⇒トピック往来

★GIAHS国際会議の視座‐2

★GIAHS国際会議の視座‐2

  昆虫の標本を見つめるパルビス・クーハフカンGIAHS事務局長の目は輝いていた。2010年6月4日、パルビス氏は国連大学高等研究所の研究員らとともに能登を視察に訪れた。金沢大学能登学舎(珠洲市)では、「能登里山マイスター」養成プログラムの教員スタッフから、里山里海の地域資源を活用する地域人材の養成の仕組み、とくに生物多様性など環境配慮の水田づくりの実習カリキュラムなどについて説明を受けた。

            GIAHS認証までの多様なプロセス

  フランスのモンペリエ第2大学(理工系)で生態学の博士号を取得したパルビス氏は天然資源管理や持続可能な開発、農業生態学に関する著書(2008「Enduring Farms:Climate Change,Smallholders and Traditional Farming Communities(困難に耐える農家:気候変動、小規模農家と伝統的農村社会)」など)もある。スピーチを聞けば論理を重んじる学者肌だと理解できる。そのパルビス氏は目を輝かせながら、のぞき込んだのが能登の水田で採取した昆虫標本だった=写真・上=。そして、「この虫を採取したのは農家か」「カエルやヒルやミミズ、貝類の標本はあるか」と矢継ぎ早に質問もした。当時、視察対応の窓口だった私の第一印象は「虫好き、生物多様性に熱心な人」だった。その年の10月に開かれた生物多様性条約第10回締約国会議(名古屋市)の会場でもお見かけした。

  2011年6月、北京で開催されたGIAHS国際フォーラムに出席した。同フォーラムは2007年のローマ、2009年のブエノスアレス、そして2011年の北京と3回目。パルビス氏はこの一連の会議の主催側だった。前年12月、FAOに申請した「NOTO’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」と「SADO’s Satoyama in harmony with the Japanese crested ibis(トキと共生する佐渡の里山)」が審査される会議。GIAHS認定に向けて日本から初めての申請だった。金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムの代表、中村浩二教授は能登における里山里海の人材養成についてプレゼンテーションを目的に出席、私は発言する立場にないオブザーバー参加だった。佐渡や能登の自治体、農林水産省、国連大学高等研究所、石川県庁など含め日本から総勢16人の参加だった。

  フォーラムの2日目(6月10日)の午前、能登地域4市4町のGIAHS申請者の代表の武元文平七尾市長(当時)、高野宏一郎佐渡市長(同)がそれぞれ英語で15分ほど申請趣旨についてプレゼンを行った。午後のsteering committee(運営委員会)で議題の一つとして新たな認定の同意をもとめ、拍手で採択された=写真・中=。正直言って「拍子抜け」という感じだった。国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界文化遺産登録などのように、その諮問機関(国際記念物遺跡会議=ICOMOS)が一つ一つ厳格に審査を行うとのイメージがあった。同じ国連の機関である食糧農業機関が認定する世界重要農業資産システム(GIAHS、通称「世界農業遺産」)なので、プレゼン後の審査もさぞ厳しいものがある、のだと。日本側では別室で開かれた運営委員会を傍聴すらできないと当初思われていた。ところが、中村教授がパルビス氏に傍聴は可能と尋ねると「No problem」の返事だった。運営委員会の雰囲気は緊張ではなく、各国のテレビ局などメディアも入るオープンな場だった。認証式は翌日11日午前に行われた=写真・下=。

  ここで、そんな甘々な認定ならば「わが地域も申請したい」と考える向きもあるだろう。ところが、むしろ大切なのでは認定までのプロセスなのである。公募ではなく、推薦である。国の機関と学術機関が推薦すること、日本の場合は農林水産省と国連大学がそれに相当する。中国の場合は、農業省と中国科学院。そして、FAO、農水省、国連大学による事前の現場視察、申請書類の提出、会議の場でのプレゼンテーション、運営委員会ので採択となる。冒頭述べた、昆虫の標本をくいるように見つめるパルビス氏の様子は事前視察の1シーンである。

⇒24日(金)夜・金沢の天気   はれ

☆GIAHS国際会議の視座‐1

☆GIAHS国際会議の視座‐1

  国連食糧農業機関(FAO)が出しているペーパーは「International Forum on Globally Important Agricultural Heritage Systems (GIAHS)」。直訳すれば、「世界重要農業遺産システム(GIAHS)国際フォーラム」となるが、日本では「世界農業遺産国際会議」となる。来週5月29日から31日まで石川県七尾市の和倉温泉で開催される。2011年6月、FAOから、能登半島の「能登の里山里海」と佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」が同時にGIAHSに認定されて丸2年、様々な動きが始まっている。認定以来の最大の動きが今回の国際フォーラムの能登誘致なのだろうか。シリーズで今回の国際フォーラムのこれまでに動き、そして今後の展開を見つめてみたい。

          GIAHSへの流れをトップセールスから読み解く

  ローマのFAO本部にジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバ事務局長を、石川県の谷本正憲知事が訪ねたのは昨年2012年5月23日だった。このときの会談で、谷本知事は次回2013年のGIAHS国際会議フォーラムを石川県で開催したい旨を提案した。これに対し、グラジアノ・ダ・シルバ事務局長は、この知事提案を歓迎する旨を表明した。このニュースは知事に同行した石川県の地元紙が翌日一面で伝えた。

  紙面を見て意外だったことがある。私は2011年6月の北京開催のGIAHS国際フォーラムに出席した。そのとき、パルビス・クーハフカンGIAHS事務局長は閉会式で、「次回はカリフォルニアで開催を予定している」と述べていた。カリフォルニアワインの代名詞となっているナパ・バレーは、高級ワインの産地として知られると同時に有機栽培のブドウ園が多くある。パルビス氏は講演などで、ナパ・バレーのことを引き合いに出して、「農業と生物多様性が共存するアメリカの現代の里山」と高く評価している。「The farmer gets his reward, not only he produces good things but also he maintains the ecology and biodiversity. You can call this an American modern Satoyama.」(2013年2月19日)

  上記のようなパルビス氏の思い入れもあり、てっきり2013年のGIAHS国際フォーラムはカリフォルニア開催と思っていた関係者も多かったと思う。逆に言えば、谷本知事のトップセールスが熱心だったのだろう。国際会議を誘致する知事のトップセールスの腕前はこれだけではない。2008年5月24日、ドイツのボンで開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の現地事務局に条約事務局長のアフメド・ジョグラフ氏を知事は訪ねた。このときすでに、2010年のCOP10の名古屋開催が内定していたので、「2010国際生物多様性年」のオープニングイベントなど関連会議を「ぜひ石川に」と売り込んだのだ=写真・上=。このとき、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットのあん・まくどなるど所長(当時)が通訳にあたり、「石川、能登半島にはすばらしいSatoyamaとSatoumiがある。一度見に来てほしい」と力説した。27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官(当時)にCOP10関連会議の誘致を根回した。

  ジョグラフ氏は実際に石川、能登を訪れた。知事のトップセールスから4ヵ月後の2008年9月15‐17日の旅程だった。名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(通称「エコアジア」、9月13日・14日)に出席した後、金沢に入り、16日と17日に能登半島の里山里海を見学した。能登町九十九湾の旅館に泊まったジョグラフ氏は17日の早朝、一人で奇岩や絶壁のある湾の名所を散策した。その後、国際生物多様性年のオープニングイベントはベルリン、そしてクロージングイベントは金沢開催(12月18、19日)と決まった。知事のトップセールスは実を結んだのである。

  金沢で開催された国際生物多様性年のクロージングイベントは翌年の「2011国際森林年」にちなんだ式典でもあった=写真・下=。印象的だったのは、各国の大使クラスの参加者が参加した兼六園への散歩コース。雪つりを終えていた兼六園の樹木を眺めながら、海外からの来賓たちが「木の保護の仕方が独特。300年以上生きている木があることは驚き。これこそ日本の遺産だ」と絶賛していた。

  実は、12月19日の国際生物多様性年クロージングイベントの記念シンポジウム(県立音楽堂)で「次の一手」を谷本知事を打ち上げる。「生物多様性の保全に向けたいしかわの挑戦」と題して、石川県が取り組む里山・里海の保全政策のプレゼンテーションを行った中で、過疎高齢化で里山が危機にあり、持続可能な形で利用保全していくことが大事」と述べ、「能登の里山里海が、国連食糧農業機関の農業版世界遺産に立候補した」と明らかにした。ちょうど2日前の17日、能登半島の8つの自治体でつくるGIAHS推進協議会が申請書をFAO日本事務所(横浜市)に提出した。FAOへの申請は県が主導したわけでもなかったが、知事をその動きを察知して、代弁したカタチで公表したのである。当時、国内で初めての申請であり、GIAHSの認知度はないに等しかった。GIAHSは「農業版世界遺産」と当時言われていた。

⇒23日(木)朝・金沢の天気  はれ

★道央走春‐追記‐

★道央走春‐追記‐

  北海道旅行の4日目(5月6日)は札幌を巡った。朝は気温が5度と低く、吐く息が白い。市内全体がガスがかかった感じで、テレビ塔(147.2㍍)=写真・上=もかすんで見える。オホーツク海に停滞している低気圧の影響で上空に寒気が流れ込んでいるためらしい。午前中のニュースでは、北海道の東部が雪に見舞われ、帯広では積雪3㌢となり、5月としては2008年以来の積雪を観測した、と。3日に新千歳空港に到着してからずっと春冷えで、まるで冬を追いかけてきたようだ。

       ビールの歴史、ワインのメッセージ、北の酔い

  けさの地元紙、北海道新聞の一面トップは「検証4・2日ロ首脳会談 譲歩か見せ球か 大統領が過去の領土解決例」との特集だ。安倍総理がプーチン大統領を訪問したとき、領土問題の解決にプーチンが力を注いできたことに水を向けたときの様子が述べられている。以下、記事を引用する。

  「プーチンはとうとうと語り始めた。中国とアムール川などの中州にある島の面積をほぼ2等分したこと。ノルウェーとも大陸棚の海域をほぼ2等分したこと…。『難しかった。だけど最後はフィフティ・フィフティ(50対50)で解決したんだ』」、「(昼食会で)プーチンは突然、1855年産のワインを手に立ち上がり、『下田条約(日露通好条約)が結ばれた年だ』と、安倍に振る舞った」(敬称略)

  上記のプーチンの言動を分析して、日本へ譲歩を示すシグナルか、見せ球かと北海道新聞はさらに言及する。北方領土問題で歯舞と色丹の2島の日本への引き渡しを明記した1956年の「日ソ共同宣言」の有効性を確認した「イルクーツク声明」(2001年、森喜朗総理とプーチン大統領が署名)の具体的な言及をプーチン大統領は避けたが、それでも、別れ際に「日本のことが好きだ。行くのを楽しみにしている」と安倍総理にささやいたとのエピソードを掲載している。探り合いながらも、両国が前向きの姿勢で領土問題の解決に可能性を見出している、との新聞を読んでの印象だ。それにしても、1855年産のワインはロシアからの相当前向きなメッセージではないだろうか。

  昼食を取りにサッポロビール園=写真・下=を訪れた。博物館では、北海道でビール作りが始まったエピソードが紹介されている。明治5年(1872)に北海道開拓使が招いた「お雇い外国人」の一人、トーマス・アンチセルが岩内で野生のホップを発見する。これがきっけで試験栽培が始まった。開拓使の幹部たちは東京での醸造所を計画するが、醸造には氷が不可欠と現地での醸造を主張する現場の課長たちが巻き返す。東京での着工が迫った明治9年(1876)に開拓使のトップだった黒田清隆が最終的に北海道での醸造所建設を決断する、というストーリーだ。そのとき、元薩摩藩士だった黒田は西郷隆盛らとにらみ合っており、明治10年(1877年)に西南戦争が起きると、黒田は鹿児島に赴く。激動する明治の歴史の中でささやかに北海道でビールは誕生したのである。

  北海道の旅ではビールもワインも十分に堪能した。この日は新千歳空港を18時00分発の便で羽田空港へ。乗り継ぎで小松空港へ。北陸に戻ったのは21時過ぎだった。

⇒6日(月)夜・金沢の天気    はれ 

☆道央走春-下-

☆道央走春-下-

  小樽に着いて2日目、小樽がかつて商業の都として栄えた理由を知りたい思い、その手がかりとして、小樽市内にある2つの国指定重要文化財を巡った。1つが、同市色内3丁目の旧・日本郵船小樽支店、もう一つが、同市手宮1丁目の旧・手宮鉄道施設だ。

          小樽の2つの文化財から見えること

  小樽は、江戸時代の北方探検家の近藤重蔵が「 エゾ地西海岸第一の良港 」と称した天然の良港だった。北海道の西海岸を北上するニシンを追って、松前、江差方面から人が集まり始めたのは江戸期の後半だった。ここが商都として注目をされたのは、明治13年(1880)に開通した幌内鉄道(手宮-札幌間36㌔)によってだ。石狩・空知地方からの石炭積み出しや、北海道開拓に必要な生活物資と生産資材の道内各地への輸送など海陸交通の接点としての小樽の位置づけがあった。この鉄道は、新橋−横浜間、神戸−大阪間に継ぐ、日本では3番目の本格的な鉄道だった。

  こうした北海道の海陸の接点が重視され、金融や輸送の関連企業が続々と小樽に集まってくることになる。もう一つの国指定重要文化財である旧・日本郵船小樽支店=写真=は、日露戦争直後の明治39年(1906)に完成した。石造2階建て、ルネッサンス様式の重厚な建築だ。この建物が注目されたのは、日露戦争の勝利だ。明治38年(1905)9月5日締結のポーツマス条約で樺太の南半分が日本の領土となり、翌年明治39年の11月13日、その条約に基づく国境画定会議が日本郵船小樽支店の2階会議室で開かれたのである。このとき、ロシア側の交渉団の委員長が宴席のスピーチで「北海道は日本の新天地なり」と褒めちぎったといわれる。すなわち、北海道内の物流の結節点だけでなく、大陸貿易の窓口としての機能に期待が膨らんだのである。

  明治初期に石炭の積み出し港として開け、さらに大正から昭和初期にかけて大陸貿易の窓口として小樽は繁栄することになる。小樽運河も、その時期の繁栄の産物だ。小樽には移住も増え、大正9年(1920)の人口比較で、小樽10万8千人で札幌より5千人余り多かったほど(「統計で見るわが街おたる」など参照)。小樽の土産で有名なのガラス工芸は、たとえば明治時代から作られてきた石油ランプや漁網用の浮き球にルーツがあり、1970年代に入ってランプを装飾品として購入する観光客に注目され、光が当たった。

  ここでふと考えた。敗戦、そして戦後の東西冷戦で商都としての小樽は色あせた。4月29日、ロシアを訪問した安倍総理とプーチン大統領は焦点の北方領土問題について「交渉を加速化させる」とし、平和条約交渉を再開させ、また安全保障協議委員会を設置することなども盛り込んだ共同声明を発表した。日本とロシア双方が本気で日本との領土問題を決着させ、日露平和条約を結ぶプロセスが見えてくれば、イルクーツクやハバロフスクなど極東ロシアの経済開発の機運が一気に浮上する。日本海側に面し、札幌とも近い距離にある小樽のポジションを考えれば、歴史の中で再度脚光をあびるときがくるのではないか。「北海道は日本の新天地なり」再びである。

⇒5日(日)夜・札幌の天気   あめ

★道央走春-中-

★道央走春-中-

  道央自動車道を走り、登別から小樽に着いた(4日)。予約しておいた小樽運河沿いのホテルにレンタカーを停め、周辺を散策した=写真・上=。2007年8月にも家族で小樽に来ているので、5年9ヵ月ぶりになる。で、小樽はどうのように変わったのか印象を述べてみたい。

      どこか似てきた小樽と湯布院の街並み

  その前に小樽の成り立ちをたどってみる。大正12年(1923年)に完成した小樽運河は、かつて「北のウォール街」と呼ばれたこの地に莫大な富をもたらした。日本銀行のほか、大手銀行が支店を出し、総合商社も軒を連ねた。戦後、物流の機能を失った。保存論議の末に昭和58年(1983年)から埋め立て工事がスタートし、運河は幅が半分になり、道路ができた。小樽の観光戦略は旧銀行や倉庫、商家の建物が中心だ。街全体が「レトロな観光土産市場」という感じだ。ガラス細工、オルゴール、カニ、寿司、チョコレート…、オール北海道という感じは変わらない。ただ、一部はブランド化して新しい提案型のショップへと変貌しているものもある。街をそぞろ歩きしていると、中国語の会話をしながらワイワイと歩くグループとよく会う。海外からも観光客を呼び込む戦略も成功しているのだろう。

  個人的な印象を少々辛口で言えば、「小樽も湯布院も同じ」である。小樽観光のメインである静屋(しずや)通りが俗っぽい。観光客向けの全国どこの観光地にもある、雑貨店やギャラリー、カフェなど若者、女性向けのものが多く、個性のない店が多い。人力車も走り回っていた=写真・中=。これは昨年10月に訪ねた湯布院でも見た光景だ。さらに、小樽は寿司を売りにして、あちこちに寿司店がありにぎわっている。ただ、小樽の寿司の売りがなんだか理解できない。きょう入った寿司店で、メニューに目を凝らしたのだが、「運河にぎり」などとメニューにはそれらしいことは書いてあるが。結局のところ、マグロ、ウニ、イクラ、イカ、エビではないか。おそらく、ネタは新鮮で魚介類が豊富なことは間違いないだろう。だとすれば、北海道どこでも味わえるのではないか。その土地で磨かれた文化としての食はどこのあるのだろうか。

  ところで、奇妙な光景、小樽らしいといえば小樽らしい光景がある。ギリシャ建築様式の昭和初期の典型的な銀行建築。内部は銀行らしい回廊付きの吹き抜け。かつての財閥、旧安田銀行小樽支店(1930年に建築)だ。戦後、富士銀行が継承した後に地元の経済新聞社の社屋として使われた。それが今、和食レストランチェーンの店舗となっている=写真・下=。化粧室が金庫室内にある。小樽市の歴史的建造物に指定されているこの建物。金融の歴史遺産とロマン、今風の居酒屋、港町の潮の香りと魚臭さが混じり合って、何か今の小樽の姿を映すシンポリックな存在に思える。店自体は客待ちが出るほどにぎわっていた。

⇒4日(土)午後・北海道小樽の天気     あめ

☆道央走春-上-

☆道央走春-上-

  ゴールデンウイークを利用して、家族で北海道旅行を楽しんでいる。今朝(3日)小松空港を8時45分発のフライトで新千歳空港へ。佐渡上空を通過する日本海ルートで、1時間35分の空の旅だ。千歳空港に到着し外に出て、思わず「寒い」と口にした。北海道は1年4ヵ月ぶりだったが、前回も同じ言葉を口にしたのを思い出した。

          登別温泉から見えるアジアの観光地・北海道

  昨年1月11日から16日にフィリピン・ルソン島のイフガオ棚田(1995年世界遺産、2005年世界農業遺産)を調査研究に訪れ、気温が30度余りの中をあちこち歩き、帰国後に北陸の寒さに少々体調を崩した。そして、9日後の25日に北海道の帯広市をシンポジウム参加のため訪れた。この日の帯広の最低気温はマイナス20度だった。フィリピンと帯広の気温差は50度。これが決定的となったのか、熱が出るやら咳き込むやらで体長不良に陥った。季節は春とは言え、今回の寒さは、地元紙の北海道新聞にも「札幌 21年ぶり5月の雪観測」(3日付)と1面の見出しで、2日夜に札幌でみぞれが降り、積雪(1㌢未満)を観測した、季節外れの戻り寒波を記していた。タマネギやジャガイモを作付する道内の農家が「寒い春」の影響で低温と日照不足を案じる声も記事にされていた。

  今回の3泊4日の北海道旅行はレンタカーで移動する。千歳空港のカウンターで予約していたレンタカーの手続きを取り、マイクロバスで「モータープール」に車を受け取りに行った。そのマイクロバスの車中でのこと。家族連れのグループの小学校低学年とおぼしき女の子が母親に尋ねている。「あの看板の人は誰なの、北朝鮮の人なの」と近いづいてきたレンタカー会社の屋上看板を女の子が指差しているのである。私も「北朝鮮」の言葉がはっきりと聞こえたので、不可解に思って指差す方向をつい見てしまった。

  確かに、このところニュースで頻繁に出てくる北朝鮮関連のニュース映像に出てくる英雄の像のポーズとよく似た人物像が写真の看板が掲げられている。その人物像はひげを蓄え、コートを羽織って、右腕を上げて革命を指導している姿にも見える。ただ、女の子が「誰なの」と母親や家族に問うているのに、しばらくは沈黙が続いた。私自身もその看板を見ただけでは分からなかった。すると、その家族の後部座席にいたシアニ世代の男性がその様子を見かねたように、「あれはクラーク博士ですよ」と教えてくれた。すると、女の子の父親が「そうか」と文字通り膝を打って、男性にお礼を言い、女の子に言い含めるように「あの人は、少年よ大志を抱け…」などと説明を始めたのだ。しかし、あの英雄的なポーズから人物名を言い当てる日本人はどれほどいるだろうか。ただ、看板になるくらいだから、当地の人にとっては見慣れたポーズなのだろう。

  レンターカーを受け取り、道央自動車道を今夜の宿泊地である登別に車を走らせた。道路の路のサイドがずっと黄色になっていた。春の季語で「竹の秋」がある。モウソウチクなど竹類の葉が5月から6月に黄葉して落葉する時節を指す。道路から見えるイエローベルトは竹ではなく笹、おそらくクマザサ。季節の移ろいを感じさせる光景だ。

  登別温泉に到着して。さっそく地獄谷を見学に行った。硫黄のにおいが立ち込め、いまも水蒸気を噴き上げている。「地熱注意」の看板も目につく。下に降りると、薬師如来の御堂がある。看板が書きに江戸時代に南部藩が火薬の原料となる硫黄を採取した、とある。そしてところどころに、閻魔大王の像やら漫画風のキャラクターが温泉街を彩っている。そして、楽しそうに写真を撮影しているグループの中には中国語が飛び交っている。

  昼食を食べようと入った店が「地獄ラーメン」を売りにするラーメン店だった。満員状態だ。我々の後に入ってきたカップルは中国語だった。間もなく店員が近づいて注文を取りにきた。地獄ラーメンを注文した。横のカップルに店員が「Where you come from ?」と声をかけ、「Taiwan」と聞くと、さっと中国語の閻魔帳(メニュー表)を持ってきた。そして、メニュー番号を尋ね、チャーシュー麺をカウンターの料理人に告げた。その一連のやり取りがスムーズなのに驚いた。相当慣れているとの印象だ。北海道は中国、韓国からの旅行者に人気が高い。アジアの観光地としての北海道、そんな心象をここ登別温泉で得た。

⇒3日(金)午後・北海道登別の天気  くもり時々あめ

★春の霰(あられ)

★春の霰(あられ)

  昨日から金沢では時折、雷が鳴り、荒れ模様の天気となった。そしてきょう27日は先ほど7時50分ごろに激しく「あられ」が降った。数分間だったが叩きつけるような激しい降りだった。金沢地方気象台の気象予報では、きょう27日は、上空に強い寒気を伴う気圧の谷が本州付近を通過するため、石川県では昼前まで雨や雷雨となる所がある、と。

  ゲリラ的な雷雨だったのだろうか、霰(あられ)が降ってきたので、カメラを持って、外に飛び出した。その一枚の写真である。自宅の敷地が一瞬白く覆われた=写真=。まもなく天気が回復して消えた。

  春のあられは何も珍しいことではない。俳句の季語にも登場する。「春の霰(あられ)」のほか、「春の霜(しも)」「春の霙(みぞれ)」など。ただ、不思議なことに、この時期に降るあられは粒が大きく感じる。そして、やっかいなのは木の芽や若葉を傷めることである。先日、モクレン科の受咲大山蓮華(ウケザキオオヤマレンゲ)とバラ科の利休梅(リキュウバイ)の幼木を植えたばかり。木の芽が出ていたので、芽が育つかどうか気がかりになってきた。

⇒27日(土)朝・金沢の天気  雷雨

☆キーパースン

☆キーパースン

   きょう13日の朝日新聞の天声人語の書き出しは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』だった。豚をはじめとする動物たちが飲んだくれの牧場主に反乱を起こし、解放される。しかし、やがて豚が特権階級となって専制支配を築き、ほかの動物たちを服従させる。アニメや映画にもなった有名な寓話だ。

  オーウェルの意図は旧ソ連のスターリン体制への批判だった。人間の歴史にとって進歩的な動きと見える現象が、時を経て大きなマイナスをもたらしている事実が洋の東西を問わずままある。いまでいえば北朝鮮のこの事態だろう。国内の人民を虐げ、貧困に落とし込んで、周辺国まで恫喝する。人類に苦痛を与えている、と言ってよい。

  哲学者・市井三郎(1922-89)の言葉を思い出す。「歴史の進歩とは、自らに責任のない問題で苦痛を受ける割合が減ることによって実現される」と。北朝鮮の人民は、明らかに自らの責任で苦痛を受けているわけではない。体制側からの圧迫である。脱北者が後を絶たないほどの人々の苦痛、隣国への圧迫、これをいかに減らせばよいのか。

  学生時代に覚えた言葉なので定かではないかが、市井はこうも言っている。「不条理な苦痛を軽減するためには、みずから創造的苦痛を選び取り、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠なのである」と。市井はこのような歴史的な転換期、ダイナミズムに決定的な役割を果たす人物のことをキーパースン(key person)と呼んだ。

  周辺国をも圧迫する北朝鮮のこの事態について、苦痛を受ける割合を減らす「歴史の進歩」が必要であるのは言うまでもない。ただ、その苦痛をわが身にひき受けるキーパースンが見当たらない。国内、あるいは国外なのか分からない。国外だとしたらアメリカのオバマ大統領なのか、中国の習近平国家主席なのか、と思いがちだが、意外と国内なのかもしれない。というもの、国外だったら国と国との単なる戦争である。市井が言うような「創造的苦痛を選び取る」国内の人材が不可欠だ。1968年に起こったチェコスロバキアの変革運動「プラハの春」や、2010年から2012年にかけてアラブで発生した反政府、民主化要求、抗議活動「アラブの春」などを先導した指導者たちをイメージする。

  しかし、彼の国では素朴な人間進歩への信仰はすでに崩れて去って、進歩をはかる価値観すら忘れ去れてしまっているかもしれない。話は青臭く、とりとめないものになってしまった。

⇒13日(土)朝・金沢の天気     はれ

★禍は西の空から

★禍は西の空から

   禍はどうやら西の空からやってくるようだ。中国大陸から飛んでくる黄砂、そして最近話題の微小粒子状物質「PM2・5」、そして鳥インフルエンザ。さらに、北朝鮮のミサイルだ。金沢市の老舗料亭「大友楼」の「七種(ななくさ)粥」の行事を思い出した。

 大友楼ではセリ(野ぜり)、ナズナ(バチグサ、ペンペン草)、五行=御行(ハハコグサ)、ハコベラ(あきしらげ)、仏の座(オオバコ)、すず菜(蕪)、スズシロ(大根)の七草を台所の七つ道具でたたく。面白いのはその口上だ。「ナンナン、、七草、なずな、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先にかち合せてボートボトー」と。つまり、旧暦正月6日の晩から7日の朝にかけて唐の国(中国)から海を渡って日本へ悪い病気の種を抱えた鳥が飛んで来て、空から悪疫のもとを降らすというので、この鳥が我家の上に来ない様にとの願いが込められている。「平安時代からの行事とされる」と、加賀藩主の御膳所を代々勤めた大友家の7代目の大友佐俊さんは言う。

 ちなみに、「かち合せてボートボト」と言うのは、金沢の方言で「鳥同士を鉢合わせでドンドンと落とせ」という意味だ。禍や病魔をもたらす「唐土の鳥」とは、昔から西の空からもたらされる、と考えられてきた。

  北朝鮮からのミサイル発射の警戒感が高まる中、大学などの機関にお達しが文部科学省からあった。
1. 万が一、落下物らしき物を発見した場合には、決して近寄らず、警察・消防に連絡すること
2. 万が一、各機関において、落下物等による被害があった場合には、本件連絡先の被害状況連絡先に情報提供すること
1. If you find anything that is possibly a part of the missile, do not go near it, and report to the police and/or fire department
2. If there is any damage at the institution caused by the missile, such as falling missile parts, share the information with the contact office for damage situation

  まさか本当の撃ってこないだろうとの思いはあるものの、日常の微妙な緊張感が醸成されている。「ナンナン、、七草、なずな、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先にかち合せてボートボトー」。口ずさみたくなる。

⇒11日(木)朝・金沢の天気    くもり

 

☆少子高齢社会の制度設計

☆少子高齢社会の制度設計

 能登半島の先端にある珠洲市役所を訪ねると、玄関を入って1階の左手が市民課になっている。その入り口で目に飛び込んでくるのが、市の住民登録人口の表記看板だ。「16,567人」(2月8日現在)。2006年夏に訪れた折は、19,000人ほどだったと記憶しているので、この7年でざっと2,500人の人口減になったことになる。13%減である。「先細り」と言えばそれまでだが、珠洲市の人々が元気をなくしているかと言えば、これは別の話である。

 3月27日公表された厚生労働省国立社会保障・人口問題研究所の「2040年の将来推計人口」データは確かに衝撃的だった。2010年の国勢調査との比較だが、日本は一気に少子・高齢化が進む。石川県内の人口は2010年の国勢調査で117万人だが、2040年には100万人を割り込み97万人に減る。小松市の2つ分の人口に相当する20万人近く減るというのだ。そして冒頭で述べた珠洲市など奥能登の2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)では、人口がほぼ半減する見通しだ。

 詳しく奥能登の2市2町のケースを見てみる。2010年の国勢調査で2市2町の人口は75,458人だった。今回示された2040年の推計人口は36,889人と、27年間でほぼ半分以下になるとの予想だ。減り方は、2010年を100としたときの指数で能登町45.5、珠洲市45.9、輪島市51.7、穴水町52.2となる。高齢化率の数字がさらに際立つ。65歳以上の高齢者は、珠洲市と能登町は2020年で50%に達し、超高齢社会の現実が浮き彫りになる。

 生産年齢人口(15-64歳)が減少することで、大幅な税収減となり、高齢者をケアする体制づくりも急務となる。さらに2市2町の75歳以上の人口割合は2040年には30%を超える。一方、0-14歳の人口割合は低下が続き、2010年時点の割合は2市2町とも9%だが、2040年には珠洲7.4%、輪島7.6%、穴水6.3%、能登が5.8%の「超少子・高齢化」の予測だ。

 モノには見方というものがある。こうした数字だけを見れば、奥能登は「少子・高齢化のトップランナー」でもある。むしろ、「超少子・高齢化」時代は確実にやってくるのだから、幸福づくり、生きがいづくり、新たな産業の可能性、社会の仕組みの再構成、健診モデルの構築など、超少子・高齢化の社会に向けた制度設計を能登をフィールドに見直したらどうだろう。

 実例を一つ上げる。能登半島の中央、七尾市中島町はカキ貝の産地で知られる。高齢化率33%(2011年3月)。この地域での要介護状態の原因の一つに認知症である。そこで、2004年から地域における認知症の早期発見と予防モデルの構築を目指した金沢大学医学部の調査研究が行われている。大学の医師、心理士らが家庭訪問。脳(もの忘れ)健診で、認知症を早期に発見するシステムを開発している。また、認知症を予防するための運動リハビリや認知リハビリをお年寄りたちに勧める。医師や心理士が率先して体操をして見せ、寸劇でもの忘れ健診の大切さを呼びかける。高齢化社会の到来を先取りして、認知症予防のモデルを確立する取り組みなのだ。

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