☆3・11から考える

 東日本大震災(3月11日午後2時46分)が起きたとき、金沢市内の金沢大学サテライトプラザで「事業企画・広報力向上セミナー」の講師として、「広報の裏ワザ教えます」「マスコミを通していかに広報するか」と題して講演とワークショップを開いていた。社会人30人ほどの参加があり、立ちながらの講演だったせいか、金沢での揺れ(震度3)にはまったく気づかなかった。午後3時ごろの休憩時間に、「東北でかなり大きな地震があって大変なことになっている」と別の教授が耳打ちしてくれた。自宅に帰って、テレビで流されるNHKのヘリコプターからの空撮映像にくぎ付けになった。あの衝撃から1年が経った。

 昨年5月に実際に訪れた気仙沼市で、津波によって湾岸の陸に打ち上げられた漁船=写真=に目を見張った。この世のものとは思えない光景だった。その船は巨大ながれきと化して今もその姿をさらしているようだ。復旧の道すらまだ遠いのか。

 今回の大震災から学んだことが多々ある。その一つが日本は「災害列島」であるということだ。地震だけではない。津波、水害、雪害、火災、落雷などさまざまな災害がある。「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)は現代人への災害に備えよとの戒めの言葉だろう。改めてかみしめる言葉だ。

 二つ目は「災害は身の回りで起きる」ということだ。金沢は「加賀百万石」の優雅な伝統と文化の雰囲気が漂う街と思われている。一方で、江戸時代からの防災の街でもある。加賀鳶(とび)に代表される金沢の自主防災組織がある。もともと、加賀藩が江戸本郷の藩邸に出入りの鳶職人で編成した消防夫が始まりで、大名火消し組織の中でも威勢の良さ、火消しの技術で名高かったとされる。また、金沢市内には「広見(ひろみ)」と呼ばれる街中の空間が何ヵ所かある。ここは、江戸時代から火災の延焼を防ぐため火除け地としての役割があったとされる。また、城下町独特の細い路地がある町内会では、「火災のときは家財道具を持ち出すな」というルールが伝えられている。

 なぜそこまで、と考える向きもあるだろう。気象庁の雷日数(雷を観測した日の合計)の平年値(1971~2000年)によると、全国で年間の雷日数がもっとも多いは金沢の37.4日となっている。雷が起きれば、落雷も伴う。1602年(慶長7)に金沢城の天守閣が落雷による火災で焼失した。石川県の消防防災年報によると、県内の落雷による火災発生件数は年5、6件だが、多い年で2002年(平成14)に12件発生した。1月や2月の冬場に集中している。雷が人々の恐怖心を煽るのはその音だけではなく、落雷はどこに落ちるか予想がつかないという点だ。

 そして、三つ目は「災害の多様性」である。たとえば金沢は落雷だけではない、地震もある。直下型地震を起こすとされる、長さ20㌔ほどの「森本・富樫断層帯」が市内の中心地を走っている。中心地を走っているというのは、かつて断層でずれたくぼ地などを道路として街が形成されたようだ。その市街地を襲った地震が、1799年(寛政11)6月29日の金沢地震だ。この地震の推定マグニチュードは6.0、金沢城下を中心に多くの被害が出た。金沢城でもこのとき一部石垣が崩れ、塀が倒壊した。森本・富樫断層帯は、2001 年からの30 年間に地震が発生する可能性は0~5%で、日本の主な活断層の中でも可能性の高いグループとされている(地震調査研究推進本部地震調査委員会)。

 金沢市では、この断層でマグニチュード7.2規模の直下型地震が起きた場合、避難者数19万人、死傷者数1万2千人と想定している。金沢は戦災を免れた分、古い家屋が残る街並みである。決して非現実的な数字ではないだろう。日本人の宿命として、災害とどう向き合うか。

⇒11日(日)夜・金沢の天気  あめ