⇒トピック往来

☆「地方重視の外務大臣」

☆「地方重視の外務大臣」

   外務省が主催する「地方を世界へ」プロジェクトが今月3、4日の両日、金沢市で開催された。このプロジェクトは地方の魅力をグローバルに発信する新たな取り組みで、外務大臣とと駐日外交団が地方を訪れて、文化や産業を見聞することで、地方の魅力を世界に発信すると同時に地域の活性化を目指すものも。岸田大臣は駐日外交団(8ヵ国=ベネズエラ、ニカラグア、デンマーク、ニュージーランド、フィンランド、キューバ、オーストラリア、韓国)を伴って、金沢の日本酒や金箔のメーカーを訪れ、さらに同時に開催された金沢百万石まつりの時代行列などを見学した。

   一行が到着した3日午前中、国連安保理で北朝鮮に対する経済制裁を拡大する決議が全会一致で採択されたことを受けて、JR金沢駅で臨時の記者会見が設定された。以下、外務省のホームページから抜粋する。岸田大臣は今回の安保理の制裁決議をこう評価した。「今回の決議については、資産凍結、あるいは入国・入域の禁止、こうした対象を追加する、こうした内容のものです。国連安保理において、中国、ロシアをはじめ安保理の理事国全員で一致をし採択をした、このことの意味は大きい。国際社会が一致して、北朝鮮に対して強い内容を含む決議を採択することによって意思を示ししたという意味で重要であると認識をします」と。

   4日午前中、金沢大学十全講堂(金沢市宝町)で「北陸・石川県の魅力を世界に発信」と題してシンポジウムが開催され、その後に記者会見が開かれた。ここで地元の記者からリアリティのある質問が飛ぶ。

   「【記者】 北朝鮮のことについてなんですが、今回,宇出津事件から40年ということで言及もありましたが、今なお石川県では漁師の方がEEZの近くで操業されるとかということもあって、北朝鮮の脅威にさらされる土地柄でもあるんですが、こちらについての対応といいますか、対策、思いということをお聞かせいただけますでしょうか。」
   「【岸田外務大臣】 まず、石川県と拉致問題との関係で申し上げるならば、講演の中でも申し上げさせていただきましたが、久米裕さん当時52歳でいらっしゃいましたが、昭和52年(1977)9月19日に石川県宇出津(うしつ)海岸付近において北朝鮮の工作員によって拉致されました。政府としては北朝鮮に対し、久米さんの一刻も早い帰国、これを強く求めてきましたが、北朝鮮はこれまで久米さんの入境、要は、北朝鮮の国内に入ったということを認めていない。これが現状であります。捜査当局は、平成15年1月、主犯格である北朝鮮工作員・金世鎬(キム・セホ)の国際手配を行っており、政府としては、北朝鮮に対して、この同人の身柄の引渡しを求めているところです。久米さんの拉致から40年経ちました。これは一刻の猶予も許されない問題であると認識をしています。政府としては、対話と圧力、行動対行動の原則の下に、ストックホルム合意の履行を求めながら、久米さんを含む全ての拉致被害者の一日も早い帰国、これを実現するべく、全力で取り組んでいかなければならない。国の責任でそれを実現しなければならない。こういったことを強く感じています。」

    北朝鮮による久米裕さんの拉致は「拉致1号事件」とも呼ばれる。拉致問題が外交の最重要課題であり、シンポジウムの講演で、岸田大臣は当地と関連ある拉致1号事件にあえて触れたのだろう。記者会見での返答ぶりや自らが各国の大使クラスを連れて地域を訪問する様子はこれまでの外務大臣の印象と明らかに異なる。「地方重視の外務大臣」と評価してよいのではないか。(※写真・上は金沢市内の金箔メーカで、写真・下は外務省主催のシンポジウムで講演する岸田大臣。外務省ホームページより)

⇒5日(月)午後・金沢の天気  はれ

☆讃岐路を旅する-下

☆讃岐路を旅する-下

  「小豆島」から何を連想するだろうか。良質なオリーブが採れる島というイメージしかなかったが、一日限りの島めぐりでも多様な文化と歴史が匂い立っていた。

     「もろみ蔵」の黒、オリーブ畑の緑に彩られた小豆島

  4日夕方、高松港から土庄(とのしょう)港に着いた。港で待機していたホテルのマイクロバスで向かう。運転をしているスタッフは観光ガイドも兼ねていて、「いまから世界一幅の狭い海峡を渡ります」とアナウンス。実は着いた土庄港は前島という島にあり、それに接するように小豆島がある。説明によると海峡の全長は2.5㌔で最大幅は400㍍、最狭幅は9.9㍍で最狭の部分で橋が架かっている。どう見ても普通の川のようなのだがれっきとして海峡なのだ。1996年ギネスブックに申請する折に「土渕(どふち)海峡」と命名されたとか。よく考 えると小豆島は日本の縮図だ。大きな島と隣接する小さな島がより合わさって大きな島になっている。

  5日は朝からタクシーをチャーターして島めぐりをした。まず目指したのは「中山千枚田」=写真・上=。島の中ほどにあり、典型的な里山だ。8.8㌶の丘陵地に大小750枚ほどの棚田が折り重なるようにして曲線美を描いている。田植えが始まる前で、地域の人たちが田起こしや畦塗りに精を出していた。この棚田の上の湯舟山から豊富な湧き水が流れ、田を潤している。ただ、残念なことにざっと見て4分の1ほどはまだ耕作されていない。横にいた眺めていたタクシーのドライバー氏は「最近は棚田のオーナー制度で、都会の若い人たちが田んぼを耕しにやってきますので田植え前は間に合いますよ」と。棚田のオーナー制度は年間3万円の会費で、来月上旬の田植えや7月上旬の「虫送り」、9月下旬の稲刈り、10月の「農村歌舞伎」の鑑賞など農耕や伝統行事に参加できるのだと熱心に説明してくれた。確かに、それと思しき若い家族連れが何組か田んぼに入っていた。「おまけに棚田の新米20㌔がもらえますよ。お客さんもどうですか」と。北陸から来たのでと遠慮したが、それにしてもドライバー氏は優秀な「島の営業マン」だ。

  国指定の名勝、寒霞渓(かんかけい)をロープウエイで下る。4分50秒という短い乗車時間ながら、渓谷の絶景を楽しむ。途中、「あっ、おサルさんがいる」と子どもたちの声がしたので、思わずカメラを向けたが、「渓谷の猿」のシャッターチャンスは逃してしまった。

  小豆島のカタチは犬の姿にたとえられるそうだ。その後ろ脚の足の部分にあたることろに映画「二十四の瞳」(1954年)のロケ地がある。映画は1950年代日本映画の黄金期の名作の一つだが、幼いころにテレビドラマで見た程度で、正直、映画の題名や主演(高峰秀子)、原作者(壺井栄)をおぼろげながら覚えている程度だ。むしろ、1987年に田中裕子主演で再映画化されて、私より若い年代の方がこの映画を知っているのかもしれない。

  1954年版の撮影が行われた「岬の分教場」(旧・苗羽小学校田浦分校)を訪ねた。どこか懐かしい。自身が学童のころ通った木造校舎での思い出が蘇ってくる。木の机 >やイスに落書きをして先生からしかられ、前列の女子にちょっかいをかけて廊下に立たされた。そんな忘却の彼方に追いやられているような記憶が校舎という記憶の再生装置によって湧き上がってくるのだ。これって、認知症や脳のリハビリに活用できないだろうか、素人ながらそんなことを考えた。

  ドライバー氏から「醤油のもろみの匂いを嗅いだことありますか」と言われ、岬の分教場近くにある醤油の製造蔵=写真・中=に案内された。奥行きが100㍍もある立派な木造の「もろみ蔵」。ガラス越しに仕込みの樽の列が見学できる。換気口のような装置があってスイッチを押すと、蔵の内部の空気が流れてきて、「もろみ」の匂いを嗅ぐことができる仕組みだ。一瞬、黒いチョコレートのような重く香しい匂い、これが本来の醤油の匂いかと感じた。ドライバー氏から「もろみ蔵の屋根瓦がとても黒いでしょう」と言われ、周囲の家並みの屋根瓦と比べると、確かに各段に黒い。仕込み(分解、発酵、熟成)の過程で出るメラノイジンという物質の色で醤油が褐色なのもこの物質による。これが空気とともに上昇して、屋根瓦の熱で酸化して黒くな るそうだ。島には20軒余りの醤油メーカーがあるそうだ。「もろみ蔵」の黒の屋根、島のシンボルカラーかもしれない。

  タクシーでの小豆島めぐりの最終スポットは「オリーブの茶畑」=写真・下=だった。小豆島は日本のオリーブ発祥の地としても知られるが、オリ-ブオイルだけでなく、現地では葉をお茶として重宝しているそうだ。ここで、「島の営業マン」ドライバー氏が語る。「オリーブオイルは果実から非加熱で搾油できる唯一の植物油ですが、採れるオイルは重量の1%。100㌔の実か1㌔から絞れない。残りの99%はハマチの養殖や牛や豚の飼料として活用されています」。昨夜ホテルで食べた「オリーブ牛」のステーキは確かにオイルと肉の相性が引き立ち、赤ワインとの相性もとてもよかった。朝食の「オリーブハマチ」もオリーブ醤油で食するとこれもなかなかのものだった。

  復路は、土庄港から高松港へ、JR線で瀬戸大橋を渡り、岡山駅へ。新幹線で新大阪駅に行き、特急サンダーバードに乗り継ぎ。金沢駅に戻ると、時計は23時を回っていた。

⇒5日(金)夜・金沢の天気  はれ

★讃岐路を旅する-中

★讃岐路を旅する-中

   きょう(4日)はJR高松駅から予讃線に乗って琴平駅に向かった。金刀比羅宮こと、「こんぴらさん」に詣でるためだ。2012年5月のゴールデン・ウイーク(GW)にも旅しているので、あれからちょうど5年だ。今回はちょっと思惑があった。5年前は本宮までの石の階段785段を二段飛びしてのぼった。62歳になり、もう一度チャレンジしたいという野心があった。

     こんぴらさんの1368段、二段飛びで挑戦

 列車内ではやはりこの歌を口ずさんでモチベーションを上げた。「こんぴら船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば四国讃州那珂の郡 象頭山こんぴら大権現 一度廻れば…」。琴平駅に着いたのは11時09分。そこから参道口に向かって歩き、石段のぼりの開始は11時30分だった。

   前回と同様に杖はあえて持たず。ひたすら二段飛びをする。旭社あたりで500段以上のぼったことになるが、さすがに脚が重くなってきた。少し休息を入れて、本宮を目指す。前に立ちはだかる急な階段「御前四段坂」に=写真・上=。652-785段に当たる。ここを一気にのぼれば本宮だ。御前四段坂を半分のぼったところでストップすることになる。GWで参拝客があふれ、階段にまで列をつくっていて、進めないのだ。ここで10分ほどかけて一段一段のぼり本宮に到着。11時55分ごろだった。

  ただ、二段飛びで785段をのぼるという当初の目的の達成感はなかった。最後の10分余りは休息のようなもので、しかも一段一段だ。余力もあったので、ここでさらに奥社までのぼることを決めた。本宮から奥社(厳魂神社)までは距離にして1㌔、石段は583段だ。奥社まで目指す人はまばらだ。その分、進みやすくなった。ただ、北原白秋の歌碑があるあたりで足腰が急に重くなるのを感じ、参道をゆっくり目でのぼる。「守れ権現 夜明けよ霧よ 山はいのちのみそぎ場所」(歌碑)。「イノシシ出没注意」の看板も横目で見ながら。

 卯花谷休憩所からはさらに急な石段続きになる。二段飛びもだんだんとおぼつかなくなる感じで足がもつれそうになる。それでも段飛びをしていると、抜き去った後ろの方から「あの人、すごいね」と聞こえ、励まされた気になる。ただ、最後の100段ほどは無謀なことをしたものだと思いながら、今度は頭がぼやけてくる感覚に襲われた。12時15分、なんとか1368段を登り切り、奥社にたどりついた=写真・中=。

 海抜421㍍から眺める讃岐富士の美しいこと=写真・下=。うれしくなって賽銭箱に千円札を投げた。二礼二拍手一礼を済ませ、今度は石段を下る。実は下りの方が危険に感じた。そのまま下ると膝がこわばって前に転倒しそうになる。そこで石段を左斜め、今度は右斜めというふうにW字を描くように降段する。本宮に戻ってくるころには爽快感で満たされていた。

  それにしても1368の石段は人生そのものだ。登り切るには決断がいる。下りはもっと慎重になる。参道の店で食べた讃岐うどんがうまかった。夕方、高松港から小豆島に向かった。瀬戸内海を滑る様に高速船が走った。

⇒4日(木)夜・香川県小豆島の天気   くもり

    

☆讃岐路を旅する-上

☆讃岐路を旅する-上

  ゴールデンウイーク(GW)に四国・高松を訪ねた。プライベートな旅で高松は初めて。旅する感覚というのは風景が鮮やかに見えていい。松尾芭蕉や与謝野晶子が全国を旅しながら俳句や歌をよんだというのは、場の新鮮さが感性を揺さぶったのかもしれない。

      海城・高松城跡の堀に泳ぐクロダイの群れ

  JR高松駅に3日午後、到着した。駅近くのホテルにチェックインする。ホテル10階の窓からは、海や街、山のパノラマが広がる。街の中に緑のゾーンがあるのでよく見ると、城跡のようだった。さっそく行ってみる。高松城跡だ。現在は高松市立玉藻公園となっている。なぜ、タマモと疑問が湧いた。公園の料金所(入園料200円)で手にしたパンフによると、万葉集で柿本人麿が讃岐の国(香川)の枕言葉に「玉藻よし」とよんだことにちなんで、このあたりの海は昔から「玉藻の浦」と呼ばれていたそうだ。ホンダワラなど海藻が茂る豊穣の海。海辺の近くにある高松城もかつては「玉藻城」と。

 なるほど万葉集からの地名かと想像をめぐらせながら、入ると、さっそく案内看板から与謝野晶子が名前が飛び込んできた。各地の名所を旅すると、芭蕉か与謝野晶子の名が競うように出てくる。「わだつみの 玉藻の浦を前にしぬ 高松の城龍宮のごと」。とても美しい龍宮城のようだと称賛している。

  水門と看板がかかる大きな堀池があった=写真=。手こぎ舟で天守台などめぐる「城舟体験」を楽しんでいる家族連れの姿もあった。その池を何気なく覗いてみると黒っぽい大きなさかながウヨウヨといる。コイかと思ったが、水面上で口をパクパクと開ける様子もない。よく見ると磯の魚クロダイだった。堀池と表現したが、海とつながっているのだ。干潮で水位が下がらないように、水門で水位調整している。与謝野晶子が「龍宮」と歌に盛り込んだのも、海の魚が泳ぐ海城だと言いたかったのかもしれないと勝手に想像した。

  かつての城主、高松松平家は明治維新後もこの城を大切にして守っていたようだ。明治期に老朽化した屋敷「披雲閣(ひうんかく)」を松平氏が再建したのは大正6年(1917)とパンフにある。今年でちょうど100年だ。戦後は占領軍に接収され、その後は高松市が譲り受けた。今では茶会や華展の会場として利用されている。

  高松は茶道が盛んだ。高松松平氏の藩祖、頼重が茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家を総しての呼び名)の武者小路千家の始祖、千宗主を茶頭として招き、武家のたしなみとして茶の湯が地域に浸透した。ぜひ鑑賞してみたい茶碗があった。松平家が千利休に作らせたたといわれる楽焼茶碗「木守(きもり)」。ひょっとしてと思い、文化財や資料を展示する公園内の「陳列館」を覗いたが展示はされてなかった。思い付きでそう簡単に見ることができるようなお宝ではない…。いつか拝見したいものだと思い、高松城跡を後にした。

⇒3日(水)夜・香川県高松市の天気  はれ 

☆風と緑のベートーヴェン・チクスル

☆風と緑のベートーヴェン・チクスル

  昨年暮れ、クラシック音楽イベントがニュースとして石川県で話題になった。2008年5月から毎年ゴールデン・ウイーク(GW)を中心に開催されてきた「ラ・フォル・ジュルネ金沢」が突然終了するというのだ。GWのイベントとしてすっかり定着し、毎回10万人もの入場があっただけに、多くの地元クラシック音楽ファンは「なぜ」と首を傾げた。私もその一人だった。

  当時のニュースで地元の実行委員会が明かしたのは、ラ・フォル・ジュルネの運営をめぐるルネ・マルタン氏ら企画サイドと地元実行委員会の路線の対立だった。ラ・フォル・ジュルネは1995年にフランスの芸術監督ルネ・マルタン氏が手掛け、低価格で本格的なクラシックを売りに複数の会場で同時にコンサートを開くなど画期的な音楽祭だ。ところが、金沢ではそれに独自のプログラムを盛り込み、地元色を強くした。企画サイドとすると、フランスで制作した本来のプログラムを強く打ち出さなければ「ラ・フォル・ジュルネ」と銘打つ意味がない。一方で金沢の実行委員会側では当地のプロオーケストラ「オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)」も巻き込んで金沢の独自色を出して盛り上げたい。双方の思惑の違いが鮮明になってきたというのだ。

  最終的に地元の実行委員会は「名称を変えて同様の音楽イベントを来年以降も続ける」と結論を出し、ルネ・マルタン氏ら企画サイドと袂を分かった。あれから4ヵ月、実行委員会は「風と緑の楽都音楽祭2017」と新たな看板を掲げた。

  先日、有料公演プログラムのパンフを手に入れた=写真=。内容はというと、ことしのテーマは「ベートーヴェンが金沢にやってきた!」だ。売りはベートーヴェンの交響曲第1番から第九までを5月3日からの3日間で全曲演奏(チクルス、ドイツ語Zyklus)をするというのだ。第九はもちろん合唱付き。演奏はOEKやカンマーシンフォニー(ベルリン)などプロのオーケストラが担当、指揮は広上淳一、ユルゲン・ブルンスら。このほか「皇帝」などピアノ協奏曲5曲やピアノソナタ全32曲をチクルスで。ラ・フォル・ジュルネと決別して独自の音楽祭を創り上げる気合いが伝わってくる。

  この内容ならぜひ「風と緑の楽都音楽祭2017」を聴いてみようと思い、さっそくチケットを購入した。実は、ベートーヴェンの全シンフォニーを聴くのは2度目だ。東京芸術劇場で行われた2005年12月31日から2006年1月1日の越年コンサートで、指揮者の岩城宏之(故人)が「振るマラソン」と称してで全シンフォニーを一夜で演奏した。途中休憩をはさみ正味9時間40分の演奏だった。第九のタクトがおろされたとき、指揮者とオーケストラ、聴衆が一体化した感動が込み上げてきた。今も忘れられない。今回は3日間だが、ベートーヴェンのチクルスの感動を再び味わえることを楽しみにしている。

⇒2日(日)夜・金沢の天気    はれ

☆IoTを地方に

☆IoTを地方に

  正直、この講演を聴くまではICT(Information and Communication Technology)とIoT(Internet of Things)の違いも理解していなかった。ICTといえば、パソコンやスマートフォンなど情報通信機器がインターネットを介してネットワークとしてつながるというサービスの総称だったと理解している。では、IoTとは何ぞや。それが、2020年には鮮明になる。電力網と情報網が束ねられる。「スマートグリッド(Smart Grid)」。簡単に言えば、電力網に接続しているすべてのモノはインターネットにつながるというのだ。

  先日(今月27日)石川県加賀市のホテルで、元Googleアメリカ本社副社長兼日本法人代表取締役の村上憲郎氏の講演があった=写真=。講演の主催者は「スマート加賀IoT推進協議会」、地域の行政と産業界でつくる団体だ。IoTは物体(モノ)に通信機能を持たせ、インターネットに接続し相互に通信することで、自動認識や自動制御、遠隔計測なとどいったこれまになかったイノベーションを起こすといわれる。産業革命でもある。それを取り込もうと地方が動き始めている。

  講演を聴いて印象的だったIoTの先端的なキーワードをいくつか列記してみる。「スマート・コンタクトレンズ(Smart Contact Lens)」は目の弱った糖尿病の人たちたちのために眼球の毛細血管で血糖値を管理するものだ。身体障がい者の機能回復のために神経系統にIoTを活用することも進んでいる。「スマート義手」は脳から指令を送り、義手(機械)を動かす。神経系統とIoTデバイス(機材)の結合のことを「インプランタブル(Implantable)」と言い、人間のハンディを克服するために期待されている。

  冒頭の「スマートグリッド」の場合、遠く離れた高齢者の「見守り」というアプリも開発されるだろう。テレビやエアコンの電力消費量を遠くにいる親族がチェックすることで見守りになる。従来のインターネットの活用は人と人だったが、人とモノ、モノとモノなど多様なコミュニケーションが可能になるのがIoTの世界だ。

  村上氏の講演では「ビッグデータ」の話なども出たが、「AI(人工知能)」も長足の進歩を遂げている。そのポイントが言語処理。「推論機構」という、複雑な前提条件からIf、Then、言葉のルールを駆使して結論を推論するハードウエアの開発だ。村上氏が上げた、近い将来、AIに取って代わられるかもしれない仕事がたとえば、簿記の仕訳や弁護士の業務を補助するパラリーガルだという。

  では、加賀市ではIoTをどのように活かすことができるのか。自分なりに思案してみた。同市には片山津、山代、山中と有名な温泉地がある。インバウンドの客が増えている。そこで、スマートフォンとIoTを組み合わせた観光ガイドや、英語・中国語・スペイン語の客に対する多言語対応や双方向性といったことが必要だろう。さらに、温泉地を観光した日本人やインバウンドの人たちがツイッターやフェイスブックでどのようなことをつぶやいたのかを分析する「ソーシャルリスニング(Social Listening)」を活用することで新たなサービスの提供も可能ではないだろうか。

  また、加賀市といえば橋立港を中心とする漁業の街だ。漁獲はこれまで漁師の経験と勘に頼っていた。漁業の後継者は減っている。では、衛星通信で漁船同士が魚群探知機の情報を共有してはどうだろう。情報交換をすることで漁船の燃費の節約、労働力の交換、漁業資源の管理保護ということも可能かもしれない。「スマート漁業」の先駆けになる。

  今回の村上氏の講演でもIoTは医療分野が先行している印象だ。しかし、経済的にも社会的にも病んでいる地方にこそIoTが必要だ。加賀市でも人口減少が確実に進んでいる。働きやすい第一次産業や第二次産業、インバウンドなど多様性なニーズに対応する第三次産業を創出するためにもIoTが欠かせない。「IoTで産業革命を起こさねば、加賀市の未来はない」。地方の叫びが聞こえたような講演会だった。

⇒30日(木)朝・金沢の天気   はれ
 

★「大横綱」の風格

★「大横綱」の風格

    昨日の大相撲千秋楽はまさに「痛みに耐えてよく頑張った、感動した、おめでとう」 の言葉を発した、当時の小泉総理の気持ちだった。2001年5月の大相撲夏場所千秋楽で、負傷をおして千秋楽で優勝した貴乃花も劇的だったが、今場所の稀勢の里もさらに劇的  だった。これも、新横綱の優勝は1995年初場所の貴乃花以来、22年ぶりというから二重に凄みを感じさせてくれる。まさに「大横綱(だいよこづな)」と呼ぶにふさわしいのではないか。

    稀勢の里の魅力は、その気力と信念の強さだろう。日馬富士戦(13日目)での負傷に「新横綱の優勝はないな」と観戦した誰もが思っただろう。そして、鶴竜戦(14日目)での連敗には「これで休場か」と誰もが思ったことだろう。それだけに、千秋楽の本割(照ノ富士戦)は誰もが「無残な負けをさらすなよ」と思っていたはずだ。それを見事に裏切ってくれた。しかも2番続けて。

    ただ、今にして思えば、決定戦の前にテレビに映っていた、支度部屋での顔の表情は、不屈のオーラを放っているような、「勝って見せる」と気力あふれる形相だった。「最後まであきらめない」、勝負の世界の信念を見せつけてくれた。共感と感動の渦に巻き込んでくれたのだ。冒頭の「痛みに耐えてよく頑張った、感動した、おめでとう」だ。

    これほどの感動の背景には、いま日本を覆っている、ある種の閉塞感もあるのではないかと思う。「言った」「言わぬ」「忖度ある」「ない」が続く学校法人「森友学園」への国有地売却問題、さらに東京・築地市場の豊洲移転問題など。大相撲と違って勝ち負けのつかない問題を延々とテレビで見せつけられると心が塞ぐ。とくに、安倍総理側から100万円の寄付があったとされる問題が本筋で追及すべき国有地売却問題と外れて、一人歩きを始めているような、そんな違和感も漂っているのではないか。そんな、モヤモヤとした昨今の政治的な閉塞感を稀勢の里が一気に吹き飛ばしてくれた、そんな思いだ。

    稀勢の里の新横綱優勝と別に、郷土力士である遠藤が3場所ぶりに勝ち越してくれたことも朗報だった。

⇒27日(月)朝・金沢の天気   はれ

★能登の海岸から見える国際問題

★能登の海岸から見える国際問題

  能登の海は生物多様性に富んでいる。ブリやタラ、フグといった魚介類の種類の多さということもさることながら、波打ち際にも生き物がいる。ナミノリソコエビだ。初耳の人はサーフィンするエビとでも想像してしまうかもしれない。全長数㍉から1㌢ほどの小さなエビだが、シギやチドリのような渡り鳥のエサになる。石川県では高松海岸などで波打ち際にシギやチドリが数10羽群れている光景をたまに見る。鳥たちは波が引いた砂の上に残るナミノリソコエビを次の波が打ち寄せるまでのごくわずかな時間でついばむのだ。

   渡り鳥はオーストラリアから日本を経由してシベリアまで渡っていく。その途中で、能登半島の海岸に好物のナミノリソコエビをついばみに空から降りてくる。ただ、ナミノリソコエビは砂質が粗くなったり、汚泥がたまると生息できなくなる。いまこの波打ち際の生態系が危うい。

  石川県廃棄物対策課のまとめによると2月27日から3月2日の4日間の調査で、県内の加賀市から珠洲市までの14の市と町の海岸で、合計962個のポリタンクが漂着していることが分かった(2日付の県庁ニュースリリース文)。ポリタンクは20㍑ほどの液体が入るサイズが主で、そのうちの57%に当たる549個にハングル文字が書かれ、373個は文字不明、27個は英語、10個は中国語、日本語は3個だった。さらに問題なのは、962個のうち37個には残留液があり、中には、殺菌剤や漂白剤などに使われる「過酸化水素」を表す化学式が表記されたものもあった。県ではポリタンクの中身を分析しているが、危険物が入っている可能性もあるので、ポリタンクに触らず、行政に連絡するよう呼びかけている。大量のポリタンクが漂着したのは今年だけではない。近年では2010年にも石川の海岸に1921個(全国22194個)が流れ着いている(環境省調査)。

  ポリタンクだけではない。医療系廃棄物(注射器、薬瓶、プラスチック容器など)の漂着もすさまじい。環境省が2007年3月にまとめた1年間の医療系廃棄の漂着は日本海沿岸地域を中心に2万6千点以上で、うち900点余り中国語だった。このほか、ペットボトルなど飲料や食品トレーを含めれば膨大な漂着物が日本海を漂い、そして漂着していることが容易に想像できる。

  上記は目に見える漂着物だ。もっと問題なのは一見して見えない、大きさ5㍉以下のいわゆる、マイクロプラスティックだ。ポリタンクやペットボトル、トレーなどが漂流している間に折れ、砕け、小さくなって海を漂う。陸上で小さくなったものも川を伝って海に流れる。そのマイクロプラスチックを小魚が飲み込み、さらに小魚を食べる魚にはマイクロプラスチックが蓄積されいく。食物連鎖の中で蓄積されたマイクロプラティックを今度は人が食べる。単なるプラスティックならば体外に排出されるだろうが、有害物質に変化したりしていると体内に残留する可能性は高いといわれている。

  ポリタンクや医療系廃棄物の不法な海洋投棄は国際問題だ。バルセロナ条約は21カ国とEUが締約国として名を連ねる、地中海の汚染防止条約(1978年発効)がある。条約化に向けて主導したのは国連環境計画(UNEP)。UNEPのアルフォンス・カンブ氏と能登半島で意見交換したことがある。そのとき、彼が強調したことは日本海にも染防止条約が必要だ、と。あれから10年ほど経つが、汚染が現実となっている。日本海の汚染防止条約が今こそ必用だと実感している。
(※写真は能登の海岸で地引網を楽しむ大学生たち。豊かな海を大切にしたい)

⇒3日(木)午後・金沢の天気   はれ

☆「ミズガニ、食べに来ませんか」

☆「ミズガニ、食べに来ませんか」

  きょう14日、福井市に住む友人から電話があった。「ミズガニ、食べに来ませんか」と。私は能登生まれで幼少よりカニをおやつ替わりに食べてきたことを自慢してきた。いまでもカニには目がない。とっさに「あすでもいいですよ」と返答した。さすがに先方は「できれば来週で」というので、来週23日に「カニの夜」を福井で楽しむことになった。

  とは言いながら、「ミズガニってなんだっけ」と、さっそくネットで検索した。ミズガニは福井独特の言い方で、脱皮して間もないオスのズワイガニのことを、当地ではミズガニというそうだ。透き通るような薄い赤の甲羅が特徴。漁は今月9日解禁されたばかりで、来月20日まで続く。ただ、ミズガニを食べる食習慣は加賀や能登ではないし、漁期の設定も聞いたことがない。※写真はズワイガニ

  さて、その食味は…。検索はさらに続く。ミズガニは身に水を多く含み、食べる時に足の身がズボッと取れることからズボガニとも呼ばれるそうだ。したがって、通常のズワイガニに比べて、価格は5分の1ほどと安い。越前の庶民の味なのだろう。

  私はカニに対する福井県民の執着心には脱帽している。20代の若いころ、別の福井の友人と「カニの早食い競争」をしたことがある。ハサミも包丁も使わずに、茹(ゆ)でたズワイガニを一匹丸ごと平らげるタイムを競った。福井の友人はパキパキと脚を折り、ズボッと身を口で吸い込み、カシャカシャと箸で甲羅の身を剥がす。黙々と。その速さは5分ほどだった。私は到底かなわなかった。

  そのカニ食い競争後に越前漁協にカニの水揚げ現場を案内してもらった。友人が言うには、「脚折れのカニは普通は商品価値が低いが、この漁協では折れたカニの脚を集めて、脚折れカニにうまく接合する技術がある」と。二度びっくり。そんなカニ脚の接合技術など石川では聞いたこともない。カニという商品をそれだけ大切に扱っているという証(あかし)だと当時思った。そして、同じ北陸でもカニにかけては福井人の執着心には絶対かなわないと自覚したものだ。

  さらに執拗に検索を進める。カニ料理のポイントは塩加減や茹で加減と言われる。単に茹でてカニが赤くなればよいのではない。福井では「カニ見十年、カニ炊き一生」という言葉がある。カニの目利きが上手にできるには十年かかり、カニを満足に茹で上げるには一生かかるという意味だそうだ。カニの大きさや身の付き具合はもちろん、水揚げされた日の気候などによって、塩加減や温度、茹で時間などを調整する、というのだ。とくに福井人が大好きなミズガニは茹で加減が難しく、かなりの熟練度が必要という。カニの商品価値を高めるための技と心意気をひしひしと感じる。23日のミズガニの夜がさらに楽しみになった。

⇒14日(火)午後・金沢の天気   くもりときどき雪  

★「あのとき」のケータイとネット

★「あのとき」のケータイとネット

   1995年1月17日5時46分、金沢も大きく揺れた。当時、テレビ局で報道デスクの仕事をしていた。確か、当時は成人式が1月15日だったので、翌16日は振り替え休日、その連休明けの朝だった。22年前の阪神淡路大震災のことである。

  さっそくテレビをつけた。「近畿地方で大きな地震がありました」とアナウンサーはコメントで繰り返し述べているが、映像が入ってこない。そこでキー局のテレビ朝日の報道デスクに電話をした。情報が錯綜していたのだろう、これもなかなかつながらない。地震で死者が出ていれば、取材の応援チームを現地のテレビ局(大阪ABC)に派遣する準備をしなければならないので、その情報が知りたかった。

   まもなくしてNHKで映し出された映像を見て仰天した。倒れたビル、横倒しになった高速道路などの空撮の映像が次々と。あの映像を見ただけでも、事態が容易に想像できた。すぐに若手の記者とカメラマンに現地に行くよう指示した。その時、記者に持たせたのが携帯電話だった。被災地では安否を親族に伝えるため、公衆電話に長い行列ができていたこともあり、当時会社に数台しかなかったケータイを連絡用に持たせた。

   このときは携帯電話は「売り切り制」(1994年)に移行した時期だった。つまり、それ以前はNTTとのレンタルで携帯電話を契約していた。デジタルホングループ(現在「ソフトバンク」)などが新規参入したころで、携帯電話が一般で普及する初期のころだった。その後、爆発的に普及したのは言うまでもない。

   このとき、聞き慣れない言葉が飛び交った。「インターネット」だ。神戸大学の研究者たちが、インターネットを通じて被災地の状況を世界に発信したことがニュースとなった。当時はインターネット、メールを知る人も少なく、通信環境も一般化していない時代だった。私が勤務していた職場(テレビ局)で初めて、メールを使い始めたのは大震災から1年たった1996年だった。このときはネット環境をいち早く手掛けていた朝日新聞東京本社から中古のパソコン(確か富士通製)を払い下げてもらい、社内の数人で試験的に使ったのだった。その後、会社全体で通信環境が整備され、社内で一気にネット環境が整った。

   1995年、ケータイとネットの幕開けは阪神淡路大震災だった。その後、2011年3月の東日本大震災では避難所でケータイを使う姿が普通になっていた。

⇒17日(火)朝・金沢の天気    くもり