あすは「3・11」東日本大震災の発生から15年となる。2011年3月11日午後2時46分のこと。いまもその時のことは忘れられずこの日が近づくとブログで記している。そのとき自身は、金沢大学の公開講座で社会人を対象に講義をしていた。すると、控室でたまたまた震災の様子をテレビで視聴した主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。金沢では揺れを感じなかったが、受講生にそのまま伝えると、講義室はざわめいた。しばらくして、講義をそのまま続けた。その2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れた。(以下、これまでのブログの再録)

当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていて、歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真・上=。津波のすさまじさを見せつけられた。
各地で亡くなった人たちを弔う慰霊の行事が営まれていた。気仙沼市役所にほど近い公園では、大漁旗が掲げられていた=写真・下=。大漁旗は港町・気仙沼のシンボルといわれる。震災では漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていたものを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭に掲げられた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗旗が大空に映えた。

その旗をよく見ると、「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった。おそらく、市民有志がこの大漁旗の持ち主と話し合いの上で「祈 大漁」としたのだろうか。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。持ち主のそんな気持ちが伝わってきた。午後2時46分に黙とうが始まった。一瞬の静けさの中で、祈る人々のさまざま思いが交錯したに違いない。被災者ではない自分自身は周囲の様子を眺めそう思いやるしかなかった。
慰霊祭が営まれた公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がっていた。気仙沼は震災と津波、そして火災の三重災害に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街だった。リアス式海岸の入り江であったため、勢いを増した津波が石油タンクを流し、数百トンものトロール漁船をも陸に押し上げた。以前見たことがあった関東大震災の写真を思い起こした。「天変地異」という言葉が脳裏をよぎった。
⇒10日(火)夜・金沢の天気 あめ
