⇒トピック往来

★2017年の賀状を「読む」

★2017年の賀状を「読む」

  正月3が日、金沢は晴天に恵まれ、穏やかな年の始めとなった。以下は私の年賀状。

    謹  賀  新  年
 
   今年もよろしくお願いいたします。還暦を過ぎて、自分の至らなさにハッとすることが多々あります。先日お寺が点在する金沢の東山界隈を歩いていると、山門の掲示板にあった「その人を憶(おも)いて、われは生き、その人を忘れてわれは迷う」という言葉が目に入りました。仏教的な解釈は別として、人は若いころは諸先輩の言葉に耳を傾けていても、加齢とともに聞く耳を持たなくなり、我がままに迷走するものだと。これって自分のことではないか、と気がついて掲示板を振り返った次第です・・・。荒れ模様の世界情勢ですが、引き続き、人生のよきお付き合いをお願いいたします。

   いただいた年賀状から。かつての仕事仲間(新聞・テレビメディア)からの賀状。「世界もテレビ業界もいよいよ激動の時代へ。メディアの胆力が問われます」、「放送コンテンツのネット同時配信に向けて動きが本格化しています。ネットワークの在り方にも変化が出始めました」、「・・・『空気』や『言葉』が言論を抑え込んでいる。そんな時代になっていないかと、考えました。その答えははまだ見つかりません・・・」。新聞も放送メディアも大きな岐路に立っている。短文だが、ひしひしとその気持ちが伝わってくる。

   ITベンチャーの社長からいただいた賀状。「当社は新たなサービスの開発を目的として、今後発展が期待されるIoT技術の活用やデジタルマーケティングについて研究を行うIoTマーケティングラボをスタートいたします」。金沢のホテルの社長兼支配人からいただいた賀状。「おもてなしの神様は、細部にこそ宿る・・・20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエの『神は細部に宿る』の言葉通り、細かな設え、おもてなしのすみずみまで、金沢らしいこだわりをもって、お客様をお迎えします」。

   漆芸の重要無形文化財保持者(人間国宝)からいただいた賀状。「うるしの木は植樹して、12年から15年ぐらいで樹液を採取出来ます。その事を漆を掻くといい、一本の樹から約180mlぐらいしか採れません。・・・・昨年暮れに届いた漆を使い今年も仕事が出来る事に感謝いたし、新年のご挨拶申し上げます。」。漆芸と人生をともにする謙虚な心根がこちらの心にも響く一文だった。

⇒3日(火)夜・金沢の天気    くもり

☆36年連続日本一の「もてなし伝説」

☆36年連続日本一の「もてなし伝説」

  能登半島・和倉温泉の旅館「加賀屋」はちょっとした誇りだった。全国の旅行会社の投票で選出する「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(主催・旅行新聞新社)で36年連続総合1位を獲得したからだ。「日本で最高の温泉旅館があるのは能登の和倉温泉だよ」と金沢の市民もよく自慢していた。ところが、ことし第42回(今月11日発表)では残念ながら総合3位に甘んじてしまった。ちなみに、1位は福島県母畑温泉の八幡屋、2位は新潟県月岡温泉の白玉の湯泉慶・華鳳だった。しかし、よく考えてみれば、競争の激しい温泉旅館業界にあって、よく36年連続記録を打ち立てたものだと思う。今後35年間は破られることのない温泉旅館で最高記録の伝説をつくったのだ。

  加賀屋のもてなしは客室から見える七尾湾の海と相乗として自然だ。そのポイントは「笑顔で気働き」という言葉に集約されている。客に対する気遣いなのだが、マニュアルではなく、その場に応じて機転を利かせて、客のニーズを先読みして、行動することなのだ。

  たとえば、客室係は客が到着した瞬間から、客を観察する。普通の旅館だと浴衣は客室においてあり、自らサイズを「大」「中」の中から選ぶのだが、加賀屋では客室係が客の体格を判断して用意する。そこから「気働き」が始まる。茶と菓子を出しながら、さりげなく会話して、旅行の目的、誕生日や記念日などを聞いて、それにマッチするさりげない演出をして場を盛り上げる。たとえば、家族の命日であれば、陰膳を添える。客は「そこまでしなくても」と驚くだろう。しかし、それが加賀屋流なのかもしれない。小手先のサービスではない、心のもてなしなのである。客室係の動作は雰囲気の中で流れるように自然であり、決してお節介と感じさせない。さざ波の音のような心地よさがある。

  「もてなし」はホスピタリティ(hospitality)と訳される。癒されるような心地よさの原点は一体なんなのかと考える。この心地よさは、実は加賀屋だけでない、能登の心地よさなのだと思うことがある。先日(12月4、5日)、留学生や学生を連れて奥能登の農耕儀礼「あえのこと」を見学に行った。ユネスコの無形文化遺産に登録されている、「田の神さま」をもてなす儀礼である。粛々と執り行われる儀式。その丁寧さには理由がある。昔から当地の言い伝えで、田の神さまは目が不自由だという設定になっている。田んぼに恵みを与えてくれる神さまは、稲穂で目を突いてしまい目が不自由なのだから、神が転ばないようにも座敷へと案内をしなさい、並んでいるごちそうが何か分かるように説明しなさい、と先祖から受け継がれてきた。障がいのある神さまをもてなすという高度な技がこの地には伝わる。現代の言葉で、健常者と障がい者への分け隔てない接遇はユニバーサル・サービス(universal service)と呼ばれる。この接遇の風土は「能登はやさしや土までも」と称される。

  加賀屋が36年連続総合1位の伝説をつくることができたのも、そうした接遇の風土があるからなのだろうと勝手に想像している。

⇒13日(火)朝・金沢の天気    くもり
   

☆2つのデモを読む

☆2つのデモを読む

   トランプ大統領の誕生をどう見るか。現地アメリカのテレビをはじめ、日本のメディアでもその分析で忙しい。14日の時事通信WEB版では、1100万人超と言われる不法移民について、トランプ氏が犯罪歴のある200-300万人を強制送還する考えを明らかにした、と伝えている。選挙期間中、トランプ氏は不法移民全員を強制送還すると公約していたが、選挙戦の途中から犯罪歴のない不法移民の扱いをあいまいにしていた。また、焦点となっていたアメリカにおけるTPP(環太平洋経済連携協定)の議会承認手続きについて、オバマ大統領は任期中の実現を事実上断念したと13日付の朝日新聞などが伝えた。こんなたぐいのニュースがここしばらくは続くだろう。

   当のアメリカでは、トランプの大統領に反対するデモが各地で盛り上がっている。11日午後、ニューヨーク中心部の公園で開かれたデモ集会には数千人(主催者発表)が集まり、高校生や大学生らが「トランプは出ていけ」「Love trumps hate」(愛は憎しみに勝る)と叫び、抗議した。ロサンゼルスではデモが暴徒化して、逮捕者が180人にのぼったという。この日、アメリカ各地17ヵ所でデモが行われた。

   こうした一連のデモで分析できる特徴的なことは、民族対立の様相を帯びてきていることだ。ロサンゼルスでは反トランプデモが連日行われ、ヒスパニック系や黒人の若者層が「KKKもトランプも出て行け」と叫んでいる。KKKは白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」のこと。KKKは来月3日に拠点であるノースカロライナ州で、当選祝賀パレードをすると発表していて、民族対立のヤマ場になる可能性がある。今回の大統領選によって、アメリカ社会に修復できない亀裂ができてしまったようだ。それにしても、仮にクリントンだったら、反クリントンデモが各地で起きていただろうか。その違いを分析する必要がありそうだ。

   お隣、韓国では朴大統領の政治の私物化を糾弾する大規模なデモが12日、ソウルや釜山で市内であった。参加者は「下野しろ」などと迫るスローガンを掲げ、退陣要求を叫んでいることだ。面白いのは、現地のマスコミの報道ぶりだ。ソウルのデモ参加者数は主催者発表で100万人、警察推計で26万人だが、メディア各社は主催者発表の「100万」を見出しで躍らせている。日本のメディアは記事でも見出しでも「26万人」だ。

   上記の違いをどうとらえるか。韓国のメディアはおそらく「民衆の味方」としての立場で「100万人」をアピール、日本のメディアは客観的な報道としての警察推計の「26万人」を取る。見方によっては韓国のメディアは民衆を扇動しているとも受け取れる。この2国で同時多発で起きているデモ。デモを読めばその国のリアルな姿が見えてくる。

⇒14日(月)朝・金沢の天気    くもり

★千載一遇のチャンス

★千載一遇のチャンス

   アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利した=写真=。「番狂わせ」「予想外」の展開だった。そもそもアメリカの世論調査ではクリントン氏の優勢と伝えていた。たとえばCNNの「政治予測市場」は、クリントン氏が勝利する確率は先週いったん下がったものの、7日には91%に回復したと伝えていた。アメリカの政治情報サイト「リアル・クリア・ポリティクス(RCP)」も7日時点の全米世論調査の平均支持率で、クリントン氏44.8%、トランプ氏42.1%だった。ではなぜ、予想はひっくり返されたのか。

   面白いことに、アメリカのメディアは、その理由を「隠れトランプ票」があったためと伝えている。問題発言を繰り返すトランプ氏への支持を公言しにくいことや、メディアへの不信感から、世論調査に回答しない人たちの存在がこの「番狂わせ」「予想外」を招いたというのだ。言い訳としか聞こえない理由だが、世論調査の結果をひっくり返すほど、「隠れトランプ票」が多かったことは間違いない。

前回のブログ「トランプ現象と白人層の閉塞感」で、「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」について述べた。もともとは政治的、社会的に公正・公平・中立的という概念だが、広意義に職業、性別、文化、宗教、人種、民族、障がい、年齢、婚姻をなどさまざまな言葉の表現から差別をなくすこととしてアメリカでは認識されている。しかし、ポリティカル・コレクトネスは、本音が言えない、言葉の閉塞感として白人層を中心に受け止められている。心の根っこのところでそう思っていても、表だってはそうのように言わない人たちでもある。「隠れトランプ票」とはこうした人たちを指すのではないか。

    それにしても、9日の東京株式市場で、日経平均の下げ幅は一時1000円を超えた。開票作業が続く中で、トランプ氏優勢の報道を伝えられ、投資家にリスクを避けたいとの思いが強まったようだ。終値は前日より919円安い1万6251円だった。さらに、トランプ氏が勝利を決めたことで、日本とアメリカなど12ヵ国が参加するTPP(環太平洋経済連携協定)の発効に暗雲が立ち込めてきた。トランプ氏はTPPについて「大統領の就任初日に離脱する」と反対を表明しているからだ。白人の労働者層の支持を集めるための、プロバガンダだったが、クリントン氏もTPPには反対を表明していたので、ここは有言実行だろう。

    ほかにも、日本とアメリカの安保体制も懸念される。在日米軍の費用負担の全額を日本に負担させるとのトランプ氏の発言である。ある意味、これは「戦後レジーム」を見直す千載一遇のチャンスかもしれない。戦後70年余り経った現在でも「アメリカの核の傘の下」で、外交や防衛問題などアメリカにお伺いをたてているのが現状だ。過日、国連での核兵器禁止条約の制定交渉をめぐる決議案で日本が反対に回ったのは、その最たる事例だろう。この際、対米関係を見直すときが巡って来たと前向きに考えればよいのではないだろうか。もちろん、よきパートナーを目指して、である。

⇒9日(水)夜・金沢の天気    はれ

☆クマモトを訪ねる-下

☆クマモトを訪ねる-下

   熊本を訪れた8日、現地では大変なことが起きていた。午前1時46分ごろ、阿蘇山の中岳で大噴火があった。このことを知ったのはJR「サンダーバード」車内の電光ニュース速報だった。阿蘇山では36年ぶりの「爆発的噴火」だという。噴煙は高さ1万1千㍍まで上がり、広範囲に噴石が飛び散っているという。熊本市内でも灰は降っているのだろうか、そんなことを思いながら熊本に向かった。

   熊本に着いて、熊本城の被災状況を見た後、チャーターしたタクシー運転手に「阿蘇山まで行って」と頼んだ。すると運転手は「ここから50㌔ほどですが、おそらく行っても、帰る時間は保障できない」と言う。聞けば、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号が4月の地震で寸断されていて、迂回路(片側1車線、13㌔)は慢性的な交通渋滞になっている。さらに、今回の噴火で渋滞に拍車がかかっている、という。プロの運転手にそこまで言われると、無理強いもできない。「それでは益城(ましき)町へ行ってほしい」と方針を変えたのだった。

   ともとも益城町へ行く予定だった。4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。今はほとんど報道されなくなったが、現状を見て愕然とした。新興住宅が建ち並ぶ中心部と、昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。実際に行ってみると街のあちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があちこちにあった。印象として復旧半ばなのだ。

   とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が。タクシー運転手は「先日の新聞でも、公費による損壊家屋の解体はまだ2割程度しか進んでいないようですよ」と。そして農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てて「仮設住宅」で暮らしている農家もある。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がつく。

   またまた8日付の地元紙、熊本日日新聞を購入して広げると、「益城町の復興計画骨子案」が一面で掲載されていた。市街地の北側に新たに「住宅エリア」を、熊本空港南側には新たな「産業集積拠点」などを設けるとしている。骨子案は12月に取りまとめ、県や国にも説明してその後3月議会で採択、それから土地の買収交渉などの長い道のりが想定される。

噴火と震災のクマモト。言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進める、日本型の復興モデルになってほしいと心から願った。

⇒9日(日)午後・熊本の天気   はれ
   

★クマモトを訪ねる-上

★クマモトを訪ねる-上

    ことし4月16日の本震で震度7の揺れに2度も見舞われた熊本。その後も震度4以上の余震が115回も起きている。震災から6ヵ月後となるきょう8日、熊本市、そして隣接する益城町の被災現場を訪ねた。

    金沢から熊本へは、JRの「サンダーバード」で新大阪へ。新大阪から山陽新幹線で博多へ。さらに博多から九州新幹線に乗り継ぎ、熊本に到着した。朝8時すぎに金沢駅を出発したので、かかった時間は6時間ほどだ。被災地を訪ねるの目的の旅だが、熊本駅に到着すると出迎えてくれるのが、あの「超」有名な「ゆるキャラ」の「くまモン」だった。くもモン駅長室などこれでもかとあのゆるキャラが存在感を見せつけている。ここまでくると、おかしくて滑稽な感じがして、心が緩む。2011年3月の九州新幹線全線開業をきっかけに誕生して、5年間、知名度で言えば、ジャーニーズ事務所のタレントを凌ぐかもしれない。駅近くのホテルにチェックインしたが、部屋に入ってびっくり、大小のくまモンの縫いぐるみがベッドの上やソファに10個もある。これには、「参った」。

    大粒の雨が降って来たので、タクシーをチャーターして熊本城に向かった。雨にもかかわらず「熊本城坪井川園遊会 秋の宴」というイベントの真っ最中で大勢の人が集まっていた。女の子たちが扮する花魁(おいらん)道中やフラダンスのイベントもあり、華やかな雰囲気だ。そんな中、ちょっと気が引けたが、ボランティアの女性に「被災した熊本城でかろうじて残った縦一列の石垣で支えらた城はどこから見えますか」と尋ねた。すると、「湧々座(わくわくざ)の2階からだったら見えますよ」と丁寧にも施設に案内までしてくれた。石垣が崩れるなど恐れからいまも城の大部分は立ち入り禁止区域になっている。

    2度の震度7の揺れで石垣が崩れるなどの大きな被害を受けた熊本城。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた城跡は「飯田丸五階櫓(やぐら)」と呼ばれている名所。応急工事が施されていた。ボランティアの女性の説明によると、高さ10㍍の「コ」の字形の鉄骨の架台で櫓を支え、一本足の石垣の倒壊を防いでいるのだという。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっている。

    ふと思った。これが金沢城だったらどうか。おそらく、「金沢城が復旧するまで」と一切のイベントなどは実施されないかもしれない、と。でも、熊本の人々の心根は強い。「あたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ・・・」、「おてもやぁ~ん あんたこの頃 嫁入りしたではないかいな~」。復興途中でありながらも逆境にめげず、踊り歌う地域性がむしろ感動を呼び起こす。くまモン、そして駅前にある「おてもやん」の少女像。クマモトらしいと感じた。

⇒8日(土)夜・熊本市の天気   あめ

☆いざ、鎌倉-下

☆いざ、鎌倉-下

  3日目に拝観に訪れたのは、鎌倉の大仏さん。小学校の教科書の写真などで幼少よりなじみのあるポーズだが、こうして実際に観るのは初めて。青い空、周囲の樹木と映え、ここに座して760年余り、古都鎌倉のシンボル的な仏教美術、国宝でもある。パンフなどによると、完成当時は全身に金箔が施され、大仏殿に安置されていた。ところが、大仏殿は2度の台風で損壊し、露座の大仏になったとされる。地域の災害の歴史を刻んだ歴史があり、含蓄のあるお姿と察した。

  大仏の裏側にまわると、「胎内拝観」という文字が目に入ってきた。鎌倉の大仏は中に入れるようになっている。拝観料はわずか20円。内部を見ると、鋳造の木枠の跡が見えるが、よく解らない。首の部分を見ると強化プラスチックのようなものが重ね貼りされていて、頭を支える部分が補強されていることがうかがえた。歴史ある鎌倉の大仏となれば、なおさら補強が必要なのだろう。かつては金色に輝いていたであろう大仏は青銅製、現在は酸性雨などの影響で変色しつつあり、メンテナンスが大変であることは想像に難くない。

  鎌倉文学館を訪れた。夏目漱石や川端康成など鎌倉にゆかりのある文豪や文学者に関する原稿など資料を収集・展示している。万葉集や平家物語などの当地にまつわる古典作品も紹介している。

  本館は、旧前田侯爵家の鎌倉別邸(本邸は東京・駒場)だった。加賀・前田家15代、16代の2代にわたる当主が建てた、と説明書きにある。完成したのは昭和11年、レトロな格調をそのままに残した洋館。国の登録有形文化財にも指定されている。内部は、アールデコ様式が随所に見られ、大理石の玄関や暖炉、飾り窓の装飾とステンドグラスが建物の重厚さを伝えている。真ちゅうの緻密な細工を施した照明器具が妙に部屋とマッチしている。文学資料よりも洋館の造りに見とれてしまった。

  本館を出て歩くと、芭蕉の句碑が目に止まった。「鎌倉は生きて出にけん初松魚」。初松魚は「はつがつお(初鰹)」のこと。江戸時代、鎌倉はカツオの産地として知られ、鎌倉でとれたカツオは早船で江戸に送られたという。魚河岸の初ガツオ、鎌倉ではピチピチしていたんだろうな、と。芭蕉は案外食通だったに違いない。

⇒3日(月)朝・金沢の天気  くもり

★いざ、鎌倉‐中

★いざ、鎌倉‐中

  鎌倉市の中心と言えば、鶴岡八幡宮あたりか。駅前から参道がまっすぐ伸びる。その長さは500㍍。1180年、鎌倉入りを果たした源頼朝は、先祖が創建した由比若宮を遷座して、鶴岡八幡宮を中心とした街づくりを始めたと言われる。参道を歩く。左右に老舗の商店や銀行などが並び、頼朝がプランニングした通りに、街の中心と実感できる。

  鶴岡八幡宮の入り口の旗上弁財天社前で観光ガイド氏が面白いことを説明してくれた。「鶴岡八幡宮の境内には白ハトがいます。白ハトは樹木の上にとまり、黒いドバトは地べたにいるのです」と。観察すると樹木に白ハトが数羽とまっていた。さらにガイド氏は「八幡宮の額の八の字は、神聖な神の使いとされる二羽の白ハトをかたどっています」と。確かに、本宮手前の楼門の額の「八幡宮」の八の字はハトをシンボリックに描いたものだった。参道沿いに鳩サブレーで有名な豊島屋の本社がある。そうか、鳩サブレーの原点は鶴岡八幡宮だったのかと合点がいった。

  鶴岡八幡宮で有名な樹木と言えば大銀杏(おおいちょう)だろう。1219年、鎌倉幕府三代将軍の実朝が僧侶に暗殺された際、僧侶が潜んでいた場所が大銀杏の木陰で、後に「隠れ銀杏」と呼ばれた。そのくらいの知識はどこかで得ていた。ところが実際に訪れて驚いた。その大銀杏は2010年の強風で倒れ、現在は根元を残して切られていた。かつて根回り6.8㍍、高さ30㍍、樹齢千年と言われた八幡宮のシンボルだった。倒れた大銀杏の根元は傍に移され、銀杏の若木が元の地で植栽されていた。銀杏版の式年遷宮と考えればその意義は大きい。この若木が鶴岡八幡宮のさらなる何百年の未来と共にするのだ。

  鶴岡八幡宮から歩いて15分ほど。参道から本堂前までシロバナハギが咲く宝戒寺に赴いた。「萩の寺」として知られている。赤い彼岸花も咲いている。周囲を街を見渡すと、黄色いキンモクセイもいたるところに咲いている。鎌倉は花のにおう街なのだと感じ入った。

  鎌倉で一番の古刹、杉本寺を訪ねた。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の734年に創建された。仁王門を抜けるとコケむした石階があった。すり減った石段は長い年月をかけて多くの参拝者が訪れたことを物語っているかのようだ。本堂の屋根は茅葺(かやぶき)で風情がある。訪れたとき、毎月1日の護摩供(ごまく)が営まれていた。

  土曜日ということもあり、参拝者が多く訪れていた。見渡すと、若い女性が目立つ。護摩供が終わり、女性たちは御朱印帳を購入している。「御朱印ガール」たちだ。 御朱印は、寺や神社に 参拝したあかしとしてもらう押印のこと。「鎌倉三十三観音巡り」の一番札所が杉本寺なのだ。

⇒2日(日)朝・鎌倉の天気   はれ

☆いざ、鎌倉-上

☆いざ、鎌倉-上

    一度ゆっくり散策したみたいと思っていた場が鎌倉だった。その思いが叶った。9月30日正午すぎにJR横須賀線鎌倉駅東口に降り立った。駅前には有名なハンバーグ店などありにぎわっているが、これがあの「古都・鎌倉」かと少々拍子抜けした。ただ、後ろを振り返ると、駅舎が屋敷風の形状でその存在感を強調しているようにも思えた。

    駅前の広場を抜け大通りに出ると、鶴岡八幡宮の裏参道がまっすぐ伸びていた。鶴岡八幡宮は後で行くことにして、タクシーで報国寺に向かった。禅宗のこの寺は1334年にこの地で開山された。境内の本堂裏には「竹の庭」があり「竹の寺」とも称される。竹はモウソウ竹で上にまっすぐ伸びている。あいにくの曇り空だったが、これが青空だったら日が差し込む光景は格別かもしれない。逆にしっとり雨が降っても場は和むかもしれないと思ったりもした。

    この竹林を眺めながら、茶席「休耕庵(きゅうこうあん)」で抹茶(薄茶)をいただいた。「いざ鎌倉」という言葉がある。功名手柄をたてたいと、どれほどの武士(もののふ)たちがこの鎌倉の地に馳せ参じたことだろうか。新田義貞による鎌倉攻め(1333年)、多くの武士たちが「いざ鎌倉」と戦い散っていった。その翌年に開山された報国寺の境内にも当時の供養塔が多くあった。耳を澄ますと、竹林を通り抜ける風の音がサラサラと。その切ない音に、武運なく散っていった武士たちの魂の行き交いを感じたのは私だけだろうか。

    それにしても、境内には苔(こけ)が清く整えられ、気持ちが良い。報国寺は観光地の格付けを行うミシュランで三ツ星を獲得している。インバウンド(海外観光客)が境内に目立った。

   次に「鎌倉市雪ノ下」という地名に、鎌倉投信株式会社を訪ねた。昨年5月にNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にファンドマネージャーとした出演した新井和宏氏(同社資産運用部長)に会うためだ。実は昨年8月に金沢大学で講演会があり、その折、あいさつをさせていただいた。今回は2度目となる。金融というと、経済状況がよいときは盛んに投資を勧め、悪くなるとさっと逃げてしまうという印象がある。講演で初めて新井氏の話に耳を傾けて、「この人は逃げない」と思った。その人のオフィスをぜひ訪ねてみたかった。

   新井氏はツムラやカゴメ、ヤマトといった大手企業から、赤字や非上場の中小零細まで、新井氏が「いい会社」を発掘して長期で投資している。ある1社の株が暴落しても、ダメージを受けないようにする、リスクヘッジでもある。どのような方法で「いい会社」を探すのか。先の講演会の休憩の合間に、名刺交換をさせていただいたが、その名刺にヒントがあった。点字付きなのだ。新井氏は、著書「投資は『きれいごと』で成功する」(ダイヤモンド社)にこう述べている。「本当に彼ら(障がい者)を活かせる会社は、『時間がかかる』を『粘り強い』と読みかえ、能力が最大化される場を見つけて配置します。そして自分の場所を見つけたら、人はキラキラと目を輝かせて働きます」。ファンド・マネージャーが点字付きの名刺を持っていることの意味も改めて聴いてみることにした。

   証券取引の後場が終わった午後3時すぎに会社を訪問した。築90年余りの古民家だが、造りがしっかりしている。トレードルームからは和風の庭が見える。一帯の山林も含め敷地は750坪もある。仕事が終わった若手社員が山の斜面で花壇づくりに励んでいた。いにしえの文人でも出てきそうな古風な玄関、そして座敷に案内された。床はフローリングにして、応接室に仕立ててあった。ここで新井氏の近況を聴いていると、一つ感じたことがあった。昨年の講演の趣旨とまったくぶれてはいない、とういことだ。丁寧に会社を訪問して話を聞く。投資先の企業価値を社会性や現場力といった基準で自ら選ぶ。格付け会社の評価など最初からあてにしない。そして、新井氏の言葉からは、投資先の企業と「苦楽とともにする」心構えを感じた。

   鎌倉でこのような魅力的な人物と再会できたことに心が引き締まった。鎌倉という場は、今も昔も人を引き寄せる、流行りの言葉で言えば、パワースポットなのかもしれない

⇒1日(土)朝・鎌倉の天気    くもり

★環日本海を日露の外交モデルに

★環日本海を日露の外交モデルに

   日本海側に住む我々にとって、「環日本海」という言葉はとても響きがいい。大陸との経済的な交易をはじめ、相互に発展する余地がありながらも、まだまだ手が付けられていないという状況だ。それに少し明光が差してきた。今月2日と3日にウラジオストクにある極東連邦大学で開催された東方経済フォーラム(Eastern Economic Forum)で繰り広げられた日本とロシアの首脳による外交だ。

   東方経済フォーラムはロシア極東地域の経済やアジア太平洋地域の国際協力の拡大を目的として、2015年5月にプーチン大統領令で発足した年次開催の会議で、ことしが第2回となる。主な議題は、ロシア極東地域の投資とビジネスの現状を高めることだ。この経済フォーラムを安倍総理はうまく外交の場として活用した。

   3日のフォーラムで安倍総理は「私たちの世代が勇気を持って責任を果たそう。70年続いた異常な事態に終止符を打ち、次の70年の日本とロシアの新たな時代をともに切り拓こう」とスピーチしたこれは双方にまたがる領土問題の解決の糸口を開き、平和条約を締結することを強くにじませたものだろう。2日の首脳会談でも個別にプーチン大統領と話し合ったと報じられている。

  環日本海時代の幕開けを予感させた言葉が、安倍総理の演説にあった、年次開催される東方経済フォーラムを活用して、日本とロシアの首脳会談も年1回、定期的にウラジオストクで開くことをプーチン大統領に呼びかけたことだ。この定期的な会談は8項目の経済協力の進み具合を確認するためだ。その8項目の中で目を引くのが、「ロシアの健康寿命の伸長策では日本式の最先端病院を設立する」「都市づくりは人口100万人以上の中核都市で木造住宅建設や交通インフラの更新」「極東開発支援は農林水産業の輸送インフラ整備を通じロシア国内外への供給力を高める」など。

  安倍総理は演説の中でこうも述べている。「多くの国々が日本のカイゼンの手法に習熟するなか、ロシアはまだ日本企業と深く付き合うことで起きる生産思想の革新を経験していない。プーチン氏が目指す製造業大国へ至る道には近道がある。日本企業と組むことだ」と。

  こうした具合的な8項目の経済協力の提案について、プーチン大統領は「唯一の正しい道だと考えている」と高く評価した、と報じられた。経済協力とパッケージにした北方領土問題の解決案だ。これを「外交」と言うのだろう。日本は法的、歴史的観点から北方4島は固有の領土だとして一括返還を要求し、ロシアは第2次大戦の結果として4島統治の正統性を主張しきた。「返せ」「返さない」では外交交渉に進展はない。日本とロシアによる外交モデルとしての「環日本海」に期待したい。

⇒4日(日)朝・金沢の天気   くもり