★生物多様性のこと
初日は、金沢からバスで出発し、石川県七尾市の能登演劇堂で開催された「環境国際シンポジウムin能登」に参加した。ノーベル平和賞を受賞した国連組織「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)のラジェンドラ・パチャウリ議長の基調講演を楽しみにしていたが、博士は体調不良を理由に欠席。その代わり、ビデオレターが上映され、その中で「今、何かの手を打たなければ、多くの生態系が危機にさらされる」と訴えていた。翌朝は船に乗り、ぐるりと能登島を回る七尾湾洋上コースと能登島をバスで巡るコースに分かれてのエクスカ-ション。能登島のカタネという入り江にミナミバンドウイルカのファミリーの親子(5頭)がコロニーをつくっていて、船からは、時折背ビレを海面に突き出して回遊する様子を見ることができた。午後からは、奥能登・珠洲で実施されている「生き物田んぼ」を見学し、直播(じかまき)の水田で水生昆虫の調査の説明を聞いた=写真=。両日とも雨にたたられずに済んだ。
能登の里山と里海を眺めながら、あの名著のことを思い出した。高校生のころ読んだ、アメリカのレイチェル・カーソンの「サイレント・スプリング(沈黙の春)」(1962年)。「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」の一文は脳裏に焼きついている。農薬や殺虫剤による環境汚染に警鐘を鳴らした原典ともなった。人間は衣、食、住のほか、薬剤などの必需品を何千種もの植物、動物から入手している。にもかかわらず、人は未だに乱開発や多量の農薬散布、海洋汚染や大気汚染など自然環境に過度の負荷をかけている。
人間と自然との共生という点で、日本の里山はお手本だった。しかし、終戦後から、化石燃料を使った生活が目指すべき文明社会と喧伝され、炭や薪といった木質エネルギーは疎んじられてきた。その結果、森林は荒れ、里山から若者がいなくなった。過疎高齢化で休耕田や放置された森林がさらに増え、生物多様性が減少しているといわれている。レイチェル・カーソンは「私たちはどちらの道をとるのか」と警鐘を鳴らした。40年余りも前にである。そして、この30年で、3万種もの生物が絶滅したともいわれる。今年は、「種の起源」を著したチャールズ・ダーウィンの生誕200年に当たる。
とはいえ、いまさら昔ながらの里山に戻ることはできない。ノスタルジーでは生きてはいけない。21世紀型の里山の生活スタイル、ないしは価値観、さらに産業イノベーションがどうしても必要なのだ。
⇒9日(日)夜・金沢の天気 あめ
今からちょうど120年前の明治22年(1889)5月、東京に滞在していたアメリカの天文学者パーシバル・ローエル(1855-1916)は能登半島の地形とNOTOという地名の語感に惹(ひ)かれ、鉄道や人力車を乗り継いで当地にやってきた。七尾湾では魚の見張り台である「ボラ待ち櫓(やぐら)」によじ登り、「ここは、フランスの小説でも読んでおればいい場所」と、後に著した「NOTO: An Unexplored Corner of Japan」(1891)で記した。ローエルが述べた「フランスの小説」とは、当時流行したエミ-ル・ガボリオの「ルコック探偵」など探偵小説のことを指すのだろうか。ローエルの好奇心のたくましさはその後、宇宙へと向かって行く。
なぜ蓄養かというと、市場では小さなタコは値がしない。すくなくとも1キロは必要で、キロ1000円が相場。難しいのは、水温が上がるとタコが弱ってしまうこと。このタコ牧場では海水をそのまま汲み上げている。太平洋側に比べ、日本海側は海水温が一定していない。そこで、水温が高くなるころを見計らって、大きなものから出荷する調整も必要とのこと。タコを飼うのも簡単ではない。
大宮神社の狛犬は、獅子(ライオン)が千尋の谷に子供を落として、その子供を見守っているという姿で、左手の子は千尋の谷に落ちて仰向けになり、右手の子供は崖を這い上がっているという構図=写真=になっている。説明書きには、台座に使われている岩は富士山から運んだ溶岩であると記されている。これが黒く、ゴツゴツした感じで、崖というイメージにぴったり合っている。
戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。
沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。
ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。
6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。
パンフレットなどによると、戦前の首里城は正殿などが国宝だった。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて、司令部を置いたこともあり、1945年(昭和20年)、アメリカの軍艦から砲撃された。さらに戦後に大学施設の建設が進み、当時をしのぶ城壁や建物の基礎がわずかに残った。大学の移転とともに1980年代から復元工事が進み、1989年には正殿が復元された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
全体の弁柄はこの二本の柱の文様を強調するために塗られたのではないかと想像してしまう。さらに内部の塗装や色彩も中国建築の影響を随分と受けているのであろう、鮮やかな朱塗りである。国王の御座所の上の額木(がくぎ)には泳ぐ竜=写真・下=が彫刻され金色に耀いている。
自家用車のスノータイヤをノーマルタイヤに履き替えたので、滑らないかとヤキモキした。が、強い降りではなく、30分ほどしたら青空が見えてきたので一気に雪は消えた。ふと庭を見ると、梅の花が咲いていたので、名残り雪とピンクの梅の花の組み合わせは妙に風情があるものだと感じ入った。
それまで大切に「箱入り娘」のように大切に育てられたあのトキが野生に目覚めて、本州に飛んだのである。最初の1羽は、飛来が新潟県胎内市で確認されたので、もし佐渡の放鳥場所からダイレクトに飛んだとすれば、胎内市まで60キロとなる。このニュースに胸を躍らせているのは能登に人たち。佐渡の南端から能登半島まで70キロなので、ひょっとして能登半島に飛んでくるかもしれないと期待している。それは見当外れでもない。放鳥されたトキは、背中にソーラーバッテリー付き衛星利用測位システム(GPS)機能の発信機を担いでいて、3日に一度位置情報を知らせてくる。データによると、トキは群れていない。放鳥された場所から西へ行っているトキ、東へ行っているトキ、北へ行っているトキとバラバラだ。中でも、2歳のオスは佐渡の南端方面でたむろしている。これが北から南に向かう風にうまく乗っかると、ひょっとして能登に飛来してくるかもしれないというのだ。
石川県珠洲市で廃校になっていた「小泊小学校」という学校施設を借りして、研究と交流の拠点をつくった。このとき、地域の人からこんなことを言われた。輪島の人は「奥能登の中心と言ったら輪島やぞ。なんで輪島につくらんがいね」と。そして、珠洲の人は「珠洲の中心は飯田やがいね。なんで辺ぴな小泊みたいなところにつくるのや。なんで飯田につくらんがいね」と。中村教授を始めとして我われは天邪鬼(アマノジェク)でもあり、なるべく過疎地へ行って拠点を構える。そうすることによって、新たな何か発見があると考えたのだ。買い物や人集めに便利だとか考えて中心に拠点を構えて何かをやろうとするのはビジネスの世界だ。研究の世界ではそうはいかない。まず、人気(ひとけ)のいない過疎地で研究拠点を構え、そこでじわじわと地域活性化の糸口をつかんでいく、あるいは大学の研究のネタを探していく。足のつま先を揉み解すと血行がよくなり体の全体がポカポカしてくるのと同じだ。