石垣島の第一印象は、紺碧の空と海、そして赤土のサトウキビ畑だ。そして、東シナ海に面し、国境離島と称されるくらいに中国と接している。きょう(21日)は、とくに当てがあったわけでもないが、島を半周するつもりでレンタカーを走らせた。
「唐人墓(とうじんばか)」の看板が目に入ってきた。観音埼という灯台の近くある。高台に上がるとすぐに中国伝統のカラフルな建物があった。碑文に刻まれてあった内容を以下要約すると。
この唐人墓には、中国・福建省出身者の128人の霊が祀られていると記されている。1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー・労働者)が、アメリカ船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行があり、堪えかねたクーリーたちが反乱を起こし、船長ら7人を殺害した。船はその後、台湾に向かったが石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。石垣の人々は仮小屋を建て、クーリーたちを収容した。この蜂起を知ったアメリカのイギリスの海軍が3回にわたり島に来て、砲撃を加え、武装兵が上陸して捜索を行った。クーリーたちは山中に逃げ込んだが、逮捕、銃撃された。自殺者や病没者も続出した。
当時、薩摩藩の支配下にあった琉球政府が事件処理に関する交渉と清朝側などと取り組み、翌1853年9月、琉球側が船2隻を用意し、生存者172人を福建に送還した。中国人が埋葬された墓は点在していたが、石垣市側が合祀慰霊するため、台湾政府や沖縄にいる華僑の支援を受けて、現在の唐人墓を1971年に完成させた、という。
インターネットでなど当時のクーリーについて調べてみた。クーリーと呼ばれる中国人労働者は、労働奴隷として世界各地に送り出されていた。19世紀半ばに、アメリカ西海岸でゴールドラッシュが起こり、アメリカ大陸横断鉄道の建設もあいまって、大量のク-リーが送り込まれた。そのような時代背景があった。奴隷労働はアフリカだけではなかったのである。
ロバート・バウン号事件を契機に、中国国内では「同胞を売るな」とのクーリー貿易反対の世論が盛り上がったという。日本の嘉永6年(1853)にアメリカのペリーが浦賀に来て、開国を求めた黒船事件はまさに石垣島で起きていた事件とほぼ同時進行である。そうすると、ペリーが開国を迫った意図には、中国では確保しにくくなったク-リーのような労働力を日本で確保する意味合いがあったのではないかと勘繰りたくなった。何しろ、アメリカでリンカーンが奴隷解放宣言を発したのは、ペリーが浦賀に来て10年後、1863年のことだ。国境離島の唐人墓で学んだ、知られざる世界史だった。
⇒21日(月)夜・石垣島の夜 はれ