歌舞伎や能楽などの伝統芸能や、陶芸や漆芸などの伝統工芸で特に価値の高いものを「重要無形文化財」、そしてその技(わざ)の保持者を「人間国宝」と称して、文化庁が認定している。きょう3日付の新聞各紙よると、文化庁は重要無形文化財の制度を見直し、芸能と工芸に「生活文化」を加える。具合的には和食の料理人や日本酒の杜氏といった食文化にかかわる人々を人間国宝に認定するという。
制度の見直しは1975年以来、50年ぶり。その背景には、ユネスコ無形文化遺産として2013年に「和食」が、2024年に日本の「伝統的酒造り」がそれぞれ登録されたことから、食文化の優れた技を保護して後世に継承する方向に文化庁は動き出したようだ。このニュースを読んで、能登杜氏の農口尚彦(のぐち・なおひこ)氏のことを思い浮かべた。

農口氏は御年92歳で現役の杜氏だ。日本酒ファンからは「酒造りの神様」、地元石川では「能登杜氏の四天王」と敬愛される。「山廃(やまはい)仕込み」を復活させた「現代の名工」でもある。その神業はNHK番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』(2010年3月)で紹介された。能登半島の尖端の能登町で生まれ育ち、16歳でこの道に入った。酒仕込みの冬場は杜氏として小松市の酒蔵に赴いている。
農口氏自身はまったくの下戸(げこ)で酒が飲めない。その分、飲む人の話をよく聴く。日本酒通だけでなく、学生や女性、そして海外から訪れた人からの客観的な評価に率直に耳を傾ける。それをまとめたノートは膨大な数に上る。まるで研究者のような姿勢で酒造りと向き合う姿に、オーナー(共同出資者)は酒蔵を「農口尚彦研究所」と名付けた。
農口氏と自身が初めて接触したのは2009年だった。金沢大学で教員をしていたときで、担当していた地域学の非常勤講師として酒造りをテーマに講義をお願いした。それから3年連続で講義をいただいた。毎回自ら醸造した酒を持参され、講義の終わりには学生にテイスティングしてもらい、学生たちの感想に熱心に耳を傾けていた=写真=。
講義以外でも時折酒蔵を訪ねた。いまでも印象に残る言葉がある。「ブルゴーニュワインのロマネ・コンティをイメージして造っているんだよ」。その説明を求めると、「のど越しのキレと含み香、果実味がある軽やかな酒。そんな酒は和食はもとより洋食に合う。食中酒やね」と。洋食に出す日本酒を意識して造っているというのだ。確かに、農口氏の山廃仕込み無濾過生原酒は銀座や金沢だけではなく、パリ、ニューヨークなど世界中にファンがいて、すでに22ヵ国に輸出されている。「世界に通じる酒を造りたいと思いこの歳になって頑張っております」。この話を聴いたのは7年前のことだ。
いま思えば、ユネスコ無形文化遺産に日本の酒造りが登録されたが、それに貢献した一人が農口氏ではないだろうか。自身にとっても、日本酒通にとってもまさに「人間国宝」のような人物なのだ。
⇒3日(火)午前・金沢の天気 あめ