☆ファンドマネージャー
金沢大学での講演会(「NPO法人角間里山みらい」など主催)で初めて新井氏の話に耳を傾けて、「この人は逃げない」と思った。
番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、慈善家的なファンドマネージャーとして描かれていたが、講演ではその話しぶりからプロとしての人柄がにじんでいた。数兆円を運用していたそれまでの資産運用会社を体調を崩して辞め、7年前に仲間3人とともに金融ベンチャーを立ち上げた。鎌倉にある古民家を4人で修復して、オフィスとしている。現在8千人の投資家から140億円を託されている。資産運用部長として新井氏が株式を通じて投資しているのは46社だ。ツムラやヤマトといった大手企業から、赤字や非上場の中小零細まで新井氏が「いい会社」を発掘して、その全てに同じ金額を長期で投資している。ある1社の株が暴落しても、ダメージを受けないようにする、リスクヘッジでもある。
どのような方法で「いい会社」を探すのか。講演の休憩の合間に、名刺交換をさせていただいたが、その名刺にヒントがあった。点字付きなのだ。新井氏がこだわっているのは、社会的に意義があるなど、その事業に心から共感しないと、投資先にはしない。そして、その候補先の真価を見極めるため、社員面談を欠かさない。会社が苦境に陥ったとき、社員が踏ん張れるかどうか、その見極めは「社員の仕事に対する気持ちだ」と新井氏は強調した。社員と直接会うために、その社員が視覚障碍者であっても面談して、会社に対する気持ちを聞く。そのための点字入りの名刺だ。
新井氏は、著書「投資は『きれいごと』で成功する」(ダイヤモンド社)でこう書いている。「人間には、健常者もいれば障碍者もいる。でもその区分けは、とても微妙だとも思います。たとえば、知的障碍者は、物事を処理するのに時間がかかります。でも、健常者との違いはそれだけ、とも言えます。」と述べて、エフピコを事例を紹介している。広島県福山市に本社がある同社は食品トレーや弁当・総菜容器最大手で、障害者雇用率は16.10%、人数にして369人(「CSR企業総覧」2014年版)。障碍者は、回収した使用済み容器の選別工場、折箱容器の生産工場を中心に、全国21カ所の事業所で雇用されている。単純作業と見えるかもしれないが、黙々と達成感をもって仕事をする彼らこその現場の戦略となっている。慈善やCSRで障碍者を雇うのではなく、「本当に彼らを活かせる会社は、『時間がかかる』を『粘り強い』と読みかえ、能力が最大化される場を見つけて配置します。そして自分の場所を見つけたら、人はキラキラと目を輝かせて働きます。」(「投資は『きれいごと』で成功する」)
話はまた番組に戻る。番組の後半に、フェアトレードの代表者と新井氏が話し合う場面がある。代表が「融資というかたちで私たちの活動に参加して欲しい」と訴える。が、新井氏はそれに対しては返事をしない。もし、新井氏が視線が支援途上国の人たちの支援にあれば、おそらく「イエス」だろう。でも、新井氏はファンドマネージャーだ、当然、投資家に目線がある。社会的に意義のある団体や企業に投資することと、ボランティア団体への募金を一緒にしてはならない。ファンドマネージャーはあくまで投資対象の企業価値を見ている。投資家を慈善家にしてはならない。そんな厳然とした意志が見えた場面だった。
※写真は後援会のチラシ
⇒28日(日)朝・金沢の天気 はれ
ない。これまで、綿密につけてきたデータをもとにした作業だ。酒造りのデータを熱心に記録する姿を見て、「酒蔵の科学者」との印象を強くしたものだ。
か」と一瞬思った。文字一句でも厳しい、あの教科書検定のチェックをスルリとかいくぐって、である。※掲載画像と本文はリンクしていません。
イプが落ちてきて、ガクンと実際の床が下がり、キャーと観客(ゲスト)の悲鳴がする。自分自身もちょっと肝をつぶした。
く苦行の旅だったろう。そのときに浜辺のハマユウの白い花がなんともいとおしく思えた、そんな歌だったのだろうか。
以下、引用する。
福井県警小浜署、40代の男が出頭して関与を認めたと、新聞・テレビのマスメディア報じている。
にと農家の若い人が意外と気を使って操縦している。コンバインや耕運機とは違い、農業と空飛ぶ工学機械のコラボレーションという感じがする。
加賀藩の3代藩主・利常が小松に隠居したことから始まる。茶問屋「長保屋(ちょうぼや)」の長谷部理右衛門が利常に願い出で、藩内で茶葉をつくることを進言した。それまでは、宇治や近江の国からの購入だった。それを藩内で生産してはどうかと長保屋が提案した。利常は進言に応え、茶種を山城や近江から購入し、小松付近で栽培が始まる。そして、小松の安宅湊からは北前船で「茶、絹、畳表」などが移出さるようになった。元禄4年(1691)の記録によると、加賀藩五代の綱紀が、徳川五代綱吉に献上したとの記録もある。
人たちの想いまだ記憶されている。穴水町に行く、今でも「昔、能里ちゃんはここら辺りを飛んでいたよ」と話すお年寄りがいる。「ちゃん」付けにトキへの想いがこもる。