金沢市ではよく知られた歴史上の人物で「八田與一(はった・よいち)」がいる。台湾の日本統治時代、台南市に烏山頭(うさんとう)ダムが建設され、不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちに評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢で生まれの水利土木技師、八田與一だった。八田の功績は戦後日本と台湾の友好の絆も育んだ。ダム記念公園には八田與一の銅像があるが、今月16日に銅像(座像)の首が切断されてのが見つかり、石川県内のメディアでも大きく報道された。犯行は台北市の元市議だった。
同じような銅像の切断事件が台湾であったことを思い出し、ネットで検索した。ことし2月28日、輔仁大学(新北市)のキャンパスに設置されている、初代中華民国総統だった蒋介石の像が破壊され、学生たちが逮捕された。学生たちは蒋介石像(立像)の杖の部分を工作機械で切断した。相次ぐ銅像の切断事件、無関係なのかと思いきや因果関係がありそうだ。以下は、金沢に住む台湾通の友人が解説してくれた。
蒋介石は国民党の権威のシンボルでもある人物だが、その評価を見直す動きが起きているようだ。ちょうど70年前の1947年に起きた「2・28事件」。戦後、日本に代わり台湾を統治した国民党だが、その年の2月28日に外省人(大陸から移住してきた中国人)と国民党の支配に反発する本省人(もともとの台湾人)が抗議デモを繰り広げ、大規模な流血事件があった。その後、国共内戦で毛沢東の中国共産党に敗れて1949年に台湾に移って政権を樹立した蒋介石だが、2・28の流血事件の責任者は蒋介石だったとして、本省人系の与党民進党が中心となり、学校から蒋介石の銅像を撤去する動きが表面化している。学生らによる蒋介石像の切断事件もまさに2・28事件のちょうど70年後の象徴的な出来事だった、という。
そこで、知人にこんな質問をした。「ということは、八田與一の像が切断されたのは、蒋介石を尊敬する、いわゆる外省人系の人たちの趣意返しということか」と。「八田の像を切断した元台北市議の逮捕後の供述がその後、報じられていないので何とも言えない。ただ、台湾に八田の像は一つしかない。それを台北市から台南市にまでわざわざやって来て、像の首を切断し、警察に出頭したとなると、与党民進党に反発する層の支持を集めたいという政治屋のパフォーマンスだったのかもしれない」と。
そのような話を率直に聞くと、八田與一の像はとんだ災難に巻き込まれた感じがして、なんだか無念さがこみ上げてくる。ダム建設後、八田は軍の命令でフィリピンの綿花栽培のための灌漑施設の調査ため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。1942年(昭和17年)5月8日だった。終戦直後、八田の妻は烏山頭ダムの放水口に身投げし後追い自殺したことは金沢ではよく知られた逸話だ。
八田の命日当たる5月8日には慰霊祭が毎年営まれ、金沢市からも関係者らが訪台して参列する。ことしの慰霊祭はどうなるのか。先日、台南市の市長は像の修復を急ぎ、例年通り慰霊祭を開催すると日本側に通知したことが、石川県の地元メディアでニュースとなっていた。先の友人はこう付け加えた。「八田の銅像は地元の農民が感謝を込めて自発的につくったもの。だから一つしかない。蒋介石の像は権力の象徴としてあちこちで造られた。八田を政治的に巻き込むは筋違いなのだが…」と残念そうに天を仰いだ。
※写真は八田與一の座像。ウィキペディアより引用
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