日本のマスメディアに指摘されている問題点の一つとして、自らに降りかかった問題をその場で質さないことだと思う。その典型的な事例が、最近ニュースで報じられている、財務省の福田淳一事務次官が女性記者にセクハラ発言を繰り返したと週刊誌が報じ、野党が本人を更迭するよう求めている一件だ。
福田氏が飲食店で30代の女性記者に「胸触っていい」「予算が通ったら浮気するか」「抱きしめていい」などと話したとする音声データを新潮社がニュースサイト「デイリー新潮」で公開した。女性記者は「森友問題」の件を取材したのだが、セクハラ発言でうまくかわされている。「渦中の省」が問題となっている矢先、そのトップの事務次官として脇が甘いと感じるのは当然だが、一方で、セクハラ発言を浴びせられ、まさに「#MeToo」を地で行く状態なのに当事者でもある記者はなぜ記事で暴かないのだろうか。福田氏は記者の身内でもなんでもなく、かばう必要もまったくない。記者はあくまでも取材者としての立場で、自ら体験したことをドキュメントとして記事にすればよいのだ。ここが不可解なのだ。
ケースは異なるが同様のことを感じた一件がある。2017年7月5日に富山商工会議所で記者会見した、産業用ロボット製造メーカー「不二越」の会長が本社機能を富山市から東京に移すことを発表した。この会見の発言の中で、「(富山生まれは)極力採用しません」「閉鎖的な考えが強いです」と発言した。ところが、そのことが問題発言として記事になったのは1週間たった12日付の地元紙の紙面だった。
記者会見の場にいた記者たちはなぜ、その場で地域に対する差別的な発言を質し、記事にしなかったのだろうか。取材の録音テープは当然残しているはずだ。なぜ1週間も後に記事になるのか、そのタイムラグは一体どういう経過があったのだろうか。これは想像だが、経済担当の記者はあくまでも経済面を埋める記事を書くことが優先なので、不二越本社の東京移転がメイン。差別的な発言に関しては、後にそのことを経済部の記者から聞いた社会部の記者が「その方がニュースだろう」との思いで記事にしたのではないだろうか。
メディアにおけるジャーナリズムと何か。大学のメディア論の講義でもよく問う。ジャーナリズムは「理念」をさしている。民主的な手続きによって「権力」が成立しても、権力による不正は生じる。不正をただす有権者らの「知る権利」を守る。いま伝えなければならないことを、いま伝える。いま言わなければならないことを、いま言う。それがジャーナリズムだと学生たちに教えている。
その事実を知った記者自身がジャーナリストとしての自らの感性でセクハラ発言や地域差別的な発言を質して記事にするのが本来の在り様ではないだろうか。
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