⇒トピック往来

★文明論としての里山21

★文明論としての里山21

 生物多様性、あるいは自然環境の再生、里山と文明論などさまざまな観点から考えてきたこのシリーズを突き詰めれば、「持続可能な社会」とは一体何かということに突き当たる。人が人らしく、地球という自然が自然らしくあり、それを次世代に伝えていく、そんな社会システムとはどんな姿なのだと問いかけている。「未来可能性」と言っていい。

            持続可能社会と「地域主権」

  政権交代で、「地域主権」という言葉がクローズアップしてきた。前政権では「地方分権」という言葉だった。分権という言葉は「分け与える」というお上が権限を払下げるというイメージがあり、現政権では「地域のことは地域で」というという意味合いなのだろう。言葉遊びのような感じもするが、それはどうでもよい。中央政府が「分権だ」「地域主権だ」と言いながら、これほど有権者レベルで上がらない議論もない。なぜか。それはすでに国のミクロなレベルではすでに「自分たちでやっている」という意識があるからだ。つまり、この論議というのは、中央政府と県や市町村との間の権限をめぐる駆け引きの話である。一方で、すでに地域では自治会や町内会で自主的に暮らしにかかわるさまざまな議論をしている。その論議は、「行政に頼ろう」や「国に頼ろう」という論議ではない。いかにしてこの地域をよくしていくか、コミュニケ-ションを絶やさず、お互いを気遣って、どうともに生きていくかの論議である。そんな論議や現場の話し合いの姿をいくつも見てきた。

  能登半島の先端に珠洲(すず)市寺家(じけ)という地区がある。地域振興策として原子力発電所の誘致をめぐって25年余り論議をしてきた。失礼な言い方かもしれないが、実にタフな人たちである。昨年の夏、この地区の伝統のお祭りである、キリコ祭りの「キリコ絵」制作をめぐって、製作者と住民との意見交換の場をつぶさに見せてもらった。長年見慣れてきた伝統的な「キリコ絵」をそのまま制作するのか、あるいは新しいイメージを吹き込んだものにするのかをめぐって繰り広げられてきた話し合いである。原図を担当したのは日展で特選を獲得した日本画のプロである。本来なら、そのような権威のある画家に「お任せ」となると私自身は思っていた。ところが、寺家の住民はキリコ絵に対する思い入れを述べ、伝統的な図柄である観音絵の色使いや線の描き方、背景まで意見を述べる。その言葉に真摯に耳を傾ける画家。地元と画家とやり取りを重ね、ようやくこの4月に完成した。地域の文化を地域が担う、あるいは住民の共同体意識の発露。冒頭に述べた「人が人らしく」とはそういうことなのだろうと思う。

  この能登半島の先端の人たちは記録に残るだけでも万葉の時代から、ずっと地域社会で命を繋いでいる。748年、大伴家持は「珠洲の海に朝開きして・・・」と詠んでいる。持続可能な社会というのは、歴史や伝統文化に裏打ちされ、あるいは新たな歴史や文化を創造していこうとうする「心の遺伝子」が人々に伝えられてこそ可能なのだと考える。それは行政や国家の仕組みとは別次元のものである。

 ⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ

★黄砂をつかまえる

★黄砂をつかまえる

 今月21日、京都で見た空は異様だった。ホテルの窓から見える京都タワーが黄色くかすんでいた。空がどんよりと曇った感じで、黄砂だとすぐ分かった。市内を歩くと、マスクをしている観光客が目立った。花粉の飛散時季と重なって、いかにも辛そうな御仁もいた。

   黄砂研究の第一人者といえば、金沢大学フロンティアサイエンス機構の岩坂泰信特任教授だ。シンポジウムの開催のお手伝いをさせていただく傍ら、岩坂氏の講演に耳を傾けていると、いろいろな気づきがある。印象に残る言葉は「能登半島は東アジアの環境センサーじゃないのかな」である。黄砂と能登半島を考えてみたい。

   黄砂は、タクラマカン砂漠など中国の乾燥地域で巻き上げられ、偏西風に乗ってやってくる。わずか数マイクロメートル(1マイクロメートルは千分の1ミリ)の大きさの砂が、日本に飛来するまでに、まさざまに変化する。「汚染物質の運び屋」もその一つ。日本の上空3キロで捕らえた黄砂の表面には、硫黄酸化物が多くついていて、中国の工業地帯の上空で亜硫酸ガスが付着すると考えられる。日本海の上空では、海からの水蒸気が黄砂の表面に取り付き、汚染物質の吸着を容易にしているのではないかと推測される。

 黄砂に乗った微生物もやってくる。岩坂氏の調査フィールドである敦煌上空で採取した黄砂のおよそ1割にDNAが付着していて、DNA解析でカビや胞子であることが分かった。黄砂は「厄介者」とのイメージがあるが、生態系の中ではたとえば、魚のエサを増やす役割もある。日本海などでは、黄砂がプランクトンに鉄分などミネラルを供給しているとの研究がそれある。

  その黄砂をキャッチするには、日本海に突き出た能登半島がよい。偏西風に乗って飛んできた黄砂をいち早く捕まえることができるからだ。この地の利を生かして、「大気観測スーパー・サイト」という調査研究のフィールドが岩坂氏の発案で形成され、黄砂による環境や気象、ひとの健康への影響の解明が進んでいる。能登半島は日本海を挟んで、中国と韓国、ロシアと向き合う。これらの国々の黄砂研究者と連携を強めれば、能登半島が環境問題の解決の糸口を見いだす研究拠点、あるいは観測地となる可能性は十分にある。岩坂氏はそのような構想を持っている。この趣旨を聴けば、「能登半島は東アジアの環境センサー」という言葉に説得力が出てくる。

  ※写真・上は、21日(日)午前9時ごろに写した京都の空。写真・下は同日午後5時半ごろに写した黄砂が晴れた空。JR京都駅にあるホテル11階から撮影した。

 ⇒23日(火)朝・金沢の天気   はれ

★冬訪ねる兼六園

★冬訪ねる兼六園

 雪の兼六園は別世界に思える。雪という白色が庭園を彩るからだ。名木・唐崎の松の雪つり=写真=はパラソルをさしたように見え、霞が池の水面に映える。兼六園の心象風景は季節ごとに異なるのだ。

 こうした兼六園の心象風景の原点には6つのファクターがある。寛政の改革で有名な松平定信は老中職を失脚した後、白河楽翁と名乗って築庭に没頭したといわれる。その薀蓄(うんちく)から、定信が中国・宋の詩人、李格非の書いた『洛陽名園記』(中国の名園を解説した書)の中に、名園の資格として宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)の6つの景観、すなわち六勝を兼ね備えていることと記されていたのにヒントを得て「兼六園」と名付けたと伝えられている。

  6つのファクターに加え、代々の加賀藩主は色や形の違いにこだわった。兼六園の原形ともいえる蓮池庭(れんちてい)を造った五代・綱紀(1643-1724年)には、園内に66枚の田を作り、全国で品質がよいとされる米を試験栽培させたというエピソードがある。代々の藩主の収集好きは兼六園の植物にも及び、たとえば桜だけでも20種410本も集めた。一重桜、八重桜、菊桜と花弁の数によって分けられている桜。中でも「国宝級」は曲水の千歳橋近くにある兼六園菊桜(けんろくえんきくざくら)である。学名にもなっている。「国宝級」というのも、国の天然記念物に指定されていた初代の兼六園菊桜(樹齢250年)は1970年に枯れ、現在あるのは接ぎ木によって生まれた二代目である。兼六園菊桜の見事さは、花弁が300枚にもなる生命力、咲き始めから散るまでに3度色を変える華やかさ、そして花が柄ごと散る潔さである。兼六園の桜の季節を200本のヨメイヨシノが一気に盛り上げ、兼六園菊桜が晩春を締めくくる。桜にも役どころというものがある。

  こうした名園のこだわりは現在も引き継がれている。季節の花の眺めがすばらしいことから名前がついた木橋の花見橋(はなみばし)。川底の玉石をなでるように緩やかに流れる曲水は多くの人々を魅了する。ゆったりと優雅に流れるようにと、毎秒800㍑の水が流れるように水量を一定にしている。計算づくなのである。しかも、サギやカモなどの鳥が来て足で水を濁さないように、上流では目立たないように水面の上に糸を張って予防線をつくっている。鏡のような川面を演出するために2つの工夫がある。

  兼六園を訪れたきのう24日、兼六園の樹木には冬芽が出て、春の出番を待っていた。「冬来たりなば春遠からじ」(イギリスの詩人シェリー『西風に寄せる歌』より)

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  はれ

☆北極振動

☆北極振動

 06年1月22日、イタリア出張を終え、ミラノ・マルペンサ空港から飛び立ち、シベリア上空を経由して成田空港で降りる便でのこと。機内からシベリアの雪原をカメラ撮影した。詳しい緯度経度は調べずに撮影したので、シベリアのどこか、地名などは定かではない。ただ、蛇行する河が凍てついていて=写真=、見ただけでシベリアの厳冬に身震いしたことを覚えている。その年の冬は日本海側も寒冬となり、記録的豪雪だった。シベリアの寒波をそのまま日本海側にもたらした現象は「北極振動」と呼ばれた。その北極振動がことしも世界各地に豪雪を。

 アメリカ東部を覆った強い寒気。ワシントンでは吹雪が止まず、バスや鉄道はほぼすべてが運行停止になった(18日)。ワシントンに隣接するバージニア州では、積雪最大56㌢が予想されたことから、非常事態宣言が出された。ヨーロッパ各地では、寒さの影響でヨーロッパ大陸とイギリスを結ぶ高速鉄道「ユーロスター」の4つの便がトンネル内で相次いで故障して立ち往生し、2500人の乗客が一時閉じ込められた。氷点下のフランス側から比較的暖かいトンネルに入った時に生じた温度差が故障の原因らしい。

 ウィキペディア(Wikipedia)などによると、北極振動が起きる原因はこうだ。北極を中心を周回するようにジェット気流が流れている。このジェット気流の北極側に冷たい寒気が控えているが、何らかの理由でこのジェット気流が南側に蛇行することがある。すると寒気もジェット気流に沿って南下する。このブレを「北極振動」と呼ぶ。ジェット気流が北アメリカ大陸の上空で南へ蛇行すれば北アメリカが強い寒気に襲われ、ヨーロッパの上空で起これば、ヨーロッパが寒気に見舞われ大雪になる。その現象がいま日本海側で起きている。

 ところで、ことし4月に読んだ赤祖父俊一著『正しく知る地球温暖化』(誠文堂新光社)によると、いまの地球温暖化は人類が関与するところの少ない地球の気候変動の一環であり、現在は1400~1800年の小氷河期からの回復期にあるためだとしている。つまり、江戸時代などは前は今より寒かった。そして、北極振動もブレにブレて頻繁に寒気が南下していたらしい。ロンドンのテムズ川も凍てついて、スケートができたという。歌川広重の出世作「東海道五十三次」で蒲原(静岡市清水区)を描いた「雪之夜」があるように、かつては雪の名所だったのかもしれない。

 北極振動は一説に太陽活動との連動が言われている。そうなると、我々人類にはなす術(すべ)がない。気象はコントロールが効かない。

⇒21日(月)夜・金沢の天気 雪

★身構える冬~下~

★身構える冬~下~

 雪が降ると人々の活動は止まる…。そう思っている人は案外多いかも知れない。「こんな雪の寒いに日に、風邪を引いたら大変」「駐車場が雪に埋もれていて、会場に行けないのでは」など。ただ、雪国では、雪が降ったからそれだけでイベントが中止になったとか、学校が休みになったとか、議会が流れたとか、センター試験が中止になったという話を聞いたことがない。むしろ、鉄道やバスといった公共交通機関が雪でストップしたので中止ということはままある。雪国では雪が降って当たり前、つまり日常なのである。このブログのシリーズの最後は「積雪と人の集まり」をテーマに綴ってみたい。

 きのう(19日)、金沢大学と能美市が主催する「タウンミーティングin能美」が開催された。会場は同市辰口にある石川ハイテイク交流センターで、丘陵地にあり、積雪は30㌢ほどあった=写真=。それでも、参加登録者150人のうち、欠席はおよそ10人だった。これは歩留まりから考えて想定内の数字だ。つまり晴れていてもこの程度は欠席率があるものだ。タウンミーティングは、地域との対話を通じて連携を探るため、金沢大学が平成14年(2002)から石川県内で毎年連続して開催しており、今回で9回目。雪のタウンミーティングも始めての経験だった。

 自然現象と人の集会という点では、印象に残るシンポジウムがある。昨年(08年)1月26日、能登半島をトキが生息できるような環境に再生することをめざしたシンポジウム「里地里山の生物多様性保全~能登半島にトキが舞う日をめざして~」を輪島市の能登空港で開いた。この日は能登も金沢も30㌢ほどの積雪があり、さらに能登半島地震の余震と思われる大きな揺れが午前4時33分にあった。震度5弱。それでも開会の午前10時30分には当初予想の150人を超えて180人の参加があり、スタッフは会場の増設に慌てた。

 トキのシンポジウムのスピーカーは兵庫県立コウノトリの郷公園 の池田啓研究部長が「コウノトリ野生復帰に向けた豊岡での取り組み」と題して、50年にわたる豊岡市の先進事例を紹介した。また、佐渡でトキの野生復帰計画に携わっている新潟大学の本間航介准教授が「トキが生息できる里山とは-佐渡と能登、中国の比較」をテーマに講演した。能登半島が本州最後の一羽のトキが生息した地域であることから、トキに対する関心はもともと高い。

 人々が集まるか、集まらないのかの行動原理は、少々の気象条件には左右されない、むしろ関心が高いのか低いのかが要因だろう。参加者にすれば、「雪の日だったけれど、参加してよかった」と、返って悪天候が脳裏に刻まれ、美しき心象風景として残る。逆境が思い出になるのである。逆境よりよき感動を、雪国の人はこれを繰り返して逆境に順応し、忍耐強く辛抱強くなるに違いない。

⇒20日(日)朝・金沢の天気 ゆき
 

☆身構える冬~中~

☆身構える冬~中~

 きのう18日も雪。めざすネギ畑は一面、銀世界に覆われていた=写真=。石川県内の大学が連携して結成している「大学コンソーシアムいしかわ」の事業「能登半島全国発信プロジェクト」の取材ため学生を連れて七尾市能登島町の農場を訪れた。

 「ネギは雪が降ると糖度が増して甘くなる。ほら食べてごらん」。農場のスタッフが収穫したばかりのネギを差し出してくれた。ネギは切ると辛くなるが、剥いている分には甘い。白い部分をバナナでも食べるようにガブリと。確かに甘い。しかも、その甘みが不思議と口の中に残っている。そして喉あたりがいつまでも温かく感じる。初めての取材で緊張の面持ちだった福井出身の女子学生は「おろしそばに刻んで入れて食べてみたい」と相好を崩した。雪のネギ畑でひとしきり会話が弾んだ。

 前回のコラムで「家の前の除雪は金沢では男性より女性が多い」という話をした。同じ除雪でも屋根雪の除雪、つまり「雪下ろし」となるとこれは男性の仕事である。直近で我が家の屋根雪下ろしは、忘れもしない2006年1月だった。その1ヵ月前から記録的な積雪となり、金沢市内で80㌢にもなった。1月14日からイタリア・フィレンツェに出張が入っていて、「渡航中にさらにドカ雪でもきたら…」と不安がよぎった。1999年に新築したとき、建築設計士から「構造的に屋根雪の積雪は3㍍まで大丈夫」と説明を受けたが、何しろ金沢の雪は樹木の枝を折るくらい重い。そこで、早めの雪下ろしを決意した。屋根雪下ろしとなると滑落の危険もあるので、相当な覚悟が必要なのだ。

 屋根雪下ろしは雪が解けにくい北側の屋根から下ろす。雪止めはしてあるものの、雪もろとも落ちるというリスクもあり慎重を期す。しかも、日中の仕事を終えてからなので、当然夜の作業となる。屋根の上では突風も時折あって、バランスを崩しそうになる。スコップを手に3時間ほど黙々と雪と格闘する。ひと通り雪を下ろすのに2晩かかった。翌朝、安堵感を得て旅立つことができた。

 ことしの雪の降り方を見ていると、「2006年」と似ている。ホワイトクリスマスは確実。気象庁の発表だと、日本海側では北陸地方を中心に19日にかけて大雪となる見込み。山形県鶴岡市では93㌢の積雪という。このまま降り続くのか。先が思いやられる。

⇒19日(土)朝・金沢の天気  雪

★身構える冬~上~

★身構える冬~上~

 私が住む北陸・金沢は昨日(17日)からうっすらと雪化粧が始まった。市内で5㌢、山沿いでは10㌢ほどだろうか。雪は人々の生活を一変させるから不思議だ。まず、「(雪が)くるぞ」とばかりに人々は身構える。たとえば、自家用車で通勤している人は、天気予報で雪マークが出始めるとノーマルタイヤをスタッドレスタイヤに履き替える。多くの人は近くの自動車整備工場に予約を入れ、順番を待つ。相場はタイヤ4本で3000円ほど。春には同金額で外す。

 庭木のある家では「雪つり」を施す=写真=。雪つりは北陸特有の水分を含んだ重い雪から樹木を守るため。地球温暖化だから雪つりはいらない、あるいは、気象庁が暖冬を予想したから雪つりを怠ったという家庭はおそらくない。雪は多かれ、少なかれ降るのである。この雪つりの形状が三角錐で、冬の金沢の風物詩にもなる。庭師を雇ってのことなので経費はかかる。補助員を含めて3人がかりなら5万円ほどになる。春には外すので合計10万円ほどになる。

 家庭ではスコップを用意する。自宅前の除雪用だ。面白い現象がある。除雪をするのは金沢では女性が多い。おそらく除雪は伝統的に家事の一つとしてとらえられているからだろう。一度に大量の雪を運んで捨てる「ママさんダンプ」という除雪用具があるくらいだ。樹木に雪つりが必要なくらい金沢の雪は重く除雪は結構な重労働だ。ちなみに、整骨院が繁盛しだすのもこのころ。除雪は腰に負担をかけるからだ。おそらくこの事実を降雪地帯ではない人たちが知ったら、ブーイングが起きるに違いない。「金沢の男性は重労働を女性に押し付けている」と。もちろん、家庭によっては我が家のように男性が除雪の家事分担をする家もあるにはあるが、見渡しても少ない。

⇒18日(金)朝・金沢の天気   雪

☆皇居の風景

☆皇居の風景

 先日(10日)、東京・大手町の会社を訪問した。通された23階の応接室の窓から眼下に皇居が屏風のように広がっていた=写真=。御所などの建物もさることながら、常緑樹と紅葉の落葉樹が織りなす生態のパノラマには、これが東京かと思った。昭和天皇が提案し、武蔵野林を蘇らせたという話は有名だが、都心にあって、まさに楽園という趣きなのである。皇居の眺望を楽しんでいたちょうどそのころ「事件」が宮内庁では起きていた。

 鳩山総理の指示(12月10日)よって、中国の習近平国家副主席と天皇の会見が特例的に設定されたという問題である。以下、新聞各紙による。天皇の外国賓客との会見については、希望日が迫って願い書が出されると、天皇の日程調整が難しくなることや、2003年に前立腺がんの摘出手術があり、負担軽減と高齢が勘案され、翌2004年から「1ヵ月前ルール」を設定して、外務省などもそれを厳格に守ってきた経緯がある。

 ところが今回、中国副主席との会見の申し出が1か月を切った段階(11月26日)で外務省から宮内庁に打診があり、ルールに照らして応じかねるとの回答を宮内庁が返した。平野官房長官から宮内庁に対し、日中関係の重要性を考慮してほしいと再度会見を依頼(12月7日)。これにも宮内庁は政府内で重視されてきたルールとして断っている。そして、10日の総理の指示となった。背景には、民主党の小沢幹事長の訪中の際の「手土産」という憶測も流れている。

 そこで、きょう(13日)のテレビ朝日「サンデープロジェクト」を注視した。案の定、野党だけでなく与党からも批判の声が上がった。渡辺総務副大臣(民主)は「天皇陛下の政治利用と思われるようなことを要請したのは誠に遺憾だ。やめていいなら、今からでもやめた方がいい」と、会見中止の考えを述べた。社民党の阿部知子政審会長も「特例でも認めてはいけない」と強調してた。つまり、誰の目にも「皇室の政治利用」「ゴリ押し」と映っているのである。ルールを一方的に破り、それに対して党内の誰も異議を唱えなかったとなると、何かキナ臭さが漂う。

 そして、小沢幹事長は12日、訪問先の韓国で1910年の日韓併合から100年になる2010年中の天皇陛下の韓国訪問について「結構なことだ」と記者団の質問に答えたという。来年は日韓併合から100周年で反日ムードが一段と盛り上がるだろう。火中のクリを拾いにいくことになりはしないか。1975年、沖縄国際海洋博覧会で沖縄を訪問した当時の皇太子夫妻が「ひめゆりの塔」に献花のため訪れたところ、過激派から火炎瓶を投げつけられるという事件があった。小沢氏の「結構なことだ」発言を聞いて、逆にそのことを思い出した。

 今回の天皇特例会見で、皇室が政治に巻き込まれる危うさを多くの有権者が感じ取ったのではないか。それより何より、小沢氏から様々にバイアスがかかる鳩山内閣は果たしてこのまま持つのかどうか、ますますキナ臭くなってきた。

⇒13日(日)夜・金沢の天気  はれ

★これは首実験か…

★これは首実験か…

 7年前に他界した父親から聞かされた話である。父は仏印(フランス領インドシナ=現在のベトナムやラオス、カンボジアを合わせた領域)で終戦を迎えた。軍曹だった。引き揚げ船に乗り込むときに「首実験」があった。波止場で地元の兵士や住民が、船に乗り込む日本兵の一人一人を検分するのである。「あいつは俺を殴った」とか「畑の作物を盗んだ」などさまざまに罵倒された兵士がタラップから引きづり降ろされ暴行を加えられ、そして撲殺された。父が残念でならないと漏らしていたのは、「あいつは俺たちに木の根っこを食わせやがった」とののしられ撲殺された炊事兵のことだった。炊事兵は食糧難から現地で野生のゴボウを掘らせ、料理していた。軍属で働いていた現地の若者への給食もゴボウだった。日本人にとってゴボウは食材であるが、現地の住民には「木の根」だ。誤解が生んだ悲劇だった。

 政府の行政刷新会議が2010年度予算概算要求の無駄を洗い出す「事業仕分け」の作業風景を見ていて、上記の話を思い出した。ここ数日間で「廃止」と判定された事業の関係者の中には、「首実検」の無念さを噛み締めた人も多かったのではないだろうか。「歴史の法廷に立つ覚悟があって言っているのか」と事業仕分けを批判したノーベル化学賞受賞者の野依良治氏(理化学研究所理事長)。科学技術予算を効率性の議論で仕分けしてよいのか、と。

 事業仕分けそのものに疑問の余地はない。無駄は省くべきである。ただ、野依氏が怒ったのはその一律的なやり方ではないのか。科学技術には専門家に対する事前のヒアリングがあってしかるべきだろう。また、「科学技術は生命線。コストと将来への投資をごっちゃにするのは見識に欠ける」と野依氏が述べたように、科学技術も教育も将来投資である。仕分けは、小学生や中学生に向かって「この生徒は伸びない」と評価しているようなものだ。

 2001年4月の第一次小泉内閣発足の時、小泉首相は「米百俵」の歴史エピソ-ドを披露した。戊辰戦争で敗れた長岡藩は石高6割を失って財政が窮乏した。支藩の三根山藩から百俵の米が贈られることとなり、藩士たちは喜んだが、長岡藩の大参事だった小林虎三郎は贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用に充てることにした。藩士たちはこの通達に抗議するが、それに対し虎三郎は「百俵の米も食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、学校の設立を押しきった。米百俵は、教育と研究は将来投資であると分かりやすく紹介したものだ。この将来投資を現在の効率で判断できるのかどうか。

 もう一歩踏み込んで考えてみると、一つ一つの細かい事象を取り上げては「賛成だ」あるいは「反対だ」と言い合っているだけのように思える。タテ割り行政の弊害で生じた無駄が問題なのだから、その検証を行うべきだろう。道路の問題について「農水省予算の道路と国交省予算の道路を全部をどう見直して、どれだけ削る」といった議論をしなければ「木を見て森を見ず」の論議になってしまう。有権者が今回の事業仕分けでいぶかっているのはその点ではないだろうか。

⇒27日(金)朝・金沢の天気 はれ

★長い箸のたとえ

★長い箸のたとえ

 「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(「善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから、悪人は言うまでもなく極楽へ行ける」の意味)。高校時代の倫理社会の教科書で初めてこのたんに歎異抄のフレーズを読んだとき、少々違和感があったことを覚えている。なぜ悪人が極楽へ行けるのか、と。ただ、こうした逆説的な言い回しというのはなぜか新鮮に感じるものだ。だから記憶に残っている。いまにして思えば、この言葉を語った親鸞(しんらん)というお坊さんの布教のテクニックではなかったのか。

 1262(弘長2)年11月、90歳の生涯を終えた親鸞の750回忌の法要が2011年に営まれるそうだ。それを記念した「本願寺展」(石川県立歴史博物館、9月19日‐11月3日)が開かれている。先日、その招待券を新聞社関連の仕事をしている知人からもらった。本願寺と言っても西と東があるが、今回は西本願寺の歴史を物語る文化遺産と美の世界を一堂に集めたもの。国宝5件のほか需要文化財26件など150点が展示されている。職場の同僚に僧籍の人がいて、もらった数枚のうち1枚をおすそ分けすると随分と喜ばれた。

 たまたま昼時で、お箸を持っていた。この箸は、売り出し中の能登丼(のとどん)のキャンペーンで、能登の飲食店でその店オリジナルの丼を注文すると箸の持帰りができる。過日、珠洲市の「古民家」レストランでブリ丼を食した折、もらったものを昼食時に時折出しては使っている。きちんとした塗り箸で輪島で製造されたと箸袋に記されている。ただ、この箸が長い。計ってみると28㌢もある。「それにしても何でこんな長い箸を」と眺めていると、僧籍の彼が言った。「坊さんの説教に、極楽の三尺箸というネタがあるんですよ。これにちなんで長くしてあるのでは…」と。

 初めて聞いた「極楽の三尺箸」を簡単に説明すると。地獄でも極楽でも、食卓の内容さほど変わらない。ご馳走が用意され、箸もある。長さは三尺(90㌢余り)だ。この箸を使わなければならないというルールがある。地獄の住人たちは先を争って食べようとするが、長すぎる箸を使いこなせず、そのうちご馳走の分捕りを始める。でも、長い箸では食べることができないのでいつも飢餓感にさいなまれている。ところが、極楽の住人たちは三尺の箸でご馳走をつまむと、食卓で向かい合う相手の口に入れてあげる。自分も相手の箸でご馳走を食する。このようにして極楽では和気あいあいと食が進み、楽しく満ち足りている。つまり、同じ食卓でも風景が違うのである。

 別の話がある。親鸞は弟子の唯円から「極楽浄土に行きたいと思わないのですが」と尋ねられ、「私もそうだ」と答えたという。そして「生きているこの世は煩悩(ぼんのう)の故郷」と付け加えた。生きていればこの世に執着心があるのは当然だ、と解説した。執着心が強すぎれば悪人にもなる。ただ、その悪人でもあの世で三尺箸をどう使うかによっては極楽にもなる。

 能登丼の長いお箸はそこまで意味を込めたものかどうか、定かではない。

⇒16日(金)朝・金沢の天気  はれ