☆「Iターンの島」~2

 9日朝、ときおり小雨が降る梅雨空。七類(しちるい)港を午前9時30分発のフェリー「くにが」(2375㌧)に乗り込んだ。フェリー乗り場は釣り客などでにぎわっていた。壁には「『竹島』かえれ島と海」と書かれた看板が掲げられていた。「竹島の領土権の確立と漁業の安全操業の確保を」と記された島根県の看板だ。

 竹島は隠岐諸島から北西157㌔の島。1905年(明治38年)1月、竹島は行政区画では「島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地」として正式に日本の領土となった。戦後、韓国は日本が放棄する地域に竹島を入れるようにと連合国に要求したが拒否された。が、日本領として残されることを決定したサンフランシスコ講和条約発効直前の1952年(昭和27年)1月、韓国の李承晩は「李承晩ライン」を一方的に設定して竹島を占領した。1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結まで、韓国はこのラインを越えたことを理由に日本漁船328隻が拿捕、日本人44人が殺傷したとされる。また、海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび16隻が攻撃された。2011年現在韓国が武力によって占有しているため、日本との間で領土問題が起きている。なんとも理不尽な話だ。

         よそ者、ばか者、若者が島を変える

 午後0時40分ごろ、フェリーは海士町の菱浦港に着いた。後ろから降りてきた中年女性が「エーゲ海の島みたいね」とつぶやいたのが聞こえた。自分自身は旅行パンフレットでしか見たことがないのだが、確かにエーゲ海のように入り組んだ島々が点在するイメージだ。ギリシャのイオニア諸島に生まれ、1890年代、島根県の松江師範学校に英語教師として赴任した、後の紀行文作家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)もこの菱浦を訪れ8日間滞在した。生まれた育ったエーゲ海の島々の思い出を重ねたのか、「ここに家を建てたい」と言っていたようだ(「小泉八雲隠岐来島120周年記念企画展」パンフ)。菱浦の道路沿いにある八雲とその日本人妻・セツの座像が海を眺めている。

 視察の目的の本論に入る。なぜ海士町が注目されているのか。2300人の小さな島にこの7年間で310人も移住者(Iターン)が来ているのだ。この島は水が湧き、米が採れ、魚介類も豊富で暮らしやすい。でも、そのような地域は日本でほかにもある。なぜ海士町なのか、それを考えるワークショップが午後2時から海士町中央公民館で開かれた。参加者は今回の視察ツアーを企画した島根大学名誉教授の保母武彦氏、一橋大学教授の寺西俊一氏、国連大学高等研究所、静岡大学、大阪大学、自治体など40人余り。町側は山内道雄町長ほか若き移住者ら5人が集った。事例報告したのはその移住者の一人で、ソニーで人材育成事業に携わった経験がある岩本悠氏。「学校魅力化による地域魅力化への挑戦」と題して、少子化の影響を受け、統廃合の危機が迫る地域の県立島前(どうぜん)高校をテコに、「子育ての島・人づくりの島」へと教育ブランドへと盛り上げてきたプロセスを詳細に語った。「ピンチは変革と飛躍のチャンス」ととらえ、県立高校に町がかかわり、ときに対立しながらも一体となって高校改革を進めていく。そのコンセプトを地域創造に。生徒たちは、地域を元気にする観光プランを競う「観光甲子園」にエントリーしてグランプリを獲得した。この島では、農水産物だけでなく教育まで魅力あるもに発信する。そして全国から高校生が集まり、島の生徒と合わせ60人、2クラスになった。その「島前高校魅力化プロデューサー」が岩本氏だ。

 そのほかにも、元新聞記者で島で広報を担当する岡本真里栄氏、「発地型」の観光を推進する青山敦士氏、乾燥なまこを中国に売り込む宮崎雅也氏、地域塾を主宰する豊田庄吾氏がパネル討論を展開した。この話を聴くと、いかに島に新たなアイデアと若いエネルギーが吹き込まれているか実感できた。その中で、「よそ者、ばか者、若者がこの島を変える」とのたとえが出た。つまり、よそ者=客観性、ばか者=専門性、若者=エネルギーが島を変えるのだ。では、彼らを移住へと導いたのはだれか。町役場の担当職員や、ダメ押しで山内町長らが懸命に口説いて、彼らをケアしてきた裏舞台も見えてきた。Iターン者270人それぞれに移住のドラマがある。「海士町では昼は魚を釣り、夜は人を釣る」。岡本氏がそう述べて参加者の笑いを誘った。また、移住者がその土地で成功する秘訣について、豊田氏は「一つには自分自身を主張し過ぎないこと、地域の文化をリスペクト(尊敬)すること」と。地に足のついた言葉だった。

9日(土)夜・隠岐海士町の天気 はれ