⇒トピック往来

★オイルは暴騰す

★オイルは暴騰す

 金沢市内で良く使うガソリンスタンドで3日、レギュラーが店頭価格143円をつけた。今月に入って市内でガソリン1㍑当たり140円台が相場となった。昨年末は120円台だったので、一気に20円も上がったことになる。今回のガソリンの値上がりは分かりやすい。「中東産油国の政情混乱」だ。問題は、これが一時的な現象なのだろうか、さらに値上がりするのではないか、ということだ。

 3月2日のニューヨーク・マーカンタイル取引所では、原油先物相場の国際的な指標の米国産標準油種(WTI)4月渡しの終値が1バレル=102.23ドルと、2年5ヵ月ぶりに100㌦の大台を突破したと報じられた。

 世界の原油産出国はロシア、サウジアラビア、アメリカ、イラン、中国、カナダ、メキシコ、UAE、イラク・クエートの順(外務省資料)になる。さらに、日本の原油輸入先は、サウジアラビア、UAE、カタール、イラン、ロシアの順(資源エネルギー庁)で、中東への依存率は85%だ。今回の反政府デモの動きは、チュニジアからエジプト、そしてリビアに波及している。

 日本はリビアから原油を輸入していないが、問題はサウジアラビアだ。そのサウジは、アブドラ国王が高齢で病気療養中、さらに大卒者の6割が職に就けないという「不満の火種」を内在している。仮に政情混乱がサウジに波及し、中東からの原油供給不安がさらに強まれば、WTIの価格は2008年7月に記録した過去最高値(1バレル=147㌦)を超えるのは確実との見方も出てくる。このときのガソリンの高騰は、アメリカのリーマン・ショックで行き場を失った投機マネーが先物取引市場に向かい原油価格を吊り上げた。当時の店頭価格は金沢市内で180円だったと記憶している。いまのガソリン価格の上昇は序の口なのだろう。

 政情混乱と投機マネー。国際的な金融緩和で投機マネーが先物取引市場に流れ込むという構造は続くだろう。しかも、ガソリン需要は春先から夏場にかけて高まり、価格が上昇する傾向にある。ガソリン価格を下げる要素は何一つない。

 円高(1㌦=80円台)が続く日本でこの価格である。ちなみに、このブログではガソリン価格について何度か取り上げている。それを拾うと、2005年10月31日付「1㍑当たり122円」、2009年1月1日付「1㍑当たり99円」。そしてきょう2011年3月4日付が「1㍑当たり143円」と。

 ガソリン価格は常に乱高下し、世界の政情を映す。その価格が高騰すれば、原油生産シェア世界1位(12.9%)の隣国・ロシアは経済力をつけるという構造に変わりない。

⇒4日(金)朝・金沢の天気  ゆき 

☆この横着モノ

☆この横着モノ

 大学入試の公正性がハイテクで損なわれるということは断じてあってはならない。京都大など4大学の入試問題が試験時間中にインターネットの質問掲示板「ヤフー知恵袋」に投稿された事件が世間を騒がせている。警視庁などは、投稿に使われたNTTドコモの携帯電話の契約者を山形県新庄市在住の人物と特定し、その息子(19歳)の強制捜査(逮捕)に踏み切るだろうと、マスメディアは一斉に報じている。

 京都大学側が2月28日に京都府警に被害届を提出し、さらに世間の注目を集めた。おそらく大学側は対応できないと判断したのだろう。京都府警もネットを使った犯罪にはチカラを入れていて、生活安全部のハイテク犯罪対策室が対応を担っている。その罪は、偽計業務妨害罪。つまり、偽計を用いて人の業務を妨害した、というもの。3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処せられる。

 ところが、世間の関心は一方で別なところにある。監視員がいる中で、どうやってケイタイを使って投稿できたのか、という技術的な驚きだ。これまで、入試に関しては、集団カンニングや裏口入学、替え玉受験など入試の公正性をめぐる事件があった。今回のように、偽計業務妨害罪という刑法犯の特定にまで至るというケースは初めてだろう。

 過去の替え玉受験問題(1991年の明治大学の入学試験)では、有印私文書偽造など3人が逮捕されているが、これは大人が絡んだ事件だったから逮捕に至ったのだ。今回は世間を騒がせたものの、19歳の悪知恵である。もし、当の本人がゲーム感覚でしたことで、これほど大事(おおごと)なるとは思ってもいなかったと反省しているのであれば、警察が「この横着モノ。世間を騒がせたらいかん」と一喝しておきゅうを据えるだけで済む話ではないか。逮捕して、断罪して、それで世間がすっきりするのだろうか。むしろ、少年の出来心に対して寛容性がなくなった日本社会のあり様が返って問われることになりはしないか。この方がむしろ後味が悪い。

 もちろん、この事件の背後に協力者として大人が絡んでいる、あるいは未成年であっても他との共謀性があれば別の話になる。

⇒3日(木)朝・金沢の天気   ゆき

★続・追想クライストチャーチ

★続・追想クライストチャーチ

 ニュージーランド南島の中心都市クライストチャーチ付近で22日に発生した大地震。救出された富山外国語専門学校の男子学生(19)の被災体験が朝日新聞の24日付紙面で掲載されていた。学生はビルの4階にいた。昼食をとっていて、大きな揺れを感じた。いきなり、足元の床ごと、体が落ちた。周りの学生も「痛い」などと言いながら、一緒に落下していった。気づいたら、周囲は暗闇だった。右足が動かない。何かに、挟まれていた。奈落の底に落ちるような恐怖だったに違いない。学生は右足を切断し、救助された。

 2006年8月、家族旅行で訪れたクライストチャーチの街は、ビジネス街もあるものの、歴史が止まっているかのように感じられた。その理由は、若者の姿が少なからだった。同じ年の1月に訪れたイタリアのミラノは古い街並みを若者がかっ歩するという歴史の連続性を感じた。が、クライストチャーチには人々のみずみずしさが感じられなかった。

 若者の姿が見えない理由の一つが、学生がいないことだった。ニュージーランドに7つある大学の一つ、学生数1万3千人のカンタベリー大学がクライストチャーチの中心街から郊外に移転した。金沢の街の事情と少々似たところがある。もう一つの理由が、若者が仕事を求めてオークランドに流れていた。オ-クランドは北島にある人口110万人を数えるニュージランド最大の経済都市である。いうならば一極集中の構造になっているこの国では、2番目の都市規模を誇る35万人のクライストチャーチであっても「ストロー現象」で若者が吸い上げられていたのだ。

 そこにきて今回の震災である。この街のシンボルであり、観光名所でもある大聖堂も崩れた。そして、「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街であったクライストチャーチは一瞬にしてがれきの街と化した。あの美しい、古都のような街が早く復興していほしいと願う。ただ、この街の復興は前途多難であろうことは、想像に難くない。

 写真は、街路でチェスを楽しむ市民たち(上)、イングリッシュガーデンが見事なクライストチャーチの住宅のたたずまい(下)。2006年8月15日撮影。

⇒24日(木)朝・金沢の天気  はれ

☆追想クライストチャーチ

☆追想クライストチャーチ

 ニュージーランド南部のクライストチャーチ付近で発生したマグニチュード6.3の地震。23日現在の死者は75人、行方不明者は約300人。うち、不明とされる日本人は27人となっている。現地で語学研修中だった金沢市の男性(39)や富山外国語専門学校の学生らの安否が気遣われる。新聞報道では、余震が続き、建物がさらに倒壊する危険性がある。被災地での救出活動も難航している。国家非常事態宣言が出され、クライストチャーチは夜間外出禁止となった。

 クライストチャーチは思い出深い街だ。夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行したのは2006年8月15日のこと。当時のメモを見ながら、被災した街を追想してみる。関空からのフライトで、10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だった。

 クライストチャーチ、語感に古きイギリスのにおいがした。1850年、イギリスから4隻の船で800人が移民したのが始まり。それが現在では35万人の南島最大の都市へと成長した。すさまじい人口増の背景には歴史があった。ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからもどっと人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール(羊毛)の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと実力をつけていった。

 こうしたサクセスストーリーを背景に、街は活気にあふれた。1864年から40年もかけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。奥行き60㍍、1000人は収容できる。そして大聖堂の名前がそのまま街の名前になった。母国イギリスへの望郷の思いから、オックスフォード通り、ケンブリッジ通りなど大聖堂の周辺には地名もつけられた。人々は「イギリス以外で最もイギリスらしい町」と呼ばれるほどに本国のイミテーション都市をつくり上げた。

 その真骨頂は気品のある住宅街である。エイボン川沿いの瀟洒な住宅群、あるいは前庭は草花、後庭は芝生のイングリッシュガーデンの住宅が建ち並ぶ。クライストチャーチは「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街となった。そして、クライストチャーチは豊かだ。サザン・アルプスを背景にカンタベリー平野に展開する牧羊などの酪農、そしてカイコウラ漁港を中心とした水産業も盛んだ。そこに住む人々の表情は穏やで、路上でチェスを楽しむ姿があちこちに見受けられた。

 しかし、今回の地震でシンボル的存在の大聖堂の塔は崩れ落ちた。

⇒23日(水)夜・金沢の天気  はれ

★懐かしい未来

★懐かしい未来

 先月1月27日、東京・経団連ホールで三井物産環境基金特別シンポジウム「~がんばれNPO!熱血地球人~」に参加した。その基調講演で、日本野鳥の会会長の柳生博氏が「森で暮らす 森に学ぶ」をテーマに話した。独特のテンポの語りが人をひきつけた。

  柳生氏が35年前に八ヶ岳に移り住んで森林再生を始めたきっかけや、いまの環境問題に関する人々の意識の高まりについて、生活者目線で語った。印象に残ったのが「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」という言葉だった。人が生き物として正常な環境は「懐かしい風景」だ。田んぼの上を風が吹き抜けていく様子を見た時、あるいは雑木林を歩いた時、そんな時は懐かしい気持ちになる。超高層ビルが立ち並び、電子的な情報が行き交う都会の風景を懐かしい風景とは言わない。「懐かしい風景」こそ、我われの「確かな未来」と見据えて、自然環境を守っていこうという柳生氏のメッセージなのだ。

 つい先日2月12日、金沢で開催された自動車リサイクル企業「会宝産業」の講演会に誘いを受けて出席した。東北大学大学院環境科学研究科の石田秀輝教授が「遊べや遊べ、もっと遊べ!~あたらしいものつくりと暮らし方のかたち~」をテーマに話した。我慢する環境の取り組みではなく、心豊かに暮らしながら環境負荷をどう低減させるものづくりを進めたらよいかというのが話の趣旨。そのためには、大量生産、大量消費の「イギリス産業革命」的な発想と決別して、自然観を持った、ある意味で日本的な産業革命が必要だ、と。その中で、石田氏は「懐かしい未来」とたとえて、こんな話をした。ご近所の熊さんと八っつあん。熊さんが旅に出るので、「うちのソーラー発電の電気、どうぞ自由に使ってくださいな。その代わり、留守中は頼むよ」といった昔懐かしい日本的なセリフが、テクノロジーを伴って言えるような未来の姿をイメージさせる。

 我われが地球から受けた恩恵を次世代にどうやって引き継ぐのか、手渡すのか、その岐路に立っている。柳生氏の「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」と、石田氏の「懐かしい未来」の表現は多少違うものの、我われが共有する自然観や人間観をベースにした「未来への遺産」こそ確かなのであると強調している。今の我われが想像もできなような未来観というのは、映画『バイオハザード』のようでなんだか危なかしい。良き光景は懐かしい。それは未来も変わってはならない。そんなメッセージを二人から頂いた。

⇒14日(月)朝・金沢の天気  くもり

 

★兼六園スター物語

★兼六園スター物語

 2011年元旦、兼六園と同じ敷地にある金沢神社に初詣に出かけた。午前中の氷雨で人出は例年より少なく、列をなすほどではなかった。金沢神社の鳥居の近くにある木造の金沢城・兼六園管理事務所分室を立ち寄った。この建物そのものが文化財級の武家屋敷(旧・津田玄蕃邸)で、武家書院造りは風格がある。初詣もそこそこに立ち寄ったのは、ふとした思い付きだった。300年、400年後の「兼六園のスター」を見たい、と。

 国の特別名勝である兼六園。最近では、ミシュラン仏語ガイド『ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン』(2007)で「三つ星」の最高ランクを得た。広さ約3万坪、170年もの歳月をかけて作庭された兼六園の名木のスターと言えば、唐崎松(からさきのまつ)である。高さ9㍍、20㍍も伸びた枝ぶり。冬場の湿った重い雪から名木を守るために施される雪吊りはまず唐崎松から始まる。このプライオリティ(優先度)の高さがスターたるゆえんでもある。唐崎松は、加賀藩の第13代藩主・前田斉泰(1811~84)が琵琶湖の唐崎神社境内(大津市)の「唐崎の松」から種子を取り寄せて植えたもので、樹齢180年と推定される。近江の唐崎の松は、松尾芭蕉(1644-94)の「辛崎( からさき )の松は花より朧(おぼろ)にて」という句でも有名だ。

 いくらスターであって、保護が行き届いていても、植物はいつかは枯れる。あるいは、枯れなくても、台風で折れたり、倒れば、そのときにスターの寿命は終わる。名園の美観上、傷ついた名木を人目にさらすわけにはいかないのだ。その処理は粛々と行われ、跡地には次なる唐崎松が植えられることになる。そこで、話は冒頭に戻る。金沢城・兼六園管理事務所分室の隣地には唐崎松の「2世」がすでにスタンバイしている=写真=。事務所では「後継木(こうけいぼく)」と呼ぶ。すでに高さ3㍍余りあるだろうか。幹の根の辺りがくねって、すでに名木の片鱗を感じさせている。お世継ぎとあって保護され、雪吊りも施されている。この松は「実子」ではなく、かつて加賀藩主がそうしたように、大津市の唐崎の松の実生である。つまり「本家」からの世継なのだ。

 ただ、名園の世界にあっては「2世」だからと言って、スターの座を確保できるというわけではない。その時代に、園を訪れる人たちが「枝ぶりがいい」「樹勢(オーラ)を感じる」と評価するかどうか、だ。現在の唐崎松も脇役の時代があり、戦後のスターである。それ以前は、桜の2大スターが人気を競っていた。旭桜(あさひざくら)は、白い大きな花を付け、樹齢500年ともいわれた園内随一の老大木だった。明治の中頃から樹勢が衰え、昭和12年(1937)に枯死した。泉鏡花が大正4年(1915)に発表した小説『櫻心中』で、名木から飛び出した桜の精の悲恋物語を描いているが、その中で出てくる男役「富士見桜」が旭桜だ。小説のモチーフにもなっていたのだ。その旭桜と競っていたのが、兼六園では旭桜に次ぐ老木とされた塩釜桜(しおがまざくら)だった。こちらは、昭和32年(1957)に枯死してしまった。唐崎松がスターダムにのし上がったのはそれ以降だ。

 しかし、唐崎松のスターの座も不動ではない。かつてのスター、旭桜のひこばえが成長し、今や2代目の大樹となっている。さらに、塩釜桜も2001年に宮城・塩釜神社から苗を取り寄せ、その若木が見事な花を付けている。100年、200年後に唐崎松の樹勢が衰え、これら桜木が競って兼六園を彩る時代を予感させる。唐崎松の「2世」をじっと眺め、兼六園の300、400年後に、この2世はスターの座を確保できるだろうか。人の世とだぶらせて思いをめぐらせると、それだけでも楽しい。そして、その時代になっても、樹木を愛でる人々の気持ちは変わらないで欲しいと願う。

⇒1日(元旦)夜・金沢の天気 くもり

☆備忘録・猿鬼の伝説

☆備忘録・猿鬼の伝説

 前回のコラムで紹介した輪島市西山町大西山は能登町柳田(旧・柳田村)は互いに山を背にした隣の集落地域である。ここにサルにまつわる有名な伝説がある。能登では知られる「猿鬼伝説」である。集落における、人々の関係性、精神的な相克が見えて興味深い。以下、伝説の概略である。

 昔々、大西山に善重郎というその名の通り善良なサルがいた。善重郎は大西山のサルたちの頭領だったが、配下に一匹の荒くれ者のサルがいた。そのサルは善重郎の目を盗み、近辺の民家に悪さをしていた。ある日それが善重郎の知るところとなり、大西山を追い出された。あわてて逃げたサルが踏みつけた岩が三つに割れた。現在その岩は、「三つ岩」と呼ばれている。

 大西山を逃げ出したサルは、柳田の岩井戸という在所の岩穴をねぐらとするようになり、何時しか化け物になっていく。それから配下のサルたちをひきつれて、能登の農作物や馬や牛を食い荒らし、人をさらうなどして、人々に「猿鬼」と呼ばれ、恐れられるようになった。耐え切れなくなった村人たちは、大幡神社の杉神姫に助けを求めた。杉神姫は願いを聞き入れ、弓矢を準備しつつ、猿鬼たちの隙をうかがっていた。

 ある日、猿鬼が病にかかったという噂を聞いた杉神姫は、岩井戸の岩穴の近くで猿鬼の様子をうかがっていた。岩穴からは猿鬼のうめき声が聞こえてきた。そのうち岩穴から病身の猿鬼が出てきたので、杉神姫は猿鬼に向かって矢を放ったが、なぜか命中しない。さらに杉神姫は剣で猿鬼に切りつけたが、剣は真二つに折れてしまった。仕方なく杉神姫は大幡神社に逃げ帰り、神無月に出雲へ行った際に他の神々に相談しようと思いました。

 神無月となり、出雲で猿鬼退治の話し合いがなされた。その中で能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍、杉神姫を副将軍として、能登の神々で協力し猿鬼を退治することが決まった。作戦会議をする中で、村人が猿鬼に矢が当たらない理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていることを神々に知らせまた。それを聞いた杉神姫は、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙うことを思いつきました。村人たちは毒草を集め、それを煮詰めて毒を抽出し、矢に塗りつけた。そしてその矢を携え、気多大明神をはじめとする神々は猿鬼の住む岩井戸の岩穴に向かった。

 岩穴から猿鬼たちをおびき出すため、杉神姫は、村人が作った白い布を身にまとい、神々が囲むなかで踊りった。この挑発にのって猿鬼が配下のサルたちを従え岩穴から出てきた。神々と猿鬼たちの戦いが始まり、神々が一斉に毒矢を猿鬼たちに向けて放った。しかし、猿鬼は矢をはたき落とし、なかなか目に命中しなかった。少し離れた所から猿鬼を狙っていた杉神姫が、猿鬼の目に狙いを定め、矢を放つと、見事、猿鬼の目を射抜いた。猿鬼は叫び声をあげて逃げ出しました。それを神々が追いかけた。そして杉神姫がもつ名刀・鬼切丸によって猿鬼の首は切られた。ドス黒い血が近くの川を流れ、川は黒々と汚れた。以来この川を黒川(くろがわ)と呼ぶようになった。退治された猿鬼は神々によって葬られ、現在その地は鬼塚と呼ばれている。その塚を荒らすと大雨が降るといういわれがある。猿鬼退治の軍を興した気多大明神は猿鬼が根城とした岩穴の前に祀られ、岩井戸神社と呼ばれている=写真=。

 この猿鬼伝説と、大西山が猿回しの終焉の地であることと直接は関係性はない。が、何か因縁めいて面白い。この話は、『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている。

⇒31日(金)夜・金沢の天気  くもり

★ジョグラフ氏のこと

★ジョグラフ氏のこと

 12月18日開幕した国際生物多様性年クロージングイベントは、参加者による20日の能登オプショナルツアーで終了した。ツアーバスには朝7時半から8ヵ国の駐日大使や環境問題の担当者18人が乗り込んで、七尾湾のカキ養殖場や野鳥公園を見学し、輪島市では輪島塗工房、酒蔵などを見学した。野鳥公園では、双眼鏡をのぞいていた参加者が渡り鳥のタゲリを見つけ、「Pee Weeがいる」と喜んでいた。ネコのような鳴き方するので、ヨーロッパでも親しまれている鳥なのだ。

 ところで、今回の国際生物多様性年クロージングイベントがなぜ石川県で開催されたのか、なぜ東京や生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)の開催地、名古屋ではなかったのか。これが一番のナゾだと、開催期間中に県内外の参加者から聞かれた。そのナゾを、生物多様性条約事務局長のアフメド・ジョグラ氏と石川県のかかわりを振り返りながら解いてみたい。

 実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲・石川県知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット)である。2008年5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。谷本知事は「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。さらに、あん所長は通訳という立場だったが、知事以上に身振り手振りで話し、右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちるほどだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。トップセールスの手ごたえをつかんだのである。

 その3日後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。ジョグラフ氏の石川県・能登半島の訪問はその4ヵ月後に実現した。

 2008年9月13日と14日にジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、輪島市金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 2009年5月23日、ジョグラフ氏が金沢大学を訪れ、小学生や学生たちと「グリーン・ウェイブの日」を記念して植樹をした。5月22日は国連の「生物多様性の日」と定められ、ジョグラフ氏は東京での催しに参加し、翌日金沢大学を訪れた。中村信一学長のほか谷本知事、あん所長、中村教授、環境省生物多様性地球戦略企画室の徳丸久衛室長(当時)、学生と近隣の小学生50人余りがコナラとクヌギの苗木を植えた。その際のジョグラフ氏は記念スピーチで、「植樹活動は運動というより教育活動と考えており、大学が積極的に関わる意義は大きい」「平和を築くことは自然保護を抜きにしては考えられない」と話した。

 2009年6月ごろ、生物多様性条約事務局(モントリオール)は190余りの加盟国に対し、2010年国際生物多様性年に関連するスケジュールを通知している。1月11日・キックオフイベント(ベルリン)、1月21日、22日・キックオフイベント(パリ)、9月・国連総会(ニューヨーク)、10月11日-29日・MOP5とCOP10(名古屋)、12月18日、19日・クロージングイベント(金沢)

 国際生物多様性年の2010年。2月6日、金沢市で開催された「にほんの里から世界の里へ」と題したシンポジウム(総合地球環境学研究所、金沢大学など主催)に、ジョグラフ氏からビデオ・メッセージをいただいた。その中で語ったことは哲学的だった。Born and raised in Kanazawa, the great Japanese thinker Daisetsu Teitaro Suzuki said that life ought to be lived as a bird flies through the air, or as a fish swims in the water. Suzuki was encouraging us to live as naturally as possible, which, at a different level, is one of the themes of the International Year of Biodiversity in 2010. (金沢に生まれ育った偉大な思想家・鈴木大拙は、「(禅においては)鳥が空を飛び、魚が水に游(およ)ぐように生活されねばならない」と言っています。鈴木大拙は人々に、「できるだけ自然に生きなさい」と奨めているのですが、それは、見方を変えれば、2010年の国際生物多様性年のテーマの一つでもあります)

 こうしたジョグラフ氏と石川県とのかかわりの中から、国際生物多様性年クロージングイベントの石川開催が実現した。12月19日の記念シンポジウムで、ジョグラフ氏は谷本知事に対し、生物多様性年に貢献したとしてアワード(功労賞)を贈呈した。そして、「2008年5月に彼(知事)と始めて会った。里山や里海が生物多様性の保全にどれだけ役立つか熱っぽく語ってくれた。本来、政治家だったらクロージングイベントではなく、キックオフイベントの誘致を望んだろう。しかし、彼はCOP10を機に世界の流れが生物多様性に大きく動き出すことを読んで、今回のクロージングイベントこそが生物多様性の新たな時代へのキックオフだと快く引き受けてくれた。感謝する」と言葉を添えた。

⇒21日(火)朝・金沢の天気  くもり

☆生態系サービスのこと

☆生態系サービスのこと

 19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」(石川県立音楽堂)で、新鮮だったのは、スタンフォード大学(アメリカ)のグレッチェン・カーラ・デイリー(Gretchen C. Daily)教授=写真=の言葉だった。「中国政府はこれまでに1000億㌦を投じて生態補償を行っています。生態系サービスの供給を強化するとともに、貧困の軽減を目指しているのです。・・・日本にはすでに人と自然が調和するシステムを里山で実現していますね」。今回の記念シンポジウムでは、パネル討論の参加で、7、8分ほどのスピーチながら、それでも生物多様性の新たな可能性を切り開く示唆に満ちた語りだった。

 デイリー氏の業績は、われわれがよく言葉にする「自然の恵み」を経済に、政策的に組み込むことなのだ。「市場を使って自然を守る」と言ったほうがよいかもしれない。1997年の著書『生態系サービス(Nature’s Services)』で生態系の恩恵を体系的に整理し、過小評価されてきた価値を明らかにした。これにより、生態系や生物多様性の保全の必要性がより鮮明になったのだ。

 生態系と生態系サービスの変化が人間生活に与える影響を評価するため、国連の呼び掛けで実施された「ミレニアム生態系評価」(2001-2005年)では、生態系サービスの概念構築と定量的評価に重要な役割を果たした。この結果、ミレニアム生態系評価では、水の供給や気候の調整など24項目の生態系サービスのうち半数以上で質が低下していると指摘されたのだ。2006年から国連大学高等研究所などが中心となって取り組んだ日本の里山・里海評価(JSSA)はその国内版でもある。

 デイリー氏は短いスピーチの中で、時間を惜しむように話を続けた。生態学と経済学を統合し、自然を保全することが利益をもたらす「自然資本プロジェクト」を立ち上げた。ハワイ・オアフ島でのプロジェクトでは、105平方㎞におよぶ地域を「インベスト(InVEST:Integrated Valuation of Ecosystem Services & Tradeoffs)」と呼ぶソフトウエアを用い、生態系サービスのマッピングと評価を行い、その科学的データをもとに政策を立案した。土壌改良による生産性の高い農地をつくることや、風力・ソーラー発電、環境教育といった事業が同時に進められた。そしてさらに巨費投じているのが、冒頭で紹介した中国プロジェクトである。

 生態系サービス、そして自然資本という概念を実践することで定着させた偉大な科学者といえるかもしれない。生態学と経済学を統合するという壮大なプランは実証の裏付けがされれば、「ノーベル賞級」とも評される。

⇒20日(月)朝・金沢の天気  くもり

★GIAHSのこと

★GIAHSのこと

 きょう19日の国際生物多様性年クロージングイベント「記念シンポジウム」で、石川県の取り組みを発表した谷本正憲知事は聞き慣れない言葉を打ち上げた。「ジアス(GIAHS)に能登の里山里海を登録したい」と。参加者はきょとんした表情だった。それもそのはず、登録が実現すれば日本では第1号であり、おそらく日本のほとんどの人は初耳だろう。

 GIAHSって何だろう。正式には、Globally lmportant Agricultural Heritage Systems、世界重要農業資産システムと呼ばれる。これでも理解が進まないので、分かりやすく「世界農業遺産」や「農業の世界遺産」と呼ばれたりする。国連食糧農業機関(FAO)が認定するもので、2002年に創設された。未来に引き継ぐに値する伝統的な農法や景観、文化(農耕儀礼など)に加え、生物多様性の保全と活用が重視される。能登半島の農耕儀礼「あえのこと」が昨年9月、ユネスコの無形文化遺産に指定され文化面で、人と農業にかかわる「資産」を持っている。また、輪島の千枚田=写真=に代表されるように、リアス式海岸が連なる条件不利地のため、ため池をつくり、谷あいに棚田を形成して里山里海が独特の景観を醸し出している。また、ため池農業による生物多様性は、二次的自然の上に成立していることから、農業の継続が生物多様性存続の基盤となっている。

 知事と同じく記念シンポジウムで生物多様性の成果報告をした武内和彦国連大学副学長(東大教授)によると、能登と同時に、新潟県佐渡市も「トキを育む農業」をGIAHSに登録申請した。また、これまでGIAHSに登録されてる地域は、チリのチロエ諸島で200種のイモを栽培する「チロエ農業」や、イタリアのソレント海岸で栽培されている「レモン園」、フィリピンのルソン島イフガオの傾斜地に展開する棚田(1995年・ユネスコ世界遺産)など8ヵ所である。

 申請主体は、羽咋以北の4市4町(七尾市、輪島市、羽咋市、珠洲市、能登町、穴水町、志賀町、中能登町)となる。では、登録されることでどのようなメリットがあるのか。正直、これは申請主体の活動次第だ。農産物の付加価値やグリーン・ツーリズム、国際的なネットワークでの情報発信など多様な活用方法があるだろう。

 正式な登録は来年夏ごろであり、登録が決まった訳ではない。が、動き出した。類(たぐい)希なる農業資産を祖先から受け継ぐ能登半島は「過疎・高齢化のトップランナー」でもある。このまま座して死を待つのか、あるいは世界とリンクしながら、生物多様性を育む農業を現代に生かす努力を重ね新たなステージを切り拓いていくのか、その岐路に立っている。

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