★あるカバの夏物語

水槽にもぐったままのカバと目線が合った。じっとこちらを見つめる大きな眼(まなこ)だ。しかも見つめると人を離さない、眼力がある。この眼で50年余りも人を引きつけてきたのだろう。連日30度を超す真夏日、石川県能美市にある「いしかわ動物園」を先日ぶらりと訪れた。もうすでに夏バテ気味のチンパンジーの「イチロウ」やゾウの「サニー」に比べ、水中でじっとしているカバの「デカ」はなぜか存在感がある。

  いしかわ動物園へは7年ぶりだった。この動物園はもともと昭和33年(1958年)に金沢市卯辰山に開園した民間の娯楽施設だったが、経営不振のため、平成5年(93年)に閉鎖となった。それを石川県が買い取り、財団を設立して、平成11年(99年)に新規に開園した。目が合ったデカは紆(う)余曲折を経た動物園をじっと見続けてきた生き証人であり、その経歴は物語にもなる。

  デカが金沢の動物園にやってきたのは開園からしばらくたった昭和37年(62年)だ。その前は、「カバ子」と言い、キャラメルのメーカー「カバヤ」のキャンペーンで全国めぐりをしていた。昭和28年(53年)に生後1歳でドイツから日本にやってきてずっと全国巡業が続いた。戦後で動物に飢えていた子供たちの間で人気を博し、岡山県のキャラメルメーカーを一躍、全国ブランドに押し上げたのもデカの功績だ。キャラメルメーカー、そして動物園と、デカがもたらしたブランド価値は一体何億円の換算になるのだろう。

  デカが全国ニュースになったことがある。平成11年5月20日、デカが新しくできた「いしかわ動物園」へ引っ越した日だ。デカを乗せたトラックは石川県警のパトカー1台、白バイ8台に先導され、金沢から新動物園までの27ヵ所の信号をノンストップで走った。交通混雑を避けるために動員された警察官は80人にも及んだ。空には取材のヘリコプターが飛び交った。当時、私は地元テレビ局の報道制作部長だった。全国ニュースとして東京キー局に送り込むと、キー局の編集長からさっそく電話があり、「G7の首脳が来日した時のような映像ですね」と言われたの覚えている。

  外国のVIP並みの先導となったのには理由があった。車での揺れがデカに与える心臓への負担が心配され、そこで、ゆっくりとノンストップでトラックを走行させることになった。ところが、移動中のデカは終始落ち着いた様子で、到着後の獣医による診断もまったく問題はなかった。何しろ若いころは9年間も車に揺られて全国行脚をした「ツワモノ」だ、鍛え方が違うのである。
  
  人間にたとえれば百歳を超え「日本一長寿のカバ」というタイトルも持つ。しかし、高齢には勝てず老齢性白内障を患っており目はかなりかすんでいるはずだ。それでも人に愛嬌のある眼を向けるのは、水から伝わってくる振動方向に目を向けるせいだろう。デカが2.5㌧もの巨体を物静かに水槽に浮かべる様はまるで、かつて映画で見た、元銀幕のスターがロッキングチェアでゆっくりと身を揺らす晩年の姿にイメージを重ねてしまう。悲劇もあった。オスの「ゴンタ」(86年死亡)との間に6頭の子をもうけたものの、いずれの子も出産直後にゴンタの虐待を受けて死んでいる。でも、もうそのことは忘却のかなたとなっているに違いない。

  老い先はそう長くない。彼女の最期はおそらく再び全国ニュースになるだろう。「日本一長寿のカバ死ぬ」と新聞社会面の片隅に。カバとは言え、見事な生き様である。(写真提供:いしかわ動物園)

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