともっと深くなる。ベートーベンらしくなるのよ」「ここはアジダートなの。そうね、怯えるって感じかしら。台風が突然やってきて、心臓がバクバクする。そんな不気味な感じね」

 クレールさんの公開ピアノレッスンを聞きながら、指揮者の岩城宏之さん(06年6月逝去)が生前語った言葉を思い出した。岩城さんはベートーベンのシンフォニー1番から9番を一夜で連続演奏するという「離れ業」を2年連続(04年と05年の大晦日)やってのけた。私はこの2回の番組制作に関わり、東京で「振るマラソン」を聴くことができた。思い出したのは、その時、ステージで語った岩城さんの言葉だ。コンサートのプロデューサーである三枝成彰さんから、岩城さんに「ところで岩城さんが好きなシンフォニーは何番なの」と水が向けられた。すると、岩城さんは「最近は8番かな。5番や7番、9番のように前衛的ではないけれど、コントラストが鮮やか。作曲技法が駆使されていて、4楽章なんかフレーズの入り組みがとても精緻。円熟しきった作曲家ベートーベンの会心の出来が8番なんだね」と。このとき、プロ中のプロのお気に入りは8番なのだ、と印象づけられたものだ。

 ピアニストのクレールさん、指揮者の岩城さんの2人の言葉から伝わってきたものは、演奏する側を介した等身大のベートーベンの姿ではないだろうか。凄みをきかせたベートーベンがほらそこにいるよ見てごらん、という臨場感だ。

⇒2日(金)夜・金沢の天気   はれ

★蘇った玉虫厨子の物語

★蘇った玉虫厨子の物語

 日本史、そしてお札で知られる聖徳太ゆかりの法隆寺(奈良・斑鳩)=写真=は、現存する世界最古の木造建築で知られる。五重塔など建物の国宝・重文だけでも55棟、仏像をはじめとする美術工芸品は国宝20点、重文120点。平成5年(1993)には、日本で最初の世界文化遺産に登録された。

 その法隆寺で、日本工芸のルーツといわれるのが「国宝 玉虫厨子(たまむしのずし)」。日本史では飛鳥美術の代表作とされる。が、現在のわれわれが目にするは黒光り、古色蒼然とした造作物という印象しかない。すでに描かれていたであろう仏教画や装飾などは、イメージをほうふつさせるほどに残されてはいない。歴史の時空の中で剥離し劣化した。

 その玉虫厨子を現代に蘇らせようと奮闘したプロジェクトチームがあった。国家プロジェクトではない、民間の有志によるプロジェクトである。その制作過程を追ったドキュメンタリー映画「蘇る玉虫厨子~時空を超えた『技』の継承~」(64分・平成プロジェクト制作)がきょう27日、金沢市で上映されというので足を運んだ。

 玉虫厨子の復元プロジェクトを発案したのは岐阜県高山市にある造園会社「飛騨庭石」社長、中田金太(故人)だ。私財を投じたこのプロジェクトに輪島塗職人、宮大工、金具職人ら、輪島、高山、京都などの名工たちが結集した。印象的なシーンを紹介する。仏教画を復元する輪島塗の蒔絵師、立野敏昭はすでに消えた図柄を写真をもとに忠実に再現していく。消えてはいるが写真をじっと見つめていると不思議と図柄が浮かんでくる。「時間が図柄を浮かび上がらせる」と。

 タマムシの羽は硬い。鳥に食べられたタマムシは羽だけが残り、地上に落ちる。輪島塗の作品をつくるとなると絶対量が日本では到底確保できない。そこで中田氏は、昆虫学者を雇って東南アジアのジャングルで現地の人に落ちている羽を拾い集めさせる。それを輪島に持ち込んで、カッターで2㍉四方に切る。さらに黄系、緑系、茶系などに分けて、一枚一枚を図柄に合わせて張りこんで行く。

 この復活プロジェクトは2004年に始まり、玉虫厨子のレプリカと平成版玉虫厨子の2つが同時進行で制作された。しかし、当の中田は07年6月、完成を待たずして76歳で他界する。妻の秀子が故人の意志を継ぎ、ことし3月1日にレプリカを法隆寺に奉納した。映画を手がけたのは乾弘明監督。亡き中田は、小学校の時から奉公に出され、一代で財を成し、国宝を蘇らせることに情熱を傾けた。私はかつて中田からテレビ番組の制作依頼を受け、プロデューサーとして番組にかかわった。当時、中田はニトログリセンリンのペンダントを首から提げ、身振り手振りで夢を語ったものだった。映画の中で、俳優の三國連太郎の語りに、こころなしか中田の口調を感じ取ったのは私だけか。中田が三國に乗り移ったのか、ある種の執念めいた気迫をこの映画に感じた。

 上映の後、挨拶した映画プロデがューサー、益田祐美子は「7月の洞爺湖サミットでこの映画が上映されることがおととい(4月25日)決まりました」とうれしそうに話した。

⇒27日(日)夜・金沢の天気   はれ

☆食ありて~野点の風景

☆食ありて~野点の風景

 奥能登・珠洲市に古民家レストランと銘打っている店がある。確かに築110年という古民家には土蔵があり、その座敷で土地の郷土料理を味わう。過日訪れると、中庭で野点が催されていて、ご相伴にあずかった。

  花曇(はなぐもり)の天気の中、その野点の光景に見とれてしまった。モクレンの木の下でのお点前。モクレンの花の白さ、毛せんの赤がまぶしいのである。そして抹茶の緑を心ゆくまで堪能した。母親が点て、半東(はんとう)を長男がつとめる。聞けば、一家全員が茶の湯の心得がある。しかも、それぞれ流派が異なる。それでも家族でさりげなく野点ができる。「もてなしの文化」がこの家族にある。

  茶の湯をたしなむ人が心がける言葉に、「茶は常なり」というのがある。茶の湯というものは日常の暮らしからかけはなれたものではなく、まして世間の常識を超えないという心がけだ。だから派手な服装は控え、礼節を重んじ、相和すことを重んじる。そんな凛(りん)とした雰囲気が感じられる野点だった。

  茶の湯の後は、座敷に上がって花見弁当をいただく。メバルの姿焼きがメインデッシュ。焼きたての香ばしさが食欲を誘う。たけのこご飯、海藻(ギバサ)の味噌汁。このギバサはホンダワラ科アカモクのこと。この海藻のぬるぬる成分は、抗がん作用をもつとされるフコイダンという食物繊維。これだけでもなんと贅沢な食事かと思う。

  帰り際、ふと見ると玄関に珠洲焼のレリーフが飾ってあった。この家の主(あるじ)の作品という。テーマは「月の砂漠」。風紋のあしらい、月光に写るキャラバンの姿が印象深い。古民家レストランというよりミュージアム。「入場料」はしめて2000円、満足度は高い。

 ⇒14日(月)朝・金沢の天気   はれ

★食ありて~辺採物

★食ありて~辺採物

 食品偽装や中国食材の農薬混入など食をめぐる問題が次々と噴出している。そこで注目されいるのが地産地消という消費行動。口にするものは地域の顔の見える人がつくった、安心安全なものをという考え。能登に古くから「へんざいもん」という言葉がある。漢字で表記すると辺採物。近場で採れた野菜や魚のことを指す。かたちが整っていなかったりしたため、つい最近まで辺採物は地元の商店やスーパーでは敬遠されてきた。ところが、上記の食の問題でこの辺採物が見直されている。

ご 飯:すえひろ舞(コシヒカリ)
味噌汁:メカブ
揚げ物:サバの竜田揚げ
煮 物:ジャガイモ,ニンジン,タケノコ,シイタケ,キヌサヤ,卵,厚揚げ
ウドの天ぷら:ウド,ニンジン
イカの煮付け:イカ
葉ワサビの粕和え:葉ワサビ
アオサの佃煮:アオサ
青菜の辛し和え:青菜
干イワシ:イワシ
イモの茎の佃煮:イモの茎
ダイコンの酢の物:ダイコン,ニンジン,コンブ

  上記のメニューはすべて地元で取れた食材でそろえた郷土料理。ウドの天ぷらは季節感があふれている。ほのかに香ばしいような春の味である。地面から少し顔を出したばかりのウド。当地では「初物を食べると長生きする」と言い伝えがあり、有難味が出てくる。

  このメニューは能登半島・珠洲市で金沢大学が開設している「里山里海自然学校」(三井物産環境基金支援プロジェクト)の学食で提供される日替わり定食。日替わりといっても週1度、毎週土曜日に地域のNPOのメンバーが中心になって運営している「へんざいもん」という名の食堂だ。里山里海自然学校が行っている「奥能登の食文化プロジェクト」(食育事業)の一環で予約があれば提供してもらえる。地域の人による、地域の人のための、地域のレストラン。いわばコミュニティ・レストランなのである。メニューは定食で700円。

  地域の食は地域が賄う。もうそんな時代に入ってきたのかもしれない。へんざいもんでは、「けさ港にイカがたくさん揚がった」「ウドが顔を出した」など、それこそ新鮮な情報が会話の中で行き交っている。そして何より、ここで給食のサービスをしていただくご婦人たちの顔が生き生きとしている。

  この光景はかつて見たことがある。地域のお寺で毎月28日開かれていた「お講」である。親鸞上人の命日とされ、この日は海藻の炊き合わせや厚揚げなど精進料理が供された。幼いころ、米を1合だったか2合だったか定かではないが、持って行くとご相伴にあずかることができた。そして地域の人は会話を交わした。お寺がコミュニティの中心の一つとして存在感があった時代のことだが、いまでもこの伝統はまだ各地で生きているはずである。

  ファーストフードではなく、顔の見える手作り感を大切にしたスローフード。希薄となったコミュニティを食を通じて再生する。「へんざいもん」にはそんな試みが込められている。理由づけはともあれ、ここのお薦めは海藻がたっぷり入った味噌汁。いつもお代わりをいただく。 (※写真は4月5日のメニュー)

⇒10日(木)夜・金沢の天気   あめ

☆食ありて~星の「わけ」

☆食ありて~星の「わけ」

 過日、東京の知人に「星のついた店を紹介しますよ」と誘われた。レストランの格付けガイドブックとして知られる「ミシュランガイド東京」で一つ星がついたフランス料理の店だ。ブログで店の宣伝をするつもりはないのであえて店名は記さない。でも、なぜ星の栄誉を与えられたのか想像をたくましくしてしてみたい。

 ミシュランガイド東京に掲載されているレストランは150軒で、最も卓越した料理と評価される「三つ星」は8軒。「二つ星」は25軒、「一つ星」は117軒選ばれている。フランスやイタリア料理が多いのかと思いきや、ガイド全体では日本料理が6割を占めている。和食への評価が世界的に高まっていることがベースにあるのだろう。ちなみに、一つ星は「カテゴリーで特に美味しい料理」、二つ星は「遠回りしてでも訪れる価値がある素晴らしい料理」、三つ星は「そのために旅行する価値がある卓越した料理」の価値基準らしい。

 私が訪れた一つ星の店は、入り口がいたってシンプル。あの名画の名前を店名に付けているので、名画の複製を掲げるだけで看板となる=写真=。「リーズナブルな価格で最高のフランス料理を創造し、一人でも多くの方に本物を味わっていただきたい」とインターネットの公式ページで謳っているだけあって、ディナーのコースは6800円から。せっかく遠方からきたのでと、下から2番目の1万円のコースを注文した。

 ロケーションはJR東京駅の前にある丸の内ビルの36階なので、皇居も見渡せる。これだけでも随分と値打ちがある。前菜の紹介は省いて、メインディッシュは「和牛フィレ肉のグリエ わさび風味 山菜添え」。私はフランス料理を論評する言葉を持ち合わせてはいないが、ただ、和牛なのに食後のさっぱり感は新発見の食味だった。わさび風味のせいかとも思った。

 メインディッシュが終わり、星のついたレストラン物語はこれで終わりかと思いきや、実はここから物語の第二幕が開く。「お口直しのイチゴのシャーベットでございます」とまずは甘口モードに。そしてプレートに載って出てきたデザートは3種類、ボリュームがあって、甘みの世界にどっぷり浸ることになる。

 デザート攻めにあって、これで終わりかと思っていると、「お口直しのハーブティーでございます」と。ミント系のハーブティーだった。その後、コーヒーでコースは終了する。2時間半ほどの星のついたレストラン物語。「お口直しでございます」の言葉がこの物語の場面切り替えに上手に使われ印象深い。別の席では、オルゴールの「Happy Birthday」ソングが聞こえ、店員がろうそくを立てたケーキを運んで、おそらく親子連れの家族なのだろう客席の雰囲気を盛り上げている。

 店員の言葉使いと洗練された身のこなし、コースの演出、「リーズナブルな価格で最高のフランス料理を」のポリシーと実践、ロケーション、その星には「わけ」があった。ただ、一つ難を上げれば、じゅうたん敷きではないので客席の声が響く。それをうるさいと感じる人もいるだろう。

⇒6日(日)午後・金沢の天気   はれ

★食ありて~客が礼を言う店

★食ありて~客が礼を言う店

 たまに無性にラーメンが食べたくなるときがある。そんなときに出かけるラーメン屋が金沢市寺町にあるK店。この店で見る光景は普通のラーメンの店とは一風異なる。店内は飾りがなく、静かで落ち着いていて、客層は老紳士・淑女然としたお年寄りが多いのだ。

   この数年、われわれの身の回りのもので携帯電話とラーメンほど進化したものはない。さまざまな食味を追求したラーメン店が巷(ちまた)に看板を競っているが、K店は「自然派らーめん」と称している。無化調(無化学調味料のこと)を売りに、鶏をベースに鰹節、煮干、コンブの海産物からとった薄味のスープ。インパクトはなく優しい味わいで美味。ちじれ麺は足踏みだから腰がある。ちじれ麺にスープが絡んでいるのでのど越しがいい。

  さらに、私がこの店で食べたいのは、実はチャーシュー。燻煙の風味のする炭火焼きのチャーシューだ。地元産の豚モモ肉を使っている。炭火焼きチャーシュー麺を注文すると、麺鉢とチャーシュー皿が別々に盆に乗って出てくる。というのも、スープにチャーシューを入れると風味が損なわれ、硬くなるからだ。

  主人のM氏は「うちはラーメンではなく、中華そばの店」とこだわる。M氏のこだわりとは計算され尽くした食のプロセスにある。無化調のスープをちじれ麺でからませ、食感とのど越しを満足させる。炭火焼きチャーシューと麺鉢を分離するこでチャーシューの風味を守る。この緻密な計算式が狂うときがる。時折、臨時休業の貼り紙が。「腰痛で足踏み麺ができない」、「土佐の煮干が入荷しない」などの理由だ。客もそこは心得ていて、「納得いく中華そばがつくれないのであれば仕方ない」と文句は言わない。つくり手が満足しないのに、食べる人が満足する訳がないからだ。休業する理由も不思議なことに、顧客満足度を高めている。

 冒頭に述べた、この10数人にしか入れない小さなこの店にお年寄りが多いというのは凛(りん)とした店の雰囲気と清潔感、薄味といった、まるで「ラーメン界の料亭」といった趣きを醸し出しているからかもしれない。もう一つ、ほかの店と雰囲気が違う点がある。炭火焼きチャーシュー麺はチャーシュー3枚入り(950円)と5枚入り(1150円)の2種類。値段もそこそこ高い。でも、客がお金を払って、「ありがとうございました」とお礼を言っているのは、なんと客の方なのだ。レジのそばの席に座って観察してみるがいい。

 ⇒30日(日)夜・金沢の天気   あめ

☆能登半島地震、人々の1年

☆能登半島地震、人々の1年

 能登半島地震からあす25日で1周年を迎える。震度6強の揺れで人生と生活をすっかり変えられてしまった人々も多い。そんな被災者の生の声をつづった「住民の生活ニーズと復興への課題」というリポートがある。金沢大学能登半島地震学術調査部会の第2回報告会(3月8日)で提出されたものだ。その中からいくつか拾ってみる。

  今回の地震で被害がもっとも大きいとされた石川県輪島市門前町は住民のうち65歳以上が47%を占める過疎、高齢化が進む地区だ。持ち家がほとんで、外出時でも鍵をかけない。間取りが大きいので、クーラーなどのエアコンもそう必要ではない。そのような土地柄である。

 <避難所について>
・畳一畳分のスペースは狭い。
・狭くて、よく眠れなかった。人にぶつかる。踏まれる。
・配られた毛布はかぶるに重く、暖かくなかった。
・避難所に行かなかったので行政からの情報が何もなかった。

 <仮設住宅での生活について>
・エアコンが嫌いだから暑くて困る。
・浴槽のまたぎの部分の高さが高く、高齢者には不便。風呂の湯船が深すぎる。風呂の床が滑りやすい。お湯と水の調整が難しい。タクシーで風呂に入りに行く人もいる。
・内側から鍵をかけてしまうと外から誰も入れなくなってしまう。一人暮らしの人など心配。
・買わなくちゃいけないから野菜不足。
・お花がつくれなくなった。

<被災者支援制度について>
・制度が難しくて分からない。非常に制度が複雑。お年寄りにはわからない。疎外されているように思う。
・住宅応急修理制度は、仮設住宅に入ると利用することができない。自分で賃貸住宅に入って倒壊した建物を建て直すケースでは利用できる。しかし、田舎にはアパートが無い。神戸のような都会では機能しても田舎の輪島市では機能しないのではないか。

<これからの生活・地域の将来について>
・もう田んぼでは食べていくことも無理だし、若い人はこないだろう。
・若い人に帰ってきてほしいが、働くところがないのでどうしようもない。
・震災が起きて、一時的に外に住んでいる人も皆自分が生まれ育った地元に戻って来たいと思っている。お年寄りにとって住むところを変えられるということは死に値する。
・家再建のめどがついた人、つかない人、立場がバラバラなので、これからの生活のことや、地域の将来についてまとまって話しにくい。
・お宮さんの復興が大変だ。

⇒24日(月)夜・金沢の天気  はれ