☆「場」立ち考~下

 5日午後、愛媛県松山市にある正宗寺に「子規堂」を訪ねた。あの正岡子規が17歳で上京するまで住んだ住宅を移築したものと説明板に書いてある。火災で一度焼けたが、間取り図をもとに再建したものだ。玄関左手の三畳間=写真=が子規の書斎。子規はこの部屋に閉じこもって、本や書類を乱雑にしていた。勉強もさることながら、小学校のころから新聞づくり、松山中学時代には友人たちと回覧形式の雑誌づくりに励んでいたらしい。雑誌は美濃半紙を四つ折りにし、毛筆の細字で丹念に書いたものだった。子規にとって、この三畳間は「編集室」だった。後に俳句、短歌、文章を「写生」という感覚で革新した子規の原点だったのかもしれない。

  ~ 愛媛・少年子規の三畳間 ~

 子規はこのころ政治も興味を抱いた。何しろ、愛媛県は自由民権運動の盛んだった高知県と隣接していることもあり、演説会がたびたび開かれ、子規も出向いていたらしい(土井中照著『子規の生涯』アトラス出版)。それに感化されてか、松山中学の弁論大会では、自ら演説し、国会を「黒塊」と揶揄(やゆ)したことがとがめられ、「弁士中止」となった。以降、子規は演説することが禁じられる。政府による言論・出版・集会の取り締まりが厳しい時代でもあった。物書きが好きで、政治に興味があれば、当時のジャーナリズム「新聞」を目指す流れは自然にできた。

 松山中学を中退し、叔父の招きで明治16年(1883)に上京する。翌年東京大学の予備門に合格する。この同学年に夏目漱石や南方熊楠らがいる。ただ、落第し一時松山に帰り、また上京、そして吐血する。肺結核だった。2度目の帰省で俳人の大原其戎(きじゅう)を訪ねた。このときの「虫の音をふみわけ行や野の小道」が俳誌『真砂の志良辺(しらべ)』に掲載された。これが俳句デビューになった。明治20年(1887)、20歳のときだった。予備門が第一高等中学校と学制が変わり、東京帝国大学哲学科に入学したのは明治23年(1890)こと。明治25年(1892)に日本新聞社に入社、大学を退学する。後に再会する生涯の友、漱石は「つまらなくても何でも卒業するのが上分別」と卒業を忠告していたらしい。この年に松山から母と妹を東京に呼び寄せ、念願の新聞記者のスタ-トを切る。25歳だった。

 記者魂がみなぎっていたのだろう、周囲の反対を押し切って、明治28年(1895)、前年に勃発した日清戦争の従軍記者として中国・旅順などを巡った。が、休戦中で1ヵ月もしないうちに講和条約が批准され、戦地リポートを書くことはなかった(『子規の生涯』)。この中国行きが禍して、帰りの船で吐血が激しくなり神戸港に着き入院する。この後に松山に帰省し、英語教師として松山に赴任していた漱石と再会し、貸家にした漱石宅に52日間居候する。このころ松山の俳句仲間が集い、漱石もサークルに加わる。

 新聞社でも俳句や短歌を募集して掲載するなど、社内でその才能は評価されていた。一つの出会いが当時の俳句を変えることになる。子規は挿し絵の画家を探していた。紹介されたのが中村不折だった。子規と不折は、日本の絵と西洋の絵の違いについて論議をする。そのとき、子規は西洋の絵に、見たままを描く「写生」という手法があることを知る。これを俳句に応用できないかと閃(ひらめ)いた。そのころの俳句は「松尾芭蕉至上主義」で、子規は「月並」、つまり実感が伴わないものと批判し、俳句に新しい息吹を吹き込もうとしていた。そして、「俳句は文学の一部なり」と新たな俳句論を提唱した。「夏草やベースボールの人遠し」(明治31年)、「贈り物の数を尽くしてクリスマス」(同年)。5・7・5の手法に当時の新たな言葉や、身近に感じられるのもを取り入れた革新運動を始める。

 俳句だけではない。当時の古文雅語の難解な文章表現を避け、書く人の気持ちを率直に伝える文章を記することを提案した『叙事文』という論文を発表する。子規は「文章には山(もりあがることろ)がないといけないと」と提唱し、自らの俳句と文章の勉強会を「山会(やまかい)」と称した。山会は子規が享年34歳で没した明治35年(1902)後も続けられた。漱石の小説デビュー作である『吾輩は猫である』を最初に発表したのも、この山会だった。山会で好評だったものが雑誌『ホトトギス』に掲載された。

 子規が提唱した、この山会の文章は写生文と呼ばれ、「文章日本語」の改革の大きなうねりとなって、その後の文学や新聞記事、われわれの文章表現に大きな影響を与えることになる。子規の少年時代の三畳間の書斎がそんなことを語りかけてくれた。

※写真は松山市立子規記念博物館。垂れ幕には「鯛酢(たいずし)や一門三十五六人(子規)」の句が描かれている。

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